2019年7月30日火曜日

「80万」ビュー突破に寄せて

同志たち、ありがっとう!

2019年7月29日23時頃、爺ブログのビュー・カウンターが「80万」を突破しました。毎度お越しの同志たち、ありがとうございます。統計を取ったりしているわけではありませんが、やはり読まれているかいないかは大変気になり、こうして10万単位の山を越していくと、続けることの意味を感じさせてくれます。

カウンターの数字はどこまで信用してよいものかわかりません。日付では60万突破が(←)2018年1月6日、70万突破が2018年3月12日(→)、つまり60万と70万の間の10万ビューに2ヶ月ちょっとしかかかっていない。そして70万から今度の80万ビューにいたるまでには16ヶ月(1年4ヶ月)以上かかっています。10万ビューにかかった時間の差は何なのか。インターネット上の奇怪現象というのか、むしろ「機械現象」とでも言うべき、人間ではない機械(ロボット)による集中ビューとしか想像できません。
統計の始まった2010年5月から今日までの全期間ビュー数の折れ線グラフ(←)を見ると、2017年12月から2018年3月の4ヶ月間が異常に高く月に4〜5万のビジターがあったことになっています。これは明白にロボットのしわざです。この期間にアクセスのあったビジター(?)の国籍もちょっと考えづらい国(東欧、アラブ首長国連邦、中央アジア...)が多く、普段のビジターたち(日本、フランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、アメリカ、カナダ、オーストラリア...)ではありませんでした。何のために? 乗っ取り目的か? どこかいじくられたのではないか? と不安にはなったのですが、今のところ被害はありません。そして折れ線グラフの続きでは2018年4月からは月間ビュー数4000程度と(たいへん低く)安定しています。つまりこの頃は1日のビュー数100〜150程度( ! )です。これが爺ブログの自然のありのままの姿かな、と思ってます。

 2017年6月で自営の会社をたたみ隠居(闘病)老人となり時間も増えたので、ブログをいじくる時間も増えて記事数も格段に増えています。「ビュー数を増やさなければ」というつもりで書いているわけではないし、ましてや「商売」ではないので、この状態に嘆いているわけではまったくありません。自分のためにやっていることですから。

 新規記事だけではなく、古い記事も資料性のあるものはこれからインデックス化して読んでいただく努力をしてみましょう。あなたが出会っていない意外な記事も多分少なからずあるかもしれません。

 『カストール爺の生活と意見』はもう少し続くと思います。「いつまで」という考えは捨てました。だけどもう少し。楽しみながら続けますから、おつきあいください、同志たち!

(↓)久しぶりにテーマソングでも聞いてやってください。

2019年7月28日日曜日

主は私の羊飼い

ダニエル・ダルク「詩篇23」
Daniel Darc "Psaume 23"
(album "Crève Coeur" 2004)


2019年7月24日にフランス公開されたダニエル・ダルク(1959-2013)のドキュメンタリー映画『ダニエル・ダルク - ピーシズ・オブ・マイ・ライフ(Daniel Darc - Pieces of my life)』に関する原稿(ラティーナ2019年9月号掲載予定)を書いていて出会った(と言うかアルバムリリース当時は全く気にとめていなかった)2004年のアルバム『心臓破り(Crève Coeur)』の最終曲(12曲め)。詞は旧約聖書「詩篇23篇」より。日本語訳はダニエルの歌ったフランス語詞から私が訳した。
主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
涼しい草はらの上に
主は私を横たわせる

主は静かな水辺へと私を導き
そして私を蘇らせる
主は御名を讃えるために
私を正義の道へと導く

私が死の谷を渡るとしても
私は何も恐れない
なぜならあなたは私と共にあり
あなたの杖が私たちを導き、私の心を確かなものにする

あなたは私の敵たちの前で
私のために食卓を用意し
あなたが私の頭に香りをふりかけると
私の盃は飲み物で満たされる

恩寵と幸福が
私の生涯の毎日、私と共にあり
私は生きている限りずっと
主の家に住むことができる

主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
涼しい草はらの上に
主は私を横たわせる

恩寵と幸福が
私の生涯の毎日、私と共にあり
私は生きている限りずっと
主の家に住むことができる

主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない

(↓)Daniel Darc "Psaume 23" (from album "CREVE COEUR" 2004)


(↓)ダニエル・ダルク「詩篇23」2008年ユーロケンヌ・フェス(ベルフォール)でのライヴ。




2019年7月25日木曜日

ヴィラ神楽坂から

ルネ・ド・セカティ『わが日本の歳月』
René de Ceccatty "Mes années japonaises"

めて読む著者である。ルネ・ド・セカティ(1952 - )は小説家(随筆家)・劇作家・翻訳家として非常に多くの著作がある(ウィキに列挙されているだけでも150点以上)。翻訳はイタリア語からの仏訳(ピエル・パオロ・パゾリーニ、アルベルト・モラヴィア等)と日本語からの仏訳(夏目漱石、大江健三郎、横溝正史、三島由紀夫等)であり、日本語翻訳の方はすべてNakamura Ryôji(この名前ネット検索では特定できない)との共訳ということになっている。
 Roman(小説)と言っていいのだろうか。本書はルネ・ド・セカティの自分史のほとんどすべてであり、その自分を形成した最重要な要素に「日本」があり、その関わりの(ほとんど)すべてを詳らかにした246ページである。日本愛などと定義できるものではない。日本との出会いが彼にとっての「第二の誕生」であったのだから。
 話者(ルネ・ド・セカッティ)は1977年9月に初めて日本の土を踏んでいる。成田空港が反対運動の激化で開港延期となり、羽田に着いてモノレールで都内に入っている。その時25歳。作家として初めて出版社と契約が取れた時期。職業的には北フランスで高校教師(哲学)をしていたが、兵役に代わる外国での教職活動として東京で2年間、かの九段の学校で教鞭を取ることになった。すでに東京のフランス村となっていた神楽坂界隈が彼のホームグラウンドになるのだが、その宿舎にあてられた「ヴィラ神楽坂」の窓に聞こえてくる石焼きイモ屋台の呼び声や、ちり紙交換軽トラックのアナウンス、よその学生寮のマージャンの音といったものに反応して快いカルチャーショックを。この40年前の衝撃の記憶を、話者はまめに保管しておいた母やその他の人々とやりとりした書簡をもとに再構築しようとする。ネットやE-メールなど遠い遠い未来だった頃のことである。ありがたき亡き母の証言、その残された書簡だけがこの自分史に客観的な視点を与えている。さもなければこの本は、意識的にも無意識的にも取捨選択された記憶断片の自身に都合のいい寄せ集めになっていたかもしれない。おまけにこの話者は前述のように非常に多作の(私小説的作品の)書き手であり、その時その時の恋愛関係で小説をぼんぼん書いてしまっている。だからこの作品の中でも、「だれだれとの関係のことはどれどれの小説で書いている」という断り書きが何箇所にも現れる。おいおい、これではこの著者の熱心な読者でない者にはとても読みづらい本ではないか、と思われる。大丈夫。それは全然重要なことではない。
 彼はゲイである。それを隠したことはない。しかしこの77年の日本渡航の前に、ルネはセシルという女性と恋仲になり、東京には「夫婦」として移住する。セシルも先進的な女性であり、闘士的な活動もする芸術家(画家)であり、おそらくこの男をゲイと知りながらも全く新しい男女関係という冒険に賭けていたのかもしれない。少なくとも一時的にはこの二人は熱愛するのだ。だがこの脆い関係はすぐに壊れ、セシルは東京でどんどん不幸になっていく。逆にセシルからの罵詈雑言泣き言を散々浴びせられながらも、ルネはどんどん東京と日本の魅力にとりつかれ、「第二の誕生」と言うべきメタモルフォーズを実現していく。日本に関して全くの素人だったわけではない。若くして作家・演劇人としてデビューしていた話者はその豊富な教養の中に日本は含まれていたし、渡航前には日本の近代/現代作家(漱石、芥川、三島...)の仏訳本を読み漁った。渡航後は苦労しながら日本語習得にもつとめ、週刊「ぴあ」で映画・コンサート・演劇などのイヴェントを探せるようにもなった。それから在東京のフランス人ゲイ・コミュニティーや日仏学院の男子学生たちとも深く交流するようになり、その世界の深部へとどんどん入っていく。こんなだからセシルはどんどんどんどん不幸になっていき、ルネの家族をはじめ友人たちにもルネの裏切り不貞を言いふらし、ルネに対して極端に攻撃的になっていく。地獄のようだったと表現したりもするが、実のところルネはセシルの不幸を頓着していないのだ。
 頻繁に恋に落ち(その度に小説に書いてしまう)、その果てにリョウジ(ナカムラ)という最重要のパートナーと出会うわけだが、この作品で奇妙なのは、このリョウジとの関係がどのようにパッショネートなものであったかを書き綴っている部分は一切ないのだ。話者が日本文学の奥の奥まで入っていく道先案内人となった、フランス語を完璧にあやつるこの長年の公私のパートナーに関して、書き方があまりに淡々としているのではないか。この二人は京都、鎌倉、金沢、七里ガ浜、尾道... その他日本の文学史跡を探訪し、ルネは日本(文学)を内在化できるほどに理解を深めていった。その結果、十数年に渡るリョウジと共同での日本文学のフランス語訳はウィキペディアに載っているものだけでも35点もある。大江健三郎、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、井上靖、河野多恵子、津島佑子...。その中には道元「正法眼蔵」というたいへんなものまで含まれている。この二人は1990年代には場所をブルゴーニュ地方の田舎家に移し、そこに十余年篭って日夜翻訳に没頭することになる。
 ルネ・ド・セカティには失礼だが、この共同翻訳というのは両者の割合がどの程度のものなのか疑問がある。ほとんどはリョウジ・ナカムラの仕事ではないか。全プロセスの最後のフランス語文として雅文化するところがセカティの主な役目ではないか。ファイナル・タッチ係、それはそれで重要で決定的な役割ではあるが。日本文学/文化への理解がどれほど深いかが決め手なのだから。だからこの「共訳」では二人の立場はフェアーではなく、主任と助手のようなヒエラルキーがあったのではないか。「日本文学狂」的な尋常ならぬ熱情で短期間でこの分野のエキスパートとなったルネとて、リョウジの既に蓄積された莫大な知識と情報なくしては、できることは限定されていたと思うのが自然である。いみじくも私は「フェアーではない」と数行前に書いたが、このフェアーでないことが二人の関係の限界だったと私は読む。そのことは本書には書かれていない。
 この話者は日本を愛し、日本で第二の誕生のような人生の大転換を果たしたが、日本人になろうとか、日本学を極めようとか、そういう意思は薄い。ただ凡百の「日本通(nipponophile)」や「日本専門家(japonologue) 」たちとは一線を画したい。このあたりの自分の立場、日本を深く理解し愛していてもあんたたちとは違うんだ、という個人的で親密な日本との関わりが強調されているから、この本は存在する価値があり、「極私的」日本愛と言ってもいい視点こそが本書の魅力なのだ。言い訳も躊躇もある。ただ、昭和期の神楽座を練り歩く石焼きイモ売り屋台の呼び声メロディーのように、いいものはいいのだ、という理屈なしの愛着は説得力を超えるものがある。
 21世紀の現在、日本通のフランス人たちはフランスにも日本にもゴマンといるし、私にしてみればマンガやアニメの領域でなくてもその種の若いフランス人たちには全く歯が立たないほどだ。情報量ということだけではなく、ものの理解・解釈においても。しかし私とほぼ同世代であるルネ・ド・セカティは、1970年代、どのような「予備知識」で日本を見ていたろう。この本でも話者にとって重要な影響となったとされているが、70年代フランスと日本の知識人たちの必読書となっていたのがロラン・バルトの日本論『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)であった。 バルトは1966年と69年、数度来日+滞在し、この日本論を書き上げたのだが、来日のきっかけは九段の日仏学院の招待であり、67年冬は学院の宿舎に滞在していた。10年後のルネ・ド・セカティと同じ神楽坂の風景を見、袋町の小径の雑踏に揉まれていたことだろうか。話者は先達バルトに敬意を払いつつも、今やその日本論のディテールについて訂正・批判できるものをたくさん手に入れてしまった(p201からp216でバルトに関する考察)。しかたない。しかしバルトよりも多くのものを発見し、日本理解を深めた自分は、それを肥やしにして「専門家」になることも望んでいないし、ましてリョウジなしには先には進めないだろう。1985年にセカッティーはフランスで聖フランシスコ・ザビエルの日本での行状を題材にした評伝小説"L'Extrémité du monde"を上梓する。これを手にしたリョウジはその中の「ザビエルは日本を発見した」という表現におおいに難色を示す。ザビエルの前に日本は存在していなかったような、覇権主義的で植民地主義的な表現だ、と。この辺の無意識に身についてしまったような西欧優越世界観を引きずっているということを身を持って知った話者は、ある種の微妙な事柄には「沈黙」(遠藤周作の作品も引き合いに出している)することを決意するのだが...。
 恋多き人であり、90年代にはエイズ死を身近に体験しながら、私小説を何編も書いてきた。パゾリーニや大江健三郎と親交してきたことは、その多作さにどう反映しているのだろうか。恋(と死)のことばかりで文学人を通せてきた稀有な人かもしれない。九段・神楽坂のフランス語文化圏で人生を変えてしまったフランス作家、今、日本は遠きにありて思うものなのだろう。

カストール爺の採点:★★★☆☆

René de Ceccaty "Mes années japonaises"
Mercure de France 刊  2019年4月 250ページ 18ユーロ 

(↓)ラジオRCJ(ユダヤ系コミュニティー放送局)の文学番組で、新刊『我が日本の歳月』について番組主キャロリーヌ・グットマンのインタヴューに答えるルネ・ド・セカティ。


(↓)2013年マルタン・プロヴォ監督映画『ヴィオレット - ある作家の肖像 - 』、このシナリオを手がけたのがルネ・ド・セカティ。



 

2019年7月20日土曜日

明日は月の上で


救世主アダモ『明日は月の上で』
Salvadore Adamo "A demain sur la lune"
(1969年)

(←)2019年7月20日付けリベラシオン紙フロントページです。1969年7月20日、米国宇宙船アポロ11号の2人の飛行士によるウォーキン・オン・ザ・ムーンの50周年を記念しての5面特集記事。主要テレビをはじめ世界中のメディアで同じようなことをやっているはずなので、私がとやかく言うことではありまっせん。リベ紙はその特集のタイトルとして、当時地球的規模で大スターだったベルギー人アーチスト、サルヴァドール・アダモ(1943 - )の1969年のヒット曲のタイトル「A Demain Sur La Lune(明日は月の上で)」を採用しました。言うまでもなく、このサルヴァドールは1963年の「雪が降る」以来、日本で最もポピュラーなシャンソン歌手として君臨し、何度も何度も日本に行くから、日本語も堪能ですし、日本では最もパリ的なベルギー人と奥様がたに評判です。後輩の森進一(1947年生、1966年デビュー)は往時「日本のアダモ」と呼ばれていました。それはそれ。
この「明日は月の上で」もさっそく岩谷時子の素晴らしい日本語詞がついて日本語版が吹き込まれ、毎回日本公演では奥様がたが総立ちで唱和するほどの人気ナンバーになりました。このヴァージョンは越路吹雪など日本のおシャンソンの人たちにも多くカヴァーされています。
明日月の上で
神様のそばで
明日月の上で
大空のすみで
オリジナル曲 "A Demain Sur La Lune"は当然1969年人類月面到達という事件にインスパイアされて作られたものです。誰でも子供の頃の夢だったのかもしれませんが、お月見ならぬ「お地球見」の風流も歌詞中に現れます。どうもね、当時はロマンティックな王子さまのような、日本の奥様がたの願望に沿ったイメージが先行していたようで、あの頃、英米のポップス(ロック含め)を聴いていた日本リスナーたちと、フランス語ポップス(イージーリスニングを含め)を好んでいた人たちとの溝を大きく深めた原因のひとつにアダモがなっていたと思うんですよ。ま、(60年代ですから)ビートルズ聴く人はアダモは遠慮すると思いますよ。その溝を一挙に縮めたのがポルナレフである、という主張には一理ありますよ。だって、この歌だって、めちゃくちゃ歯の浮くような歌詞なんだ。
À demain sur la lune 明日は月の上で
Aux quatre coins des dieux 四方を神々に囲まれて
À demain sur la lune 明日は月の上で
À trois bornes des cieux 天国にたった三里の距離のところで

Il y aura un carrosse 馬車は僕たちを
Qui nous emmènera 子供の頃の夢の場所に
Voir mes rêves de gosse 連れていき
Et tu t'y reconnaîtras きみはこれは夢じゃないと気づくだろう

Et pour toi ma jolie 僕の美しい人、きみのために
Le vent, ce magicien 風という名のマジシャンは
Jouera une symphonie 千人のミュージシャンをつかって
De mille musiciens シンフォニーを奏でるだろう

À demain sur la lune 明日は月の上で

Là nous verrons la terre そこから僕たちは地球を見るのさ
Comme une boule de Noël まるでクリスマスツリーの玉飾りみたいに
Se balancer légère 宇宙の大きなもみの木に吊られて
Au grand sapin du ciel 静かに揺れている

Et d'étoile en étoile そして星から星へと
Nos chevaux voleront 僕らの馬は飛んでいくだろう
À l'heure où le ciel se voile 空が白い千の夢のヴェールで
De mille rêves blancs 覆われるとき

À demain sur la lune 明日は月の上で

Le vent te couvrira 風はきみを
D'un voile de dentelle レースのヴェールで包み
Et tu t’endormiras そしてきみは最高に美しい夜のなかで
Dans la nuit la plus belle 眠りにつくだろう
Moi moi moi je te bercerais 僕はきみの揺籠をゆすりながら
J'attendrai ton réveil きみの目覚めを待っていよう
Puis je t’embrasserai 太陽が出たらその目も気にせず
À la barbe du soleil きみにくちづけるのさ

À demain sur la lune 明日は月の上で

 なんと饒舌なことでしょう。 「ヴェール」が2回出てくるところなんか、普通作詞家として恥ずかしくてできないんじゃないの?空駆ける馬とか、クリスマスツリーみたいな地球とか、風という名のマジシャンとか、一体この人は本当に1960年代に生きてた人だろうか、と疑いたくなるんですが、その当人が1966年に第三次中東戦争(6日戦争)を勃発するきっかけとなった「インシャラー」という曲も作ってるんですね。
 ベルギーで生まれた偉大なマンガ「タンタンの冒険」(エルジェ作) の16作目で「めざすは月(Objectif Lune)」(1953年発表)というのがあります。赤白の市松模様(クロアチアの国旗のよう)のロケットで月世界探検に出発する話です。アポロ11号の16年前の想像力、そのフォルムの美しさに感服します。
 さてアダモ「明日は月の上で」に戻りますが、歌詞はどうあれ、一流のメロディー・メイカーであったアダモのこの曲のBメロ、よく聴いてください。このメロディーは1975年、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」にパクられたんじゃないか、と私は真剣に疑っています。

(↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」


(↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」日本語版


2019年7月17日水曜日

ズールーの立ち位置

ジョニー・クレッグ(1953-2019)

7月16日、JCが66歳で亡くなった。"白いズールー”と呼ばれた男の「アシンボナンガ」は私にとって20世紀で最も美しかった歌のひとつだった。合掌。
JCがすい臓ガンと診断されたのは2015年のことだった。その日から死を覚悟して、最後のアルバム("King of Time" 2018年)も作ったし、最後のコンサートツアーもした。"最後の”と銘打っても、アルバムを買う人もコンサートに来る人も、当人が亡くなるまで"最後”は実感しない。しっかりとそれを悟っていたのは本人だけだ。4年間の闘病だった。この孤独な闘いのことを、2018年9月にパリ・マッチ誌のインタヴューで語っていて、そのインタヴュー記事全文がJCの死の直後ウェブ版パリ・マッチに再録された。そのうち、最後の2つの質問の部分だけ、以下に翻訳する。

(パリ・マッチ:今日あなたにとって最も気がかりなことは何ですか?)
JC - 私の家族にとって私の病気がどれほどつらいものか知っている。2015年に家族は私の旅立ちを覚悟していたが、私は生き残ることができた。今日みんなが私の最後が近いことを知っている。最悪なら数ヶ月、最良でも数年のことだ。意志に反したこととは言え、私は家族にいつもプレッシャーをかけていたんだ。「パパはいつ逝ってしまうの?」「彼にはどれくらいの時間が残されているの?」ー 最も耐えられないのはその答えを知らないことだ。私はこの病気が私の体の中で爆発してしまうだろう瞬間のことを恐れている。こういった問題を自問すると私は混乱を起こしてしまう。なぜなら私はこの病気に勝つことはないのだから。私は絶壁から飛び降りる前の、執行猶予状態にあるのだ。

(パリ・マッチ:この試練の中にあって、音楽はあなたを支えていますか?)
JC - コンサートをしている時はもちろんそうだ。私は世界と再びコネクトした状態にあり、私は自分の仕事をしているんだから。でもそれは以前と同じ感触ではない。私は死を背負っていて、そのことを人々は知っている。彼らは私にお別れを言いに来てるんだ。今はとても甘美さと苦味の混じった時期だ。でも、前に進まなければいけない。世界中から送られてくるメッセージのすべてに私はありがとうと答えることはできない。彼らはこの最後の段階に立っている私にとても良いことをしてくれたのに、私はこの段階への準備がまだ出来ていないんだ。私は多くの人々に知られた公のパーソナリテイーかもしれないが、私は今、いまだかつて経験したことのない最も孤独な瞬間を生きている、と悟っている。死神に向かって私はたった一人だ。つまるところこの立ち位置はとてもズールー的なんだ….

(↓)「アシンボナンガ」1997年フランクフルトでのコンサート。ネルソン・マンデラがサープライズでステージに現れる。アパルトヘイトは終わった。

2019年7月16日火曜日

シコさんに叱られそう

2019年7月13日付けリベラシオン紙に南仏カマルグのバンド、ジプシー・キングスの軌跡が3面にわたっての記事で。
 このバンドに関しては向風三郎の『ポップ・フランセーズ』(2007年)ではこう紹介されている。
 旅する者の王者たちジプシー・キングスは、南仏プロヴァンス地方アルルのはずれのキャラバン野営地のジタン(ヒタノ)であった。近くには野生の白馬が駆ける湿地帯カマルグが広がり、ジタンの聖地サント・マリー・ド・ラ・メールでは毎年5月、聖女サラを讃える祭りのために何十万というジタン巡礼者が訪れる。アルルの名高い歌手ギタリスト、ホセ・レイエスは息子たちを演奏家に育て、父子でロス・レイエスという楽団を組んで、コート・ダジュールの富豪ヴァカンス客たちの宴に出演していた。一方モンペリエにダリにも賞賛される天才ギタリスト 、マニタス・デ・プラータを筆頭とするジタンの音楽一家バリアルド家があり、マニタスの甥にあたるディエゴ、パコ、トニノの3人がホセ・レイエスの死後にロス・レイエスに参加している。その時からレイエス家から3人(ニコラ、パブロ、アンドレ)、バリアルド家から前述の3人、そして故ホセ・レイエスの娘婿のモロッコ人ジャルール(シコ)・ブーシキを加えて合計7人が新ロス・レイエス(未来のジプシー・キングス)であり、これは名門ヒタノ家族連合のスーパーバンドであった。
ジプシー・キングスが地球規模のヒット曲「バンボレオ」と「ジョビ・ジョバ」を世に送ったのは1987年のことだった。あれから30余年、バンドは本家、分家、正系、傍系いろいろ分裂しながら、「ジプシー・キングス」という金看板商標の使用をめぐっていろいろもめてきた。特に有名なエピソードがジャルール・シコ・ブーシキの独立(1992年)で、上に引用したようにこのシコはモロッコ人(つまり非ヒタノ)であり、ホセ・レイエスの娘マルトと結婚してこの世界に入ったが、オリジナル・ジプシー・キングスのスポークスマンのようにメディアのインタヴューではひとり目立ってしゃべっていた。ほかのメンバーが口下手と言うか、ほとんど前に出ない。リベラシオンの記事で、エリック・クラプトンに夕食を招待された時、”俺たち英語しゃべらないから"と言い訳しているが、夕食の席で何もしゃべらなかったのは、しゃべり屋のシコが脱退したからと思われる。そのシコは92年に新ジプシー・キングスとして独立したかったのだが、名前の使用に関して訴訟沙汰にまでなり、結局「シコ&ジプシーズ」となった。しかしこの新バンドはジプシー・キングスのレパートリーを演目とするので、一般の人は「ジプシー・キングスなんじゃないの?」とどうでもいいような反応だった。音楽業界およびメディアへのハバの効かせ方の違い、言わばシコの政治力の違いで、シコ&ジプシーズは本家ジプシー・キングス(ニコラ・レイエス&トニノ・バリアルド)を凌駕してメディアと世界市場に露出して、ジプ・キン演目+古今東西有名曲のルンバ・フラメンカカヴァーという商業路線で成功していく。
  唐突にブライアン・ジョーンズを引き合いに出す。私は熱心なファンではないし、のめり込んでストーンズを聞いたこともない人間だが、ブライアン・ジョーンズに関しては良い印象がない。それはミュージシャンとしての資質よりも、マネージメントおよびリーダーシップに長けた人物として最初期ストーンズの看板だったからであり、音楽よりも「政治」をやっているタイプという印象である。これはシコ・ブーシキと全く重なる点で、カンテ・ホンドのしぼりあげるようなヴォーカルもなく、超絶ギターラ・フラメンカのテクニックもなく、非ヒタノ人の分際でジプシー・キングスのフロントマンでありよくしゃべる。ブライアン・ジョーンズが初期ストーンズの顔だったように、シコ・ブーシキはジプシー・キングスの顔だった。なんで?と思う。
話は飛んで、この7月ラティーナに「サン・トロペの60年代の栄華と退廃」について記事を書いて、その関連でこのブログにも「プリティー・シングスとサン・トロペ」という記事を載せた。その舞台になったのがサン・トロペ半島の南側のビーチ、パンプロンヌの浜辺のクラブ・レストラン「レピ・プラージュ」で、60年開店のこのクラブの最初からの常連にブリジット・バルドーがいた。このクラブのスタッフのひとりで2年間(長い!)にわたってバルドーの恋人だったボブ・ザギュリーが制作したテレビ番組「ブリジット・バルドー・ショー」(1968年1月1日放映)に、バルドーが「ギターのピカソ」と絶賛したマニタス・デ・プラータがバルドー邸(サン・トロペ、ラ・マドラーグ)で彼女の目の前で弾くシーンがある。ブリジット・バルドーはカマルグのジタン音楽の有名人ファン第1号であり、マニタスのプロモーションに大きく貢献したのだが、10年後その甥っ子たち(+α)の楽団ロス・レイエス→ジプシー・キングスもバルドーのサン・トロペの宴には欠かせないものとなり、バルドーによって中央メディアの知るところとなったのだった(写真1978年、サン・トロペのバルドー&キングス)。
(リベ記事の一部)
1978年のある日、ギター商人から紹介された仕事でパンプロンヌのレストランの誕生日パーティーで演奏することになった。行ってみたらそれはバルドーのパーティーだった。パリジアン紙のインタヴューでシコ・ブーシキは「それは最高のパーティーだった。彼女は踊り、歌い、ジタン音楽を褒めちぎった」と語っている。次の日、彼女はバンドを自宅ラ・マドラーグに招き、ひとりのジャーナリストがそこで取材していた。バンドは彼女と一緒に写真に写り、そこから彼らの成功物語は始まった。「40年前、誰も俺たちのことを真に受けなかったのに、彼女は知り合いすべてに電話しまくり、このバンド最高よ、と喧伝したんだ」(シコ・ブーシキ、ラジオRMCでの発言)
閑話休題。今度のリベラシオンの記事で知ったシコ・ブーシキに関する意外な事実。モロッコ人の父とアルジェリア人の母の間に生まれたシコにはアハメドという名の兄がいた。アハメドはノルウェー人女性と結婚して(94年冬季五輪の町)リレハンメルに住み、レストラン給仕として働いていた。それが1972年のある日、身篭った妻の目の前でアハメドはイスラエルの秘密警察モサードによって殺害されてしまう。人違い! モサートはアハメドを、ミュンヘン・オリンピック人質事件の首謀者でパレスチナテロ組織「黒い9月」のリーダー、アリ・ハッサン・サラメと混同したのだった...。この事件に深く衝撃を受けたシコは、後年(有名になってから)ユネスコを通じて中東和平・イスラエル/パレスチナ紛争解決にコミットした活動を積極的に行うようになり、1994年にはノルウェーで開かれたオスロ合意の1周年記念式典において、シコ&ジプシーズはシモン・ペレスヤセル・アラファトの前で歌ったのであった。この平和活動を讃えられて、2016年シコ・ブーシキはフランソワ・オランド大統領からレジオン・ドヌール勲章を受けている(上写真)。
 リベ記事は皮肉を込めてバルドー、ペレス、アラファト、オランドに目をかけられるとはタダモノではない、と結論するのだが、 どんなものか。音楽的成果は「ジョビ・ジョバ」、「バンボレオ」、日本のテレビ主題歌、CM、「空耳」ネタにとどまっているのじゃないですか?

(↓)ジプシー・キングス 「ジョビ・ジョバ」(ライヴ1990年USA ツアー)



2019年7月14日日曜日

俺のマルセイエーズ(Ma Marseillaise)

7月14日(フランス革命記念日)に寄せて。

ランソワ・リュファン (43歳、マクロンと同郷のアミアン出身、ピカルディー地方ソンム県選出国会議員、フランス・アンスミーズ "服従しないフランス "党所属、オルタナティブ新聞ファキール社主/ジャーナリスト、ドキュメンタリー映画監督...)が、パンク・ロックバンドのラ・オルド(La Horde=遊牧民)の誘いに乗って作ったフランス国歌ラ・マルセイエーズのオルタナティブ・ヴァージョン。リード・ヴォーカル=フランソワ・リュファン自身。

Allons enfants de mon pays 行こう、わが国の子供たちよ、
Le jour d’espoir est arrivé 希望の日がやってきた
Contre nous de la tyrannie 暴虐に歯向かって
Tout un peuple doit se lever. すべての民は立ち上がらねばならない
Entendez-vous à l’Assemblée 国会であの大臣たち、あの議員たちが
Ces ministres, ces députés, 言っていることを聞いたかい?
Qui viennent partout nous répéter やつらは俺たちに繰り返すんだ
Il faut qu’on libère la croissance, 経済成長をもっと伸ばさなければならない
Pas de croissance sans confiance, 経済成長なくして国民の信頼はない
La confiance dans la concurrence, 国民の信頼は自由競争にある
La concurrence notre seule chance 自由競争こそわれらの唯一のチャンスだ
Il faut affronter le marché 市場と対決しなければならない
Le grand marché mondialisé 大きな世界規模の市場と
Et ça réclame des sacrifices それには犠牲も必要になる
On n’peut plus vivre comme jadis もはやかつてのようには生きられない
Faut accepter faut s’adapter それを受け入れ順応しなければならない
Dans les retraites il faut tailler 老齢年金は削ろう 
Et la santé doit rapporter 健康は後回しにしよう
Les autoroutes qu’il faut brader 高速道路は安く払い下げよう
Allons enfants de mon pays 行こう、わが国の子供たちよ
Le jour d’espoir est arrivé 希望の日がやってきた
Contre nous de la tyrannie 暴虐に歯向かって
Tout un peuple doit se lever. すべての民は立ち上がらねばならない
Les voyez-vous à la télé, テレビに出るあの長者たち、
Ces milliardaires, ces PDG, 大社長たちが見えるかい?
Tout juste bons à radoter : やつらはみんな同じことをくどくど言っている
Travailler plus pour gagner plus 収入を増やしたければもっと働け
Consommer plus et produire plus もっと消費し、もっと生産しろ
Il faut bien vendre pour acheter ものを買いたかったら上手に売ることだ
Et exporter pour importer 輸入したかったら輸出することだ
Même si bien sûr l’environn’ment 環境問題はもちろんのことだ
L’environn’ment c’est important 環境それは確かに大切だ
On jure à Davos tous les ans 毎年ダヴォス会議で誓い合っている
Que le réchauff’ment climatique 地球温暖化と
Que la mer pleine de plastique プラスチックごみだらけの海に
Ca nous inquiète fortement われわれは深く憂慮しているし
Ca nous angoisse pour nos enfants 子孫たちの将来も心配だ
Et c’est promis pour deux mille trente 2030年までにはなんとかしよう
Ou bien alors deux mille cinquante さもなくば2050年までには
On va enl’ver de nos patates われわれの農産予算から
Dix-sept pour cents de glyphosate, グリフォサート分17%を削ろう
Monsanto sera très fâché モンサント社は激怒するだろう
Mais nous on va leur résister しかしわれわれはやつらに抵抗して行こう
Résistance ! レジスタンス!
Résistance ! レジスタンス!
Allons enfants de mon pays 行こう、わが国の子供たちよ
Le jour d’espoir est arrivé 希望の日がやってきた
Contre nous de la tyrannie 暴虐に逆らって
Tout un peuple doit se lever. すべての民は立ち上がらねばならない
Qu’on obéisse à nos bons maîtres, われらが良き支配者たちに従おう
Et la planète fait place nette,そうすれば地球は整理される
Plus d’hirondelles, plus de moineaux, ツバメもスズメも
Plus de sauterelles, et plus d’oiseaux. バッタも鳥も居場所はない
Ils nous envoient droit dans le mur, やつらはわれわれを壁に激突させる
Qu’éclabouss’ra notre sang impur. われわれの汚れた地が飛び散るようにと
Alors, y a plus le choix les copains, だから仲間たちよもう選択の余地はない
Aux âmes, aux âmes, les citoyens ! 魂を魂を奮い立たせよう市民たちよ!
Et les copines, les citoyennes, 女たちよ、女の民たちよ、
Les mi-toyens, les mi-toyennes, どっちの性でもない者たちよ、
Marchons, marchons vers leurs palais, やつらの宮殿めざして歩いて行こう
Oui mais même pas pour les chasser, やつらを駆逐するためではなく
Qu’on les enferme à double tour, そこに厳重に閉じ込めるために
Et que la vie reprenne son cours, われらの真の生活を再開するために
Et que surtout entre nos mains われらの運命を、われらが吸う空気を、
On reprenne notre destin, われらが飲む水を、われらに見える風景を
L’air qu’on respire, l’eau que l’on boit, われらの話す言葉を、
Les paysages que l’on voit,、デモクラシーを
Les mots qu’on dit, démocratie, われらの両腕の中に奪い返すために
Et pas seulement pour faire joli. いいカッコするためではなく!
Allons enfants de mon pays 行こう、わが国の子供たちよ
Le jour d’espoir est arrivé 希望の日がやってきた
Contre nous de la tyrannie 暴虐に歯向かって
Tout un peuple doit se lever. すべての民は立ち上がらねばならない 
(↓)フランソワ・リュファン + ラ・オルド「マ・マルセイエーズ」

2019年7月12日金曜日

待てど暮らせどコンヌ人

2019年7月10日号のテレラマ誌の表紙はブリジット・フォンテーヌ。80歳。その前週 封切のフランスの女性たちによるロックを追ったドキュメンタリー映画”HAUT LES FILLES”(上映館が少なすぎて観に行けないので DVD化あるいはストリーミング化されたらブログで紹介します)や、自身の復活コンサートツアー(9月から)でいろいろ露出度が高くなっています。テレラマの記事は、シャンソン欄主筆のヴァレリー・ルウーによるインタヴュー込みで “J’AI DECIDE DE ME VENGER MOI ET MON SEXE”(私は私と私のセックスの復讐を果たすと決めた)という題。インタヴューの中で(おそらく)初めてフォンテーヌ自身の(非合法時代の)妊娠中絶体験と強姦被害について告白しています。問題の部分、ちょっと硬い日本語でごめんなさい、翻訳してみました。
(翻訳はじめ)
ブリジット・フォンテーヌ:私は女たちのために、女性の誇りの回復に貢献するためにものを書いてきた。おろかで独りよがりなとこに見られようが、それは最初からそうだったのだ。まず私はずっと前からもの書きになるだろうということと演劇をやるだろうということは知っていた。子供時代、両親を教師とする家庭にいながら、そのことは確信していた。16歳の時、ある劇団の座長が私の演技に注目して、私の両親に私を劇団員として迎え公演に同行させたいと申し出たが、両親は断った。このことを母親はずいぶん後に私に告白したが、私はそのことで母親をずいぶん恨んだ。結局私は劇団と同行せずに、ブレストに行った。そこで私はあわれな怪物のような作家アンリ・ド・モンテルラン(訳註:1896-1972 貴族的男性像を理想とし、極端な女性蔑視観で知られる)を読んだ。その時私は『危険な関係』(訳註;1792年ラクロ作小説)のメルトイユ侯爵夫人(彼女が自分のために他の女たちを死に追いやることをためらわない唯一の女であるとして)が言ったように、私は私と私のセックスの復讐を果たす、と心に決めたのよ。私はその復讐の武器は私にとってはエクリチュールであると悟った。この願望は私の少女時代から私の心に根付いていた。私がその後に自ら体験した非合法の妊娠中絶や強姦といった様々なおぞましいことは、この願望を否応なく強固なものにしていった。
(中略)
私はバカロレアに合格した後、演劇をするためにパリに出てきたが、私は幾度も妊娠するはめになった。私はその度に中絶手術に耐えなければならなかったが、そのコンディションはあまりにひどく敗血症で死にかけたこともあった。最後の回は手術は完璧なものだったが、その医者は私を強姦した。おぞましい!少なくとも2ヶ月の間、私は眠ることができなかった。うとうと眠りそうになると、体に放電が走り、目が覚めてしまった。妊娠中絶は非合法だったから、私は告訴することもできなかった。でもなぜ私はこの医者の鼻をへし折るために男たちを遣わせなかったのだろう?私は悔しいことに女たちはコンヌ(まぬけ)であると認めざるをえなかった。いずれにしても私はコンヌよ。私は既にそれを宣言してしまったし。(訳注:”Conne” 1995年ブリジット・フォンテーヌの曲)
(翻訳おわり)
(↓)"CONNE" 1999年TVカナル・プリュスでのライヴ。

2019年7月4日木曜日

プリティー・シングスとサン・トロペ

Philippe Debarge with the Pretty Things "Rock St. Trop"
フィリップ・ドバルジュ ウィズ・ザ・プリティー・シングス『ロック・サン・トロップ』

こから始めましょうか。ミック・ジャガー、キース・リチャーズと同じ年1943年、同じ町ケント州ダートフォードで生まれたディック・テイラーという男(存命中、現在76歳)がおりました。近所のダチづきあいのあったミックとディックは1959年リトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルース・ボーイズを結成、1961年そのバンドに共通のダチだったキースが加わり、同じ年にミックが出会ったブライアン・ジョーンズが早くもリーダーシップを発揮して、バンドはかのザ・ローリング・ストーンズとなっていきます。ところがディックもキースもブライアンもギタリスト、バンドに3人ギタリストはいらねえべ、とブライアンはディックにベースを任命したのです。これをディックは「降格」と受け止め、むっとしながらも1年間創成期ローリング・ストーンズのベーシストを務めますが、我慢ならず1962年脱退、翌1963年ダチでヴォーカリストのフィル・メイ(これもダートフォード出身、1944年生)と双頭リーダーで結成したのが、ザ・プリティー・シングス
 かたやフランス、1956年公開の映画『素直な悪女(Et Dieu créa la femme)』(ロジェ・ヴァディム監督) は、まぶしい裸身と扇情的で激しいダンスで男どもを狂わすブリジット・バルドーを一挙に世界のセックスシンボルにしただけでなく、その風光明媚な港と浜辺を有するサン・トロペを世界的セレブたちのリゾート地に変身させるきっかけとなったのでした。サン・トロペ半島の南側に位置するパンプロンヌの浜辺は7キロに渡る白く細いさらさらの砂の美しいビーチですが、1950年代当時、ここは人手の入っていない野生の浜でした。ここに1959年に作られたビーチクラブハウスが 「レピ・プラージュ L'Epi Plage」で、このビーチハウスが国際的スターたち、アーチストたち、インテリ文化人たち、金はなくてもお祭り騒ぎやゲームごとが好きな風流人たちを集める先駆けとなった、と言われてます。このことに関してはラティーナ誌2019年8月号の向風三郎「それでもセーヌは流れる」に詳しく書いているので、そちらを参照していただくとして、その創立者のひとり、アルベール・ドバルジュ(1916-1971)についてだけちょっと書きます。若い頃は非常に優秀な薬学博士/研究者で、研究所〜製薬会社を設立、鎮咳シロップという大ヒット薬品を生んで大成功します。ヨーロッパ有数の大製薬会社にのし上がったところで、経営権を売り、自分は趣味のヨットとクラブ経営に専念。ハイソサエティなイヴェントの第一人者だったジャン・カステル(パリ6区プランセス通りの超セレブなレストランクラブ「カステル」創業者)と組んで始めたモンパルナスの「レピ・クラブ (L'Epi Club)」の成功に続いて、まだ未開発だったリゾートビーチのパンプロンヌに注目、パリのレピ・クラブのセレブ客たちを夏場にごっそりサン・トロペに転地させるコンセプトで開業した海浜クラブがレピ・プラージュ。この成功の要因のひとつが世界的薬学博士アルベール・ドバルジュが文字通り「薬」のオーソリティーであり、質の高い(表向きに売買したり、嗜んだりしたらいけない方の)「薬」を入手供給できるルートを持っていた、ということもあるのです。それはそれ。セレブたちの集う前衛的で奇抜なイヴェントとセックスとドラッグのビーチレストランクラブ、レピ・プラージュはドバルジュの手腕で毎夏成功につぐ成功。
 この大金持ち遊び人経営者のアルベールの息子のひとりがフィリップ。甘いマスクのプレイボーイで、恋のハンター。サン・トロペの顔役でレコード王のエディー・バークレイは何人ものガールフレンドを従えることで有名だったが、そのバークレイが目をかけていた女たちと火遊びをしたというのでバークレイはこのフィリップと仲が悪かった(この話はあとで出てくる)。このプレイボーイ君の1968年当時の交際相手がフランス・ギャルだったとう。つまりクロード・フランソワとジュリアン・クレールの中継ぎ役だったのかもしれないですね。しかしこの青年は、プレイボーイとして成功することの他に大きな夢があり、それはロックスターになることなんでした。
 1967年夏、レピ・プラージュは「サイケデリック・ナイト」というイヴェントを開いていて、その時にライヴを行ったのがソフト・マシーンでした。この環境で陶酔するロックというのはそういうものであり、フィリップもまたそれこそがロックだと思っていたフシがある。そういうロックスターになりたかったフィリップが心酔していたバンドが、ザ・プリティー・シングスだったのでした。
 で、大金持ちの息子フィリップ・ドバルジュはかのバンドとコンタクトを取り、アルバム制作を提案します。作詞作曲編曲はすべてプリティー・シングスが行う、リードヴォーカルは全曲フィリップ・ドバルジュが担当する、録音・制作・商業化・宣伝にかかる費用はすべてドバルジュが負担する...。つまり、金に糸目をつけず、当時のブリティッシュ・ロックの第一線バンドを使って即席に国際的ロックスターに成上ろうという魂胆だったわけ。 普通プライドのある有名バンドならば、こういうの受け付けませんよ。
 ところが当のバンドはその頃危機的な状況にあった。1965年ファーストアルバム『ザ・プリティー・シングス』(ボ・ディドリーとチャック・ベリーのカヴァー多し)はそこそこ売れたものの、R&B路線からガレージ/サイケ路線に変えたが売れず、勝手にオーケストレーションを変えるレコード会社(サードアルバム『エモーションズ』1967年)とのトラブルを超えて、やっと完成させたアビーロードスタジオ録音の自信作『S.F. ソロウ』(1968年。ザ・フー『トミー』に先立つ初の本格的ロック・オペラアルバムと言われる)が、プレスの熱狂的評価にも関わらず全く売れなかった。このショックで創立リーダーのひとり(冒頭に書いた)ディック・テイラーが離脱。バンドは困窮し、変名(エレクトリック・バナナ)をつかってホラー映画やポルノ映画のサントラを録音して日銭を稼がなければならないほど。こんな時にフィル・メイに飛び込んできた大金持ちのボンボンからのプロポーザル、受けないわけにはいかないじゃないですか。そして会ってみると、フィリップは音楽センスも悪くなく、ヴォーカリストとしての魅力もあり、スター性のあるルックスも。そこでフィリップはバンド全員 ー プリティー・シングス史上ではかなり変則的なフォーメーション:フィル・メイ(ヴォーカル)、ウォーリー・ウォーラー(ベース)、ジョン・ポヴェイ(キーボード)、ヴィクター・ユニット(リードギター)、トゥウィンク(ドラムス)ー をサン・トロペに招待、1週間滞在させ、王侯貴族あつかいの接待をするんですな。太陽さんさん風光明媚なビーチ、美しい女性たち、新鮮な海鮮料理、極上のロゼ・ワイン、シャンパーニュ、超豪華ヨットクルージング、ポルシェ/フェラーリ/ロールスロイス乗り放題、そして極上のドラッグ。デビューしてこのかた"ロックスター”扱いなどされたことのない彼らはすっかりこの金持ちのプレゼントに魅了されてしまったわけです。
 その数週間後、フィリップはロンドンに飛び、プリティー・シングスとマーブル・アーチの録音スタジオに入り、6日間でアルバムを録音します。
 そしてサン・トロペに戻り、彼のショービジネス界のコネクションを使って、このアルバムを世に出そうとするのですが...。一説ではレコード界の巨魁エディー・バークレイが徹底的に邪魔したと言われてますが、どの会社もこのアルバムを受け付けようとしないのでした...。

 1971年アルベール・ドバルジュはドラッグその他の大スキャンダルで逮捕され、裁判の始まる前1972年の仮出所中にライフル銃を口にくわえて発砲し、自殺します。無一物となった息子フィリップも1999年に同じようにライフル銃自殺。
忘却の彼方にあったこのフィリップ・ドバルジュ+プリティー・シングスの幻のアルバムは、40年の眠りから覚めて2009年、フィル・メイとウォーリー・ウォーラーによって初めて製品化(CD化)されます。アルバムタイトルは『ザ・プリティー・シングス/フィリップ・ドバルジュ』。1969年オリジナル録音の12曲に加えて、プリティー・シングスによるフィリップ・ドバルジュへのオマージュ曲 「ムッシュー・ロック(バラード・オブ・フィリップ)」を新録音して追加してますが、その曲には(その後元の鞘にもどった)ディック・テイラーも参加しています。
 さらに2017年、アルバムタイトルを『ロック・サン・トロップ』 と変え、ジャケットを当時のレピ・ブラージュを象徴する常連客スター、ジョニー・アリデイとブリジット・バルドーとギターを持ってくつろぐフィリップ・ドバルジュのスリーショットに変えた新装復刻盤が英国のプログレ/サイケ復刻専門レーベルMADFISHから出まして、わが手元にあるのはその盤です。16ページブックレットには貴重レア写真たくさん。ファンには涙ものでしょうけど、音楽の方は当時のザ・フー、ピンク・フロイド、ザ・ムーヴ... あの頃のサイケだなぁ、という漠然とした印象しか持ちませんでした。売上はともかくそのクリエイティヴィティーの頂点にあったバンドが大金持ちに魂を売った、という余計な情報が頭をよぎるからでしょうね。ごめんなさい。

<<< トラックリスト >>>
1. Hello, how do you do
2. You might even say
3. Alexander
4. Send you with loving
5. You're running you and me
6. Peace
7. Eagle's son
8. Graves of grey
9. New day
10. It'll never be me
11. I'm checking out 
12. All gone now
Bonus Tracks
13. Monsieur Rock (Ballad of Philippe)
14. Lover
15. Silver stars

PHILIPPE DEBARGE WITH THE PRETTY THINGS "ROCK ST TROP"
MADFISH RECORDS CD/LP 2017

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)復刻盤『ロック・サン・トロップ』のティーザー (フランス・ギャルとツーショット写真多用)