2023年4月4日火曜日

ここ、よそ、いたるところ(2015 - 2022)

Florence Aubenas "Ici et ailleurs"
フローランス・オブナ『こことよそ』


私はこの人はフランスで最も信頼できるジャーナリストだと思っている。そして最も”読ませる”ノンフィクションライターでもある、と。フローランス・オブナは当ブログでも代表的な著作である『ウィストレアム埠頭(Le Quai de Ouistreham)』(2010年)と『郵便局の不審者(L'Inconnu de la poste)』(2021年)を紹介しているので、未読の方はぜひ参照して、どんなにすごい書き手であるか確認してください。
 オブナはリベラシオン紙(1986-2006)、ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌(2006-2012)を経て2012年からはル・モンド紙の特派リポーターとなっている。本書『こことよそ (Ici et ailleurs)』は書き下ろしではなく、2015年から2022年までオブナがル・モンド紙に書いた記事をセレクトして、加筆編集して再録したものである。記事数にして47項あるが、2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まるや3月から現地に飛び、ル・モンド紙に前線からの記事を書き送っており、重要度/鮮度においてという判断か、ウクライナ記事に多くを割いていて18記事が再録されている。
 2015年から2022年までの8年間、と言われても、私たちの大雑把な記憶ではウクライナの戦争とコロナ禍が大きすぎて、その前の「フツーだった時代」が遠いノスタルジーになってしまった感がある。オブナの筆はそういうマクロな事件を直接追いかけるのではなく、その大きな現象に大きな影響を受けながら生きる周辺の市井の人々のありさまを描くものである。2015年と言えば、1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件に始まり、11月13日のバタグラン劇場/スタッド・ド・フランス他の同時テロ事件という大惨事に象徴されるジハーディスト・テロの年だった。オブナの2015年記事セレクト4項は、最後にバタクランテロの直後のパリが描かれているものの、テロの戦場となるフランスとヨーロッパで何が変わってしまったのかという人々の証言を求めて、フランスに期待することをやめて小金がたまるとタイに飛んで享楽を謳歌する郊外の若者たちを追い、選挙のたびに棄権率を増大させているフランス深部の”忘れられ””棄てられ”感にうちひしがれる人々の声を聞き、ヨーロッパ連合に属しながら未曾有の経済危機に陥ったとされるギリシャでどうにかこうにかの”やりくり”で凌いでいる人々の日常を直視する...。このジャーナリストは例えば「ジハードテロ」「マクロン登場」「コロナ禍」「ウクライナの戦争」という大きな時代の流れの中に身を置きながらも、大きな流れを報道するのは他の同業者(ジャーナリスト)たちにまかせておいて、自分はその周辺の細部を凝視してクローズアップする。
 ジハード戦士としてシリアに旅立った若者たちを出した南仏カマルグ地方の町、ブリュッセルの地区住民の多くがテロリストたちと親しくしていたモレンベック街、パリの北郊外サルセルの住民たちとコミュニケーションを取ることが極端に難しい警察官たちの日常... オブナはそういう人たちの中へ数日間から数週間飛び込んで証言を記録していく。
 2017年、保守も左派も既成政党が総崩れとなり、極右とマクロンしか残らなかった大統領選挙、そのマネージメントの天才の若造大統領はその数字のマジックで富裕層を満足させるのだが、フランス全国津々浦々にいた毎日の生活に困っている人々は中央政府と与野党既成政党の政治家たちはもはや誰もわれわれの窮状に耳を貸さないと、地方の幹線道路のロータリーを占拠してジレ・ジョーヌ運動を開始した。政党、労組、学生の関与しない、一度もデモになど参加したことのない地方の困窮してやけくそになった民衆たちの蜂起であった。時は2018年12月、オブナはさまざななロータリーに赴き、声なき民が声を獲得した瞬間を捉えている。2019年、ジレ・ジョーヌたちの占拠が続くロータリーの先にある地方の巨大ハイパーマーケット、オブナは地方の人々の「誰もが集まる交流場所」が大衆的伝統と思われていた露天市から巨大ハイパーマーケットに変わったと看破し、人間味のない機械的な買物の場という旧いイメージを完全に脱して、ジレ・ジョーヌを含むさまざまな人間たちの触れ合う場となったこの空間を観察している。2020年、コロナ・パンデミック、外出禁止令、多くの死者を出しながら八方塞がりの老人施設、倒産する工場、オブナは現場にいる....。
 それに続いて、本書で最もページを割かれている2022年のウクライナの現地報告に移る前、2021年の項が最も異彩を放っている。2021年の6章は『野生の人生』と総題されて、二人の人物を追っている。5章(全部で40ページほど)をかけて詳細に事件(代々続く大牧場を継いだ聡明で野心も理想もある青年が、最初は現行の農業の市場システムに反抗して様々な改革案を同業者の寄り合いで提案し、オルタナティヴ農業組合運動の支部長ともなって人望も厚かったのだが、新生牛の頭数を農事管理所に登録し忘れるなどのミスで行政監督が入ったりペナルティーが課せられたりが続き、牧場は荒れ、本人も荒れるようになり、持ち牛全頭を没収されかねない事態にまで悪化し、取り調べにやってきた憲兵隊に抵抗し、射殺される)をなぞっていくのだが、ウーエルベックの小説『セロトニン』(2019年)にも描かれたように、近年自殺者数を急増させている農業経営者たちの窮状と『セロトニン』に現れるような農民たちの武装蜂起まで思い起こさせる渾身のレポートである。
 そしてその5章に先行してたった1章12ページの分量だが、フランス中央山塊の南側にあるセヴェンヌ山脈の高地の寒村に出没する”訪問者(La Visiteuse)"を追跡する「森の女の足跡を追って」と題する章、これが非常に興味深く、読み物としての魅力にも溢れていて、これだけで一冊の本を書いてくれたら、と願ってしまう。まずこのセヴェンヌ山脈の小さな村の成り立ちとして、68年5月革命の頃に都市部からドロップアウトしてきたヒッピーその他の若者たちが住み着いてコミューンのような生活をしていた経緯があり、それから多くは脱落するもののその後も住み着いて牧畜、農業、工芸などで生活を営んでいる人たちがいる。そういう人たちなので、家の戸締りなどせず、誰が入ってきてもウェルカムのような精神がまだ残っている土地柄なのだ。この”訪問者”とオブナが名を伏せてそう呼んでいる30代の女性も、母親がそのヒッピー世代のひとりであり、自由人でありこの土地から何度か離れるのだけれど、やはり気心知れた人々がいるここに戻ってきて3人の私生児を育てた。村の学校ではヒッピー世代の子供たちは概ね成績が良いばかりではなく、芸術面でその才を発揮したり、自分たちが率先して創作演劇を立ち上げたり...。その”訪問者”も学校では文学好きで感受性の強い子だった。森の中へ逃亡し、野生の生活を始めた時も、家からボードレールの詩集は持って行った、と。親友の自殺が引き金になったようだが、高山の森という過酷な環境に飛び込んだきり、帰ってこない。狩猟(川魚を手で掴む)もできず、植物が摂食可能かどうかの見分けもできない。そんな状態で森に入り、野宿して生き延びてきた。野生化もした。そして、時々人目を避けて人里に降りてきて、農園や人家に入り、食べ物や衣類を盗み、家具調度を壊したり乱雑に散らかしたり....。上に書いたような土地柄なので、理解する人たちも少なくなく、留守の家に「好きなもの取ってって」と置き手紙を残すところさえある。ただ、68年はもう遠い昔で、その後の入居者や近年どんどん増加している「ネオリュロー néoruraux」と呼ばれる新種の脱都市人種たちは、これを単純に"空き巣犯罪"としてしか捉えず、警察に被害届を出して告訴する。告訴件数が多くなり目をつぶっておけなくなった村は、村長の音頭で有志の住民会議を開く。この娘をよく知っている人たちばかり。フランソワ・トリュフォー映画『野生の少年』(1969年)のように、この娘を”文明の世界”に引き戻すことが肝要という意見に落ち着くのであるが、『野生の少年』は文明を知らずに育ったケースであるの対して、この”訪問者”は自ら文明を拒否して野生化したのである。言語を解し、盗む食べ物や衣類にも”好み”がある。ごく稀にフィーリングが合えば言葉を交わす人もいるし、お世話になったと農作業を手伝ったりすることもあるという。この不可視の「森の女」にオブナは魅了されたような、ヒューマンで生きる悲しみも喚起する素晴らしいルポルタージュなのだ、これが。(この12ページの部分だけでもいいから、日本語訳本が出てくれたら、と切に願うよ!)
 オブナはどこにでも行き、どこででも胸に迫るエピソードを見つけてくれる。ここでもよそでも、いたるところで。ジャーナリズムとはこういうものであって欲しい。これからもフローランス・オブナについていくぞ。

Florence Aubenas "Ici et ailleurs"
Editions de l'Olivier 刊 2023年2月 360ページ 21.50ユーロ

カストール爺の採点 : ★★★★☆

(↓)2023年2月17日、国営ラジオFrance Inter、レベッカ・マンゾーニ(この人も素晴らしいラジオジャーナリスト)の番組「トテミック」に出演し、新著『こことよそ』を語るフローランス・オブナ

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