『即仕事可』
2025年フランス映画
監督:ヴァレリー・ドンゼリ
主演:バスティアン・ブイヨン、アンドレ・マルコン、ヴィルジニー・ルドワイヤン
フランス公開:2026年2月4日
2025年ヴェネツィア映画祭最優秀脚本賞
原作はフランク・クールテスの自伝的小説”A Pied d'Oeuvre"(ガリマール刊 2023年)。フォトグラファーとしてそこそこ売れていた40歳過ぎの男ポール(演バスティアン・ブイヨン)が、小説家としてデビューする。第一作めはフランス語で "succeès d'estime(シュクセ・デスティム)"と呼ばれる、評論家受けだけが良くて売れ行きが芳しくない結果に終わっている。それでも出版社のプロモーションでテレビやラジオに出演したし、紙メディアに書評も多く登場した。出版社(映画でももろにガリマール社ということになっている)の編集担当のアリス(演ヴィルジニー・ルドワイヤン、冷徹なやり手プロという役どころ、 この女優に合ってる)は、この新人作家の才能を買っていて、これよりずっといいものが書けるはずだ、と激励半分モラハラ半分の態度で責めてくる。ポールは安定していたフォトグラファーという職業を捨て、文筆ひとつで生きようとするのだが、月日は経ち、出版社が出した次作品アドバンス(前払い金)も底を突き、月の収入は印税250ユーロだけになる。映画では時期ははっきりしないが、おそらくそれと同じ頃にポールは妻(この別れた妻の役を監督ヴァレリー・ドンゼリが演じている)と破局し、妻と子供二人(男と女、共に十代)は別居して地方に住み始める。ポールは小説を書き続けたいが、自分の生活費も稼がなければならない。
遅い時期に人生を変えたポール。安定を捨て、文芸作品を創造することこそ自分の道と決めたポールだが、このことを妻をはじめ誰も理解しようとしない。映画で重要な役割を担う実家の父(演アンドレ・マルコン)は、どこにでもいるフツーの親父のように息子のことを真剣に心配するのだが、どこにでもいるフツーの親父のように、文学のようなヤクザな道を捨ててフツーの大人になってほしいとばかり説教する保守反動ぶりである。父母と姉のいる実家の食卓で、ポールはひとりだけいつまでたっても小さな子供のままである自分を感じている。
作家とはどれほどまでに”喰えない”職業なのか。第一作の小説は5千部売ったという。これでは全く喰えない。それでも出版社は次作の原稿を待っている。良い作品が出来たら出版しますよ、という態度。だがその作品ができるまでの作家の生活を保証するわけではない。原稿の出来次第では平気でボツにする。そういう世界だから、余程の蓄えがあったり、裕福なバックボーンでもなければ、おいそれと作家になどなれないのだ。ポールは40歳過ぎてから、それに挑戦しているのだ。元の職業の財産だったマミヤ、ニコン、キャノンだのの高級カメラ機を売り、姉の所有する半地下階のアパート(2019年ポン・ジュノ監督韓国映画『パラサイト』を想わせる)に家賃タダで住まわせてもらい、創作活動を続けながら、生活のためにバイトしようと思っていた。
学歴はバカロレア止まり、職業経験のない高年齢者、そういう人間が公共の職業斡旋窓口へ行く。(文筆活動の)時間の余裕が残せるような仕事を探している、建物のコンシエルジュとか、ホテルの夜番フロント係とか...。斡旋窓口係に鼻で笑われる。
この労働の貧困化と不安定化をフランス語ではプレカリテ(précarité)と言い、1990年代から今日にかけて顕著になっている労働&生活環境の極貧化(格差と貧困率の増大)を表す言葉となっている。ポールは作家として生きることを選択した途端に、プレカリテ環境に突入してしまう。文学創造を選んだことは”意志”であっても、プレカリテは選んだことではないが意志と関係なくポールを包み込んでしまったのである。それでもポールは”書くこと”を続ける意志を曲げない。
映画はポールのさまざまな労働現場を映し出す。誰でもできる肉体労働というわけではない。それなりにコツと要領と用具(工具)が要る。時間も要る。それをレストランのチップほどの金額を労賃としてやらせようと言うのだ。ポールは卑屈にならずにそれを受けるが、作家であるからその現場と人間(依頼主)たちを観察し、メモすることを忘れない(→ それがポールの未来の小説の素材になっていく)。ヴァレリー・ドンゼリは茶目っ気でこれらの雑務依頼人として、エリック・レナール(Eric Reinhardt、中堅ベストセラー作家)、クリストファー・トンプソン(Christopher Thompson、俳優・映画作家、ダニエル・トンプソンの息子)、ミッシェル・ゴンドリー(映画作家)などをチョイ役出演させていて、これがなかなか利いている。チョイ役ということで言えば、フィリップ・カトリーヌも(いかにも不正直な)宝石商という役で出演している。
しかしポールの生活苦は止まらない。JOBBINGだけでは足らず、叔母から車を借りてVTC(自営ハイヤー)としても働き始める。そのハイヤーの客の中に、ポールのフォトグラファー時代をよく知っている男と出会ったりするのだが、ポールの転身を信じられない男の驚きにも動じず、ポールは後戻りなしの自分の生き方を通すのだった。もうひとつのハイヤーのエピソードは、空港からフォンテーヌブローの自宅まで送り届けた”寂しい”貴婦人に誘惑されるまま、そのベッドまで引き摺られ、セックスという運びになるのだが、長いことそれと遠ざかっていたことと”空腹”が原因でできなくなってしまう。悲しい。
映画の大きなターニングポイントはここで、そのフォンテーヌブローからパリに戻る夜道の途中、ポールの車は何かとてつもないものと衝突してしまう。それは鹿だった。鹿は死んでおらず流血して苦しんでいた。ポールは警察や消防(救急)に電話してなんとかこの鹿を救ってほしいと頼むのだが、どこも取り合ってくれない。ポールは鹿をトランクに載せ、アパートまで持って帰り、浴槽に置く。瀕死の鹿を目の前にした時、ポールの極度の空腹はこれが多量の食肉を含んでいると思ってしまうのだ。そしてカッターで鹿を捌いていく...。
翌朝、ポールのことが気がかりで通りかかったポールの父親は、アパートの異様な匂いと血だらけの床を見るや、激昂し、ポールの狂気のすべての原因はここにすべて入っていると、ポールの小説原稿すべてが保存されているノートパソコンを叩き壊してしまう。ポールは破壊されたパソコンを修理屋に持っていき、ハードディスクだけでも回収できたらと望むのだが、それそのものも破壊されてしまっている。俺はすべてを失ってしまった...。
しかし(映画ですから)(詳しくは書かないが)救いはある。すべてを失ったと思っていたポールに、数冊の真っさらノートとボールペンを授けし人あり。このタバコ屋ビストロの女主人は菩薩の化身のようだ。かくしてポールは手書きでノート数冊の長さの小説 "A pied d'oeuvre"を書き上げ、ガリマール社に届けるのだった。
"A pied d'oeuvre"は字句通りには”仕事に足がかかっている”という意味で、「仕事の準備ができている」「すぐにでも仕事ができる状態」のこと。よろず雑務ジョブを嫌がりもせず「すぐできますよ」と答えるプレカリテ労働者たちの合言葉のように聞こえる。小説にしても映画にしても良い題名だと思う。
一途に「俺には文学しかない」と腹を決めた中年男が、ルーザーになりかけながらどん底から生き返って小説を書き上げる。これはサクセスストーリーではない。それが証拠に、結末はガリマール社がこの小説を晴れて出版することになるのだが、そのことが「喰えるようになる」を意味していない。ポールは新作の書店サイン会の合間にも、JOBBINGアプリで明日の食い扶持の仕事を探し続けている。そういう生き方がポールを救ったように、ポールはその生き方を続けることに意味を見出している。売れない作家にも生きる意味がある。
ポールを演じたバスティアン・ブイヨンの打たれ強さと、そこから見える世界の見え方がこの映画を”見せる”ものにしている。誇り高い貧困者の姿がある。そこから”文学”と”創造”が浮かび上がるか、という問題は、原作本を読んで判断したい(未読)。映画はその”文学”よりも、それを選んだ中年男の生還の清々しさに心を動かされる。それはバスティアン・ブイヨンという男優の力によるものと言えよう。
最後に映画中で流れる3曲のシャンソン・フランセーズ : ヴァネッサ・パラディ「ジョー・ル・タクシー」、アラン・スーション「フール・サンティマンタル」、セルジュ・レジアニ「ル・ヴィユ・クープル」、あまりにも効果的で泣けること、泣けること... 。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『ア・ピエ・ドゥーヴル(A Pied d'Oeuvre)』予告編

























