"Une femme aujourd'hui"
『ある女、今日』
2026年フランス+イタリア映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:マリルー・オーシルー、アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、グレゴワール・ルプランス=ランゲ
フランス公開:2026年10月21日
マルセイユの映画人ロベール・ゲディギアンの25作め、舞台は言わずもがなのマルセイユ。労働者階級の老夫婦カティ(演アリアーヌ・アスカリード)とアレックス(演ジェラール・メイラン)の娘ジュリエット(演マリルー・オーシルー)は、その出自に似合わぬサクセスコース(名門校→上場商社エリートキャリアウーマン)を歩み、独身30歳にしてプール+ガーデン付き豪奢一戸建て住宅に住み、高級ブランドに身を包み、適当にセックスパートナーを変え、順風満帆のゴールデンガールライフを満喫していた。母カティはひとクラスもふたクラスも上に位置してしまった娘と関係がギクシャクしてしまう。言語も立ち振る舞いも別世界の人間のようで、母の手料理よりも残業仕事を優先させ、接点を失いかけている。娘ジュリエットの方も、家族親族の集まり(父母の結婚記念日宴)に出ても、”自分の居場所”がないと感じてしまい、気に病んでいる。この社会階層の”飛び越え”によって起こる障害の描き方うまい。
さて破竹の成長を続ける上場企業は、その成功の社員還元として、船上パーティーを催し夜のマルセイユ湾をダンスフロアーにしてクルーズする(なかなか美しい図)。ジュリエットも日頃のストレスを解消すべく踊り、飲み、陶酔しようとするのだが、日頃からセクハラ気味に付きまとう上司の男が何度もナンパを試み、巻いても巻いても...。散会し下船して、(泥酔状態なのに)自分の車で帰ろうと、車のドアを開けると、尾行してきたであろうかの上司男が力づくで車に乗り込み、ジュリエットを強姦する。必死の抵抗で男を車から突き出し、車を全速力で走らせ逃げるが、気が動顚していて道路脇に衝突してしまう。事故音を聞いて駆けつけ、ジュリエットを助け出したのは、事故現場前の建物で困窮する未成年妊娠女性やシングルマザーたちを収容する民営慈善施設の運営者であるクリスティアン(演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)とそこに寝泊まりしている女たち。ジュリエットの知らなかった世界。
この強姦+自動車事故はジュリエットの心身に極度なダメージをもたらしただけでなく、ジュリエットのこれまでのサクセスストーリーをすべて帳消しにし、強姦魔上司のヴァージョンを鵜呑みにする会社はジュリエットを解雇し、さらに告訴しても(ほとんどの性暴力事件と同じように)立件されないばかりか、強姦男から逆告訴され、自動車から突き落とされ放置された傷害事件となり敗訴(賠償金9万ユーロ)が確定的となる。
ゴールデンガールの転落、失墜。長い虚無状態から抜け出すきっかけが、かの女性救済施設への再訪であり、クリスティアンとそのスタッフたち、そこで暮らす女性たち(性暴力や戦争や貧困から逃れてきた若い妊婦たち母たち)との出会い....。いつしかボランティアでこの施設を手伝うようになる。求めていた”自分の居場所”とはここかもしれない。ジュリエットはこの新しい環境にやり甲斐を見出す。そして恩人クリスティアンとの間に芽生えつつある恋(←しかし強姦事件のトラウマで性行為に拒絶反応が)。そしてこの種のNGOチャリティー施設に必ずつきまとう慢性的運営金不足、近隣住民の無理解と苦情、嫌がらせ...。
さて母カティーも以前からジュリエットに明かさなければならなかった秘密があり、機会を伺っていたが、このゴールデンガール的地位からの転落は母娘の関係を少女期のような親密なものに戻し...。その秘密はアルジェリアがフランスの植民地だった時代に遡り、カティは現地のフランス家庭で生まれたことになっているが、実の母は一家の使用人のアルジェリア人女性だったというのだ。父の権限でカティーは”実子”として育てられるのだが、それを記録する手記ノートにはカティーの実母アミナがどのような女性だったのかも綴られている。そのジュリエットの実の祖母のことをカティーは伝えたかったのだ。(その前にそれを知らされたカティーの夫アレックスが、”じゃあ、あんたは半分アラブ人なのか?俺は全然構わんよ”と言ったシーンでは映画館内でどっと笑い声が起こった)
アミナには不思議な能力があった、とそのノートは記している。アフリカ大陸では今もたくさんいるとされる手による治癒師の家系の出身で、アルジェリアのカティーの家でも怪我・病気を治す女だった、と。この映画ではカティーにはないが、隔世遺伝でジュリエットにはその治癒能力があるような”奇跡”(子供の鼻血を止めるような程度のものであるが)を2回登場させている。こういうの大好き。
巨大企業の体面のために強姦魔上司を救済しジュリエットを解雇したこと、性暴力被害者ジュリエットを逆告訴して強姦男が賠償金を巻き上げるといった理不尽に、この映画はどう落とし前をつけるのか? 人情映画の名手ゲディギアンは、熱血の父アレックス(ジェラール・メイランは今回すごくいい)に犯罪まがいのやばい行動で強姦男に制裁を下し、恐れをなした強姦男は告訴を取り下げる...。浪花節ですね。
事件はさらに起こり、ジュリエットが本腰入れて”幹部”的な役割を果たすようになった女性救済NGO施設に、ある夜(おそらく騒音苦情を出していた近隣住民の実力行使で)火炎ビンが投げ込まれ、建物を焼失してしまう。女性たちは寝場所を失ってしまう。当局は仮の宿泊先としてマルセイユから遠く離れたトゥーロンの施設を提供しようとするのだが、昼の間ほとんどマルセイユで仕事している女性たちはこの提案を受け入れられない。そこで....。ジュリエットはゴールデンガール期の既得物たるプール/広大な庭付きの一戸建て住宅(←自宅)の庭に宿泊テント村を仮設し、サロンを仮食堂にしたて、当面の宿泊場所として提供したのである!
大地からひとクラスもふたクラスも上の巨大企業エリートだったジュリエットは、再び大地のレベルに降り立ち、実祖母のような”奇跡”の治癒師となって自分の居場所を見つけた、という一席でございました。
いろいろ詰め込みすぎの感もあるけれど、いろいろあるのがマルセイユ的とも言える。性暴力とネオリベラル資本主義、男性原理社会とアルジェリア、救済されねばならない人たちと共に闘う人たち、レイシズム、人情、隣人愛、不正・理不尽に対して時には必要な荒療治... こういうことがらが展開する背景画としてマルセイユの風景はほんとうによくマッチしてしまうのですね。これまでのゲディギアン映画ではいつも卑劣漢の役ばかりやっていたグレゴワール・ルプランス=ランゲが、今回は慈善NGO運営者かつジュリエットの恋人(ハッピーエンド材料)という”いい奴”役になっているのだけど、私、ゲディギアン映画見すぎのせいか、この男優の顔はどうしても卑劣漢としか見えなくて、そこが、ちょっと、映画ストーリー展開に心から入り込めない大きな原因になってしまった。それだけ残念。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『Une femme aujourd'hui ある女、今日』予告編
2026年10月22日木曜日
2026年10月19日月曜日
共和国に火を放つ
47年前、歴史的に一度も「共和制」を経験したことのない国からこの共和国に移住してきた外国人(移民)である私。フランス国籍を取らず、誇り高い外国人を通してきた私であるが、良いところも悪いところもあり、良い時も悪い時もあるこの共和国に私は(長い時間をかけて)”染まって”いったのだと思う。フランス企業の雇われ人として6度転職し、税金を納め、法律を遵守し、ごく小さな企業を起業して中小企業経営者団体の一員にもなった。弁護士に助けられ裁判で無罪になったこともある。11年前病気になって今も全額無償で治療を続けている。娘は共和国の公立校で教育を受け、成人し、自分の意志でフランス人になった。人はそうは思わないかもしれないが、私は共和国の成員のひとりだと思っているし、共和国なしに私の人生はなかったはずだ。税金だけでなく、共和国にかなり”お返し”している部分もあるはずだ。 日本にいた時から国歌と国旗にはアレルギーを持っていたが、ラ・マルセイエーズは”悪い歌”ではないと思っている。私は共和国に同化した移民である。予期していなかった病気による早期退職のせいで低額年金所得者となって自宅と病院を往復する日々だが、共和国は私を支えてくれているし、高齢になった私はここにいて良かったとしみじみ思うことも多くなった昨今である。
2026年10月17日(土)、(全世界で大ニュースとして報道されたように)高校生・学生・労組・公務員・農民・ジレ・ジョーヌらが連帯して行われた全国統一行動デモ(全国で60万人動員)に便乗した、casseurs(カスール、破壊暴徒)と呼ばれる集団による暴動によって公官庁、市役所、警察、学校、銀行などが攻撃を受け、建物や車などが焼かれ、3000軒を越す商業施設で破壊と略奪が行われ、治安部隊(CRS)との路上での衝突は市街戦(内戦、Civil War)の様相をなして深夜まで続いた。
これは私のFBのタイムラインでも書いたが、私と妻はその夜、仕事でパリに出張で来ていた娘とパリ市内(8区オースマン通り界隈)のレストランで落ち合い一緒に食事していたが、そのレストランに向かう途中に催涙ガスが立ち込めた路上で黒づくめ扮装のカスールたちと機動隊の対峙の現場を見ている。その時はニュース報道をリアルタイムで追っていなくて、23時頃帰宅してニュース専門TV局のライヴ中継を見て、初めて事態の重大さを知り青ざめた。大多数の共和国民は、私と同じように衝撃を受け、この共和国で起こるはずのなかったカオスのシーンを現実として受け止めることが難しかったに違いない。市役所・学校・公官庁など「共和国の象徴」に火を放ち、破壊し、略奪する...。
10月19日(月)、ラジオ・フランスアンテールの朝番組「ラ・グランド・マティナル」にゲスト出演したマルセイユの女優アリアーヌ・アスカリード(私と同じ72歳)は、10月17日の事件を「顔面にストレートパンチを受けたような衝撃」と例えた。イタリア移民の娘、フェミニスト、長年の共産党支持者、マルセイユの映画人ロベール・ゲディギアンの妻・同伴者にして主演女優を続けてきたアスカリードは、全国の主要都市、とりわけマルセイユでも公的施設や商店街がカスール・破壊暴徒たちの破壊行為によって甚大な被害を被ったことを受けて、インタヴュー冒頭で、言葉を選ぶことなくこれらの暴徒たちを「デビル débiles」と決めつけた。首都に次ぐ第二の大都市としてマルセイユを (東京に比した)「大阪」に例える日本人は多いが、「デビル」を罵倒語としての「あほ」と訳すことはできても、大阪弁・関西弁の「あほ」の包含する幾ばくかの憎めなさは一切排除した罵倒語として解釈されなければならない。100%ネガティヴな言葉である。
10月17日のカスールによる全国規模での大暴動の後、一番元気になった政党はRNである。「秩序」「安全」を確保できないばかりか、国家的大損害にまで陥らせた責任のすべては現政権にあると党幹部が一斉にメディアに大きく露出してがなり出した。国民の恐怖心を煽る暴徒たちの破壊映像は、テレビとソーシャルネットワークを連日独占している。
2027年5月の共和国大統領選挙まで半年、という時点で、それまでも世論調査でダントツの32%の得票予想が出ているマリーヌ・ル・ペンは、この件のあと、強権的「治安」のチャンピオンとしてますます支持率を伸ばしてしまうかもしれない。共和国が”極右の大統領”を誕生させるリスクは極めて高くなっている。
共和国に火を放ったカスールたち、アスカリードの表現では共和国的思慮(sens de la république)が完全に欠落した若者たち、デビルたち... その打撃と衝撃から、私の共和国はレジスタンスできるのか。私は共和国を守りたい。私を47年間守ってくれた共和国を守りたい。職場で、教室で、カフェのカウンターで人々は話し合っている。その輪に私も入ろう。おまえ引っ込んでろ、とは言わせない。私も共和国の成員の一人なのだから。恐怖で人々が話せなくなる社会、それが共和国の死である。アスカリードと同じ年齢(72歳)の私は、彼女が言うように”光あふれる未来”は見ることができないと思う。だが暗闇の中に入るのはなんとしてでも避ける。心ある人々、be united !
(↓)10月19日、ラジオ France Interの朝番組"La Grande Matinale"で語るアリアーヌ・アスカリード。(↑にほぼ翻訳したのは最初の5分間の部分)
(↓)10月17日(土)フランス公共TV France 24による "カスール casseurs "の映像。
2026年10月17日(土)、(全世界で大ニュースとして報道されたように)高校生・学生・労組・公務員・農民・ジレ・ジョーヌらが連帯して行われた全国統一行動デモ(全国で60万人動員)に便乗した、casseurs(カスール、破壊暴徒)と呼ばれる集団による暴動によって公官庁、市役所、警察、学校、銀行などが攻撃を受け、建物や車などが焼かれ、3000軒を越す商業施設で破壊と略奪が行われ、治安部隊(CRS)との路上での衝突は市街戦(内戦、Civil War)の様相をなして深夜まで続いた。
これは私のFBのタイムラインでも書いたが、私と妻はその夜、仕事でパリに出張で来ていた娘とパリ市内(8区オースマン通り界隈)のレストランで落ち合い一緒に食事していたが、そのレストランに向かう途中に催涙ガスが立ち込めた路上で黒づくめ扮装のカスールたちと機動隊の対峙の現場を見ている。その時はニュース報道をリアルタイムで追っていなくて、23時頃帰宅してニュース専門TV局のライヴ中継を見て、初めて事態の重大さを知り青ざめた。大多数の共和国民は、私と同じように衝撃を受け、この共和国で起こるはずのなかったカオスのシーンを現実として受け止めることが難しかったに違いない。市役所・学校・公官庁など「共和国の象徴」に火を放ち、破壊し、略奪する...。
10月19日(月)、ラジオ・フランスアンテールの朝番組「ラ・グランド・マティナル」にゲスト出演したマルセイユの女優アリアーヌ・アスカリード(私と同じ72歳)は、10月17日の事件を「顔面にストレートパンチを受けたような衝撃」と例えた。イタリア移民の娘、フェミニスト、長年の共産党支持者、マルセイユの映画人ロベール・ゲディギアンの妻・同伴者にして主演女優を続けてきたアスカリードは、全国の主要都市、とりわけマルセイユでも公的施設や商店街がカスール・破壊暴徒たちの破壊行為によって甚大な被害を被ったことを受けて、インタヴュー冒頭で、言葉を選ぶことなくこれらの暴徒たちを「デビル débiles」と決めつけた。首都に次ぐ第二の大都市としてマルセイユを (東京に比した)「大阪」に例える日本人は多いが、「デビル」を罵倒語としての「あほ」と訳すことはできても、大阪弁・関西弁の「あほ」の包含する幾ばくかの憎めなさは一切排除した罵倒語として解釈されなければならない。100%ネガティヴな言葉である。
アリアーヌ・アスカリード : 私は彼らを許すつもりはこれっぽっちもないけれど、深く考えてみたいの。これらの若いデビルたち(これしか呼びようがないのよ、以前は”蛮人 vandale ”とか”未開人 sauvageon ”と呼ばれたこともあるけど)が、店を襲撃し破壊し全ての商品を略奪していく、その小さな小売店は人が生涯かけてやっと帳簿が合うように支えてきたもの、それを襲うなんて、全くもってどうしようもなくデビルなこと。それはつまりこの若い連中には根本的な”共和国的思慮 sens de la république”が完全に欠落してしまっているということ。なぜ彼らには全く”共和国的思慮”がないのか、その理由は40年以上もの長い間、彼らを共和国の中に含めなかったということなの。この若者たち、この子供たちにきみたちは共和国の一部をなすのだということをもはや教えなくなってしまった。だから彼らは共和国のことなんか全く眼中にない。彼らが見ているのは、日がな一日中ソーシャルネットワーク上に流れてくるイメージだけ。高級品。こういうタブレットが手に入ったらなあ、こんなウェアが着れたらなあ、こんなシューズがあればなあ。もうデビルとしか言いようがない。それで彼らは店を襲撃して略奪する。でも彼らが襲っているのは、彼らと似たような境遇の人たち。そのことがどうしようもなく愚かなことなのよ。
(中略)
この問題を社会学を学んだ人間として考察すれば、多くの若い人たちがフランス共和国の内部に統合されることなく外に放置されているということ。
(インタヴュアーのソニア・ドヴィレールの問い):ナポリからのイタリア移民の床屋(優秀理容師としてフランスから表彰されている)の娘、信念に基づいた共産党員、そしてあなたと同じように活動家でもある映画監督ロベール・ゲディギアンと結婚、あなたは若い頃から一貫して闘士でした。あなたは世界を変えたかったのですか?
アリアーヌ・アスカリード : 私が欲したのは "光あふれる未来”(l'avenir radieux)、私にとって正しい表現はこれ。私は”光あふれる未来”が見たかった。私はあなたに誠実に答えますけど、私はその未来を体験できるとは思っていない。私はフランスがこんな状態になったフランスにいることになるとは思っていなかった。まさに今日、今朝のような現実のフランスに。信じられないことよ。私は”光あふれる未来”に向かって進んでいるものと信じていたのよ。とても時代遅れの表現に思うかもしれないけれど、私はこの表現が好き。今日私は自分に問うの、私はもう20歳じゃないの、もう随分遠くに来たの、そして私には一人の孫がいる、私はその孫が暗闇の中で生きて欲しくないのよ。だって彼らがやったことはどういうことなの?どういうことになるの?あれは人々の恐怖心を掻き立てるのよ。それはすべて直接的に極右RN党にとってもっけの幸いなの。RNは何もしなくてもいいのよ、黙ってRNのための王道が開通してしまったのよ。でもね、みなさん(mesdames et messieurs)聞いてくださいよ、RNはあなたたちにとって良いことは何もしませんよ。
10月17日のカスールによる全国規模での大暴動の後、一番元気になった政党はRNである。「秩序」「安全」を確保できないばかりか、国家的大損害にまで陥らせた責任のすべては現政権にあると党幹部が一斉にメディアに大きく露出してがなり出した。国民の恐怖心を煽る暴徒たちの破壊映像は、テレビとソーシャルネットワークを連日独占している。
2027年5月の共和国大統領選挙まで半年、という時点で、それまでも世論調査でダントツの32%の得票予想が出ているマリーヌ・ル・ペンは、この件のあと、強権的「治安」のチャンピオンとしてますます支持率を伸ばしてしまうかもしれない。共和国が”極右の大統領”を誕生させるリスクは極めて高くなっている。
共和国に火を放ったカスールたち、アスカリードの表現では共和国的思慮(sens de la république)が完全に欠落した若者たち、デビルたち... その打撃と衝撃から、私の共和国はレジスタンスできるのか。私は共和国を守りたい。私を47年間守ってくれた共和国を守りたい。職場で、教室で、カフェのカウンターで人々は話し合っている。その輪に私も入ろう。おまえ引っ込んでろ、とは言わせない。私も共和国の成員の一人なのだから。恐怖で人々が話せなくなる社会、それが共和国の死である。アスカリードと同じ年齢(72歳)の私は、彼女が言うように”光あふれる未来”は見ることができないと思う。だが暗闇の中に入るのはなんとしてでも避ける。心ある人々、be united !
(↓)10月19日、ラジオ France Interの朝番組"La Grande Matinale"で語るアリアーヌ・アスカリード。(↑にほぼ翻訳したのは最初の5分間の部分)
(↓)10月17日(土)フランス公共TV France 24による "カスール casseurs "の映像。
2026年10月8日木曜日
昔の名前で出ています
Christine Angot "Je change de nom"
クリスティーヌ・アンゴ『名前を変える』
1957年、中部フランス(ベリー地方)アンドル県の県都シャトールーで生まれたクリスティーヌは、生物学上の父ピエール・アンゴの認知が得られなかったため、母ラシェル・シュワルツの姓が与えられ、13歳までクリスティーヌ・シュワルツという名前だった。母ラシェルは熱愛しあっていたピエールとの間に祝福されて生まれてきた子供とクリスティーヌに説くのだが、そのピエールはクリスティーヌ誕生の直後に、ドイツ人ブルジョワ女性モニカと結婚している。なぜ長い間内縁関係にあったラシェルと結婚に至らず、このモニカとは結婚できたのか。それは作者の一連の(同テーマの)著作で繰り返されていることだが、ピエール・アンゴという(何冊も読めば読むほどに浮き上がってくる)卑劣漢の階級観から来ている。おまえたちとはクラスが違う。社会的地位においてもインテリジェンスにおいても。ラシェルは侮蔑されながらもそういうピエールに惹かれ続けている。しかしラシェルは執拗にピエールに子の認知を求めている。ピエールの父、ジャン・アンゴ(タイヤの世界的大手ミシュランの重役)のところまで談判に行き、ピエールにクリスティーヌを認知するよう圧力をかけるよう嘆願に行ったりもしている。そのラシェルの願いは1981年にようやく叶い、ピエールは「父」であることを役所で認め署名する。13歳でクリスティーヌはクリスティーヌ・アンゴと名前を変えている。(そしてその時からピエールによるクリスティーヌへの性暴力=近親相姦が始まるのである)
母ラシェルがなぜどうしても娘にアンゴの姓を与えたかったのか、という名前/姓への拘りには深い理由がある。家父長制家族制度に基づく20世紀のフランス民法においては、男性に比べてさまざまな不利な条件にあった女性にも、名前(姓)は女性の立場を守りうるものだった、というクリスティーヌ・アンゴの説であり、彼女は大学で法学を専攻していて、その基礎は伊達ではない。それを実例を挙げて説明するために、彼女の母方の曽祖母の代からの一族の女たちの歴史を開陳する。
ベリー地方シャトールーの娘だった曽祖母マリー・バローは、20歳の時に未来の夫となる肉屋のアンリ・シゴワーニュと出会い恋仲になるが、それに先立つ数ヶ月間マリーは地方の大地主の持つ農園に出稼ぎに出され、その間に地主家の男にてごめにされ妊娠してしまい、その醜聞ゆえに農園を追い出されてシャトールーに戻ってきたのだった。アンリはその事情を知りながらも、妊娠中のマリーと結婚し、生まれてきた女児オーギュスティーヌ(クリスティーヌの祖母に当たる)をわが子として認知し、オーギュスティーヌ・シゴワーヌという姓名の子として育てるのである。この結婚および子の認知がなければ、この子は父親不明の私生児となっていたはずであり、世間の目も異なっていたはずである(あの当時のフランスの地方では珍しいことではないと著者は断っているが)。オーギュスティーヌは大きく美しくなりパリに出てクチュリエ(服飾業)のメゾンで裁縫師兼マヌカンとして働いていたが、肺を患いシャトールーに帰ってきて、その直後にジョゼフ・シュワルツと邂逅している。エジプト生まれで国籍はイタリア、数か国語をこなし、会計士や通訳などの仕事で世界を飛び回るフリーランサーで羽振りは良かった。信仰心はないがユダヤ系で、オーギュスティーヌとの結婚も市役所のみでシナゴーグでもカトリック教会でも行われなかった。名前がオーギュスティーヌ・シュワルツとなる。結婚の8ヶ月後1931年11月、女児ラシェル(クリスティーヌの母)が生まれる。ラシェル・シュワルツ。1935年、ジョゼフは仕事でエジプトに出国する。手紙も仕送りも欠かさず送られてきていたのだが、ドイツでナチスが全権掌握、第二次大戦勃発、フランスの降伏と占領、ユダヤ人狩り.... ジョゼフはフランスに入国できなくなっただけでなく、音信不通になり、仕送りも途絶える。ジョゼフが帰ってくるのは1948年のことで13年もの間、オーギュスティーヌが一人で家を支えてきた(占領ナチス軍兵士たちの衣服の洗濯や繕いものをして収入を得ていた)。しばしばこのドイツ語で”黒”を意味するシュワルツという姓は「ユダヤ人ではないか?」という嫌疑をかけられ、それを避けるためにラシェルは1942年にカトリック洗礼を受けている。
音信がなく、いつ帰ってくるかもわからない(あるいはユダヤ人として捕らえられ死んだかもしれない)ジョゼフの長すぎる不在... オーギュスティーヌは隣町の妻子ある男と恋仲になり、妊娠し、女児エディットを出産する。役所に出生を届け出に行くと、(当時の民法では)実父たる男と実母たる女がそれぞれ別の人物と婚姻関係にあるので、実父も実母もこの子を認知することができず、父母不明の孤児としてしか登録できない。実父の姓も実母の姓もつけられない。その場合、役所には管轄地区に新苗字として登録できる姓のリストがあり、その中から任意に役所が選び新苗字を付与することになる。エディットに与えられたのはデュルヴァルという姓。エディット・デュルヴァルがこの子の”本名”(役所に登録された名前、身分証明証の上の名前)である。オーギュスティーヌはそれがどうであれ自分の手元でこの子を(ラシェルの妹として)育てることに変わりはないので、人には(そして将来行く学校には)”エディット・シュワルツ”の名で通すのである。このことでエディットは将来いろいろ揉めることになる。異父姉のラシェルはこういう姓にまつわるトラブルを目の当たりに見て育ったのだ。
この話には続きがあり、エディットが7歳の時、1948年に突然ジョゼフがシャトールーに帰ってくることになり、オーギュスティーヌはこの婚外私生児エディットのことをジョゼフには秘密にしておくことを決め、親戚にエディットを預けて養育してもらうのだが、その養親宅でエディットは男養親から性暴力を受けることになる...。(クリスティーヌの叔母に当たるこのエディットと、作家になったあとのクリスティーヌがこのことについて話していて、叔母は自分が受けた性暴力のことは書かないでくれ、とクリスティーヌに申し入れてあったのだが、2026年の本書で活字になっている。この作家はいつもこうだ。書くなと言われれば書く...)
名前・姓に関する重い事象をその家系で知ってきた母ラシェル・シュワルツが、娘クリスティーヌに(ピエール・アンゴに実父として認知され)公式に”アンゴ”の姓を持たせたかったことは、母親の姓だけを持つ”テテナシゴ”と見られて肩身の狭い思いをさせたくないという理由だけではないことは了解できよう。それに加えて”シュワルツ”という姓が否応なしに仄めかしてしまう「ユダヤ性」の問題がある。オーギュスティーヌとラシェルは第二次大戦中(ナチス占領軍+ヴィシー政権によるユダヤ人狩り)にこの姓にかけられるユダヤ嫌疑を払拭するために苦労が絶えなかった。
これは本書には書かれていない私の考えであるが、当然のことながら姓がどうあれオーギュスティーヌとラシェルは”ユダヤ人”ではない。シュワルツという姓が”たまたま”ついただけであり、宗教的にはキリスト教徒である。ユダヤとは人種ではなく宗教である。ユダヤ人とはユダヤ教徒のことである。ユダヤ教を信仰すれば、どのような人種であれユダヤ人になれる。ユダヤ教に改宗した日本人もあり、その人はユダヤ人である。このことに誤解があってはならない。
”シュワルツ”という名の”愛人”に直接的当てつけで、クリスティーヌの実父はそう言ったのだ。下品で図々しく金のために何でもできる連中がイスラエルを建国したのだ、と。ここでも強調されているのが、ピエール・アンゴという人物がラシェルに対する優位性(金においても、インテリジェンスにおいても、社会的地位においても、人種的等級においても)を悪びれもせず誇示していたという点。愛していても(と口では言う)結婚できないのは、身分の違いのせいだとはっきり言える男だった。そしてクリスティーヌの誕生の直後に、ブルジョワドイツ人女性(モニカという名)と結婚している。
ラシェルは自分は”アンゴ”にはなれないが、クリスティーヌには”アンゴ”になる権利があり、クリスティーヌは”シュワルツ”よりも”アンゴ”の方が幸福であろうと考えたのだろうか。執拗にピエールにクリスティーヌの認知を迫り、何度も「考えておくよ」とはぐらかされ、それは13年も待たされることになる。ラシェルとクリスティーヌの母娘がシャトールーを離れ、ランスに転居し、母は転職、娘はリセ新入生として新学年を迎える、というタイミングでピエールは認知に承諾する。クリスティーヌのことを誰も知らない土地のリセで、その新入生は”クリスティーヌ・アンゴ”という名前になる。どれだけ母娘は嬉しかったことだろうか。しかし、喜びはクリスティーヌには”近親相姦”という悪夢に代わる。
クリスティーヌ・アンゴ『名前を変える』
1957年、中部フランス(ベリー地方)アンドル県の県都シャトールーで生まれたクリスティーヌは、生物学上の父ピエール・アンゴの認知が得られなかったため、母ラシェル・シュワルツの姓が与えられ、13歳までクリスティーヌ・シュワルツという名前だった。母ラシェルは熱愛しあっていたピエールとの間に祝福されて生まれてきた子供とクリスティーヌに説くのだが、そのピエールはクリスティーヌ誕生の直後に、ドイツ人ブルジョワ女性モニカと結婚している。なぜ長い間内縁関係にあったラシェルと結婚に至らず、このモニカとは結婚できたのか。それは作者の一連の(同テーマの)著作で繰り返されていることだが、ピエール・アンゴという(何冊も読めば読むほどに浮き上がってくる)卑劣漢の階級観から来ている。おまえたちとはクラスが違う。社会的地位においてもインテリジェンスにおいても。ラシェルは侮蔑されながらもそういうピエールに惹かれ続けている。しかしラシェルは執拗にピエールに子の認知を求めている。ピエールの父、ジャン・アンゴ(タイヤの世界的大手ミシュランの重役)のところまで談判に行き、ピエールにクリスティーヌを認知するよう圧力をかけるよう嘆願に行ったりもしている。そのラシェルの願いは1981年にようやく叶い、ピエールは「父」であることを役所で認め署名する。13歳でクリスティーヌはクリスティーヌ・アンゴと名前を変えている。(そしてその時からピエールによるクリスティーヌへの性暴力=近親相姦が始まるのである)
母ラシェルがなぜどうしても娘にアンゴの姓を与えたかったのか、という名前/姓への拘りには深い理由がある。家父長制家族制度に基づく20世紀のフランス民法においては、男性に比べてさまざまな不利な条件にあった女性にも、名前(姓)は女性の立場を守りうるものだった、というクリスティーヌ・アンゴの説であり、彼女は大学で法学を専攻していて、その基礎は伊達ではない。それを実例を挙げて説明するために、彼女の母方の曽祖母の代からの一族の女たちの歴史を開陳する。
ベリー地方シャトールーの娘だった曽祖母マリー・バローは、20歳の時に未来の夫となる肉屋のアンリ・シゴワーニュと出会い恋仲になるが、それに先立つ数ヶ月間マリーは地方の大地主の持つ農園に出稼ぎに出され、その間に地主家の男にてごめにされ妊娠してしまい、その醜聞ゆえに農園を追い出されてシャトールーに戻ってきたのだった。アンリはその事情を知りながらも、妊娠中のマリーと結婚し、生まれてきた女児オーギュスティーヌ(クリスティーヌの祖母に当たる)をわが子として認知し、オーギュスティーヌ・シゴワーヌという姓名の子として育てるのである。この結婚および子の認知がなければ、この子は父親不明の私生児となっていたはずであり、世間の目も異なっていたはずである(あの当時のフランスの地方では珍しいことではないと著者は断っているが)。オーギュスティーヌは大きく美しくなりパリに出てクチュリエ(服飾業)のメゾンで裁縫師兼マヌカンとして働いていたが、肺を患いシャトールーに帰ってきて、その直後にジョゼフ・シュワルツと邂逅している。エジプト生まれで国籍はイタリア、数か国語をこなし、会計士や通訳などの仕事で世界を飛び回るフリーランサーで羽振りは良かった。信仰心はないがユダヤ系で、オーギュスティーヌとの結婚も市役所のみでシナゴーグでもカトリック教会でも行われなかった。名前がオーギュスティーヌ・シュワルツとなる。結婚の8ヶ月後1931年11月、女児ラシェル(クリスティーヌの母)が生まれる。ラシェル・シュワルツ。1935年、ジョゼフは仕事でエジプトに出国する。手紙も仕送りも欠かさず送られてきていたのだが、ドイツでナチスが全権掌握、第二次大戦勃発、フランスの降伏と占領、ユダヤ人狩り.... ジョゼフはフランスに入国できなくなっただけでなく、音信不通になり、仕送りも途絶える。ジョゼフが帰ってくるのは1948年のことで13年もの間、オーギュスティーヌが一人で家を支えてきた(占領ナチス軍兵士たちの衣服の洗濯や繕いものをして収入を得ていた)。しばしばこのドイツ語で”黒”を意味するシュワルツという姓は「ユダヤ人ではないか?」という嫌疑をかけられ、それを避けるためにラシェルは1942年にカトリック洗礼を受けている。
音信がなく、いつ帰ってくるかもわからない(あるいはユダヤ人として捕らえられ死んだかもしれない)ジョゼフの長すぎる不在... オーギュスティーヌは隣町の妻子ある男と恋仲になり、妊娠し、女児エディットを出産する。役所に出生を届け出に行くと、(当時の民法では)実父たる男と実母たる女がそれぞれ別の人物と婚姻関係にあるので、実父も実母もこの子を認知することができず、父母不明の孤児としてしか登録できない。実父の姓も実母の姓もつけられない。その場合、役所には管轄地区に新苗字として登録できる姓のリストがあり、その中から任意に役所が選び新苗字を付与することになる。エディットに与えられたのはデュルヴァルという姓。エディット・デュルヴァルがこの子の”本名”(役所に登録された名前、身分証明証の上の名前)である。オーギュスティーヌはそれがどうであれ自分の手元でこの子を(ラシェルの妹として)育てることに変わりはないので、人には(そして将来行く学校には)”エディット・シュワルツ”の名で通すのである。このことでエディットは将来いろいろ揉めることになる。異父姉のラシェルはこういう姓にまつわるトラブルを目の当たりに見て育ったのだ。
この話には続きがあり、エディットが7歳の時、1948年に突然ジョゼフがシャトールーに帰ってくることになり、オーギュスティーヌはこの婚外私生児エディットのことをジョゼフには秘密にしておくことを決め、親戚にエディットを預けて養育してもらうのだが、その養親宅でエディットは男養親から性暴力を受けることになる...。(クリスティーヌの叔母に当たるこのエディットと、作家になったあとのクリスティーヌがこのことについて話していて、叔母は自分が受けた性暴力のことは書かないでくれ、とクリスティーヌに申し入れてあったのだが、2026年の本書で活字になっている。この作家はいつもこうだ。書くなと言われれば書く...)
名前・姓に関する重い事象をその家系で知ってきた母ラシェル・シュワルツが、娘クリスティーヌに(ピエール・アンゴに実父として認知され)公式に”アンゴ”の姓を持たせたかったことは、母親の姓だけを持つ”テテナシゴ”と見られて肩身の狭い思いをさせたくないという理由だけではないことは了解できよう。それに加えて”シュワルツ”という姓が否応なしに仄めかしてしまう「ユダヤ性」の問題がある。オーギュスティーヌとラシェルは第二次大戦中(ナチス占領軍+ヴィシー政権によるユダヤ人狩り)にこの姓にかけられるユダヤ嫌疑を払拭するために苦労が絶えなかった。
これは本書には書かれていない私の考えであるが、当然のことながら姓がどうあれオーギュスティーヌとラシェルは”ユダヤ人”ではない。シュワルツという姓が”たまたま”ついただけであり、宗教的にはキリスト教徒である。ユダヤとは人種ではなく宗教である。ユダヤ人とはユダヤ教徒のことである。ユダヤ教を信仰すれば、どのような人種であれユダヤ人になれる。ユダヤ教に改宗した日本人もあり、その人はユダヤ人である。このことに誤解があってはならない。
理屈では自分はユダヤ人ではないという確証はあっても、世間の目はそうではない。それはフランスにおいて、ナチスのホロコーストという人道に背く大罪を当事国として経験した後においてもなお、反ユダヤ的なムードというのは消え去ることなく、燻りながら、残っていて、ふとした拍子にフツーの市民の口から聞こえたりするものだった。フランスは第二次大戦で起きたこの大悲劇の反省から、反ユダヤ的言説、人種差別的言説、ホロコースト否定論などを犯罪として法律で禁止しており、違反者は禁錮及び罰金刑に処されることになっている。(因みに日本では反ユダヤ的言説やホロコースト否定論を裁く法律はなく、”言論の自由”の範囲内とされている!)。しかし戦後から年月が経つにつれて、戦後期はあれほど忌み嫌われた極右主義が顔をもたげ、政党を国会進出させ、21世紀にはフランス国会内の最多数議席の勢力を持つに至り、反ユダヤ的言辞も(法で禁止されているにもかかわらず)SNS上で大手を振るうようになっている。そしてイスラエルという国の現リーダーのやっていることに怒りを持って反対する多くのフランス人の見方が、ムード的に反ユダヤ論に加担してしまっている傾向もある。
ラシェルが”愛人”ピエール・アンゴからそういうムード的アンチ・セミティズム言辞を聞かされたことがあり、ラシェルは聞こえなかったふりをして流そうとしたが、心は傷つけられる。
ラシェルが”愛人”ピエール・アンゴからそういうムード的アンチ・セミティズム言辞を聞かされたことがあり、ラシェルは聞こえなかったふりをして流そうとしたが、心は傷つけられる。
「彼らはいささか図々しいではないか」とイスラエル建国(註:1948年)について言うのだ。「国をこんな風に取るなんて」... こんな風に国を奪い取るには、いささか遠慮知らずじゃないとできないだろうね、彼らには何でもない許されてると信じないとね...。こんなこと、きみだったらするかね? こんな風に国を奪い取るなんて、きみにはできるかね? 俺たちはそんな風には教育されてないんだ。 ピエールはラシェルに語気を強めてこう言ったのだ、あたかもイスラエル建国と悪い教育と品の無さと人が普通してはいけないこととが直結しているかのように。行儀悪くものを食べることのように。指でものを食べることのように。(・・・中略 ・・・)彼は車を運転しながら、呆れるほど驚いている口調でそう言ったのだ。それは無作法な奴らで、その目当てのものはただ一つ... みんなそれを言おうとはしないんだが、みんなそれが何かは知っている。金さ。まさに彼らを止めることなんか誰もできないんだ。国をこんな風に奪い取るなんて。川から海まで。そんなこと普通しないものだ。それだけさ。俺たちはそんなことしないんだ。(p21 - 22 赤字はカストール爺)
”シュワルツ”という名の”愛人”に直接的当てつけで、クリスティーヌの実父はそう言ったのだ。下品で図々しく金のために何でもできる連中がイスラエルを建国したのだ、と。ここでも強調されているのが、ピエール・アンゴという人物がラシェルに対する優位性(金においても、インテリジェンスにおいても、社会的地位においても、人種的等級においても)を悪びれもせず誇示していたという点。愛していても(と口では言う)結婚できないのは、身分の違いのせいだとはっきり言える男だった。そしてクリスティーヌの誕生の直後に、ブルジョワドイツ人女性(モニカという名)と結婚している。
ラシェルは自分は”アンゴ”にはなれないが、クリスティーヌには”アンゴ”になる権利があり、クリスティーヌは”シュワルツ”よりも”アンゴ”の方が幸福であろうと考えたのだろうか。執拗にピエールにクリスティーヌの認知を迫り、何度も「考えておくよ」とはぐらかされ、それは13年も待たされることになる。ラシェルとクリスティーヌの母娘がシャトールーを離れ、ランスに転居し、母は転職、娘はリセ新入生として新学年を迎える、というタイミングでピエールは認知に承諾する。クリスティーヌのことを誰も知らない土地のリセで、その新入生は”クリスティーヌ・アンゴ”という名前になる。どれだけ母娘は嬉しかったことだろうか。しかし、喜びはクリスティーヌには”近親相姦”という悪夢に代わる。
この小説の中で、作者は、ピエール・アンゴにとって、この「娘認知」と「近親相姦」は”物々交換”であったという説明をしている。渋りに渋ってきた婚外子認知(これは自分自身にもアンゴ家的にも汚点・醜聞になりうる)という百害あって一利もない(公式に記録される)申告で被った(自分の精神的)損害の代償として、自分たちの世界では「普通しないもの」として禁じられている近親相姦で払ってもらったのだ、と。
クリスティーヌ・アンゴは長年に渡って行使された父親の性暴力を告訴することを何度も試みているが、大多数の性暴力告発がそうであるように、被害者証言だけでは立件に至らず挫折する。そしてピエール・アンゴはアルツハイマー病に陥り、証言すら取れなくなり、”アンゴ近親相姦性暴力事件”は事実であったのかどうかも立証されない状態のまま、1998年、ピエール・アンゴはこの世を去る。そして衝撃の実名オートフィクション小説『近親相姦 L'Inceste 』は1999年に発表される。以来作家クリスティーヌ・アンゴは、自身の近親相姦体験の全容を暴露するように、何冊も同じ主題の小説を発表している。
この新著『私は名前を変える』の81ページから、2024年公開のクリスティーヌ・アンゴ監督のドキュメンタリー映画『ある家族 Une Famille 』で現れたストラズブールの義母モニカ・アンゴ(ピエール・アンゴの妻、映画の中では”エリザベート・ヴェヴェール Elisabeth Wever"という名になっていた)の家での義母との対話/衝突シーンが文章となって再現されている。(名前を除いて基本的に同じ内容なので、同映画の爺ブログ紹介記事を参照されたし)。それに続いて、(最後には友好的な対話になって別れたつもりだったので、全く予測していなかった)モニカ・アンゴから起こされた”家宅不法侵入”と”(クリスティーヌがモニカに行使した)暴行”への告訴裁判の一部始終が続く。アンゴ家は、ピエール・アンゴに着せられた近親相姦性暴行者の汚名を晴らすため、クリスティーヌを犯罪者として叩き潰すべく、全面戦争の構えで攻撃してきたのだ。アンゴ家はアンゴの名を汚すものを許さない。しかしそのアンゴ家のカルマであるかのように、ピエール・アンゴと同様に、モニカ・アンゴもアルツハイマー病に陥り、裁判は続けられなくなる....。
何故私は”アンゴ”を名乗り続けるのか? "アンゴ”は自分が13歳の時から肌に刻印され、自分の生を破壊し続けてきたものであるのに。その上”アンゴ”は今になって自分に戦争を仕掛けてきているのに。
そんな時に2023年10月7日、イスラエルで開催されていた音楽フェスティヴァルの群衆を襲ったパレスチナ武装勢力ハマスによるテロ攻撃(死者1200人以上)が起こり、クリスティーヌ・アンゴは著しい衝撃を受けるのである。そしてその直後にパリ第8大学講堂で開かれた集会で「10月7日テロを糾弾するか?」という壇上からの問いに応えて「Noooon !」と叫ぶ大群衆の映像を見るに至り、さらに激烈なショックを受け、思い余ってハマスのテロを間接的/直接的に肯定する人々を弾劾する投稿文を新聞社に送りつけたのである。たとえその記事の公表で、自分が”ユダヤ側”と見做されることになろうとも。
その勢いは、名前を”アンゴ”から”シュワルツ”に戻す、という公式な役所への”姓変更手続き”に進んでいく...。 "シュワルツ”に戻すということは、”アンゴ”の悪夢の前の自分を取り戻すこと。”シュワルツ”に戻すということはマリー、アンリ、オーギュスティーヌ、ジョゼフ(シュワルツ!)、ラシェル、エディット...の系図の中に自分の位置を取り戻すこと。”シュワルツ”に戻すということは、失われた自分の生を取り戻し、人生を再び愛すること...。
128ページめ、2026年4月、役所から届いた一通の手紙で、”シュワルツ”への改名は正式に許可される。小説はプルースト「見出された時」(『失われた時を求めて』最終章)のように、再び見出された”シュワルツ”との自己同一化の喜びで幕を閉じる。たぶんこの後、小説が書けなくなるのではないか、という気にもなるほどのハッピーエンドである。またクリスティーヌ・シュワルツは”ユダヤ化”するのではないか、という展開も薄々予想できるのであるが、それはそれ。
Christine Angot "Je change de nom"
Flammarion刊 2026年9月30日 132ページ 16,50ユーロ
この新著『私は名前を変える』の81ページから、2024年公開のクリスティーヌ・アンゴ監督のドキュメンタリー映画『ある家族 Une Famille 』で現れたストラズブールの義母モニカ・アンゴ(ピエール・アンゴの妻、映画の中では”エリザベート・ヴェヴェール Elisabeth Wever"という名になっていた)の家での義母との対話/衝突シーンが文章となって再現されている。(名前を除いて基本的に同じ内容なので、同映画の爺ブログ紹介記事を参照されたし)。それに続いて、(最後には友好的な対話になって別れたつもりだったので、全く予測していなかった)モニカ・アンゴから起こされた”家宅不法侵入”と”(クリスティーヌがモニカに行使した)暴行”への告訴裁判の一部始終が続く。アンゴ家は、ピエール・アンゴに着せられた近親相姦性暴行者の汚名を晴らすため、クリスティーヌを犯罪者として叩き潰すべく、全面戦争の構えで攻撃してきたのだ。アンゴ家はアンゴの名を汚すものを許さない。しかしそのアンゴ家のカルマであるかのように、ピエール・アンゴと同様に、モニカ・アンゴもアルツハイマー病に陥り、裁判は続けられなくなる....。
何故私は”アンゴ”を名乗り続けるのか? "アンゴ”は自分が13歳の時から肌に刻印され、自分の生を破壊し続けてきたものであるのに。その上”アンゴ”は今になって自分に戦争を仕掛けてきているのに。
そんな時に2023年10月7日、イスラエルで開催されていた音楽フェスティヴァルの群衆を襲ったパレスチナ武装勢力ハマスによるテロ攻撃(死者1200人以上)が起こり、クリスティーヌ・アンゴは著しい衝撃を受けるのである。そしてその直後にパリ第8大学講堂で開かれた集会で「10月7日テロを糾弾するか?」という壇上からの問いに応えて「Noooon !」と叫ぶ大群衆の映像を見るに至り、さらに激烈なショックを受け、思い余ってハマスのテロを間接的/直接的に肯定する人々を弾劾する投稿文を新聞社に送りつけたのである。たとえその記事の公表で、自分が”ユダヤ側”と見做されることになろうとも。
その勢いは、名前を”アンゴ”から”シュワルツ”に戻す、という公式な役所への”姓変更手続き”に進んでいく...。 "シュワルツ”に戻すということは、”アンゴ”の悪夢の前の自分を取り戻すこと。”シュワルツ”に戻すということはマリー、アンリ、オーギュスティーヌ、ジョゼフ(シュワルツ!)、ラシェル、エディット...の系図の中に自分の位置を取り戻すこと。”シュワルツ”に戻すということは、失われた自分の生を取り戻し、人生を再び愛すること...。
128ページめ、2026年4月、役所から届いた一通の手紙で、”シュワルツ”への改名は正式に許可される。小説はプルースト「見出された時」(『失われた時を求めて』最終章)のように、再び見出された”シュワルツ”との自己同一化の喜びで幕を閉じる。たぶんこの後、小説が書けなくなるのではないか、という気にもなるほどのハッピーエンドである。またクリスティーヌ・シュワルツは”ユダヤ化”するのではないか、という展開も薄々予想できるのであるが、それはそれ。
Christine Angot "Je change de nom"
Flammarion刊 2026年9月30日 132ページ 16,50ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)小林旭「昔の名前で出ています」(1975年)
(↓)小林旭「昔の名前で出ています」(1975年)
2026年10月2日金曜日
ライク・ア・ヴァージン
”Mémoire de fille"
『娘の記憶』
時は1958年、ノルマンディー地方の田舎の畜産食料品店の娘アニー(自己紹介の時”17歳半”と強調している)(演テス・バルテレミー)が、夏休みバイトで地方の城館を宿舎とするコロニー・ド・ヴァカンス(子供たちのヴァカンス合宿滞在)のお世話係(アニマトリス)として現地に赴く。窮屈な親元から離れて、ひと夏の間、(子供たちが寝静まったあと)同世代のアニマトゥール/アニマトリスたちといろいろ(いけない遊びも含めて)享楽しよう、あわよくば“出会い”もあるだろう、あわよくば“性体験”もあるだろう、とも思うのだが、聡明で感受性の強いアニーには想像と違う現実があった。同意も不同意もなく“成り行き上”の初の性体験は、天井の電球を見つめるだけの数分間で、結局“失敗”に終わる。それでも逞しい肉体と高圧的で身勝手な性格の男H(アニマトゥールのリーダー、23歳、フィアンセあり、未来の高校教師、演ヴィクトール・ボネル)を恋してしまい、それは成就するわけがない。孤立を恐れ、みんなと同じようでありたい、という弱さのあるアニーは成り行きで夜遊びの中に入り浸って、男たちに弄ばれ、女たちから軽蔑され、それでも…。巨食・拒食・生理不順… 精神を病んで夏は終わり、貧乏な家から独立自立するために、成績抜群にもかかわらず進学を捨てて家庭科教師になると、進路を変えた頃、リセの女哲学教師の講義で実存主義を知り、ルーアンの本屋でボーヴォワール『第二の性』を万引きする…。
あの時代、多くの娘たちが同じような体験をしたかもしれない。決して楽しかったことばかりではなく、“性”のことも含めて、さまざまな抑圧と対峙していた青春期。1968年(5月革命)はその10年先のこと。田舎、封建的でカトリック的な環境、男たちだけが(若くから)勝手にふるまえた時代に生きていた17歳の夏。そういうことがよく浮き彫りにされている映画。テス・バルテレミー、素晴らしい熱演。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『Mémoire de fille 娘の記憶』予告編
『娘の記憶』
2026年フランス映画
監督:ジュディット・ゴドレッシュ
主演:テス・バルテレミー、ヴァレリー・ドレヴィル、ヴィクトール・ボネル
原作:アニー・エルノー『娘の記憶』(2016年)
フランス公開:2026年9月30日
時は1958年、ノルマンディー地方の田舎の畜産食料品店の娘アニー(自己紹介の時”17歳半”と強調している)(演テス・バルテレミー)が、夏休みバイトで地方の城館を宿舎とするコロニー・ド・ヴァカンス(子供たちのヴァカンス合宿滞在)のお世話係(アニマトリス)として現地に赴く。窮屈な親元から離れて、ひと夏の間、(子供たちが寝静まったあと)同世代のアニマトゥール/アニマトリスたちといろいろ(いけない遊びも含めて)享楽しよう、あわよくば“出会い”もあるだろう、あわよくば“性体験”もあるだろう、とも思うのだが、聡明で感受性の強いアニーには想像と違う現実があった。同意も不同意もなく“成り行き上”の初の性体験は、天井の電球を見つめるだけの数分間で、結局“失敗”に終わる。それでも逞しい肉体と高圧的で身勝手な性格の男H(アニマトゥールのリーダー、23歳、フィアンセあり、未来の高校教師、演ヴィクトール・ボネル)を恋してしまい、それは成就するわけがない。孤立を恐れ、みんなと同じようでありたい、という弱さのあるアニーは成り行きで夜遊びの中に入り浸って、男たちに弄ばれ、女たちから軽蔑され、それでも…。巨食・拒食・生理不順… 精神を病んで夏は終わり、貧乏な家から独立自立するために、成績抜群にもかかわらず進学を捨てて家庭科教師になると、進路を変えた頃、リセの女哲学教師の講義で実存主義を知り、ルーアンの本屋でボーヴォワール『第二の性』を万引きする…。
あの時代、多くの娘たちが同じような体験をしたかもしれない。決して楽しかったことばかりではなく、“性”のことも含めて、さまざまな抑圧と対峙していた青春期。1968年(5月革命)はその10年先のこと。田舎、封建的でカトリック的な環境、男たちだけが(若くから)勝手にふるまえた時代に生きていた17歳の夏。そういうことがよく浮き彫りにされている映画。テス・バルテレミー、素晴らしい熱演。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『Mémoire de fille 娘の記憶』予告編
2026年9月29日火曜日
ロッシュルージュのがきんちょたち
"Les Roches Rouges"
『赤い岩山』
2026年ポルトガル+イタリア+フランス映画
監督:ブルーノ・デュモン
主演:ケイロン・ランセル(ジェオ)、ケルシー・ヴェルデイユ(エーヴ)
フランス公開:2026年9月23日
爺ブログはこれまでブルーノ・デュモンの映画を2本紹介している。2019年の『ジャンヌ(Jeanne)』と2024年の『帝国(L'Empire)』。どちらもややこしく、ハイブロウな映画だが、ブログ記事はかなり好意的に書いた。どちらも(というか他のほとんどのデュモン作品も)予算のせいというわけではなく、デュモンの出身地である北フランス(特にパ・ド・カレー地方)を撮影地に制作されている。デュモンは一貫した”北の映画人”という印象が強かった。
そして主演陣が6歳の子供たち6人。日本語表現で言うところの「年端もいかぬ」子たちである。あなた、5〜6歳の頃の記憶ありますか?私は全くありませんよ。アメリー・ノトンブは新生児の頃から記憶があるような小説を書いているが、ベルギー人は違うのかもしれない。似たような日本語表現で「分別のつかない子」というのがあるが、これは「善悪の判断や、自分の行動が周囲に与える影響をまだ十分に理解できない状態」の子、脳の発達途上の子、ということで年齢の目安としてゼロ〜3歳頃とされている。つまりこの映画に登場する子たちは分別がついていて、年端が行かないのである。テレビや映画などで、5〜6歳を演じるプロの子役というのはどういう頭脳をしているのだろうか?台本が読めて演技ができて役になりきることができる年端もいかない子というのは「リアル」に存在するのだろうか?明らかに作り物に見えてしまうCM映像や子供ドラマの明るく饒舌な5歳児6歳児って、厳しく(あるいは騙し騙し)調教されたらできるようになるのだろうか? しかしブルーノ・デュモン映画に登場するのはそんな子供たちではない。
「演技する」「演じる」という動詞はフランス語では "jouer(ジュエ)”、英語でも”play(プレイ)"であり、共に「遊ぶ」という意味でもある、というのがミソ。この子たちには「演じる」と「遊ぶ」に境界などない。6歳の子供たちが、夏にコート・ダジュールの海辺に居合わせること、それは日がな一日遊び回ることではないか。他に何が? 大きな大きな自由を謳歌する夏の子供たちだ。親の目から解き放たれたこの子たちの自由な遊びは苛烈で過激で痛快である。まず、(電気動力)子供用4輪バギーに相乗りして”公道で”全速力でぶっ飛ばす。パーキングに駐車している(大人の)自動車のトランクや座席から、物品を盗み、仲間で山分けする。そしてこの子たちが最も興奮する遊びは、海に突き出した赤い岩山の崖から海に飛び込むことである。恐れを知らないこの子たちは、より高い崖から飛び込みたい挑戦欲に猛ていて、高い崖へ、さらに高い崖へと飛び込み地点を高めていく...。(海岸警備隊のボートから「子供たち、崖から離れろ」と警告されるシーンあり)
2026年5月のカンヌ映画祭監督週間で初上映された後のインタヴューで、ブルーノ・デュモンが必死になって弁解していたのは、この6歳の子たちによる超危険な海クリフダイビングは全部”特撮”であるということで、実際に子供たちには60センチほどの高さから飛び降りさせて撮影した映像から”再加工”して絶壁ハイダイビング映像を作ったのだそう。実写だったら、間違いなくとんでもない児童虐待案件になっていただろう。しかし、この年端も行かぬ子供たちの飛び込みシーンがなんとも痛快で美しいのだよ。命知らず、分別知らずだけれど、何よりも自由。男の子も女の子もキャッキャ言いながら、空中に身を投げ出し、海に吸い込まれる...。
ちょっとディテールであるが、この子たちは日本語で言うところの「カッパ」ではない。つまり海育ちで泳ぐことが走ることのように自在にできる泳ぎ手ではない。リーダー格で無敵の飛び込みチャンピオンのジェオ(演ケイロン・ランセル)は、犬かき泳ぎで、時々水中に顔が隠れるアップアップ泳ぎなのが可笑しい。それはそれ。
この夏のヴァカンス地で、同じように4輪バギーを乗り回し、崖ダイビングに興じる3人組がきんちょグループが二つ。一つはジェオを中心としたマノン(女の子)とルーベン(男の子)の3人組、もう一つは”B"(というアルファベットひと文字の通り名を持つ男の子、演アレッサンドロ・ピクエラ)をリーダーとしたエーヴ(女の子、演ケルシー・ヴェルデイユ)とド(女の子)の3人組。なぜグループが二つあるかというと、それは反目しあっているからである。シャーク団とジェット団みたいな。そしてこの映画の大まかなストーリー運びが「ウェストサイド物語」(「ロメオとジュリエット」)もじりの流れになっているのは、おたがい敵対するグループの一員であるジェオとエーヴ(↑写真)が恋仲になる、という...。ジェオがエーヴを誘って、無賃乗車でTER(国鉄地方急行)で(同じ地中海沿いで国境の向こうの)イタリアのヴェンティミーリアまで二人旅をするところなど、ラジカルにしてロマンティック。
勝手にエーヴのことを自分の愛人だと思っていた”B”は嫉妬に怒り狂い、ジェオを殺してやると息巻いている。ジェオもエーヴのことを一途に恋焦がれているので、”B”と決着をつける時が来ることを知っている。そして、その時が来た....。
と、ストーリーっぽいことをなぞって書いてきたけれど、実際に映画で見えるものはそんな単純なものではない。子供たちは演技しないで遊んでいる、というのが先行してしまうので、生々しいドキュメンタリー映像のような、大写し大アップの子供の”素(す)”の顔が大いにモノを言っている。ブルーノ・デュモンの(撮影後)”編集”は、脚本ストーリーに合わせるという作業ではなく、子供たちのおおいなる自由を第一に浮き出そうとしたのだろう。”子役”としての立ち回りなどどうでもいい、このジェオの予測不可能な顔表情の変化の方が、この映画が見せたかったものなのだろう。
『赤い岩山』
2026年ポルトガル+イタリア+フランス映画
監督:ブルーノ・デュモン
主演:ケイロン・ランセル(ジェオ)、ケルシー・ヴェルデイユ(エーヴ)
フランス公開:2026年9月23日
爺ブログはこれまでブルーノ・デュモンの映画を2本紹介している。2019年の『ジャンヌ(Jeanne)』と2024年の『帝国(L'Empire)』。どちらもややこしく、ハイブロウな映画だが、ブログ記事はかなり好意的に書いた。どちらも(というか他のほとんどのデュモン作品も)予算のせいというわけではなく、デュモンの出身地である北フランス(特にパ・ド・カレー地方)を撮影地に制作されている。デュモンは一貫した”北の映画人”という印象が強かった。
ところが、この新作は地中海・コート・ダジュールが舞台なのだ。これまでとは色彩が違う。空も海も大地も町も人のなりも。季節は夏。場所はヴァール県の海浜保養地サン・ラファエルに隣接する入江の町アンテオール、赤い火山岩のエステレル山地が海岸にまで突き出ていて、紺碧海岸(コート・ダジュール)の海の青と岩山の赤のコントラストが美しい。入江のビーチのすぐ背後に高い鉄道陸橋が架かっていて、その上をTER(国鉄地方急行便)が走っている。映画の中でもその風景映像が何度も挿入されるが、映画が絵ハガキ的な撮り方はしていないにしても、このロケーションの絵画的美しさはよくわかる。古くから幾多の画家たちを寄せつけ魅了したあのコート・ダジュールだ。当たり前だが、シュティの国とはかなり違う。
そして主演陣が6歳の子供たち6人。日本語表現で言うところの「年端もいかぬ」子たちである。あなた、5〜6歳の頃の記憶ありますか?私は全くありませんよ。アメリー・ノトンブは新生児の頃から記憶があるような小説を書いているが、ベルギー人は違うのかもしれない。似たような日本語表現で「分別のつかない子」というのがあるが、これは「善悪の判断や、自分の行動が周囲に与える影響をまだ十分に理解できない状態」の子、脳の発達途上の子、ということで年齢の目安としてゼロ〜3歳頃とされている。つまりこの映画に登場する子たちは分別がついていて、年端が行かないのである。テレビや映画などで、5〜6歳を演じるプロの子役というのはどういう頭脳をしているのだろうか?台本が読めて演技ができて役になりきることができる年端もいかない子というのは「リアル」に存在するのだろうか?明らかに作り物に見えてしまうCM映像や子供ドラマの明るく饒舌な5歳児6歳児って、厳しく(あるいは騙し騙し)調教されたらできるようになるのだろうか? しかしブルーノ・デュモン映画に登場するのはそんな子供たちではない。
「演技する」「演じる」という動詞はフランス語では "jouer(ジュエ)”、英語でも”play(プレイ)"であり、共に「遊ぶ」という意味でもある、というのがミソ。この子たちには「演じる」と「遊ぶ」に境界などない。6歳の子供たちが、夏にコート・ダジュールの海辺に居合わせること、それは日がな一日遊び回ることではないか。他に何が? 大きな大きな自由を謳歌する夏の子供たちだ。親の目から解き放たれたこの子たちの自由な遊びは苛烈で過激で痛快である。まず、(電気動力)子供用4輪バギーに相乗りして”公道で”全速力でぶっ飛ばす。パーキングに駐車している(大人の)自動車のトランクや座席から、物品を盗み、仲間で山分けする。そしてこの子たちが最も興奮する遊びは、海に突き出した赤い岩山の崖から海に飛び込むことである。恐れを知らないこの子たちは、より高い崖から飛び込みたい挑戦欲に猛ていて、高い崖へ、さらに高い崖へと飛び込み地点を高めていく...。(海岸警備隊のボートから「子供たち、崖から離れろ」と警告されるシーンあり)
2026年5月のカンヌ映画祭監督週間で初上映された後のインタヴューで、ブルーノ・デュモンが必死になって弁解していたのは、この6歳の子たちによる超危険な海クリフダイビングは全部”特撮”であるということで、実際に子供たちには60センチほどの高さから飛び降りさせて撮影した映像から”再加工”して絶壁ハイダイビング映像を作ったのだそう。実写だったら、間違いなくとんでもない児童虐待案件になっていただろう。しかし、この年端も行かぬ子供たちの飛び込みシーンがなんとも痛快で美しいのだよ。命知らず、分別知らずだけれど、何よりも自由。男の子も女の子もキャッキャ言いながら、空中に身を投げ出し、海に吸い込まれる...。
ちょっとディテールであるが、この子たちは日本語で言うところの「カッパ」ではない。つまり海育ちで泳ぐことが走ることのように自在にできる泳ぎ手ではない。リーダー格で無敵の飛び込みチャンピオンのジェオ(演ケイロン・ランセル)は、犬かき泳ぎで、時々水中に顔が隠れるアップアップ泳ぎなのが可笑しい。それはそれ。
この夏のヴァカンス地で、同じように4輪バギーを乗り回し、崖ダイビングに興じる3人組がきんちょグループが二つ。一つはジェオを中心としたマノン(女の子)とルーベン(男の子)の3人組、もう一つは”B"(というアルファベットひと文字の通り名を持つ男の子、演アレッサンドロ・ピクエラ)をリーダーとしたエーヴ(女の子、演ケルシー・ヴェルデイユ)とド(女の子)の3人組。なぜグループが二つあるかというと、それは反目しあっているからである。シャーク団とジェット団みたいな。そしてこの映画の大まかなストーリー運びが「ウェストサイド物語」(「ロメオとジュリエット」)もじりの流れになっているのは、おたがい敵対するグループの一員であるジェオとエーヴ(↑写真)が恋仲になる、という...。ジェオがエーヴを誘って、無賃乗車でTER(国鉄地方急行)で(同じ地中海沿いで国境の向こうの)イタリアのヴェンティミーリアまで二人旅をするところなど、ラジカルにしてロマンティック。
勝手にエーヴのことを自分の愛人だと思っていた”B”は嫉妬に怒り狂い、ジェオを殺してやると息巻いている。ジェオもエーヴのことを一途に恋焦がれているので、”B”と決着をつける時が来ることを知っている。そして、その時が来た....。
と、ストーリーっぽいことをなぞって書いてきたけれど、実際に映画で見えるものはそんな単純なものではない。子供たちは演技しないで遊んでいる、というのが先行してしまうので、生々しいドキュメンタリー映像のような、大写し大アップの子供の”素(す)”の顔が大いにモノを言っている。ブルーノ・デュモンの(撮影後)”編集”は、脚本ストーリーに合わせるという作業ではなく、子供たちのおおいなる自由を第一に浮き出そうとしたのだろう。”子役”としての立ち回りなどどうでもいい、このジェオの予測不可能な顔表情の変化の方が、この映画が見せたかったものなのだろう。
赤い岩を背景としたウェスタン映画、グラン・ブルーな海と空、自由と友情とライヴァル関係、生まれつつある禁じられた恋、決闘と流血、幸福の大団円...。いっぱい詰まっているようだが、そうは見えない”素(す)”の子供たちの自由と遊びがすべてに勝る映画。わからない人多いと思う。私の観た映画館では(以前のブルーノ・デュモン映画でも同じことを体験しているが)上映途中で出ていく観客が結構いたので。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『レ・ロッシュ・ルージュ 赤い岩山』予告編
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『レ・ロッシュ・ルージュ 赤い岩山』予告編
2026年9月21日月曜日
若い若い 若い二人のことだもの
”Adieu Monde Cruel"
『さらば無情の世界』
2026年フランス+ベルギー映画
ひとりで見知らぬ土地にたどり着いたオットーは、自責の念と絶望と疲労から道に倒れ、病いに陥るが、やはりオットーのようにこの世を呪って家出した少年に救われ、少年のすみか(多分不法侵入滞在)で介抱され、回復に向かう。一方レナは(誰にも母親にも言えない事情だが)オットーを失った(オットーに裏切られた)ショックを隠して、平静を装い学校に通っていたが、心身を壊して倒れてしまい、病院に収容される。体力を取り戻したオットーは電話で何度もレナとのコンタクトをはかろうとするが、果たせない。やっとホテルに電話がつながり、(初めて声を聞く)レナの母親から、レナが入院していることを知る。
オットーは意を決してリジューに戻って行く。
折しもリジューの町では、事件から数週間経ち行方不明のオットー・ヴィダル少年を死んだものと結論し、有志の人たちが主催して(「いじめ」で死んだオットーを鎮魂する無言の)「白の行進」(AIによる説明「フランスなどでよく見られる、悲劇的な事件に対する『無言の抗議行進』。参加者が白いものを身につけて沈黙を保ちながら歩くことで、犠牲者への哀悼と、社会への静かな抗議を示します。」)が行われようとしていた。コレージュの生徒たちをはじめ数百人の白い服を着た町民たちが集まり、その先頭にオットーの母親がいた。オットーはその行進の列に紛れ込み、先頭にいる母を後ろから凝視して歩いて行った。そして行進の最終地点の広場まで辿り着き、母親が後ろを振り返った。オットーと母親の目と目が合ってしまった。参加者たちの手から数百の白い風船が空に向かって放たれた。(エンドマーク)
生きることの難しさと、生きる世界に還ることの難しさ、若い頃、十代の頃、太宰なんか読んだばっかりに、そんなことを考えたことは多くの人にあるはず。そういう映画やテレビドラマ、昔はたくさんあったのですよ。私のような70歳過ぎた年寄りには、本当に懐かしいのですよ、この”青さ”が。こういう”青さ”を描く映画って21世紀的にあったりするのだろうか?この若いアクター/アクトレスは本当に素晴らしい。どんなに辛くても生の世界に還ることを選択する持って行き方、この映画の評価はここで決まるのだと思う。さまざまなヌーヴェルヴァーグ映画への目配せもよく効いている。カトリック、ノルマンディー、そのくせ神も仏もない世界。残酷で無情な世界。さらば、と日記に書いていた少年時代、少女時代。孤独な魂がふたつ出会って救済されていくのも、この世界で起こること。映画は魔法でそういうことを思い出させてくれるのですよ。フェリックス・ド・ジヴリ(34歳)の初長編映画、感服しました。次作も期待します。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『さらば無情の世界 Adieu Monde Cruel』予告編
(↓)「無情の世界」ー ローリング・ストーンズ (1969年)
『さらば無情の世界』
2026年フランス+ベルギー映画
監督:フェリックス・ド・ジヴリ
主演:ミロ・マシャド=グラネ、ジェーン・ビーヴァー
音楽:アルノー・トゥーロン
フランスでの公開:2026年9月9日
その昔には、映画観たあとすぐにレコード屋に行ってサントラ盤を買い求めたくなるような、強烈に映画音楽に印象づけられる映画というのがあった。この映画のほとんどを包み込むようなアルノー・トゥーロン作曲のピアノ(+管弦アンサンブル)の抒情的でメランコリックな音楽は、そういう時代の映画音楽を彷彿とさせる。テレラマ誌はヌーヴェル・ヴァーグ派(とりわけフランソワ・トリュフォー)の代表的な映画音楽作家だったジョルジュ・ドルリューを引き合いに出して評していた。この映画にはやや古風なことにナレーションがついていて、語り手はフランソワーズ・ルブラン(今年82歳になる現役女優だが、ヌーヴェル・ヴァーグ時代ジャン・ユスタッシュ監督の『ママと娼婦 La maman et la putain』のヴェロニカ役で特に有名)で、落ち着いた文芸的な口調は耳に優しい。さらに言えば、この映画はなんと16ミリフィルムで撮られていて、デジタル映像で慣れてしまった目には、この”粗い”画質はおのずと20世紀的映画体験を想起させることになる。この映画は「トリュフォー的」と前評判が立っていたのには、これだけの要素でも納得できる。
映画の時代はほぼ現在であるが、主人公が郵便局で手紙を早く送るには「赤い切手 timbre rouge」(普通便=赤い切手、エコノミー便=緑の切手と分かれていた)を貼ればいいと説明を受けるシーンがあり、赤い切手は2022年末で廃止されているので、2022年以前ということになる。場所は(フランスで最も雨の多い地方)ノルマンディー地方カルヴァドス県のリジュー、同地出身の聖女テレーズ(1873 - 1897)を祀る聖堂があり、ルールドに次ぐフランス第二のカトリック巡礼地になっている。その町の私立カトリック系コレージュに通う14歳の少年オットー(演ミロ・マシャド=グラネ、2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『ある転落死の解剖分析 Anatomie d'une chute 』の目の不自由な息子ダニエル役で既に高い評価)は、クラスの数人から長期間に渡って「いじめ」を受けていて、この世界に自分の居場所はないと、自殺することを決意する。さらば無情の世界。学校とクラスメートたちへの怨念を込めた遺書をしたため、同学年の生徒全員分フォトコピーをして封筒に入れ、52通の封書に(↑)赤切手を貼って投函した。夜間、飼っていたハムスターを森の中に解放してやり、その足でトーク川の急流に架る橋から身投げした。オットーの体は急流に流され、岩に何度もぶつかりながら下流(英仏海峡方向)に落ちていくが、何の力が作用したのか... 死なない。ずぶ濡れの態で岸に上がり、自殺の失敗を悟る。後戻りもやむなし。オットーは夜闇の中、遺書を投函したポストまで戻り、郵便函を壊して遺書を回収しようとするが、郵便函はどうしても壊れない。もう後戻りはできない。こうなったらこの町から消滅するだけだ。廃屋になっていた旧寄宿舎に籠り、ずぶ濡れの衣服を乾かし、こっそり町の残飯を拾ってきて食べるというホームレスサバイバルが始まる。
一方学校ではオットーの失踪と遺書が発覚し、警察による本格的な捜査が始まり、地方新聞がどアップのオットーの顔写真を載せ、捜査協力を訴え、公共テレビ地方局も同じように写真つき実名報道をした。町中の掲示板に行方不明者オットーの手配写真が貼られ、学校では同級生たちへの聞き込み捜査が。だが川で発見されたオットーの身の回り品などから、生存は絶望的だろうと誰もが思っていた。
さてその同学年に目立たないが虚無的性向(生きる意味って何だろう)の孤独系赤毛の少女レナ(演ジェーン・ビーヴァー、映画初出演)がいる。多分母子家庭、母親が経営する老朽化した(エレベーターなし、レストラン付き)ホテルの最上階に自分の部屋を持ち、学校の時間以外はホテルのさまざまな雑務(レセプション、ルーム係、レストラン給仕、会計...)で母親を手伝っていて、外出する時間は限られているが、他の子たちよりも”実社会”を知っているタイプ。子供の頃から遊び場のようにしてきたそのホテルの隅々まで知っていて、会計レジの鍵も任されている(←ここ重要)。
そのレナがある夜ホームレスサバイバル中のオットーと遭遇してしまう。廃屋寄宿舎に隠れ棲んでいるのを突き止め、レナは接触を試みる。怖がらないで、私はあなたの味方よ。ここより安全な場所があるから、捜索の手が及ぶ前にここを出て。
主演:ミロ・マシャド=グラネ、ジェーン・ビーヴァー
音楽:アルノー・トゥーロン
フランスでの公開:2026年9月9日
その昔には、映画観たあとすぐにレコード屋に行ってサントラ盤を買い求めたくなるような、強烈に映画音楽に印象づけられる映画というのがあった。この映画のほとんどを包み込むようなアルノー・トゥーロン作曲のピアノ(+管弦アンサンブル)の抒情的でメランコリックな音楽は、そういう時代の映画音楽を彷彿とさせる。テレラマ誌はヌーヴェル・ヴァーグ派(とりわけフランソワ・トリュフォー)の代表的な映画音楽作家だったジョルジュ・ドルリューを引き合いに出して評していた。この映画にはやや古風なことにナレーションがついていて、語り手はフランソワーズ・ルブラン(今年82歳になる現役女優だが、ヌーヴェル・ヴァーグ時代ジャン・ユスタッシュ監督の『ママと娼婦 La maman et la putain』のヴェロニカ役で特に有名)で、落ち着いた文芸的な口調は耳に優しい。さらに言えば、この映画はなんと16ミリフィルムで撮られていて、デジタル映像で慣れてしまった目には、この”粗い”画質はおのずと20世紀的映画体験を想起させることになる。この映画は「トリュフォー的」と前評判が立っていたのには、これだけの要素でも納得できる。
映画の時代はほぼ現在であるが、主人公が郵便局で手紙を早く送るには「赤い切手 timbre rouge」(普通便=赤い切手、エコノミー便=緑の切手と分かれていた)を貼ればいいと説明を受けるシーンがあり、赤い切手は2022年末で廃止されているので、2022年以前ということになる。場所は(フランスで最も雨の多い地方)ノルマンディー地方カルヴァドス県のリジュー、同地出身の聖女テレーズ(1873 - 1897)を祀る聖堂があり、ルールドに次ぐフランス第二のカトリック巡礼地になっている。その町の私立カトリック系コレージュに通う14歳の少年オットー(演ミロ・マシャド=グラネ、2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『ある転落死の解剖分析 Anatomie d'une chute 』の目の不自由な息子ダニエル役で既に高い評価)は、クラスの数人から長期間に渡って「いじめ」を受けていて、この世界に自分の居場所はないと、自殺することを決意する。さらば無情の世界。学校とクラスメートたちへの怨念を込めた遺書をしたため、同学年の生徒全員分フォトコピーをして封筒に入れ、52通の封書に(↑)赤切手を貼って投函した。夜間、飼っていたハムスターを森の中に解放してやり、その足でトーク川の急流に架る橋から身投げした。オットーの体は急流に流され、岩に何度もぶつかりながら下流(英仏海峡方向)に落ちていくが、何の力が作用したのか... 死なない。ずぶ濡れの態で岸に上がり、自殺の失敗を悟る。後戻りもやむなし。オットーは夜闇の中、遺書を投函したポストまで戻り、郵便函を壊して遺書を回収しようとするが、郵便函はどうしても壊れない。もう後戻りはできない。こうなったらこの町から消滅するだけだ。廃屋になっていた旧寄宿舎に籠り、ずぶ濡れの衣服を乾かし、こっそり町の残飯を拾ってきて食べるというホームレスサバイバルが始まる。
一方学校ではオットーの失踪と遺書が発覚し、警察による本格的な捜査が始まり、地方新聞がどアップのオットーの顔写真を載せ、捜査協力を訴え、公共テレビ地方局も同じように写真つき実名報道をした。町中の掲示板に行方不明者オットーの手配写真が貼られ、学校では同級生たちへの聞き込み捜査が。だが川で発見されたオットーの身の回り品などから、生存は絶望的だろうと誰もが思っていた。
さてその同学年に目立たないが虚無的性向(生きる意味って何だろう)の孤独系赤毛の少女レナ(演ジェーン・ビーヴァー、映画初出演)がいる。多分母子家庭、母親が経営する老朽化した(エレベーターなし、レストラン付き)ホテルの最上階に自分の部屋を持ち、学校の時間以外はホテルのさまざまな雑務(レセプション、ルーム係、レストラン給仕、会計...)で母親を手伝っていて、外出する時間は限られているが、他の子たちよりも”実社会”を知っているタイプ。子供の頃から遊び場のようにしてきたそのホテルの隅々まで知っていて、会計レジの鍵も任されている(←ここ重要)。
そのレナがある夜ホームレスサバイバル中のオットーと遭遇してしまう。廃屋寄宿舎に隠れ棲んでいるのを突き止め、レナは接触を試みる。怖がらないで、私はあなたの味方よ。ここより安全な場所があるから、捜索の手が及ぶ前にここを出て。
ホテルの21号室。そこは殺人事件があっただか、自殺者が出ただか、そういう理由で”開かずの間”として封印されていて、従業員も女主人も近づかないようにしている。レナはそこをオットーの当座の隠れ家として当てがい、ちょうどその真上にあるレナの部屋との間を行き来して、食料や着替え衣類などを差し入れる。このローティーンの二人のあたかも冒険好きな子供の秘密基地遊びのような幼さがいい。二人でドアノックの暗号を決めたり(簡単に忘れてしまうのだけど)。日中はオットーは音を立てず部屋の中で大人しく籠城しているしかないが、レナが学校から戻り、ホテル雑務の手伝いが終わると、21号室で二人は食事し、終わると最上階から屋根の上に出て、二人は夕闇→星空の下で語り始める。すべてについて。残酷な世界にいる少年と少女は、二人ともその世界を呪い、その世界に押しつぶされかけているから身を寄せ合う。その語り合う言葉は、何ら文学的な抽象性などなく、少年少女の生の言葉なのだ。それを要約するようなナレーションのフランソワーズ・ルブランの語りも優しい。二人は毎夜語り、この世界は二人で身を寄せていれば生きていけそうな気がしてくる。二人は初めて唇を重ね、いつしかレナは21号室のベッドで少年の傍に身を横たえて夜を明かし、夜明けに自分の部屋に戻るようになる。
オットーはこの少女と一緒に生き直したいと思うようになる。レナはオットーと共に行く新しい世界をイメージする。二人は”出発”を準備する。顔写真で世に知れ渡ったオットーの髪を染めて変身させ、ホテルのレジ金庫から現金を盗み出し... ー このレナの行動力の素晴らしさよ。しかし.... 日を決めて二人で出発しようとする頃に、ノルマンディーに雨が降るのである!(ノルマンディーのラッパー オレルサン「雨」)どうしてこんなに雨が降るんだ、ノルマンディーは!雨は続き、レナの母親の経営するホテルにもあちこちに雨漏りが出て、宿泊客からクレームが...。レナがまだ学校に行っている時間の出来事。レナの母親は従業員に、全部の部屋の雨漏りチェックをしてちょうだい、21号室も忘れないでね、と。ひとりで21号室にいたオットーはレナでない人間が初めて部屋に入ってくる気配にパニックに陥り、旅支度で用意していたバッグとレナが準備していた現金を抱え、ひとりで21号室から逃亡し、一目散で国鉄駅に向かい、最初に来た電車に飛び乗るのである...。
オットーがいなくなったことを察して、レナは全速力で走り出し、町中を探し回るのである。(↓)このシーン、このクリップはループで同じところばかり繰り返してるけれど、感じはわかるはず。私、ここでど〜っと涙が迸り出ましたね。
オットーはこの少女と一緒に生き直したいと思うようになる。レナはオットーと共に行く新しい世界をイメージする。二人は”出発”を準備する。顔写真で世に知れ渡ったオットーの髪を染めて変身させ、ホテルのレジ金庫から現金を盗み出し... ー このレナの行動力の素晴らしさよ。しかし.... 日を決めて二人で出発しようとする頃に、ノルマンディーに雨が降るのである!(ノルマンディーのラッパー オレルサン「雨」)どうしてこんなに雨が降るんだ、ノルマンディーは!雨は続き、レナの母親の経営するホテルにもあちこちに雨漏りが出て、宿泊客からクレームが...。レナがまだ学校に行っている時間の出来事。レナの母親は従業員に、全部の部屋の雨漏りチェックをしてちょうだい、21号室も忘れないでね、と。ひとりで21号室にいたオットーはレナでない人間が初めて部屋に入ってくる気配にパニックに陥り、旅支度で用意していたバッグとレナが準備していた現金を抱え、ひとりで21号室から逃亡し、一目散で国鉄駅に向かい、最初に来た電車に飛び乗るのである...。
オットーがいなくなったことを察して、レナは全速力で走り出し、町中を探し回るのである。(↓)このシーン、このクリップはループで同じところばかり繰り返してるけれど、感じはわかるはず。私、ここでど〜っと涙が迸り出ましたね。
ひとりで見知らぬ土地にたどり着いたオットーは、自責の念と絶望と疲労から道に倒れ、病いに陥るが、やはりオットーのようにこの世を呪って家出した少年に救われ、少年のすみか(多分不法侵入滞在)で介抱され、回復に向かう。一方レナは(誰にも母親にも言えない事情だが)オットーを失った(オットーに裏切られた)ショックを隠して、平静を装い学校に通っていたが、心身を壊して倒れてしまい、病院に収容される。体力を取り戻したオットーは電話で何度もレナとのコンタクトをはかろうとするが、果たせない。やっとホテルに電話がつながり、(初めて声を聞く)レナの母親から、レナが入院していることを知る。
オットーは意を決してリジューに戻って行く。
折しもリジューの町では、事件から数週間経ち行方不明のオットー・ヴィダル少年を死んだものと結論し、有志の人たちが主催して(「いじめ」で死んだオットーを鎮魂する無言の)「白の行進」(AIによる説明「フランスなどでよく見られる、悲劇的な事件に対する『無言の抗議行進』。参加者が白いものを身につけて沈黙を保ちながら歩くことで、犠牲者への哀悼と、社会への静かな抗議を示します。」)が行われようとしていた。コレージュの生徒たちをはじめ数百人の白い服を着た町民たちが集まり、その先頭にオットーの母親がいた。オットーはその行進の列に紛れ込み、先頭にいる母を後ろから凝視して歩いて行った。そして行進の最終地点の広場まで辿り着き、母親が後ろを振り返った。オットーと母親の目と目が合ってしまった。参加者たちの手から数百の白い風船が空に向かって放たれた。(エンドマーク)
生きることの難しさと、生きる世界に還ることの難しさ、若い頃、十代の頃、太宰なんか読んだばっかりに、そんなことを考えたことは多くの人にあるはず。そういう映画やテレビドラマ、昔はたくさんあったのですよ。私のような70歳過ぎた年寄りには、本当に懐かしいのですよ、この”青さ”が。こういう”青さ”を描く映画って21世紀的にあったりするのだろうか?この若いアクター/アクトレスは本当に素晴らしい。どんなに辛くても生の世界に還ることを選択する持って行き方、この映画の評価はここで決まるのだと思う。さまざまなヌーヴェルヴァーグ映画への目配せもよく効いている。カトリック、ノルマンディー、そのくせ神も仏もない世界。残酷で無情な世界。さらば、と日記に書いていた少年時代、少女時代。孤独な魂がふたつ出会って救済されていくのも、この世界で起こること。映画は魔法でそういうことを思い出させてくれるのですよ。フェリックス・ド・ジヴリ(34歳)の初長編映画、感服しました。次作も期待します。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『さらば無情の世界 Adieu Monde Cruel』予告編
(↓)アルノー・トゥーロンによるサントラから「序曲」
(↓)「無情の世界」ー ローリング・ストーンズ (1969年)
2026年9月18日金曜日
恐怖のボディスワップ(肉体乗り移り)
"L'Inconnue"
『見知らぬ女』
2026年フランス映画
監督:アルチュール・アラリ
主演:レア・セイドゥー、ニルス・シュネデール
原作:ルカ・アラリ作BD『ダヴィッド・ジメルマンの場合(Le Cas David Zimmerman)』(2024年)
フランス公開:2026年8月26日
この夏のヴァカンスで、わが家は南西フランス(オクシタニア)の中世の姿をそのまま残した町や村を多く訪問した。水道・電気・ガス・通信などのインフラストラクチャーは今日のものだが、中世の姿は留められ保存されていて自治体および住民たちはこれを大切なものと考えている。たぶん何世代にも渡って同じ姿の環境で人々の営みは続けられてきたのだろう。それに引き換え、目まぐるしく姿を変え続ける町もある。大都市郊外である。歴史的建造物を多く抱える大都市は国策としてその文化遺産が保存されている。20世紀に入り、大都市人口集中の受け皿として、郊外は急速に大挙して流入してきた労働者たちの住宅地区として”発展”していったが、その姿は10年も同じかたちを留めず、古いものを壊し、増え続ける人口に対応する新しい建築と機能をつぎはぎ的に加えていった。そのパリ郊外の目まぐるしい変貌を(銀塩写真で!)写真として記録していく、ということをコツコツと続けているフォトグラファーが、この映画の主人公のダヴィッド・ジメルマン(演ニルス・シュネデール)であった。過去が捨てられ、住民の記憶も軽んじられて変化していく郊外の膨大な量の写真資料と、その現在を撮り続けていく...。映画の中で何枚も写真が挿入されるのだが、この仕事、非常に興味深い。惜しげもなく過去を消される、人々の過去が簡単に消去されることの象徴なのか。この怪奇スリラー映画の一見奇想天外な展開とどう関係があるのか、と途中まで思ってしまうが、終わりにじわじわと分かってくる。
地味にドキュメンタリー的郊外都市写真を撮り続ける孤独のフォトグラファーダヴィッドを贔屓にしている富豪紳士が、その金婚式祝宴にポートレイト写真を撮らせるために招き、その金婚ガーデンパーティーの準備をしていた一人の女給(演レア・セイドゥー)がテーブルセッティング中に誤って皿を(大きな音を立てて)割ってしまい、(声は聞こえないが)現場責任者から「おまえはクビだ!出て行け!」と言われたようで、エプロンを外してその場を去っていくシーンにダヴィッドの目が釘付けになる。同時にその富豪のポートレイト写真を撮り終えたダヴィッドは、その去っていく女給の後を追い、とっさにカメラのシャッターを押し、カメラはその振り向きざまの顔を捉える。自宅暗室で現像して出てきたのがこの写真(→)。
郊外写真の仕事に没頭しがちでめったに人とも会わないダヴィッドが、友人たちの強烈な誘いに嫌々ながら出て行った、かなりセレクトでアーティな新年カウントダウンパーティー、その奇抜にドレスアップした参加者たちの(ドラッグ効果ありの)奇態を冷めた傍観者のように眺めていると、踊り狂う人並みの中に忽然とあのクビになった女給があの時と全く同じトレンチコート姿で現れる。目と目が合う。二人は強烈な磁力で引きつけ合うように、距離を縮め、予め申し合わせてあったかのように、人目を避けてパーティーの間のバックステージに入り、床に倒れ込み、着衣のままあたかも女が男を強姦するかのように女性騎乗位で極端に激しい性交を始める。(この間一切セリフなし)そして短時間で極端に激しいオーガズムに達し、断末魔の叫びのような激烈な発声を響かせ、失神する。ー ダヴィッドが気がつくと、あの女の姿はすでにない。だが異変はすぐに分かった。自分の姿がトレンチコートを着た髪の長い女に変わってしまっている。
映画の中では出てこない言葉であるが、これをSFフィクションなどの世界では「ボディスワップ(body swap)」と呼ぶ。映画タイトルである”L'inconnue”(見ず知らずの女)とダヴィッドの肉体が入れ替わってしまったのだ。これを一応私は映画題らしく「見知らぬ女」と訳したのだが、実はダヴィッドはこの女を見て知っているので、この日本語はおかしいことになる。厳密には”素性を知らない女”なのだ。この悪夢の始まりの時点で、ダヴィッドは自分の肉体はどこに行ったのかと考える。きっとあの女がダヴィッドの体になったに違いない。誰にもこの異変を分からせない状態で、(ダヴィッドの体になった)あの女を見つけ出し、なんとか元通りになる術(すべ)を見つけ出さなければならない。
2020年代的現在を設定した映画なので、情報はインターネット上でいろいろ見つかってくる。その女はエヴァ・ヘルシンガーという名のドイツ系の端役女優で、パリの小さなアパルトマンに住んでいる。また動画系SNSからは、市中で奇行をするダヴィッドの映像が報告されてくる。おそらくダヴィッドの姿になったエヴァも大変なパニックに陥っているはずだ。
映画は”エヴァの体になったダヴィッド”という人格と違う(しかも性別も違う)肉体を持った人間をレア・セイドゥーが演じるわけだが、難しい役とは思うけれど、その複雑さはなかなか演技化できないものでしょうよ。特撮やアニメでは映像化できそうだけど、それをしないで実写映画で通すというところが、監督アルチュール・アラリの挑戦なんでしょうが...。陳腐に”男っぽい”演技のレア・セイドゥーという逃げ方ではもちろんない。難しい。
誰にもこのボディスワップを知られないように隠れながら(誰かに告白したとしても誰にも信じてもらえる可能性はゼロなのだが)、”エヴァの体になったダヴィッド”は必死に、ありとあらゆる方法を使って、”ダヴィッドの体になったエヴァ”を探し、ついにその”外面を持った”人間を見つけたのだが、それは”ダヴィッドの体になったエヴァ”ではなく、”ダヴィッドの体になった別の女”であった。つまり、”ダヴィッドの体になったエヴァ”は(おそらく別の肉体に乗り移ろうとして)ダヴィッドの体を使って、一人の娘と出合いがしらに(エヴァとダヴィッドがしたように)極端に激しい性交をし、失神から覚めると娘はダヴィッドの体になっていて、相手は(おそらく娘の体になって)姿を消している...。新しくダヴィッドの体になった娘はマリアという名前で(マリアの姿だったの頃のマリア=演リリット・グラスムグ)、ルーマニア移民の父と清貧な二人暮らしの気立の優しい女性だった。この”ダヴィッドの体になったマリア”も当然ニルス・シュネデールによって演じられるのだが、孤独なフォトグラファーから父親思いの心優しい娘という”中身”の変化をニルス・シュネデールはどう演じられるか、というと、これも本当に難しいところ。それはそれ。”エヴァの体になったダヴィッド”と”ダヴィッドの体になったマリア”は、お互いの置かれた不条理な状況を理解しあい、二人で協力して”本来の自分の体”を取り戻すために奔走するのであるが... 努力は虚しい。
万策尽きて最後に考えることは... (これは映画を観てる者も大概予想できているんだが)... 性交してみたらどうだろうか、ということ。二人ともあのたった一度の異常な性交で、こうなってしまったんだから。かくして”エヴァの体になったダヴィッド”(体は女/人格は男)と”ダヴィッドの体になったマリア”(体は男/人格は女)が、こんなこと可能なんだろうかの...。ポルノ的な撮り方ではまったくないのだが、これは二人とも極端な苦しみと共に...。”エヴァの体になったダヴィッド”の女性器に”ダヴィッドの体になったマリア”の男性器は交わり、コトは終わる。その結果、ボディスワップになんらかの変化があるか、というと何もない。”ダヴィッドの体になったマリア”も”エヴァの体になったダヴィッド”も何も変わらない。だが、なんということだろう、数日後、”エヴァの体になったダヴィッド”は妊娠していることがわかる。”ダヴィッドの体になったマリア”の精子でできた子....。二人の悪夢はまったく違うディメンションに突入していく...。まあ、映画ですから。
この二人は、もう過去の自分に絶対に戻ることができない。(生きるとすれば)過去の自己を消去して生きるしかない。この果てしない絶望、このもろにカフカ的な不条理こそ、この映画が観る者の胸にグサグサ刺さってくるものなのですよ。取り戻せない”自己”、この運命を”ダヴィッドの体になったマリア”はどうしても受け入れることができない。そして絶望的な試みと知りながらも、最愛の父の前にその姿を見せ、こんな姿になったけれど私はあなたの娘だと訴え、娘として受け入れてくれと嘆願するが、父は何も理解することなく拒絶するのだった。 ”ダヴィッドの体になったマリア”は絶望のあまり、ロワール川に架る橋の上から飛び込み自殺を図る。その体はロワールの急流に飲まれて流されていくが、それを”エヴァの体になったダヴィッド”が自らも川に飛び込み、泳ぎ、追いつき、岸まで救い上げるのだが...。命懸けの救出劇にも関わらず、 ”ダヴィッドの体になったマリア”は息たえる。
『見知らぬ女』
2026年フランス映画
監督:アルチュール・アラリ
主演:レア・セイドゥー、ニルス・シュネデール
原作:ルカ・アラリ作BD『ダヴィッド・ジメルマンの場合(Le Cas David Zimmerman)』(2024年)
フランス公開:2026年8月26日
この夏のヴァカンスで、わが家は南西フランス(オクシタニア)の中世の姿をそのまま残した町や村を多く訪問した。水道・電気・ガス・通信などのインフラストラクチャーは今日のものだが、中世の姿は留められ保存されていて自治体および住民たちはこれを大切なものと考えている。たぶん何世代にも渡って同じ姿の環境で人々の営みは続けられてきたのだろう。それに引き換え、目まぐるしく姿を変え続ける町もある。大都市郊外である。歴史的建造物を多く抱える大都市は国策としてその文化遺産が保存されている。20世紀に入り、大都市人口集中の受け皿として、郊外は急速に大挙して流入してきた労働者たちの住宅地区として”発展”していったが、その姿は10年も同じかたちを留めず、古いものを壊し、増え続ける人口に対応する新しい建築と機能をつぎはぎ的に加えていった。そのパリ郊外の目まぐるしい変貌を(銀塩写真で!)写真として記録していく、ということをコツコツと続けているフォトグラファーが、この映画の主人公のダヴィッド・ジメルマン(演ニルス・シュネデール)であった。過去が捨てられ、住民の記憶も軽んじられて変化していく郊外の膨大な量の写真資料と、その現在を撮り続けていく...。映画の中で何枚も写真が挿入されるのだが、この仕事、非常に興味深い。惜しげもなく過去を消される、人々の過去が簡単に消去されることの象徴なのか。この怪奇スリラー映画の一見奇想天外な展開とどう関係があるのか、と途中まで思ってしまうが、終わりにじわじわと分かってくる。
地味にドキュメンタリー的郊外都市写真を撮り続ける孤独のフォトグラファーダヴィッドを贔屓にしている富豪紳士が、その金婚式祝宴にポートレイト写真を撮らせるために招き、その金婚ガーデンパーティーの準備をしていた一人の女給(演レア・セイドゥー)がテーブルセッティング中に誤って皿を(大きな音を立てて)割ってしまい、(声は聞こえないが)現場責任者から「おまえはクビだ!出て行け!」と言われたようで、エプロンを外してその場を去っていくシーンにダヴィッドの目が釘付けになる。同時にその富豪のポートレイト写真を撮り終えたダヴィッドは、その去っていく女給の後を追い、とっさにカメラのシャッターを押し、カメラはその振り向きざまの顔を捉える。自宅暗室で現像して出てきたのがこの写真(→)。
郊外写真の仕事に没頭しがちでめったに人とも会わないダヴィッドが、友人たちの強烈な誘いに嫌々ながら出て行った、かなりセレクトでアーティな新年カウントダウンパーティー、その奇抜にドレスアップした参加者たちの(ドラッグ効果ありの)奇態を冷めた傍観者のように眺めていると、踊り狂う人並みの中に忽然とあのクビになった女給があの時と全く同じトレンチコート姿で現れる。目と目が合う。二人は強烈な磁力で引きつけ合うように、距離を縮め、予め申し合わせてあったかのように、人目を避けてパーティーの間のバックステージに入り、床に倒れ込み、着衣のままあたかも女が男を強姦するかのように女性騎乗位で極端に激しい性交を始める。(この間一切セリフなし)そして短時間で極端に激しいオーガズムに達し、断末魔の叫びのような激烈な発声を響かせ、失神する。ー ダヴィッドが気がつくと、あの女の姿はすでにない。だが異変はすぐに分かった。自分の姿がトレンチコートを着た髪の長い女に変わってしまっている。
映画の中では出てこない言葉であるが、これをSFフィクションなどの世界では「ボディスワップ(body swap)」と呼ぶ。映画タイトルである”L'inconnue”(見ず知らずの女)とダヴィッドの肉体が入れ替わってしまったのだ。これを一応私は映画題らしく「見知らぬ女」と訳したのだが、実はダヴィッドはこの女を見て知っているので、この日本語はおかしいことになる。厳密には”素性を知らない女”なのだ。この悪夢の始まりの時点で、ダヴィッドは自分の肉体はどこに行ったのかと考える。きっとあの女がダヴィッドの体になったに違いない。誰にもこの異変を分からせない状態で、(ダヴィッドの体になった)あの女を見つけ出し、なんとか元通りになる術(すべ)を見つけ出さなければならない。
2020年代的現在を設定した映画なので、情報はインターネット上でいろいろ見つかってくる。その女はエヴァ・ヘルシンガーという名のドイツ系の端役女優で、パリの小さなアパルトマンに住んでいる。また動画系SNSからは、市中で奇行をするダヴィッドの映像が報告されてくる。おそらくダヴィッドの姿になったエヴァも大変なパニックに陥っているはずだ。
映画は”エヴァの体になったダヴィッド”という人格と違う(しかも性別も違う)肉体を持った人間をレア・セイドゥーが演じるわけだが、難しい役とは思うけれど、その複雑さはなかなか演技化できないものでしょうよ。特撮やアニメでは映像化できそうだけど、それをしないで実写映画で通すというところが、監督アルチュール・アラリの挑戦なんでしょうが...。陳腐に”男っぽい”演技のレア・セイドゥーという逃げ方ではもちろんない。難しい。
誰にもこのボディスワップを知られないように隠れながら(誰かに告白したとしても誰にも信じてもらえる可能性はゼロなのだが)、”エヴァの体になったダヴィッド”は必死に、ありとあらゆる方法を使って、”ダヴィッドの体になったエヴァ”を探し、ついにその”外面を持った”人間を見つけたのだが、それは”ダヴィッドの体になったエヴァ”ではなく、”ダヴィッドの体になった別の女”であった。つまり、”ダヴィッドの体になったエヴァ”は(おそらく別の肉体に乗り移ろうとして)ダヴィッドの体を使って、一人の娘と出合いがしらに(エヴァとダヴィッドがしたように)極端に激しい性交をし、失神から覚めると娘はダヴィッドの体になっていて、相手は(おそらく娘の体になって)姿を消している...。新しくダヴィッドの体になった娘はマリアという名前で(マリアの姿だったの頃のマリア=演リリット・グラスムグ)、ルーマニア移民の父と清貧な二人暮らしの気立の優しい女性だった。この”ダヴィッドの体になったマリア”も当然ニルス・シュネデールによって演じられるのだが、孤独なフォトグラファーから父親思いの心優しい娘という”中身”の変化をニルス・シュネデールはどう演じられるか、というと、これも本当に難しいところ。それはそれ。”エヴァの体になったダヴィッド”と”ダヴィッドの体になったマリア”は、お互いの置かれた不条理な状況を理解しあい、二人で協力して”本来の自分の体”を取り戻すために奔走するのであるが... 努力は虚しい。
万策尽きて最後に考えることは... (これは映画を観てる者も大概予想できているんだが)... 性交してみたらどうだろうか、ということ。二人ともあのたった一度の異常な性交で、こうなってしまったんだから。かくして”エヴァの体になったダヴィッド”(体は女/人格は男)と”ダヴィッドの体になったマリア”(体は男/人格は女)が、こんなこと可能なんだろうかの...。ポルノ的な撮り方ではまったくないのだが、これは二人とも極端な苦しみと共に...。”エヴァの体になったダヴィッド”の女性器に”ダヴィッドの体になったマリア”の男性器は交わり、コトは終わる。その結果、ボディスワップになんらかの変化があるか、というと何もない。”ダヴィッドの体になったマリア”も”エヴァの体になったダヴィッド”も何も変わらない。だが、なんということだろう、数日後、”エヴァの体になったダヴィッド”は妊娠していることがわかる。”ダヴィッドの体になったマリア”の精子でできた子....。二人の悪夢はまったく違うディメンションに突入していく...。まあ、映画ですから。
この二人は、もう過去の自分に絶対に戻ることができない。(生きるとすれば)過去の自己を消去して生きるしかない。この果てしない絶望、このもろにカフカ的な不条理こそ、この映画が観る者の胸にグサグサ刺さってくるものなのですよ。取り戻せない”自己”、この運命を”ダヴィッドの体になったマリア”はどうしても受け入れることができない。そして絶望的な試みと知りながらも、最愛の父の前にその姿を見せ、こんな姿になったけれど私はあなたの娘だと訴え、娘として受け入れてくれと嘆願するが、父は何も理解することなく拒絶するのだった。 ”ダヴィッドの体になったマリア”は絶望のあまり、ロワール川に架る橋の上から飛び込み自殺を図る。その体はロワールの急流に飲まれて流されていくが、それを”エヴァの体になったダヴィッド”が自らも川に飛び込み、泳ぎ、追いつき、岸まで救い上げるのだが...。命懸けの救出劇にも関わらず、 ”ダヴィッドの体になったマリア”は息たえる。
死亡調書が作成され、その死体はダヴィッド・ジメルマンと断定される。”ダヴィッドの体になったマリア”は公式にダヴィッド・ジメルマンとして死んだのだ。それを川の急流の中から救出しようとした”エヴァの体になったダヴィッド”は、エヴァ・ヘルシンガーという名の恩人としてダヴィッドの母から葬儀に招待され、自宅に招き、ダヴィッドの子供の頃の写真を見せたりして思い出話をする。目の前にいるのが(エヴァの体になった)ダヴィッドであることなど知るよしもない。
”ダヴィッドの体になったマリア”は死を選び、ダヴィッド・ジメルマンとして死んだ。そのどうすることもない不条理を受け入れ、(戦争が終わったジャングルの中で兵士として30年生き続けるという不条理を受け入れた「小野田」のように) ”エヴァの体になったダヴィッド”はエヴァ・ヘルシンガーとして生きることを選んだのだ。そして”エヴァの体になったダヴィッド”が孕んだ子は...。
『小野田』(2021年)の監督アルチュール・アラリの最新作(長編3本目)である。2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞、ジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学 Anatomie d'une chute 』の共同脚本家としても大いに注目された(私生活でアルチュール・アラリはジュスティーヌ・トリエの伴侶である)。ボディスワップをテーマにした怪奇もの映画という(いささかネガティヴな)先入観を抱いて観に行ったのだが、そんなもの途中で吹っ飛んでしまい、カフカ的悪夢の深淵さに圧倒されてしまった。肉体乗り移りという肉体がものを言うストーリーに、レア・セイドゥーはまさに体当たりの演技であり、実生活で2人目の子を出産したばかりというかなり生々しく肥えたままの肢体を晒していてびっくりした。逆にニルス・シュネデールは、(この夏の大ヒット映画)『ド・ゴールの闘い 1&2』(アントナン・ボードリー監督)でのルクレール将軍の役作りのため極端な減量を強いられ、肋骨が浮き出る痩身の胴体と頬のこけた眼光鋭い顔で、凄みのある孤独のフォトグラファーの態が印象的だった。上(↑)の文中でも繰り返したが、乗り移りの後の自分でない自分を演じるという難しさを、この名優二人は見事にクリアーしていたと思う。脱帽。ラジカルに過去を消去する/されるという連続的な悪夢の渦、素晴らしいシナリオ、名人芸と思いましたよ。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『見知らぬ女 L'inconnue 』予告編
”ダヴィッドの体になったマリア”は死を選び、ダヴィッド・ジメルマンとして死んだ。そのどうすることもない不条理を受け入れ、(戦争が終わったジャングルの中で兵士として30年生き続けるという不条理を受け入れた「小野田」のように) ”エヴァの体になったダヴィッド”はエヴァ・ヘルシンガーとして生きることを選んだのだ。そして”エヴァの体になったダヴィッド”が孕んだ子は...。
『小野田』(2021年)の監督アルチュール・アラリの最新作(長編3本目)である。2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞、ジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学 Anatomie d'une chute 』の共同脚本家としても大いに注目された(私生活でアルチュール・アラリはジュスティーヌ・トリエの伴侶である)。ボディスワップをテーマにした怪奇もの映画という(いささかネガティヴな)先入観を抱いて観に行ったのだが、そんなもの途中で吹っ飛んでしまい、カフカ的悪夢の深淵さに圧倒されてしまった。肉体乗り移りという肉体がものを言うストーリーに、レア・セイドゥーはまさに体当たりの演技であり、実生活で2人目の子を出産したばかりというかなり生々しく肥えたままの肢体を晒していてびっくりした。逆にニルス・シュネデールは、(この夏の大ヒット映画)『ド・ゴールの闘い 1&2』(アントナン・ボードリー監督)でのルクレール将軍の役作りのため極端な減量を強いられ、肋骨が浮き出る痩身の胴体と頬のこけた眼光鋭い顔で、凄みのある孤独のフォトグラファーの態が印象的だった。上(↑)の文中でも繰り返したが、乗り移りの後の自分でない自分を演じるという難しさを、この名優二人は見事にクリアーしていたと思う。脱帽。ラジカルに過去を消去する/されるという連続的な悪夢の渦、素晴らしいシナリオ、名人芸と思いましたよ。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『見知らぬ女 L'inconnue 』予告編
登録:
投稿 (Atom)




















