2023年6月30日金曜日

(たぶん)あなたの知らないヴェロニク・サンソン

Revue "SCHNOCK" No47
Véronique Sanson
季刊ムック『シュノック』第47号
ヴェロニク・サンソン
(2023年6月7日刊)


「27歳から87歳までの老人雑誌」を標榜する季刊ムック『シュノック』(2011年創刊、発行部数7000)は、毎回アーチスト/芸能人/著名人を俎上にあげて、芸能誌とは異なる老人的な斜に構えたエディトリアルであれこれ様々な角度から照射していく、図版多数のかなり厚め(今号も180ページ)のカラー印刷で、お値段16.50ユーロの高級雑誌。執筆陣はリベラシオン紙、テクニカート誌、パリマッチ誌、フランステレヴィジオン、ARTEなどでも活動しているジャーナリストや文筆家など。今号のヴェロ特集では、既に数冊あるヴェロの伝記本の著者たちや芸能/音楽ジャーナリストたちよりも、はるかに多くのヴェロ情報を持っているであろう、ヴェロファンジン"Harmonies"(紙版は1979年から1984年、その後インターネットサイトSNSで復活)の主宰者であり、ヴェロのアメリカ滞在時代(1973 - 1980)を特化して書籍化した”Véronique Sanson - Les années américaines"(Grasset社刊 2015年)の著者でもあるローラン・カリュ(Laurent Calut)がインタヴュー/執筆/監修で関わっているので、内容的には信頼できるはず。
 さて、ヴェロニク・サンソン(1949 - )については今さら紹介する必要はないと思うが、1972年アルバム"Amoureuse"で世界に衝撃を与えた(フランス初の本格的)女性シンガーソングライターであり、今日まで16枚のスタジオアルバムを発表してすべてトップクラスのセールスを記録している。私を含め多くのファンにとって、その音楽性と創造性の高さの頂点は1972年の2枚のアルバム、すなわち"Amoureuse"と”De l'autre côté de mon rêve"にあり、それをプロデュースした(当時公私とものパートナーだった)ミッシェル・ベルジェ(1947 - 1992)との共同作業が生んだ2枚の傑作アルバムを超えるものはない。で、音楽的にも”人生ドラマ”的にも、そのピークは72年/73年なのであり、ベルジェ/サンソンの愛情の結晶のような2枚の傑作アルバムの制作中に米ロックのスーパースター、スティーヴン・スティルス(1945 - ) との電撃的恋愛、録音スタジオから「タバコを買いに行ってくるわ」と出たきり、二度とベルジェの前に姿を現すことなくアメリカに行ってしまい(これは尾鰭のついた伝説)ロックヒーローの妻に...。そこから後の話がまた伝説化するのだが、大失恋に打ちひしがれたベルジェと、沖からの呼び声に抗じきれずにベルジェとフランスを去ったサンソンの世にも稀な”相思相愛”関係は永遠に消えることなく、サンソンに続いてWEAからシンガーソングライターとしてアルバムを発表するようになったベルジェのその多くの歌は、名指されれないサンソンへの個人的メッセージ(message personnel)であり、サンソンはアメリカにいてそのベルジェの歌メッセージにひとつひとつ(名指されない)アンサーソングを書いて発表していた、と。ベルジェが”Seras-tu là?(来てくれるかな?)"と歌って問えば、サンソンが"Je serai là(いいとも)”と歌って答える、という具合に。この"静御前と源義経"ストーリーはとりわけ1992年のベルジェの急死の後からサンソンが展開し始めるのだが、20年間妻として二児の母として音楽パートナーとして寄り添って突然未亡人となったフランス・ギャル(1947 - 2018)にしてみれば、たまったもんじゃない話であった。
 サンソンの伝記および評伝の著作と音楽誌や芸能誌の特集などでは、この「サンソン/スティルス」伝説と「サンソン/ベルジェ」伝説のことばかりがページ数を取ることになる。しかし『シュロック』サンソン特集はこの伝説の信憑性にメスを入れる。あたかも青天の霹靂のような電撃恋愛のせいで後先考えずにスティルスに靡かれるままベルジェを捨てアメリカに行ってしまった(そしてそれを後悔した)激情的におろかな女と描かれてきたこのストーリーを、50年後(正確には51年後)もう一度時間軸的に検証し直す、という”La véritable histoire du départ en Amérique(サンソン渡米の真相)"と題された6ページ記事を、前述のローラン・カリュが入魂の執筆。その後はフランスで大スターと化していくサンソンとベルジェであったが、1972年当時はサンソンはファーストアルバムで(ちょっと)注目された駆け出しの女性シンガーソングライター、ベルジェは一般的には無名の音楽プロデューサー、当時の芸能マスコミが追いかけているはずがなかった。その手の資料が希薄ななか、ヴェロ本人、姉のヴィオレーヌ、渡米の飛行機代を貸したとされる歌手のニコレッタ、当時のレコード会社WEAの関係者などの50年前の曖昧な記憶の証言をもとにサンソンとスティルスの出会い(1972年3月、WEAフランスの社長室)から、サンソンの実際の渡米(これが特定できずにいたが、ようやく1973年2月とほぼ断定)まで1年近い月日があったということ。この間にサンソンはセカンドアルバム"De l'autre côté de mon rêve"をベルジェのプロデュースで録音、WEAのスタッフたちはこのセッションにスティルスのギター参加をと画策、サンソンとベルジェの間には別れる/別れないの躊躇の行ったり来たりが....。姉ヴィオレーヌは1972年12月に結婚していて、その結婚式にはヴェロニクとミッシェルがカップルとして列席している。だからサンソンとベルジェは、スティルスの登場(しかも強引で執拗なプロポーズの連続)で瞬く間に破局したわけではなく、その結論を出すには何ヶ月もの月日を費やしたのだ、と。特記すべきは、当時のWEAのスタッフたちはこぞってスティルスがサンソンを射止めることに協力的であり、ミッシェル・ベルジェを「まあ、まあ、まあ、まあ...」と引き止める役を演じていたようなのだ。”企業として”なんだろうか。ショービズ界の感覚からすれば、(弊社の)駆け出しの女性アーチストが世界的スーパーロックスターとくっつけば、世界的名声と売上が、とフツーに考えたんでしょうね。いやだいやだ。スティルスとサンソンを引き合わせるという’コトの発端’をつくった張本人が当時のWEAの社長ベルナール・ド・ボッソン(1935 - )であるが、この『シュノック』では特集の最後に16ページに渡るインタヴュー記事があり(後で触れる)、その社長室でスティルスにサンソンとの結婚に反対して、スティルスに力ずくで猿ぐつわをかまされるという目にあっている。

(→)これが1972年のセカンドアルバム"De l'autre côté de mon rêve"のジャケであるが、サンソン自ら評するに「おぞましい黄色のサボと死人のような顔」の写真は1972年夏のツアー(ジュリアン・クレール、ピエール・ヴァシリウ、イヴァン・ドータンなどの一座)の途中で、南仏ラングドック地方のアグドにあるピエール・ヴァシリウの家で撮影されたもの。その「死人のような顔」は前夜のヴァシリウの家での地獄のような乱痴気パーティーのせいだ、と。それに続くエピソードがヴェロ自身の口から;

でもその日次のツアー目的地マノスクに向けて出発しなければならなかった。ピエールは愛車ポルシェを持っていて、ひとりだけで車で行くのいやだったから私に同乗してと頼んだの。みんな疲労困憊していて、二日酔いの顔してたから、私はピエールに言ったの「(マノスクの)劇場が燃えちゃったらどんなにいいだろうね!そうよ、みんなで劇場が火事になるよう祈ろうよ。」そしてマノスクに着いたら... 劇場が火事に遭ってたの!コンサートは中止だって。私たちは、まさか、と信じられなかった。幸いにして劇場は炎で焼け落ちたわけではなく、ボヤで済んだんだけど。みんな仰天したわよ。それ以来、私は二度と’劇場火事呪い”を試そうとはしなくなったんだけど、でもね、そうなってほしいと思ったことは何度もあるわよ。
(『シュノック』No.47 p29)
(←サンソン、ヴァシリウ、ジュリアン・クレール、1972年夏)(↑)このサンソン自身の『シュノック』インタヴューも他の芸能誌や音楽誌では見られない珍情報にあふれているし、他の証言者たち(姉ヴィオレーヌ・サンソン、ヴィオレーヌとヴェロニクと1969年にトリオ「ロッシュ・マルタン」を組んでいたフランソワ・ベルナイム、1981年にヴェロニクをスティルスから引き離しフランスに連れ帰った当時の恋人/ギタリストのベルナール・スウェル、息子クリストファー・スティルス、既出記事の再録だが母親の故コレット・サンソン、そしてヴェロをメジャーデビューさせた当時のWEA社長ベルナール・ド・ボッソン)もみな一風変わって非常に面白い。クリストファー・スティルスが道で人に呼び止められて「私、あなたのお母さんで大きくなったのよ」と言われ、それに答えて「僕もですよ」と返すあたり、『シュロック』ならではと思うよ。

 さてこの『シュノック』サンソン特集で、最も興味深くかつ衝撃的だったのが、特集最後部に掲載されたベルナール・ド・ボッソンの16ページに渡るロングインタヴューだった。(→写真1973年ベルナール・ド・ボッソンとスティーヴン・スティルス) 元ジャズ・ピアニスト、典型的なセルフメイドマンで、自己流でポリドール、バークレイのA&Rを経て、1969年パリで出会ったアーメット・アーティガンに見初められ(この時同時にスティーヴン・スティルスとも邂逅し親友になっていく)、1971年アーティガン指名でWEAフランスの社長に。
 その71年夏、社長室にはアメリカ本社から二人の経理担当者が来て「繰越税金」の処理について頭の痛い話を長々と。そこへジャン=ピエール・オルフィノ(制作ディレクター)から電話「ベルナール、緊急だからすぐに来てくれ」。

「ジェントルメン、申し訳ないが、レコード会社のボスとしての仕事が入ってしまった。続きは今夜夕食の時に」と私は退席し、ワグラム大通りの見たこともないような汚いスタジオに。中庭の奥の奥に、まるで庭の奥の小屋(訳注;田舎家の便所)のようなところがあり、私は中に入った。真っ暗だ。私はキャビンの中にたどり着いた。真っ暗だがVUメーターだけがほのかな灯りを放っていて、私はシルエットでミッシェル(ベルジェ、WEAの新任制作ディレクター)とオルフィノがいるのがわかった。そこには鏡があるのがわかったがほかは何も見えなかった。(ベルナール・ボッソンは感情の昂りのため、しばし言葉を詰まらせてしまった)... すまないね。これを話すといつもこうなってしまうんだ。(彼は大きく深呼吸して、目を輝かせた)... 私は何も見えなかったが、ピアノの音が聞こえてきた、続いて歌声が、その瞬間、私は涙で崩れてしまったんだ。私は自分の名前を思い出せないほど衝撃で打ち砕かれてしまった。それは女の声だった、それは確かだ、だがその女が大きいのか小さいのか痩せているのか太っているのか年寄りなのか若いのか美しいのか醜いのか、私には何もわからなかった。この声を聞いただけで、私は涙が止まらなくなってしまったんだ。私は人生でこれと同じエモーションを一度だけ経験したことがあった、それはそれより10年前、パレ・デ・スポールでレイ・チャールズを見た時だった。彼がひとりピアノに向かい”Come rain or come shine"を歌い始めた瞬間、崇高さの極み、ブン、ナイフのひと突きさ。私はその時と同じ体感を覚えたんだ、ヴェロが「アムールーズ」を歌うのを初めて聞いたとき!私はむしり取られる思いがした。私の人生すべてにおいて、私はこうやってエモーションに正直に従ってやってきたんだ。私は二人の野郎の手を握りしめ、「おまえら、この女と契約しなかったら、俺はおまえらを殺すぞ!」と言ったんだ。ヴェロニク・サンソンの件はこうやって始まったんだ。そして私は彼女に話しかけることも顔を見せることもせずに立ち去った。彼女と対面するのはその1ヶ月半のことだった....。(p106)

読んでわかるように良い意味で昔かたぎのレコード会社社長気質、つまり惚れたアーチストとの音楽冒険に”賭ける”タイプ。21世紀以降もうこんな社長いないですよ。ボッソンのインタヴューではサンソンだけでなく、ミッシェル・ベルジェ、フランス・ギャル、ジャン=ジャック・ゴールドマンなどのエピソードも登場する。しかしこの特集なので、当然サンソンとスティルスの話がメインになる。69年以来の旧知であるスティーヴン・スティルスは、72年3月ボッソンの社長室で初めて(発売前の)サンソンのファーストアルバムを聴き、
「こんなものこれまで聞いたことないよ!世界でこんなふうに歌える女、どこにもいないさ!」と言ったので私は言い返して「おいおい、興奮するなよ、おおげさだよ、世界にはジュディー・コリンズもジョニ・ミッチェルもいるじゃないか」と。そしたら「俺はそのふたりとは暮らしたことがあるんだ!」...(p108)

笑っちゃう話である。72年3月27日、スティルスのバンド、マナサスのパリ・オランピアでのコンサートの翌日、ボッソン社長室でスティルスとヴェロニクは火花散る電撃の初対面、スティルスはテックス・アヴェリーアニメの目玉をハート型にして吠えるオオカミのようだったとボッソンは表現している。そこからの狂気のラヴストーリーはもう詳説しなくていいと思うが、ボッソンはそれを近距離から見ていてむしろ後押しをしてような印象があるが、結婚には強硬に反対していた。親友同士だったスティルスとボッソンがこの結婚の件で諍いになり、前述したように社長室でボッソンのネクタイで暴力的にボッソンに猿ぐつわをかませるという結果になっている。スティルスは身内で唯一結婚に異を唱えたボッソンとその後絶交状態になる。1987年3月、ボッソンはWEAフランス社長を解任され、その最後の出張でニューヨークに飛び、ミュージカル『レ・ミゼラブル』(作曲演出クロード=ミッシェル・シェーンベルグ)のブロードウェイ初演に立ち会う。ショーが終わりホテルに帰ると、「Please call back Mr Stephen Stills」のメッセージ。ボッソンはロサンゼルスにいるスティルスに電話する。1973年以来初めてふたりが口を開く。
「ベルナール、あんたが社長職を去ると聞いたよ。俺がずっとあんたのことを思っていたということをあんたに知って欲しかったんだ。あんたにずっと前から言いたかったことがあるんだけど聞いてくれるかい? You have been the only one to have the guts to tell us that it was a real mistake to get married together. そのことで俺はあんたに感謝したかったんだ...」(p111)

いい話じゃないですかぁ...。このボッソンの16ページを読めただけで、この『シュノック』サンソン特集はたいへんな価値を獲得したのでありました。

(←)2018年7月、ラ・ロッシェルの「フランコフォリー」フェスティヴァル(ヴェロニク・サンソン+スティーヴン・スティルス+クリストファー・スティルスのおそらく最後の共演ステージが実現)の楽屋でのスティルス、サンソンとベルナール・ド・ボッソン。(写真ローラン・カリュ)

(↓)その時の演奏シーンが少しだけこのYouTube動画に(2分43秒めから3分07秒まで


2023年6月19日月曜日

(ストーン)返事はいらない

Fred Vargas "Sur La Dalle"
フレッド・ヴァルガス『天井岩の上』


の500ページ超の長編推理小説を、私は6月5日から14日まで9泊10日のアンブロワーズ・パレ病院入院中に読み通した。この読書体験はたくさんの管に繋がれた病床環境と医療スタッフたちの顔々と共に記憶されることになろう。フレッド・ヴァルガスの大人気アダムスベルグ警視シリーズの第10作目であり、この5月17日の発売以来、書店ベストセラー第一位を独走中である。同警視シリーズ前作の『毒糸蜘蛛が出るとき(Quand sort la recluse)』(2017年、ちなみに爺ブログ紹介記事によると、私はこの本を今回と同じように治療入院中に読んでいる!)ではアダムスベルグとその一課が毒蜘蛛連続殺人事件を追ってオクシタニア/ラングドック地方に赴くのだが、新作は神秘の地ブルターニュ地方イル・エ・ヴィレーヌ県(県番号35、県都レンヌ)が舞台である。昨年秋わが娘がレンヌに移住したので、このブルターニュの一角はとても親しみを感じるようになっている。(↑)本の表紙写真を見ていただきたい。ブルターニュ一帯で多く見られるドルメン(数千年前の巨石墓)である。
西ヨーロッパに見られる支石墓は、ブルトン語でdolmen(ドルメン)という。フランス・ブルターニュ地方に多く見られたことから、当地のブルトン語で「石の机」を意味するdol menを語源としている。(日本語版ウィキペディア「支石墓」項)

この岩の支え脚の上に乗った「机」の部分にあたる平たい岩が本小説の題である”la dalle"である。私はとりあえず「天井岩」と訳したが、こんな日本語はない。この小説の中で、われらがアダムスベルグ警視は、推理に行き詰まるたびに、このドルメンの「天井岩」の上に横たわり、瞑想にふけると、おぼろげなヒントがひとつ、またひとつと脳内に湧き上がってくる、というストーンエイジの叡智との交感体験のような... 。

 さて舞台はイル・エ・ヴィレーヌ県の県都レンヌとモン・サン・ミッシェル観光の起点の海浜城壁都市サン・マロのほぼ中間にあるコンブールという文豪シャトーブリアンの城で有名な観光地(実在します)、そしてそこから9キロ離れた人口数百人の村ルーヴィエック(Louviec、架空の村)であり、後者の村で起きた連続殺人事件の捜査でアダムスベルグ一課(の一部、IT検索の超人メルカデ、怪腕武闘女性刑事ルタンクールなど)がパリから送られてきたという次第。最重要ファクターのひとつがフランス文学史上の大偉人にしてフランス・ロマン主義の先駆者フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(1768 - 1848 写真→)である。私も1970年代に仏文科生だったので、『アタラ』『ルネ』という代表作の名は知っているが一度も読んだことがない。それはそれ。登場人物にジョスラン・ド・シャトーブリアンという名の文豪の末裔がいて、観光名所となっているコンブール城には住んでおらず、ルーヴィエックに住居を持つ”一般市民”であるが、その顔立ち容姿がかの文豪と瓜二つなのである。ルーヴィエックの町長はこれに注目し、収入面で恵まれなたったジョスランに19世紀風コスチュームを着させ髪型顔のつくりを文豪に似せた化粧をほどこし、町の由緒ある旅籠屋レストラン「オーベルジュ・デ・ドゥー・ゼキュ(Auberge des Deux Ecus)」にホストとして雇い、レストランに訪れる観光客たちに接待させ、文学談義をしたり一緒に写真撮ったりのサービスをさせるのである。シャトーブリアンのそっくりさんがいるレストランという噂は広まり、この町の観光収入に大きく貢献することにあり、ジョスランは町の”公務員”として十分な収入を得るようになり、このシャトーブリアン演技も板につき、町の名士のレベルまで昇格する。
 一方シャトーブリアンの居城だったコンブール城には幽霊伝説があり、文豪の前に18世紀にこの城に住んでいたコエトクエン伯爵なる人物が戦場で片足を失い、棒状の木製義足をはめていて、"Boiteux"(ボワトゥー = ”びっこ”)領主と呼ばれていたが、その幽霊が今もコンブール城に徘徊し、棒義足が石床を打つコツコツという音が聞こえるというのである。この噂はしばらく(14年間)途絶えていたが、最近になってまた聞こえ始めた、と。
 そうでなくてもさまざまな伝説や迷信がごまんとある神秘の地ブルターニュの深部で、こういう幽霊伝説に影響される人々は多い。この小説の中でもうひとつまことしやかに流布されている迷信として登場するのが「影踏み」である。人の影の頭部や心臓部を踏みつけにして、その人間を呪う”影踏み族”のような人種があり、またその被害者たちでさまざまな障がいを発症させた(と思っている)"影踏まれ族”の人々がセクト的に団結して、”影踏み族”撲滅のために戦う、という...。影踏みによる呪いって、世界中にあって、たぶん日本にもあると思う。それはそれ。
 ルーヴィエックのかの旅籠屋レストランで、常連客で口の悪い酔漢として嫌われているガエルという男が、町中のうわさのコンブール城の幽霊「ボワトゥー」の正体はおまえだろう、とジョスラン・ド・シャトーブリアンに喰ってかかり、罵詈雑言を浴びせる。ジョスランはそれを否定し、この言いがかりに取り合わない。このやりとりに隣のテーブルにたまたま居合わせたのがパリから遊びに来ていたアダムスベルグ警視とレンヌ県警の警視のマチュー。そして翌日パリに戻ったアダムスベルグは、このガエルがナイフふた突きで惨殺されたことを知る。これが「ルーヴィエック連続殺人事件」の始まり。
 事件現場にかけつけた医師が、また息のあったガエルの最後の言葉として聞き取ったのが、ジョスランが犯人であることをほのめかすような不明瞭な切れ切れの二言。使用された凶器はガイシャの体に刺されたまま残っていて、ジョスランが愛用している(レンヌの刀剣商で売っている)フェラン印のナイフ。ジョスランと同じ左利きらしい左側からの突き(実は左利きではないことがアダムスベルグが見抜く)。ジョスランには犯行推定時刻前後のアリバイがない...。などなどジョスランに嫌疑がかかるべき材料が次々に出てきて、もはやジョスラン逮捕でキマリ、と思われたが、土地の警視マチューもパリ警視アダムスベルグも、あまりにも簡単に条件が揃ったことに大きな疑問を抱き、厳密な法医鑑定でホシが左利きでないと知るや、これはジョスランを殺人犯として落とし入れる陰謀と断定、ジョスラン擁護に回る。マチューの直属の上司であるイル・エ・ヴィレーヌ県警長官は出世主義の俗物で、県警の手柄を即席にアピールするべくジョスラン逮捕を強要してくる。しかしこの事件は”国”も注視していて、内務省は国宝的文化遺産たる文豪シャトーブリアンに汚名を着せることはできるだけ避けたいという”文化保守”的立場に立ち、ジョスラン無実の可能性に賭けるべく、内務省命令としてパリ警視アダムスベルグを現地に派遣して事件の解決に充てる、と。
 ”国”が後ろ盾になって、ジョスラン・ド・シャトーブリアン無実を前提に捜査を、というのは公正さにおいておおいに問題あるのでは?と思うが、上からの干渉はこの小説でもかなりやっかいなものである。国の威信で”アダムスベルグ投入”を敢行したものの、それに真っ向から挑戦するように「ルーヴィエック連続殺人事件」は第二、第三、第四と犠牲者を出していく。同じフェラン印のナイフで左側から突き刺され、犠牲者の断末魔のセリフは犯人ジョスランを名指しているように聞こえる...。内務省のバックアップのおかげで、ヘリコプター10機、機動警官数百人を動員する大捜査を展開するも、犯人逮捕はならない。そりゃあ内務省も怒るわね。
さらに、このナイフ殺人と全く同じやり方で殺す別の容疑者が現れる。そしてこの土地で最も凶悪なギャング団が事件に絡んでくる。子供の頃からこの地方で(悪ガキというレベルを遥かに超える)極悪な犯罪を繰り返してきた、暴力と詐欺と地下経済の巨魁とその殺人エキスパートの子分たち。怪女レタンクールの超人的な腕力武術でその子分のひとりを逮捕するが、巨魁はその子分の解放を要求し、さもなくばアダムスベルグ本人を殺害すると脅迫。度重なるスナイパー攻撃にアダムスベルグ自身も危機一髪...。
 500ページの大著なので、小説はいろいろな方向にストーリーが拡散していくし、前作の”毒蜘蛛”の時のように生物考古学者でもあるフレッド・ヴァルガスの博識は、ノミ、ハリネズミ、犬の生態などのエピソードも専門クロート談義である。重要登場人物のひとりマエルは、奇形障碍(せむし)で生まれ、それによって幼少時から筆舌尽くしがたい心ないハラスメントを受けてきたが、教育者や医師たちはそれから解放されるには背中のコブを手術で取り除くしかないとマエルを説得する。だがせむしのコブとは、母胎内で双生児を形成するに至らなかったもうひとりの自分の残りである、とマエルは信じていて、このコブ摘出手術によって自分の双子の弟が失われたと思っている。手術によって外見は”ノーマル”化したが、過去に受けたハラスメントの記憶は決して消えない。そして手術によって”最愛の弟”を殺された恨みは甚大なものである。有能な会計士としてさまざまな企業の裏帳簿も知り尽くしているマエルは、自分を虐め尽くし、自分の分身を殺した社会への復讐を考えていた....。
 
 シャトーブリアンの時代のように中世と近世がいたるところに残っているブルターニュ。そして数年年の時を超えて立ち続ける巨石墓も。神秘の国ブルターニュのエッセンスはこの500ページの中にふんだんに盛り込まれている。アダムスベルグの捜査スタッフのミーティング場所兼食事どころのルーヴィエック随一の美食旅籠レストラン「オーベルジュ・デ・ドゥー・ゼキュ」のオーナー兼シェフのジョアンの味のあるキャラクター(ラモー/リュリー歌曲を朗々と歌うバリトン歌手でもある)と、その料理の数々も素晴らしい。そのジョアンがことあるごとにアダムスベルグとそのスタッフに振る舞うのが土地のリキュール酒「シューシェン(Chouchen)」である。かなりの回数ブルターニュを訪れている私ではあるが、この酒は知らなかった。水と蜂蜜の混合を発酵させた琥珀色のリキュールで、度は14〜18度、冷やして(だが氷は入れずに)クイっといきましょう。

 今回のアダムスベルグの推理の数々は、かなり根拠の薄い”想像”が進行していくと”図星”になっていくというパターンが多い。痛快に読めるのではあるが、推理小説の”決まり”には則していないのではないかな。なぜと聞かれるといつものように”je ne sais pas (わからない)"を連発するアダムスベルグ。曖昧模糊としたものをそのまま曖昧模糊のままにしながら。霊感を求めてドルメンの天井岩の上に太陽を浴びて寝転がり、瞑想する。いい図ですね。許してしまおう。
 なおフレッド・ヴァルガスは2017年の前作の小説『毒糸蜘蛛が出るとき』のあと、気候変動と環境問題に言及するエッセイ『危機にある人類(L'Humanité en peril)』(2019年)とその続編『危機にある人類・2(L'Humanité en peril 2)』(2022年)を発表して、にわかに行動的エコロジスト論客としてメディアに登場し、ラジカルな警鐘を鳴らすようになった。この新作小説でも気候変動に関連した部分がないわけではないが、かなり控えめである。なにかあったのかな。

Fred Vargas "Sur La Dalle"
Flammarion刊 2023年5月17日 510ページ 23ユーロ
 
カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランスTVの図書紹介番組"Grande Librairie"で、ホストのオーギュスタン・トラプナールと対談するフレッド・ヴァルガス
YouTubeで見るをクリックしてください)


(↓)Stone Age "Zo Laret"(1994年)
エニグマ、ディープ・フォーレストなどと同世代のエスノ・アムビエント”ワールドミュージック(sic)”。業界人として、わしこのストーンエイジのファースト、かなりの量のCDを日本に売った。ブルターニュのシンボル「トリスケル」印が日本に知れ渡るようになったのは、このCDのおかげではないかと思っている。

2023年6月1日木曜日

しこりの父


Marouane Bakhti "Comment sortir du monde"
マルワン・バクティ『いかにしてこの世界から抜け出すか』

ず本の体裁から。やや小柄の幅12センチ縦17センチ、右端の上下が丸くカットされている。表紙本文ページとも淡いピンク色。サンリオショップで見かけそうな”ファンシー”なつくり。およそ硬派の文学作品とは想像できないだろう。これはパリの新座の出版社 Les Nouvelles Editions du réveil ("めざめ新出版社”)の第一回めの出版物。特徴的な縦長装本のActes Sud社と同じように、外見で他社出版物との違いを、という方針なのだろう。しかし私はこれは成功してるとは思わないし、文学書を手にしているという感じがしない。人の好みはそれぞれでしょうが。
 フランス西部ロワール・アトランティック県の首邑ナント出身、1997年生れの現在25歳の作家マルワン・バクティの第一小説。小説の話者は一人称単数の”Je"。名前は一度も登場しないが、作者自身を投影したオートフィクションと読める。
 話者の父はモロッコ人、母は「地元人」すなわちブルターニュの女。子供は話者の他に弟と妹。この家族はロワール・アトランティック県のとある町の人口密度の少ない地区、つまり街区から離れて森や沼地など自然に近いところに一軒家で暮らしている。父は工場労働者、母はたぶん専業主婦。とりたてて孤立しているわけではなく、父方の祖父母(モロッコ人)も母型の祖父母も遠くないところにいて、父方の親戚を含むモロッコ人コミュニティーとも交流がある。主人公はアラブ語をよく理解できない。父親はこの息子にアラブ語を習得するように命じるのだが、叶っていない。
 小説はこのフランスの”地方”という環境での小児→少年時代の話者が実体験した不遇や不条理の呪詛に始まる。この子がいかに不幸であったか。その子の周りで話されるダリジャ(Darija = モロッコアラブ語)がほとんど理解できない。父親は無口であるが強権的であり時に暴力的でもある。父親はこの男児をフツーの男児として育てようとする(スポーツをしろ、球蹴りをしろ...)のだが、この子の”性徴”は早くもフツーとの”違い”を現し始める。作家はホモセクシュアリティーとは書かない。ただ”違い”とだけ表現している。この子はその”違い”は人に明かしてはならないものだと本能的に察知する。この違いを父は気づいただろうか、母は、そして最愛の(母方の)メメ(祖母)は?
Je suis terrifié à l'idée que quelqu'un découvre ce que tout le monde sait déjà.
僕はみんなが既に知っているあのことを誰かが気づくのではないかという考えに恐れ慄いている。
そしてフランスの地方/田舎という環境は、否が応でもこの子に”アラブ”というレッテルを貼り、子供たちの間で嫌われて当たり前の”人種”、虐められるに値する”敵”としてみなされる。加えて性徴の”違い”である。この地方社会の凶暴さを耐え忍ぶ試練は、エドゥアール・ルイのデビュー小説『エディー・ベルグールにけりをつける』(2014年)と共通するものがある。ゆえに、エドゥアール・ルイと同様に、この若者にとってもこの(地方)地獄から脱する唯一の方法は親元を離れ、パリに出ることであった。
 しかしこの主人公はここで大失態をしでかすのである。のちに作家を志すようになるほどもの書きが好きだった少年は、その私的体験を書き溜めていた日記のようなノートが既に数冊あった。男の体や男根のデッサンを含む。それを不在の間に父親に発見されたしまったのである。怒り狂った父は、家の庭でノート全冊を”焚書”に処した。焚書とは(政治的意味においても宗教的にも)強烈な断罪行為であり、この烈火に焼き消されるページのイメージは若者をいよいよ父親と父親の属する世界との完全断絶へと向かわせるのである。
 さて、フランスのゲイ界で定番となっているマッチングアプリは Grindr であり、小説はこのアプリを通じて主人公がくりかえすさまざまな「出会い」も描写されるのだが、常に複数の愛人、複数のセフレがいる状態でありながら、不条理にこの世界から忌避されているようなアンニュイ感はこの若者に常についてまわる。たまに現れる”いい奴”、例外的に気の合ってしまう”いい女”なども登場するが、アンニュイはそれよりも強い。
 そしてかの焚書にも関わらず、彼はときおりモンパルナス駅から電車に乗って実家に帰っていく。絶対不可能な距離と思われた父との隔たりが少しずつ縮まっていく。それは言い換えれば父を少しずつ知っていくことだった。父には不透明なところが多い。まず彼はイスラム教徒ではない。父の周囲はすべてそうなのだろうが、彼は祈祷の仕方も知らなければ、ラマダンもしない。ある葬式の時に祈祷も祈りの言葉も知らない父は、見よう見まねでそれを知っていた”僕”を真似るしかなかった。そして普段は無口なのに時々妻や家族の前であるのも構わず、理由なく激昂して止まらなくなることがある父。何か猛烈なストレスが噴出してしまうような。それに加えて過去について語りたがらないこと。祖父祖母と共に父がモロッコからフランスに渡ってきたのはなぜなのか。これはこの小説の中で明かされることはない。経済的な理由だけなのか。話者はこの故国に背を向けて文化習俗環境を断ち切って異国に渡るということは、非常に痛ましく残酷なことだと思っている。そこに居られなくなったのではないかと想像したりもする。この世界から違うよその世界に行くことを夢見ていた少年の日々の自分と、越境のドラマを生きた父親と、その流謫はまったく違う種類のものなのか。しだいに主人公は父のことを理解したいという願望にかられていく....。
 ブルターニュ生まれのごく浅い根しか持たない主人公は、その根の浅さを呪っていた。モロッコ人とフランス白人の”ハイブリッド”であることを負の要素として考えていた。それが小説の進行につれて、忌み嫌っていた”アラブ”世界との接近、さらにイスラムとの接近も見られるようになる。それは父親との和解が近づけば近づくほどなのである。彼はモロッコ国籍を持っていない。フランスのパスポートしかない。フランスで死んだ祖母の埋葬のために、家族共々遺体と同行してタンジールに渡ったとき、税関でそのパスポートのデリケートな問題を痛感する。モロッコで話者は”故国”の心地よさを満喫する。どうしてフランスに帰らなければならないのか、このままモロッコに留まってもいいのではないか、とすら考える。
Notre vie est en France
私たちの暮らしはフランスにある
と父親は断言する。この父親に「モロッコ国籍を取ろうと思っている」と告げる”僕”、それに対して「必要ない、それは危険すぎる」と答える父。その言葉にモロッコでの同性愛者の置かれた境遇についての含蓄があったのかどうかは小説では明言されていない。この父親のようにそれは単純ではない。

 エドゥアール・ルイにおいて貧困/暴力/性差別/地方因習そのほか自分のあらゆる子供時代の不幸の根源であった父親と決別し、やがて回り回って和解するに至った経緯に比べると、このマルワン・バクティのデビュー小説の息子と父親の和解は時間が短く、悲惨なドラマの性格はない。この133ページの短い小説は、父との和解という大団円に向かう大筋はあるものの、単純ではなく、常に憂愁がつきまとうハイブリッドな魂のさまよいにこそ重点が置かれていて、文体は散文詩に近い。父親のことはまだわかったわけではない、モロッコやイスラムにしてもしかり。上(↑)には私は一言も触れていなかったが、文中で最良の恋人であり話し相手である”S”との関係も鮮明ではない。第一小説/25歳的現在なのであろう。完結などできるわけがない。父親のことを筆頭にすべてにしこりが残って終わっているから、次作を読むしかなくなるんだなぁ。

Marouane Bakhti "Comment sortir du monde"
Les Nouvelles Editions Du Réveil 刊 2023年3月30日 133ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

註;記事タイトルの出典はタモリのファーストアルバム(1977年)のB面4曲め”けねし晴れだぜ花もげら”で、その歌い出しは「まぶたの母か、しこりの父か」というものです。

(↓)ボルドーの気骨の独立書店 Librairie Mollat 制作のインタヴュー動画で『いかにしてこの世界から抜け出すか』について語るマルワン・バクティ