Mais c'est la mort マルシア、 Qui t'a assassinée Marcia あなたを殺したのは死神 C'est la mort マルシアを Tu t'es consumée Marcia 焼き尽くしたのは死神 C'est le cancer あなたが Que tu as pris sous ton bras 自分の腕で抱いてしまったのはガン
2007年11月、フレッド・シシャンの命を奪ったのもガンだった。53歳だった。その3ヶ月前2007年8月、レ・リタ・ミツコはわが家の対岸のサン・クルーのロックフェス「ロック・アン・セーヌ(Rock En Seine)」に出演していて、私と妻と娘の3人はそのライヴをおおいに楽しんだのだが、それがレ・リタ・ミツコの最後のステージになった。その2007年夏、向風三郎は『ポップ・フランセーズの40年』というガイド本を執筆していて、その中でレ・リタ・ミツコは2曲で紹介されている。ポップ・フランセーズと私が呼んでいる音楽の最良のアーチストなのだから当然だ。一つは「マルシア・バイーア」(1985年の項)、もう一つは「セ・コム・サ」(1987年の項)。両方とも向風は力込めて書いている。われながらよくあんな文章書けたものだと驚いている。以下に「セ・コム・サ」の項を再録する:
レ・リタ・ミツコのアルバム『ザ・ノー・コンプレンド(The No Comprendo)』(1986年9月発表)はそのアートの頂点であった。カトリーヌ・ランジェ、フレッド・シシャン、トニー・ヴィスコンティの3人の溢れ出るアイディアが最も突出した形で表現された奇跡のアルバムである。このアルバムの録音の模様はジャン=リュック・ゴダール監督映画『右側に気をつけろ(Soigne Ta Droite)』(1987年)で見ることができる。連続してシングルカットされた「アンディー(Andy)」、「セ・コム・サ」、「レ・ジストワール・ダ(Les Histoires d'A)」はすべてメガヒットになった。まさにレ・リタ・ミツコの恩寵の時期であった。 「セ・コム・サ」のヴィデオクリップはジャン=バチスト・モンディーノ制作で、CGアニメやコマ早回しなどをふんだんに駆使した童心あふれる作品で、おそらくモンディーノの最高傑作のひとつに挙げられるだろう。そして「セ・コム・サ」のサウンドはタイトルが示すように、問答無用、るせえ、文句あっか、の快速ロックンロールである。 歌詞はカトリーヌのふてぶてしい歌唱にも関わらず、やむにやまれぬ欲求のようなものを喚起していて、ひょっとしてこれはドラッグかなとも聞かれるきらいがある。しかし勢いは「出て行く女」のそれで、あんたのことは捨てたくないんだ、あんたと終わりにしたくないんだ、と言いながら、道祖神に吹かれて、セ・コム・サとバッサリ結論する。ほとんど意味はないが文句を言わせない迫力の勝利だ。私のレ・リタのベスト・トラックである。
その日常生活ウォッチャーの男がある日自宅アパルトマン建物の入り口にある住民共同掲示ボードに貼り出された「生まれたてのオウム差し上げます」の告知に目が止まる。 好奇心からその建物6階の告知主のドアを叩く。戸口に出てきた住人の老人は、要件をやりとりするひまも与えず、アルバンの手のひらに嘴の大きな生まれたての(羽根の生えていない)雛鳥を置き、注射器と植物性ミルクのパックを手渡し、これで一日に3度授乳するように、と。口早に老人から与えられたこの雛鳥に関する驚くべき情報:名前はジョー(Jo)、種類は "gris du gabon = オウム目ヨウム科”、ただしこの鳥種は2016年から絶滅危惧種としてワシントン条約で輸入商業取引が全面的に禁止になり、一般人がペットとして飼うことはできなくなった。見つかれば没収され、飼い主は処罰を受ける。だから、ジョーが病気になっても獣医には連れていくな、と。万が一、見つけられた場合には、「道で拾った」としらばっくれろ、と。そして寿命が人間と同じほど長く、飼うのは一生のつきあいと思え、と。アルバンはそれらの情報にさすがにビビってしまうのであるが、しかしそれよりも彼の手のひらから伝わってくるこの小さな生命の微動と温度に、これまで感じたことのない温情の昂まりを覚えてしまうのである。So you don't have to worry, worry, 守ってあげたい。父性なのか、母性なのか、親性なのか、(世の掟を破ってでも)この子を育て、この子と生きる、という選択は瞬時のうちに決定されてしまうのである。 アルバンはインターネット上からこの鳥に関する集められる限りの全ての情報を集め、アパルトマンにこの子の生きられる環境を整えてやる。小説はさながら”シングルファザー子育て奮闘記”(cf 辻仁成)のような様相を帯びてくる。人間と同じほどの寿命の長さを持つこの鳥とのつきあいは人間の育児の時間と同じほどの時間と労力を要することになるが、人間の子育ては、”物心がつくまで”、”自分で何でもできるようになるまで”といったピリオドで手間がかからなくなり、”独り立ちして親離れする”という段階で解放される。ところが西アフリカの自然環境からかけ離れて人間社会の中で出現してしまったこの子には、”独り立ちして巣立つ”という段階が最初から欠落している。この子を育てるとは、この子と一生を共にし、お前百までわしゃ九十九まで、というパースペクティヴで考えなければならない。ペットのことをフランス語ではいみじくも”animal de compagnie(アニマル・ド・コンパニー = 同伴動物)”と表現するが、アルバンは同じ建物に住む見知らぬ老人から、瞬時にして「これがあんたの一生の同伴者だ」と託され、それを瞬時のエモーションで受諾してしまった、という何とも魅力的な不条理文学を思わせる始まりだったのだ。だがこの小説の時間は”一生”は続かないのである。 エキスパートではない、鳥類学者ではない、と文中で断りながらも、この小説はこの鳥のさまざまな生態の特殊さを開陳してくれる。一般的によく知られていることではあるが、この灰色オウム(日本で”ヨウム”と呼ばれているということは私、初めて知りましたよ)の知能の高さである。人間の言語や物音を模倣再生する。オウムが喋る? どうだろうか。その模倣再生は何よりも「聴くこと」ができるからである。このことについてノトンブはこう描写している。
これが人生というもの。あなたの子供はあなたをもはや愛さなくなる時まで愛し続ける。そのために子供に正当な理由づけが必要になれば、子供はその理由を見つけられる。恩知らずと言うか? この世界の列強権力国がいつから恩義を守るようになったと言うのか? 愛は当たり前に与えられるものではない(L'amour n'est pas un dû)。
時間軸と逆に、それより後で知ることになった1999年のアルバム(この時既に”20周年記念”アルバムだった)『パンパリゴッサ Pampaligossa』(”パンパリゴッサ”とはラブレーの『ガルガンチュア物語』、アルフォンス・ドーデの『風車小屋だより』、ノーベル賞詩人フレデリック・ミストラルの詩に登場するオクシタニアの想像上の理想郷)は、その茶目っ気たっぷりのジャケットアート(→)とは裏腹に、次作『民よ、わが民よ』の数倍もラジカルで実験的でハチャメチャなアルバム(これにもマッシリア・サウンドシステムが大きく関わっている)だった(YouTubeリンクを貼ったので聴いてみてください)。 実を言えば、当時(つまり2003年〜2005年頃)私たちがラ・タルヴェーロに抱いていた興味というのはもっぱらこのラジカルさだったようなキライがある。”南フランス深部から世界を射つラジカルな民謡パワー”みたいな。”レゲエ、ブラジル、ポルトガル、ブルターニュ、エレクトロニクスと過激にミクスチャーするオクシタニア”みたいな。オクシタニアのアヴェイロン県ラルザック軍用地反対闘争(1971年〜81年、反対派の勝利!)を現地で戦い、ジョゼ・ボヴェの反グローバリゼーション運動に連帯していたダニエルが、闘士肌丸出しのオック語歌詞で地方と中央の政治を糾弾し、Un autre monde est possible (もうひとつの世界は可能だ)とアルテルモンディアリストなメッセージを南仏の田舎から世界に発する、これが私が勝手に描いていたオクシタン・ムーヴメントの音楽だった。それにはなによりもラジカルでなければならなかったのだね。音楽よりも”ムーヴメント”や”社会性”に興味を持ってしまう悪い性分。
日本盤の『民よ、わが民よ』は発売20数年後の今日、まだ在庫があるらしい。話題にならなかったし、高く評価もされなかった。それはそれで仕方がない。その後のラ・タルヴェーロのアルバムも、日本に紹介しようと努力はしたのであるが、なかなか”純オリジナル”の闘士型アルバムが出てくれなくて、「子供向け」として制作された”Quincarlet"(2005年)、トラッドの採譜レパートリー集”Cants e musicas del país de Lodeva”(2006年)... とか私自身が食指が伸びないアルバムが続いて...。闘争メッセージの曲が多かった2007年の『ブラマディス』は私が歌詞訳して日本盤が出たらしい。その後のアルバムは(子供もの、純トラッド採譜もの、ダンス教習ものを除いて)爺ブログはちゃんと紹介しているはず。『ソパック・エ・パタック』(2009年)、『ソレルー・ソレライール(さんさんの太陽)』(2014年)、『A Tu Vai (ごたくはたくさんだ)』(2020年)など、私の紹介にも力が入っている(が、それほど読まれていない)。その途中で、2011年から12年にかけて、ブラジル・ノルデスティ(ペルナンブーコ)の代表的アーチストのひとり、シルヴェリオ・ペソアとのジョイントプロジェクト"ForrOccitania"(フォホオクシタニア)のアルバム制作と(フランスとブラジルの)ツアーという出来事もあった (←私このツアー見ていない)。 で、正直なところ、ー ロッドーの歌詞の上の闘士気質は衰えていないのだけど ー あの2003年当時のラジカルさはどんどん薄くなっているなあ、というのが偽りのない印象。思えば、あの当時フランスのメジャーのレコード会社から作品を発表していたファビュルス・トルバドール(クロード・シクル)も、音楽シーンでの登場はほとんどなくなってしまったし、まだまだ元気なマッシリア・サウンドシステムでもたまにやるツアーの規模も、会場の器もどんどん小さくなっていった。みんな私と同世代。ダニエルは私と同い年、クロード・シクルはちょっと上、タトゥー(マッシリア)はちょっと下、だけどみんな70代である。人が老いていくことはしかたないことではあるが、Time waits for no one. 女性のことで失礼を覚悟で言えば、可憐な野鳥のようだったセリーヌ・リカールは貫禄の「大地の母」になってしまった。 2025年10月、ラ・タルヴェーロは長年バンドの重鎮だったクラリネッティスト/サクソフォニストのファブリス・ルージエ(Fabrice Rougier)を失い、2026年1月に追悼コンサートを行った。その同じ月、バンドはタルン県のラカーズ城(Château de Lacaze 15世紀建造)のオーディトリアムを5日間借り切り、バル(オクシタニアのバル・トラッドは Balèti バレティと呼ばれる)でのライヴ演奏と同じ条件(ダニエルの言葉では、一切の”frlabiaque = 南西フランス/オクシタニア地方の俗語表現で小細工”なし)でレコーディングしたのがこのアルバム『バレティ・ブルース』であり、アルバムはファブリス・ルージエに捧げられた。そしてジャケット写真およびヴィデオクリップはタルン県ラバルト=ブレイ(Labarthe-Bleys)村にある赤土のマラヴァル砂丘(Dunes de Maraval ↓)で撮影された。
オーガニックな女性上位。 元始女性は太陽であった。この4人がバレティで老若男女をダンスの陶酔へと誘っていく。 8曲目 "La Ressegaira"のヴィデオクリップ(↓マラヴァル砂丘で撮影)
11トラック48分。11トラックと言っても、2曲をメドレーにしたトラックが3つあるので曲数では14曲ということになるのかな。採譜トラッド曲もロッドー作オリジナル曲もほとんどが既発のCDアルバムに収められていた(ダンス)楽曲で、これは一種のラ・タルヴェーロの”ベスト・オブ・バレティ”選曲のアンプラグド・ライヴ再録音集。しかしながら、曲によってはダニエルが新しい詞に変えてある。世情を見て黙っていられないタチなので、ダニエルは言う。例えば上にヴィデオを貼った "La Ressegaira"というブーレ曲は、2000年に発表した"Fabuem Ribòta"(アルビジョワ、ルエルグ・ケルシー地方のオクシタンダンス曲集)というアルバムに収められているが、この新しいヴァージョンではこんな5行の詞の繰り返しになっている。
L’amor de la planeta 地球を愛する心を Lo nos cal ben servar 私たちは持ち続けなければ Lo nos cal ben servar 私たちは持ち続けなければ L’amor de la planeta 地球を愛すること La podèm pas trompar 私たちは裏切ってはいけない
<<< トラックリスト >>> 1. Viva las Sentantinas ! 2. Lo prumièr de mai 3. La passèm 4. Seguida de rigaudons 5. Tindelon / Lo menal 6. La femna del fabre (下に貼ったYouTubeは別録音のヴァージョンです) 7. Balada / Libertat liberdatde 8. La ressegaira 9. Lo Brisa pè 10. Pèire e Joan / Las bacinas 11. Farandòla dels Martins
La Talvera "Balèti Blues" CORDAE/La Talvera CD Tal24 フランスでのリリース:2026年7月
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)"La femna del fabre" 2021年撮影のクリップ。クラリネットでファブリス・ルージェ(2025年没)の姿も見える。
(↓)CORDAE / La Talveraも主催者となっている毎夏8月15日(祝日)の頃に2日間コルド・シュル・シエルで開催されるFèsta Occitana(オクシタン祭り)。その2025年版の模様を収めたクリップ。
James Taylor "Don't be sad 'cause your sun is down" これも友人の送ってくれたカセットから。そのカセットにはJTの2枚のアルバム『ゴリラ』(1975年)と『イン・ザ・ポケット』(1976年)がコピーされていて、どっちも聴き込んだけど後者が好き。前記事でも引用した「シャワー・ザ・ピープル」も至福の名曲。この"Don't be sad..."はスティーヴィー・ワンダーとの共作の歌で、スティーヴィーのハーモニカも入っている。スティーヴィーが大好きだった時期だったんだなぁ。「太陽が沈んでも悲しまないで」ー 私のいた学生寮の南側の窓からは、サマータイムのフランスのいつまで経っても沈まない太陽がよく見えた。そして21時過ぎてやっと沈んでいく太陽の最後の光が消えても世間様はまだまだ明るくて。なかなか終わらない一日、その暮れ方が好きだった。歌詞の最後の But especially today I'm feeling blueもジーンと来る暮れ方だった。
Peter Frampton "Do you feel like we do" 1976年の全米No.1アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ !』は、市内の百貨店ヌーヴェル・ギャルリーのレコード売場でカセットを買った。フランスでオーディオカセット、ミュージックカセットが、"K7"(アルファベットの"K"と数字の"7=sept" 、カ・セットと読む)と表記されるようになったのは1970年代だそうである。当時私は気がつかなかったが、後年音楽業界で働くようになってから、日本の同業者に、この”K7"って何なの?とよく聞かれた。それはそれ。ダブルアルバムで所収時間が80分のロングプレイカセット、聞くのは1曲だけ、最後の14分15秒の大曲「ドゥ〜ユ〜フィ〜〜ル...」これしか聞かない。これはわが部屋に来た連中が喜ぶんだぁ。14分間おごそかに聞いているわけではない。あの当時"エア・ギター”なる言葉は存在しなかったのに、みんなやっちゃうんだね、弾き真似を!そしてあのトークボックスの音の口真似!盛り上がったなぁ、楽しかったなぁ...
Marie-Paule Belle "La Parisienne" 前記事を書いている最中に、マリー=ポール・ベルの訃報(2026年7月25日没)が飛び込んできた。80歳だった。合掌。とは言っても私もこの「ラ・パリジエンヌ」という歌しか知らない。多くのフランス人もそうだろう。”一発屋”と言うのだろうか。派手なショービズ界とは距離を置いたシャンソニエ/キャバレー/ミュージックホール出身の正系のピアノ弾き語り”シャンソン”歌手で、ヒット曲と縁がなくなってもずっとそういう小屋で歌い続けていた生涯現役人。で、私がこの歌を知ったのは、76年大学夏季講座の上級者向け一般教養クラスで、ちょっとコケットなフランス人女性教師(私、大好きだった🖤)が、当時フランスで一番受けている大衆芸能として、コリューシュのスタンダップ芸(当時はスタンダップなる言葉はなかったのでいわゆる漫談)と、マリー=ポール・ベルの「ラ・パリジエンヌ」をカセットで聞かせたのね。私はどっちもさっぱり理解できなかったのに、クラス内でゲラゲラ笑う学生たちもいて...(悔しかった)。「ラ・パリジエンヌ」は後日テレビのヴァリエテ番組で見ることができて、あ、この人、京唄子に似てる!と思った。このいかにもレトロなベル・エポックのオペレッタ風(オッフェンバック、フレンチカンカン)は、田舎から首都に出てきた娘がファムファタルになりたいのだけれど、当世風パリジエンヌのようにアルコールもドラッグも嗜まないし、何のコンプレックス(都会女性ならではの複雑な悩み)もないし、パリジエンヌでないってことは実に困ったことだ(ça me gêne, ça me gêne サムジェヌ、サムジェヌ)と歌っているのね(当時はわからなかったけど)。レズ、色情狂、精神分析医通い.... さまざまな”尖んがった”最先端女性たちの生態を列挙して、こりゃかなわんけど、ファムファタルになるためには頑張らなくちゃ、という早送りシネマのようなコミカルソングだけど、根には70年代型フェミニズム礼賛というしっかりとした思想がある(と思う)。時間をかけて好きになっていった歌。こういうシャンソンというのはもうどこにもないと思うよ。もう一度マリー=ポール・ベルの冥福を祈る🙏
Véronique Sanson "Sad Limousine" あの夏だけではなく、私の一生涯通して最も多い回数聴いてきたアルバム『ヴァンクーヴァー』に関しては、この3月に2つの記事で詳説したので読んでみてください。そしてこの「サッド・リムジーン」という歌に関しても歌詞解題込みで「ここ」に書いてある。You drove me to the airport, in a sad sad limousine. 1976年6月29日東京、私にも出発空港まで見送ってくれた人あり。それはリムジーンではなく、羽田モノレールだったけれど。ああこの人は遠くまで行ってしまうんだ、とその人は思ったに違いない。
So bye... bye my friend goodbye (さらば わが友 さらば) I must face the road alone (私は一人で道に向かわなければならない) But I'll make it, I'll make it (でも私はその道を) I'll make it on my own (自分の道にしてみせるわ)
Banzaï et les Clodettes "Viva America" これはその秋からカーン市内で私と同じ下宿に住むことになる、仙台から来たブミ君が大好きだったのね。クロード・フランソワのバックダンサーチーム、レ・クロデット(Les Clodettes)のために親分クロード・フランソワがでっち上げたデタラメなラテン・ディスコもの。「嘆きのビンボー」(1974年)、「ブラジリア・カルナバル」(1975年)と同パターンの3匹目のドジョウだけど。ブミ君はあの頃日本人海外旅行者がみんな持ってた手帳サイズの「実用5カ国旅行会話集」をいつも持っていて、そのスペイン語のところから引いて、「Tengo fiebre ! (熱があります)」とか「¡Lléveme al hospital, por favor! (病院へ連れて行ってください)」とかデタラメにスペイン語をがなり立てて、「ああ ビバ・アメリカ! ああ ビバ・アメリカ!」と歌いつなげて、寮から学食までの道々、くりかえしくりかえし「ビバ・アメリカ!」を歌い、(スペイン語を)がなり、踊りながら行進するという芸当でウケていた。今思い出しても笑ってしまう。
- Ven ? conmigo a cantar "Viva America" - Ah aïe ! - Venga ! Venga ! Ah aïe ! - Asi ! ven cantado ! ven cantado! - Ah ah ! - Aïe! Un, dos ! Un, dos ! Un dos ! Un dos, un dos ! pero, que tanto ! - Ah ah ! Ahora ! Ahora ! Ah ! Ah Viva America ! - Viva America ! Ah Viva America ! Ah Viva America !
Boz Scaggs "Harbor lights" ボズ・スキャッグスの大ヒットアルバム『シルク・ディグリーズ』もサンソン『ヴァンクーヴァー』と競るほどたくさん聴いた。カーンの位置はノルマンディー海岸まで18キロの距離がある内陸である。一番近い大きな港はウィストレアムで英仏海峡フェリー船も発着するが、ウィストレアムからカーンまで運河が通っていて、カーンの町にも内港があってクルーザーやヨットが停泊している。その内港の岸にはシーフード・レストランや釣具店やバーが並んでいて、ちょっとしたヨットハーバーの風情がある。その内港のある運河(バッサン・サン=ピエール)の岸の広場(クルトンヌ広場)に毎日曜日、大きな市が立つ。いろんなものが売ってあって、その中に古本屋もあったのだ。私はそこでなんと”和英辞典”を見つけて(この町は昔から日本人学生が多かったのだなぁ)、値段は忘れたがとても安価で買ったのを覚えている。 ー パソコンもスマホもなかった時代、人が読み書きするのを最も助けてくれるのは辞書だった。仏和と和仏の辞書がなければそこで生きていけないと思ったほどだ。その夏、私はたくさんものを書いていたのだ(ボールペンで)。自分用に、勉強用に、他人用に。フランス語、日本語。手紙もたくさん書いていた。で、漢字がわからなくて書けなくなって、ああ、何で国語辞典を持って来なかったんだろう、と悔やんだ。ー 恋と言えるのだろうか、その夏、オーストラリアから来た娘に猛烈に恋慕していて、夏期講座のセッションを終えて、彼女はカーンを後にした。22歳の私は真剣に彼女の後を追って行こうと考えたり...。フランス語の下手な彼女は私とは英語でコミュニケーションしようとしていた。ところが私も英語は苦手だったのだよ。スマホもケータイもなかった時代、私と彼女の交信は”手紙”だけになった。運河沿いの市の古本屋で買った古い和英辞典がどれだけ役に立ったか。『シルク・ディグリーズ』は彼女も好きで、何度も一緒に聴いた。"Harbor lights"の出だしの "Son of a Tokyo Rose" (東京ローズの息子)って、あなたのことみたい、と言われた。日本人だから?そうじゃない。What does it mean ? ー 東京ローズというのは第二次大戦中、米軍が日本国民にプロパガンダ放送を流すために雇った女性日本語アナウンサー、複数いたが全員”東京ローズ”を名乗っていた。転じて匿名の女という意味になったらしい。名も知らぬ母から生まれた名も知らぬ子は、風来坊・流謫の身に甘んじるのが運命、ロンサムトラヴェラー、あなたもそうやって日本から流れて来たんだわ ー みたいな説明をされたと思う。英語だから理解できたんだかどうかもわからない。東京ローズの息子、結構じゃないの。素敵じゃないか。 ....... という思い出。たくさん手紙は書いたけど、返事はほとんどなかった。That brings me back to you my love, to you my love, to you my love...
Alain Souchon "Bidon" 1976年夏、フランスのラジオから最も頻繁に流れていた歌は3曲あって、ひとつ目はボブ・ディラン「ハリケーン」(! しかし全曲かからず、いつも半分で切られる)、二番目はイングランド人マレー・ヘッドの"Say it ain't so, Joe"(これはフランスで日本の時計メーカーSEIKO提供の民放ラジオの時報の音楽に使われ、フランスで局地的な大ヒットに)、そして三番目がアラン・スーションの「ビドン」。アルミ缶やポリ缶などの容器のことだが、転じて見かけだけで中身のないもの(あるいは人)という意味。2007年に向風三郎がその著『ポップ・フランセーズの40年』で、「自転車乗り用のズボンばさみ」と題してこの歌を取り上げていて、すごくうまいこと書いてる。老いた私にはもうこんな機知と含蓄と諧謔に富んだ文章は書けっこないので、全文そのまま引用する。
吉田美奈子「ラムはお好き?」 これも日本からの友人カセットに入っていた。吉田のアルバム『フラッパー』(1976年、大瀧詠一作「夢で逢えたら」など良い曲とそうでもない曲が半々という印象)から。これは一番上に上げたムーンライダース『火の玉ボーイ』の中の鈴木慶一作「午後のレディ」と並べてよく聴いた。どちらもレトロでハイソサエティーな誘惑ゲームの佳曲。作曲した細野晴臣のトロピカル趣味全開で、細野のガットギターソロもめちゃくちゃ素敵に聞こえた。1976年大旱魃の夏、学生寮の部屋の昼はいつも30+α度を越えていて、涼を求めてラジカセに乾電池入れてキャンパスのポプラの木陰に行って寝転がるんだけど、so nice, it's so nice... とのんびりする時間もほどなく電池がなくなってしまうんだなぁ。 One more coca cola ? ー コカ・コーラは日本と全然味が違ってた。カフェでもコーラのグラスに氷を入れてくれるところなんかなくて、なんとなく微温い飲み物だった。そしてフランスでは日本や米国のように「コーク(Coke)」と呼ばずに、「コカ(Coca)」と呼ぶ飲み物だった。Un coca s'il vous plaît !(アン・コカ・シルヴィプレ!)。知ったかぶりのフランス人が、これ、柔道(審判)用語と一緒だよ、「コカ(効果!)」と笑ってたのを覚えている。今調べたら柔道の「有効/効果」という判定は2008年に廃止されていたのね。それはそれ。 あの夏、カフェで学内売店で食料品店で初めて知ったドリンクの数々:Gini(ジニ)、Orangina(オランジナ)、Cacolac(カコラック)、Oasis(オアジス)、Perrier(ペリエ)、パナシェ、ディアボロマント、ディアボロルージュ、シードル、カルヴァドス、パスティス..... それはそれ。 50年後の2026年、フランスの国営音楽FIPからは昨今の「シティポップ」人気で、吉田の(当時の)歌もよくオンエアされる。50年前、日本の最良のポップ音楽が育ちつつあったのだね。
Rolling Stones "Memory Motel" メモリーという言葉。私たちが若かった頃とどんどんかけ離れた意味に変容していった。情報工学用語が一般化していって、メモリーはある量的単位の意味ばかりが日常に定着した。メモリー容量、メモリー不足、メモリー共有、外付けメモリー...。メモリーは数値で表すことができるのだ。私たちが若かった頃、メモリーはそんなものではなかった。ロボットだったダフト・パンクがその最後に『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)というタイトルの彼らの最も”人間的”なアルバムを発表したが、ここでの”メモリーズ”は半導体メモリーのことではなく、人間のメモリーだったのだよ、だからエモーショナルな最後だったわけじゃないか。ダフト・パンクは(昭和天皇のように)人間宣言をして、活動に終止符を打ったのだよ。メモリーを人間の手(心)に取り戻したかのように。 私たちが若かった頃、メモリーは心の中にあったのだよ。Do you remember ? メモリーは時々動き出して、心をちくちく責める。情報工学のメモリーと違って、消去することができないものなのだよ。人間のメモリーは切ない。
『ブラック&ブルー』はもっぱら2曲しか聴いていない。「Fool to cry(愚か者の涙)」とこの「メモリー・モーテル」だけ。どっちもジャガーの涙まみれバラードである。つい数日前までみんないたのに、夏が終わり、みんなカーンを去って行った。早々とこの夏はメモリーになってしまったのだよ。センチメンタルでメランコリックな季節の始まり。夏の間中、私は夢を見ていたのか。それはとりもなおさず夏に出会った一人の娘のメモリーのことなのだけど。歌の中でハナという名の女性が”俺”のギターを取って歌い出す:
She took my guitar and she began to play She sang a song to me Stuck right in my brain You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー) That used to be(いつもと同じ) You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー) That used to mean so much to me(いつもだけどそれはとっても意味あるのよ)
するとすかさずキース・リチャーズが茶々を入れる
She got a mind of her own(あれは芯のしっかりした娘だ) And she use it well(それでうまく立ち回っている)
1976年夏の終わり、私がいつまでもぐじぐじと未練たらしく塞いでいると、「あの娘はキミと違って一人で上手くやってるよ」と言ってくれたダチはいたかな? ー いなかった。あんたはただの愛のメモリー。彼女は私にとって just a 愛のメモリー、だけどそれは mean so much to me。こんな曲をなんで7分の長さで続けてくれるんだよ?なんてセンチメンタルなメモリーなんだ。このメモリーはこの歌と共に絶対消去できないものなのよ。 Sha la laa la Sha la laa la Sha la laa la Sha la laa la
2026年6月下旬から(小休止の2日間を挟んでも)20日間以上に渡ってフランスは観測史上記録破りの熱波酷暑に襲われ、パリでも最高気温40度を超す日が続いた。過去にひと夏で15000人の(熱波が原因とされる)死者を出した2003年の酷暑よりも気温は上回り、熱死者数はそれを超えるのではないかと危ぶまれたが、それは大したことがなかったようだ。その代わり遊泳中の事故、溺死者数は3桁に達し、過去に例を見ない。遊泳禁止だったパリのサン・マルタン運河や、(3カ所の遊泳区画の)川開き前のセーヌ川でも多くの若者たちが飛び込む光景がニュースになった。 2003年と2026年の酷暑は"Canicule(カニキュール)"(熱波)という言葉で表現されたが、今から50年前、同じほど暑かった1976年の夏は、”Sécheresse(セシュレス)”(干魃)だった。雨の降らない日々はその年の3月に始まっていて、それは200日も続くことになる。大干魃(la grande sécheresse ラ・グランド・セシュレス)だった。 1976年3月、四谷の大学の仏文科生だった私は学科に休学届を出した。私はあの大学と肌が合わず、興味もなく、友人もほとんどなく、フラストレーションばかり溜めていた時期だった。大学の3年間で肝心のフランス語が”中級”止まりだったのは自分のせいか。大学だけではない。私は東京にほんとうに辟易していた。18歳で東北の片隅から出てきた若造であったが、思えば、その辺の無知な田舎の小僧のように、私は東京に過度な幻想を持っていたに違いない。そう、東京に出ればなんとかなる、と思っていたドリーマーだった。父母家族と極端に悪い関係だったわけではないが、十代後半は家を出ることばかり考えていて、この環境から抜け出さなければ自己実現はありえないと思っていた。青臭さを誇りに思っていた頃。一人で何もできないくせに。東京に出ればなんでも可能なはずだった。一応(象徴的な意味での)その"droit de cité"(「市民権」ー 自由に住み通行し法に守られて生きる権利)を得たいと願い、東京に幾度もぶつかって行ったつもりだったが、その奮闘は虚しいものだった。悲しいね。3年間蠢いてみたけれど私には居場所がなかった。
1976年6月30日午後、ノルマンディー地方カルヴァドス県カーン市の駅に降り着いた。右も左もわからない。自分のフランス語は通じるかどうかわからない。とりあえずその夜の宿を確保しなければならない。日本から持ってきた地図を開いてもホテル情報などなく、地図上で"hôtel"という文字があるのは "Hôtel de Ville"と"Hôtel d'Escoville"(オテル・デスコヴィル)という2か所だけ。前者は私の仏語知識でも”市役所”という意味であることは知っていたが、後者は知らないが、ホテルっぽいではないか。それが駅から近いのか遠いのかもわからず、重いスーツケースも持っていたし、タクシーで行くことに。おそらく私のフランスでの最初のフランス語会話というのはタクシー運転手とのやりとりだったのだな。「オテル・デスコヴィル、シルヴプレ ー ウイ、ムッシュー」。着いたところにホテルらしいものは影も形もなかった。これは後日知ることになるのだが、16世紀に建造された当時の大富豪の子爵の居城を歴史的建造物として保存していた”名所旧跡”館であったのだ。まずい。重いスーツケースを持って、暑い中を歩いて探さなければならない。運よく市の中心部に近いところだったので、"Hôtel"と書いた看板が目に止まり、渡りに船で「部屋ありますか Avez-vous des chambres pour ce soir ?」と飛び込んでいった。分別など何もなかったが、入ったホテルは三ツ星(!)だった。カーン大学に前もって予約していた学生寮に入室できる日まで、2泊ぐらいしたんだな。制服のドアマン/ポーターがいた格式ある古めのユーロピアンホテル。場違い、身分不相応はすぐに自覚したが、どうしようもない。部屋に通されて、そのあとは食事も何もせず、ただただ爆睡していたはず。時差/ジェットラグの初体験。昼なのか夜なのか。 そしていつまでたっても日没しない長い長い昼 ー 1976年フランスは(春に時計を1時間進め、秋に1時間遅らせる)「夏時間(サマータイム)」をその3月27日に初実施したばかりだった。初めてのサマータイムの夏は大旱魃の夏になった。夜10時になっても昼の明るさが残っている。1973年オイルショックのせいでラジカルなエネルギー節約が急務となって採用したこの夏時間、エネルギー危機を脱したら元に戻すと言われていたのに、今年2026年で50年も続いているのだ。不評よりも好評が大きく上回っているからだ。さまざまな弊害(新生児と高齢者の体内時差による変調など)が言われていたのに。長い長い昼、遅い遅い夕暮れ、いつまでも野外に居れる自由、たぶん私はサマータイムの至福を知った最初の日本人の一人だったのだろう。その上、その夏フランスは雨がまったく降らなかったのだ。1972年、わが最愛のヴェロニク・サンソンはそのデビューアルバムの中の「バイーア」でこう歌っていたのだ。
Les jours de pluie ça n'existe pas 雨の日なんてありえない Les jours de pluie ne reviendront pas 雨の日は二度とやってこない ( .... ) Les jours de pluie, qu'est-ce que ça veut dire ? 雨の日って何のことなの? Les jours de pluie, ça me fait bien rire 雨の日なんて笑わせるわ
低ノルマンディー(Basse Normandie)地方の首邑カーンは、第二次大戦の連合国によるノルマンディー上陸作戦とそれに続く地上戦の大激戦地となり、市街地は聖堂と病院を除いて壊滅的に破壊され、現在の市街は1960年代までかかって再建されたものである。だからほぼ箱型の建物が区画正しく並び、市道は広く、どことなくソ連(&共産圏)的な第一印象だった。15世紀に創立されたというカーン(総合)大学の建物も大戦で破壊され、私が入ったのは1957年に再建されたキャンパスだった。市街地の北にある11世紀にイングランドの王座につく征服王ウィリアム(ギヨーム)の居城跡の城壁を抜けた北側に大学キャンパスはあり、大学のシンボルは不死鳥(フェニックス)で、その彫像モニュメント(↑写真)が立っている。大戦で焼け落ちた大学だもの。それだけでなく町は大戦からの再建・再出発ということを誇示するモニュメントが多くあり、重い「終わらない戦後」感が漂っていた。フェニックス ー それにかこつけてこんなことを書くとナルシストの誹りを免れないかもしれないが、50年後の今にして思えば、私はこの時が私の「再生」「再誕生」だったように思っている。私はこの地で何も知らなかった。人とどう話していいのかも、パン屋でどうやってパンを買うのかもパンの名前も知らなかった。ナイフとフォークをどう使って食べるのかさえ知らなかった。私は赤ん坊のようにすべてを再学習しなければならなかった。同時に私は東京で、および日本で、何も知らずに生きていたのだ、ということを知らされた。私は一から(正しくはゼロから)やり直さなければならなかった。Bonjour la France ! 11世紀に建てられたというカーン城の城跡を残す城壁内の公園に登り、そこからキャンパスに向かう小径の両側の緑地は大旱魃で真っ茶色に変わっていた。夏休みで人の少ないキャンパスに、外国人向け夏季講座を受講する外国人たち(学生だけではない、子供もいい歳の大人も)が集まってくる。日本人もたくさんいた(30人ほどか)。フランス語テストがあって、クラス分けされ、私は一応”中級”クラスに編入されることに。トラック競技のできる大きなグラウンドを挟んで4棟立っている学生寮のうち、夏の間空室になっている2棟が宿舎としてこれら”夏季学生”たちを収容し、私は最上階(4階)の角部屋が割り当てられた。南側の窓からは初めて見るヨーロッパ大陸の地平線が望める絶景。La terre de France ! ポプラ並木。窓下の南方に4面のテニスコートがあって、サマータイムのおかげで夜11時頃まで(照明なしで)プレイしている音が聞こえる。部屋にはベッドと机とクロゼットと洗面台(水&湯)しかなく、トイレとシャワーは共同。食事はグラウンドと大学キャンパスの間にある大きな学食(キャパ数百人)で。前菜、主菜、チーズ(ノルマンディーでこれを外せるわけがない)、デザート。私にはすべて美味であった。食べ放題のパン(スライスされたバゲット)は部屋に持ち帰っておやつがわりに食べた。バゲットも美味。これらに関してはフランス新座者の私には本当に恵まれていたと思う。
こうして私の最初のフランスの日々は始まった。夏季講座の教室も喫煙可で、帆立貝の殻が灰皿がわりに置かれていたが、私は褐色タバコを吸って嫌煙者たちから睨まれて教室喫煙を断念した。30人ほどのクラスは多彩な国籍の学生たちで埋まり、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、南欧、オセアニア... We are the world。シエラ・レオーネという名前も知らなかった西アフリカの国の外交官予備軍のエリート、パーラビ国王時代のイラン(ホメイニのイスラム革命は3年後の1979年)から来ていた親ホメイニ派の学生、ピノチェットによるクーデター(1973年)で軍政化したチリに戻れなくなってフランスに留まっていたチリの学生、国土を失い抵抗するパレスティナからの留学生... こんな小さな教室でも世界情勢のど真ん中にいるように思うことがあった。みんなあまり上手でないフランス語で主張するから、私の下手なフランス語も通じているようだった。外国人同士のフランス語は一所懸命だから、通じると一挙に上達したような錯覚に陥る。ところがこれはフランス人には全然通じないのだ。夏の間、外国人相手にフランス語力がついたと思っていた自信は、秋以降の本学期にガタガタと音を立てて崩れ落ちるのだが、それはまた別の話。しかし私は一所懸命だった。東京にいた時に比べたらめちゃくちゃたくさん喋っていたと思う。たぶん私はこの時点でずいぶん変わったはずだ。 だが私を変えたのは主にそういう教室での行状だったわけではない。大旱魃の夏は心も熱くさせたし、野外で大いに遊びもしたし、宵になれば毎晩誰かの部屋で飲み会があったし、夜にキャンパスの芝生の上で(禁止はされていても)キャンプファイアーを焚いて、飲んで踊って騒いで夜を明かすこともあった。アルコールだけでなくジョイントも回ってくるし。草上で愛し合っている子たちもいたし。1976年夏、私は何度恋に落ちただろうか。その夏ナイーヴな私はどれだけ泣いただろうか。 その8月の4週目だったと記憶している。大旱魃で200日間降らなかった待望の雨が、やっと到来した。午後、激しい雷が鳴り、一挙に降り出した激しい夕立に、みんな学生寮からほぼ裸の状態で外に出て天から降り注ぐ雨を浴びた。大旱魃の終わり。みんなが何かに優勝したような大歓声を上げて激しい雨を受けていた。Shower the people ! (←これも1976年の歌だ)ー これがわが1976年夏の最も美しい瞬間だった。
私がノルマンディーのキャンパスでほぼパラダイス的な時間を過ごしていたこの1976年夏でも、地球は回っていて、世界ではさまざまなことが起こっていた。7月2日、南北に分かれていたヴェトナムが統一。7月4日、米合衆国独立200年。7月17日、カナダ・モントリールでオリンピックが開催され、体操でルーマニアのナディア・コマネチが10点満点を。7月27日、日本の前首相・田中角栄がロッキード事件で逮捕された。8月26日、フランスの首相ジャック・シラクが辞任、即日レイモン・バールが後任首相に。9月9日、中国毛沢東主席死去。ー 世界は動いていた。Et pourtant elle tourne !
学生寮からはバスを使っていかなければならない距離にあったが、市の南側に「シネマ・リュックス(Cinéma Lux)」というアートシアター系の上映館があり、日替わり/時間替わりで多種の映画をかけてくれるシネフィル向けプログラムが売りだった。その演目をチェックして、私はかなり足繁くこの映画館に通った。最初に観た映画のことはまだしっかり憶えている。アラン・パーカーの『バグジー・マローン(邦題ダウンタウン物語)』(この時ジョディー・フォスター14歳)。この映画を一緒に観に行った日本人女性と、私は1979年に結婚(1982年に離婚)することになるのだが、「シネマ・リュックス」が取り持つ縁だったのだ。スコセッシ『タクシー・ドライヴァー』(その年のカンヌ映画祭パルム・ドール賞)、トリュフォー『アデルの恋の物語』(アジャーニ)、ベルトルッチ『ノヴェチェント(1900年)』(5時間映画!1部と2部)、テシネ『バロッコ』(アジャーニ&ドパルデュー)、クロード・ジディ『手羽先とモモ(L'aile ou la cuisse)』(ルイ・ド・フュネス&コリューシュ)、ジョゼフ・ロージー『クラン氏(Monsieur Klein)』(アラン・ドロン).... その年わが大学寮の日本(男子)学生たちの間だけで話題になっていたのが大島渚『愛のコリーダ』(その年のカンヌ映画祭で初上映)は、”有志”たちと一緒にパリまで遠征して観たと記憶している。しかしこの1976年、(観たのは秋だが)、シネマ・リュックスが私に見せてくれた最良の映画はカルロス・サウラ監督の『クリア・クエルボス(邦題カラスの飼育)』(9歳のアナ・トレント)だった。カラスを飼い育てる者は目を抉られる(スペインの諺)。イマジナティヴであり残酷でもあり、亡き母の真実を想像の世界で感得する少女のイノセンス。フランコ独裁の終焉(1975年)がもたらした自由創造の最初の傑作のように観た。主題歌のジャネットが歌う「ポルケ・テ・バス」は、聞くたびに私の夢の1976年を甦らせてくれる「プルーストのマドレーヌ」ソングとなってしまった。 (↓)ジャネット「ポルケ・テ・バス」 in カルロス・サウラ映画『クリア・クエルボス』
1976年夏、私はノートにボールペンでたくさん絵を描いていた。詩ともうわ言ともつかぬ言葉もたくさん書いていた。映画メモを書いていた。頻繁に手紙を書いていた。これらの絵やたくさんの言葉はどこにも残っていない。渡仏前にミノルタの一眼レフを買って、たくさん写真を、と思っていたのだが、滞在中カメラの登場する場面は本当に少なかったし、その時の写真は今一枚もない。何にも形として残っていないから、それらはすべて私の夢になった。1976年夏の私の夢から、50年経っても私は抜け出せないでいるのだ。私は抜け出せずに、今もフランスに居て夢見続けている。1976年のもう一つの歌、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」はこう終わる: But you can never leave ! そう、私は決して抜け出せないのだよ。
2026年酷暑の夏に観た "熱い夏”の青春映画。故意のない事故でありながら殺人犯のドラマを(自ら)演じる羽目になった少年の心理サスペンス。ランド地方の美しい松林と砂丘、高く波打つ海、美しい少年少女たち、暑い夏。少年が殻としてまとっていたTシャツを脱ぎ捨て、大人になる物語でもある。ほとんど映画初出演のシロートキャストで固めた映画だが、その作為なさが”青春もの”加減を際立たせて、鮮度が高い。加えて、上述のようにワーグナーも登場したが、この寄せる大西洋の大波のように繰り返される夢幻的なピエルパオロ・サッコマンディの音楽が素晴らしい。 監督のステファヌ・ドムースティエは、私の最も評価する女優の一人アナイス・ドムースティエの10歳うえの兄で、日本では2025年の監督作品だが奇しくも今夏(2026年7月17日)公開になる『新凱旋門物語(L'inconnu de la Grande Arche)』を撮った人である。注目したい映画作家。
映画冒頭でハドック船長が受け取ったトルコからの手紙というのは、船長の古くからの船乗り仲間で親友だったパパラニックが亡くなり、その遺言状にパパラニックが所有していた船トワゾン・ドール号をハドックに進呈するとあり、その譲渡手続きのためにイスタンブールへ来いというパパラニックの弁護士からの申し出だった。さっそくハドックは相棒の探検リポーターのタンタンとその愛犬ミルーを連れ立って空路でイスタンブールへ。弁護士の案内で港に停泊しているトワゾン・ドール号を見に行くと、なんともボロい旧時代の小さな貨物船で、ハドックはこんなものをもらっても何の得もないと譲渡受諾に躊躇する。そこへアントン・カラビンと名乗る富豪の商人が現れ、破格に高価な金額でこの船を買いたいとしつこく迫り、買値をどんどん釣り上げていく。むむむ。怪しい。ハドックとタンタンはこの胡散臭い豪商との取引を断るが、そのあとハドックとタンタンの命を狙うさまざまな襲撃を受けることになる。トワゾン・ドール号には秘密が隠されているに違いない。船倉に残された荷物はガラクタばかり。しかしタンタンは故パパラニック船長の書机から一枚の新聞記事スクラップを発見する。数年前、南米の小国テタラグア(架空の国、モデルはニカラグアとされる)でクーデターが起こり、クーデター首謀者たちは8日間だけ国の全権を掌握することができたのだが、勇敢なるテタラグア人民の蜂起でクーデター政権は崩壊、首謀者たちは国外に逃亡する際にテタラグア中央銀行にあった国庫の金塊を持ち出したというのである。5人の首謀者たちの中に、なんとパパラニック船長とアントン・カラビンも。Ça alors ! しかしその金塊はどこかに隠されたまま発見されていない。それを知っていたパパラニック船長は死に、遺品としてトワゾン・ドール号が残った...。
アンドレ・ポップの代表作の一つ、子供たちのためのオーケストラ音楽入門の音楽物語『ピッコロサクソと仲間たち』(1957年)で既に極められていた、あらゆるオーケストラ楽器を知り尽くした達人的職人芸の”器楽つかい”、碩学的な民族音楽の深い造詣、そのアンドレ・ポップに映画音楽を任せたら、こんな音楽になっちゃったのですね。わかりやすくも奥深い。しかし、この秀逸な仕事にも関わらず、タンタン実写映画の次作『タンタンと水色のオレンジ Tintin et les Oranges Bleues』(1966年)ではアンドレ・ポップではなく(ゴダールやトリュフォーの映画音楽で知られる)アントワーヌ・デュアメル(1925 - 2014)が音楽を。なぜかは知らない。
なお、1962年録音&リリースのイザベル・オーブレ歌のヴァージョンは、映画のオリジナルサウンドトラックではないものの、大変ポピュラーであり、同じ年1962年、イザベル・オーブレは「はじめての愛 Un premier amour」(アンドレ・ポップの曲ではない)という歌でユーロヴィジョンで優勝していることもあり、アンドレ・ポップ版よりもこっちの方が映画主題歌と思われているフシがある。歌のタイトルは「タンタンとトワゾン・ドール号 Tintin et la Toison d'Or」となっていて、「神秘」が抜けているが、大したことではない。作詞はピエール・ドラノエ。編曲伴奏はアンドレ・ポップの同業者、ジャン=ミッシェル・ドファイユ。