2017年9月29日金曜日

エリック・ロメールは死んだ

"Un beau soleil intérieur"
『内なる美しき太陽』

2017年フランス映画
監督:クレール・ドニ
主演:ジュリエット・ビノッシュ、グザヴィエ・ボーヴォワ、ニコラ・デュヴォーシェル
フランス公開:2017年9月27日

 私にとってエリック・ロメール映画のほとんどは、理想の愛を求める理屈ばかりこねて、そのかけらがいろんなところに見え隠れするのに、絶対にそれに到達することができず、どうしてそうなるのかわからずに泣いてばかりいる女(or 男)のストーリーです。永遠でしょ? 普遍的でしょ? なぜなら私たちは一人一人みんなそうなのです。この理屈の通らない壁は自分ではなく絶対的に相手(他者、ひいてはこの世)にあるのです。自分は少しも悪くないし、これほど努力してるのに、という被害者・受難者のセンチメント。だから一連のロメール映画は、主人公への感情移入のあまり(日本の70年代任侠映画の深夜映画館のように)観る者に「そうだ!そうだ!」と声が出てしまうほどの共感を生むのです。そう言えばこの映画の中で、画家イザベル(演ジュリエット・ビノッシュ)の作品を扱うアートギャラリーの女主人マクシム(演ジョジアーヌ・バラスコ)の事務所の壁に、かなり目立つように東映映画『昭和残侠伝 - 血染めの唐獅子』(1967年マキノ雅弘監督、高倉健主演)のポスター(→)が貼ってあります。何なんでしょうか。
 そしてエリック・ロメールは死んだ(2010年、89歳)。
 クレール・ドニ監督、クリスティーヌ・アンゴ脚本、ジュリエット・ビノッシュ主演の映画『内なる美しき太陽』は一言で表せば "トラッシュ版ロメール映画”だと思います。そのトラッシュ加減は映画の冒頭から明らかで、イザベルとその愛人の一人で銀行マンのヴァンサン(演グザヴィエ・ボーヴォワ)が性交をしているのですが、男が遅漏クンで精一杯頑張ってるのになかなか果てない、女は突かれながら白けていて天井ばかり見ている、たまらず「早くイっちゃって」と女が声をかけると、男が「前の男の時はそうじゃなかったんだろ」と飛んてもない余計なことを口走ってしまう。イザベルは怒り爆発しヴァンサンを突き放し、泣いてしまいます。滑稽ですけど悲しいですよね。そういう映画的でも文学的でもない「生身っぽい」エピソードに溢れた映画なのです。
 イザベルは長い間連れ添い一児(娘)までもうけた伴侶フランソワ(演ローラン・グレヴィル)と破局し、二人で購入した画家アトリエ付きのアパルトマンに娘と二人で住んでいます。二人で買ったものなので、カギはフランソワも持っていて、よりが戻りそうになったら帰って来る可能性もわずかに残しているのです(こういうところ、ロメールっぽいと思いますよ)。ある種大きな愛の終り。想定としては50歳ほどからの再出発です。クレール・ドニのカメラアイは十分に残酷で、裸のジュリエット・ビノッシュの年輪(別の言い方ではタルミやシワ)をかなり強調します。おまけにこのイザベルは年齢と取り巻く社会(パリ左岸系アート業界)とおよそ不釣り合いな「若い娘の街着」を身につけ、歩きづらく着脱に死ぬほど苦労するヒールつきブーツを履いています。滑稽ですけど悲しいですよね。
 件の銀行マンのヴァンサンは、高慢で金ピカでやり手で「妻を愛している」と言うお都合主義者で、何一つ良いところのない卑劣漢なのですが、イザベルはそんな男でも「電話する」と約束した日に電話が来ないとイライラし、会えない寂しさに涙してしまう。相手にしなければいいのに、「駒のひとつ」として残しておくのです。
 次に現れるのがイザベルよりは相当若い舞台俳優(演ニコラ・デュヴォーシェル)で、才能ある演劇人ながら未成熟で、夢もあれば不安もある。会えば(例えば、俺はもう妻とうまく行かない、といった話も含めて)長々と自分のことしか語らない男で、イザベルが明らさまに「もういい加減にしてよ」という顔をしても気づきません。何も語らず、この若く優しい肉体に抱擁されたら、どれほど幸せかと思うのですが、えてして男はそういう風にできてません。
 毎回魚屋で出会う男マチュー(演フィリップ・カトリーヌ。居てるだけで可笑しい)はぶよぶよの心優しいブルジョワで 、アートに興味があって田舎に城館を持っているという武器だけで会う度にイザベルを誘惑するのですが、イザベルは全く興味を示しません。このカトリーヌはロメール映画におけるファブリス・ルッキーニの役を想わせるものがあります。
 そしてアートギャラリー関係者たちと入ったナイトクラブで、業界話に辟易したイザベルが一人でダンスフロアーで踊っていると、めちゃくちゃダンスの上手い若者シルヴァン(演ポール・ブラン)に腕を取られ、ダンスの甘い陶酔で誘惑されて恋仲になります。若く、下町(漠然とパリ18区)生活者で、教養も金もない ー と友人でギャラリー業界者のファブリス(演ブルーノ・ポダリデス)はイザベルに「こんな不釣り合いな関係は失敗するに決まっている。俺たちの世界(左岸的ブルジョワ・ボエーム世界)にとどまっていろ」と忠告します。あれま、これはクリスティーヌ・アンゴの小説『愛人市場』(2008年。ラップ歌手ドック・ジネコとの関係を描いたオートフィクション)で出てくる「18区 vs サン・ジェルマン・デ・プレ」対立構図の援用ですね。シナリオを書いている本人なので仕方ありませんが、登場人物たちはみんなアンゴの小説のどこかでお目にかかったような人たちばかり。しかしてシルヴァンとはファブリスの忠告通り「身分の違い」を理由に別れてしまうのですよ。滑稽を通り越して呆れてしまいますけど。
 そんな風に何人とも「理想の愛」を求めて関係するのですが、男たちはどこか決定的な何かが欠落していて、イザベルは泣いてばかり。週替わりで娘の世話をする元伴侶フランソワは、娘から「ママンは泣いてばかりいる」と聞かされ、心配になりイザベルに優しく慰めたり、週末旅行を誘ったりしてきます。イザベルはひょっとしたら「大きな愛」が戻ってくるのではないか、と期待もします。お立会い、この映画が"トラッシュ版ロメール映画”だと私が言う極め付けのシーンはここなのです。お互いによりを戻したように思っている時に、フランソワがアパルトマンの鍵を自ら開けて、イザベルのところにやってきます。大喜びのイザベルはかつてのように裸になってフランソワをベッドに誘い込みます。二人は盛り上がり、いい感じです。そしてフランソワがさあいよいよ挿入という段になった時、フランソワは自分の右手の指2本(人差し指と中指)を舐めて唾液でベトベトにするのです!わかりますかこの動作? ー イザベルはそれを見て真っ赤に逆上して、「私と一緒だった時、あなたはそんなことしなかった!」(言い換えれば、どこでそんなこと覚えたの!)とフランソワを乱暴に押し返して、またまた泣いてしまうのです。

 多くの映画評では、映画の最後部に登場する男占い師(演ジェラール・ドパルデュー)とのダイアローグがこの映画を全部救ってくれるシーンのように高く評価されています。言わば、あらゆる男たちに失望しながら、果たして理想の愛は巡ってくるのかを占い師に問うという、何にでも癇に触るナーヴァス&インテリ女性にしてはありえなかった「神だのみ」なのですが、占い師はソフトにソフトにこの傷ついた女性を誘惑していくのです。名人芸。
 それにしてもクリスティーヌ・アンゴ小説に親しい人たちにしか楽しめないのではないか、と思わせる内輪受けシーン多し。仕方ないですね。
 私(女)が望んでるもの、私(女)が幸せになれるもの、そういうものの裏の裏まで読んでくれる男などこの世にはいないのに、金の心を求め続ける採掘者、and I am getting old...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"Un Beau Soleil Intérieur"予告編

 

2017年9月28日木曜日

線路の上じゃ賭け事ばかり

ラティライユ『偶然の取り分』
L'ATTIRAIL "LA PART DU HASARD"

1994年結成だから23年め。グザヴィエ・ドメルリアック率いるラティライユの13枚めのアルバム『偶然の取り分(LA PART DU HASARD)』。10月20日リリース。
勝手な想像上の共産主義東欧やアジア深部をロードムーヴィー風に音楽化したアルバムを6枚、その誤解された旧大陸感覚を大西部〜メキシコまでワープさせたアルバムを3枚、映画音楽アルバム3枚。こういう人たちの EAST meets WESTは時間的にも空間的にもズレがある。新作のテーマは「旅と賭博」。旧ヨーロッパから新世界へ移動する汽車の中で24時間止まらないトランプ賭博。偶然の取り分とイカサマの取り分、熱くなる博徒とキープクールな博徒、チューチューガタゴト…。
プロモーションビデオクリップの曲は「ポーカー・トリロジー part 1 : ポーカー・イン・ザ・マウンテン 241」。グザヴィエ・ドメルリアック作のインスト曲。得意な旧大陸ウェスタン展開で、モリコーネ趣味があちらにもこちらにも。「ザ・マウンテン241」とはフランス国鉄(SNCF)が1948年から1952年まで運行していた(フランス最後の)旅客用急行蒸気機関車(パリ⇄マルセイユの急行「ミストラル」で有名)。雰囲気わかるような気がする、それ風インスト。

L'ATTIRAIL "LA PART DU HASARD"
CD (16 tracks) CSB Productions AD4368C

フランスでのリリース:2017年10月20日

(↓)"Porker Triogie Partie 1 : Porker in the mountain 241"


2017年9月26日火曜日

好きな人と好きなことをしたいだけ

Leïla Slimani "Sexe et Mensonges"
レイラ・スリマニ『セックスと嘘』

 書の題は多分1989年カンヌ映画祭パルム・ドール賞作品『セックスと嘘とビデオテープ』(スティーヴン・ソダーバーグ監督)からインスパイアされたものかもしれないが、内容は全く関係がない。副題に「モロッコにおける性生活」とあり。2016年度ゴンクール賞作家レイラ・スリマニの新刊はフィクションではなく、副題の通りモロッコのセックス事情について自ら現地で取材した証言集ドキュメンタリーである。「現地で」と書くと外国ごとのようだが、スリマニは1981年モロッコ(ラバト)で生まれリセ卒業までモロッコにいて、家族を離れて1999年にパリに留学して以来フランスで生活しているモロッコ&フランス二重国籍者であり、モロッコは今も彼女の国である。
 ゴンクール賞受賞作『やさしい歌』(2016年)の2年前2014年に発表した第1作めの小説『鬼の庭で』は、セックス依存症の女性の二重生活を描き、前例を見なないコアな性表現のために「トラッシュ小説」と評されもした。同年のフロール賞候補にもなりメディアで(スキャンダラスな)話題にもなったこの作品は、ある方面からは「モロッコ出身の女性なのにどうしてここまで」という偏見の声も上がった。それはモロッコはムスリムの教義の伝統があり、女性たちはずっと控えめであるはず、という見方からの驚きであるが、それがいかに的外れであるかということをスリマニは反証していく。 Jeune Afrique誌の第一線ジャーナリストとして鳴らした取材力を生かして、小説『鬼の庭で』がらみのモロッコでのレクチャー会、女性問題シンポジウムなどで出会った女性識者、読者、運動家、SNSなどでコンタクトのとれた市井の女性たち(学生、娼婦、同性愛者...)の証言を2年がかりで収拾し、筆者の考察・解説を加えて一冊の本にしたのが本書である。
 モロッコは王国ながら議会制民主主義の体制は取られていて、政治的に安定している穏やかな近代国家で、観光産業で世界に開かれ、芸術フェスティヴァルやヴァカンスリゾートでヨーロッパからは好印象で見られているような気がする。特にマグレブ3国(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)の中では最も安定していて、最も欧州寄りのような印象がある。2011年にはモロッコにも「アラブの春」の嵐が吹き荒れ、国王権限の縮小という成果も得ている。近代化と民主化には意欲的であるかのようなポジティヴな外見。しかし「モデル=西欧」ではないというアイデンティティー的抵抗もあり、イスラム・アラブ伝統とオクシデント的文化スタンダードは拮抗・反発し、衝突もある。インターネットは「モロッコの春」の牽引車となっただけでなく、あらゆる情報をモロッコの若い世代にもたらしたが、その大きな「情報」の中にポルノグラフィーとイスラム原理主義ジハード派のプロパガンダもある。2017年3月の数字で全体の失業率は15.6%、失業者数130万人、そして都市部の15〜24歳の若年層の失業率は40%を上回る。インターネットはそんな若者たちに溢れるほどの情報をもたらすが、ほとんどが欲しくても手に入らないものであり、フラストレーションを煽るばかりである。モロッコにおける性の問題はその大きなファクターでもある。
 モロッコは法律で婚外の性交渉が禁止されている。性関係は結婚した夫と妻の間でのみ許されていて、不倫姦通、婚前の性行為、売春、同性愛、妊娠中絶も刑罰の対象となっている。すなわち結婚前の男女というのは童貞・処女でなければならない。結婚時に新郎側は新婦に医学的純潔証明書を求めることができる。新郎の童貞は証明しようがないので、その慣例はない。女にのみ不利な純潔第一主義である。今日でも超保守的で厳格な結婚の風習のある階級や地方では、少女は何が何でも処女性を守らなければならないし、問題がある場合は非合法の処女膜再生手術を受けてその問題を隠すことになる。この法律では婚前に処女でないことだけでも犯罪であり、たとえそれが暴行によるものであっても、なのである。
 こういう法律がずっと改正されないまま今日まで続いているのだが、モロッコの性風俗は周りの世界同様に時代と共に変化してきている。旧時代的な法律に抑えられながらも、それに隠れて(あるいは隠れず堂々と)自由恋愛は存在するし、売春もある。現実にセックスはどこにでもあるようにモロッコにもある。本来ならば許されないところだが、隠れてやっている分には目をつぶろうという欺瞞的体制なのである。だが自由恋愛はどこでできるのか?ホテルは男女が宿泊する際夫婦であることを証明しなければならない!車の中、公園の茂み、森の中? そういうところには時々パトロールの警官が巡回するのだが、警官は法を盾に取って「不良男女性犯罪」を取り締まるのではなく、法律違反も金次第と無罪放免のバクシーシをたかるのである。だから、この種の自由恋愛は自由に使えるアパルトマンを持っていたり、バクシーシを払える金の余裕のある階級には何の障害もないのであるが、大多数の「持たざる階級」は大変なリスクを冒して自由恋愛をすることになる。実際にそういう性犯罪者(婚外関係を持った者だけでなく、同性愛者や売春婦なども)が摘発され収容される監獄というのがあるが、捕まるのは貧しい人々だけということになる。
 女性たちはこの環境で「性的悲惨(misère sexuelle)」を二重にも三重にも負わされている。家父長制の伝統とムスリムの倫理教条を守る家庭の中で、娘たちはひたすら結婚前の処女性を守るという教育を受け、女の一生を「処女」→「母(子供を産む器官)」という二つのピリオドに凝縮することを要求される。恋愛や性快楽は禁忌であった。しかし、教育は少女たちの考えを解放してきたし、高等教育(女子の大学進学率の急伸)や職場への女性進出は状況を変えてきている。本書の中の女性たちは、リセや大学や職場では女同士でタブーのない性の話をする。法的に、伝統文化的に、それが抑圧されているということに耐えながら、隠れてでも自由に恋愛ができ、性的に解放された人生に向かおうとする。例えば作者がアガディールで出会ったこのヌールと名乗る30代の中産階級の女性の証言。彼女は家で父親から伝統的で厳格なムスリム道徳を教え込まれたが、頭部をベールで包んだことはなく、学生の頃から世に憚りながら性的自由を選択している。粗く訳してみます。
大学の階段教室ではおよそ100人の女子学生の中でベールを被らないのは4人しかいなかった。私が嫌悪するのはこの子たちは宗教的な理由でベールを被っているのではなくて、流行だからそうしているだけだということ。これは多くのことの障害になるし、人間関係を難しくする。仕事場では、ベールを被っていないのは私一人。私は男たちに囲まれて働いている。一度だけそこにスカートをはいて行ったことがあるけど、真っ裸にされたような印象で堪えられなかった。それ以来二度としていない。以前はよく女友だち同士で誰かの家に集まってパーティーしていたけれど、いつからかそれは宗教的な会合に変わってしまい、みんなベールを被っていて、私が行くとどうして私がベールを被らないのかとひっきりなしに問いただした。まるで彼女たちの間で誰が一番信仰深いかを激烈に競っているかのような。私はそんなこと強制されるのはまっぴら。私の母はベールを被っているけど、私には気にならない。私だっていつかベールを被ることになるかもしれないけれど、それは私自身が望んだらそうなるという話。
処女を頑なに守っている子たちは、自分自身の奥底にある欲望を押し込んだままにして、圧迫している。私はベールを被った娘たちでヒーメンを保持するためにソドミーを許している子たちがいることを知っている。でも私は純潔を守るという口実の下にそんなことをするよりも自分の快楽を深く感じることの方が千倍も良いことだと考える。彼女たちは快楽ということすら考えたことがないし、この問題に真剣に取り組むことなどありえない。
時々私は不安に駆られることがある。私は処女ではないから一生結婚できないのではないかって。私はかなり保守的な家庭の出身だから怖いのよ。私が住んでいる地区は隣近所みんな顔見知りで、住人の噂話や悪口を吹聴することに余念がない。私は処女ではないから、私のことを前もって知らない男とは絶対に結婚できない。だから私は両親にはよそからの縁談はすべて拒否するからと言ってある。
私は近所の噂話を断ち切ってしまいたい。ある男と寝たという話は、必ずその男の複数の友だちに自慢話として広がってしまう。するとその悪友たちは「あの娘がこいつとやったって?だったら俺とでもやれるんじゃないか?」と言い出すのよ。この男たちには、私は彼を選んだのであって、他の男など欲しくないということが理解できないのよ。
(彼女は今、それまで自分が処女だったということを信じさせることができた男と交際しているとやっと告白してくれた。彼女はそのことが彼女の尊厳をどれほど傷つけているかということをよく理解していないようだった。彼女は私の驚きの視線に気づいたが、いとも自然にこう付け加えた)
私は何も知らない娘のように振る舞ったの。私はひどく醜い態で彼とセックスした。その後私について様々な噂が立って、私はとても怖くなったの。
(初めて彼女は泣きそうな顔になった)
私はお金を貯めて処女膜再生手術をするべきではないか、としょっちゅう自問している。私は両親の手前とても苦しんでいるの。私は両親をがっかりさせたくないの。それは私をひどく苦しめる。結婚できないのではないか、そして何よりも子供をもうけられないのではないか、ということが怖い。自分を問い直すの、私は本当に良い選択をしたのか、って。神の下に戻っていきたいと思うことだってあるのよ。あなたにはわかる?私にはベールを被ることを選ぶ女たちのことが理解できるわ。私はそうしないわよ、だって私はオプティミストだもの。だけどね、先のことはわからない。
もしもそれを知ったら、父親は心臓発作を起こしてしまう。母親には多分言うことができるかもしれないけれど、私は彼女を傷つけたくない。その上、性生活を保つというのは非常に複雑なこと。誰かの家だったり、アパルトマンを借りたり。ホテルでは不可能。とても不幸よ。本当に単純なことのはずなのに、そのちょっとしたことと生きることができない!私は不可能なことなんか望んでいるんじゃない、好きな人と好きなことをしたいだけなのよ!
(p38 - 41部分訳) 

 この証言は本書中、最もソフトなものかもしれない。女たちは一人ずつ分断されているわけではないし、声を出す人たちはネットワークを持つし、インターネットフォーラム、ラジオのフリーダイヤルイン、人権団体の無料相談などの広がりを持って、この不条理な「性の悲惨」と闘っている。本書の証言者は娼婦を含む市井の女性たちばかりではなく、女性医師、女性宗教(イスラム)学者、女権運動者たちにも及んでいて、モロッコにおけるこの性抑圧は、種々の性犯罪取締法+家父長制男性原理社会+伝統ムスリム倫理+性教育の不在+インターネット情報氾濫...といった複雑な複数要素の上に成り立っていることがわかってくる。「性の悲惨」の被害者は(女性の何倍も小さいものであるにせよ)男性も同じなのである。恋愛や快楽を知らず、何の知識もなく、ポルノグラフィーで得た情報だけで性の現場に放り出されるのだから。証言者の一人は端的な例として「モロッコの男たちは"前戯"というものを知らない」と発言している。You don't know what love is.
  重く暗い影はベールを被る女性たちの増加ではない。イスラム原理主義は「法よりも上」の戒律で人々を洗脳しようとする。だから、これにはイスラム者たちがちゃんとした答えを出さなければならない。原理主義だからダメなんだ、という答えではないものを。それは「イスラムの教えは女性の快楽を禁止するものか」という問いであり、「コーランに明言されている」という確かな証拠があるのか、ということである。その答えは本書のp109〜p122、その肯定論と否定論の紹介の後に載っている、ラバトのラビタ・アル=モハマディア・イスラム女性研究センターの理論学者アスマ・ラムラベットの証言を読んでいただきたい。ムスリムの女性たちは胸を撫で下ろすかもしれない。
 「モロッコにはモロッコの伝統があり、西欧モデルに追従する必要はない」、「性の解放は道徳の堕落と退廃を招く」ー こういうことは議論したらいい。幸いなことにモロッコはこのことで自由で活発な議論ができるのである。この点でレイラ・スリマニはこの国の性の問題は全く悲観的ではないと考えている。
 そして私が最もスリマニの本書に頭が下がるのは、自由に恋愛をする権利、性的に幸福になる権利は、普遍的に人間の最重要な権利である、という大前提でものを言っているということなのだ。自由な恋愛と性的オーガスムは絶対に権力や宗教に抑圧されてはならないものだ、ということ。上に訳出したヌールという女性の証言の結びでいみじくも言っていること「好きな人と好きなことをしたいだけ」、この権利は絶対に守られなければいけないのだ。レイラ、よくぞここまで。レイラ、You've got me on my knees

Leïla Slimani "Sexe et Mensonges"
Les Arènes刊 2017年9月6日  190ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:🎩🎩🎩🎩🎩 

(↓)2016年テレビのカナル・プリュスに造反したジャーナリストたちで立ち上げた新しいニュース・メディア BRUT.FR による、レイラ・スリマニ『セックスと嘘』の紹介(2017年9月25日アップロード)。


2017年9月18日月曜日

猪突猛進の雲を見たから


(写真:カストール爺 17 sep 2017 / 音楽:ゴンタール「いのしし」

 8月14日、3か月続けてきたケモセラピー(化学療法)、6回目(予定では最終回)のGemox 点滴。
 9月1日、約5か月ぶりの上半身CT検査。
 9月 6日、キュリー研究所(サン・クルー)で担当医と面談。肝臓と肺に転移している複数のノデュールのうち、肺部のそれは安定しているが、肝臓のものは前回検査よりも10%体積が膨張している、と。Gemox の効果に疑問。新療法への移行を検討する、と。
 9月11日、担当医から電話。 新療法(免疫療法)の可能性なし。10月からGemox を配合薬分量を変えて続行する、と。1ヶ月間の治療休止期間(8月から数えると2ヶ月間か)。
 9月13日、長時間のフライトに耐えられる体力があるうちに、と9月末日本への一時帰国を企図するが、グザヴィエ・ドラン映画『たかが世界の終わり』 (2016年)を観たのか観なかったのか、家族が動揺してしまう。たぶん中止になる。
 9月18日、市内マルセル・サンバのラボラトリーで血液検査。
 9月22日、市内ヴィクトール・ユゴー通りの主治医と面談。糖尿病(特にひどくなっている頻尿)の相談。
 9月23日、月に一度会っている「私設カウンセラー」(?)と2ヶ月ぶり(8月は向こうのヴァカンスで中止)のランデブー。ヴデット・ド・ポン・ヌフでセーヌ遊覧の予定。
 9月25日、キュリー研究所(サン・クルー)で担当医と面談。新療法を探しているが、それがどれほど「狭き門」かを説明してくれるのだろう。その他の何か代替え見つけてくれたのだろうか。
 (9月26日 - 10月12日:何も予定なし。日本に行くべきかどうか、まだ迷っている)
 10月13日、キュリー研究所(サン・クルー)MRI検査。
 10月16日、キュリー研究所(サン・クルー)で担当医と面談。MRIの結果の報告、その他について。1ヶ月半でさらに悪化していれば、違うことも考えてくれるのだろう。
 10月23日、何も変化なければ(+何も代替え療法が見つからなければ)、Gemox ケモセラピー再開(3ヶ月間の予定)。

 これが 私の8 - 9 - 10月(過去・現在・未来)。 Life goes on。

2017年9月10日日曜日

Oh 嫉妬 !

アメリー・ノトンブ『己が心臓を叩きたまへ』
Amélie Nothomb "Frappe-toi le coeur"

 の終わりのノトンブ。1992年から毎年8月末に小説を発表してきたベルギー女流作家、2017年新作は通算26作め。私はすべてを読んでいるわけでもないし、ファンでもない。しかしこのブログでも5つも記事を載せているし、好き嫌いを別として、私にしてはちゃんと「おつきあい」を続けている稀な作家である。
 このところ寓話的な作品(『青ヒゲ』2012年、『巻き毛のリケ』2016年)が続いていたノトンブの新作はなんと古典的心理小説です。最大のキーワードは嫉妬(jalousie)です。 それも100%女と女の嫉妬です。時代は1970年代から2000年代までの30数年。携帯電話もインターネットもなかった時代から始まりますが、それだけではなく女性の地位やライフスタイルも今とはかなり違っていました。そういう意味では男っていうのは何十年経ってもさほど変わっていないのです。ノトンブの小説では男はほとんど問題になりません。一様につまらない人種のように描かれます。一理も二理もありますが。
 舞台は地方都市。サイズとしては大学に有名な医学部があり、無理して中央に出なくても中央に遜色なく暮らせるパワーのある都市。しかし十分に小さく、町の噂はすぐに津々浦々まで 伝わるような。若くして町一番の美女の評判が立ち、言い寄る男たちを蹴散らして尊大に生きているマリーという娘がいます。しかし理想の男は簡単に現れます。オリヴィエは優男で代々の自営業(薬局)のあととりで、マリーに絶対的に尽くすタイプの男です。二人は恋に落ち、結ばれ、早くも第一子が誕生します。この長女ディアーヌが生まれた時にマリーは20歳、彼女はその誕生の喜びよりも「私の青春はこれで終わった」という憂いの方がずっと強かったのです。そして周囲の人々がその新生児の美しさを天使のようだと賞賛する時、マリーはその美において「私はこの子に勝てない」と直感します。この子の誕生によって私の人生は既に終わってしまったかのような。若い母の娘に対する嫉妬はスタートラインから始まっていたのです。
 その母の直感に呼応するようにディアーヌは見る見る美しくなり、おまけに並外れて頭が良いのです。この後者の要素が母親マリーには欠けていましたが、本人にはその自覚がありません。母親は幼いディアーヌに対して一貫して冷淡な態度で接しますが、その女神(作者は時折マリーを”déesse”と呼び換えます)のような尊大さは根っこのところでディアーヌを愛しているに違いない、というかすかな期待をディアーヌは長い間持ち続けます。マリーに二人目の子供ニコラ(男児)が生まれます。するとどうでしょう?マリーはこの男児を非常に可愛がって育てるのです。ディアーヌに対する態度は変わりません。ここでディアーヌはこの母親は女児に対する生理的嫌悪感があるのではないか、と想像します。しかし時が経ち、3人目の子供を宿すのですが、生まれてきたのは女児(名前はセリア)。この女児をマリーはニコラの時に数倍輪をかけて溺愛するのです。この時になってやっとディアーヌは自分だけが母親に嫌われていることを悟るのです。
 この結論に至るまで、聡明な子供のディアーヌは逡巡(ゴメンなさいね難しい言葉。シュンジュン)があり、子供なりにさまざまな推論を立てて、ありえない仮定(=母親が子供を愛さない)を避けてきた。この辺が優れた心理小説の筆です。う〜む。
 しかしこのこの結論が出るや、黒々とした理不尽な思いから救われるために、ディアーヌは代理の母親、代理の家庭を探します。その最初の避難所が母方の祖父母の家庭で、実家族と別居してそこで平穏を取り戻します。しかし長続きせず、祖父母が事故死してしまいます。次の避難所がリセの親友のエリザベートです。心の打ち明けられる友だちというものを持ったことがなかったディアーヌの大転機ですが、この歳頃の親友関係にありがちな擬似同性愛的で何かあれば嫉妬が顔を出してしまいます。ここも一流の心理小説。う〜む。祖父母の死で実家に帰らなければならなかったところを、エリザベートの家庭がディアーヌの引き取りを申し出て、その後も実母との軋轢を避けて平穏に暮らせることになります。
 超秀才美少女のディアーヌは、エリザベートと異なり、歳頃の言い寄ってくる男たちに何の興味もなく、あらゆるノトンブの小説の男たちのように、この小説でも男たちは魅力に乏しいのです。そして大学の医学部(心臓医学科)に入学したディアーヌは、つまらない男社会とぶつかります。学会や教授会における圧倒的男性優位です。それと果敢に闘いながら、男教授たちよりも数倍明晰な講義をするオリヴィアという女性講師と出会います。自分の倍ほどの歳、つまり実母マリーと同じほどの歳の聡明な女性に、ディアーヌは強烈に惹かれていき、親密な師妹関係ができていきます。小説の後半はもっぱらこの関係に割かれます。なぜならこれがディアーヌにとって最重要な「代理の母探し」となるからです。
 二人の関係は学術的な興味も含めて、刺激的に両者を向上させていきます。多分ディアーヌはオリヴィアよりも頭脳において勝るということを知っていたはず。いつしか教え子が教師をリードする関係になり、ディアーヌはオリヴィアに男共に負けないために教授資格を取るよう仕向け、2年間の資格取得準備(論文作成)を365日体制で手伝うのです。寝食を忘れるほどディアーヌはオリヴィアに尽くします。そしてオリヴィアの家庭の中に入っていくのです。
 オリヴィアには夫スタニスラス(数学者。フィールズ賞受賞者!)と娘のマリエルがいます。ノトンブの小説ですから、夫は数学オタクのような変わり者で、男の魅力が著しく欠落しています。問題は娘です。オリヴィアの大学での研究と講義準備のために時間がないという言い訳で、マリエルの学校の送り迎えや食事準備などは全部スタニスラスがしています。母の愛の乏しい子。さらに、大数学者と俊才医学部講師の間に生まれた子なのに、学校の成績が驚くほど悪いのです。この点でもうオリヴィアはさじを投げている感じなのです。母親に愛されていない娘 ー マリエルにディアーヌは自分の幼い頃を見る思いがするのです。そこで論文作成でヘトヘトになりながらも、時間を作ってディアーヌはマリエルの遊び相手になり勉強も教えてやります。マリエルはディアーヌを慕うようになります。つまりここからはディアーヌ自身が代理の母親になるんです。この小説の構造の巧みさ、おわかりかな、お立会い?
 ある日突然大学にディアーヌの母マリーがやってきます。私生児を出産した末娘のセリアが赤ん坊を残して失踪したので、一緒に探して欲しいと。セリアの置き手紙には、ママンが私をダメにしたように、私もシュザンヌ(赤ん坊の名)を溺愛してダメにしてしまいそうなので、ママンに託す、と。20歳になったセリアは母の役を放棄することで新しい出発をしようというわけです。ディアーヌはセリアの決断を祝福し、涙で嘆願するマリーを哀れみます。なぜならマリーには母親としてディアーヌにしたことの罪深さ、セリアにしたことの罪深さについての自覚が全くないからなのです。
 学業、病院のインターン、オリヴィアの論文手伝い、マリエルの世話、これらのことすべてをこなし、ガリガリに痩せてしまったディアーヌ。その甲斐あって、オリヴィアは見事教授資格を取得するのですが、その途端にオリヴィアはかつて自分が軽蔑していた男の教授連と同じように、社交サロンに出没する虚飾に満ちた俗物に変わっていくのです...。

 小説題となった「自らの心臓を叩きなさい」という言葉はアルフレッド・ド・ミュッセの詩の断片です。
 Frappe-toi le coeur, c'est là qu'est le génie.
   自分の心臓を叩きなさい、そこにこそ天才は宿っている
こんな訳でいいかな?問題は二つの言葉、"le coeur"(心臓、心)と"le génie"(守護神、天才、真髄...)で、人によっては「心の扉を叩きなさい、そこに真髄はある」みたいな私の訳とはちょっと違ったニュアンスで考えるかもしれません。それはそれ。しかし問題はミュッセの時代19世紀でも、人間が思考する器官は心臓ではなく頭脳である、ということはもうずっと前から分かっていたということです。人間は心ではなく頭で考える。心は臓器としては喜怒哀楽情緒や思考とは何の関係もない。ところが古今東西、人間は心が最も大切な臓器で、人間らしさのすべての源がそこにあると思ってきたのです。科学的には誤りでも、人間はずっとハートを人間の中心としているのです。小説の中でこの詩句は、オリヴィアがディアーヌにどうして心臓医学を勉強する気になったのか、と質問し、その答えとして引用されます。
「それには2回のきっかけがありました。11歳の時、私は将来医学を学ぶという決心をしました。それはひとりの素晴らしい医者と出会ったからです。なぜ心臓医学を選んだかについては、前もって言っておきますが、私の動機はあなたには愚かしいことに思えるはずですよ」
「言ってごらんなさい」
「アルフレッド・ミュッセのある詩の断片に感銘を受けたのです : Frappe-toi le coeur, c'est là qu'est le génie.」 
これを聞いて、オリヴィアはあっけに取られます。心臓の神秘をこれほどまでにズバリと言い当てた言葉はあろうか。
 これには後日談があって、ディアーヌの身を粉にしての努力援助の甲斐あって、オリヴィアが見事教授資格を取得し、その記念パーティーを開くのです。そしてオリヴィアは壇上に立ってスピーチを始めます。そこでオリヴィアはなんと「私が心臓医学を学ぼうと思ったきっかけは、アルフレッド・ド・ミュッセの詩に出会ったことです...」とディアーヌのそれを100%パクったのです! サイテーっしょ? どサイテーっしょ? ー 私はこのサイテーの箇所を読んだ時、この小説はアメリー・ノトンブ最高の作品であると確信したのです。

Amélie Nothomb "Frappe-toi le coeur"
Albin Michel刊 2017年8月26日 170ページ 16,90ユーロ 

カストール爺の採点:⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️


(↓)国営テレビFRANCE 5文学番組「ラ・グランド・リブレリー」(2017年9月7日)で最新作 "FRAPPE-TOI LE COEUR"について語るアメリー・ノトンブ。



 

2017年9月3日日曜日

Run away, turn away, run away, turn away

Bronski Beat "Smalltown boy"(1984)
ブロンスキー・ビート「スモールタウン・ボーイ」(1984年)

 
 2017年カンヌ映画祭審査員グランプリの映画『120 BPM (120 battements par minute)』(ロバン・カンピーヨ監督)に関する原稿を雑誌ラティーナに送ったので、問題なければ9月20日発売号に載りますから読んでみてください。この映画フランスでは8月23日封切で、1週で23万人の観客を動員しました。現在ボックスオフィス上で第5位ですけど、こういう社会派問題作では異例のヒットと言えましょう。
 その映画のサントラの中で、最も効果的で印象的に使われているのが、このブロンスキー・ビートの「スモールタウン・ボーイ」です。それはあのエイズ禍時代の雰囲気を空気ごと再現させるという効果だけでなく、ゲイの少年たちがずっと持っていた苦悩をこれほどまでにストレートに表現した最初の世界的ヒットだったという歴史的事実の重さがものを言っているのだと思います。ゲイ、ホモ、おかま、同性愛はそれまで普通に(社会的に)虐められる対象だっただけではありません。1981年になってWHO(世界保健機構)はやっとのこと同性愛を「精神病」の項目から削除したのです。それまで同性愛はオフィシャルに病気だったのです。フランスでは同じ年1981年に左翼の大統領フランソワ・ミッテランが当選し、死刑を廃止したことで有名な法務大臣ロベール・バダンテールが、それまで刑法上で軽犯罪として罰則の対象となっていた同性愛の条項をやっとのこと削除したのです。いいですか?それまで同性愛は犯罪だったのですよ! 81年、同性愛者たちはやっと解放され、以来ゲイ・カルチャーは日陰からオーヴァーグラウンドに出て、大手を振ってその文化を露出させていったのです。その虹色文化は音楽・演劇・絵画・映画・デザインその他あらゆる分野で急激に隆盛し、短い間にその頂点に達するのです。その頂点の時期に、申し合わせたようにエイズ禍が突然現れたのです。
 「エイズは同性愛という自然の摂理に逆らう現象への天罰である」とキリスト教原理主義者などは冷笑しました。多くの人たちは「これは同性愛者間だけの災禍だろう」と無関心を決め込みました。どんなに多くの死者が出ようが、これは「普通人」には関係がないと思っていたのです。「沈黙=死」とアクトアップはスローガンにして訴えました。市民の無関心はエイズ死を大きく助長していたのです。 
100%ゲイのトリオ、ブロンスキー・ビート(右写真)の「スモールタウン・ボーイ」はエイズ禍直前のゲイ・コミュニティーの最大の希望の歌でした。イギリスの保守的で閉鎖的な小さな町で生まれ育ったゲイの少年が、それを理由に虐められ、両親に理解されず、小さな町を出て都会に移住することで解放を見出していく歌で、状況説明的なヴィデオクリップも勇気ある作品でした。「スモールタウン・ボーイ」はそのマイノリティー的社会性にもかかわらず。全英チャート最高位3位の大ヒットになりました。それから超絶ファルセットヴォイスのヴォーカリスト、ジミー・ソマーヴィルはゲイ・コミュニティーのカリスマ的アーチストになりました。映画『120 BPM』 の監督ロバン・カンピーヨのインタヴューによると、ジミー・ソマーヴィルは1989年のアクトアップ・パリ発足時の重要な資金援助者だったそうです。その縁でロバン・カンピーヨはジミーにこの曲の使用許諾とリミックス許可をお願いしたのですが、快諾してくれたそうです。映画サントラはロバン・カンピーヨの映画の音楽をずっと担当してきたアルノー・ルボティニによる2017年リミックスのヴァージョンを採用していますが、これが素晴らしい。

(↓)ブロンスキー・ビート「スモールタウン・ボーイ」1984年ヴァージョンのクリップ。


 (↓)ロバン・カンピーヨ映画『120 BPM』サントラのアルノー・ルボティニ・リミックスヴァージョン。2017年10月13日アップのオフィシャルクリップ。


(↓)ロバン・カンピーヨ映画『120 BPM』 の予告編。