2024年4月14日日曜日

「やりすぎたらバランスが壊れる」

"Le Mal n'existe pas"
『悪は存在しない』


2023年日本映画
監督:濱口竜介
音楽:石橋英子
主演:大美賀均(タクミ)、西川玲(ハナ)
2023年ヴェネツィア映画祭銀獅子賞
フランス公開:2024年4月10日


うすぐ日本公開(2024年4月26日)なのだから、爺ブログの出る幕じゃないとは思うのだが、どうしても書き記しておきたいことがあるので。フランスで濱口竜介の評価は非常に高い。2015年の超5時間映画『ハッピーアワー』(フランス上映題”Senses")はフランスでもアートシアター系上映館を中心とした配給だったが、観客数は10万人を超えた。ダイアローグだらけ、言葉だらけの5時間だった印象がある。ノン・プロ俳優陣の棒読みセリフの洪水のような。フランス語字幕はちゃんと追っていただろうか?往々にして字幕は”はしょる”ものである。しかし私は母語として日本語を解してしまうので、この洪水に耐えた。そしてこの濱口という映画作家は「言葉の人」という第一印象を持った。それがフランスではよくエリック・ローメール(1920-2010)と比較される所以で、監督本人もその影響を認めている。2018年の日仏合作映画『寝ても覚めても(フランス上映題"Asako I & II"』はプロの男優女優が演じる”動き”と”筋”がある映画になって、これもフランスで10万人を動員した。そして日本でも大ヒットし、カンヌ映画祭脚本賞、米オスカー国際映画賞も取った3時間映画『ドライブ・マイ・カー』(2021年)は、文学と演劇とロードムーヴィーが交錯する”大家撮り”のヘヴィースタッフで、フランスでは20万人を超す観客を呼んだ。ああ、この人完成してしまった、という印象。ただ、この映画で音楽を担当した石橋英子サウンドトラックというのはあまり印象に残っていない。←私の耳は節穴。
 映画『悪は存在しない』は『ドライブ・マイ・カー』での石橋英子・音楽との出会いが出発点になって制作された作品だそうで、その経緯は日本語版ウィキペディアに詳しい。そうか、言葉よりも音楽がものを言う映画なのか、という映画を観る前に構えてしまった私。これは私の”映画の観かた”を問われる問題で、自覚的に私は筋ばかり追いたがり、セリフ/ダイアローグに従って映画を”解ろう”とするタイプである。散文的な観客。そうか、今回は石橋英子の音楽が映画を引っ張っていくのだな。←私の耳はそれに感応できるのかな。
 映画冒頭はかなり長いシークエンスの風景トラヴェリング(移動撮影)で、冬の森を地面の側から木々を空に向かって撮っていてゆっくり移動する。たぶん自然音と弦楽器群が奏でるゆっくりした物憂い(モノトーンな)音楽が聞こえる。そうか、これか、と思った。この寒さはタルコフスキー的だとも思った。濱口の初めての言葉の少ない映画の始まり。 
 映画で場所は特定されていないが、長野県八ヶ岳山麓のとある集落らしい。タクミ(演大美賀均 = ノンプロ俳優ではあるが、映画関係者で濱口のスタッフでもある)は職業不詳(自分では”何でも屋”と言い、薪割りや湧水汲みをしている)の言葉少ない寡夫で小学児童の娘ハナ(演西川玲 = プロの子役)と二人暮らし。ハナの下校時間に二人で森の中を歩いて帰り、木々や動植物の名前と自然の事象について教えている。鹿の通り道、その水飲み場や食べ物や習性についても。出会うことは稀でもここは鹿と人間が共棲している自然。調和(バランス)は取れているがそれは壊れやすい。ここまでが(調和的な)イントロ。その親子二人の幸福な自然を学び教える時間に、うっすらと影があるとすれば、タクミが近頃この約束の下校時刻をうっかり忘れることがある、という....。
 この静かな集落に、東京の芸能プロの子会社がコロナ助成金目当てに高級キャンプ施設(これを今日びの日本語では”グランピング”と言うらしい)の建設を計画、集落住民全員を集めてその説明会を開く。東京から派遣された説明員は二人:タカハシ(演小坂竜士)とマユズミ(演渋谷采郁)、その美辞麗句でかためた建設案を住民たちは問題点をひとつひとつ挙げて突き崩していく。ここでわかるのはこの集落に住む人たちにとって、その湧き水がどれほど大切なものであるか、ということ。それを高級キャンプ施設が汚染してしまう可能性があること。タクミはその水は鹿とも共有していること、その建設予定地が鹿の通り道であることも知っている。住民たちは即答できない東京もん二人にさまざま宿題を課し、その回答があるまで建設には賛成できない、と。
 タカハシとマユズミは東京もんの分際で住民たちの主張に理ありと考えてしまう”弱さ”があり、東京に戻り、会社と建設企画コンサルタントに再考を促すが、東京側のリベラル資本主義論理は、形式的に説明会は成功したことにして、日程通り計画を実行するべく、逆にタカハシとマユズミに、再度現地に飛び、集落の賢者にして重要人物であるタクミを抱き込んで味方につけて計画を軌道に乗せよ、と命令。
 観る者はここで映画題の「悪」とは東京ゼニ儲け勢力であると単純に構図化するかもしれない。心にその「悪」に承服できないものを多く抱えながら、「悪」の使者たるタカハシとマユズミはしぶしぶ車を走らせ集落へと向かう。この自動車の中という閉鎖された空間で、運転席と助手席というポジションで、二人は”本音の会話”を展開する。お立ち会い、ここがこの映画でほぼ唯一「言葉の人」濱口の(これまでの彼の映画で見慣れた)ダイアローグアートの見せ場なのである。その”本音”は会社上司への抑えきれない憤りに始まり(タカハシはマユズミに「おまえこんな会社やめちまえよ」と執拗に進言する)、二人がそれぞれどんな経緯でこの”悪の手先”の現在位置までたどり着いたのか、そしてそれぞれの極々私的な体験(マッチング・アプリでの経験)に至るまで。”戦場”に着くまでの和みの時間のように。
 重い気持ちで現地に着いた二人をタクミは好意も敵意もなく自然体で迎える。東京側のタクミ抱き込み策は試す前から頓挫することが二人にはわかっている。着いた時、タクミは薪割りの作業中で、タクミはその仕事の切りがつくまで薪割りをやめない。「ちょっとやらせてもらっていいですか?」とタカハシはタクミからまさかりを借りて薪割りを試みる。生まれてこの方薪割りなどやったことのないタカハシはまさかりを振り上げ振り下ろすのだが、割るべき丸木に命中しない。何度やっても結果は同じ。見かねたタクミは両足の位置を教え、まさかりは頭上に振り上げたらあとは力を抜いて自然落下させろ、と。すると、なんと薪はスパーンと割れたのである。タカハシは「この10年間でこんなに気持ちよかったことはないです!」と素直な喜びを。(←薪割りシーンの写真)
 俄然タカハシとマユズミはタクミとこの自然環境に魅了され、東京悪との決別を思うようになる。タクミは汲んできた湧水で茹でて調理した(脱都会夫婦がやっているうどん屋の)うどんを二人に賞味させ、さらに二人を連れて湧水の汲み馬まで行き、水汲み作業を手伝わせる。三人の心の交流が始まったかのように見える。水は存在する。この生態系を共有するすべてのもののために。集落の人々はこの水を拠り所にしてここに住みついている。彼らはスマホやインターネットや四駆の車を使う21世紀フツー人であり、大なり小なりこの生態系にダメージを与えて生きている。タクミは守るべきバランスがあると言う。「やりすぎたらバランスが壊れる」と言うのだが、この言葉に映画のすべてが集約されている、と観終わったら気がつきますよ。
 水は存在する ー 私はとっさにこの映画題からのダジャレで「アクア存在する」なんて独語してみたのだが、出来わるいっす、ごめんなさい。
 ここまでが映画の第三段階。そして映画は最後のカタストロフィーに向かっていく。やりすぎたらバランスが壊れる。東京もん二人との心の交流にうつつを抜かしていたタクミは、娘ハナの約束の下校時刻をすっかり忘れてしまう。あわてて小学校に車を飛ばしたタクミだったが、そこにはハナはもういない。その場にいた教員の女性は「おとうさんの毎度のことだから、と言い残してひとりで歩いて帰って行った」と。ハナは家に戻っていない。ここからハナを隠してしまった自然の中にタクミとタカハシと集落民たちが分け入り、大捜索が展開される。映画はふたたび森の中の移動撮影(トラヴェリング)と石橋英子の不安げな音楽と自然音の長いシークエンスへ。音楽はものを言う。自然とはしかしてその正体は「悪」なのか、とも思わせるような。われわれはタクミの言う「バランスが壊れる」局面に立ち会っている。そしてカタストロフィーはやってくる。観る者がまったく予期できなかった映像が展開される....。
 そこはネタバレが許されないところなので、これ以上は触れない。

 とてつもないカオス、混沌が最終章となる時、そういう終わり方をする音楽として私はラヴェルの「ボレロ」の最終音、ビートルズ「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の最終音などを想ってしまうのだが、石橋英子の音楽はどうだったのか、私は憶えていないのだ!←私の耳は節穴。それよりもなによりも最後のミステリアスなカオスの強烈な映像にあっけに取られてしまったのですよ。

 テレラマ誌の執筆ライターで自ら映画監督でもあるマリー・ソーヴィオンがそのYouTubeチャンネルの動画の中で、去年7月のヴェネツィア映画祭で初めてこの映画を観たあとで、驚きを隠せない周囲の人たちに「最後のところわかった?」と尋ねると「あまりよくわからない、でもこのミステリアスなエンディングは心にずっと残るだろう」と答えたという話を伝えている。私はこれに膝を叩いて同意する。私が観たパリ6区の映画館では、観客たちは映画の最後に口をポカンと開けながら、エンドクレジットを読むでもなく眺めながら、じっと映写ホールの灯りがともるのを待っていた。わかるもわからぬもなくこれは重く残るのですよ。
 映画題『悪は存在しない』は反語であろうし虚言でもあろうが、エリック・ローメール映画の諺・格言のように、それはそれでありがたいものである。映画のトーンは(エコロジックな)寓話のように捉えられようが、この映画で善悪は重要な問題ではない。問題はタクミが言うように「バランス」なのである。それを濱口は(「言葉の人」の才を抑えて)トラヴェリングと音楽と自然音を前面に出して表現したのである。できる映画監督なのだと思う。ことさら山麓の映像は美しい。Pourtant la montagne est belle.

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『悪は存在しない』フランス上映版予告編


(↓)仏民放テレビTMCのトーク番組QUOTIDIEN で『悪は存在しない』のプロモでインタヴューに答える濱口竜介(Bonjour... とちょっとフランス語も)。濱口の日本語語りが多い中で自動車の中の対話シーンに関する説明が面白い。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

実はまだ観ていませんこの映画。家族が二人見たんですがとても評判よろしくなく腰が引けています。
でも観なくちゃいけないかな、という気持ちにさせる今回のレビューですね。

Pere Castor さんのコメント...

コメントありがとうございます。
私が予想するにその「評判よろしくない」は、ある種整合性のあるわかりやすいエコロジカル(&ポリティカル)な寓話のような展開で進んできた映画にあの不可解な終結はないのではないか、ということだと思うのですが、いかがですか? 私はそれは主人公タクミが言う「やりすぎたらバランスが壊れる」ということに尽きると思うのです。バランスが壊れた結果を濱口の映像はああいう表現になった。バランスはいつどのように壊れたのかは、映画を観終わらないとわからないと思います。それをぜひ観て探してみてください。この映画の重さとパワーと衝撃は、表層的に「わかった」とか「わからない」のレベルではないように私は観ました。よろしかったら観終わっての感想を教えてください。