2015年11月19日木曜日

今夜、俺たちは踊りに行く(アシュカ)

HK(アシュカ)ことカドゥール・ハダディは、1976年北フランス、ルーベで生まれたフランスのシンガー・ソングライターです。アルジェリア移民の2世で、北フランス(リール)を地盤としたラップグループMAPを経て、ソロ(彼をリーダーとするふたつのバンド、レ・サルタンバンクとレ・デゼルトゥール)では、ヒップホップとアルジェリア歌謡シャアビを融合させたスタイルでユニークな音楽性が注目されています。トゥールーズのゼブダの弟分と自他ともに認める社会派で、その歌詞は明白で、レイシズムやリベラル資本主義や環境破壊を糾弾するメッセージにあふれ、コンサートだけではなく集会やデモの場に積極的に登場する行動派です。その代表曲「オン・ラッシュ・リアン」 はフランスのデモ行進の定番レパートリーとなっているだけでなく、日本でも反原発や戦争法反対運動のデモで日本語歌詞で歌われているほど、世界的にポピュラーになっています。
 当ブログでも「憤激せよとアシュカは歌う」と「今朝のフランス語:Du temps de cerveau disponible」という2つの記事で紹介しています。また向風三郎がパリの日本語新聞オヴニーの2015年4月15日号に最新アルバム『星に灯りを点す男たち(Rallumeurs d'Etoiles)』の紹介記事を書いています。読んでみてください。
 その最新アルバムの6曲めに "SANS HAINE SANS ARMES ET SANS VIOLENCE"(憎しみも武器も暴力もなく)という歌があり、文字通り非暴力の抵抗運動を訴えるないようでした。そのアシュカが、11月13日の大殺戮テロにどう思ったのか。オルター・グローバリゼーション運動の機関紙 "ALTER MONDES"のインターネットサイトに、11月17日、アシュカが『今夜、俺たちは踊りに行く(Ce soir nous irons au bal)』というテクストを寄稿しています。アシュカは11月14日(土)に多くの市民たちと同じようにレピュブリック広場に行っています。テクストは歌詞のようにも見えます。これが歌になってしまうのかもしれません。テクストは、これを理由に現政権が好き放題することも見抜いています。怖がらずに外に出ること、そして踊ること、アシュカはそう誘うのです。
 以下全文を無断和訳して、当ブログに掲載します。

今夜俺たちは踊りに行く
Ce soir nous irons au bal


やつらは俺たちを最後のひとりまでバラバラにしたいんだろう
やつらは執念深く俺たちの自由を圧殺しようとするだろう
やつらはしまいには俺たちから笑顔を奪い去り
人と再会する希望や、みんなで集まる機会をぶち壊すだろう

俺たちがこの地球上でみんな兄弟で、心と体の恋人同士だって
まだ信じているなんて、どれほどおめでたいのだ?
やつらが仕掛けてくる戦争の度に、俺たちは自分の陣営を選ばなければならない
俺たちは選ばなければならない
俺たちの死体はやつらの墓地をいっぱいにしなければならないのか

俺たちのレジスタンス : 屈しないこと、譲歩しないこと
俺たちのパン、俺たちの喰いもの...  さあテーブルから立ち上がろう、踊りに行こう
俺たちが欲しいもののすべて、俺たちが望むもののすべて、
それは力の限りこの人生を愛することさ、俺たちを好き勝手に外出させてくれることさ

俺たちの足の下には、たくさんの罠があって、それに落ちないようにするのは難しい
何千人も志願者をスカウトするやつらのひとりの腕の中にはまらないようにするのは
「善良な人々よ、恐れおののきなさい!暖かい家の中でおとなしくしていなさい」
「善良な人々よ、われわれにまかせなさい!われわれがすべてうまくやるから」

こんなふうに、別の時代から飛んできたような注意勧告が下される
今に非常時緊急法が次々と来るぞ、だから.... 嵐の下で踊ろうじゃないか
「危険はいつか小さくなるんだから、
夏が来るまで待っておきなさい」
「そうですとも、元帥殿! 太陽がいっぱいの建国記念日の頃に」

そうとも! 今、外は雨が降っているが、この雨は甘美だ
外では人生は美しい、それがどんなに危険でも
俺たちの顔にかかる雨粒のひとつひとつ
それは砲弾の破片のように、石弓のたまのように、やさしい異端、楽しげな侮辱...

リュートの楽音に合わせてみんなで踊ろう
立って踊ろう、その理由は
俺たちがここにいるということ、俺たちが俺たちであるということ
俺たちが幸福だということ、俺たちが気が狂っているということ、ただそれだけ

外に出て踊ろう、どんなに悪くても
踊ろう、やつらが発砲していようとも
そうとも、俺たちは今夜踊りに行く
今夜俺たちは最高に美しく踊るだろう


(HK アシュカ)


PS : 2016年3月21日記。『今夜、俺たちは踊りに行く』 が歌になりました!

2015年11月18日水曜日

俺はこの日、フランス人になった(マジッド・シェルフィ)

2015年11月16日(月)のリベラシオン紙に、トゥールーズのロックバンド、ゼブダのリーダー、マジッド・シェルフィが一文を投稿しました。11月13日のテロ事件の衝撃で、マジッドは自分の立ち位置がはっきりしてしまったことを吐露します。この血の大殺戮は、自分にとって血の洗礼であった、と。
 当ブログに親しくない人たちのために説明しますと、ゼブダは1985年から活動しているトゥールーズのバンドで、マジッド、ムスターファ(ムース)、ハキムというアルジェリア(カビリア)移民2世(国籍はフランス)の3人をフロントメンとして、シングルチャート1位曲もあるメジャーシーンの有名バンドです。トゥールーズの草の根市民運動とも深く連携していて、政治的・社会的なメッセージを多く含んだ歌が多く、明確に左派系の行動派です。郊外問題、移民出身者差別の問題などに言及する歌詞が多く、Beur(ブール=アラブ系移民2世)のオピニオンリーダー的な立ち回りをしますが、彼らは(ここ重要です)一貫してフランス語で歌い、アラブ語やカビリア語の歌がありません。多文化が調和的に同居する小さなユートピア作りを、地元トゥールーズの地区で長年模索していて、そのために最低のルールとしてフランス語を共通語とする、としたのです。ゲットー化しないこと。ルールは共和国のルールであること。ライシテを尊重すること。そしてレゲエ、マグレブ音楽、ヒップホップ、ロックがミクスチャーされたゴキゲンな音楽で、すでに30年もトゥールーズとフランスを踊らせてきたビートバンドです。
 
そのリーダーのマジッド(1962年生)が、"CARNAGES"(大殺戮)と題する一文を左派系日刊紙リベラシオンに投稿したのですが、そこにはこれまで口にすることがはばかれたような「フランス愛」が展開されています。文は "Il y a des jours comme ça où...”(こんな日もあるんだ)で始まり、こんなことなかったのに、突然さまざまな日が自分とフランスをつないでいることに気がついたような展開です。おそらくトリコロール旗など一度も振ったことがない、ラ・マルセイエーズを歌えと言われても小声でしか歌えない、そういう過去を理解してください。われわれ(と私も含めてしまいますが)の控えめなフランスへの思いはおおいに複雑なのです。世界の主要都市のモニュメントの夜間照明がトリコロールになったり、世界のフェイスブックユーザーのプロフィール写真がトリコロールで飾られたり、というのとは次元が違うのです。
 以下全文を日本語訳しました(多少の誤訳はご容赦を)。固有名詞で説明が必要なものありますでしょうか? ペタン(第二次大戦時の対独協力フランス国家元首)、ジャン・ムーラン(第二次大戦時の抗独レジスタンス指導者)、アラン・フィンキエルクロート(哲学者、タカ派保守論客)、エリック・ゼムール(極右寄りジャーナリスト)、ナディーヌ・モラノ(保守政治家。フランスは白色人種の国と発言)、アラン・ドロン(モラノ発言を熱烈評価する90歳の老俳優)....。この血の大殺戮によって、マジッドは晴れてフランス人になれた、と宣言します。突然に、こんなフランス(どうしようもないフランスも含めて)をためらわずに愛するようになってしまった。私は共感できる部分多いです。

大殺戮 (Carnages)

こんな日もあるのだ。フランスを心から愛して、ラ・マルセイエーズを歌いたくなって、手のつけられない応援サポーターのように全身トリコロールになりたくなったり。またこんな日には自分があまりフランス人っぽくないなと自分を責めたり。こんな日にはマジッドと名乗る男でも、デュポンという名前だったらいいな、と思ったり。俺は頭がどうかしたのか?ショックを受けたのか? そうとも。だから俺は心の痛みが散らされるままにしておくし、ガツンとぶつけられた頭を休めることにしよう。

それは大殺戮だったし、それが俺にとっての血の洗礼だった。俺はこうして本物のフランス人になったのだ。断言したぞ。俺は市役所建物の正面に向かって、富める時も貧しい時もフランスを愛すること、その末期にいたるまでフランスを保護し、いたわることを誓ったのだ。俺がいかれちまったのかって? もう惚けたかって? 俺は生まれ変わったんだ。

こんな日もあるのだ。アナーキストでさえも大混乱のあと振るべき旗がこれ1本しかなくてそれが青白赤の三色旗だったり。こんな日にはこの国が間違っていてもこの国が好きになり、間違ったことをするのはそれが心底まで俺たち自身だからなんだと思うようになる。

こんな日にはこの国の人里離れた集落や村やそこにある戦没者慰霊碑がたまらかく好きになる。こんな日には老婆を400種類のチーズでねぎらってやれないことを悔やんでしまう。

こんな日には自分自身の母親よりもこの国の正義の方が大切だと思ったり、別の日にはその逆だったり。われわれの志である自由、平等、博愛を超越する日もある。生命よりも強い日があって、それは死の日なんだ。

そうとも。こんな日にはルノーやフェレやブラッサンスがフランスばかりを愛して、祖国を愛していなかったと非難したり。またある日には外敵の危険などなくても愛国者のふりをしてみたり。血や戦火を見る前に。

危険信号が鳴る前に、死者がそのひどい匂いをまき散らす前に、人はフランスを救おうと思うようだ。さあ、武器を取ってこの共和国、この国家という宝物を救おうじゃないか。こんな日には人は左派にもなれるし、右派にもなれ、お互いに賛同しないという権利を尊重する限り、どんな党派を支持したってかまわない。こんな対立意見や、極端で吐きたくなるような思想に対しても寛容な国を人は羨む。

こんな日には、法の原則や自由や(どんなに不器用に進められているにせよ)ライシテへの闘いのあり方を見直してみるよ、国民アイデンティティーの不毛な議論に責任に持つこと、たとえどんな状態になってもフランスに対して忠誠を誓うこと。すべての責任を負うこと、ペタンであろうが、ジャン・ムーランであろうが、卑怯者でも英雄でも、最高の技能者でも馬のような奴でも、頑固者も偶像破壊論者も? もはやこんな日には、フィンキエルクロートは聖歌隊の少年のようだし、フロン・ナシオナル党はただのゲームの対戦相手にすぎない。

こんな日にはウーエルベック本は彼が書いたことではなく、彼が恐れているものもののために読まれるのだ。またある日には冷静さをまるっきり失ってしまったゼムール、モラノ、ドロンの言うことも聞くはめになるのだ。別の日にはモミの木を2本買いたくなったりする。1本は伝統のおまつりを祝うため、もう1本は3つの言葉で俺たちに正当な場所を築こうとするこの国の努力を支えるために。

マルディ・グラにはクレープを、復活祭にはチョコレートを食べたくなる日だってある。

黒人であろうがムスリムであろうが、自分たちの先祖がガリア人であってほしいと思う日だってある。

こんな日には無名戦士の墓の前で頭を下げたり、一分間の黙祷と言われても嫌な顔をしないものだ。すべての「祖国の殉死者たち」に献花したくなる。その死者たちが前線で死のうが、レストランの奥の間で死のうが。こんな日、人は自分がつくべき陣営を決断するのだ。他に選択のしようがないのだから。

割れんばかりの拍手をあらゆる制服組に、公安警察、パラシュート降下部隊、刑事たちに送りたい日だってある。そんな日にはどんなさまであろうがあらゆるフランス人を好きになってしまうのだ。そんな日には。だが、そうでない日もまたあるだろう。

マジッド・シェルフィ(ゼブダ)



ゼブダに関する爺ブログ記事:
2009年9月10日:ゼブダはヴィデオで帰ってきた

2010年5月6日:兄弟の握りこぶし
2010年11月14日:もうすぐ再始動するゼブダを垣間みる
2011年12月10日:ゼブダが帰ってきたのを目の前で見た



2015年11月15日日曜日

今朝私はレピュブリック広場に来ました。


今朝私はレピュブリック広場に来ました。

 非常事態宣言が発令され、集会は禁止だ、厳戒態勢中だ、と言われながらも集まってくる市民たちはたくさんいました。
 なぜここに来たのかはそれぞれのさまざまな思いがあったからでしょうが、ここに来れば多くの思いがなにか同じところに繋がっているような気がしてきます。幻想と言う人もいますでしょうね。さっきまで知らなかった人たちが話し合います。手短かに悲しみや怒りを表す人たちもいれば、長々と議論する人たちもいます。やはり無言でいてはいけない。誰かに言わなければいけない。同じ思いならばそれを確認しなければいけない。同じ抗議や同じ怒りや同じ悲しみを共有したい。そういう時にこの市民たちはレピュブリック広場やバスチーユ広場にやってきます。自然発生的に。デモの発地や終点だったりするところでもあります。古来デモクラシーとは広場で議論することから始まったと言われます。世界でそういう広場はたくさんあるでしょう。独裁者は広場を嫌います。広場には民が集まるからです。パリにもたくさんの広場があり、デモや集会だってさまざまな広場で開かれますが、レピュブリック広場はそのシンボルでしょう。その名の通り共和制のシンボルでしょう。共和制は民が立ち上がって築いたものです。そのシンボルの広場がパリ11区にあるのです。
 11月13日の夜の事件の舞台になったパリ10区11区は、私にとって親しい地域です。1996年から2013年まで、17年間私は11区オーベルカンフ通りに事務所を借りて仕事をしていました。元々は職人町で家内工業的な生地染めや服飾工場や生地問屋などがたくさんあったところです。工場やアトリエの仕事ですから働き手は移民も多く、町は古くから多文化同居状態で、メニルモンタンやリシャール・ルノワールの露天市はみごとにマルチ・カルチャーです。大衆的で食べ物屋も安くておいしく、80年代から古い町工場や倉庫をロフト化してアーチストたちも多く住むようになり、小洒落たライヴハウスやバーもどんどん出来て若者たちが集まるようになったところです。オーベルカンフ/メニルモンタン、ベルヴィル/タンプル、サン・マルタン運河周辺は木・金・土の夜ともなればバーからはみ出した人たちで道がうまってしまうほどです。そんなところに、車で乗り付けたテロリストたちがカラシニコフ銃で乱射したのです。
 事務所から徒歩で15分ほどオーベルカンフ通りを南下したあたりにバタクランがあります。その頃の管轄の郵便局が数軒となりにあって、毎夕郵便物発送のために通いました。それから私の会社の銀行口座のあるLCLオーベルカンフ支店がバタクランの向かいにあって、今でも年に数回は銀行担当者に会いに行きます。バタクランは19世紀末に中国城館を模したつくりのミュージックホールとして作られた歴史的なコンサート会場で、私もこれまでトータルで50 回はそこでコンサートを見ているはず。パティー・スミス、MGMT、ジャック・イジュラン、ジャン・コルティ、アラン・ルプレスト....  2013年の11月13日、つまりあの夜のちょうど2年前、私はそこでブリジット・フォンテーヌを見ていた(facebookにも書き込んでいました)。ラティーナの2013年6月号に掲載されたケントのインタヴューはバタクラン・カフェで行われ、その号に載ったケントの写真はバタクランを背景にして娘が撮ったものでした。そこの床板に、11月13日夜、大量の血が流れたのです。

 報道では「無差別」や「乱射」という表現のしかたをされているようですが、これは場所も人間もテロリストに意図的に選択されたものでしょう。11月13日、テロリストたちはこれらの場所とこれらの人間たちを狙い撃ちにしたのです。
 テレビの報道番組に出たパリ市長アンヌ・イダルゴがこの10区・11区という場所の特殊性を強調して、この場所が選ばれた理由を説明しました。ここはパリで最も若い人たちが集まる地区であり、多文化が最も調和的に同居し、アートと食文化が町にあふれ、音楽が生れ、リズムとダンスを老いも若きも分かち合う、古くて新しいパリの下町です。パリで最も躍動的でポジティヴな面を絵に描いたような「混じり合う」町です。私たちの新しいフランスはこの混じり合いで良くなってきたのです。この混じり合いの端的な成功例が10区・11区なのであり、今の「パリ的」なるものを誇れる最良の見本なのです。これをテロリストたちは狙い撃ちしたのです。混じり合いや複数文化やアートを分かち合うことを全面的に否定し、憎悪し、抹殺してしまおうという考え方なのです。11区にはあのシャルリー・エブドの編集部もあった。11区にはかの事件のあと市民100万人を結集させたレピュブリック広場もあった。テロリストたちはこの町をますます呪うようになったのです。
テロリストたちがその独自の解釈で絶対法とした「シャリーア」は、享楽を禁止することで現世を浄化しようとするものと私は解釈しています。2014年のアブデラマン・シソコ監督の映画『ティンブクトゥ』で描かれたジハードたちが占領支配した砂漠の町では、音楽もスポーツも禁止されます。
 スポーツや音楽の歓びを人々が共有している場所で、11月13日、テロリストたちは自分の体に巻き付けた爆弾を炸裂させたのです。この歓びを共有する人々は死に相当する大罪を犯していたというメッセージです。
 あの夜スタッド・ド・フランス(サッカー国際親善試合 フランスvsドイツ)には8万人のファンたちがいました。ここに集まったのは死に相当する大罪を犯した人々である。爆弾が炸裂します。
 そのすぐあとで、パリ11区のコンサート会場バタクランで、カラシニコフ銃が乱射され、爆弾が炸裂します。米国カリフォルニアから来たロックバンド、イーグルズ・オブ・デス・メタル(私は自宅対岸の夏ロックフェス、ROCK EN SEINEで見たことがあります。タフでタイトなロックバンドという印象があります)はその夜パリの熱心な1500人のファンを集め、ホールは超満員でした。19世紀末、シャンソン・レアリストの創始者アリスティッド・ブリュアンも舞台に立った古めかしい歴史的なパリのミュージックホールで、21世紀的なビート音楽を楽しもうと集まったパリのロックファンたちが狙い撃ちされたわけです。
 道にはみ出したカフェテラスのバーで、気の合った友だちや家族と酒杯や異国料理を楽しむ人たち、しかもパリで最もそういう雰囲気にあふれた町で。アルコールや煙草を大罪と見做すジハードたちがいる。それがそのテーブルで金曜日の夜を楽しむ人たちめがけて弾丸を乱射する。

 おまえは死に値する。
おまえは音楽が好きで、スポーツが好きで、混じり合ったパリが好きで、金曜日の夜に華やいだ町で友だちと会って飲むのが好きだ。
 おまえは死に値する。
銃口が私やあなたに向けられたのです。なぜ? おまえは音楽が好きだろう。
私は13日夜から14日未明まで事件を報道するテレビを見続けて、何発も何発を銃弾を撃ち込まれたのです。パリはその論法からすれば、何百回でも何千回でも殺戮テロに襲われなければならない人たちの集まりなのです。

 政治のことは別の機会にします。私は私の意見があります。フランスは私のような外国から来た市民でも自由に意見を言えます。私はこのフランスのヴァリューを信頼しています。
フランスを信頼して、フランスに居合わせたおまえは同罪であると言われて、死の脅迫を受けたような事件です。
 フランスはこのような見せしめを与えないと、その政策を止めないだろう。
 フランス人(および私のようなそこにいる人)はこのような見せしめを与えないと、その享楽を止めないだろう。
 テロリズムとはterreur恐怖の効果によって、その思想を通し、それに反する人々を従わせることです。
 私たちは怖いです。恐怖します。コンサート会場で百人近い人たちが殺戮されるのを(映像はなくても)リアルタイムで報道された時、あなたや私のような人たちに銃口が向けられたと知る時、私たちは恐怖しないわけにはいきません。
すぐに在仏日本大使館から注意喚起のメールが来ます。人混みに近づくな、最新の情報を入手して行動せよ、不用意な行動は慎め...。
 私たちは子供ではない。ここにいるのはそれなりの苦労をしてきたし、いやな思いもしてきたし、人ともぶつかってきた。それなりの経験をして、それなりの代償を払って、私はここにいる市民たちと多くのものを分ち合っている。
 狙い撃ちされたのは、そういう文明であり文化であり価値であり、それを信頼してきた私たちなのです。
私たちはその恐怖を理由に、その信頼を改めるのか?
音楽が好きという理由で相手に弾丸を撃ち込む思想に屈服するのか?
スポーツが好きで、金曜日の夜に友だちと杯を交わすのが好きで、という人たちを、おまえは死に値すると断定する思想に屈服するのか?

 私たちは怖がってはならない。町に出なければならない。広場で人と会わなければならない。
 音楽は鳴り続けなければならない。私たちは踊り続けなければならない。
 スポーツの熱戦の興奮を分かち合うことをやめてはならない。
 ジャーナリストは報道し続けなければならない。ライターやブロガーは言いたいことを書き続けなければならない。戯画家たち・コミック芸人たちは世の中を茶化し続けなければならない。アーチストたちは表現し続けなければならない。
 恐怖によって「それは考え直した方がいい」とする考えを受け入れてはいけない。パリはこの1月にシャルリー・エブド事件でそれを学んで、多くの市民たちとそれを再確認したから、その後も世界で最も美しい町でいられたのです。
 私たちは何度でも同じことを言うだろう。怖がってはならない。政治家たちが「これは戦争だ」という論法で語るとき、私たちは本当に怖いのです。怖がってはならない。私はひとりではない。怖がってはならないと思っている自分と怖がっている自分が共存しているのは、私ひとりではない。だから私たちは広場に集まるのです。いろいろな顔を見て安心するのです。怒りや悲しみや恐怖は分ち合えるのです。
 とりわけ音楽は鳴り続けなければならない、と私は思います。コンサートは開かれ、ファンたちの興奮・熱狂は戻ってこなければならない。私が何十年も仕事として関わっている音楽、私が信頼して愛しているこのパリの町、そのヴァリューは私たちが守らなければならないと思うのです。それに死刑を宣告する思想には断じて屈服してはならないのです。断じて!

2015年11月15日
カストール爺こと、向風三郎こと、對馬敏彦

2015年11月10日火曜日

座礁マスト・ゴー・オン

Feu ! Chatterton "Côte Concorde"
フ〜!シャタートン「コート・コンコルド(コスタ・コンコルディア)」

 実:2012年1月13日(金曜日)、乗客乗組員合わせて4300人を乗せたイタリア国籍の豪華客船コスタ・コンコルディア号が、地中海クルーズの初日の夜、イタリア・トスカーナ海岸に近い島、ジリオ島の岸辺近くで座礁して転覆するという事故を起こしました。この事故に関しては日本語版ウィキペディアの「コスタ・コンコルディアの座礁事故」の項に非常に詳しい記述があるので、参照してください。日本人乗客も43人乗り合わせていたそうで、日本でも大きく報道されたかもしれません。上のウィキに書いてあるように、これは船長がいいかげんで、ジリオ島島民とジリオ島出身の乗組員にええかっこするために、わざと島に非常に近い海路を取ったこと、事故当時船長が女性たちと飲酒していたこと、事故が発覚した時乗客よりも先に船を捨てて逃げたこと、責任逃れのためにわざと遭難信号を出すのを遅らせたこと、など、このひとりの男のために起こった大惨事なのでした。死者32人。
 これをわれらが5人組、フ〜!シャタートンがドラマチックな歌にしたのです。そのファーストフルアルバム『ICI LE JOUR (A TOUT ENSEVELI) ここでは日の光(がすべてを覆いつくした)』(2015年)の中に収録されています。このバンドの並外れた表現力がよく納得できるでしょう。グラン・ジャック・ブレルを想わせます。
 タイトルおよび歌詞では「コスタ・コンコルディア」の仏語直訳の「コート・コンコルド」(調和海岸)としているので、敬意を表して、歌詞和訳も「コート・コンコルド号」としておきました。
 雨が降る、ジリオに雨が降る
トスカーナ海岸の
古く退屈な村

AAA級の莫迦野郎
おまえのことなど忘れてしまえばいいんだ
D某ストロース・カーンのように

あの金曜日、
新聞は大きな活字の見出しで書いた
時間が膨張した
景色の中に引かれた道路のような
事故っぽい文章で

雨が降る、ジリオに雨が降る
13日の金曜日
コート・コンコルド号の船上で
高慢な船長が
遭難信号を放つのを遅らせたのだ
信号を放つのを

入り江のすぐ近くで
船はゆらゆら揺れた
砂丘の上でひとりの男が
客船が沈んで行くのを面白がって見ていた

天から何本ものロープが下りて来た
それをよじ上るべきなのか、それともそれで首を吊れと言うのか
コート・コンコルドの甲板で
その夜、5つ星が消えてなくなった

出不精のあばら家住人たちが
国から出て物見遊山に出たら
こんなことが起こるんだ

岸を間近にした威風堂々の行進
だが、乳白色をした水は
歯抜けではなかったのだ

小さな岩がおまえの航路に
入り込もうとしたんだ
半分眠りかけていた海賊だったが

おまえの気違いじみたネオン光と
おまえの財布のジャラジャラ言う音に
眠りを何度も邪魔されて

それはおまえに噛み付いた
おまえの内側を咬み込んだ
これは天がたくらんだことか?
食い込んだ石が原因の
船舶の沈没?
その重くなった太鼓腹への一撃で

ジャクジに、スロットマシーンに
水が押し寄せた

水が押し寄せた

天から何本ものロープが下りて来た
それをよじ上るべきなのか、それともそれで首を吊れと言うのか
コート・コンコルドの甲板で
その夜、5つ星が消えてなくなった

入り江のすぐ近くで
船はゆらゆら揺れた
砂丘の上でひとりの男が
客船が沈んで行くのを面白がって見ていた


    (FEU! CHATTERTON "COTE CONCORDE")

(↓)LIVE DEEZER SESSION 2014のヴァージョン


(↓)LE FIGARO LIVE 2015のヴァージョン