J'ai changé de pays soudain. 私は突然住む国を変えた。 B面1曲め「奇妙なコメディー Etrange comédie」の冒頭の1行である。実は私もこの年1976年に突然住む国を変えたのである。その春に私は大学に休学届を出して、初めてのパスポートと初めてのフランス滞在ヴィザを取得し、初めての外貨(フランスフラン)と初めての国際航空券を買った。サンソンは第5回東京音楽祭(1976年6月27日、東京帝国劇場)に出場するために6月下旬には東京にいたのだろう。アルバム『ヴァンクーヴァー』は、その来日記念盤(↑写真)として(『想い出』というどうしようもない日本タイトルになって)ワーナーパイオニアから発売されたのだが、私はこの日本盤の記憶がない。サンソンがまだ日本にいたかもしれない6月29日、私は羽田からアンカレッジ経由のエール・フランス便でパリCDGに出発している。成田空港はまだ開港しておらず、CDG空港はカマンベール型のCDG1しかなかった時代である。
J'ai changé de pays soudain. 流謫、Exil。私は22歳になったばかりだった。この「奇妙なコメディー」の第一行だけでなく、アルバム『ヴァンクーヴァー』は私の初めてのフランスにずっと鳴り続けていた。この歌だけでなくアルバムのいくつかの曲が移住のメランコリーを語っているように、私の移住もあまり明るくない部分も含んでいた。私のこの時期に関しては、また機会があったら書くとして、『ヴァンクーヴァー』楽曲の解題を続けよう。
まずA面1曲めにしてアルバムタイトル曲「ヴァンクーヴァー」は、ジャズピアニスト/作曲家のアンドレ・マヌーキアンの国営TVフランス3の番組”La vie secrete des chansons"(2022年放送)の中で、1975年暮れのエルーヴィル城スタジオ逗留中に、曲作りが進まないサンソンに業を煮やしたプロデューサーのベルナール・サン=ポールがサンソンを48時間ピアノ室に缶詰めにして書かせた曲、というエピソードが紹介されている。切羽詰まらないとコトができない怠惰なサンソン。しかし曲の準備はある程度できていたのだが、当時のヴェロニクの心理状態を反映するメランコリックで苦悩を主題とする曲が幅を利かせていて、強烈な印象でアルバムを牽引していくような「一曲」が足りないという鬼プロデューサーの強要だったのだ。ガツンと来る一発。つまり大シングルヒット必至の、英語で言うところの "banger"が欲しい、と。そして「ヴァンクーヴァー」は生まれ、見事バンガーとなった。
Aller de ville en ville, ça je l'ai bien connu 街から街への旅暮らし、そんなの慣れてるわ Je mène ma vie comme un radeau perdu 難破した筏みたいな私の人生 Les gens de la nuit sont toujours là quand il faut そんな時いつも夜の仲間たちがいてくれる Ils vous accueillent avec des rires et des bravos 笑い声と歓声でみんなを迎えてくれる
Les vapeurs d'alcool, ça je les connais bien 酒臭い空気、そんなもの慣れっこよ Les cheveux qui collent au front des musiciens ミュージシャンたちの額に張り付いていく髪 Et c'est difficile, le choix d'une vie 人生ひとつを選べって、それは難しいわよ Je rêve de choses dont j'ai réellement envie 私は本当に本当に欲しいものを夢見ているんだから
Je chante dans le port de Vancouver 私はヴァンクーヴァーの港で歌う Je chante sur des souvenirs amers 私は苦い思い出のことを歌う Et je danse, je danse, c'est bien それから私は踊る、踊る、それでいいの Je n'vois jamais le matin et c'est bien 朝日を拝むことなんて一度もないわ、それでいいのよ
À midi je suis dans mon lit et je rêve de quelque chose 正午、私はまだベッドの中にいて、何かを夢見続けている À minuit je suis dans la ville et je cherche quelque chose 真夜中、私は繁華街にいて、何かを追い求めている
この歌はマニフェストである。音楽アーチストにあってサンソンはライヴパフォーマーとして生きる道を選んだ。思い出してもみよう1970年代、大衆音楽の現場とはテレビであった。テレビで(振りをつけて)口パクで歌うふりさえできれば、ヒット芸能歌手として重宝される”ヴァリエテ・フランセーズ”というジャンルが確立された時期だった。大アーチストであることは間違いないがフランソワーズ・アルディとヴェロニク・サンソンの道を分つのはここであり、アルディはライヴを拒否してレコードアーチストとなり、サンソンはレコード+ライヴの道を選んだ。街から街への楽隊稼業を恐れない、むしろオン・ザ・ロードで生きること、ステージでオーディエンスとダイレクトに交感することがサンソンをアーチストとして生きさせるレゾン・デートルとなった。このライヴ&ツアーのもたらすオキシトニン、ドーパミン、アドレナリンを教えてくれたのはスティーヴン・スティルスのアメリカだったと言っていいと思う。これはロック的である。1970年代前半にヴェロニク・サンソンのファンになったフランスの若者たちは、サンソンにロック的なるものを見ていたし、期待していた。フランスの2大ロック誌だったBEST誌とROCK&FOLK誌の73〜76年頃の読者投票ではサンソンは不動の”ベストフィメールロックアーチスト”1位であった。それはスティルスとの関係に起因する印象と思われようが、それだけではない。74年のオランピアから始まる一連のサンソンのライヴステージは「ロックショー」であった。興奮と陶酔、ステージの魔に憑かれた女、それがヴェロニク・サンソンであり、その「ステージ命」のアティチュードは76歳になる今日でも変わらず、ダリダの歌のように「ステージで命果てたい」と思っているかのようだ。 「ヴァンクーヴァーの港で私は歌う」と第一リフレインにあるが、当時サンソンはこのカナダの大都市に一度も行ったことがない(最初に訪れたのはこの歌の10年後だと言う)。ファーストアルバム『アムールーズ』(1972年)の中の「バイーア」と「マリヤバ」と同じように”見てきたような”イマジネーションの歌である。この時期のサンソンの北米でのコンサート活動はカナダの仏語圏ケベックに限られていた。ではなぜ「ヴァンクーヴァー」を選んだかというと、”VancouVer"という二つの”v”音に霊感を受けたからで、ゲンズブール「さよならを言うために」にも引用されたヴェルレーヌ詩「秋の歌」の"au Vent mauVais"(上田敏訳では”うらぶれて”)の二つの”v”と関係あるかもしれない。風(vent)まかせの旅芸人という関連かもしれない。この"v"音は重要だし、この歌の強さも象徴している。因みにサンソン家の二人の娘はViolène(ヴィオレーヌ)とVéronique(ヴェロニク)で、二人とも"v"で始まるが、父母(ルネとコレット・サンソン)とも第二次大戦のレジスタンスの英雄だったことから、勝利の"v"(victoire)あやかりだったようである。この "Vancouver (ヴァンクーヴェール)”と次の行の”苦い思い出 souvenirs amers(スーヴニールアメール)が韻を踏んでいる。嫌な思い出ばかり歌ってまわる旅のロックシンガー、このイメージは「渡り鳥シリーズ」的ですらある。そして狂ったように踊り、陶酔し、朝の訪れを知ることもなく、気がついたら昼までベッドでくたばっている。第二リフレイン(À midi je suis dans mon lit....)は必殺であり、ロック的生きざまを2行に凝縮した(今日びの表現で言うなら)パンチラインである。ライヴでのオーディエンスの大合唱も必至である。
ここでスティルスとの関係をおさらいすると、72年マナサスを引き連れてツアーで訪れていたパリで二人は電撃恋愛、73年英国で結婚、渡米、コロラドの標高3000メートルの高地にあるスティルス屋敷に移住。隣人もなくポツンと自然の中に立つ家で、空気が薄く、時々酸素ボンベが必要になる。極寒(サンソンは零下40度まで下がると言っている)の冬が半年以上も続き、麓に買い出しに行くには雪上車が必要だった。厳しい環境と孤独、これはパリ育ちのお嬢さんにはあまりにしんどく...。それからスティルス自身の(CSNと並んで)最重要かつ最強のバンドであったマナサスのセカンドアルバム『ダウン・ザ・ロード』(1973年、ヴェロニクに捧げられた"Guaguanco de Veró"なる曲あり)の商業的失敗とそれに伴うバンド解散という音楽アーチストとして重大スランプ期に陥っており、以前から問題あったアルコール依存症(+ドラッグ)がかなり深刻なものになっている。 ”Les vapeurs d'alcool, ça je les connais bien(酒臭い空気、そんなもの慣れっこよ)”と↑の「ヴァンクーヴァー」でサンソンは歌っているが、このアルコールはスティルスとサンソンの両者に共通した問題であった。二人とも強度の依存症であり、これが多分二人の関係を最悪にさせた大きな原因であるはずである。往々にしてスティルスにはこれに暴力が伴う。 1974年4月、クリストファー誕生。二人の間に幸福/平穏が戻ってくる。そしてこの乳児を連れて二人は74年9月14日、ロンドン・ウェンブリースタジアムで(歴史的)CSN&Yコンサート(10万人)、その後フランスに渡り、パリから30キロ西方のイヴリーヌ県オルジュヴァルに屋敷を借り、サンソン+スティルス+クリストファーは(ヴェルサイユに近い)古き良きフランス田舎で良いワイン/良いキュイジーヌ・フランセーズと共に新生活を始める。赤子の世話はじいじとばあば(ルネ&コレット・サンソン)とおばん(ヴィオレーヌ・サンソン)が見てくれる。そりゃあヴェロニクはさぞ満足だったであろう。74年10月、スティルスとそのバンドメンもバックにつけてヴェロニク・サンソンはオランピアで帰還コンサート。この時サンソンは音楽誌ゴシップ誌など芸能プレスの方々で(正直にも)「もうアメリカには戻りたくない」「アメリカでの生活はおしまいよ」などと言い回っている。それはとりわけコロラドには帰りたくない、なのであるが、この子をフランスで育てない、この子と一緒にフランスに居たい(居続けたい)という理由もあった。スティルスはフランスに長く居るなど問題外であった。自分の音楽アーチストとしての重大時期(不調期)でもあったし。75年2月11日〜16日、6夜にわたるオランピアでのコンサート(スティルス不在)、2月18日〜3月9日、初のフランス全国ツアー18都市19回のコンサート、3月20日〜4月8日、カナダ(ケベック+オタワ+モンレアル)ツアー、4月〜5月マイアミでスティルスと合流、クリストファー1歳の誕生日、6月〜7月、ハワイでヴァカンス ← このハワイ滞在が芸能誌などで大きく報道され、別居/離婚説を忘れさせるハッピーさ(この時の映像は2026年公開のトニー・ヴォルフ監督ドキュメンタリー映画『ヴェロニク』の中でもサンソンが人生で最高に幸福だったヴァカンスのように紹介される)。長続きしない幻想。75年9月、サンソンはフランスのオルジュヴァルの館に戻ってくる。11月末、(『ヴァンクーヴァー』となる)新アルバム準備で、オワーズ県エルーヴィル城スタジオ入り...。
Si tu me vois les toucher de mon regard 私の視線があの人たちに触れて Leur donner le goût d'l'art 芸術の味わいを与えたり Avoir un sale goût de larmes dans mon fou rire 私の哄笑に涙の苦みを感じさせても M'en veux pas 私を恨まないで
Tu m'as rendue redoutable mais je suis si vulnérable あなたが私を鬼にしたのよ、私がこんなに弱いのに C'est si facile de faire mal, faire mal, faire mal, faire mal, faire mal 人を傷つけるのって、いとも簡単なことなのよ
Et si tu me sens avoir des idées de mort 私が死のことを考えてるって察したら Tu sais très bien que mon cœur est mort あなたは私の心が死んでしまったことを知ってるでしょう Tu vois bien que je t'attends depuis longtemps 私があなたのことをずっと前から待ってるってわかってるでしょう Ne m'oublie pas でも私を忘れないで
Tu m'as rendue redoutable, l'enfer est insupportable あなたが私を鬼にしたのよ、地獄は堪えられないの C'est si facile de faire mal, faire mal, faire mal, faire mal, faire mal 人を傷つけるのって、いとも簡単なことなのよ
1970年代にフランス海軍は初の原子力弾道ミサイル潜水艦を建造した。その最初の原潜の名は「ルドゥータブル Redoutable」、あれあれこの歌と同じ、私はこの歌詞を超訳で「鬼」としたのだけれど、この原潜を解説する日本語ウィキペディアは「戦慄」という訳語を与えている。この原潜ルドゥータブルはその同型艦が4隻建造されていて、「ルドゥータブル級原潜」はそれぞれすごい名前が付いている。「テリブル(恐怖)」、「フードロワイヤン(電撃)」、「アンドンターブル(強固)」、「トナン(雷鳴)」。勇ましいですけど、笑っちゃいますよね。脱線しました、ごめんなさい。 Tu m'as rendue redoutable あなたは私を夜叉に変えてしまった、という訳も考えた。そして歌詞3番め:
Et si je me donne もしも私が身を捧げるなら C'est pour leur voler leur âme それはあの人たちの魂を奪うため C'est pour leur voler leur femme あの人たちの妻を奪うため C'est pour leur donner la flamme qui dort en moi 私の中で眠っている炎をあの人たちに捧げるため Ne m'en veux pas そのことで私を恨まないで
Tu m'as rendue redoutable, ouais, et je suis si misérable あなたが私を鬼にしたのよ、そうよ、私はとても惨め C'est si facile de faire mal, faire mal, faire mal, faire mal, faire mal 人を傷つけるのって、いとも簡単なことなのよ
Et d’un ton bizarre おかしな口調で Il a dit qu’il te voulait 彼はあなたが欲しいと言った De drôles de regards 奇妙な眼差しが Dans le vide flottaient 宙に舞っていた Et tes yeux vont dans le vague 霧の中を通り抜けるように Comme au travers d’un brouillard あなたの目は遠くへさまよう Tu as mille choses à faire あなたはいくらでもやりようがあるのに Sans vraiment savoir le dire どう言っていいのかわからない
Prends une minute pour l’oublier
ちょっとの間みんな忘れて Et laisse ton désir s’allumer あなたの欲望に火がつくままにしなさい Ose le faire そうするのよ Ose le dire そう言うのよ Ose aimer 愛しちゃえば Ose aimer 愛しちゃえば Vraiment ほんとうに
Prends une minute pour le lui dire ちょっと考えてそう彼に言いなさい Tu n’es plus libre de te taire あなたが黙るっていう手はないわ Ose le faire そうするのよ Ose le dire そう言うのよ Ose aimer 愛しちゃえば Ose aimer 愛しちゃえば Une seule fois たった一回だから
Tu vois des mirages あなたには蜃気楼や Et des villes et des îles 大都会や島が見える Tu entends sonner l’orage あなたには雷鳴が聞こえる Ne pars pas déjà まだ逃げないで Il est là il est là 彼はそこにいる Il n’a pas peur de toi 彼はあなたを怖がっていない Et tu es muette et lui あなたは押し黙っているけど Te regarde sans te voir 彼はあなたをわかろうともせず見つめている Quand l’orage tombe 嵐が到来する
Il est lourd il est lourd 嵐は重い音を立て Il résonne comme l’amour それは愛の音のように響き渡る
Prends une minute pour l’oublier
ちょっとの間みんな忘れて Et laisse ton désir s’allumer あなたの欲望に火がつくままにしなさい Ose le faire そうするのよ Ose le dire そう言うのよ Ose aimer 愛しちゃえば Ose aimer 愛しちゃえば Vraiment ほんとうに
Prends une minute pour le lui dire ちょっと考えてそう彼に言いなさい Tu n’es plus libre de te taire あなたが黙るっていう手はないわ Ose le faire そうするのよ Ose le dire そう言うのよ Ose aimer 愛しちゃえば Ose aimer 愛しちゃえば Donne-toi 身を差し出しちゃいなさい
J’ai changé de pays, soudain 私は突然住む国を変えた J’ai de nouveaux amis. bien 私には新しい友達ができた、いいことね Mon piano rigole 私のピアノは面白がって Et fait des gammes ボロンボロン音を出すのだけど Ils croient que je suis folle あの人たちは私を狂人と決めつける C’est triste, tu vois それは悲しいことね
Et j’ai des clowns pour m’amuser 私には笑わせてくれる道化師たちがいる
Des amours faciles pour exister 生き延びるためにイージーな愛人たちもいる Et des gens habiles pour m’épauler... 私をヨイショする口の上手い人たちも Dans les grandes villes rien n’a changé. どこの大都会に行っても何も変わらなかった
Mais à quoi ça me sert, si toute ma vie でも私の人生すべてが奇妙なコメディーでしかないとしたら N’est qu’une étrange comédie それが何の役に立つの? A qui donner l’onde d’un regard すべてが偶然のなせるわざだと言うのなら Si tout s’appuie sur le hasard 誰に目配せを送ればいいの? J’appelle un amour qui balance bien 私はバランスの取れた愛を求めている L’amour que je cherche en vain... 私が虚しくも探している愛 C’est le tien それはあなたの愛 Et c’est le mien そして私の愛
Et pour que j’aie un sourire sans limites 私が四六時中ほほえんでいられるように On me donne d’étranges médecines 人は私にさまざまな奇妙な医薬を与えてくれる Qui vont du jus d’orange à la cocaïne オレンジジュースからコカインに至るまで Dans les grandes villes rien n’a changé どこの大都会に行っても何も変わらなかった
Mais à quoi ça me sert, si toute ma vie でも私の人生すべてがお粗末なコメディーでしかないとしたら N’est qu’une pauvre comédie それが何の役に立つの? A qui donner l’onde d’un regard すべてが偶然のなせるわざだと言うのなら Si tout s’appuie sur le hasard 誰に目配せを送ればいいの? J’appelle un amour qui balance bien 私はバランスの取れた愛を求めている L’amour que je cherche en vain... 私が虚しくも探している愛 C’est le tien それはあなたの愛 Et c’est le mien そして私の愛
Je change de morale 家にたった一人でいる時 Quand je suis toute seule chez moi 私は道徳観が変わってしまう J’peux pas louer un papa, j’peux pas louer une maman パパひとりもママンひとりも借り出すことができない Mais je sais aussi être immorale 運まかせの目を持ったら Quand j’ai les yeux du hasard 私は背徳的にもなれるのよ C’est facile oh oui 簡単なことね
Mais à quoi ça me sert, si toute ma vie でも私の人生すべてがお粗末なコメディーでしかないとしたら N’est qu’une pauvre comédie それが何の役に立つの? A qui donner l’onde d’un regard すべてが偶然のなせるわざだと言うのなら Si tout s’appuie sur le hasard 誰に目配せを送ればいいの? J’appelle un amour qui balance bien 私はバランスの取れた愛を求めている L’amour que je cherche en vain... 私が虚しくも探している愛 C’est le tien それはあなたの愛 Et c’est le mien そして私の愛
Je n’aime que toi ジュ・ネーム・ク・トワ Je t’aime, je t’aime, ジュテーム、ジュテーム Et je t’aimerai toute ma vie 一生あなたを愛し続けるわ
1976年、ひとりの女の "exil"は悲しくも奇妙な喜劇であった。クラシカルでシンフォニックに盛り上がるメロディーを数種はめ込んでクレシェンドする4分。この熱唱は「呪われ者 Le Maudit」(1974年)(4分19秒)と通底するオーケストラル・ブルースであり、国と恋人(ベルジェ)を捨てた女の悔恨・未練である。大仰オーケストレーションで展開するこの2つの曲「呪われ者 Le Maudit」と「奇妙なコメディー Etrange comédie」を分つ大きな違い、それは私の耳では後者が"ヨーロッパ”のオケ音で湿り気/抒情感がすごいように聞こえるのであるよ。ミッシェル・ベルノルクの仕事と言えるかもしれない。
アルバム『ヴァンクーヴァー』は、A面1曲め「ヴァンクーヴァー」とB面1曲め「奇妙なコメディー」、この2曲で”傑作”と言われるに相応しい歴史的1枚なのであるが、この記事の最初の方で楽曲「ヴァンクーヴァー」はロックアーチストパフォーマーとしてのマニフェストと位置付けた。このアルバムは9曲30分という短さではあるが、コンパクトな”ロックショー”のように聞こえなくもない。ロックショーの終盤はノセノセなのである。B面3曲め「Tu sais que je t'aime bien」とアルバムを閉じるB面4曲め「フル・ティルト・フロッグ Full Tilt Frog」(本稿前編参照のこと)の2曲は(ライヴではオーディエンス総立ち踊り、ヴェロもピアノから立って踊りながらオーディエンスを煽る、というタイプの)アップテンポでエルトン・ジョン乗りの軽快ビートナンバーである。
Comme passent les nomades 滝のような音で歌いながら Où chantent les cascades, là ノマードたちが通り過ぎていくように Je l'ai dans ma tête, tous les matins 毎朝、私の頭の中は同じように大騒ぎなの Toi, tu me tournes le dos でもあなたは私に背を向けて Tu dis pas un mot ひとことも言わなくなる Pourtant, si tu m'connais bien でもあなたは私のことよくわかってるんでしょ
Tu sais que j't'aime bien, tu sais que j't'aime 私があなたを愛してるってわかってるんでしょ Tu sais que j't'aime bien, tu sais que j't'aime 私があなたを愛してるってわかってるんでしょ Tu sais que j't'aime bien, tu sais que j't'aime 私があなたを愛してるってわかってるんでしょ Tu sais que j't'aime bien, tu sais que j't'aime 私があなたを愛してるってわかってるんでしょ
Et tu tournes en rond, tu te fâches pour de bon あなたは堂々巡り、いい加減頭に来ちゃった Mais tu sais que j't'aime bien でも私があなたを愛してるってわかってるんでしょ
この2曲(Tu sais que je t'aime bien + Full Tilt Frog)で締めてくれたから、このアルバムはちょっと軽くなるし、良質のピアノロックを聴き通した気分で針を上げられるのですよ。 50年前、1976年、ヴェロニク・サンソンは26歳でこのマスターピースアルバムを発表し、22歳の私が初めて見たフランスの景色のバックで鳴り響いていた。その話はとても長くなってしまうので、また別の機会に預けるが、ヴェロニク・サンソン『ヴァンクーヴァー』、私が聴くたびに立ち上がるエモーションを、この記事で少しだけ共有してください。 (本稿おしまい)
<<< トラックリスト >>>
A1. Vancouver A2. When we're together A3. Redoutable A4. Donne-toi A5. Une maison après la mienne
B1. Etrange comédie
B2. Sad Limousine B3. Tu sais que je t'aime bien B4. Full Tilt Frog
Véronique Sanson "Vancouver" France Warner Elektra LP 52.031 1976年2月27日リリース
ヴェロニク・サンソン当時26歳。4枚目のスタジオ録音アルバム。9曲/30分。1973年にスティーヴン・スティルスと結婚して米国に移住し、1974年4月には唯一の子供クリストファーを出産し、同じ年に加州のスタジオでスティルスの息のかかった凄腕セッションメン(リー・スクラー、ラス・カンケル、ジョー・ララ、ドニー・デイカス...)と3枚目のスタジオアルバム『呪われ者 Le Maudit』(日本題は『悲しみの詩』、けっ、勘弁してほしい)を録音し、9月にリリースしている。おお、さすが加州産のロックアルバムだ、メリケンにはかなわん、と言われたものだった。1983年に帰仏するまでのヴェロニク・サンソンの「アメリカ期 - Les années américaines」に録音された5枚のスタジオアルバム("Le Maudit"、 "Vancouver"、 "Hollywood"、”7eme"、"Laisse-la vivre")のうち、唯一この『ヴァンクーヴァー』は米国で録音されていない。 その理由のひとつが1975年後半、スティーヴン・スティルスが「ザ・スティルス=ヤング・バンド The Stills-Young Band」というプロジェクトにのめり込んで行き、CSNY再結成の契機も垣間見せながら、スティルスのバンドはそれにかかりっきりという状態で、サンソンのアルバムなどあっち向けほいだったのである。1975年暮れ、新アルバムのアイディアを温めにサンソンは一人フランスに飛び、オワーズ県の城館兼録音スタジオ、エルーヴィル城(この城に関しては当ブログに2つの記事あり:”ホンキー・シャトーの伝説”、”ベトナムから遠く離れて”)に逗留する。
そこでその後のサンソンのほとんどのアルバムをプロデュースすることになるベルナール・サン=ポールと合流。このサン=ポールとサンソンの間にはいろいろあって極めて険悪な関係にもなったりしたが、結局サンソンと最も長い間音楽制作を続ける仲になる。次作アルバム”Hollywood"(1977年)で、サンソンは "Bernard's song"という佳曲をサン=ポールに捧げているが、この歌はサンソンのレパートリーとしてスタンダード化していく(いい歌だもの)。このサン=ポールが、仏EMIの社員ディレクターを辞めて独立プロデューサーとしての最初の仕事が、1971年ジルベール・モンタニエのシングル "The Fool"(70万枚ヒット、世界12カ国でNo.1)で、その録音はなんとロンドンのトライデントスタジオでなされたいたのである。エルトン・ジョンのスタッフとストリングスセクション付きで。アルバム『ヴァンクーヴァー』のタイトル曲にしてA面1曲めの「ヴァンクーヴァー」のピアノ音やストリングスを含む全体のアンサンブルが、モンタニエ「ザ・フール」のそれによく似ていて、ああ、これがプロデューサーサン=ポールの得意な音だったのか、と後で知ったのね、私は。 エルトン・ジョンの名前が出たので蛇足で言うと、このエルーヴィル城を『ホンキー・シャトー』(エルトン4枚目のアルバム、1972年)と呼び、『ピアニストを撃つな』(1973年)次いで大傑作『黄昏のレンガ路 Goodbye Yellow Brick Road』(1973年)と続けざまに録音したのがこのエルーヴィルで、エルトンを世界的に知らしめた”Your song"を含むセカンドアルバム『エルトン・ジョン』(日本題”僕の歌は君の歌”、けっ勘弁してほしい)(1970年)を録音したのがロンドンのトライデントスタジオ。この二つの録音スタジオの行き来がエルトンとサンソンを因縁づける何かがあっておかしくない。 またこのエルーヴィル城で再会した重要人物がミッシェル・ベルノルク(1941 - 2002)。(ヴェロニク・サンソンの生涯を通じての最重要人物となる)ミッシェル・ベルジェ(1947 - 1992)がプロデュースしたサンソンのファースト『アムールーズ』(1972年)とセカンド『私の夢の向こう側から(De l'autre côté de mon rêve)』(1972年)の共同編曲家でオーケストレーションのかなめだった人物。ベルジェとベルノルクの”二人のミッシェル”に捧げて、サンソンは『アムールーズ』に「ミッシェルのために Pour les Michel」という1分の美しいインスト曲(サンソンのピアノとハミング)を挿入している。このベルノルクとサン=ポールの二人に新アルバムのサウンド作りは託されたのであり、このことがサードアルバム『呪われ者 Le Maudit』の米国流サウンドから一転してヨーロッパ寄りに戻す大きな要因となったのである。
トライデントスタジオは既にアビーロードスタジオと比肩される世界ロック史上の伝説的録音スタジオのひとつであったが、その伝説化に大きく貢献したのがトライデント備え付けのコンサートピアノ、19世紀製造のC. ベヒシュタイン(Bechstein)(←写真)であった。サンソンがこのピアノに触れる前、ビートルズ「ヘイ・ジュード」(1968年)、エルトン・ジョン「ユア・ソング」(1970年)、ハリー・ニルソン「ウィズアウト・ユー」(1971年)、カーリー・サイモン「うつろな愛」(1971年)、ルー・リード「パーフェクト・デイ」(1972年)、ボウイー「ライフ・オン・マース?」(ピアノ奏者はリックウェイクマン)(1971年)... などがこのベヒシュタインの音色によって生まれた。 1976年1月、ヴェロニク・サンソン一行トライデントスタジオ入り。フランスからはアラン・サルヴァティ(g)、クリスチアン・パドヴァン(b)というファーストアルバム以来馴染みのミュージシャンが同行したが、あとは英国側のセッションメンで固めた。目を引くのはマルチイントルメンタリストのモー・フォスター(1944 - 2023)、そしてパーカッショニストのレイ・クーパー(1947 - ) 。特に後者はエルトン・ジョンのレコーディングとコンサートツアーに絶対不可欠のポジションを持つ”エルトンズマン”であり、1977年と1979年にエルトン・ジョンと二人だけのツアー(Elton and Ray A Single Man Tour)を行なっていて、この二人は1979年5月、冷戦の鉄の壁の向こう側、スターリン主義ゴリゴリのソ連モスクワでコンサートを敢行する快挙(彼は立ってピアノを弾いていた!)を果たしている。この『ヴァンクーヴァー』アルバムではA面4曲め「自分を捧げて Donne-toi」の全編で鳴り響くさまざまなパーカッション群がレイ・パーカーで、耳を傾けてくださいよ、15秒め頃から低く重くゴ〜ンと音を引っ張っているのは、レイ・パーカーが大きな水の容器に銅鑼(ドラ)をゆっくり沈めていって音を歪ませているのだそう(サンソン伝記本筆者ヤン・モルヴァンの証言)。
スティーヴン・スティルスから遠く離れて、アメリカから遠く離れて、この『ヴァンクーヴァー』は録音された。1975年から76年、音楽アーチストとしても、私人としても、ヴァロニク・サンソンはあっと言う間に過ぎた2、3年の月日を思い、これでよかったのだろうか、と自問する時期であったろう。時のスーパーロックスターとの電撃結婚、渡米、出産...。ポルナレフのように何が何でもアメリカで成功するという野望を持ってアメリカに渡ったわけではない。音楽的環境はスティルスのおかげで人的交流に恵まれ、スタジオもミュージシャンも最良の条件で録音できるようになったが...。北米でのアーチスト活動は仏語圏ケベックだけが門戸を開いてくれただけで、アメリカでは無名のフレンチシンガーで、多くの目はスティルスの取り巻きグルーピーとしてしか見ていなかっただろう。新大陸での新生活、大邸宅とアルコールとドラッグ、高低差の激しい(暴力を含む)スティルスとの関係、フランスに置いてきたことどもへの未練、ミッシェル・ベルジェ...。ヴェロニク・サンソンの歌詞は”正直に”私小説的であり、その心理葛藤がよく読み取れるし、われわれファンはそれを共有するのをよしとして聴いている。つきあいますともさ。このアルバム『ヴァンクーヴァー』では1曲だけ例外があり、姉ヴィオレーヌ・サンソン(1947 - )が作詞したA面5曲め「わが家の隣家 Une maison après la mienne」(日本題「想い出のメゾン」 - 1976年第5回東京音楽祭銀賞)は、”隣の芝生は青く見える”流ののどかな気になる隣人覗き見フォークバラードで、他の曲との落差大きく、私は21歳の時このLPを入手した時からこのA面5曲めを飛ばして聴くようにしている。 前作『呪われ者 Le Maudit』に2曲、この『ヴァンクーヴァー』には3曲英語で歌われる曲が含まれている。(上のA面5曲めを除く)フランス語詞で書かれた”私小説的”5曲については、この記事の後編(『ヴァンクーヴァー』の50年・2)で詳細するとして、ここでは英語詞3曲("When we're together" 、"Sad Limousine"、"Full tilt frog" )について語ってみたい。サンソンが英語で歌うのは”アメリカ市場に参入”を目指してのことではない。英語で伝えたいことは概ねスティルスへのメッセージなのである。因みにサンソンが英語で録音した最後の自作曲は1992年アルバム『サン・ルグレ (Sans Regrets)』の2曲め「ルイーズ Louise」である。 まず一番わかりやすいアルバム終曲(B面4曲め)「フル・ティルト・フロッグ Full Tilt Frog」。フロッグ(frog = カエル)は、伝統的にカエルを料理して食べるフランス人を卑下して英米人が使うフランス人の蔑称、フロッギー(froggie)とも言う。全速力、力いっぱい(full tilt)で奮闘するフランス娘、それが私、と歌っている。
I'm just a full tilt frog (私は必死で頑張るフランス娘) Stranger in a new land (新天地でのよそ者)
それとはトーンが変わって、スティルスとの関係のポジティヴな面に賭けようとするサンソンの姿が「一緒にいる時 When we're together」(A面2曲め)に見える。こんなふうに始まる。
I wanna sing you a little song And apologize to you For all the pain I didn't see When you really needed me I didn't know And if I was a rock'n'roll singer (もしも私がロックシンガーだったら) Maybe you'd love me a little more (あなたは私をもうちょっと愛していたかも) But I'm trying my best To stay who I am For you
これはサンソン版「ユア・ソング」ではないか、という極端な意見を私は持っている。いろいろあるけど how strong, how strong we are, when we're together、というポジティヴサイドを信じようではないか。そしてブリッジではこう歌っている。
But happiness (でも幸せなんて) I'll never gamble on it (私は信じないわ) I don't want your money (あなたのお金なんかいらない) Don't want a crowd of people (大観衆なんかいらない) Don't want a crowd of people (大観衆なんかいらない) When I wanna hold you hand (あなたと手を取り合えば) And make it magic (それは魔法になる) Go sing your songs tonight (今夜あなたの歌を歌って) You'll always be in the (あなたはいつも私の心の) Middle of my mind (真ん中にあって) We've got the same smile (私たちは同じ笑顔で) We've got the music in our minds (私たちの心に音楽を勝ち得たのよ) Going on going on (ゴーイン・オン、ゴーイン・オン)
これは自分に言い聞かせてるけど、”私”が”私たち”になってた時期は強くて短かったのですよ。 I hope you don't mind I hope don't mind that I put down in words...
そしてスティルスとの関係のネガティヴサイドを描くのが、B面2曲め「サッド・リムジーン Sad limousine 」である。私、たぶん、このアルバムで一番好きな曲かも。おそらくこのヨーロッパ(フランス→イギリス)でのレコーディングのための旅に出るサンソンを、スティルスがでかいアメ車のリムジンで空港まで送ってくれた情景が描かれている。
You drove me to the airport (空港まで私を) In a sad, sad limousine (あなたは悲しいリムジン車で送ってくれた) You told me that you loved me (私を愛してるって言ったけど) But do you know what the words mean (あなたはその意味を知っているの?)
Do you know what the words mean ? ー その言葉が何を意味するのか知っているのか? 強く辛辣な言い方である。言われたくない。飛行機に向かいながら、サンソンは別れを告げる。(リフレイン部)
So bye... bye my friend goodbye (さらば わが友 さらば) I must face the road alone (私は一人で道に向かわなければならない) But I'll make it, I'll make it (でも私はその道を) I'll make it on my own (自分の道にしてみせるわ)
Butterflies among the alibis 言い訳の間に舞う蝶々 Quick goodbyes, amid a room full of strangers 見知らぬ人々で満員の部屋での慌ただしい別れ Broken ties wrapped up my silent lies 壊れた絆が私の沈黙の嘘を包み込み Trying hard not to scream 私は叫ぶのを抑えるのに必死 Crowded aisles of unconvincing smiles 偽りの笑顔で溢れかえる混雑した通路 Clocks and dials beat out the time 時計と文字盤が時を刻む As you find me standing here 私がここに立っているのを見届けたあと Watching you disappear あなたが悲しいリムジン車の中に In your sad limousine 姿を消していくのを私は見つめる
空港というのはいろいろドラマがありますよね(歌謡曲的にも)。そして Bye, my friend goodbye。一人で自分の道を進むと決めたサンソンは3度このBye my friend goodbyeのリフレインを歌ったのち、最後の結語を付け加える。
So bye... bye my friend goodbye I must face the road alone, oh But I'll make it, yes I know that I'll make it In the end... we're all alone
In the end... we're all alone... 最後はみんな一人一人。これをもってこの項終わり。続編”『ヴァンクーヴァー』の50年・2”をお楽しみに。
(↓)ボズ・スキャッグス「We're All Alone」、これも『ヴァンクーヴァー』と同じ1976年の歌。
「ラ・メゾン・デ・ファム La Maison des Femmes」はフランスに実在する医療機関である。パリ北郊外サン・ドニにある公立総合病院施設ホピタル・ドラフォンテーヌ(サン・ドニ医療センター)の産科主任だった産婦人科医ガーダ・ハテム=ガンツェールが、臨床経験から多くの女性たちが性暴力および暴力によって心身に大きな影響を被っているにも関わらず、患者たちがそのことを訴えるのは稀で、その被害を訴えてもそれに対応できる医療機関が存在しない、という現実に抵抗して、同病院内に独立した施設として性暴力/暴力やハラスメントの被害者女性専用の医療・心神医療センターを2016年に開設したことが始まり。 このフィクション映画は、その「ラ・メゾン・デ・ファム」の実際の活動をベースに展開するメゾンの医師たちスタッフたちの奮闘を描くものである。メゾン創設者ガーダ・ハテム=ガンツェールをモデルにしたこのメゾンの責任者であるディアーヌ(演カリン・ヴィアール)は産婦人科医であり、このメゾンの重要な活動のひとつである(主にアフリカ諸国のFGM=女性器切除慣習の被害者たちへの)クリトリス再生手術の執刀医でもある。この病院がそのクリトリス再生手術のパイオニアであることも大きな理由であろうが、このメゾンの門を叩く女性たちにはアフリカ出身者たちが少なくない。北郊外サン・ドニという土地柄もあって、エキゾチックな女性たちが多く見えるが、それだけではない。女性への暴力には人種も国籍もない。映画の重要なエピソードのひとつで、カトリーヌという名の65歳のフランス(白人)女性が裕福な環境にあるが、数十年もの間(社会的に地位も高いとされる)夫にひどい暴力を受け続けていて、このメゾンの門を叩いている。
しかし(映画ですから)(詳しくは書かないが)救いはある。すべてを失ったと思っていたポールに、数冊の真っさらノートとボールペンを授けし人あり。このタバコ屋ビストロの女主人は菩薩の化身のようだ。かくしてポールは手書きでノート数冊の長さの小説 "A pied d'oeuvre"を書き上げ、ガリマール社に届けるのだった。 "A pied d'oeuvre"は字句通りには”仕事に足がかかっている”という意味で、「仕事の準備ができている」「すぐにでも仕事ができる状態」のこと。よろず雑務ジョブを嫌がりもせず「すぐできますよ」と答えるプレカリテ労働者たちの合言葉のように聞こえる。小説にしても映画にしても良い題名だと思う。
今から10年前の2016年1月、ボウイーと同じ正月に、ボウイーと同じ歳(69歳)で、ボウイーと同じガンでこの世を去ったミッシェル・デルペッシュ。この歌が出た1974年頃は、日本でもそこそこ知られていて、ポルナレフ、ジュリアン・クレールなど共に(おシャンソンから脱皮した新しめの)”フレンチ・ポップス”のアーチストとして紹介されていて、「青春に乾杯 (Pour un flirt)」、「ワイト・イズ・ワイト (Wight is Wight)」の2曲は1972年当時、青森のAM局でもよく聞こえてきたものだ。その人気を裏づけるように、この1974年の"La Maison est en ruine"は本国フランスでシングルカットされなかったのに、日本では「悲しみの終わりに」とムード的な日本題がついてキングレコードからシングル化されたのだった。この人の場合、フランスでは都会性よりも土の香りに近いような、ずっと後年にオーガニックとかエコロジックと言われるようになる自然/田舎情緒がつきまとうのであるが、1974年のアルバム "Le Chasseur (狩人)”はまさにその傾向の曲が多く...。で、この曲はその田園牧歌調の良い例で、リンゴ農家が大災害(洪水)で家も果樹園も壊滅的打撃を受け、悲嘆に暮れてないで夫婦で別の土地でやり直そうと、自らに言い聞かせる歌なのね。「哀しみの終りに」という日本語題はまんざら当たってないというわけではないのね。
Avant l'inondation, c'était notre maison 洪水の前はそこが僕たちの家だった C'était notre jardin 僕たちの庭だった On avait réussi à se faire une vie ここで生活を築き上げられたんだが Et nous n'avons plus rien 今僕たちには何も残っていない Regarde nos pommiers, ils n'ont pas résistés このリンゴ畑を見てごらん、洪水の勢いに Aux forces du torrent 耐えられなかった On ne voit plus d'oiseaux, il n'y a que de l'eau 鳥の姿も見えない、あるのは風と Et puis du vent 水だけだ
Allez viens mon amour おいでモナムール、 Là-haut sur la colline あの丘の上に行こう Regarde, la maison est en ruine 見てごらん、僕たちの家は廃墟と化した Il faut l'abandonner 放棄しなければならない Et tu te fais du mal à pleurer きみは泣いて自分を傷つけるけれど Nous avons des amis là-haut sur la colline あの丘の上で僕たちには友だちができるさ On en a dans les villes voisines 隣町でも友だちができるさ On est sûr de trouver quelqu'un qui voudra bien きっと僕たちを助けてくれる人が Nous aider 見つかるよ
On a vu bien des gens comme nous maintenant 僕たちのような人たちもたくさんいた Qui avaient tout perdu, ils vont bien quelque part すべてを失ってしまい、どこかに行ってしまった Je voudrais bien savoir ce qu'ils sont devenus あの人たちがどうなったのか僕は知りたい Tu sais je n'ai pas peur, il y a peut-être ailleurs 僕は怖くないよ、たぶんよその地にも Des coins plus beaux qu'ici ここよりも美しいところがあるかもしれない Regarde la vallée, le village est noyé あの谷を見てごらん、村は水に沈んでしまった Tout est fini すべてはおしまいさ
Allez viens mon amour おいでモナムール、 Là-haut sur la colline あの丘の上に行こう Regarde, la maison est en ruine 見てごらん、僕たちの家は廃墟と化した Il faut l'abandonner 放棄しなければならない Et tu te fais du mal à pleurer きみは泣いて自分を傷つけるけれど Nous avons des amis là-haut sur la colline あの丘の上で僕たちには友だちができるさ On en a dans les villes voisines 隣町でも友だちができるさ On est sûr de trouver quelqu'un qui voudra bien きっと僕たちを助けてくれる人が Nous aider 見つかるよ
Allez viens mon amour おいでモナムール On recommencera もう一度やり直すんだ Il me reste mon coeur et mes bras 僕にはまだ心と両腕がある La maison mon amour, on la rebâtira モナムール、僕たちの家をもう一度建てよう Toi et moi きみと僕とで Allez viens mon amour おいでモナムール Là-haut sur la colline あの丘の上に行こう Regarde, la maison est en ruine 見てごらん、僕たちの家は廃墟と化した
名唱ではありませんか。大災害ですべてを失った夫婦の、絶望からの立ち上がりを歌い上げる。傍らで泣いてばかりいる妻に「おいでモナムール (Allez viens mon amour)」と声をかけ、あの丘の上に行こう Running up that hill と一歩を踏み出す。エモーショナル。だが... この「モナムール」という呼びかけに、執拗に注目してしまった日本人がいたのだね。
このデルペッシュ”La maison est en ruine"の日本語カヴァー(シティーポップ)ヴァージョンは、1983年日本コロンピアからリリースされていて、タイトルは「いってモナムール」、アーチスト名は清野由美(せいの・ゆみ)。80年代に3種のレコードを出していて、この曲は1983年のLP”Continental"のB面1曲めに収められている。アーチスト自身は80年代で第一線を退いていたようだが、昨今のシティーポップ再評価のおかげで再び脚光を浴びているような話もあるらしい。この人に関して私には全く情報がない。ただ2月4日のFIPでのオンエアの際に、FIPのアニマトリス嬢が「デルペッシュのあの曲がシティーポップとして魔法のような変身」とベタ褒めの紹介をしていた。そりゃあ、一聴して大変身ですとも。