2026年8月13日木曜日

老いも若きもバレティでダンソ、ダンソ!

La Talvera "Balèti Blues"
ラ・タルヴェーロ『バレティ・ブルース』

2026年夏に書いています。日本ではちょうど盆踊りのシーズンで、ネットで見る限りの乏しい情報だが、近年の全国的な盆踊りリヴァイヴァルは大変な盛上がりのように報じられている。民謡・民踊・トラッドのイヴェントは大盛況で、サウンドシステム、DJセットも参入して若返り、老若男女の踊り手+地元・非地元を問わぬ愛好参加者たちが、その繰り返しダンスに興じてトランス状態に入っていく...。この現象はヨーロッパも同じで、フランスでは特にブルターニュ、サントルオーヴェルニュ、オクシタニア地方の村々で「バル・トラッド(Bal Trad)」あるいは「バル・フォルク(Bal Folk)」と呼ばれる伝統民踊ダンス会が、公民館やダンスホールや改装倉庫や野外ステージで開催され、夏のヴァカンス期は多くの観光客/ヴァカンス客を巻き込んで大変な人気を博している。80年代から既に話題になっていたものに、ブルターニュの「フェスト=ノズ(Fest-Noz)」というケルトのチェーンダンスパーティーがあり、ブルターニュのいたるところで毎週末踊り興じているさまが世界的に有名になり、2012年にユネスコ世界(無形)文化遺産にまで登録されることになった。フランスの民謡・民踊回帰のムーヴメントは、1968年5月革命の後、都会でエリートになることを拒否した学生たちが下野して、英米のロックやフォークに影響を受けて、フランスの伝統大衆音楽を掘り起こしたり、消滅した伝統楽器を復元再生(例:ブルターニュのセルティック・ハープ)したり、レパートリーとサウンドを刷新して行ったことから始まる。このムーヴメントは英語そのままで「フォーク・リヴァイヴァル」と呼ばれるが、フランスにおけるパイオニアとしてブルターニュのアラン・スティヴェル(1944 - )の名が挙げられ、それと同じような復興刷新運動がオーヴェルニュやサントルやオクシタニアでも起こったのである。それから60年という長い時間をかけて、フランスのフォーク・トラッドは現在のような活況を見るに至ったのですよ。
 ブルターニュにアラン・スティヴェルがいたように、オクシタニアにも1970年代にトラッド刷新のパイオニアとしてモン=ジョイア(Mont-Jóia)という4人組フォーク・トラッドアンサンブルがあり、古楽器+中世レパートリー+ダンスフォークをプロヴァンサル語(オック語)で演奏していた。この分野においてブルターニュとオクシタニアが他をリードしているのは、その地方語(少数言語)すなわちブルトン語とオック語の使用による明白なアイデンティティー表出に拘ったからであり、中央言語とも中央文化とも異なる表現への誇りは、中央権力へのカウンター意識も育んでいった。田舎者&異文化者の誹りを(中央から)受けていた地方人たちは誇り高く民謡・民踊+マイノリティー言語でリヴェンジしていったのだ。
 オクシタニアのタルン県の村、コルド・シュル・シエルで、ダニエル・ロッドー(1954 - )がオクシタニア文化研究保存普及(伝承民話・民謡の発掘、文献化、出版、展示、イヴェント主催)のためのアソシエーション CORDAEが創立したのは1979年のこと。その運営資金を捻出するために結成されたのがトラッドフォークバンド、ラ・タルヴェーロだった。トゥールーズ大学法科で修士過程だった頃はロックバンドでエレクトリック・ギターを弾いていたというダニエルだったが、24歳でディアトニック・アコーディオン(ディアベルトン diabeltonと呼ばれるタルン地方の楽器らしい)を独習でマスターし、その他クラーバ(craba別名bodèga)、ボーア(boha)といったオクシタニアのコルヌミューズ(バグパイプ)などの伝統民衆楽器を加えていき、オクシタン・トラッドのマルチインストルメンタリストとしてバンドを引っ張っていく。オクシタニア地方全域を旅して口承民謡を録音・採譜し、アソシアシオンCORDAEが文献化し資料音源として発表していった。その一方でそのレパートリー化された民謡の音楽をベースにしたオリジナル楽曲(作詞作曲ダニエル・ロッドー)をラ・タルヴェーロが録音/レコードCD化し、バルで演奏していった。ロッドーの歌詞はオック語で書かれ、時事的な社会風刺・政治風刺を含み、状況にコミットする内容になっている。バルでの演奏はロッドーの伴侶のセリーヌ・リカールがMCと歌唱を担当し、それに加えてトラッド・ダンスの指導もして、聴衆をダンスに誘う。私がサントル地方のトラッド・フェスティヴァル(マッシリア・サウンド・システムも共演していた)で初めてラ・タルヴェーロを知った頃(2003年夏)、何よりも私を魅了したのはセリーヌの野鳥の囀りのような時に可憐で時に鋭く響くヴォーカルと節回しであった。ステージでは、目の不自由なダニエルがディアベルトン(ディアトニック・アコーディオン)や種々のコルヌミューズ(バグパイプ)を取っ替え引っ替え弾いている前を、セリーヌがフィフル笛(ファイフ)を吹きながら歌い、踊り、会場のダンスをリードする大活躍で、それがなんとも田園的な祝祭の喜びを想わせ、私の”オクシタニアの民”のイメージはここから形成されていったのだと思う。
 2000年代初め、私たちは1970年代末から起こっていたオクシタニアのムーヴメントに注目してその主要なアーチストたちを日本に紹介しようとしていた。マルセイユのマッシリア・サウンドシステム、トゥールーズのファビュルス・トロバドール、ニースのニュックス・ヴォミカなどの都市型のバンドに混じって、ラ・タルヴェーロは村落部の代表のような感じだった。

(↓)2000年代初頭に撮られた動画だと思う。マッシリア・サウンドシステムとラ・タルヴェーロ、途中でインタヴューで中断されるが、マッシリアの "Tuba la pipa"を一緒にやっている。南仏のチェーンダンス「ファランドール」で会場が踊りの輪に。


 というわけで、私とラ・タルヴェーロのつきあいは20年以上になるのだが、その最初のきっかけとなった2003年のアルバム『Poble, Mon Poble(民よ、わが民よ)』はたいへんな傑作にして、非常にラジカルな作品だった。伝統楽器とオクシタニア伝承民謡リヴァイヴァルを予想して聞き始めたら、エレクトロニクス、ダブ、ミュージック・コンクレート、電話遊び、フィールドレコーディングの乱入... 南仏レゲエ・ダブ・ラガのチャンピオン、マッシリア・サウンドシステムがスタジオワークに参加しているせいもあろうが、たぶんそれ以上に実験的なスタジオ遊び芸のアイディアはダニエル・ロッドーの創造性のなせる業であろう。
 時間軸と逆に、それより後で知ることになった1999年のアルバム(この時既に”20周年記念”アルバムだった)『パンパリゴッサ Pampaligossa』(”パンパリゴッサ”とはラブレーの『ガルガンチュア物語』、アルフォンス・ドーデの『風車小屋だより』、ノーベル賞詩人フレデリック・ミストラルの詩に登場するオクシタニアの想像上の理想郷)は、その茶目っ気たっぷりのジャケットアート(→)とは裏腹に、次作『民よ、わが民よ』の数倍もラジカルで実験的でハチャメチャなアルバム(これにもマッシリア・サウンドシステムが大きく関わっている)だった(YouTubeリンクを貼ったので聴いてみてください)。
 実を言えば、当時(つまり2003年〜2005年頃)私たちがラ・タルヴェーロに抱いていた興味というのはもっぱらこのラジカルさだったようなキライがある。”南フランス深部から世界を射つラジカルな民謡パワー”みたいな。”レゲエ、ブラジル、ポルトガル、ブルターニュ、エレクトロニクスと過激にミクスチャーするオクシタニア”みたいな。オクシタニアのアヴェイロン県ラルザック軍用地反対闘争(1971年〜81年、反対派の勝利!)を現地で戦い、ジョゼ・ボヴェの反グローバリゼーション運動に連帯していたダニエルが、闘士肌丸出しのオック語歌詞で地方と中央の政治を糾弾し、Un autre monde est possible (もうひとつの世界は可能だ)とアルテルモンディアリストなメッセージを南仏の田舎から世界に発する、これが私が勝手に描いていたオクシタン・ムーヴメントの音楽だった。それにはなによりもラジカルでなければならなかったのだね。音楽よりも”ムーヴメント”や”社会性”に興味を持ってしまう悪い性分。
 日本盤の『民よ、わが民よ』は発売20数年後の今日、まだ在庫があるらしい。話題にならなかったし、高く評価もされなかった。それはそれで仕方がない。その後のラ・タルヴェーロのアルバムも、日本に紹介しようと努力はしたのであるが、なかなか”純オリジナル”の闘士型アルバムが出てくれなくて、「子供向け」として制作された”Quincarlet"(2005年)、トラッドの採譜レパートリー集”Cants e musicas del país de Lodeva ”(2006年)... とか私自身が食指が伸びないアルバムが続いて...。闘争メッセージの曲が多かった2007年の『ブラマディス』は私が歌詞訳して日本盤が出たらしい。その後のアルバムは(子供もの、純トラッド採譜もの、ダンス教習ものを除いて)爺ブログはちゃんと紹介しているはず。『ソパック・エ・パタック』(2009年)、『ソレルー・ソレライール(さんさんの太陽)』(2014年)、『A Tu Vai (ごたくはたくさんだ)』(2020年)など、私の紹介にも力が入っている(が、それほど読まれていない)。その途中で、2011年から12年にかけて、ブラジル・ノルデスティ(ペルナンブーコ)の代表的アーチストのひとり、シルヴェリオ・ペソアとのジョイントプロジェクト"ForrOccitania"(フォホオクシタニア)のアルバム制作と(フランスとブラジルの)ツアーという出来事もあった (←私このツアー見ていない)。
 で、正直なところ、ー ロッドーの歌詞の上の闘士気質は衰えていないのだけど ー あの2003年当時のラジカルさはどんどん薄くなっているなあ、というのが偽りのない印象。思えば、あの当時フランスのメジャーのレコード会社から作品を発表していたファビュルス・トルバドール(クロード・シクル)も、音楽シーンでの登場はほとんどなくなってしまったし、まだまだ元気なマッシリア・サウンドシステムでもたまにやるツアーの規模も、会場の器もどんどん小さくなっていった。みんな私と同世代。ダニエルは私と同い年、クロード・シクルはちょっと上、タトゥー(マッシリア)はちょっと下、だけどみんな70代である。人が老いていくことはしかたないことではあるが、Time waits for no one. 女性のことで失礼を覚悟で言えば、可憐な野鳥のようだったセリーヌ・リカールは貫禄の「大地の母」になってしまった。
 2025年10月、ラ・タルヴェーロは長年バンドの重鎮だったクラリネッティスト/サクソフォニストのファブリス・ルージエ(Fabrice Rougier)を失い、2026年1月に追悼コンサートを行った。その同じ月、バンドはタルン県のラカーズ城(Château de Lacaze 15世紀建造)のオーディトリアムを5日間借り切り、バル(オクシタニアのバル・トラッドは Balèti バレティと呼ばれる)でのライヴ演奏と同じ条件(ダニエルの言葉では、一切の”frlabiaque = 南西フランス/オクシタニア地方の俗語表現で小細工”なし)でレコーディングしたのがこのアルバム『バレティ・ブルース』であり、アルバムはファブリス・ルージエに捧げられた。そしてジャケット写真およびヴィデオクリップはタルン県ラバルト=ブレイ(Labarthe-Bleys)村にある赤土のマラヴァル砂丘(Dunes de Maraval ↓)で撮影された。


 ダニエル曰く、他のアルバムに比べたら、とても「ルーツ roots」な音であり、ラ・タルヴェーロがバレティでやっていることを忠実に再現している、と。キーワードはルーツである。私がそれまで好きだったスタジオ遊び的なダブやエレクトロニクスやエフェクトやコラージュやらを一切排除して、アンプラグドの楽器の生音と肉声ヴォーカルの一発録り。もう一つのキーワードはタイトルにある(バレティ・)ブルースという言葉だろう。(門外漢の私であるが)1920年代のアメリカ南部録音のブルース音楽とどこか通じるものがあるように聞こえる。
 このアコースティックでオーガニックでルーツなアルバム録音に登場するのは4人編成ラ・タルヴェーロ:
ダニエル・ロッドー:ヴォーカル、ディアベルトン、コルヌミューズ(バグパイプ)3種、ポドリトミー(足踏み)、ハーモニカ
セリーヌ・リカール:ヴォーカル、フィフル笛、オーボエ、口琴、ブラウ
アエリス・ロッドー:ヴォーカル、ヴァイオリン、ヴィオラ、アルファイア
ゾエ・デュラン:ヴォーカル、バンジョー、タンブリン

オーガニックな女性上位。 元始女性は太陽であった。この4人がバレティで老若男女をダンスの陶酔へと誘っていく。
8曲目 "La Ressegaira"のヴィデオクリップ(↓マラヴァル砂丘で撮影)



11トラック48分。11トラックと言っても、2曲をメドレーにしたトラックが3つあるので曲数では14曲ということになるのかな。採譜トラッド曲もロッドー作オリジナル曲もほとんどが既発のCDアルバムに収められていた(ダンス)楽曲で、これは一種のラ・タルヴェーロの”ベスト・オブ・バレティ”選曲のアンプラグド・ライヴ再録音集。しかしながら、曲によってはダニエルが新しい詞に変えてある。世情を見て黙っていられないタチなので、ダニエルは言う。例えば上にヴィデオを貼った "La Ressegaira"というブーレ曲は、2000年に発表した"Fabuem Ribòta"(アルビジョワ、ルエルグ・ケルシー地方のオクシタンダンス曲集)というアルバムに収められているが、この新しいヴァージョンではこんな5行の詞の繰り返しになっている。
L’amor de la planeta  地球を愛する心を
Lo nos cal ben servar 私たちは持ち続けなければ
Lo nos cal ben servar 私たちは持ち続けなければ
L’amor de la planeta 地球を愛すること
La podèm pas trompar 私たちは裏切ってはいけない

昨今の世界状況を見て、繰り返し唱えたくなる気持ちをダニエルたちは抑えない。バル(バレティ)では、聴衆は歌詞に気を留めるだろうか。このあたりは、マッシリアのライヴなどにも同じ印象を持ってしまうのだが、マッシリアに集まる連中は、ゴキゲンに騒いで楽しむのが目的で、歌詞なんかどうでもいいかと言うと、みんな暗記して唱和できるほど歌詞を知っている。ラ・タルヴェーロのバルはダンソ!ダンソ !(Dança, dança 踊ろう!踊ろう!)で踊るのが第一義のように見えて、たぶんメッセージは伝わっているのだろう。民衆の闘士ダニエルがダンスパーティーの音楽/ダンスのアジテーターである姿は晴々しい。
 アルバム2曲目で、(上述したが)私がラ・タルヴェーロを知るきっかけとなったアルバムであり、おそらく最高傑作と私が勝手に思っている『民よ、わが民よ』(2003年)の最初の歌(track 2 !)"Lo prumièr de mai(5月1日)"が、23年後にアンプラグド再録音で再訪されている。この新録音がネット上で公開されていないので、ここで”聴き比べ”紹介できないのが残念だが、23年前、たくさんの楽器と多重のコーラスワークとエフェクトでまさにアヴァンなトラッドダンス(スコティッシュ)ヴァージョンだったこの曲が、セリーヌとアエリスの母娘掛け合いヴォーカル、バンジョーとコルヌミューズのシンプルで音数少ないユニゾン伴奏、なんとも原初的な牧歌ワールドが現出している。ルーツとはこのことだと思う。ダニエルはこういう”地(じ)の音”に戻ってみたかったんだろう。私は23年前にダニエルたちと出会った時は、音楽業界の一”商人”であった。つまりダニエルたちの音楽を”売りたい”と思っていた人間として会った。だからその23年前の斬新さ、ラジカルさ、突拍子のなさに魅了されて、これは「新しい!」と飛びついたのだろう。もしも23年前に、このアンプラグドの録音を聞かされたら、「これは売れませんよ」と言っていたに違いない。そういう当時の私の愚考を、23年後に、しっかり戒められたのだ。
 これを書いている1週間後の8月21日、コルド・シュル・シエルでセリーヌとダニエルに22年ぶりの再会を果たす。しっかり叱ってもらおう。歳取らないとわからないこともあるのだ。

<<< トラックリスト >>>
1. Viva las Sentantinas !
2. Lo prumièr de mai
3. La passèm
4. Seguida de rigaudons
5. Tindelon / Lo menal
6. La femna del fabre
(下に貼ったYouTubeは別録音のヴァージョンです)
7. Balada / Libertat liberdatde
8. La ressegaira
9. Lo Brisa pè
10. Pèire e Joan / Las bacinas
11. Farandòla dels Martins

La Talvera "Balèti Blues"
CORDAE/La Talvera CD Tal24
フランスでのリリース:2026年7月

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"La femna del fabre" 2021年撮影のクリップ。クラリネットでファブリス・ルージェ(2025年没)の姿も見える。


(↓)CORDAE / La Talveraも主催者となっている毎夏8月15日(祝日)の頃に2日間コルド・シュル・シエルで開催されるFèsta Occitana(オクシタン祭り)。その2025年版の模様を収めたクリップ。

2026年7月29日水曜日

1976年の夏・Castor Tape

Castor Tape
Summer 1976
1976年夏
爺のミックステープ


前記事に続く)

1976年夏、大旱魃と猛暑の中、低ノルマンディー地方カルヴァドス県の首邑カーンの大学キャンパス内学生寮の一室で、ひとりで、あるいは部屋にドリンクやツマミを持ってやってきた友人たち(日本人および非日本人)と一緒に聞いていた(カセット)音楽、現地ラジオから流れてきた音楽...  50年後、込み上げるノスタルジー感で涙を禁じえない音楽の数々。これを読む同志たちにはエモーションを共有できることはないと思うが、年寄りのセンチメンタリズム、付き合ってくれたまへ。

鈴木慶一とムーンライダース「すかんぴん」
日本の友人が送ってくれたカセットから。アルバム『火の玉ボーイ』(1976年)の中の1曲。もうどうしようもなくアルコールにマッチする名曲。寮の部屋に冷蔵庫さえあればなぁ...と何度思ったことか。(冷蔵庫の要らない)安い赤ワインばかり飲んでいたなぁ。


James Taylor "Don't be sad 'cause your sun is down"
これも友人の送ってくれたカセットから。そのカセットにはJTの2枚のアルバム『ゴリラ』(1975年)と『イン・ザ・ポケット』(1976年)がコピーされていて、どっちも聴き込んだけど後者が好き。前記事でも引用した「シャワー・ザ・ピープル」も至福の名曲。この"Don't be sad..."はスティーヴィー・ワンダーとの共作の歌で、スティーヴィーのハーモニカも入っている。スティーヴィーが大好きだった時期だったんだなぁ。「太陽が沈んでも悲しまないで」ー 私のいた学生寮の南側の窓からは、サマータイムのフランスのいつまで経っても沈まない太陽がよく見えた。そして21時過ぎてやっと沈んでいく太陽の最後の光が消えても世間様はまだまだ明るくて。なかなか終わらない一日、その暮れ方が好きだった。歌詞の最後の But especially today I'm feeling blueもジーンと来る暮れ方だった。


Peter Frampton "Do you feel like we do"
1976年の全米No.1アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ !』は、市内の百貨店ヌーヴェル・ギャルリーのレコード売場でカセットを買った。フランスでオーディオカセット、ミュージックカセットが、"K7"(アルファベットの"K"と数字の"7=sept" 、カ・セットと読む)と表記されるようになったのは1970年代だそうである。当時私は気がつかなかったが、後年音楽業界で働くようになってから、日本の同業者に、この”K7"って何なの?とよく聞かれた。それはそれ。ダブルアルバムで所収時間が80分のロングプレイカセット、聞くのは1曲だけ、最後の14分15秒の大曲「ドゥ〜ユ〜フィ〜〜ル...」これしか聞かない。これはわが部屋に来た連中が喜ぶんだぁ。14分間おごそかに聞いているわけではない。あの当時"エア・ギター”なる言葉は存在しなかったのに、みんなやっちゃうんだね、弾き真似を!そしてあのトークボックスの音の口真似!盛り上がったなぁ、楽しかったなぁ...


Marie-Paule Belle "La Parisienne"
前記事を書いている最中に、マリー=ポール・ベルの訃報(2026年7月25日没)が飛び込んできた。80歳だった。合掌。とは言っても私もこの「ラ・パリジエンヌ」という歌しか知らない。多くのフランス人もそうだろう。”一発屋”と言うのだろうか。派手なショービズ界とは距離を置いたシャンソニエ/キャバレー/ミュージックホール出身の正系のピアノ弾き語り”シャンソン”歌手で、ヒット曲と縁がなくなってもずっとそういう小屋で歌い続けていた生涯現役人。で、私がこの歌を知ったのは、76年大学夏季講座の上級者向け一般教養クラスで、ちょっとコケットなフランス人女性教師(私、大好きだった🖤)が、当時フランスで一番受けている大衆芸能として、コリューシュのスタンダップ芸(当時はスタンダップなる言葉はなかったのでいわゆる漫談)と、マリー=ポール・ベルの「ラ・パリジエンヌ」をカセットで聞かせたのね。私はどっちもさっぱり理解できなかったのに、クラス内でゲラゲラ笑う学生たちもいて...(悔しかった)。「ラ・パリジエンヌ」は後日テレビのヴァリエテ番組で見ることができて、あ、この人、京唄子に似てる!と思った。このいかにもレトロなベル・エポックのオペレッタ風(オッフェンバック、フレンチカンカン)は、田舎から首都に出てきた娘がファムファタルになりたいのだけれど、当世風パリジエンヌのようにアルコールもドラッグも嗜まないし、何のコンプレックス(都会女性ならではの複雑な悩み)もないし、パリジエンヌでないってことは実に困ったことだ(ça me gêne, ça me gêne サムジェヌ、サムジェヌ)と歌っているのね(当時はわからなかったけど)。レズ、色情狂、精神分析医通い.... さまざまな”尖んがった”最先端女性たちの生態を列挙して、こりゃかなわんけど、ファムファタルになるためには頑張らなくちゃ、という早送りシネマのようなコミカルソングだけど、根には70年代型フェミニズム礼賛というしっかりとした思想がある(と思う)。時間をかけて好きになっていった歌。こういうシャンソンというのはもうどこにもないと思うよ。もう一度マリー=ポール・ベルの冥福を祈る🙏


Véronique Sanson "Sad Limousine"
あの夏だけではなく、私の一生涯通して最も多い回数聴いてきたアルバム『ヴァンクーヴァー』に関しては、この3月に2つの記事で詳説したので読んでみてください。そしてこの「サッド・リムジーン」という歌に関しても歌詞解題込みで「ここ」に書いてある。You drove me to the airport, in a sad sad limousine. 1976年6月29日東京、私にも出発空港まで見送ってくれた人あり。それはリムジーンではなく、羽田モノレールだったけれど。ああこの人は遠くまで行ってしまうんだ、とその人は思ったに違いない。
So bye... bye my friend goodbye (さらば わが友 さらば)
I must face the road alone (私は一人で道に向かわなければならない)
But I'll make it, I'll make it (でも私はその道を)
I'll make it on my own (自分の道にしてみせるわ)

そんなつもりで飛行機に乗ったわけではないよ、私は。 だけど私はその時「大きな別れ」をしたのだ、と50年後の今になって思う。1977年から79年という2年間のブランクというか中休みというか執行猶予期間みたいな東京(大学卒業&就職)滞在期間はあったけれど、私はその「大きな別れ」の時から体内時計も生活地盤もフランスになってしまったのだと思う。成功だったの?失敗だったの? ー 今さら何を!



Banzaï et les Clodettes "Viva America"
これはその秋からカーン市内で私と同じ下宿に住むことになる、仙台から来たブミ君が大好きだったのね。クロード・フランソワのバックダンサーチーム、レ・クロデット(Les Clodettes)のために親分クロード・フランソワがでっち上げたデタラメなラテン・ディスコもの。「嘆きのビンボー」(1974年)、「ブラジリア・カルナバル」(1975年)と同パターンの3匹目のドジョウだけど。ブミ君はあの頃日本人海外旅行者がみんな持ってた手帳サイズの「実用5カ国旅行会話集」をいつも持っていて、そのスペイン語のところから引いて、「Tengo fiebre ! (熱があります)」とか「¡Lléveme al hospital, por favor! (病院へ連れて行ってください)」とかデタラメにスペイン語をがなり立てて、「ああ ビバ・アメリカ! ああ ビバ・アメリカ!」と歌いつなげて、寮から学食までの道々、くりかえしくりかえし「ビバ・アメリカ!」を歌い、(スペイン語を)がなり、踊りながら行進するという芸当でウケていた。今思い出しても笑ってしまう。
- Ven ? conmigo a cantar "Viva America"
- Ah aïe !
- Venga ! Venga ! Ah aïe !
- Asi ! ven cantado ! ven cantado!
- Ah ah !
- Aïe! Un, dos ! Un, dos ! Un dos ! Un dos, un dos ! pero, que tanto !
- Ah ah ! Ahora ! Ahora ! Ah !
Ah Viva America !
- Viva America !
Ah Viva America !
Ah Viva America !


Boz Scaggs "Harbor lights"
ボズ・スキャッグスの大ヒットアルバム『シルク・ディグリーズ』もサンソン『ヴァンクーヴァー』と競るほどたくさん聴いた。カーンの位置はノルマンディー海岸まで18キロの距離がある内陸である。一番近い大きな港はウィストレアムで英仏海峡フェリー船も発着するが、ウィストレアムからカーンまで運河が通っていて、カーンの町にも内港があってクルーザーやヨットが停泊している。その内港の岸にはシーフード・レストランや釣具店やバーが並んでいて、ちょっとしたヨットハーバーの風情がある。その内港のある運河(バッサン・サン=ピエール)の岸の広場(クルトンヌ広場)に毎日曜日、大きな市が立つ。いろんなものが売ってあって、その中に古本屋もあったのだ。私はそこでなんと”和英辞典”を見つけて(この町は昔から日本人学生が多かったのだなぁ)、値段は忘れたがとても安価で買ったのを覚えている。 ー パソコンもスマホもなかった時代、人が読み書きするのを最も助けてくれるのは辞書だった。仏和と和仏の辞書がなければそこで生きていけないと思ったほどだ。その夏、私はたくさんものを書いていたのだ(ボールペンで)。自分用に、勉強用に、他人用に。フランス語、日本語。手紙もたくさん書いていた。で、漢字がわからなくて書けなくなって、ああ、何で国語辞典を持って来なかったんだろう、と悔やんだ。ー 恋と言えるのだろうか、その夏、オーストラリアから来た娘に猛烈に恋慕していて、夏期講座のセッションを終えて、彼女はカーンを後にした。22歳の私は真剣に彼女の後を追って行こうと考えたり...。フランス語の下手な彼女は私とは英語でコミュニケーションしようとしていた。ところが私も英語は苦手だったのだよ。スマホもケータイもなかった時代、私と彼女の交信は”手紙”だけになった。運河沿いの市の古本屋で買った古い和英辞典がどれだけ役に立ったか。『シルク・ディグリーズ』は彼女も好きで、何度も一緒に聴いた。"Harbor lights"の出だしの "Son of a Tokyo Rose" (東京ローズの息子)って、あなたのことみたい、と言われた。日本人だから?そうじゃない。What does it mean ?  ー 東京ローズというのは第二次大戦中、米軍が日本国民にプロパガンダ放送を流すために雇った女性日本語アナウンサー、複数いたが全員”東京ローズ”を名乗っていた。転じて匿名の女という意味になったらしい。名も知らぬ母から生まれた名も知らぬ子は、風来坊・流謫の身に甘んじるのが運命、ロンサムトラヴェラー、あなたもそうやって日本から流れて来たんだわ ー みたいな説明をされたと思う。英語だから理解できたんだかどうかもわからない。東京ローズの息子、結構じゃないの。素敵じゃないか。 .......  という思い出。たくさん手紙は書いたけど、返事はほとんどなかった。That brings me back to you my love, to you my love, to you my love...

Alain Souchon "Bidon"
1976年夏、フランスのラジオから最も頻繁に流れていた歌は3曲あって、ひとつ目はボブ・ディラン「ハリケーン」(! しかし全曲かからず、いつも半分で切られる)、二番目はイングランド人マレー・ヘッドの"Say it ain't so, Joe"(これはフランスで日本の時計メーカーSEIKO提供の民放ラジオの時報の音楽に使われ、フランスで局地的な大ヒットに)、そして三番目がアラン・スーションの「ビドン」。アルミ缶やポリ缶などの容器のことだが、転じて見かけだけで中身のないもの(あるいは人)という意味。2007年に向風三郎がその著『ポップ・フランセーズの40年』で、「自転車乗り用のズボンばさみ」と題してこの歌を取り上げていて、すごくうまいこと書いてる。老いた私にはもうこんな機知と含蓄と諧謔に富んだ文章は書けっこないので、全文そのまま引用する。
フランスでも自転車はロードレースのためだけにあるのではなく、生活上の移動手段としても使われている。1970年代中頃は裾広の(ラッパ、ベルボトム)ズボンを着用したりするから、自転車を漕ぎながらズボンの裾がチェーンに絡まったりする。その防止のために、フランスでは自転車乗り用のズボン裾クリップがあり、これを "pince à vélo"(パンサヴェロ)と言う。しかしこれはどう見ても格好悪いものなのだ。
アラン・スーション(1944 - )は自らの歌でしばしば告白されているように、環境順応の難しい子供だった。学校の成績は悪く、バカロレアは3回うけてことごとく失敗している。英国に18ヶ月暮らしている間に作詞作曲を始め、帰仏してレコード会社パテ・マルコーニと契約して3枚のシングル盤を発表するがどれも不発。その間に結婚して子持ちになっている。1973年、移籍したレコード会社RCAのディレクター、ボブ・ソッケに注目され、翌年ソッケの紹介でローラン・ヴールズィ(1948 - )と出会う。当時のスーションの弱点であった作曲をヴールズィが補うというソッケのアイディアはまんまと図に当たって、スーション+ヴールズィはフランスの大衆音楽を大きく変えてしまうソングライター/コンポーザー/シンガーのペアチームになっていくのである。1974年スーション+ヴールズィは歌手スーションの最初のヒット曲となる”J'ai dix ans(僕は10歳)”を世に送り出す。
不安定でなよなよした男の叙情を皮肉とユーモアで綴るスーションの詞と、ビートルズ(マッカートニー)フリークのポップなメロディーセンスのヴールズィの曲。このコンビは、格好悪さとポップさを武器にして新しい世代の共感を得ていく。来るべき21世紀のベナバールやヴァンサン・ドレルムといったシャンソン新世代の30年前の手本がここにあった。
スーション+ヴールズィによるスーション2枚目のアルバム『ビドン(Bidon)』(1976年)は二人の才能と人気を決定づけた作品で、タイトル曲「ビドン」は、見かけだけの中身のない男が、映画スターやレーサーや人気歌手を気取っても、女の前ですぐにメッキが剥がれて、自転車乗りのズボン裾クリップをつけてすごすごと去って行く、という内容が歌われている。キーワードはこのズボンクリップ(パンサヴェロ)で、男の格好悪さが強烈にこの一点に集中する自虐ユーモアが、多くの婦女子の皆さんの母性本能的シンパシーを得てしまうのである。弱い男、女々しい男、おセンチな男、見かけだけの男たちが、歌の世界でも映画の世界でも大きく露出度を増して市民権を獲得していった1970年代であった。アラン・スーションはこのポジションで変わらず今日まで生き続ける愛すべきヤワ男である。

こんなこと書いていたのか。ま、そんなに間違いはないか。あれから50年、アラン・スーションはよく老い、スタイリッシュな好々爺の現役(大御所)音楽アーティストである。実によく老いた。熟成した。ああ、こんな風に老いることができてたらなぁ...。


吉田美奈子「ラムはお好き?」
これも日本からの友人カセットに入っていた。吉田のアルバム『フラッパー』(1976年、大瀧詠一作「夢で逢えたら」など良い曲とそうでもない曲が半々という印象)から。これは一番上に上げたムーンライダース『火の玉ボーイ』の中の鈴木慶一作「午後のレディ」と並べてよく聴いた。どちらもレトロでハイソサエティーな誘惑ゲームの佳曲。作曲した細野晴臣のトロピカル趣味全開で、細野のガットギターソロもめちゃくちゃ素敵に聞こえた。1976年大旱魃の夏、学生寮の部屋の昼はいつも30+α度を越えていて、涼を求めてラジカセに乾電池入れてキャンパスのポプラの木陰に行って寝転がるんだけど、so nice, it's so nice... とのんびりする時間もほどなく電池がなくなってしまうんだなぁ。
One more coca cola ?  ー コカ・コーラは日本と全然味が違ってた。カフェでもコーラのグラスに氷を入れてくれるところなんかなくて、なんとなく微温い飲み物だった。そしてフランスでは日本や米国のように「コーク(Coke)」と呼ばずに、「コカ(Coca)」と呼ぶ飲み物だった。Un coca s'il vous plaît !(アン・コカ・シルヴィプレ!)。知ったかぶりのフランス人が、これ、柔道(審判)用語と一緒だよ、「コカ(効果!)」と笑ってたのを覚えている。今調べたら柔道の「有効/効果」という判定は2008年に廃止されていたのね。それはそれ。
あの夏、カフェで学内売店で食料品店で初めて知ったドリンクの数々:Gini(ジニ)、Orangina(オランジナ)、Cacolac(カコラック)、Oasis(オアジス)、Perrier(ペリエ)、パナシェディアボロマントディアボロルージュ、シードル、カルヴァドス、パスティス..... それはそれ。
50年後の2026年、フランスの国営音楽FIPからは昨今の「シティポップ」人気で、吉田の(当時の)歌もよくオンエアされる。50年前、日本の最良のポップ音楽が育ちつつあったのだね。


Rolling Stones "Memory Motel"
メモリーという言葉。私たちが若かった頃とどんどんかけ離れた意味に変容していった。情報工学用語が一般化していって、メモリーはある量的単位の意味ばかりが日常に定着した。メモリー容量、メモリー不足、メモリー共有、外付けメモリー...。メモリーは数値で表すことができるのだ。私たちが若かった頃、メモリーはそんなものではなかった。ロボットだったダフト・パンクがその最後に『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)というタイトルの彼らの最も”人間的”なアルバムを発表したが、ここでの”メモリーズ”は半導体メモリーのことではなく、人間のメモリーだったのだよ、だからエモーショナルな最後だったわけじゃないか。ダフト・パンクは(昭和天皇のように)人間宣言をして、活動に終止符を打ったのだよ。メモリーを人間の手(心)に取り戻したかのように。
私たちが若かった頃、メモリーは心の中にあったのだよ。Do you remember ? メモリーは時々動き出して、心をちくちく責める。情報工学のメモリーと違って、消去することができないものなのだよ。人間のメモリーは切ない。
1976年ザ・ローリング・ストーンズは5人だった(ミック・テイラーが去り、ロン・ウッドが加入した)。アルバム『ブラック&ブルー』のカセットは夏の終わり(夏期講座は終わっていて、寮を追い出されて、市中の一般家庭の貸し部屋に入った頃)にヌーヴェル・ギャルリーで買った。それこそ夏のメモリーで心がグジャグジャになっていた頃だった。家主はいいご夫婦だったけれど、大きな音が嫌いで、私のラジカセは何度も苦情を受け(たぶん家主の音楽趣味とはかなり異なっていたんだろう)、挙句にイヤホン(ヘッドホンじゃないよ、昔ながらのイヤホン↑写真)で聞くことを強制された。これにも相当ムッと来たんだな。象徴的に夏の終わりを思わせる出来事だった。
『ブラック&ブルー』はもっぱら2曲しか聴いていない。「Fool to cry(愚か者の涙)」とこの「メモリー・モーテル」だけ。どっちもジャガーの涙まみれバラードである。つい数日前までみんないたのに、夏が終わり、みんなカーンを去って行った。早々とこの夏はメモリーになってしまったのだよ。センチメンタルでメランコリックな季節の始まり。夏の間中、私は夢を見ていたのか。それはとりもなおさず夏に出会った一人の娘のメモリーのことなのだけど。歌の中でハナという名の女性が”俺”のギターを取って歌い出す:
She took my guitar and she began to play
She sang a song to me
Stuck right in my brain
You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー)
That used to be(いつもと同じ)
You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー)
That used to mean so much to me(いつもだけどそれはとっても意味あるのよ)
するとすかさずキース・リチャーズが茶々を入れる
She got a mind of her own(あれは芯のしっかりした娘だ)
And she use it well(それでうまく立ち回っている)
1976年夏の終わり、私がいつまでもぐじぐじと未練たらしく塞いでいると、「あの娘はキミと違って一人で上手くやってるよ」と言ってくれたダチはいたかな? ー いなかった。あんたはただの愛のメモリー。彼女は私にとって just a 愛のメモリー、だけどそれは mean so much to me。こんな曲をなんで7分の長さで続けてくれるんだよ?なんてセンチメンタルなメモリーなんだ。このメモリーはこの歌と共に絶対消去できないものなのよ。
Sha la laa la
Sha la laa la
Sha la laa la
Sha la laa la

2026年7月26日日曜日

1976年の夏

50年前の夏、私は22歳だった。

2026年6月下旬から(小休止の2日間を挟んでも)20日間以上に渡ってフランスは観測史上記録破りの熱波酷暑に襲われ、パリでも最高気温40度を超す日が続いた。過去にひと夏で15000人の(熱波が原因とされる)死者を出した2003年の酷暑よりも気温は上回り、熱死者数はそれを超えるのではないかと危ぶまれたが、それは大したことがなかったようだ。その代わり遊泳中の事故、溺死者数は3桁に達し、過去に例を見ない。遊泳禁止だったパリのサン・マルタン運河や、(3カ所の遊泳区画の)川開き前のセーヌ川でも多くの若者たちが飛び込む光景がニュースになった。
 2003年と2026年の酷暑は"Canicule(カニキュール)"(熱波)という言葉で表現されたが、今から50年前、同じほど暑かった1976年の夏は、”Sécheresse(セシュレス)”(干魃)だった。雨の降らない日々はその年の3月に始まっていて、それは200日も続くことになる。大干魃(la grande sécheresse ラ・グランド・セシュレス)だった。
 1976年3月、四谷の大学の仏文科生だった私は学科に休学届を出した。私はあの大学と肌が合わず、興味もなく、友人もほとんどなく、フラストレーションばかり溜めていた時期だった。大学の3年間で肝心のフランス語が”中級”止まりだったのは自分のせいか。大学だけではない。私は東京にほんとうに辟易していた。18歳で東北の片隅から出てきた若造であったが、思えば、その辺の無知な田舎の小僧のように、私は東京に過度な幻想を持っていたに違いない。そう、東京に出ればなんとかなる、と思っていたドリーマーだった。父母家族と極端に悪い関係だったわけではないが、十代後半は家を出ることばかり考えていて、この環境から抜け出さなければ自己実現はありえないと思っていた。青臭さを誇りに思っていた頃。一人で何もできないくせに。東京に出ればなんでも可能なはずだった。一応(象徴的な意味での)その"droit de cité"(「市民権」ー 自由に住み通行し法に守られて生きる権利)を得たいと願い、東京に幾度もぶつかって行ったつもりだったが、その奮闘は虚しいものだった。悲しいね。3年間蠢いてみたけれど私には居場所がなかった。
 アルバイトで金を貯めたわけではない。アルバイトはほとんどしなかった(2度家庭教師をして、2度とも受験に失敗させた実績あり)。むしろ生活を切り詰めて親からの仕送り金の残りを貯めていったら3年で往復航空券代くらいは捻出できた。加えて東京での生活費と同じ額の仕送りを両親に出してもらうということで、私はフランス渡航を決めた。フランスの大学に留学手続きを取り、初めてパスポートを取得し、初めてフランス政府(正しくは在日フランス領事館)に就学ビザ(右写真→)を申請し、外貨(フランスフラン)を買い、住んでいたアパートを引き払い(あの時持っていた本やレコードはどこに行ったのか記憶がない)、あとは出発を待つばかりだった頃、この1976年フランス大干魃のニュースが耳に入ってきた。当時、四谷の仏文科の一学年上の先輩連中でフランスに留学滞在していた数人が情報ネットワークとなっていて、私のような渡仏を控えた後輩に現地の情報を共有させていた。今思えば、何を情報交換のツールにしていたのだろう?航空郵便?国際電話? ー その中でフランスは旱魃で春から全く雨が降らず、極端な水不足で、給水制限のためシャワーが使えなくなっている、というすごい話が...。
 1976年6月29日、羽田発(成田空港開港は2年後の1978年)北回りアンカレッジ経由パリCDG行きのエールフランス便に乗り込んだ。18時間ほどの所要時間だったと記憶している。翌日6月30日早朝にパリCDG空港(2年前の1974年開港、現在のCDG1)に到着。四谷の大学のフランス留学生ネットワークで、1年先輩のSさんが空港で迎えてくれて、何から何まで先輩に助けられて、空港からパリ市内ポルト・マイヨまで(エールフランスのリムジンバス)、そこからメトロで国鉄SNCFサン・ラザール駅、そして駅の窓口でカーン行きの片道切符を買うところまで、全部Sさんのヘルプで全く問題なく...。すごいなぁ、1年足らずの滞在で現地に溶け込んだ市民のように振舞えるようになるものなのか。私はと言えば、早朝からこんな至れり尽くせりのヘルプをしていただいたのに、日本からの手土産も持っておらず(!)、ただただ無言で言われた通り先輩の後をついて国鉄駅まで辿り着け...。おまけに電車の待ち時間に、駅カフェのカウンターで生ビールを奢ってもらった。25cc(ハーフパイント)の生ビールのことを”demi (ドミ)"と呼ぶのはその時初めて知った。その日(その頃)は真夏のように暑かった。これが大旱魃の夏か。その時私は初めての外国旅行に恥ずかしくないようにと(背抜きの夏物だったが)スーツ&ネクタイ姿のお上りさんであった。暑い中の移動で汗だらけで辿り着いた駅で、いただいた冷たい生ビール。午前中だったはず。うまい。その暑かった夏、私は多量のビールを消費することになる。
 「ここからはきみひとりだから」ー Sさんと別れて、急に心細くなった私はサン・ラザール駅のホームから電車に乗り込んだが、乗ったのは”電車”ではなかった!サン・ラザール駅からのノルマンディー長距離線はまだ”電化”されておらず(完全電化は1996年!)、ディーゼル&ガスタービンエンジンで動くTurbotrain(チュルボトラン)という高速鉄道車両(4両編成)だった。時速160キロまで出て、パリ/カーン間を2時間ほどで繋ぐもので、1981年にTGVが開業するまで、フランスを代表する高速列車だった。
 羽田から乗ったエールフランス機もそうだったが、この時代国鉄車両も全席喫煙可だった。どこもかしこも煙モクモクだった。そして当時のフランス人スモーカーのほとんどが、いわゆる "cigarette brune(褐色タバコ = ジターヌ、ゴーロワーズ等)”で、アメリカ系の"cigarette blonde(金髪色タバコ = マールボロ、ウィンストン等)”は前者に比べて高価であることもあり少数派だった。この褐色タバコの匂いが乗り合わせた客車の中に充満していたのが、私のフランス最初のセンセーションだった。この私の身にまで染み込みそうな強烈な香りが、私にとって”フランスなるもの”の最初だった。この褐色タバコ臭、私は嫌いではなかった。これに包まれるのがフランスにいることの実感とも思えた。
 18歳の時からスモーカーだった私は、さっそく褐色タバコ吸いになった。ゴーロワーズ・カポラル、ゴーロワーズ・ヴェルト、ディスク・ブルー、セルティック、ジターヌ、ジターヌ・マイス... それぞれのフィルター付き/フィルターなし、なんとたくさんの種類を試したことか(しかし結局何週間かして、結局アメリカ系のシガレット・ブロンドに戻っていくのだけど)。あの頃着ていたものにはすべてこの褐色タバコの匂いが染み付いていたに違いない。この”第一のフランスの香り”という印象は、その後帰国(大学卒業→就職)してから再び社会人として再渡仏した1979年に降り着いたパリで、同じ褐色タバコの匂いが圧倒的に鼻に襲ってきた時に、「ああ、フランスに帰ってきた」と全身で感じられたものだった。そしてこの匂いは80年代90年代にはフランスからも消え去っていったのだった。褐色タバコだけでなくタバコ総体が社会悪としてどんどん世の中から排除されていったのはご存知の通り。私は娘が生まれた1994年にスモーカーをやめた(やめられた)。今褐色タバコを吸いたいとは全く思わないが、この煙の匂いが流れてきたら強烈なノスタルジー感に陥ることは間違いない。
 1976年6月30日午後、ノルマンディー地方カルヴァドス県カーン市の駅に降り着いた。右も左もわからない。自分のフランス語は通じるかどうかわからない。とりあえずその夜の宿を確保しなければならない。日本から持ってきた地図を開いてもホテル情報などなく、地図上で"hôtel"という文字があるのは "Hôtel de Ville"と"Hôtel d'Escoville"(オテル・デスコヴィル)という2か所だけ。前者は私の仏語知識でも”市役所”という意味であることは知っていたが、後者は知らないが、ホテルっぽいではないか。それが駅から近いのか遠いのかもわからず、重いスーツケースも持っていたし、タクシーで行くことに。おそらく私のフランスでの最初のフランス語会話というのはタクシー運転手とのやりとりだったのだな。「オテル・デスコヴィル、シルヴプレ ー ウイ、ムッシュー」。着いたところにホテルらしいものは影も形もなかった。これは後日知ることになるのだが、16世紀に建造された当時の大富豪の子爵の居城を歴史的建造物として保存していた”名所旧跡”館であったのだ。まずい。重いスーツケースを持って、暑い中を歩いて探さなければならない。運よく市の中心部に近いところだったので、"Hôtel"と書いた看板が目に止まり、渡りに船で「部屋ありますか Avez-vous des chambres pour ce soir ?」と飛び込んでいった。分別など何もなかったが、入ったホテルは三ツ星(!)だった。カーン大学に前もって予約していた学生寮に入室できる日まで、2泊ぐらいしたんだな。制服のドアマン/ポーターがいた格式ある古めのユーロピアンホテル。場違い、身分不相応はすぐに自覚したが、どうしようもない。部屋に通されて、そのあとは食事も何もせず、ただただ爆睡していたはず。時差/ジェットラグの初体験。昼なのか夜なのか。
 そしていつまでたっても日没しない長い長い昼 ー 1976年フランスは(春に時計を1時間進め、秋に1時間遅らせる)「夏時間(サマータイム)」をその3月27日に初実施したばかりだった。初めてのサマータイムの夏は大旱魃の夏になった。夜10時になっても昼の明るさが残っている。1973年オイルショックのせいでラジカルなエネルギー節約が急務となって採用したこの夏時間、エネルギー危機を脱したら元に戻すと言われていたのに、今年2026年で50年も続いているのだ。不評よりも好評が大きく上回っているからだ。さまざまな弊害(新生児と高齢者の体内時差による変調など)が言われていたのに。長い長い昼、遅い遅い夕暮れ、いつまでも野外に居れる自由、たぶん私はサマータイムの至福を知った最初の日本人の一人だったのだろう。その上、その夏フランスは雨がまったく降らなかったのだ。1972年、わが最愛のヴェロニク・サンソンはそのデビューアルバムの中の「バイーア」でこう歌っていたのだ。
Les jours de pluie ça n'existe pas  雨の日なんてありえない
Les jours de pluie ne reviendront pas 雨の日は二度とやってこない
( .... )
Les jours de pluie, qu'est-ce que ça veut dire ? 雨の日って何のことなの?
Les jours de pluie, ça me fait bien rire 雨の日なんて笑わせるわ
笑ってるバイーア。私もこの歌を口ずさみながら、大旱魃の夏を笑っていた。農業従事者の方々には申し訳ないが。猛烈な湿気の梅雨時期の日本から暑く乾いたフランスにやってきた私は、皮膚感覚としてこの乾燥が心地よかった。幸いにして水道蛇口からは水が出ていたし、シャワーからはふんだんにお湯が出ていた。
 低ノルマンディー(Basse Normandie)地方の首邑カーンは、第二次大戦の連合国によるノルマンディー上陸作戦とそれに続く地上戦の大激戦地となり、市街地は聖堂と病院を除いて壊滅的に破壊され、現在の市街は1960年代までかかって再建されたものである。だからほぼ箱型の建物が区画正しく並び、市道は広く、どことなくソ連(&共産圏)的な第一印象だった。15世紀に創立されたというカーン(総合)大学の建物も大戦で破壊され、私が入ったのは1957年に再建されたキャンパスだった。市街地の北にある11世紀にイングランドの王座につく征服王ウィリアム(ギヨーム)の居城跡の城壁を抜けた北側に大学キャンパスはあり、大学のシンボルは不死鳥(フェニックス)で、その彫像モニュメント(↑写真)が立っている。大戦で焼け落ちた大学だもの。それだけでなく町は大戦からの再建・再出発ということを誇示するモニュメントが多くあり、重い「終わらない戦後」感が漂っていた。フェニックス ー それにかこつけてこんなことを書くとナルシストの誹りを免れないかもしれないが、50年後の今にして思えば、私はこの時が私の「再生」「再誕生」だったように思っている。私はこの地で何も知らなかった。人とどう話していいのかも、パン屋でどうやってパンを買うのかもパンの名前も知らなかった。ナイフとフォークをどう使って食べるのかさえ知らなかった。私は赤ん坊のようにすべてを再学習しなければならなかった。同時に私は東京で、および日本で、何も知らずに生きていたのだ、ということを知らされた。私は一から(正しくはゼロから)やり直さなければならなかった。Bonjour la France !
 11世紀に建てられたというカーン城の城跡を残す城壁内の公園に登り、そこからキャンパスに向かう小径の両側の緑地は大旱魃で真っ茶色に変わっていた。夏休みで人の少ないキャンパスに、外国人向け夏季講座を受講する外国人たち(学生だけではない、子供もいい歳の大人も)が集まってくる。日本人もたくさんいた(30人ほどか)。フランス語テストがあって、クラス分けされ、私は一応”中級”クラスに編入されることに。トラック競技のできる大きなグラウンドを挟んで4棟立っている学生寮のうち、夏の間空室になっている2棟が宿舎としてこれら”夏季学生”たちを収容し、私は最上階(4階)の角部屋が割り当てられた。南側の窓からは初めて見るヨーロッパ大陸の地平線が望める絶景。La terre de France ! ポプラ並木。窓下の南方に4面のテニスコートがあって、サマータイムのおかげで夜11時頃まで(照明なしで)プレイしている音が聞こえる。部屋にはベッドと机とクロゼットと洗面台(水&湯)しかなく、トイレとシャワーは共同。食事はグラウンドと大学キャンパスの間にある大きな学食(キャパ数百人)で。前菜、主菜、チーズ(ノルマンディーでこれを外せるわけがない)、デザート。私にはすべて美味であった。食べ放題のパン(スライスされたバゲット)は部屋に持ち帰っておやつがわりに食べた。バゲットも美味。これらに関してはフランス新座者の私には本当に恵まれていたと思う。
 部屋が決まったあと、市の中心街のヌーヴェル・ギャルリー(ギャルリー・ラファイエット傘下の地方百貨店チェーン)まで行って、日本のマーク(National)のラジカセとムーリネックス(仏家電メーカー)のフィルター式カフェティエール(コーヒーメーカー)を買った。かの三ツ星ホテルのすぐ近くに焙煎コーヒー豆屋さんを見つけて、挽いたコーヒー豆を買った。東京で”アメリカンコーヒー”ばかり飲んでいた身にはまだエスプレッソ(フランス式にはエクスプレス)が苦手だったのだ。ー 眺めのいい最上階の部屋で、香りの良いコーヒーとラジカセから流れる音楽 ー Coffee & Music、すぐさま私のせまい部屋は同じ階の日本人学生たちが集まる(タダでコーヒーが飲める)サロンになってしまった。カセットは日本の友人がまめにいろいろ(しかも頻繁に)送ってくれたので、夏の間だけでかなりの量になったが、その夏のヘヴィーローテーションアルバムは3枚。
ー ヴェロニク・サンソン『ヴァンクーヴァー
ー 鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ
ー ボズ・スキャッグス『シルク・ディグリーズ
奇しくも3枚とも2026年に「50周年記念盤」が出るほど名盤になってしまったのだね。

 こうして私の最初のフランスの日々は始まった。夏季講座の教室も喫煙可で、帆立貝の殻が灰皿がわりに置かれていたが、私は褐色タバコを吸って嫌煙者たちから睨まれて教室喫煙を断念した。30人ほどのクラスは多彩な国籍の学生たちで埋まり、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、南欧、オセアニア...  We are the world。シエラ・レオーネという名前も知らなかった西アフリカの国の外交官予備軍のエリート、パーラビ国王時代のイラン(ホメイニのイスラム革命は3年後の1979年)から来ていた親ホメイニ派の学生、ピノチェットによるクーデター(1973年)で軍政化したチリに戻れなくなってフランスに留まっていたチリの学生、国土を失い抵抗するパレスティナからの留学生... こんな小さな教室でも世界情勢のど真ん中にいるように思うことがあった。みんなあまり上手でないフランス語で主張するから、私の下手なフランス語も通じているようだった。外国人同士のフランス語は一所懸命だから、通じると一挙に上達したような錯覚に陥る。ところがこれはフランス人には全然通じないのだ。夏の間、外国人相手にフランス語力がついたと思っていた自信は、秋以降の本学期にガタガタと音を立てて崩れ落ちるのだが、それはまた別の話。しかし私は一所懸命だった。東京にいた時に比べたらめちゃくちゃたくさん喋っていたと思う。たぶん私はこの時点でずいぶん変わったはずだ。
 だが私を変えたのは主にそういう教室での行状だったわけではない。大旱魃の夏は心も熱くさせたし、野外で大いに遊びもしたし、宵になれば毎晩誰かの部屋で飲み会があったし、夜にキャンパスの芝生の上で(禁止はされていても)キャンプファイアーを焚いて、飲んで踊って騒いで夜を明かすこともあった。アルコールだけでなくジョイントも回ってくるし。草上で愛し合っている子たちもいたし。1976年夏、私は何度恋に落ちただろうか。その夏ナイーヴな私はどれだけ泣いただろうか。
 その8月の4週目だったと記憶している。大旱魃で200日間降らなかった待望の雨が、やっと到来した。午後、激しい雷が鳴り、一挙に降り出した激しい夕立に、みんな学生寮からほぼ裸の状態で外に出て天から降り注ぐ雨を浴びた。大旱魃の終わり。みんなが何かに優勝したような大歓声を上げて激しい雨を受けていた。Shower the people !  (←これも1976年の歌だ)ー これがわが1976年夏の最も美しい瞬間だった。 

 私がノルマンディーのキャンパスでほぼパラダイス的な時間を過ごしていたこの1976年夏でも、地球は回っていて、世界ではさまざまなことが起こっていた。7月2日、南北に分かれていたヴェトナムが統一。7月4日、米合衆国独立200年。7月17日、カナダ・モントリールでオリンピックが開催され、体操でルーマニアのナディア・コマネチが10点満点を。7月27日、日本の前首相・田中角栄がロッキード事件で逮捕された。8月26日、フランスの首相ジャック・シラクが辞任、即日レイモン・バールが後任首相に。9月9日、中国毛沢東主席死去。ー 世界は動いていた。Et pourtant elle tourne !

(↓)1976年夏 モントリオール・オリンピック閉会式のテーマ "Je t'aime" 歌エステル・サント=クロワ 


 1976年夏は私を映画に開眼させてくれた日々でもあった。高校の時も東京で大学生だった時も映画館にほとんど足を運んだことがなかった。特に実家にいた時は両親が映画を不道徳なるものと決めつけていて、私が映画館に行くことを極端に嫌っていたという事情があり、私の映画歴は非常に貧しかったのだ。東京では一度も映画館に入ったことがなかったと思う。
 学生寮からはバスを使っていかなければならない距離にあったが、市の南側に「シネマ・リュックス(Cinéma Lux)」というアートシアター系の上映館があり、日替わり/時間替わりで多種の映画をかけてくれるシネフィル向けプログラムが売りだった。その演目をチェックして、私はかなり足繁くこの映画館に通った。最初に観た映画のことはまだしっかり憶えている。アラン・パーカーの『バグジー・マローン(邦題ダウンタウン物語)』(この時ジョディー・フォスター14歳)。この映画を一緒に観に行った日本人女性と、私は1979年に結婚(1982年に離婚)することになるのだが、「シネマ・リュックス」が取り持つ縁だったのだ。スコセッシ『タクシー・ドライヴァー』(その年のカンヌ映画祭パルム・ドール賞)、トリュフォー『アデルの恋の物語』(アジャーニ)、ベルトルッチ『ノヴェチェント(1900年)』(5時間映画!1部と2部)、テシネ『バロッコ』(アジャーニ&ドパルデュー)、クロード・ジディ『手羽先とモモ(L'aile ou la cuisse)』(ルイ・ド・フュネス&コリューシュ)、ジョゼフ・ロージー『クラン氏(Monsieur Klein)』(アラン・ドロン).... その年わが大学寮の日本(男子)学生たちの間だけで話題になっていたのが大島渚『愛のコリーダ』(その年のカンヌ映画祭で初上映)は、”有志”たちと一緒にパリまで遠征して観たと記憶している。しかしこの1976年、(観たのは秋だが)、シネマ・リュックスが私に見せてくれた最良の映画はカルロス・サウラ監督の『クリア・クエルボス(邦題カラスの飼育)』(9歳のアナ・トレント)だった。カラスを飼い育てる者は目を抉られる(スペインの諺)。イマジナティヴであり残酷でもあり、亡き母の真実を想像の世界で感得する少女のイノセンス。フランコ独裁の終焉(1975年)がもたらした自由創造の最初の傑作のように観た。主題歌のジャネットが歌う「ポルケ・テ・バス」は、聞くたびに私の夢の1976年を甦らせてくれる「プルーストのマドレーヌ」ソングとなってしまった。
(↓)ジャネット「ポルケ・テ・バス」 in カルロス・サウラ映画『クリア・クエルボス』


 1976年夏、私はノートにボールペンでたくさん絵を描いていた。詩ともうわ言ともつかぬ言葉もたくさん書いていた。映画メモを書いていた。頻繁に手紙を書いていた。これらの絵やたくさんの言葉はどこにも残っていない。渡仏前にミノルタの一眼レフを買って、たくさん写真を、と思っていたのだが、滞在中カメラの登場する場面は本当に少なかったし、その時の写真は今一枚もない。何にも形として残っていないから、それらはすべて私の夢になった。1976年夏の私の夢から、50年経っても私は抜け出せないでいるのだ。私は抜け出せずに、今もフランスに居て夢見続けている。1976年のもう一つの歌、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」はこう終わる: But you can never leave ! そう、私は決して抜け出せないのだよ。


(↓)1976年に聴いた最も美しい一曲だったかもしれない。多分聴いたのは夏ではなく秋に入ってから。アル・スチュアート「イヤー・オブ・ザ・キャット」。
中国十二支に「猫の年」はない。1976年は私にとって暦にはない夢幻の年だったのかもしれない。

2026年7月10日金曜日

Vamos a la playa

”La Chaleur"
『灼熱』


2026年フランス+イタリア映画
監督:ステファヌ・ドムースティエ
主演:アドリアン・ユッセン(マルワン)、マルティナ・ラ・マンナ(ジウリア)、トリスタン・リシャール(ノエ)
音楽:ピエルパオロ・サッコマンディ
原作:ヴィクトール・ジェスタン
小説灼熱』(2019年フラマリオン刊)
フランス公開:2026年7月8日

2026年、ヨーロッパは体験したことのない熱波酷暑の波状攻撃を受けており、第一波は5月、第二波の6月はパリでも40度を超す極暑が12日間続き、そしてこれを書いている今(7月8日)は第三波の真っ只中にある。エアコンのない市民たちにとって冷房の効いた映画館はにわかに”避難場所”となっていて、老人たちを中心に利用者は急増している。そんな状況で今日(7月8日)封切されたこの映画、日中最も温度が上昇する時間帯の14時の回にわが町のランドフスキー座で観たが、多くの老人たちで席が埋まっていた。2026年の夏にあって、”La Chaleur(熱)"という映画題は腰が引けるものであろうが、老人たちが望むように館内は涼しい。
 映画の舞台はフランス大西洋岸南部のランド地方である。南北に長い砂浜の海岸線、砂丘、ランドの森(松林)、ビーチは高い波が立つのでサーファーに人気があるが、この地方特有の"Les baïnes(バイーヌ)”と呼ばれる急激な引き潮(離岸流)が頻繁に発生して海に飲まれる海難事故が起こりやすい。それでも夏のヴァカンス地として人気は年々上昇していて、近年ヴァカンスのデスティネーションを何でも法外に高い地中海(とりわけコート・ダジュール)から大西洋岸に切り替える傾向を象徴する地方のひとつである。映画はランド地方の「キャンピング」と呼ばれる集合ヴァカンス滞在施設(キャンピングカー、キャンプテント、モービルホームなどの駐車&野営滞在区画貸しに加えて、巨大プール、遊戯施設、レストラン/バー/クラブ、各種イヴェント.... を備えている)で展開する。この従来のキャンプ場とレジャー+ヘルス施設が合体したような村のような「キャンピング」は、滞在費がホテルやレジデンスクラブ(例えば”地中海クラブ”)などより格安なので、2000年代から急激に人気を集め、この現象は映画TV連ドラ化されて大ヒットしている。なぜこんなに長々と説明しているかと言うと、この「キャンピング」という環境は非常に庶民的・大衆的・享楽的な俗世界であるということを前以て理解してもらいたいからなの。常連・新座者を問わず、この環境ではみんな”村人”になってしまって即席の”共同体”が現出してしまったかのような、総チュトワマン(おまえ俺の仲)の融和作用が機能している。私は恐ろしくてそんな中に入れないと思うし、逆にその融和世界で仲間外れにされたり疎外されたりということを想像して萎縮してしまう。
 主人公の17歳のマルワン(演アドリアン・ユッセン)は、たまたまキャンピングに逗留している同年代の少年少女たちがみんな気軽に自分を仲間のように一緒にヴァカンスを満喫しようとさまざまなレジャー(海水浴、プール、バーやディスコ...)に誘ってきて、ダチのひとりとしてつき合おうとするのだが、みんなと同一行動をしていても馴染めず心が開けない。それを象徴するように、少年少女たちが四六時中海パン/水着のほぼ裸状態なのに、マルワンだけはいつも白いTシャツを着用している。← だから映画画面ではひとりだけTシャツで否応なしに目立って見える。
 マルワンは家族(父、母、弟、妹、犬)と一緒にキャンピングカーで来ていて、自炊食事は家族と一緒、寝場所は一人用テント。ヴァカンスだから、親は子たちの日中の行動に何の頓着もせず、勝手にさせている。17歳くんは楽しくもないヴァカンスをいたずらに過ぎていく時間のようにやり過ごしているが、そのアンニュイでメランコリックな佇まいは、実存的苦悩をもそこはかとなく匂わせて...。リセ最高学年、バカロレア試験の後は、音楽学(ミュジコロジー)の学科に進みたい。なんとマルワンはワーグナーの世界に心酔していた。ちょっと変わった子と思われても仕方ない。このヴァカンス村でマルワンの一番のダチがノエ(演トリスタン・リシャール)という肥満体のソフトな少年だが、ノエはこの夏にどんな少女が相手でもいいから”童貞を捨てない”、そのことで頭がいっぱいでスマホのマッチングアプリを頼りにセフレ探しに余念がない。その一部始終をノエはマルワンに話しまくり、マルワンは優しくもその相手をしてやる。少女たちのいるところにノエは突進していき、マルワンはそれに付き合ったりもする。そういうことに興味がないわけではないが、マルワンは自分から行動しようとはしない。そんな冷めたところが、少女たちにはちょっと気になったりもするのだが...。単純に陰気な子ではない何かを秘めたフンイキが醸し出されるズブの新人男優アドリアン・ユッセンというわけ。
 一方マルワンとは対照的に、行動的でエゴイストでガールハンターでワルっぽさもいっぱしなオスカール(演ノエ・ウサール)という少年がいる。毎晩の恒例で少年少女たちは深夜にビーチに繰り出し、"bains de minuit(バン・ド・ミニュイ = 真夜中の海水浴)に興じることになっている。ー("bains de minuit"はところや年代にもよろうが、”たいがいは”全裸で、というのがフランスの習わしではあるが、この映画ではそういうふうに映っていない、ま、いか)ー その夜マルワンはしぶしぶその少年少女たちの真夜中のビーチへと向かおうとしていたのだが、その途中でオスカールに絡まれる。タバコ一本恵んでくれ、という話から、だんだんややこしくなる。マルワンはタバコはないが電子タバコはある、と一服させてやるのだが、相手はこちらが下手に出てると見るや、その電子タバコを放り投げるなどの挑発行為に出る。オスカールはほぼ泥酔している。ー これは映画の後半でわかるのだが、その夜オスカールは女に振られてムカムカしている。その女というのが... という話はあとでします。ー ムカつきの憂さ晴らしにオスカールのマルワンへの挑発イヤガラセはエスカレートして、掴み合いになり、放せ/放すもんかの殺陣まわりの末、オスカールがバランスを崩して、プール滑り台施設から転落して即死。パニックになったマルワンはこの事故を隠してしまおうという考えが先行し、オスカールの死体を引き摺って砂浜まで移動させ、旧ナチス・ドイツ軍のトーチカ廃墟(現在もなおその廃墟がフランスの北海から大西洋までの海岸線上に数多く放置されている↑上写真)の横の砂浜を掘って死体を埋める。
 この映画は2020年代的現代が舞台なので、この時代を象徴的に代表してしまうアイテムが非常に重要なファクターとなってしまう。それはスマホである。スマホは人格の一部であるかのように個人に入り組んでしまった関係にある。翌日に気づくのだが、マルワンはオスカールの死体を埋める際に、オスカールのスマホと自分のスマホを取り違えていたのだ。つまり、今手元にあるのはオスカールのスマホであり、マルワンのスマホはオスカールの死体と共に砂浜に埋められてしまったのだ。監督のステファヌ・ドムースティエのインタヴューによると、このスマホ取り違えは原作ヴィクトール・ジェスタン小説にはなく、ドムースティエの創案だそうだが、これが映画のサスペンス効果にどれだけ貢献していることか。スマホは怖い。あらゆる犯罪に完璧な”アシ”がついてしまう。この件から逃げ通したいマルワンはこの二つのスマホをいかにしてこの世から消滅させられるかに腐心することになる。手元にあったオスカールのスマホはかろうじてガラスゴミ収集トラックの中に捨てることができたが、自分のスマホはオスカールの死体と共に地中に残されたまま。GPSで位置特定可能。マルワンは自分のスマホはバッテリーが切れて受信できない、あるいは、失ってしまった、と人々の(交信不能)不信を誤魔化そうとするのだが...。
 翌日まで(昨夜宿に帰ってこなかった)オスカールをあまり心配していなかったオスカールの母クレール(設定としては息子ひとりとヴァカンスに来たシングルマザーのようだ。気が強い。演サラ・ル・ピカール、シロート俳優がほとんどのこの映画の中で稀なちゃんとした女優)が遂に捜索願いを出し、警察憲兵隊・海難救助隊・ヘリコプターなどを動員した本格的な捜査が始まり、少年少女たちも”聞き取り”で捜索本部に呼び出される。マルワンは人に気づかれまいとするが、落ち着きのなさは隠せない。あと2日でこのヴァカンスは終わり、一家はキャンピングを後にしてパリ圏に帰っていく。早くヴァカンスが終わって欲しい。
 そんな中で現れるのが、肥満体のダチのノエ(シロート芸だがいいキャラクター、この映画の重苦しさを救っている)の紹介で知り合ったイタリア娘のジウリア(←写真 演マルティナ・ラ・マンナ)、ボローニャのブルジョワ家庭の娘で、近くにあるプール付きの大別荘に家族は滞在しているのに、この娘だけキャンピング敷地内にテントを張って野営している。家族には”フランス語習得”のためだと言ってある。確かにチャーミングなイタリア訛りのフランス語を話す。ビーチに来ても、Tシャツを脱ごうとしない、海水に入ろうともしない、皆と行動を共にしないマルワンという少年にジウリアは惹かれるものがある。マルワンが音楽科に進学したがっていることを知ったジウリアは、砂浜の上で何もしないで甲羅干ししている状態で、この状況にマッチする音楽を選んでみてと。するとマルワンはリヒャルト・ワーグナー歌劇『ローエングリン』序曲がいい、と。スマホ(何でもスマホでできるんですね)で見つけてイヤホンで聴き始めるジウリア。初めて聴くこの静謐荘厳な弦楽ストリームに感動するジウリア。マルワンにこの音楽はどんなものなの?と問うと、マルワンは途端に饒舌になってワーグナーについて語り始める。「ワーグナーを語ると目が輝くのね」と、おそらく誰も見たことがないマルワンの熱い目と口調をジウリアは引き出したのである。この映画で一番美しいシーン。これがおぼろげながら恋のプレリュードであった。
 行方不明のオスカールは見つからない。捜索の聞き込みはジウリアにも及ぶ。その証言によるとジウリアはオスカールと刹那的火遊び関係にあったが、オスカールが執拗に”恋愛関係”を求めてくるのに対してはっきりと拒絶し、関係を絶った、と。つまり事件のあった夜、オスカールを泥酔させるほど失恋の痛手を被らせたのはジウリアであったのだ。間接的にこの少女は事件と繋がっている。一方マルワンにも聞き込みが行われるが、一貫してマルワンはその夜のオスカールとの接触を否定している。俺はオスカールのダチじゃないし、彼のことは良く知らない。俺は無名の目立たない少年少女たちのひとりにすぎず、みんなと群れて遊んでいるだけだ。捜査官はスマホの交信記録を見たいので提出せよ、と。バッテリーが切れてて、今手元にない、と逃げようとするが、必ず提出せよと捜査官に念を押される...。
 マルワンのハラハラドキドキを意ともせず、予定されていたヴァカンス終了(キャンピングからの出発)は両親の気変わりで二度延期される。マルワンはこの”永遠に終わらないヴァカンス”の重圧で心が破裂しそうになる。二度延期のあとこれ以上延期がないとすれば、マルワンのキャンピングヴァカンスの最後の夜、恒例の少年少女たちの真夜中の海水浴パーティー(bains de minuit)、青春の最後の日のように少年少女たちは狂ったように盛り上がるのであるが、海から雷光が走り雷鳴が轟き、嵐がやってくる。豪雨で砂浜に濁流が流れ、かのトーチカ横の死体を埋めた場所にも...。嵐がすべてを流し、すべてを明るみに曝け出すだろう。マルワンはすべての終わりを悟り、例のTシャツ姿のまま嵐の海に進み出て、入水自殺を図る...。激しい波に足を取られ、海に倒れたまま波に流されているマルワンを見つけ、ジウリアが救い出す!
 激しくなる嵐の中、ジウリアとマルワンは(夜には空き家になっている)遊泳監視ガードの詰所小屋に避難して、嵐の止むのを待って一夜を明かす。命も心も救済されてしまったマルワンは、ジウリアの誘いであの象徴的なTシャツを脱ぎ、裸になる...。
 明けて晴天が戻り、マルワンの家族の出発の日になる。ジウリアとの別れの時、夏が終わればイタリアに戻り大学入学を準備するという少女にマルワンはまた会いたいと関係の続行を請うのだが、ジウリアは(たぶんオスカールに答えたと同じように)その時の思い出だけにしておきましょう、と訣別の意図を伝える。マルワンはどうすることもできない。17歳の夏の終わり。わ、いいなぁ。センチメンタルな青春の終わり。
 結末は、マルワン一家の夏の思い出一切合切を積んだキャンピングカーがキャンピング場を出発してオン・ザ・ロード・アゲインとなるのだが、その帰路のしばらく進んだところでマルワンは両親に「忘れ物をしたから引き返してくれ」と頼む。両親は何も聞かずにその頼みを受け入れ、Uターンしてキャンピング場へ。そしてマルワンはオスカール捜索本部に出頭し...。

 2026年酷暑の夏に観た "熱い夏”の青春映画。故意のない事故でありながら殺人犯のドラマを(自ら)演じる羽目になった少年の心理サスペンス。ランド地方の美しい松林と砂丘、高く波打つ海、美しい少年少女たち、暑い夏。少年が殻としてまとっていたTシャツを脱ぎ捨て、大人になる物語でもある。ほとんど映画初出演のシロートキャストで固めた映画だが、その作為なさが”青春もの”加減を際立たせて、鮮度が高い。加えて、上述のようにワーグナーも登場したが、この寄せる大西洋の大波のように繰り返される夢幻的なピエルパオロ・サッコマンディの音楽が素晴らしい。
 監督のステファヌ・ドムースティエは、私の最も評価する女優の一人アナイス・ドムースティエの10歳うえの兄で、日本では2025年の監督作品だが奇しくも今夏(2026年7月17日)公開になる『新凱旋門物語(L'inconnu de la Grande Arche)』を撮った人である。注目したい映画作家。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『灼熱 La Chaleur』予告編


(↓)オリジナルサントラ:ピエルパオロ・サッコマンディ作曲 ”La Chaleur”テーマ

2026年6月28日日曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界 その6:タンタン

OST "Tintin et le mystère de la Toison d'Or"
サントラ『タンタンとトワゾン・ドール号の神秘』

1961年フランス/ベルギー映画
監督:ジャン=ジャック・ヴィエルヌ
原作:エルジェ
主演:ジャン=ピエール・タルボ(タンタン)、ジョルジュ・ウィルソン(ハドック船長)
音楽:アンドレ・ポップ
フランス公開:1961年12月6日


ルギーのBD作家エルジェ(1907 - 1983)作画のシリーズ『タンタンの冒険』(1930 - 1986)にインスパイアされた初の実写映画であり、既刊のBD作品を原作としないエルジェ(+アンドレ・バレー)の書き下ろし脚本によるオリジナル映画『タンタンとトワゾン・ドール号の神秘』(1961年)。
(↓)フランス語版予告編



(↓)そしてこれはこの映画の冒頭シーン2分間。タンタンと天才発明家トゥルヌソル博士とはドック船長らが居城としているムーランサール城に、原付自転車ソレックスに乗った郵便配達夫がハドック船長あてのトルコからの書留便を届けに来る。そしてトゥルヌソル博士の研究室から爆発音+赤い煙、なにやら博士の大発明の革命的動力燃料が完成したらしい...。


(↑)そのタイトルバックで流れる音楽が、われらがアンドレ・ポップの手になるこの映画のメインテーマ。マンドリン - (1967年「恋はみずいろ」創唱者ヴィッキー・レアンドロスのオリジナルヴァージョンもイントロはマンドリン)- スパニッシュ・ラテンな12拍子と陽光かおるイタリア/ギリシャ系の地中海ライト・ミュージック。アンドレ・ポップ節。
(↓)アンドレ・ポップ楽団、オリジナルサウンドトラック「タンタンとトワゾン・ドール号の神秘」メインテーマ。


 映画冒頭でハドック船長が受け取ったトルコからの手紙というのは、船長の古くからの船乗り仲間で親友だったパパラニックが亡くなり、その遺言状にパパラニックが所有していた船トワゾン・ドール号をハドックに進呈するとあり、その譲渡手続きのためにイスタンブールへ来いというパパラニックの弁護士からの申し出だった。さっそくハドックは相棒の探検リポーターのタンタンとその愛犬ミルーを連れ立って空路でイスタンブールへ。弁護士の案内で港に停泊しているトワゾン・ドール号を見に行くと、なんともボロい旧時代の小さな貨物船で、ハドックはこんなものをもらっても何の得もないと譲渡受諾に躊躇する。そこへアントン・カラビンと名乗る富豪の商人が現れ、破格に高価な金額でこの船を買いたいとしつこく迫り、買値をどんどん釣り上げていく。むむむ。怪しい。ハドックとタンタンはこの胡散臭い豪商との取引を断るが、そのあとハドックとタンタンの命を狙うさまざまな襲撃を受けることになる。トワゾン・ドール号には秘密が隠されているに違いない。船倉に残された荷物はガラクタばかり。しかしタンタンは故パパラニック船長の書机から一枚の新聞記事スクラップを発見する。数年前、南米の小国テタラグア(架空の国、モデルはニカラグアとされる)でクーデターが起こり、クーデター首謀者たちは8日間だけ国の全権を掌握することができたのだが、勇敢なるテタラグア人民の蜂起でクーデター政権は崩壊、首謀者たちは国外に逃亡する際にテタラグア中央銀行にあった国庫の金塊を持ち出したというのである。5人の首謀者たちの中に、なんとパパラニック船長とアントン・カラビンも。Ça alors !  しかしその金塊はどこかに隠されたまま発見されていない。それを知っていたパパラニック船長は死に、遺品としてトワゾン・ドール号が残った...。
 映画は冒険とアクションと宝探し。ワクワク。その舞台はイスタンブールからピレウス(ギリシャ)そしてアレクサンドリア(エジプト)と移っていき、カラビン一味、ギリシャ警察、そしてフランス国家保安エージェントのデュポンとデュポン(→写真)らが大混戦を展開するのですよ。カーチェイス&オートバイチェイスあり。ヘリコプターアクションもあり。 絶体絶命の危機に犬のミルー(大熱演!)の大活躍で突破する名犬ストーリーでもある。
 さてイスタンブール、ピレウス、アレクサンドリアというそれぞれにエキゾティックな土地柄を背景にして、博識音楽家アンドレ・ポップは”ワールドポップ”な作曲法でカラフルな映画音楽を提供するのですよ。
例えばこれが「イスタンブールに到着」と題された、回教寺院が林立する港町イスタンブールの情景(映画)音楽(↓)




ね?音楽だけで目に浮かんでくるようなトルコ絵ハガキミュージック。
(↓)も、気のいい土地の紳士を装った(実はカラビンに雇われた)観光ガイドに連れられてイスタンブール旧港をサイトシーイングするシーンの音楽。異国情緒音楽+映画のメインテーマの主題のヴァリエーションを交えた観光音楽。

(↓)はパパラニックのダチ(かのテタラグアクーデターのメンバーの一人)でピレウス(ギリシャ)の商人ミダス・パポス(演ダリオ・モレーノ!)の店で流れる音楽。ギリシャではありませんか!


それから映画の中にギリシャの結婚パーティーのシーンがあって、クラリネット大活躍のグリーク・ウェディングのダンス音楽がフィーチャーされるのだけど、この部分のサントラがネット上でも公開されてなくて残念ながら紹介できない。残念。

 ではアクションシーンの音楽も。これはタンタンが運転するオートバイによる追跡シーンのバック音楽。スネアの小刻み連打が昔懐かしい2ストロークバイクの音に聞こえませんか?エレキのテケテケテケテケも昭和的なカーブコーナリングを想わせます。


そしてもう一つ、名犬ミルーが犯人を追いかけていくシーンの音楽。この足の軽やかさ!ラジオドラマ的とも聞こえてしまうのが、犯人を見つけて、ハッと隠れて見張るタイミング(20秒目、1分32目)で流れるダダダダ〜ンというエレキのメロディー、素晴らしい!



アンドレ・ポップの代表作の一つ、子供たちのためのオーケストラ音楽入門の音楽物語『ピッコロサクソと仲間たち』(1957年)で既に極められていた、あらゆるオーケストラ楽器を知り尽くした達人的職人芸の”器楽つかい”、碩学的な民族音楽の深い造詣、そのアンドレ・ポップに映画音楽を任せたら、こんな音楽になっちゃったのですね。わかりやすくも奥深い。しかし、この秀逸な仕事にも関わらず、タンタン実写映画の次作『タンタンと水色のオレンジ Tintin et les Oranges Bleues』(1966年)ではアンドレ・ポップではなく(ゴダールやトリュフォーの映画音楽で知られる)アントワーヌ・デュアメル(1925 - 2014)が音楽を。なぜかは知らない。


 なお、1962年録音&リリースのイザベル・オーブレ歌のヴァージョンは、映画のオリジナルサウンドトラックではないものの、大変ポピュラーであり、同じ年1962年、イザベル・オーブレは「はじめての愛 Un premier amour」(アンドレ・ポップの曲ではない)という歌でユーロヴィジョンで優勝していることもあり、アンドレ・ポップ版よりもこっちの方が映画主題歌と思われているフシがある。歌のタイトルは「タンタンとトワゾン・ドール号 Tintin et la Toison d'Or」となっていて、「神秘」が抜けているが、大したことではない。作詞はピエール・ドラノエ。編曲伴奏はアンドレ・ポップの同業者、ジャン=ミッシェル・ドファイユ。


 『華麗なるアンドレ・ポップの世界』次回を刮目して待て。

2026年6月16日火曜日

父と子 I know I have to go

Olivier Bourdeaut "Une histoire d'amour et de violence"
オリヴィエ・ブールドー『愛と暴力の物語』

から10年前、2016年、一風変わった小説がフランスを魅了した。『ボージャングルスを待ちながら(En attendant Bojangles)』は多くの読者にとって一種のオヴニーであった。奇想天外でシュールなストーリーのジェットコースターであり最終的にメランコリックな大団円に唸らされ、その年の大ベストセラーとなった。この時作者オリヴィエ・ブールドーは35歳だった。遅く来た男。このデビュー小説が話題になり始めた頃、ブールドーの父親がこの世を去っている。
 本書は『愛と暴力の物語』と題された”レシ(récit)"であり、創作物語ではなく、作者とその父親の叙事的ことがらを書き連ねた手記であり、その自分が生まれてから36年間面と向かって付き合ってきた父との物語は、おのずと自伝と重なってしまう。重点は”愛”よりも”暴力”かもしれない。世に暴力的な父親はいるもので、鬼のスパルタ親父から小児虐待まで私たちは非常に深刻な事象であることを知っている。躾(しつけ)と称して体罰を加える父親。21世紀的現在においてはこれはれっきとした犯罪行為であり、世の中は目をつぶってはいない。作者は1980年生まれであり、世の中は親の暴力を放任する時代ではなくなっていたと思うが、作者自身は他の家でも同じようなものだろうと思っていたと言う。親が専制的に子の失態と決めつけたことに対して、この親は子に体罰を与える。問答無用。幼い頃からオリヴィエは両手を背で結び父の前に跪いて顔に平手打ちを受ける。自分の落ち度への罰なのだから仕方ない、子を矯正する父は正しく、みんなこんなふうに育てられるのだろうと思っていたと言うのだ。ところが十代にもなると、周りの子たちはそのような制裁を知らずに育っていて、自分の家は特別だと気づくようになる。気づいても仕方がない。自分は学業もデキが悪く、何をやらせてもヘマばかりの子供だ。父はそのヘマやデキの悪さに怒り、子をあらゆる言葉で罵り、習慣であるかのように子を叩く。それはオリヴィエに限ったことではなく、父ピエール・ブールドーの5人の子供(前妻との間にできた兄と姉、自分、そして弟と妹)全員に対して過度に厳格で強権的で暴力的なのだった。兄姉弟妹の4人は賢明にも物心がついた頃からこの家を出なければ自分は殺されると悟って、自活できる状態になり次第、一人また一人と家を出て行った。
 小説は父ピエールがガン闘病の末亡くなり、その葬儀の準備をしているところから始まる。地元(ナント)である程度名の通った公証人(ノテール)だったから、葬儀には100人を越える人が集まる。葬儀に必要不可欠なのが”弔辞”であり、誰がするかという段になって兄姉弟妹はみんな断った(それほど憎悪されたいた)。おまえが父親と一緒にいた期間が一番長いんだから、おまえがやれ、と。学業につまずき、まともな就職もできず、兄姉弟妹と違いその36年のほとんどを実家で両親と共に生きてきた。父親と過ごした時間が最も長く、父親に最も怒られ折檻され、父親と最も”対話”したのもオリヴィエだった。おまえが一番父親のことを知っている。言われてみればそうだ。だが”弔辞”の問題というのは、その中で故人のネガティヴな部分には一切触れず、ポジティヴな価値を紹介してそれを賞賛するというのが”世の慣わし”である。オリヴィエはそれを壊すつもりはない。父へのオマージュを捧げたい。だがそのポジティヴな価値なるものはあるのか。一応その時には”作家”になっていた作者だったが、その弔辞原稿を書くのに辛い苦労を覚えてしまうのだ。
 公証人とはフランスでは高い身分に位置し、弁護士と同じように "maître(メートル)”の尊称がつく。だから人は父を”ムッシュー・ブールドー”ではなく、”メートル・ブールドー”あるいは”メートル”と敬意を込めて呼ばなければならない。父は公証人事務所を畳み退職した後も自分を”メートル”と呼ばせた。一貫して自分は上の身分にあり、人をかしずかせる者という立場を取り続けた。尊大にして教養人であり、家族に対しては一銭の小遣いもやらなかったくせに、他人には寛大であり、レストランのチップも大枚で置き、自分の公証人事務所の職員に対しても顧客に対しても好印象のメートルであった。
 またこの父は独自の育児養育論を持っていて、子供は生まれたその時から親に負う借金が始まると言うのだ。生み育ててもらった恩は成人自活した時点で親に(金で)返済しなければならないとする。食費・衣服費、鉛筆一本、ノート一冊までかかった費用は全部返済してもらう、と子供に繰り返し言ってある。その養育費用にしても徹底的に倹約してあり、菓子玩具も不要と判断されれば与えない。
 妻に対してはどうか。先妻は逃げた。二度目の妻シモーヌ、すなわちオリヴィエとその弟と妹の母は最終的に添い遂げるのであるが、やはり抵抗の不在期間がある。彼女はピエールの公証人事務所の秘書として雇われ、公の場では”人徳者”として通るピエールは彼女に丁寧に仕事を教え、彼女もその期待に応え”できる”秘書に育ち、その延長でピエールの家庭に入った感じ。ピエールは妻たる者に仕事は不要という主義で、シモーヌは専業主婦になった。夫の家庭内での暴君ぶりに耐えながら、嫌悪と反抗心をむき出しにする子供たちと夫の間に入っておろおろしていたものの、ピエールに繋ぎ止められる何かがあったのだ。何なのか。それは子供たちの中で最も罵声と折檻で打ちのめされていたオリヴィエにも同じこと、それでも父にどこか慈しみを覚えてしまうのは何故なのか。
 父は習慣として1日に両切りゴロワーズを4箱吸い、何杯何本と言わず多量のミュスカデを氷で割って飲んでいた。モク中アル中であり、ガンになって当たり前であったが、案の定それで命を落とした。常に尊大な帝王の振る舞いをしていても、往々にして常軌を逸してしまう暴言と暴力行為はこの極度の依存症から来るものという疑いはあった。ガンを発病し、重い治療(ケモセラピー等)でアルコールを体が受け付けなくなってから、父の”狂行”は鎮まる。オリヴィエが薄々勘づいているのは、これは遺伝するものだということ。作者はアルコール依存症には陥らなかったが、大麻常習者となった。しかもジョイントではなくもっぱらボング(水ギセル)を使用し、かなりの重度常習者となっていたと告白している。幻覚や狂気も。
 子供時代から学業成績は最低で、父から叱責・罵声が絶えなかった。初めは素直に父に嫌われまい/好かれたいと努力をしたのだがうまく行かず、体罰は続いた。父はこの折檻暴力に加虐快感を得ていたのかもしれない。そして跪いて両手を後ろに結び平手打ちを受けることで、父が満足を得ているのであれば、それもオリヴィエ自身が受け入れられる”父子”の瞬間だったのかもしれない。しかし父から受ける暴力によって、自分も暴力に鈍感(慣れっこ)になり、体躯は小さかったのに学校では暴力児童になっていき、父から受ける殴打の痛さを他の子たちに味わわせウサを晴らした。その暴力沙汰が学校から親に知らされると、父の怒りがオリヴィエに下るという一種のサイクル効果となってしまう。この小説には少年オリヴィエの暴力武勇伝的エピソードも載っていて、相当のワルだったことがうかがえる。
 兄姉弟妹の4人はどうにかこうにか学校を出て自活してこの悪夢のような家を出て行ったのだが、オリヴィエは学業について行けず、かと言って仕事に就くこともできず(一応、不動産屋の売上歩合制のセールスマンとなるのだが、一件も不動産契約を結ぶことができない)、おまえは何をやらせてもダメな息子だと散々に罵倒されながら、両親の家に留まっている。居づらくなると、安定した収入もないのに(生活保護受給者になったこともある)、男女問わず知り合いの厄介になったりしながら、夜はどこそこで開かれるパーティーで過ごし、ドラッグに溺れていく。20代から30代にかけて、真正のろくでなしになるのだが、それはそれで日本の無頼派のようにのちに生まれる小説の肥やしになったりもするので...。こういうダメ男に転落して行くのを見て、父はそれ見たことか、私の言った通り、おまえは無一物となって絶えるのだ、と助けようともしない。
 オリヴィエがどん底まで落ち、(母と共に)父がスペインに買ったヴィラで退職後の悠々自適生活を始めた頃に、息子の下降線と父の上昇(安定)線の両方の向きが逆転する。父は病いに冒され、息子は文学(『ボージャングルスを待ちながら』)によって救済される...。
 では、その文学はどのようにしてオリヴィエの身に訪れたのか?発端は一家の夕食だった。教養人にして世のなべての事象に意見のある父ピエールは、その自説を家族の前で言わないと気がすまない。食卓でピエールの隣席につく光栄を得たオリヴィエは、食後他の家族が卓を離れた後もピエールの説法に付き合い、時には討論になるが、結語はピエールが下すというルールになっている。オリヴィエは実はその瞬間が大好きだった。他の家族にはない特権が自分にあると思っていた。そこでピエールの対話者としてちゃんとした討論ができるようにと、その話題の多くのベースとなる歴史の本を読み漁るようになった。なんと(80-90年代に至っても)テレビのない家だったこともあり、オリヴィエは暇があれば本を読む少年になり、本の虫と化した。学校の成績は(体育を例外として)全科目落第点しかなかったのに、歴史だけはクラス一番だった。それと綿密に関連しているが、オリヴィエを文学に強烈に引きつけることになるのは、父親からの思いがけないプレゼントだった。それは1冊のノートであり、父はこれを「語彙帳」として使え、と。本を読んでいてわからない言葉に遭遇したら、その語を書き取り、辞書からその語の定義を丸写しするのだ、と。13歳だったオリヴィエは10年ほどかけて何冊もこのノートを黒々と書きつぶしていく。これによって作者は語彙への愛着、語の正確な意味をものにしていき、”言葉愛”を育んでいく。そしていつしか”書くこと”を身に着けてしまったのだ。30歳を過ぎていよいよならず者のろくでなし(+ジャンキー)に身をやつして、俺には書くことしか残されていない、という逆転の転機は父のせいで”本の虫”→”語彙の虫”と変身していたことがベースになっていたのだ。

 2008年、オリヴィエは(エレクトロ・シンガーソングライター)セバスティアン・テリエ(1975 - )の曲”L'amour et la violence(愛と暴力)”に衝撃を受け、これは俺の歌だ、俺のことを歌った歌だ、俺に言えなかったことをこの歌は俺に代わって言っている、なぜこんなことが俺でない人間にできるのか、と猛烈に嫉妬した。父と自分の関係はまさに端的にこの二つの言葉である、すなわち愛と暴力。答えは全てこの二つの言葉の中にある。この本を書かせる全ての理由はここにある。
Dis-moi ce que tu penses
あんたが思っていることを言ってくれ
De ma vie
俺の人生について
De mon adolescence
俺の青春時代について
Dis-moi ce que tu penses
あんたが思っていることを言ってくれ
J'aime aussi l'amour et la violence
俺も愛と暴力が好きなんだ
 


 病いの床にいながら父ピエールは”新進気鋭作家”オリヴィエ・ブールドーの出演するラジオやテレビ番組を逃さず視聴していた。口に出しては言わないが、ろくでなしのルーザーだった息子がやっと一廉の人間として世に認められるようになった、と思ってくれていたんだかどうだか。父へのリヴェンジを認めてくれたんだかどうだか。

 そしてオリヴィエには新しい事件が訪れた。息子アンリの誕生である。父になるのである。今後は自分の番なのである。遺伝はあるのか。自分には凶暴な父になる契機がないわけではない。実際自分は少年期に手に追えない暴力的な子供であった。父の葬儀の時に集まった叔父叔母などから作者はピエールが子供時代にすでに暴力的な性向だったことを初めて聞かされる。それはピエールが兄弟姉妹とは別扱いで(父母に愛されていなかった?)全寮制の学校で育てられた経緯かららしい。愛が欲しかった子供だったのだろう。歴史は繰り返される。暴力の中で育った子は愛を知らなかったのか。殺したいほどに父を憎んでいたこともある。オリヴィエは父になり、小さいアンリにはそのような父にはなりたくないと思うのであるが、いつかこの歴史の輪廻に巻き込まれるのではないか。
 アンリが学校に行くようになったら、ピエールの倣いに従って、アンリに「語彙帳ノート」をプレゼントしようと考えている。「これはパパからじゃなくて、死んだおじいちゃんからだよ」ー
 父を愛することはその暴力をも愛することである。そうとも俺は暴力が大好きだった、という父への鎮魂の書。黒いユーモアでオブラートはかけられているけれど、重い愛の書であった。

Olivier Bourdeaut "Une histoire d'amour et de violence"
Gallimard刊 2026年4月30日 242ページ、 20,50€


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番(La Grande Matinale)でマチルド・セレルのインタヴューに答えるオリヴィエ・ブールドー


(↓)キャット・スティーヴンス「父と子」(1971年)

2026年5月28日木曜日

少年少女探偵団 ヴァカンス大作戦

Fabcaro "Les cinq ami·e·s l’échappent belle in extremis"
ファブカロ『5友団・危機一髪』

BD作家、小説家、脚本家、作詞作曲家、ロック・ミュージシャン.... などの肩書きを持つファブリス・カロ(時に略してファブカロ)の最新刊。近年はフレンチコミックの大古典『アステリックス』の第40巻「白いアイリス L'Iris Blanc」(2023年 150万部!)と第41巻「ルシタニアのアステリックス Astérix en Lusitanie」(2025年 200万部!)のシナリオも担当していて、オールラウンドで稼ぎ回っている観あり。

 この新作はイギリスの児童冒険小説シリーズ『ザ・フェイマス・ファイヴ The Famous Five』(イーニッド・ブライトン作、1942年から1963年まで21巻刊行された)のパロディーであり、より正確にはそのフランス語訳版『Club des cinq(クリュブ・デ・サンク = 5人クラブ)』(1955年から1967年まで、アシェット社のピンク色の背表紙の児童文学文庫 Bibliothèque roseで刊行された)のパロディーであり、このファブカロ本の背表紙もピンク色である。
 このパロディー元の主人公「5人」というのは実際には5人ではなく、少年2人と少女2人と一匹の犬であり、このメンバー構成はファブカロのパロディーでも踏襲されている。ー あ、これはパロディー元原題の「ファイヴ」も「サンク」も「人間5人」と限定している訳ではなく、単に数詞の「5」なので、人間x4 + 犬x1でも「5」で合っているわけだな。日本語訳として「5人」とする方が間違いなんだな。日本語が罠にはまったんだな。ごめんなさい ー そのメンバーとは
🖤 ギャランス ー 12歳の少女、青い目とブロンド髪のやんちゃでイタズラ好き。
♠️ ナタナエル ー ギャランスの兄で13歳、スポーツならば誰にも負けない活発な少年、5人組のリーダー格。
♦︎ アポリーヌ ー ブルターニュに住むギャランスとナタネエルのいとこ、ギャランスと同い年でブロンド髪、同じようにやんちゃでイタズラ好き。
♣️ ブルーノ ー 小さい頃両親を交通事故で失い、傷つきやすく繊細で泣き虫の13歳の少年、血縁あるアポリーヌの両親に保護され、アポリーヌとは兄妹同様に育てられている。
🦮 アッティラ ー ギャランスとナタナエルの家で飼われている栗色の犬、父シャルル・バレルの車庫入れ運転ミスで両の後肢を轢かれ、両後ろ足の代わりに車輪を装着され、4人と一緒に行動することはできるが、なかなか4人のスピードに追いつけない。
 バレル一家(父シャルル、母クリスティーヌ、ナタナエル+ギャランス+アッティラ)は南仏コート・ダジュールの海浜避暑地ジュアン・レ・バン(”Juan-Les-Bains” - ジュアン・レ・パンのもじり)のビーチに近い閑静な邸宅街の中の豪奢なプール付きヴィラに住んでいて、アポリーヌとブルーノは学校のヴァカンス期にブルターニュからやってきて、バレル一家と一緒に過ごす。ヴィラにはジョゼファと名乗る(国籍不明の)家政婦がいて、おやつや料理が上手で子供たちには人気があるが、その何を言っているのかよくわからない(と彼らには聞こえるだけなんだが)フランス語を父と母は笑い物にしている。これがこの短編冒険小説の通奏低音になっているレイシスト・ギャグで、何かにつけてこのブルジョワどもは外国人と外国系人と貧乏人と左派系人を揶揄して笑い物にするというパターンのギャグが何度も登場する。たとえば5ページめにイラストつきで、母クリスティーヌが子供たちに「自分たちで朝食の後片付けなんかしないでね、ここはスロヴェニアじゃないんだから」などと言うのですよ。
 さて、物語の始まりは夏ヴァカンスの始まりで、ブルターニュからアポリーヌとブルーノがやってくる。同じ日、バレル家のヴィラの隣の家に、引越トラックが家具を搬入するのを目撃。税金を逃れるために家を売ってモロッコに転居した前の住人に代わる新隣人か。どんな人間だろう?見ないうちからなにやら事件の予感。再会を果たした4人と1匹はとるものもとりあえず夏ヴァカンスの始まりを100%エンジョイしようと一目散でビーチへ。アッティラは後ろ脚車輪に砂が絡んでなかなか前へ進めないが、少年少女たちは知ったこっちゃない。青い地中海へバシャバシャ入っていくのだが、アポリーヌだけは生理中なので水に入れない。この”アポリーヌは生理中”というメンションが、物語中しつこく繰り返され、3人と同一行動がとれない時の理由がすべてこれになっている。生理中なので。いいのかなぁ、こういうのギャグにして。ま、このしつこさが、後半にアポリーヌの身に起こる災難を強調する下地にはなっているんだけど。3人が海から上がって、4人で浜辺でたはむれていると、アポリーヌの足元にコロコロとボールが転がってくる。ボールを追ってひとりの(日焼けでなくて肌の浅黒い)子供が4人の前に現れるが、その子はボールを指差すが一言もしゃべらない。ギャランスは”知的障害”じゃないの?と訝しがる。するともうひとり男の子と同じような人相をした大きめの(十代とおぼしき)少年が現れ、ギャランスに人差し指を立てて「そのボールは弟のものだ、いますぐ返せ!」と迫る。この敵意むき出しの態度に、4人はムッと来る。肌が浅黒く黒い髪をしたふたりの(明らかに)よそ者の子と、4人の視線がぶつかり火花が散る。絶対に怪しい。ボールを奪い取ってふたりは去って行ったが、4人はヴァカンス中にこの異人の子ふたりと一悶着あるに違いないと勘づいている。ここで、このブルジョワ子女らは子供ながらに露骨な偏見を丸出しにして、この異国人→移民/難民→犯罪者という”無邪気で幼い”連想から、このふたりを「ルーマニア人」と勝手に断定するのである。早くもファブカロ流不条理が全開。
 その夕方、バレル家のヴィラに戻ると、隣に引っ越してきたソフィーとクリスティアンのデュヴァル夫妻を招いて歓迎のアペロ会をやると言う。新隣人はバレル夫婦と同じような年代のブルジョワ夫婦で、同じように陽気でよく笑い(特にソフィー夫人は大袈裟に笑い、笑うたびにドレスから片方の乳房が露出してしまう)、同じようなレイシストギャグを連発し、両夫婦は一夜にして意気投合してしまう。奇妙なことに夫のクリスティアンはアタッシュケースを携行してやってきて(一度置き忘れたことがあるので、二度とその過ちを冒さないように、どこでも持ち歩くようにしている、と言い訳を)、トイレに行く時もそれを離さない。「すみません、トイレお借りしたいのですが」ー「サロンを出て右の扉ですよ」。アタッシュケースを持って席を立ったクリスティアンは、サロンを出て右の扉に行くはずだったが、左の扉の部屋に入っていくのを目撃されている。その部屋はシャルル・バレルの書斎であり、机には仕事の重要書類が積まれている....。宵は進み、かなり重めの保守反動ギャグの連発でおおいに笑った4人の大人のアペロ会は散会し、面妖なデュヴァル夫妻は去り、少年少女たちとバレル夫婦はそれぞれの寝室へ。しかしナタナエルは昼のルーマニア小僧のことが気になったり、夜中に理解不能な母クリスティーヌの迷言が聞こえたり、眠ることができない。ここで詳説はしないが、実際その夜、さまざまな不可解で不条理なことがバレル家のヴィラで起こっていたのだ....。
 事件発生。翌朝、父シャルル・バレルは、書斎デスクの引出しに入れてあったトップシークレット最重要ファイルCFRBLが無くなっていることに気づき、パニックに陥る。それは世界的大手ハードディスカウントチェーンLIDLに納められているラヴィオリ缶詰のパスタに包まれた具材の原材料明細が記載されているファイルで、これが万一悪人の手に渡り、世に公表されることにでもなれば、世界の食糧経済市場は大恐慌を起こすことになろうと言われるほどの...。シャルルは心当たりを片っ端から捜索してみるが、手がかりはない。困った困った。そこで、これまで幾多の事件を解決してきた(ということになっている)ギャランス+ナタナエル+アポリーヌ+ブルーノ(+アッティラ)の少年少女探偵団5人組の登場で、子供たちは余裕綽綽の體でこの事件に挑んでいく。なぜなら少年少女たちには既に犯人の目星がついているのだ。それは”ルーマニア人”に決まっている!
 という次第で、この冒険物語は(ヴァカンスそっちのけで)5人の仲間たちによる”ルーマニア人狩り”となって展開するのである。町のルーマニア人たちが居そうなところを精力的に探し回る。スポーツならば誰にも負けないナタナエルは、はるか遠くにルーマニア小僧兄弟の姿を見てとり、自慢の瞬足であっと言う間に追いつき、おいっ!と肩を掴むのだが、(このパターン3度ほど繰り返される)、捕まえた相手は中国人だったり、ロマだったり、ドーブツだったり...。(このレイシスト偏見、ナンセンスギャグとして笑っていいものかどうか...)
 少年少女たちの犯人捜索は難航する。敵もさる者で、真犯人から5人組に「ご苦労さま、私だったら、ジョゼファがクサいと思うんだが」とメモ書きが届き、おっとそれは気がつかなかった、と簡単に捜査方針を撹乱され、ジョゼファの動向を追跡してしまう...。だんだん訳がわからなくなって、捜査にも疲れてきた頃に、みんな、忘れちゃいけないよ、僕たちはヴァカンスなんだから、ヴァカンスも目一杯楽しまなきゃ、と、この提案に満場一致で、事件のことは一旦忘れてビーチへ海水浴に。夏の太陽の下、大はしゃぎの少年少女たちだったが、一人だけアポリーヌは生理中なので...。ひとりビーチタオルに寝転がって海にいる3人を遠くから見ていたが、これじゃツマラナイィィィっと辛抱できなくなって、3人に違う方角にバシャバシャ海に入っていく。生理中の少女が海に入ると何が起こるか?恐れていたことが現実になり、アポリーヌは潮にさらわれ沖へ沖へと...。助けてぇぇっ!と叫ぶ声、しかしその声を聞いた3人の友はそこから遠すぎる。そこへバシャバシャバシャっと力強いクロール泳法で助けに向かう少年あり。なんとそれはルーマニア小僧兄ではないか! アポリーヌは無事救出され、浜まで連れ戻され、3人の仲間たちに迎えられる。5人組のリーダーのナタナエルは感動し、ついさっきまで極悪人として追跡していたルーマニア小僧兄が大事な仲間のひとりの命を救ってくれたことに、これまでの誤解をすべて解いて、この新しい友人に心から感謝したい、きみに何かあったら今度は僕らがきみを助けるよ、永遠の友の契りをしよう、などと思ったりもしたのだが....。二人はお互いの住所連絡先を交換し、近いうちに再会してこの熱い友情の始まりを祝おう、と。
 その夕刻、バレル家のヴィラに戻ると、今夜はこの前のアペロ会のお返しでデュヴァル家宅でアペロ会がある、と。デュヴァル家宅に行くと、ものすごく美味しそうな香りが。わ、これは素晴らしいご馳走が期待できますね、とシャルルが言うと、ソフィー・デュヴァルは「とんでもない、これはあなたたちが帰った後の、私たちの夕食の料理ですよ、あなたたちにはTUCクラッカーを用意してありますよ」と。こういうファブカロのギャグ回し、たまらんですね。ちなみにこのベルギー産の超安価クラッカー、私も大好きで、(ポテチやえびせんに対抗できる)やめられないわが家の常備スナックとなっているのだが、少年少女5人組のひとり(気弱で泣き虫の)ブルーノが、なんと”TUCアレルギー症”だったのだ。しかし気弱で人にそれを気づかれまいとしてブルーノは何気ない顔でTUCをバクバク食べて、アペロ会の雰囲気を壊すまいと健気な努力を。だがある程度時間が経過するとトイレに急行せざるを得ない。たまらずデュヴァル家宅のトイレに向かい、症状の落ち着きを待って、再びサロンに戻ってくる途中、開いていた部屋の中に見えたものは!なんと! ー ブルーノは少年探偵の端くれであるから、ここは落ち着いて、こっそりとギャランス、ナタナエル、アポリーヌに合図を送り、大人たちの人目を避けて、一緒にこの部屋にあったブツを確かめに....。それは紛れもなくシャルル・バレルが失ったトップシークレット最重要ファイルCFRBLであったのだ。なんということか。少年少女探偵団5人組は勝ち誇ったようにブツを手にして、サロンに戻り、大人たちの前で、どうだ!これで事件解決だ、と見栄を切る。
 するとデュヴァル家当主クリスティアン・デュヴァルは、少しも慌てず、自分の首に両手を当てて、シリコン仮面を脱ぎ外し始め.... ふっふっふ... 実は私の正体は... と暴露しようとしたが、少年少女探偵団リーダーのナタナエルはそれを制して、「僕たちは真犯人を知っている!」と宣告。大人たちは仰天し、一体それは誰なんだ?とナタナエルが開陳する名推理に恐れ入って傾聴する。「それはルーマニア小僧兄弟さ!」ー あの目つきの悪い肌の浅黒い兄弟が、どのようにして5人組に接近してきて、情報をすべて傍受し、バレル家とデュヴァル家の住宅構造を知り尽くし、どこにあのファイルがあり、どこに盗み出したファイルを保管するのが安全かを研究した結果、デュヴァル家の書斎に何気なく置き、今晩寝静まった時間に取りに来ることになっていた、と。さすが、5人組少年少女探偵団、お見事。
 シャルル・バレルは早速警察に通報し、ナタナエルが持っていた小僧兄弟の住む難民キャンプに一斉捜査の手が入り、難民たちはルーマニア人ではなくシリア人であったがそんなことは知ったこっちゃない、すぐに国外退去・強制送還の処分が下る。めでたしめでたし。少年少女たちのヴァカンスはまたこの夏も素晴らしいものになった。完。

 おいおい....。ファブカロの手癖足癖だけでちょいちょいとお手軽に作ってしまった(ほぼ)戯作。不条理ギャグの連発の出来不出来よりも、そのいくつかのレイシスト加減はかなり胸につかえる。コート・ダジュール、ブルジョワのヴィラ、白人子女... これだけでレイシスト環境は揃っているのだが、1年後2027年に極右の大統領が誕生してしまうであろうこの国の空気というか、マジョリティー(極右でもかまわないよぉ〜と悠長に構える人々が多数派)のうすら笑いというのが、私には勘弁してほしいと思うところである。
 こういうおちゃらけたパロディー作品でも、発売時(2026年4月)には書店ベストセラーのランキングされていて、もはや「ファブカロ」「ファブリス・カロ」印がついていれば自動的に売れてしまう勢いがあるのだろう。ちょっと情けない。”純文学小説”で還ってきてくれ。

Fabcaro "Les cinq ami·e·s l’échappent belle in extremis”
6Pieds Sous Terre刊 2026年4月17日 100ページ 14ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)この作品を作った動機について弁解するファブカロ。