『灼熱』
2026年フランス+イタリア映画
監督:ステファヌ・ドムースティエ
主演:アドリアン・ユッセン(マルワン)、マルティナ・ラ・マンナ(ジウリア)、トリスタン・リシャール(ノエ)
音楽:ピエルパオロ・サッコマンディ
原作:ヴィクトール・ジェスタン小説『灼熱』(2019年フラマリオン刊)
フランス公開:2026年7月8日
2026年、ヨーロッパは体験したことのない熱波酷暑の波状攻撃を受けており、第一波は5月、第二波の6月はパリでも40度を超す極暑が12日間続き、そしてこれを書いている今(7月8日)は第三波の真っ只中にある。エアコンのない市民たちにとって冷房の効いた映画館はにわかに”避難場所”となっていて、老人たちを中心に利用者は急増している。そんな状況で今日(7月8日)封切されたこの映画、日中最も温度が上昇する時間帯の14時の回にわが町のランドフスキー座で観たが、多くの老人たちで席が埋まっていた。2026年の夏にあって、”La Chaleur(熱)"という映画題は腰が引けるものであろうが、老人たちが望むように館内は涼しい。
映画の舞台はフランス大西洋岸南部のランド地方である。南北に長い砂浜の海岸線、砂丘、ランドの森(松林)、ビーチは高い波が立つのでサーファーに人気があるが、この地方特有の"Les baïnes(バイーヌ)”と呼ばれる急激な引き潮(離岸流)が頻繁に発生して海に飲まれる海難事故が起こりやすい。それでも夏のヴァカンス地として人気は年々上昇していて、近年ヴァカンスのデスティネーションを何でも法外に高い地中海(とりわけコート・ダジュール)から大西洋岸に切り替える傾向を象徴する地方のひとつである。映画はランド地方の「キャンピング」と呼ばれる集合ヴァカンス滞在施設(キャンピングカー、キャンプテント、モービルホームなどの駐車&野営滞在区画貸しに加えて、巨大プール、遊戯施設、レストラン/バー/クラブ、各種イヴェント.... を備えている)で展開する。この従来のキャンプ場とレジャー+ヘルス施設が合体したような村のような「キャンピング」は、滞在費がホテルやレジデンスクラブ(例えば”地中海クラブ”)などより格安なので、2000年代から急激に人気を集め、この現象は映画やTV連ドラ化されて大ヒットしている。なぜこんなに長々と説明しているかと言うと、この「キャンピング」という環境は非常に庶民的・大衆的・享楽的な俗世界であるということを前以て理解してもらいたいからなの。常連・新座者を問わず、この環境ではみんな”村人”になってしまって即席の”共同体”が現出してしまったかのような、総チュトワマン(おまえ俺の仲)の融和作用が機能している。私は恐ろしくてそんな中に入れないと思うし、逆にその融和世界で仲間外れにされたり疎外されたりということを想像して萎縮してしまう。
主人公の17歳のマルワン(演アドリアン・ユッセン)は、たまたまキャンピングに逗留している同年代の少年少女たちがみんな気軽に自分を仲間のように一緒にヴァカンスを満喫しようとさまざまなレジャー(海水浴、プール、バーやディスコ...)に誘ってきて、ダチのひとりとしてつき合おうとするのだが、みんなと同一行動をしていても馴染めず心が開けない。それを象徴するように、少年少女たちが四六時中海パン/水着のほぼ裸状態なのに、マルワンだけはいつも白いTシャツを着用している。← だから映画画面ではひとりだけTシャツで否応なしに目立って見える。
マルワンは家族(父、母、弟、妹、犬)と一緒にキャンピングカーで来ていて、自炊食事は家族と一緒、寝場所は一人用テント。ヴァカンスだから、親は子たちの日中の行動に何の頓着もせず、勝手にさせている。17歳くんは楽しくもないヴァカンスをいたずらに過ぎていく時間のようにやり過ごしているが、そのアンニュイでメランコリックな佇まいは、実存的苦悩をもそこはかとなく匂わせて...。リセ最高学年、バカロレア試験の後は、音楽学(ミュジコロジー)の学科に進みたい。なんとマルワンはワーグナーの世界に心酔していた。ちょっと変わった子と思われても仕方ない。このヴァカンス村でマルワンの一番のダチがノエ(演トリスタン・リシャール)という肥満体のソフトな少年だが、ノエはこの夏にどんな少女が相手でもいいから”童貞を捨てない”、そのことで頭がいっぱいでスマホのマッチングアプリを頼りにセフレ探しに余念がない。その一部始終をノエはマルワンに話しまくり、マルワンは優しくもその相手をしてやる。少女たちのいるところにノエは突進していき、マルワンはそれに付き合ったりもする。そういうことに興味がないわけではないが、マルワンは自分から行動しようとはしない。そんな冷めたところが、少女たちにはちょっと気になったりもするのだが...。単純に陰気な子ではない何かを秘めたフンイキが醸し出されるズブの新人男優アドリアン・ユッセンというわけ。
一方マルワンとは対照的に、行動的でエゴイストでガールハンターでワルっぽさもいっぱしなオスカール(演ノエ・ウサール)という少年がいる。毎晩の恒例で少年少女たちは深夜にビーチに繰り出し、"bains de minuit(バン・ド・ミニュイ = 真夜中の海水浴)に興じることになっている。ー("bains de minuit"はところや年代にもよろうが、”たいがいは”全裸で、というのがフランスの習わしではあるが、この映画ではそういうふうに映っていない、ま、いか)ー その夜マルワンはしぶしぶその少年少女たちの真夜中のビーチへと向かおうとしていたのだが、その途中でオスカールに絡まれる。タバコ一本恵んでくれ、という話から、だんだんややこしくなる。マルワンはタバコはないが電子タバコはある、と一服させてやるのだが、相手はこちらが下手に出てると見るや、その電子タバコを放り投げるなどの挑発行為に出る。オスカールはほぼ泥酔している。ー これは映画の後半でわかるのだが、その夜オスカールは女に振られてムカムカしている。その女というのが... という話はあとでします。ー ムカつきの憂さ晴らしにオスカールのマルワンへの挑発イヤガラセはエスカレートして、掴み合いになり、放せ/放すもんかの殺陣まわりの末、オスカールがバランスを崩して、プール滑り台施設から転落して即死。パニックになったマルワンはこの事故を隠してしまおうという考えが先行し、オスカールの死体を引き摺って砂浜まで移動させ、旧ナチス・ドイツ軍のトーチカ廃墟(現在もなおその廃墟がフランスの北海から大西洋までの海岸線上に数多く放置されている↑上写真)の横の砂浜を掘って死体を埋める。
この映画は2020年代的現代が舞台なので、この時代を象徴的に代表してしまうアイテムが非常に重要なファクターとなってしまう。それはスマホである。スマホは人格の一部であるかのように個人に入り組んでしまった関係にある。翌日に気づくのだが、マルワンはオスカールの死体を埋める際に、オスカールのスマホと自分のスマホを取り違えていたのだ。つまり、今手元にあるのはオスカールのスマホであり、マルワンのスマホはオスカールの死体と共に砂浜に埋められてしまったのだ。監督のステファヌ・ドムースティエのインタヴューによると、このスマホ取り違えは原作ヴィクトール・ジェスタン小説にはなく、ドムースティエの創案だそうだが、これが映画のサスペンス効果にどれだけ貢献していることか。スマホは怖い。あらゆる犯罪に完璧な”アシ”がついてしまう。この件から逃げ通したいマルワンはこの二つのスマホをいかにしてこの世から消滅させられるかに腐心することになる。手元にあったオスカールのスマホはかろうじてガラスゴミ収集トラックの中に捨てることができたが、自分のスマホはオスカールの死体と共に地中に残されたまま。GPSで位置特定可能。マルワンは自分のスマホはバッテリーが切れて受信できない、あるいは、失ってしまった、と人々の(交信不能)不信を誤魔化そうとするのだが...。
翌日まで(昨夜宿に帰ってこなかった)オスカールをあまり心配していなかったオスカールの母クレール(設定としては息子ひとりとヴァカンスに来たシングルマザーのようだ。気が強い。演サラ・ル・ピカール、シロート俳優がほとんどのこの映画の中で稀なちゃんとした女優)が遂に捜索願いを出し、警察憲兵隊・海難救助隊・ヘリコプターなどを動員した本格的な捜査が始まり、少年少女たちも”聞き取り”で捜索本部に呼び出される。マルワンは人に気づかれまいとするが、落ち着きのなさは隠せない。あと2日でこのヴァカンスは終わり、一家はキャンピングを後にしてパリ圏に帰っていく。早くヴァカンスが終わって欲しい。
そんな中で現れるのが、肥満体のダチのノエ(シロート芸だがいいキャラクター、この映画の重苦しさを救っている)の紹介で知り合ったイタリア娘のジウリア(←写真 演マルティナ・ラ・マンナ)、ボローニャのブルジョワ家庭の娘で、近くにあるプール付きの大別荘に家族は滞在しているのに、この娘だけキャンピング敷地内にテントを張って野営している。家族には”フランス語習得”のためだと言ってある。確かにチャーミングなイタリア訛りのフランス語を話す。ビーチに来ても、Tシャツを脱ごうとしない、海水に入ろうともしない、皆と行動を共にしないマルワンという少年にジウリアは惹かれるものがある。マルワンが音楽科に進学したがっていることを知ったジウリアは、砂浜の上で何もしないで甲羅干ししている状態で、この状況にマッチする音楽を選んでみてと。するとマルワンはリヒャルト・ワーグナー歌劇『ローエングリン』序曲がいい、と。スマホ(何でもスマホでできるんですね)で見つけてイヤホンで聴き始めるジウリア。初めて聴くこの静謐荘厳な弦楽ストリームに感動するジウリア。マルワンにこの音楽はどんなものなの?と問うと、マルワンは途端に饒舌になってワーグナーについて語り始める。「ワーグナーを語ると目が輝くのね」と、おそらく誰も見たことがないマルワンの熱い目と口調をジウリアは引き出したのである。この映画で一番美しいシーン。これがおぼろげながら恋のプレリュードであった。
行方不明のオスカールは見つからない。捜索の聞き込みはジウリアにも及ぶ。その証言によるとジウリアはオスカールと刹那的火遊び関係にあったが、オスカールが執拗に”恋愛関係”を求めてくるのに対してはっきりと拒絶し、関係を絶った、と。つまり事件のあった夜、オスカールを泥酔させるほど失恋の痛手を被らせたのはジウリアであったのだ。間接的にこの少女は事件と繋がっている。一方マルワンにも聞き込みが行われるが、一貫してマルワンはその夜のオスカールとの接触を否定している。俺はオスカールのダチじゃないし、彼のことは良く知らない。俺は無名の目立たない少年少女たちのひとりにすぎず、みんなと群れて遊んでいるだけだ。捜査官はスマホの交信記録を見たいので提出せよ、と。バッテリーが切れてて、今手元にない、と逃げようとするが、必ず提出せよと捜査官に念を押される...。
マルワンのハラハラドキドキを意ともせず、予定されていたヴァカンス終了(キャンピングからの出発)は両親の気変わりで二度延期される。マルワンはこの”永遠に終わらないヴァカンス”の重圧で心が破裂しそうになる。二度延期のあとこれ以上延期がないとすれば、マルワンのキャンピングヴァカンスの最後の夜、恒例の少年少女たちの真夜中の海水浴パーティー(bains de minuit)、青春の最後の日のように少年少女たちは狂ったように盛り上がるのであるが、海から雷光が走り雷鳴が轟き、嵐がやってくる。豪雨で砂浜に濁流が流れ、かのトーチカ横の死体を埋めた場所にも...。嵐がすべてを流し、すべてを明るみに曝け出すだろう。マルワンはすべての終わりを悟り、例のTシャツ姿のまま嵐の海に進み出て、入水自殺を図る...。激しい波に足を取られ、海に倒れたまま波に流されているマルワンを見つけ、ジウリアが救い出す!
激しくなる嵐の中、ジウリアとマルワンは(夜には空き家になっている)遊泳監視ガードの詰所小屋に避難して、嵐の止むのを待って一夜を明かす。命も心も救済されてしまったマルワンは、ジウリアの誘いであの象徴的なTシャツを脱ぎ、裸になる...。
明けて晴天が戻り、マルワンの家族の出発の日になる。ジウリアとの別れの時、夏が終わればイタリアに戻り大学入学を準備するという少女にマルワンはまた会いたいと関係の続行を請うのだが、ジウリアは(たぶんオスカールに答えたと同じように)その時の思い出だけにしておきましょう、と訣別の意図を伝える。マルワンはどうすることもできない。17歳の夏の終わり。わ、いいなぁ。センチメンタルな青春の終わり。
結末は、マルワン一家の夏の思い出一切合切を積んだキャンピングカーがキャンピング場を出発してオン・ザ・ロード・アゲインとなるのだが、その帰路のしばらく進んだところでマルワンは両親に「忘れ物をしたから引き返してくれ」と頼む。両親は何も聞かずにその頼みを受け入れ、Uターンしてキャンピング場へ。そしてマルワンはオスカール捜索本部に出頭し...。
2026年酷暑の夏に観た "熱い夏”の青春映画。故意のない事故でありながら殺人犯のドラマを(自ら)演じる羽目になった少年の心理サスペンス。ランド地方の美しい松林と砂丘、高く波打つ海、美しい少年少女たち、暑い夏。少年が殻としてまとっていたTシャツを脱ぎ捨て、大人になる物語でもある。ほとんど映画初出演のシロートキャストで固めた映画だが、その作為なさが”青春もの”加減を際立たせて、鮮度が高い。加えて、上述のようにワーグナーも登場したが、この寄せる大西洋の大波のように繰り返される夢幻的なピエルパオロ・サッコマンディの音楽が素晴らしい。
監督のステファヌ・ドムースティエは、私の最も評価する女優の一人アナイス・ドムースティエの10歳うえの兄で、日本では2025年の監督作品だが奇しくも今夏(2026年7月17日)公開になる『新凱旋門物語(L'inconnu de la Grande Arche)』を撮った人である。注目したい映画作家。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『灼熱 La Chaleur』予告編
(↓)オリジナルサントラ:ピエルパオロ・サッコマンディ作曲 ”La Chaleur”テーマ





















