2023年9月24日日曜日

フランシュイヤール・タッチ

Chilly Gonzales "French Kiss"
チリー・ゴンザレス『フレンチ・キッス』


 親からの遺伝と確信しているが、私は子供の頃から歯が弱く、歳と共に次々に悪くなって抜くはめになり、50歳の時についに上下が入れ歯になった。母親も50歳で入れ歯になったそうだから遺伝説は理にかなっている。お立ち会い、よくお聞き、入れ歯人間はフレンチ・キッスができない。これは致命的だ。ゆえに私は50歳の時からディープな恋愛を断念せざるをえなかった。老いるのが早まったような気がするが、おかげでその後はクリーンな人生だった(負け惜しみ)。私はこの地で昔も今も外国人だが、私はフレンチ・キッスはフランスで知った。たいへんな衝撃だった。この衝撃はフランス人にはわからないものかもしれない。外国人、とりわけ英米人に衝撃的だったと解釈できる。それが証拠に「フレンチ・キッス(French Kiss)」とは英語表現であり、それに相当するフランス語はない。英仏直訳の"baiser français (ベゼ・フランセ)"なる言葉は存在しない。フランスでも「フレンチ・キッス」と言うのだ。子供の頃、私は”キッス”とは日本語訳語として一般的な「くちづけ」あるいは「接吻」のことと理解していた。日本語版ウィキペディアによると「吻(ふん)」とは「動物の体において、口あるいはその周辺が前方へ突出している部分を指す」とあるから、「接吻」とはその部分を接することと解釈される。「くちづけ」「接吻」と理解していた人々が、フランスではそれが「舌絡ませ」であると知った時の衝撃、これはフランス人にはわかるまいよ。
 チリー・ゴンザレスはわれわれ非フランス人とこの衝撃を共有しているように思われる。ジェイソン・ベック=芸名チリー・ゴンザレスは1972年、カナダのモンレアルで生まれている。現在51歳である。父親がフランス系だったので、家庭ではフランスの大衆音楽(フランソワーズ・アルディ、リシャール・クレイデルマン...)がかかり、学校ではフランス語を学んだが、母語として血肉化されたのは英語である。英語人がフランス語習得でぶつかる最大の難関がフランス式の"r"音である。--- 日本人も同じか。"r"音を”はひふへほ”で表音するやり方って邪道よ。radio (はディオ)、Paris(パひ)、regarder(ふガふデ)などなどトへビザ〜ふ --- プロのミュージシャンとして活躍すること30余年、カナダ→ドイツを経てフランスに落ち着いたゴンザレスが、長いキャリアの果てに初めてのフランス語アルバムを発表するにあたり、戦略的に取ったアティチュードは、元”非フランス語人”として「フレンチ・キッス」に衝撃を受け、”r”発音習得にめちゃくちゃ苦労したけれど、今じゃフランス人以上に franchouillard(フランシュイヤール : 日本の辞書には”
[形],[名][話]((悪い意味で))いかにもフランス人らしい(人)”と訳語あり)だぜ、と胸を張り出すというものだった。
Je parle anglais comme Tony Blair
トニー・ブレ
ールのように英語を話し
Je parle allemand, Adolf Hitl
er
アドルフ・イトレ
ールのように独語を話す俺
Mais en français je prononce les "
r"
だが仏語では”
エール”を発音できるんだぜ
Ecl
air, tonnerre, pomme de terre
稲妻(エクレ
ール)、雷鳴(トネール)、ジャガイモ(ポム・ド・テール
( .... )
Je viens du Canada
俺はカナダ出身
J'aime les castors, mais à la frontière
カストール(註:カナダの国獣)は大好きさ、でも国境を渡れば
Je suis
franchouillard, check mon passeport
俺は
フランシュイヤールさ、パスポート見せてもいいぜ
( .... )
                                    {"French Kiss")

その歌詞の最初の2行は(↓)
Je vous French Kiss avec la langue de Molière
モリエールの舌を使ってあんたにフレンチ・キッスを
Ca vous excite quand je baise dans l'oreille
耳の穴からファックしたらあんた興奮するぜ
                                     
{"French Kiss")
ま、なんてお下品な!しかし、舌は舌でもモリエールの舌。La langue de Molièreとは、langue de Shakespeare (シェークスピエアの言語、すなわち英語)に対抗的な意味でのモリエールの言語、すなわちフランス語のこと。だがこの舌=言語はゴンゾ氏やfeu ジェーン・バーキンを含めたわれわれフランス語を母語としないバイリンガル人には本当に難しいのである。
Et je comprends que je manque de maitrise
完全にマスターしたわけではないって自分でわかってるよ
Mais heureusement j'assume mes bêtises
まちがいにはちゃんと責任をとるよ
Votre passé simple n'est pas si simple
あんたたちの単純過去はぜんぜん単純じゃないよ
Le mien est compliqué comme un labyrinthe
俺の過去は複雑でまるで迷路さ
Beaucoup trop jeune pour Verlaine ou Prévert
ヴェルレーヌやプレヴェーヌを読むには若すぎるんだ
Je préfère lire Despentes
俺はヴィルジニー・デパントの方が好きさ
                                   
{"French Kiss")
フランス語の「単純過去」は仏語学習者には頭痛のタネである。私は使わないことにしている。また読書においては私もまたフランス文学古典を読まずにデパントを夢中で読む側の人間である。この歌「フレンチ・キッス」で私はゴンザレスのフランス語に対するアティチュードに関してとても私と近いものを感じたのだが、私は行為として「フレンチ・キッス」はできないイレーヴァーなのでその辺で袂を分かつ。
(↑の歌詞でフランシュイヤール氏は「パスポート見せてもいいぜ」と言っているのだが、実はついにフランス国籍も取得したらしい。その辺でも私と袂を分かつ)

 2019年4月19日、シテ島ノートル・ダム大聖堂は炎に包まれ、屋台骨を焼き尽くし、屋根が崩れ、尖塔が燃え落ちた。われらが聖母(ノートル・ダム)が火刑に処されているような悲壮な光景をわれわれは唖然としてテレビで見ていたのだが、シテ島の隣のサン・ルイ島のアパルトマンに住むゴンザレスはこんなコンティーヌ(童歌わらべうた)を作った

Il pleut, il pleut sur les cendres de Notre Dame
ノートル・ダムの灰の上に雨が降る
Il pleut sur ceux qui regardent l'église en flammes
燃え上がる教会を見つめる人々の上に雨が降る
                                  ("Il pleut sur Notre-Dame")
"Il pleut, il pleut"という二度繰り返しは、フランス童謡"Il pleut il pleut Bergère"(羊飼の娘が雨に遭っているところを若者が助けて母の厩で雨宿り、一目惚れ、求婚という歌)の援用。ゴンザレスのコンティーヌはサン・ルイ島の自宅窓でジョイントを吸い、その匂いがノートル・ダムの灰の匂いと混じり合う、という冷笑的なものだが、そこはかとないパリのスプリーンが漂う(パリのスプリーンはボードレールね、為念)。その想像は、火事の原因は鐘撞き部屋に何世紀も居候しているせむし男カジモドではないか、という疑念に至る。すなわち、火 事 の 元 は カ ジ モ ド 、と推理したのである。うまいっ!
Où eat, où est Quasimodo ?
どこだ?カジモドはどこだ?
Est-il parti en hélico ?
ヘリコプターに乗って逃げたか?
Est-il parti par la Seine avec un bateau-mouche ?
バトームーシュでセーヌ川に逃げたか?
          
("Il pleut sur Notre-Dame")
大胆不敵にもフランスの象徴のようなノートル・ダム大聖堂を(焼失を悲しむフランス市民とは全く違う視点で)歌にしたのである。さらにこのアルバムでは恐れ多くもシャンソン・フランセーズの巨星(feu)シャルル・アズナヴール(1924 -2018)をコケにする1分23秒のインターリュードを紛れ込ませている。ゴンザレスが2003年にアズナヴールのアルバム制作にアレンジャー/ピアニストとして関わった時のエピソード。そのコラボレーションは数週間で破綻(アズナヴールに解雇される)し、当該アルバムはオクラ入り。その苦々しさをちょっとだけ吐露してみたのが(↓)
俺はシャルル・アズナヴールと数週間仕事したことがある
彼はすでに80歳で耳もほとんど聞こえなくなっていた
彼が録音スタジオに初めてやってきた時
こう言った「ここにはエレベーターがないのか?
わしの家にはエレベーターがあるぞ」

ギャングスタヴール ギャングスタヴール

廊下でしばらく彼のことを観察していたことがある
彼は孫娘のためにとても優しい声で歌っていた
その歌の歌詞を私は一生忘れないだろう
「おまえのためだけだよ
おじいちゃんがタダで歌ってあげるのは」

ギャングスタヴール ギャングスタヴール

俺にはもっともっと彼にまつわるエピソードがあるのだけど
これは単なる歌のつなぎで
短いやつだから
タダで聞かせてやるよ
         ("Gangstavour")

 私はフランスの音楽業界の中にいたから、生前のアズナヴールの変わった性向(特に金銭に関わること)についてはたくさん聞いていたので、このちっぽけな復讐にはとてもうなずけるものがある。ゴンザレスはフランスのラップアーチストたちとも多く仕事をしているが、意外にも多数のラッパーたちがアズナヴールをリスペクトしているのは、アズナヴールが並外れて巨大なエゴを持っていたからだとゴンザレスは分析している。

 しかしアズナヴールよりもゴンザレスの”フランス愛”に莫大な影響を与えたアーチストが、ヤノピの貴公子リシャール・クレイデルマン本名フィリップ・パジェス、日本名リチャード・クレイダーマン)であった。お立ち会い、硬派の音楽ファンを自認する人でなくても、このイージーリスニング・ピアニストが好き、と公言するのは勇気の要ることだと思うよ。ろくに聞きもしないでと言われようが、セクシストな偏見と言われようが、このヤノピの貴公子のリスナー層はあの当時(1970年代〜80年代)99%あのルックスに魅了された女性たちだったはず。ところがジェイソン・ベック少年(のちのチリー・ゴンザレス)は、カナダ/モンレアルの生家・自室のターンテーブルにあの星降る抒情の必殺ピアノ・バラード「渚のアデリーヌ」のドーナツ盤を載せ、1日に45回聞いて悶絶していたと言うのである。ピアニストとしてのゴンザレスの名を一躍世界に知ろしめた名盤『ソロ・ピアノ』(2004年)で開花した抒情性の源流がヤノピの貴公子であったとしたら...。エニハウ、この『フレンチ・キッス』アルバムで、ゴンザレスはクレイデルマンをゲストに迎え、その貴公子のピアノをフィーチャーした「リシャールと私」というオマージュ曲を。

リシャールと私
父と息子
バットマンとロビン
バードマンとリル・ウェイン
アステリックスとオベリックス
リシャールと私には
偉大なる愛の物語がある
私のターンテーブルには
「渚のアデリーヌ」
私はこのドーナツ盤を毎日45回聞いていた
            ("Richard et moi")

父と子の関係だと言ってしまっている。次(↓)に紹介する曲”Piano à Paris)の中で、こんな歌詞が出てくる。
Qui possède la clé des larmes
涙の鍵(クレデラルム)を持つ人
C'est Richard Clayderman
それがリシャール・クレデルマンだ
    ("Piano à Paris)
真剣にこのヤノピの貴公子の繊細な抒情性に関しては再評価されてしまうかもしれない。(と書いて、”まっさかぁ...!”と思ってしまう私である)

 さて、このアルバムの9曲めに、さまざまな駄洒落・地口とリファレンスを用いながら、フランスのピアノ・アーチストたちへオマージュを捧げる「ピアノ・ア・パリ」というこのアルバムで最も聞かせる歌が現れる。ゲストヴォーカリストにわが爺ブログでも評価の高いジュリエット・アルマネ(爺ブログリンク:2017年のアルバム2021年のアルバム)。おそらく現在のゴンザレスのフランシュイヤール・ピアノ愛の総決算のような曲と言えよう。

(アルマネ)
パリでピアノ、私に芽生えたこの望み
一番にやってきて、ピアノが中に入るように
窓を開ける、そしてすぐに弾き始める
パリで私のピアノ

(ゴンザレス)
俺はパリでたくさんのピアノマン(pianomanes)と
ピアノファム(pianofemmes)とつきあってきた
だがしょっちゅうそれはしまいにメロドラマになってしまう
メロマンヌ(音楽狂)たちは知りたがっている
誰が涙の鍵(クレデラルム clé des larmes)を持っているのか
それはリシャール・クレイデルマンさ
俺はセーヌ河岸を走り切ってミッシェル・ベルジェを追いかけたかった
俺は彼の詩句のこぼれた果実を拾い集めたかった
俺はピアニストのグルーピーさ、フォンダメンタリストさ、
フランツ・リストみたいなショーマン、アーチストさ

(アルマネ)
パリでピアノ、私にあらわれた
完全なる夢、メロディーのゆりかご
私は奇想曲をつくって友だちのために弾くわ
パリで私のピアノ

(ゴンザレス)
ジルベール・モンタニェ、彼は俺にとってのカニエ
俺の山の上での誓い、俺の真実
俺と俺の鍵盤は愛し合っていくぞ(On va s'aimer)
狂おしいほどにね、ジュリエット・アルマネに聞いてみろよ
俺はハーモニーの世界のジョルジオ・アルマーニさ
サンソン・フランソワとヴェロニク・サンソンの
どちらかを選べと言うのなら
俺の最敬礼(ma révérence)はシャンソンの方に捧げるよ
これが俺のフランスへの手紙(Lettre à France)さ
俺のことはミッシェル・ゴンザレスって呼んでくれ
チリー・ポルナレフでもいいぞ
裏付けは取ってあるって

(アルマネ)
ピアノ・ア・パリ、ピアノ・ア・パリ、
ピアノ・ア・パリ、モン・ピアノ・ア・パリ

(ゴンザレス)
俺はタローよりもまぬけで
ソラルよりも卑劣漢さ
その上シェラルよりも値が張るんだ
だが歴史に残るのは一体誰だ?

(ゴンザレス + アルマネ)
俺のすべての古きピアニストたちへ
(ピアノ・ア・パリ)
俺はスタンディング・オヴェーションを捧げるよ
(ピアノ・ア・パリ)
            ("Piano à Paris")

フランス音楽通の英米人たちは増えてきたと思う。それはゲンズブール以来の現象かもしれない。だが、彼らの好みは”フレンチ・タッチ”であって”フランシュイヤール”ではないだろう。ゴンザレスはそんな”似非フランス通”と一線を隠して、フランシュイヤールを真剣に評価し愛している。ゴンザレスの趣味をフォローする人たちがどっと増えそうな気がする。

 アルバム最後に収められたミッシェル・ベルジェ作の"Message Personnel"(オリジナルは1973年フランソワーズ・アルディ歌)のピアノソロ・カヴァー。このどうにも抗いようがない抒情の波状攻撃、これは至上の名人芸である。


<<< トラックリスト >>>
1. French Kiss
2. Il pleut sur Notre-Dame (feat. Bonnie Banane)
3. Lac du cerf (feat. Christine Ott)
4. Nos meilleures vies (feat. Teki Latex)
5. Wonderfoule (feat. Arielle Dombasle)
6. Cut Dick
7. Romance sans paroles no.3 (feat. Alison Wheeler)
8. Gangstavour
9. Piano à Paris (feat. Juliette Armanet)
10. Richard et moi (feat. Richard Clayderman)
11. Message Personnel

Chilly Gonzales "French Kiss"
LP/CD/Digital Gentle Threat France Gentle028
フランスでのリリース:2023年9月15日


カストール爺の採点:2023年のアルバム

(↓)2019年 Netflix動画 "Message Personnel"(ミッシェル・ベルジェカヴァー)

2023年9月21日木曜日

枯れ葉の秋(かうりすまき)

"Kuolleet Lehdet (Les Feuilles Mortes)"
『枯れ葉』

2023年フィンランド映画
監督:アキ・カウリスマキ
主演:アルマ・プイスティ、ユッシ・ヴァテネン
フランスでの公開:2023年9月20日

2023年カンヌ映画祭審査員賞


La vie sépare ceux qui s'aiment, tout doucement, sans faire de bruit
人生は愛する者たちを別れさせる、いともゆっくりと、音も立てずに
(ジャック・プレヴェール/ジョゼフ・コスマ「枯れ葉」)

2017年『希望のかなた』(ベルリン映画祭銀熊賞)で引退宣言をしたアキ・カウリスマキの6年後の復帰作。ー 爺ブログには名優アンドレ・ウィルム(1947 - 2022)の最後の主演作となった『ル・アーヴル』(2011年)の紹介記事もあるので、それも読んでね ー

 これは極貧とアルコールの地獄を愛が救うプロレタリア映画。アキ・カウリスマキが例によって時代設定ごちゃごちゃにしてラジオだけがニュース源(+50年代の音楽が流れてくる)のレトロな世界のような環境に、ラジオニュースはひっきりなしにロシアのウクライナ侵攻の戦況ばかり。この絶えることのない戦争報道ニュースが、この(いつの時代ともわからないヘルシンキの)貧しい労働者たちの抵抗と連帯をそこはとなく鼓舞しているのだろう。ハードディスカウントのスーパーで働く女は賞味期限切れの食品商品を廃棄せずに家に持ち帰ろうとしただけで解雇されるネオリベラル資本主義社会で生き、一方、そんな社会だから男は仕事の過酷さをアルコールで紛らわすが、仕事中のアルコールがばれて解雇される。どれくらいの貧しさかと言うと、電気代の請求書を見たとたんに、反射的に電気製品のコンセントを抜いたり、ブレーカーを落としてしまうようなパニックに陥るほど。そんな女たちや男たちのささやかな楽しみが金曜日の夜のカラオケ。カラオケのレパートリーはフォルクロールだったり、カルロス・ガルデルのタンゴだったり、シューベルト歌曲だったり。

 アンサ(演アルマ・ポイスティ)とホラッパ(演ユッシ・ヴァタネン)はそんなところで出会うのだが、一目惚れというわけではなく、「この女は(他の女たちとは)違う」、「この男は違う」という意識なんだなぁ、なにかとてもわかるし、懐かしい感覚。電話番号を渡してもそのメモを無くしてしまう、そんなすれ違いで、なかなかストレートには進行しないが、男が映画をおごるよ、と二人で入った映画館ではジム・ジャームッシュのゾンビー映画『デッド・ドント・ダイ』(2019年)がかかっていたり(なんとも可笑しい)。
 しかし、アンサはホラッパの極度のアルコール依存症を知り、私の両親家族はアルコールのせいで死んだのよ、とホラッパを諭そうとするが、ホラッパは俺は誰にも指図されない、と二人の関係は一時的に壊れてしまう。しかし、愛は救うのだよ...。

 保健所員に保護されそうになる野良犬をアンサが引き取って飼うのだが、このいかにも貧相な雑種犬がすごくいい演技(アキ・カウリスマキに登場する犬たちはみな素敵)。それにチャップリンと名を与える。らしい名前だ。映画的リファレンスではゴダール、ブレッソン、ジャームッシュ、チャップリンなどとてもわかりやすく、映画愛だけでもとても心満たされる。
映画の初めの方で、貧乏ぐらしのアンサのラジオから「かたびらはなし、帯はなし」と竹田の子守唄が流れてくるのにはそのわびしさに苦笑してしまった。うまいなぁ。
それでもカウリスマキの世界では最後に愛(とプロレタリア)は勝つのである。異議なし。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『枯れ葉』予告編


(↓)エンドロールで流れる『枯葉』フィンランド語ヴァージョン、歌オラヴィ・ヴィルタ(1959年録音)


(↓)印象的な挿入歌。労働者たちの集まるバーでのライヴシーンで登場するフィンランドの女性デュオ Maustetytöt の”Syntynyt suruun ja puettu pettymyksin"
(このYouTube動画は映画のシーンではありまっせん。為念)

2023年9月15日金曜日

トワとはモン永遠

Akira Mizubayashi "Suite Inoubliable"
水林 章『忘れじの組曲』


林章自身が「ロマネスク三部作」と名付けた『折れた魂柱(Ame Brisée)』(2019年)、『ハートの女王(Reine de coeur)』(2022年)に続く第三話。三作に共通するのは演奏楽器や留学体験などでフランスと深い関係のあった日本人演奏家が、(水林が”15年戦争”と呼ぶ1930〜45年の)日本の帝国主義戦争で運命を打ち砕かれ、非業の死をとげるが、フランスと日本に引き継がれていった子の世代と孫の世代の人々が、70余年の時を超えて、その悲話のすべてを再トレースして、縁りの楽器を復元し、故人が愛した楽曲を孫の世代の世界的演奏家が再演し鎮魂するという筋。この三部作はクラシック擦弦楽器の三部作でもあり、『折れた魂柱』=ヴァイオリン、『ハートの女王』=ヴィオラに続いて、この『忘れじの組曲』はチェロが”主役”になっていて、三部作のロジックにかなっている。またこの第三話に、前二作との関連をつけて、悲劇のチェロ奏者ミズタニ・ケンが1939年に戦況の悪化でパリ留学を続けられなくり帰国を余儀なくされ、乗り込んだマルセイユから横浜に向かう最後の汽船「箱根丸」には『ハートの女王』の悲劇のヴィオラ奏者ミズカミ・ジュンも乗り合わせているし、第一話『折れた魂柱』の楽器製造職人ミズサワ・レイ(仏名ジャック・マイヤール)は、この第三話の重要な登場人物となっている。三部作の最終話に花を添えての愛読者サービス”オールスター出演”のように読める。三作の3人の最重要人物の名前はみな”ミズ”で始まる。作者から分けてもらったかのように。げに名前は大切。この三部作で作者が重要人物(重要”楽器”にも)に与える名前はすべて小説の鍵となるような重要な意味が込められている。これは水林小説の得意技(決まるときも決まらないときもある)。

 1939年、パリ留学中だった19歳の日本人チェロ奏者ミズタニ・ケンは、スイス・ローザンヌの国際コンクールに出場し、エドワード・エルガー(1857-1934)チェロ協奏曲を弾いて優勝する。その副賞としてチェロの歴史的名器、1712年ヴェネツィアの名匠マッテオ・ゴフリラーの手になる一本を限定6年間貸与される。このゴフリラー1712を持って憧れの大巨匠パブロ・カザルス(1876-1973、とりわけこの小説の中心的楽曲であるJSバッハ『無伴奏チェロ組曲』を不朽の名曲の地位に押し上げた偉人)の(フランコ政権スペインからの)亡命先プラードを訪れ、カザルスのマスタークラスで「鳥の歌」を直伝される。しかし、大日本帝国の戦争は無残にもこの天才チェロ奏者の歩き出したばかりの道を閉ざしてしまい、泣く泣くケンは名器ゴフリラー1712を背負いマルセイユから「箱根丸」に乗り日本に帰る。戦時下で演奏会はできなくてもケンが連日チェロの鍛錬を続ける東京で、この歴史的チェロの調整手入れを依頼できる腕利きの楽器工芸職人がフランス人女性オルタンス・シュミットだった。にわかに名演奏家を多く輩出するようになったこの極東の国で、楽器工芸家としての腕が発揮できるはずと勇んでやってきた日本だったが、戦況の悪化はオルタンスの道も閉ざしていく。ケンは家族(父・母・妹リン)と共に東京を離れ、信濃追分(堀辰雄と加藤周一ゆかりの地、というのはこの小説の大きな鍵)へ疎開、オルタンスもまたその楽器工房を信濃追分に移す。だが、ケンのところに「赤紙」が届いてしまう...。
 同じ頃信濃追分を舞台にしたパラレルストーリー。職業は医師でありながら、医学を超えてあらゆる分野の博識人である人物カンダ・リョウ、東京を離れ信濃追分で医局を開業、同じ場所に自らの蔵書コレクションと推薦する児童書と教養書を集めた私設無料図書館を開設、住民たちに慕われるお医者・知識人として信望を集めていたが、古典ギリシャ語とラテン語を含む驚異的に堪能な語学力のおかげで日本語でない情報も入ってくるものだから、大日本帝国の敗北が確定的なこと、その出口なしの狂信的帝国主義の末路を予見していた。そんな時に長男テツに「赤紙」がやってくる。それを知った近所住人たちが、お国のための出征の栄誉をお祝いにやってくる。リョウは激昂し、その近所の蒙昧びとたちを相手に、帝国と天皇のために命を捧げることの不条理さをぶち上げてしまう。これが密告されリョウは特高に捕らえられ、二度と帰ってこない。出征したテツは戦死。しかし特高に連行される前、リョウは憤怒と絶望の淵にあって信濃追分の人知れぬ森の中に入り、木々の間にぽっかりあいた日なたにあった木のベンチに、彫刻刀を使って人類への祈りの言葉を刻みつけていた。
In terra pax hominibus bonae voluntatis
Dona nobis pacem.  R.K.
ラテン語で書かれたカンダ・リョウの最後の言葉、当時の日本のこの奥まった場所でたやすく読まれることなどありえなかったこのラテン語詩句を、同じ頃同じ場所にいた若きチェロ奏者ミズタニ・ケンが発見してしまう。パリで音楽を学んだことで、バッハやベートーヴェンのミサ曲で歌われるこのラテン語讃美詩の意味をケンは瞬時に読み取った。「この地に善意の人々に平和を、われらに平和を与えたまえ」ー この時自身も「赤紙」を受け取り死出の旅を覚悟し絶望の淵にあったケンは、このラテン語の彫文字に出会い、「僕はひとりではない」という強い思いで救済される。絶望の底の底で見た人間性の光、この感動のあまりケンはこの見ず知らずの彫文字の作者R.K.に(読まれる可能性の限りなく薄い)感謝の手紙をしたためる。その人か自分の死後の後世の人かに届けと、ビンに詰めて大洋に投げる思いで、その手紙をオルタンスの楽器工芸人の最高度の匠の技であのゴフリラー1712の音胴内部に穴を穿って隠し入れるのである...。
 R.K.への手紙で心の整理がついたミズタニ・ケンは出征前の最後の夜を信濃追分のオルタンスの楽器工房兼住処小屋で過ごし、歴史的名器ゴフリラー1712を預け、次の年にローザンヌの国際コンクール委員会に返却する役目を依頼する。最初で最後の愛情交わりの夜が明け、出発の朝、ケンはゴフリラー1712での最後の演奏をオルタンスの前で披露する。バッハ無伴奏チェロ組曲。終わって小屋の戸を開けると、そこには一匹の犬、二頭の馬、そして鳥たちが集まっていた(いい話。これは宮澤賢治『セロ弾きのゴーシュ』のヴァリエーションのように小説中で種明かしされている)。
 だがほどなくミズタニ・ケンの戦死が告げられる。オルタンスの目の前には「R.K.への手紙」を隠し込んだゴフリラー1712。これはケンの形見。だがそれは次の年にはローザンヌに返却しなければならない。手放すにはあまりにも心残りが。そこでオルタンスは信濃追分の工房で5か月の月日をかけ全身全霊をこめてゴフリラー1712の(ほぼ)完全コピー(違いは3世紀前の木材を使っていないことだけ)を製作するのである。この製作中にオルタンスはケンの子を宿していることを知る。完成したゴフリラー1712完コピチェロに、オルタンスはラテン語で「Pax animae(魂の平和)」という名をつける。ゴフリラー1712は人の手に渡っても、私はこのパックス・アニマエ器をケンの形見として持ち続けよう。そしてそのいきさつを、ケンの「R.K.への手紙」に倣って覚書にして記し、それをゴフリラー1712に隠したケンの手紙と同じように、パックス・アニマエ器の音胴の内側に穴を穿って隠すのである。その覚書の結びにはこう書かれている。
TOI - NI, ce Pax animae : fait par Hortense Schmitt.
A Shinano-Oïwake, juin - octobre 1945.
Copie du Matteo Goffriller de 1712.
En mémoire de Ken Mizutani
et dans l'attente de 麗音.

このパックス・アニマエを TOI - NI : 製作オルタンス・シュミット
1945年6月〜10月、信濃追分にて
1712年製マッテオ・ゴフリラー器の複製
ミズタニ・ケンの思い出に
霊音を待ちながら

 "TOI - NI"は日仏バイリンガル人には説明不要と思うのだが、この小説の主要登場人物たちにはこの部分意味不可解ということになっていて、後半部で種明かしがある。「問い2」という意味ではない。最終行「麗音を待ちながら」:前作『ハートの女王』を読んだ方には、おおこの名前は、と思われようが、この小説では結果的に女王 = Reine(作者はこれを”レイネ”と読ませる)にならない。オルタンスはこの時点で生まれてくるケンの子供が女児か男児かわかっていない。しかし名前にはどちらであってもこの漢字(”麗音”)をあてようと決めている。女だったら読みは「れいね(Reine)」、男だったら読みは「れおん(Léon)」。しかして、その数ヶ月後にこの世に現れたのは.... レオン・シュミット。Reviens Léon !


 2016年、パリ16区、ラジオ・フランスのオーディトリウムで国際的評価を受けた若きチェロ奏者ギヨーム・ヴァルテールがラジオフランス交響楽団を従えてエドワード・エルガーのチェロ協奏曲(↑にも出てるから読み返して)を。演奏会は無難にこなしたが、ヴァルテールはヴィルツオーゾの超繊細な耳と楽器振動感触でしかわからない、そのチェロのごくわずかな異常振動を感じ取り、翌日長年ヴァルテールの楽器調整を任せている楽器工芸職人のジャック・マイヤールのところにそのチェロ(マッテオ・ゴフリラー1712!)を持っていく。三部作の第一話『折れた魂柱』の中心人物ミズサワ・レイ = ジャック・マイヤールはこの時もう89歳になろうとしていて、自らの楽器工房を後継者に考えていた頃で、それに渡りに舟のごとく弟子入りきたのがパミナという若い女性。この名前はモーツァルト歌劇『魔笛』に因む。なおパミナの父の名前はレオン、祖母の名前はオルタンス。(小説ですから)世界はせまい。マイヤールはヴァルテールの”症状説明”から判断して、それは魂柱の小さな破損が原因であろうと診断、私にとても腕の良い職人が来てくれたので、これは彼女に修理を任せる、と。パミナの前に初めて姿を現した歴史的名器ゴフリラー1712、その特徴的な重厚に赤黒い桜桃色を見た時、パミナは激しく動揺し、これと同じものを私は見たことがある、と(それは楽器商だった父親レオンの倉庫の奥深くに”非売品”として保管されていた)。
 パミナはギヨーム・ヴァルテールのゴフリラー1712を修理するため、何時間もかけたごくごく繊細な手仕事で音胴の表板を外していく ー  この小説がすごいのは古の名匠から代々継がれてきた楽器職人の細やかな匠のわざによる修復修理のさまを丁寧に描写していること、これには頭が下がる ー そして音胴内部のありえないところにあの「R.K.への手紙」を発見してしまう。 さらに、まさかと思ってパミナが取り寄せた父の倉庫奥深くにあったゴフリラー1712と瓜二つのチェロ(Pax animae)を、同じように表板を外してみると、ゴフリラー1712と同じところに「オルタンス・シュミットの覚書」があったのである....。

 小説はここからギヨーム・ヴァルテール、パミナ・シュミット、そしてジャック・マイヤール = ミズサワ・レイの3人が、1945年春に信濃追分を舞台にしたチェロ奏者ミズタニ・ケン、流謫の楽器匠オルタンス・シュミット、抵抗の知識人医師カンダ・リョウのそれぞれに起こった悲劇の全容を見いだしていく。71年前の悲運の魂を鎮めるのは、水林三部作に共通するものである音楽なのである。戦争などの人類の狂気に立ちはだかる最後の砦が音楽である。おそらく水林はこのテーマでさらに書き続けるだろう。
 ギヨーム・ヴァルテールは私立探偵などを駆使して、これらの悲劇の存命の証人であるミズタニ・ケンの妹リン、カンダ・リョウの娘アキを見つけ出す。この二人の老女を招待して、2017年10月、上野の東京文化会館でニ夜のコンサートを打つ。演目はJSバッハ・無伴奏チェロ組曲全6曲。第一夜に組曲1番から3番、第二夜に4番から6番。このコンサートのために、老体のジャック・マイヤール=ミズサワ・レイもパミナに付き添われてパリから飛んでくる。サプライズはいろいろ。パミナは血縁的には「大叔母」にあたるリンと初対面(このシーンは読んでいて思わず涙がほとばしり出た)。文化人カンダ・リョウの娘アキは南フランスで”作家”になっていて完璧なフランス語を話す... 。そしてギヨームはこの二夜に見た目には分からない瓜二つのチェロ名器を使い分けた。第一夜にはかの歴史的名器ゴフリラー1712を、そして第二夜にはオルタンス・シュミット作のパックス・アニマエ器を。そして演奏終了後ギヨームはマイクを手に持ち、東京の聴衆を前にこの2台の瓜二つの名チェロ器にまつわるストーリーと、戦争によるミズタニ・ケンとカンダ・リョウの無念の死について、ジャック・マイヤール=ミズサワ・レイの通訳ですべてを熱弁し、満員の聴衆の大喝采を浴びる、という....。

 水林小説であるから、楽曲演奏シーンは講談師の名調子のように、音楽の流れが多彩な表現で文字描写され、世の音楽評論家たちに見習ってほしいと思うほどたいへん雄弁なのであるが、どんなにどんなに表現的であっても、その文字から音楽が聞こえてくる(と読める)ことは....。

 信濃追分の森の中のベンチにラテン語文字が彫られてあった、という話は、加藤周一(1919 - 2008)のドキュメンタリー映画『しかしそれだけではない - 加藤周一 幽霊と語る』(2009年鎌倉英也監督)に登場するエピソードで、戦争中加藤が信濃追分のベンチで偶然見つけた"in terra pax hominibus bonae voluntatis"という文字に、このような考えを持つ人間は私ひとりではないという思いにどれほど励まされたか、というシーンにインスパイアされたと水林が注釈している。水林の加藤への深い敬愛の表れでしょう。

 この水林三部作は現代日本の”再”右傾化+”再”軍国化を真剣に憂う作者の偽りなき警鐘であると同時に、音楽や文化教養が持っていた役割を再考せよと訴えている。それは外国語を学んだり、外国語でものを考えてみることの意味を再考せよとも説いている。水林の場合はとりわけフランス語であるが、フランス語を「父語 langue paternelle」として内在化し、それを自らの文学表現の言語にまで昇華させた人間の言葉は説得力がある。戦時下の日本で、戦争語彙の氾濫する日本語環境の中で、ミズタニ・ケンはオルタンス・シュミットとフランス語で話すことに無上の喜びを感じている。音楽が鳴るとき、ケンの中でそれはフランス語なのである、とも表現されている。別の言語で考えられる自由、音楽で考えられる自由、それは戦時において人間を生き延びらせることができるものなのだ、と教える小説である。
 こうして水林はその独自の文学スタイルを築いたわけだが、三部作の3作とも(楽器と楽曲は異なれど)パターンはほぼ同じと言えなくもない。戦争は惜しみなく破壊し、音楽はその淵で人間性を蘇生させる。世のメロマンヌ(mélomane)たちはすべて平和の側の人たちであってほしい(が)。
 最後に、重箱のスミ的苦言をひとつ(これは『ハートの女王』の時のそれと同じ種類のものだが)。本記事中盤で引用したオルタンスの覚書の冒頭、”TOI - NI"、これは登場人物たちが小説終盤まで解読できなかったのだが、”トワ(toi)に”(あなたに捧ぐ)と”永遠(とわ)に”の日本語フランス語かけことばである、と解き明かされる。あのですね、われわれバイリンガル人から見ますとね、これはかなりがっかりするレベルの(jeux de motsとも言えない)ダジャレだと思った。三部作の戦争と音楽とユマニテという重厚なテーマをいささかも殺ぐものではないとは言え。

Akira Mizubayashi "Suite Inoubliable"
ガリマール刊 2023年8月17日 245ページ 20ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ガリマール社制作の”Suite Inoubliable"プロモーションクリップ。


(↓)ボルドーの書店Librairie Mollat制作の動画で『忘れじの組曲』を紹介する水林章


(↓)ロストロポーヴィチ、JSバッハ・無伴奏チェロ組曲・第1番プレリュード 。1991年初頭、ブルゴーニュ地方ヴェズレーに長期滞在して、その名高いサント・マドレーヌ大聖堂で無伴奏チェロ組曲全6曲を録音した(CDとヴィデオで発表された)。1992年発表のジュール・ロワ(ロノードー賞作家、1907-2000)著『Rostropovitch, Gainsbourg et Dieu(ロストロポーヴィチ、ゲンズブールと神)』によると、この時死期間近いセルジュ・ゲンズブール(1991年3月2日没)もヴェズレーに滞在していて、ロストロポーヴィチが大聖堂でこの組曲を仕上げるために演奏しているところを静かに見ている。そしてさめざめと涙を流したというのである。ヴェズレーにゆかりのあるラジオパーソナリティーのギィ・カルリエは、それに尾鰭をつけて、ロストロポーヴィチの『バッハ無伴奏チェロ組曲』のCDを耳をすませて聴くとゲンズブールのすすり泣きが聞こえてくる、と言いふらしたのだった。


(↓)エリ・メデイロス「トワとはモン永遠」(1985年)

2023年9月10日日曜日

見えすぎちゃって困るの

Lilia Hassaine "Panorama"
リリア・アセーヌ『パノラマ』


2023年度リセ生の選ぶルノードー賞(Prix Renaudot des lycéens 2023)

2022
年のゴンクール賞候補に上った前作『苦々しい太陽(Soleil Amer)』に続いて、早くもリリア・アセーヌの3作目の長編小説。前作が20世紀郊外シテとアルジェリア系移民という作者に近い距離にあった題材だったのに打って変わって、新作は近未来(2049〜50年)推理サスペンス(フランスで言うところの”Polar")小説である。今日、明るい未来など書く作家はいない。未来と聞いただけでネガティヴなことばかり考えてしまう時代にわれわれは生きているが、おこがましくも「モアベター」を目指すのではなく、「レスワース」な明日を次世代に残すべくわれわれはそれなりの努力をしている、と思う。しかしリリア・アセーヌの描く未来においては、フランスは一旦壊れてしまい、革命(”新フランス革命”!)が起こり、その後20年の歳月をかけて都市構造(それを構成する建築)をラジカルに改造することによって、無犯罪/直接民主主義/全市民協調のユートピア街区があちこちに出来てしまったのある。
 主人公で話者であるエレーヌは2050年時点でアラフィフ、ひとり娘のテッサは難しい年頃のリセ生、伴侶のダヴィッドとは関係が冷えていて、小説の途中で別居することになっている。エレーヌの職業は今日の言葉で言えば警官だが、”革命”後警察組織が大幅に変わり(なにしろほぼ”無犯罪社会”が実現してしまったのだから)、警官は"gardien de protection"(保護監視人)と呼ばれるようになった。しかし”警官上がり”で、昔カタギの”デカ”感覚で仕事している。小説はその閑職のベテランデカであるエレーヌに何年ぶりかで”事件”が回ってくるところから始まる。親子3人一家蒸発事件。そのイントロに続いて、この2049年現在の社会ができる契機となったその20年前2029年の”新フランス革命”がどのようなものであったかを描写する6ページが来る。

 長くなるが2029年革命について。それは何百万人のフォロワーを持つインフルエンサーが、少年時代に受けた性被害で叔父を告発し裁判に訴えるが、証拠不十分で敗訴。しかしインフルエンサーはそれをフォロワーたちにアンケートを求め、自分が受けた屈辱と苦痛を自らの手で晴らすべきか否かを問うと87%が復讐を実行すべきと答えた。彼はその支援をバックに、自撮り撮影をしながらオンラインで叔父復讐殺害シーンを中継した。何百万というフォロワーたちは”正当復讐”を支持し、逮捕されたインフルエンサーの無罪放免を求めて激しい抗議行動を展開し、裁判所など公的機関を襲撃して大暴動となった。そして同じように、これまでの司法でお咎めなしとされた凶悪犯罪・性犯罪・権力犯罪の被害者たちが自らの手で復讐行動を取る、同時多発の復讐殺害事件がフランス全土で群発し、それは1週間続き(これを”Revenge Week"と呼ぶ)、大統領府と政府はまったく機能しなくなった。この全国規模の復讐劇を収集させたのが、若き女性弁護士のガブリエル・ボカで、公正を欠き無力だったこれまでの司法制度を解体させ、Revenge Week の復讐者たちの正当性を認め(その殺人という行為の重さゆえにリスト化し監視下におくが)無罪放免とした。ボカは犯罪の原因はそれを隠すものがあるからだという説を立てる。人の目に見えないところで起こるのが犯罪である。ボカは隠すものを取り払い、市民がおたがいに透明な環境でおたがいを監視し合う社会を提唱する。この運動を「トランスパランス TRANSPARENCE(透明)」と呼び、透明な社会実現を具体化する都市計画のために、若き建築家ヴィクトール・ジュアネの考案したガラス張り住宅による町づくりをと訴える。トランスパランス運動は大多数の支持を集め、その結果既存の建物は破壊され、外からすべて見える透明ガラス作りの家屋で占められた町が建設される。
ジャングルであったわれわれの町々は動物園に変わったのだ(p11)
 ディストピア文学の古典ジョージ・オーウェル『1984年』(1949年)では全体主義独裁権力によってあらゆるところに仕掛けられたテレスクリーンによってすべての市民が監視されるが、アセーヌのこの小説では独裁者(権力)ではなく地区住民の一人一人がお互いにガラス張り隣人宅の隣人の行動を”肉眼で”監視し合うことで防犯し、安全状態を保つ。この小説では2029年革命ののち、トランスパランス体制のおかげで犯罪が激減し、隣人同士がお互いを知り尽くして調和的共存関係が築かれたことになっている。当然個人同士の”ソリ””嗜好””ジェンダー””社会的身分”などの違いによって、"類は友を呼ぶ"の倣いで地区は別れ、ブルジョワたちがブルジョワ街区を築くように、エコロジスト街区、労働者街区、ゲイ街区などが出来ていき、それぞれの街区が住民たちの直接民主主義でものごとを決めていく。
 小説はこの性善説原則の隠し事のない社会、(表面上)透明なユートピアが、ある事件によって、透明性の限界のような不可視のうごめきが露出してくる、というストーリーなのであるが...。事件はパクストン(Paxton)と呼ばれるセレクトなブルジョワ住宅街で起こる。ここにはガラス張り家屋都市計画の発案設計者にして総指揮者である建築家ヴィクトール・ジョアネも住み、彼の肝入りの町づくりの功あって”フランスで最も安全な町”と呼ばれている。2049年11月に起こった一家3人(夫婦+息子)の蒸発はパクストンという最強の安全環境ではありえない事件だった。妻ローズは世界的な名声のある画家で(その収入でこのパクストンには十分に”入居資格”があり)、そのヒモのような夫ミゲルは詩人でそのほか自分のできる仕事を転々として生きる趣味系自由人(これはこの環境とソリが合わないことままあり)、息子で10歳のミロは両親から引き継いだ”芸術家気質”が災いして学校でイジメに合っていた....。昔カタギのデカのエレーヌとその相棒(助手)のニコの懸命の捜査にも関わらず、一家の行方がつかめぬまま、2050年6月、ミゲルとローズが他殺死体で発見される。ミロはどこかで生き延びているのか?...
 
 推理サスペンス小説なので、この事件のなりゆきをいちいち挙げていったら大変な長さになるのでやめるが、要は隠し事のない社会にも秘められた隠し事がたくさんあって、それらが暴かれるたびに事件の全容が少しずつ、という古典的推理小説パターンは踏襲されている。だいたい隠されたものが何もない社会という前提を誰が信じられますかってえの。面白い展開のように読めるけれど、それは推理サスペンスとして読めばの話で、それよりもこの近未来社会を産んだ社会的政治的なフランス人の選択というのはありえるのか、という作家の”予見性”への疑問が私には強い。ウーエルベックの予見性というのは議論の余地を感じさせながらも「ありうること」と思わせる。
 往々にして作家は未来を描く装いを借りて”現在”を描写するものである。上に要約して紹介した2029年の"REVENGE WEEK"という同時多発復讐殺人暴動は、裁判所や警察が”正義”を執行しない事例が累積した結果への民衆の反乱と読める。インフルエンサーが腐敗した司法に背を向け、SNSによる何百万というフォロワーの”人民投票”を根拠に復讐殺人を実行し、”民意”の圧倒的賛同を得る。まだ復讐殺人こそ起こっていないが、これはほぼ2023年的現実であり、この2023年7月の警官によるナエル(17歳)射殺に抗議する全国的な(未成年者を中心とした若者たちの)大暴動は1週間続いたし、そこでもSNSが持ってしまった強大な威力が見えた。
 そして市民たちがお互いを監視し合う社会、これは2019年のコロナ禍の際に長期間続いた外出制限令(コンフィヌマン confinement)の時に、フランス社会は経験している。それまで規制を嫌う個人主義的な国民性と言われ続け、この制限令は多くの人たちによって破られるだろうと思われていた。ところが市民たちは従順にも家の中に閉じこもり、必要最低限の外出には自らが時刻を記入した外出理由書を手に持って1時間以内に帰宅したのだ。これにはフランス人自身が驚き、病禍に対抗する市民の連帯を自画自賛した「フランス人もやればできる」と。これは街頭で警官たちが監視していたことよりも、市民たちがお互いに目を光らせ、外出する者やマスクをしない者をウィルスをばらまく者とみなして見張っていたのだ。この市民による相互監視は、戦争中の日本の”隣り組”と同じ。日本の伝統はあの頃の「非国民」という罵声と同じ響きを持って、今日のSNS上の「反日」指弾につながっている。
 で、リリア・アセーヌはこの市民相互監視の社会を2029年のフランス人はセキュリティーのユートピアとして選択する、と想像したのだ。セキュリティー第一主義、これは現在でも雄弁に市民たちを誘惑する考え方であり、ポピュリズムの第一の武器でもある。ただこの小説の市民のセキュリティーは、警察や軍や国家権力が力によって保障するのではなく、市民ひとりひとりの目が守るのだ、という。透明な社会、隣人に隠すものを持たない社会、ガラス張りの社会の実現。
 アセーヌの小説は、主人公エレーヌを通して、この透明社会に生きながら、個人単位のレベルで、端的には夫も娘も自分も隠し事を抱えているのを知っていて、ましてや社会全体が隠したものを持っていないわけがない、というトーンで進行する。刑事エレーヌの上司への捜査報告書にもすべては書かれない。上司にも同僚にも(小説最後部で)裏切りがある。だったら、この未来社会は現在と何も変わらないではないか ー というところがこの小説を”未来推理サスペンス”よりも”社会派小説”と読まされるゆえんなのである。アセーヌの狙いはちょっと外れているように思えたが、エンターテインメント性はある。ネットフリックス連ドラのシナリオのように読めばいいのか。

Lilia Hassaine "Panorama"
Gallimard刊2023年8月 240ページ 20ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ボルドーの書店Librairie Mollat制作のリリア・アセーヌ『パノラマ』紹介動画