2022年4月18日月曜日

プシケデリックな浜辺

(←ブリジット・バルドーとジョニー・アリデイ、1967年サン・トロペ/パンプロンヌの砂浜)

になると地中海が見たくなる。フランス滞在四十余年、貧乏自営業者(現役時代)の分際で、マリンスポーツなどと全く無縁でありながら、私は毎夏のようにコート・ダジュールに滞在した。短ければ3日間、長くても最長で2週間、とにかくすべてが高価なところなので、とてもそれ以上は居られないが、私はコート・ダジュールの夏が好きでたまらない。旅行の経験が乏しくよそのことなどまるで知らない私だが、私にとっては夏そこにいれば世界で最も美しい海と太陽が保証されている。私はほぼ何もしないで日がな一日犬と浜辺にいる。なんという幸せ。経験上言っておくが、これがブルターニュや大西洋岸やマルセイユ以西の地中海岸だったらそんなわけにはいかないのだ。おもに太陽のせい。
 本題のサン・トロペであるが、私はほとんど知らない。5〜6度足を踏み入れた旅行者程度の縁である。かりそめにも音楽業界に身を置いていたので、スター/セレブ/富豪/芸術家たちの宴とご乱行についてはいろいろ聞いてはいた。60年代、イビサやモロッコと同じようにドラッグ入手が比較的容易と言われていた土地柄、サン・トロペは宴好きのアーチストたちにとって理想的な人工の天国だったようだ。2019年6月に出会った一冊の本『レピ・プラージュ』(フレデリック・モーシュ著、ピグマリオン社刊)は、60年代に世界中のジェットセットを招き入れ栄華をきわめたサン・トロペのビーチクラブハウス「レピ・プラージュ」の驚くべきドキュメンタリー本であった。私はこの本をベースにして雑誌記事を書いた(音楽誌ラティーナ2019年8月号掲載)。これはすごい場所だったのだ、と思いながら一気に書き上げたが、読者からの反応はまったくなかった。(私の『それでもセーヌは流れる』は、シャンソン関連の記事を除くと、全くと言っていいほど読者の反応がないのが常で、寂しい思いをしていた)。もう一度読んで知ってほしい、サン・トロペはある種の人々にとってサイケデリック・リームの竜宮城だった、ということを。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年8月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


60年代サン・トロペの栄華と退廃
伝説のクラブハウス「レピ・プラージュ」

(in ラティーナ誌2013年11月号)

 161510月、伊達政宗の命を受けた慶長遣欧使節支倉常長(はせくらつねなが ↑肖像画)の一行はスペインからローマ法王庁へ向かうべく海路バルセロナからジェノヴァ目指して出航したが、途中で嵐に遭い、やむなく寄港したのが南仏の小さな漁村サン・トロペであった。これが歴史上、フランスの地を踏んだ最初の日本人であった。支倉らが着物の懐中から懐紙を出して洟をかむのがたいそう珍しがられ、サン・トロペの村人たちが日本人が道に捨てた鼻紙を拾い集めた、と当時の記録に残っている。

 それから三百有余年、サン・トロペは同じような小さな漁村であり続け、近隣のニース、カンヌ、モナコのような豪奢なコート・ダジュール保養地の喧しさとは無縁の静けさを保っていた。それを一転させたのが、1956年のブリジット・バルドー主演映画『素直な悪女』(ロジェ・ヴァディム監督)であった。この映画はまぶしい裸身と扇情的なダンスで男たちを狂わせるBBを一躍世界のセックスシンボルにのし上げただけでなく、風光明媚な港と天国的な青い海と白い砂の浜を有するサン・トロペに世界的セレブたちを引き寄せるきっかけとなったのである。

 サン・トロペ半島の南側に位置する海岸線長さ7キロの白い砂の浜辺パンプロンヌはそれまでそこに至る道路もなかったほどの未開の地であったが、1959年、忽然と一軒のビーチクラブハウスの建設が始まる。名はレピ・ブラージュ(LEpi Plage)。この時から毎夏このビーチがパーティ好きな芸能人、知識人、ファッション人などのセレブリティーの聖域となる。エレガントさと奇抜さの極み、アーティでサイケデリックな饗宴は60-70年代を通じて世界中のジェットセット族をこのクラブに惹きつけることになる。
(↓ 1960年当時のレピ・プラージュ航空写真)

 レピ・プラージュの創始者はジャン・カステルとアルベール・ドバルジュの二人。共に当時40代。カステルは様々な職業をこなしてきたが、夜のイヴェント/パーティーのオーガナイザーとして才能を発揮し、パリのパーティ好き人種たちから高く評価され、ナイトクラブなどを任されパリの夜の王になっていく。62年開店のレストランクラブ「カステル」が特に有名。かたやドバルジュはブルジョワ出身の薬学博士・研究者からパリ株式市場に上場の製薬会社のトップになった金満家。お祭り男のようなカステルと切れ者の成長企業社長のドバルジュ、畑の違う二人だが共通点は二人ともヨットマンで夜のパーティ中毒だったこと。ヨットクラブのバーで意気投合した二人は、1957年企画カステル+出資ドバルジュのチームでまずパリのモンパルナス大通りの冴えない地下キャバレーを買い取り、ジャズクラブを開業する。ここは地上一階に深夜も営業する食品店(エピシエ)があり、地下の客たちが欲しくなれば上に昇って良質のワインや腸詰類を調達できるというシステム。エピシエとクラブの合体、その名も「レピ・クラブ(LEpi Club)」という。音楽はジャズ、生まれつつあったロックンロール、そしてリズム&ブルースという最新のリズムとダンス。これが大当たりし、パリ中の先端文化人や芸能人たちで毎夜賑わうことになる。

 しかしこの盛況は夏が来るとパタっと止まってしまう。夏ヴァカンスはパリを過疎地と化す。カステルとドバルジュはレピ・クラブの熱狂を夏の間どこかに転地できないかと考える。白羽の矢が立ったのが、ブリジット・バルドーでイメージを一変させたサン・トロペ。港(市街地)から7キロ離れた半島の南側に4キロ続く三日月型の砂浜、未開で野生の状態にあった海岸線に約100メートル四方の土地を購入した。二人のヨットマン(海の男)のイメージしたのは無人島の砂浜に座礁した海賊船であった。見渡す限り砂浜と青い海ばかり、船倉には飲み物食べ物がたらふくある、どんなに騒々しい宴をしようが、隣宅など周囲に気を使うことはない。こんなコンセプトでレストラン、バー、遊戯施設、クラブハウス、藁小屋などを砂丘から波打ち際まで点在させる。そして生粋のパーティー野郎であるカステルが昼からさまざまなイヴェントで客たちを熱狂へと煽る。豪華バーベキュー、砂丘ラリー、仮装パーティー、ボディペインティング、クリームパイ(タルト・トロペジエンヌ、50年代から土地の銘菓)投げ合戦、リンボーダンス..60年夏の開業からレピ・プラージュはパリのレピ・クラブの常連客だけでなく、コート・ダジュールの先端人たちをごっそりこのビーチに連れてきたのである。


 紹介が遅れたが、本稿はこの6月に出版されたフレデリック・モーシュ著『レピ・プラージュ』(ピグマリオン社刊)という件のビーチクラブハウスの栄枯盛衰を綴ったノンフィクション本をベースに書いている。著者は1972年から2018年までレピ・プラージュのオーナーだった夫婦の長男であり、内部を一番知っている者の証言であるが、この種の本にありがちな「うちこそがパイオニアで本物で現象の中心」的な自画自賛の記述も少なくない。だがこのクラブの1971年までの歴史の記録は、フランスと世界の音楽、映画、文学、風俗の突出した部分がどれほどこの夏のビーチの小宇宙に凝縮されていたのか驚かされるものがある。シクスティーズのエレガンスとデカダンスの縮図である。
最初の2シーズン、本物のサーカスや闘牛をビーチで開催するなど奇抜なお祭り遊び感覚で最高にレピ・プラージュを盛り上げたジャン・カステルだったが、その過度の大盤振る舞いに出資者アルベール・ドバルジュが青ざめ、カステルをパリに戻し(自身の店「カステル」に専念させ)、63年夏からは資産家ビジネスマンのドバルジュひとりが舵取りとなる。モザイク張りの豪奢なプールとテニスコートと個室バンガローを増やし、ガレージには客用にフェラーリやマセラッティなどのスポーツカーを常備し、セレブたちが一般人の不躾な視線を恐れることなく半裸・全裸で自由な夏を楽しめる要塞のようなプライベートビーチとなった。浜辺とレストラン施設の中間に位置する砂丘の窪地は「ポワル・ア・フリール」(フライパン)と呼ばれ、女性たちが裸身を太陽で焦がす名所となり、モデルや女優たちに混じってクロード・ポンピドゥー(首相→大統領夫人)の姿もあった。60年代の性風俗の最前線であったコートダジュールの浜辺は人目憚らぬ裸体が市民権を得ていくのだが、レピ・プラージュでも「バン・ド・ミニュイ」(真夜中の水浴)は有名人たちが全裸で海水に飛び込んでいったものだ。(↓写真アルベール・ドバルジュ)

 ドバルジュが運営するようになってから、派手なお祭り騒ぎの回数は減ったものの、客層の厳選性は強まりセレブたちのプライバシーは鉄壁のものになった。同時に浸透の度合いを深めていったのがドラッグとセックスだった。レピ・プラージュにLSDを持ち込んだのは、61年夏に滞在したビートニク詩人アレン・ギンズバーグであり、そのLSDとアンフェタミンのトリップを共にしたのがアルベール・ドバルジュ自身であり、以後ドバルジュがヘヴィー・ドラッグに染まっていく。そのギンズバーグが常連客の中で最も意気投合したのが同じようにジャンキーだった作家フランソワーズ・サガンだった。因みにサガンの小説『ブラームスはお好き』の映画化作品『さよならをもう一度』(1961年アナトール・リトヴァグ監督イングリッド・バーグマン主演)には、パリのレピ・クラブが登場し、サガン自身も出演している。レピ・プラージュの常連にはサガンの兄、ジャック・コワレもいたが、この男をドバルジュはたいそう重宝がっていて自分の製薬会社の重役にしたこともある。彼には裏の顔があり、パリの秘密高級コールガール組織の女ボス「マダム・クロード」に仕えて新人コールガールの発掘と育成をしていた。ドバルジュは彼にサン・トロペで同じことをさせ、レピ・プラージュ用のガールズをかこい、ドラッグ漬けにして逃げないようにしていたらしい。レピには陰の部分多し。


 サン・トロペのシンボル、ブリジット・バルドーもレピに欠かせないVIP常連であり、彼女のいくつかの恋もここで生まれている。ロジェ・ヴァディム→ジャン=ルイ・トランティニャン→ジルベール・ベコー→サミ・フレイと次々に男を変えたのち、レピ・プラージュのお抱えイヴェントスタッフのボブ・ザギュリーと恋に落ち、この関係は3年続いている。その同じレピ・プラージュのVIP常連でドイツの大富豪ギュンター・ザックスが、ヘリコプターから1万本のバラを浜辺に投下してプロポーズしてバルドーの心を射止めたのが1967年。座を譲ったザギュリーは1968年に1時間のテレビ番組「ブリジット・バルドー・ショー」を制作し、レピ・プラージュでジタンのギタリスト、マニタス・デ・プラータに聞き入るバルドーのシーンなども登場するが、この番組のために「コミック・ストリップ」、「ハーレイ・ダヴィッドソン」などを作曲し激しい恋に落ちたのがセルジュ・ゲンズブール。

 レピ・プラージュの青いモザイクのプールの端のパラソルの下で、目の前で展開するセレブたち男女の誘惑劇にインスパイアされてアラン・パージュが書いたのが映画『太陽が知っている(La Piscine)』(1969年ジャック・ドレー監督)のシナリオだった。映画はレピから数キロ離れたところで撮影されるが、アラン・ドロン、ロミー・シュナイダー、ジェーン・バーキン、モーリス・ロネ主演の性と欲望と嫉妬の四角関係の衝撃作で、50年経った今日もドロン/シュナイダーの超セクシーなプールシーンは伝説である。(↓『太陽が知っている』予告編)

 そのドロンもレピの重要顧客のひとりで、滞在中ドバルジュはドロンの良き相談相手でもあった。68年頃、ドロンには悩みがあった。それは2年前から雇っているボディーガードであるステヴァン・マルコヴィッチ(ユーゴスラヴィアからの政治亡命者)をなんとか厄介払いできないか、ということだった。マルコヴィッチはドロンに付いて何度かレピにも滞在したのだが、その間にレピを舞台にしたドロン夫妻の乱れた交友関係やポンピドゥー首相夫人(当時)の火遊びなど”良からぬ“情報や写真を多く握ってしまい、それをネタに本人たちにゆすりをかけようとしていると言う。下手をすると政財界も関わる大スキャンダルになるかもしれない。ドロンにはコルシカ系のギャング組織との繋がりもある。そんな中、196810月、パリ郊外でステヴァン・マルコヴィッチのバラバラ死体が発見されるのである

 カトリーヌ・ドヌーヴと姉のフランソワーズ・ドルレアックもレピの常連であったが、19676月、レピ・プラージュのバンガローに宿泊していたドルレアックが『ロッシュフォールの恋人』のロンドンでのプレミアショーのためニース空港に向かう途中、交通事故で亡くなっている。25歳だった。


 その677月、レピの特設テント劇場でパブロ・ピカソ作のハプニング劇『しっぽをつかまれた欲望』が初上演され、英国のサイケデリックロックバンド、ソフト・マシーン(→写真サン・トロペで演奏するソフト・マシーン)が音楽で参加している。イヴェントは強制中止の要請を受けた警官隊が出動する騒ぎとなるが、LSDを決めた若者たちはこのサイケデリックの宴を大熱狂のうちに成功させている(この後ソフト・マシーンの豪人ギタリスト、デヴィッド・アレンが英国に再入国できなくなり、フランスに残ってゴングを結成することになる)。

 レピがその敷地内でドラッグを自由に服用する「人工の天国」(ボードレールの表現)となっているという噂は既に高かった。薬学博士で大製薬会社のトップにあったアルベール・ドバルジュがその地位を利用してルートで純度の高い「極上もの」を仕入れているという評判であった。これが見逃されるわけはない。しかしサン・トロペの帝王ドバルジュの奢りは恐れを知らず、69年の夏、21歳のダンサー、ジョジアンヌと再婚の大パーティーを1週間がかりでサン・トロペ全市のホテル・レストランを貸し切る規模で開催する。貸切のジェット機とヨットで世界からVIPたちを招き、カマルグのジタンの馬術団とルンバ・フラメンカの楽団を余興に、政財界の要人たちや共和国判事まで祝宴に興じさせた。実際その判事が目の前で見たものはドラッグの狂宴(ウェディングケーキにLSDが混入していた)と未成年のコールガールたちであり、当局が捜査に踏み切るまで時間はかからなかった。
 
 栄華と退廃の名を欲しいままにしたアルベール・ドバルジュはその頂点で自ら墓穴を掘り、71年麻薬、未成年売春組織、脱税などの容疑で逮捕されすべてを失う。上に述べたマルコヴィッチ事件の他、芸能界政財界に関係する種々の醜聞事件への関与も疑われていたが、多くの秘密を抱えたまま、7211月、裁判前の仮釈放中にライフル銃を口に咥えて自殺してしまう。

 世の常でこれほどの悪名もいつしか人々は忘れてしまい、人手に渡ってレピ・プラージュは別のストーリーを生き続け今日に至っている。毒とエレガンスと退廃と快楽の似合う太陽の浜辺には今も変わらず人々は訪れ続け、これがアートや狂気の愛が生まれる現場だったと懐かしむ。売れない頃サン・トロペ港のカフェの前でギター流しをしていたデヴィッド・ギルモアが加わったピンク・フロイドもレピの常連になっていったが、71年のアルバム『おせっかい』には「サン・トロペ」(詞曲ロジャー・ウォーターズ)という歌があり、今もサン・トロペのテレビルポなどのバックによく使われる。

   As I reach a peach
   Slide a right down behind
   The sofa in San Tropez


 人工の天国が身近だった土地と時代の音楽であるが、味わったこともないのに私たちが覚えてしまう郷愁は一体何なのだろうか。


(ラティーナ誌2019年8月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


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関連して、アルベール・ドバルジュの息子、フィリップ・ドバルジュがロックスターを夢見て英国のプリティー・シングスとの共演アルバムを制作したエピソードを紹介した記事(↓)あります。併せて読んでください。

プリティー・シングスとサン・トロペ                                     

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