2022年8月29日月曜日

和解ってすばらしい

Virginie Despentes "Cher Connard"
ヴィルジニー・デパント『親愛なるゲス野郎へ』

2022年のラントレ・リテレール註:rentrée littéraire = 11月の各文学賞レースのために8月〜10月に一斉に数百冊の新作小説が刊行される現象最大の話題作で、私も絶賛した大河小説『ヴェルノン・シュビュテックス』3巻(2015年〜2017年)に続くヴィルジニー・デパントの最新長編小説350ページ。今日珍しいロマン・エピストレール(roman épistolaire =書簡体小説)。ジョルジュ・サンド(1804 - 1886)からインスパイアされたらしい。サンドの書簡体というスタイルだけでなく、フランス最初のフェミニスト作家のひとりということにもおおいに関係しているだろう。
 この小説の書簡のやりとりは9割がた"公開”されていない。インターネットを介していたとしても”非公開”の場の「私信」が原則である。だが、冒頭、最初の石が投じられたのは公開の個人インスタグラムアカウントである。最初の筆者はオスカールと名乗る40代の小説家。宛名のないそのアカウントを見に来る不特定多数の人々に向けて、かつてあこがれていた女優レベッカ・ラテをパリで見かけたが、その老いた(外観の)衰え方に絶望したと嘆く。女性(女優)の外観を酷評するという”me too"時代に絶対やってはいけないことを敢えてしたのは、計算ずくの挑発であったことはあとで白状する。レベッカはまんまとその挑発に乗り、どこの馬の骨ともわからない男に激烈な返信を”私信”で送る。ここから非公開の私信のやりとりが始まるのだが、最初レベッカは全く”やりとり”などするつもりはなく、男が退散するように唾を吐きかけるように書いたのだった。
親愛なるゲス野郎へ
あんたが自分のインスタアカウントで公開した文を読んだわ。あんたは飛びながら私の肩に糞をかけていく鳩みたいなものね。汚いし、とても不快よ。うぇん、うぇん、うぇん、私は誰にも見向きもされない弱虫ちゃん、誰かが私に見向いてくれるようチワワ犬みたいに鼻を鳴らすの。ソーシャル・ネットワークに栄光あれ:あんたはものにしたのよ、その栄光の瞬間を。その証拠に、私があんたにこうして直接書いてるじゃない。きっとあんたには子供がいるわね。あんたのような野郎は子孫を増やすのよ。だけどその子孫増やしが途切れることを想像してごらん。あんたたちのようなやつらは愚かでどうしようもないほど無用であればあるほど、子孫を増やさなければと義務感を抱くのね。だからこそ、私はあんたの子らがトラックに轢かれて死ぬことを望むわ。あんたはその場で何もできなくて子供が死の苦しみにあえぎ、その目が眼窩から飛び出ていくのを見ていて、その苦しみの叫びは毎晩あんたにとりつくようになるのよ。私があんたに望んでいるのはこれよ。(....) (p8)

しかしオスカールは退散しない。レベッカとの直接のコンタクトを開通させるという目的だったことを告白し、詫び、少しずつ本題に入っていく。オスカールは既に遠い過去にレベッカと接点(歳の離れた姉コリンヌとレベッカが親友だった)があり、同じフランス東部のヴォージュ地方の寒村で育ち、同じ庶民階級の出であり、同じように家庭(親)の問題を抱え、同じように歳若くして故郷を捨て独り立ちした経緯がある。そういう接近のしかたにレベッカは全く興味がなく、むしろ嫌悪すら抱く。
 レベッカはその美貌を武器に十代で映画界入りし、30年以上にわたって主役クラスばかりを演じる大女優となり、「伝説」であることを自負している。50歳を越え、老いや衰えのことを考えないわけにはいかない。だがこの伝説の女優を常にトップに維持してきたのは、彼女自身がアルコールとドラッグと幾多の男たちを完璧にコントロールできてきたからだ、という自信がある。アルコールとドラッグと男たち、こんないいものを止めるわけにはいかない。だが彼女は依存症ではない。それが小説の進行につれてラジカルに変化していく。
 一方オスカールはやっと軌道に乗りつつある小説家であり、以前の配偶者との間にひとりの娘がいて、共同親権で隔週末に一緒に過ごしているが、関係は必ずしも簡単ではない。その主な原因は娘がオスカールがジャンキーで女たらしであることを知っているからだ。女たらしとは正しくない。恋に落ちやすい質なのだ。恋はいつも真剣で、成就しなければ彼はひどく傷つく。ただしこれは「男」のリクツである。
 オスカールは長年あたためている(文学的)構想がある。それはレベッカのための脚本を書くことだった。それを書くために長い間もがいているのだが、一向に進まない。霊感の枯渇はアルコールとドラッグへの依存度を増していくのだが、それに加えて彼を名指した"Me Too"告発がインターネット上で轟々の勢いで拡大し、筆は全く止まってしまう。オスカールと専属契約を結んでいる出版社でオスカール専任編集者として働いていたゾエという名の若い女性で、オスカールから受けたハラスメント(ストーカー的求愛、脅迫...)によって職を失ったと同時に精神的平衡を完全に破壊された、という実名糾弾がインターネット上で公開されたのである。
 ここでこの書簡小説にゾエという第三の人物が登場したわけだが、ゾエはオスカールとレベッカと書簡通信するわけではない。ゾエは自分が主宰するフェミニスト・ブログ上ですべてを公開の状態で書いている。ゾエはこのハラスメント事件でかなり過激なフェミニスト(全男性を敵とする、という意味)に転身していて、その熱のこもった男性原理粉砕論は多くの支持者を得ていて、その分野では今やオスカールは”女性の仇敵”のポジションに昇格している。
 ソーシャルネットワーク上の”言論”の凶暴さは、日本もフランスもどの世界でも今さら説明の必要がないほど極端に苛烈なものになっている。ゾエはその中で幾多の反フェミ/ファシスト/レイシスト/マッチスト論陣の罵詈雑言を浴びながら、論を研ぎ澄まし、若き硬派フェミニストのオピニオンリーダー(インフルエンサーと言うべきか)となっていく。語り口は闘士そのもので、非常に雄弁であり政治的であるが、それはデパントのフェミニスム論『キング・コング・セオリー』(2006年)とはかなり距離がある。
 "Me Too"の矛先のひとりとなったオスカールはネット上の嵐に戦々恐々としながらも、レベッカにあの時の自分の"恋愛”の正当性を主張して、ゾエの”ハラスメント”断定を事実無根としてゾエへの怒り/憎悪を爆発させる手紙を繰り返す。レベッカはオスカールの肩を持たない。ゾエのブログで炸裂するオスカールへの攻撃言説にも眉をひそめる。レベッカはその中庸の処世術で黒々とした暗部を内包する映画界/芸能界を生き抜いてきたが、オスカールとの書簡のやりとりによって少しずつその人生に内省的になっていく。オスカールもレベッカからの刺激で変わっていく。苦悩の分配による"Amitiés"の萌芽、なのであろう。
 小説は多くの部分を(ドラッグ/アルコール)依存症の地獄と、そこからの脱出の道程に割いている。オスカールは最初から悪性のジャンキーである自覚がある。それがなければ"書く”こともできなければ、文学/出版界をうまく渡っていくこともできない。”自我”をキープするための必須ツールであり、貧相な生身の自分を粉飾する衣であり、それがなければ"恋愛”もできない。ゾエへの”恋慕”も自分は純愛だと言い張るものの、レベッカはそれがジャンキーの巨大化されたエゴによるものだということを見抜いている。知らぬは自分ばかり。
 霊感の枯渇、"Me Too"攻撃の嵐、八方塞がりのオスカールは決意して依存症脱出を試みる。ひとりでは難しい。オスカールは依存症脱出の求道的な日々のようすをレベッカに手紙で報告するのである。語ることで自分を鼓舞するかのように。
 同じようにジャンキーであるレベッカは、その中庸的処世術でドラッグ/アルコールと”悦び”をもって嗜んできたので、自分はやめるつもりなどない、という立場だったのが、徐々に変わっていく。
 そして時代は”Me Too"運動の嵐をけちらすかのように、全世界の機能を止めてしまうような脅威となったコロナ禍の真っ只中へ。外出が制限され、飲食店が閉まり、街から人影がなくなった。この閉じこもりの時期にオスカールもレベッカの内省的な手紙のやりとりは親密化を増していく。
 オスカールが始めた依存症脱出の試みは、薬物依存症者たちの相互援助グループである「ナルコティック・アノニム(Narcotiques Anonymes)」(NA)の集会への参加。これはアルコール依存症の相互援助組織「アルコリック・アノニム(Alcooliques Anonymes)」と同様、”やめる/やめたい”意志を持った人たちが名を伏せて会合に集まり、個人の体験談を包み隠さず話し、お互いに励まし合って依存症からの脱却を目指すというもの。前作『ヴェルノン・シュビュテックス』がバルザック「人間喜劇」と比較されるほど多彩な人間模様が描写されていたのだが、このナルコティック・アノニムに集う人々も千差万別で皆興味深い。そして突入したコロナ禍の時代、この会合はZoomでオンラインで開催されるようになり、卓上でさまざまな人間ドラマと出会うことになる。
 NAを最初いぶかしげに思っていたレベッカも、オスカールの依存症脱出プログラムの難渋(浮き沈み)にコミットする手紙を書くようになり、オスカールの"rechute" (ぶり返し、再び薬物に手を出すこと)をなんとかして防がせる言葉を選ぶようになる。病気の息子を励ます母親のように。そしてレベッカ自身、NAの会合に進んで参加するようになっていく。最初はZoomで、そして外出制限が緩和されたら、近くの会合所に自ら足を運ぶようになる。映画大女優の誰もが知っているその顔で、人に見られることを恐れず、NAに行き、人と出会い、話を聞く...。
 重度軽度の差はあれ、二人のジャンキーはそれぞれのNAで依存症から少しずつ遠ざかっていき、その喜びを共有する書簡を送り合う。
 この困難な魂の救済を成し遂げようとしているオスカールは、その過程で自分が何ものであったのか、とりわけ、自分が"恋愛”と信じてゾエに恋慕したことは何だったのかを悟ってしまう。相手に有無を言わせない、相手に"non"という選択肢を与えない状況(それが自分が作ったものではないにせよ)で求愛する恋慕とは何だったのか。その肥大したエゴとな何か。オスカールは自らの非を認める覚悟ができていくのだが....

 地方の貧困、家族との確執、同性愛者(およびLBGTQ)の生きている場所、インターネット/ソーシャルネットワークの地獄、依存症の地獄、フェミニスムの拡大と分断、コロナ禍/外出制限時代の風景.... このデパントの350ページには『ヴェルノン・シュビュテックス』と同じようにデパントから見える現代フランス社会のさまざまなアスペクトが凝縮されている。その視点は怒れる女性のものであり、なおかつレベッカの手紙で何度か吐露されるように「このフランスが好きだ」「この町が好きだ」といういつくしみもある。
 憎悪と憎悪が激突する様相を呈しながら、NAの無名の証言者たちのように繋がっていようとする人たちもいる。大女優と新進作家、強烈で肥大したエゴを持った女と男がすこしずつそのエゴを削ぎ落としながら築いていく友情。われわれの世界は全然捨てたものではないのである。
 終盤、仇敵同士、ゾエとオスカールの10年ぶりの再会のシーンあり。ゾエはオスカールの謝罪を全く受けつけない。受けつけないどころか、そんなもので彼女の闘争を終わらせるつもりなどさらさらない。だが... ゾエも変わるのである。
 和解と救済、それは明日の問題ではないのである。われわれは途上にあるのだ、そう思わせてくれる小説である。

Viginie Despentes "Cher Connard"
Grasset 刊 2022年8月17日 350ページ 22ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)2022年9月7日、FRANCE 5の「ラ・グランド・リブレーリー」で"CHER CONNARD"を語るヴィルジニー・デパント。
"YouTubeで見る”をクリックしてください

(↓)槇みちる「和解ってすばらしい」(1966年)

2022年8月15日月曜日

なんかのブロードウェイ

Fabrice Caro "Broadway"
ファブリス・カロ『ブロードウェイ』

(単行本 Gallimard刊 2020年8月)
(Folio文庫版 2022年3月)

2022年夏のヴァカンスで読み終えられた唯一の本。ファブリス・カロの3作目の小説。私は最初の小説『フィギュレック(Figurec)』(2006年)(いつか読みます、今すぐではないけれど)を除いて、 - 3 - 作めを体験してきたのだが、この3作目『ブロードウェイ』が最もディープなもの(哀感、過剰な脳内シナリオ、”文学性”なのかな)を感じさせてくれたと思う。優れた”文学”ゆえに下手に映画化などしないでほしい。
 話者アクセルは46歳の勤め人、妻と二人の子供(18歳娘、14歳息子)と地方都市郊外の同じような一戸建て住宅が並ぶ住宅街に最近引っ越してきた。 職あり、家あり、家族あり、なに不自由ない”ナミ”の人生の道半ばであるが、ナミの感覚を持った男なので、世の40/50歳と同じように、この人生これでいいのだったっけ、とは思うのである。すべてを投げ出したい衝動も秘めている(ナミの人間のように)。
 事件は小説の冒頭で続けざまに起こる。まず、フランス保健省が(女性の乳がん無料早期検診と同じように)男性に実施している結腸がん無料早期検診の手紙がアクセルに届く。対象は”50歳から”となっているのに、46歳のアクセルに届いてしまった。このことでアクセルは漠々たる不安に襲われてしまう。なぜ対象外の自分に、ということのありとあらゆる可能性を想像してしまう男なのである。迫りくる死を想い、人生を見つめ直し、この手紙の「エラー」の意味するものは何なのか、それらの問いをひとりで背負い込み誰にも相談できない。ファブリス・カロ的な小心コンプレックス男のキャラクターである。
 次に14歳の息子トリスタンの通うコレージュ(中学校)の校長から呼び出しを喰らう。トリスタンが授業中ノートにボールペンで生物学教師(男)と英語教師(女)が後背位でまぐわっているデッサンを描いたのが見つかってしまったのだ。デッサンの吹き出しには:

(両膝をついて突く男)”Aaaah Guiraud tu es bonne!"
(四つん這いの女)"Oh oui Charlier mets-la-moi!"
と文法&綴り間違いゼロで書かれている。登場するふたつの名、マドモワゼル・ギローは英語教師、ムッシュー・シャルリエは生物学教師。Mets-la-moi (メラモワ、直訳すると”挿れて”)ー こんな表現、どうやってあの(毎クリスマスにプレイモービルをもらって狂喜するような子供の)トリスタンから出てきたのか。衝撃と動揺で言葉がないアクセル。校長はこの問題で件の英語教師が両親に説明を求めている、と。家に帰って事情を妻のアンナに説明したが、思春期の男児の問題は男親が解決すべきこと、とつっぱねる。トリスタンを諭し、ことの重大さを理解させ、二度とこの種の不祥事を起こさぬようにと話すのはあなたの役目だ、と。しかしアクセルはトリスタンにどう切り出していいのか、どう諭せばいいのか、戸惑うばかり。その日からアンナはアクセルに執拗に「トリスタンに話したの?」と問うようになる。話すきっかけがつかめないアクセル。やがてアンナは、アクセルが何かを頼もう/文句を言おうとすると「まずトリスタンに話してからにしてちょうだい」という切り札セリフを使うようになる...。

 アクセルとアンナの長年のダチであるドニとベアトリスの夫婦が、次の夏四十代男女4人だけで短期ヴァカンスをしようという話になり、こういうことに積極的ではないアクセルも他の3人の大ノリ気にあおられて、ふたつ返事でいいよ、ということに。一週間ビアリッツ(フランス南西大西洋岸、欧州サーフィンのメッカ)でパドル(この場合"スタンドアップパドルボード"の意味)をする。理想的なヴァカンスじゃないか。もちろんOKだよ、と言ってみたものの、パドルというマリンスポーツがどんなものかを知らなかったアクセルはあとでネット検索でその実体を知り青ざめる。ファブリス・カロ作品の人物たちは非スポーツ/運動センスゼロがほとんどだが、このアクセルもその典型。ボードにしがみつくことすら困難なのではないか、という恐怖。なんとかしてこのヴァカンスの中止を願うものの、小心ゆえに3人にそれを切り出すことができない。
 この「小心ゆえに口に出して言うことができない」のパターンがこの小説の通奏低音であるわけだが、その口に出して言わない(言ったつもりで実際には言われていない)想像上のダイアローグ/想像上のシナリオが、実際のダイアローグの数十倍の分量で文章化されているという、ファブリス・カロ一流の次から次へと出てくる果てしない妄想の連続、これが圧巻なのであるよ。
 18歳のリセ生でバカロレア準備中の娘ジャドは突然の失恋に川のような涙を。しかしジャドは諦めない。元カレを絶対に取り戻したい。単なるわがままではあるが、わが娘は狂おしい恋慕の激情を父親に訴え「父親としてなすべきことがあるでしょう」と迫る。できることはすべてすると父親は言ってしまう。すると娘は、元カレを奪った娘リラを亡きものにしてほしい、と。いくらなんでもそれは過激ではないか。ではその娘を呪ってほしい。ジャドはありとあらゆる不幸がそのリラに訪れることを願うのだが、アクセルはそこまでしなくても、とひとつひとつその呪いを軽減させていき、二人はその娘に「片目になる禍い」が来る呪いをかけることで合意する。で、アクセルはその呪い(”願い”と言い換えるべきか)を祈祷するために、初めて入る近所の教会ノートル・ダム・ド・レスペランス(希望の聖母教会)へ行き、聖像の前で「1あるいは2ユーロ」と書いてあるロウソク賽銭箱に2ユーロを入れてロウソクに火を灯し、子供の頃暗記させられた祈祷の言葉を唱え、希望の聖母に渾身の祈り(呪い)をこめて娘の恋敵の不幸を乞うのだった。・・・ 教会を出て、あ、間違った、恋敵の娘の名前を「リラ」ではなく「リザ」と唱えていた、と気がつく(ここがめちゃくちゃ可笑しい)。以来アクセルは、罪もないリザという名の娘に訪れるであろう不幸のために自らを呵責し、おびえるようになる...。
 それから煩わしいのは、最近越してきた人間が義務的に構築しなければならない「隣人つきない」。隣家のお節介説教好きな老夫婦と月一回交互に行われる「アペロ招待」。新座入居者が向こう三軒両隣を招いて開くバーベキューパーティー。いつからこんな習慣が始まったのか。ほとんど義務的慣例になってしまったこの近所付き合いが、アクセルには煩わしくてしかたがないのだが、妻アンナは"sympa comme tout"(めちゃサンパ)と交流・出会いの楽しさを満喫している、という...。

 小説はこれらのようなことがらを前に、小心ゆえに何も言えない男のうっぷんと不安のエントロピー的増大を描き、すべてを放棄し逃避したい衝動をも何度もほのめかすのであるが...。
 アクセルには(家族は知っているが誰も振り返ろうとはしない)ある過去がある。二十数年前、アクセルはグランジ系ロックバンドのドラマーだった。その記念碑的にドラムスセットはサロンの隅に飾ってあるが、もはや触られることもなく、家族からは粗大ゴミのように見られていて、近いうちに車庫隅への移動は免れない。だが、地方のクラブで十数人の客を前に演ったギグのことは忘れられない。その客のひとりにたまたま居合わせただけの若き日のアンナもいた。ヴォーカルは「次の歌は、俺には特別の思い入れがあるんだ!」とMCをはさんで歌い始めるがメンバー全員が燃え尽きた終演時には客は4人に減っている。それでもそれはアクセルが最もクリエイティヴだった時の思い出である。.... もう一度バンドをやってみたい。20年後、もとメンバー3人に呼びかけて、再結成してみたい。こういう話は泣かせるよね。だが、この小説のすべてにおいてそうであるように、アクセルはそれを言い出すことができないのだった。

 しかしこの小説はアクセルの心の逃避場所、夢の楽園を登場させる。それはアルゼンチン、ブエノス・アイレス、ラ・ボカ地区、アクセルは馴染みになったカフェテラスに座り、コーヒーをすすりながら、通りでフットに興じる少年たちを見ている。メッシ、ズラタン、クリロナ、マラドーナ... 少年たちは天才たちの妙技を完コピできているような足さばきでギャラリーたちを魅了する。フット談義はいつでもどこでも始まり、老いも若きもひとくさりふたくさり口を挟むが、アクセルもひとかどの論客としてリスペクトされている。そう、ここでは一人の自由な男としてアクセルはリスペクトされ、この風景を構成するひとつのコマなのだ。男たち女たち子供たち、誰もがアクセルを知っていて、アクセルもすべての人を知っている。そういう場所にアクセルは想像の中で逃避していて、いつかリアルにその場所に入り込む日が来ることを知っている。小説はさまざまな窮地ややっかいごとのパッセージのあと、何の前触れもなく、ふっとアクセルをこの場所に送り込む。美しい救済だ。ほれぼれする。後半ではこのブエノス・アイレス、ラ・ボカ地区に、旧知の友のようにバンジャマン・ビオレー(実際、実生活で一年の半分をブエノス・アイレスで生活している)をカメオ出演させ、馴染みのバーで酔狂でトランペットを吹いたあと、アクセルの横にやってきて真剣に楽曲談義したりする。めちゃくちゃいい奴(アクセルはマブダチのようにこの男を"ベンジ”と呼ぶ)。(聞こえてきそうな)音楽も楽園ぽい。この小説はブエノス・アイレスに救われている。

 だが小説は束の間のヴァーチャルな救済を現実のものにはしない。何度かアクセルは蒸発を試みるのだが、帰宅が遅いと心配してあちこちに電話して安否を気遣って青ざめているはずのアンナは、現実世界では(連絡が取れるやいなや)「帰りにつまみのピザ買ってきてくれない?」と...。小心ゆえに何も言えない男は、現実のやっかいごとのすべてを極限まで背負い込み、誰ともその極端な苦悩を共有できず、46歳のリアルワールドを生きていくのである。

 その最後の最後のクライマックスは、かのビアリッツのビーチでのパドル苦行。アクセルは水上のボードにしがみつき、何度も何度も登ろうとするのだが、その度にドボ〜ン、ドボ〜ンと海中に落ちてしまう。一体この男は何をやっているのか、なんて不器用なやつなんだ...。だんだんボードの周りに海水浴客が集まってくる。そのぶざまな態に笑う者もいたが、しだいに人々の声は声援に変わっていく。右手でもっと先の方をつかめ、右足をあげるタイミングだ、よい調子だ、がんばれ、あと少しだ....。ボードの周りは大声援に包まれる。そしてそして、アクセルはボードの上に腹這いで乗ることができ、四つん這いに体を起こし、四つ足に、さらに二本足で立ち上がることができ、パドルの櫂でバランスを取って静止したのである。ブラボー!ブラボー!大喝采は鳴り止まない。この時、アクセルはブロードウェイ・ミュージカルの、あらゆる方向からのスポットライトを浴びる花形スターになった、と感じた。(完)

 小心ゆえに何も言えない男は私たちである。バーンアウト寸前まで何も言えない私たちに救いはあるのか。とてもシビアで深い問題だと思う。こういうユーモア小説の外見をかぶりながら、ヘヴィーな現実が盛り沢山に込まれている。この作家の力量はこの作品で十分に了解できる。小心ゆえに何も言えない人々もこのリアルワールドで生きなければならないという不条理をこの作家は見事に浮き彫りにしたのだ。脱帽。

Fabrice Caro "Broadway"
Collection Folio版 2022年3月刊  190ページ  7,60ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ボルドーの書店 ”リブレーリー・モラ”で自作『ブロードウェイ』を紹介するファブリス・カロ