2023年4月8日土曜日

Les Malheurs de Sohee

"About Kim Sohee"
다음 소희


2022年韓国映画
監督:チョン・ジュリ(July Jung)
主演:キム・シウン(Kim Si-eun)、ペ・ドゥナ(Bae Doo-na)
フランスでの公開:2023年4月5日


冒頭シーンが強烈に印象的。少女がひとりダンス練習場の大鏡の前で激しいK-POP風コレグラフィーを練習していて、それをスマホで撮影している。これが最後のスピンのところで、うまく行かず転んでしまう。難しい。あとでわかるのだが、この振り付けは”女子K-POP”ではなく” 男子K-POP”の振りなのだそう。何度やっても最後に転んでしまう。これをテレラマ4月5日号の批評記事では、”日本のことわざの「七転び八起き」のようだ”なんて気の利いたことを書いている。
 この死ぬほどダンス大好き少女の名はキム・ソヒ(演キム・シウン、演技もダンスも素晴らしい!)、職業高校の最終学年で、最終課題の企業研修が残っている。K-POPのダンサーとなって華やかな未来を夢見ていたかもしれないし、ダンス仲間からはその道も十分に可能と思われていたソヒではあるが、世の圧力は「フツーに就職すること」を半ば強制的に選択させる。おお、この慎ましい家庭に育った娘が通らなければならない「職業への道」は私たちは何十年も前から見てきた同じ道であるが、夢を捨てよと迫るその道は以前よりどんどん悪くなっているし、特に2000年以降(超リベラル資本主義、非正規使い捨て、バーンアウト、過労死...)は... 。高校が対外的な第一の評価基準である「就職内定率」を上げるために、各企業にへこへこ頭を下げて取ってきた「企業研修」先へ、最終学年生を送り込む。就職担当教師は絶対に途中でやめるな、途中でやめたら次から研修を取ってくれなくなる、学校に迷惑をかけるな、俺の顔に泥を塗るな、という恫喝的プレッシャーをかける。
 「迷惑」と「恥」を避けよ、という呪縛は、アキ・シマザキ小説の重要なテーマとなっている日本的パブリック・プレッシャー環境であるが、この映画で見えてくる韓国の精神風土も共通したものがある。教師がソヒに見つけてきた企業研修は、教師が自慢げに韓国トップのテレコム会社の傘下、と紹介するが、下請けのクレーム処理を専門とする電話オペレーターセンター。仕事はテレコム会社のスマホやボックスの契約を解約したいという消費者の電話を受け取り、さまざまな理由や条件を捲し立てて解約の心変わりを誘導し、新条件での再契約に持ち込むというもの。オープンスペースに狭くパーテーションで仕切られた数十のデスクに(全員女性)電話応対オペレーターが座り、ひっきりなしにかかってくる解約クレーマーたちの電話に受け答えしている。解約希望を取り消させてナンボの仕事。その解約取り消し達成件数でオペレーターたちの評価が決まり、”達成目標”に至らなければペナルティーを喰らう。電話の向こうはクレーマーたちであり、人格そのものまで否定される暴言を吐かれるのはしょっちゅうのこと。タフな精神力を必要とされるが、キレて当たり前の状況であり、バーンアウト、心身障害で消えていく人たちも少なくない。
 そんな職場で「研修生」とは名ばかりの前線兵士となって傷ついていくソヒだった。同僚(とは名ばかりの”評価点”ライバルたち)も家族(父と母)もルームシェアする親友も、誰も傷つくソヒに感知しない。そんなソヒにもボーイフレンドはいて、かつてK-POPのボーイズバンドのコレグラフィーを一緒にマスターした若者、だが、彼も工場の研修生として虐められ、おたがい不規則な時間の労働が多くて会いたくてもすれ違いになったり。ネオリベラル資本主義の被害者はこの二人だけではなく、周りがすべてそうなのだが、新座の被害者にはそれに理解や同情をかけるのではなく「現実の社会とはこういうものだ」という世間様ロジックでさらに圧力をかける。映画はネオリベラル経済下の”労働”の隷属化現実のディテールをさまざまに曝け出し、ソヒが署名させられた同意書にある給与条件の二重性(正規採用者とは全く異なる「研修生」給与体系など)や、社内の不正醜聞への黙秘誓約書や、パワハラ、モラハラその他...。「そんなことこの世界ではフツーでしょ」と目をつぶることに慣れすぎてませんか、お立ち会い?
 傷つき、疲れ、度を越した悪意に満ち満ちた(電話)客の執拗な嫌がらせに逆上して、休職処分を受け、担当教師に「母校の恥」となじられ、会うはずだったボーイフレンドにも会えず、ソヒは真冬の貯水ダムに入水自殺する...。
 映画後半は、この事件の捜査を担当することになった女刑事ヨジン(演ペ・ドゥナ、驚きの素晴らしさ!)が、「たかが娘っ子ひとりの自殺案件ではないか」と略式処理を命じる(絵に描いたようにマッチョな)警察上層部を振り切って、事件の深いところにどんどん入り込んでいく。ソヒの自殺に関して社員に箝口令を敷くテレコム下請け会社に乗り込み、労基法無視のノルマ、二重三重の劣悪給与条件、パワハラなどの事実を知る。ソヒの高校へ行き、学校順位の決め手となる就職内定率のために生徒を恫喝していることを知る。その企業研修制度を監視する立場にある行政の労働監督署に行き、企業に不利益になる事実には目をつぶるとしゃあしゃあと証言する女性副署長に出会う。この社会はすべてがグルになって、奴隷のようにロボットのように働く人間たちが死ぬのを公然と認めている。これは「目標数字」の達成のためならば、何をしてもいい、人間が犠牲になってもかまわない、という世界が起こしている殺人犯罪である。ヨジンの怒りは、われわれの怒りであるが、その怒りもまた壁にぶつかってしまうのである....。
 悲しいのはソヒの父母がほぼソヒがどうなっているのか、何も知らず、生前会話も稀な乾燥した関係の家族だったということ。母親はソヒがダンス好きだったことなど全く知らなかった。自分の夢を語ることがタブーだった家庭。死んでからおいおい泣く父と母なのだが、これ「親はなくても子は育つ」と放っておいてる現代ありがちな家族像の典型だと思う。ダンスで救われ、ダンスによって陽気で勝気な性向を培っていた娘を見ようとしなかっt親。私は憤りを感じましたね。 
 40歳過ぎの女刑事ヨジンは、稀にではあるがダンススタジオで汗を流すダンス好きであり、その事件の前に、おたがいに誰とは知らず、ダンススタジオでソヒとすれ違っていたことをあとで知る。ダンスが”命”だったかもしれない娘ソヒは、自殺の前に自分のスマホのデータをすべて消去してあったのだが、たったひとつ、ヴィデオ動画を残している。それは映画冒頭に出てくる難しいコレグラフィーで何度も失敗していたダンスの自撮りヴィデオで、ついに最後に転ばずに完成したダンスと、それを撮り終えて満面の笑顔で自撮りスマホの撮影ストップボタンを押すソヒの姿だった。

 世界の映画作家たちはもっともっとこのような映画を撮らなければだめだ。ウルトラリベラル資本主義は、韓国でも日本でもヨーロッパでも世界のどこでも人の命を何とも思わない”数字”の経済を推し進めている。”平均株価”が上がれば人々の幸せが来るというマジックを信じ込ませて。数字のマジックを売り物に大統領になったマクロンは、そのマネージメント理論を政治のあらゆる分野に適用して、「年金改革法」を国民の大反対に背を向けてゴリ押しした。労働者を2年長く働かせることが、どれほど多くの病人/死者を出すことか、なんとも思っていないのだ。人間の2年の時間を奪うことがどういうことなのか、理解しようともしないのだ。私はノンと言い続けますよ。その新リベラル資本主義の非人間性を暴くこのような映画に本当にありがとうと言いたい。女流監督チョン・ジュリの素晴らしい勇気を賞賛したい。この映画監督、これからも要注目。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)”About Kim Sohee"予告編


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