2021年8月24日火曜日

父よあなたは強かった

Amélie Nothomb "Premier Sang"
アメリー・ノトンブ『最初の血』

2021年度ルノードー賞


1963年、ベルギーの若き外交官パトリック・ノトンブ(当時27歳)は最初の赴任地である独立間もない中央アフリカのコンゴ共和国(のちのザイール→コンゴ民主共和国)の首都レオポルドヴィル(のちのキンシャサ)に妻子と共に移住、翌1964年夏、同国北東部のスタンレーヴィル(のちのキサンガニ)にベルギー領事として任命され、単身で任地にやってきた。
8月6日、20世紀最悪の人質監禁事件が始まった。反乱軍が市を制圧し、そこに住む1500人の白人が人質となった。スタンレーヴィルの新しい征服者たちは首都の政府権力に対して彼らの条件を受け入れなければ、人質は全員処刑されると警告した。その要求は単純なもので、彼らが制圧した東部領土をスタンレーヴィルを首都とするコンゴ人民共和国として認めよ、というものだった。(p143 - 144)
すべて史実。ベルギー国領事パトリック・ノトンブはその人質のひとりにして、反乱軍に真っ先に銃殺されかねない(国際的)重要人物であった。同市の豪華ホテル(ヴィクトリア・パラス)に収容された人質たちの監禁は3ヶ月半にもおよび、11月24日、ベルギー陸軍パラシュート部隊320人が米空軍輸送機5機から降下したいわゆる「ドラゴン・ルージュ作戦」によってほとんどの人質が解放されて終結する。とは言え、この小説の中でベルギー領事は、長い監禁の間に気の短い反乱軍兵士に処刑されてしまった人質たちが30人あまりいたことを証言している。いつ殺されてもおかしくない緊迫した状況だった。それを人質となったその日から、1日でも長い人質たちの延命のために反乱軍幹部との交渉の矢面に立ったのがパトリック・ノトンブだった。交渉と言ってもこの監禁状態の外交官には外部(コンゴ共和国政府、旧宗主国のベルギー政府および人質白人の属する欧米諸国の政府)との接触は一切ない。反乱軍はレオポルドヴィル政府および事件関係国政府から要求への回答が得られないことに非常に苛立っている。この苛々をなだめるのがノトンブの仕事であり、彼らを怒らせず、かつ不確実な楽観論を徹底的に排除したきわめて限定的で曖昧な融和論でご機嫌を伺う。この方便を毎日少しずつ変えて喋り続け、相手が最後まで聞き手として座り続けてくれれば、その日は処刑から免れることができる。これを3ヶ月半もの間、若きベルギー領事はしゃべってしゃべってしゃべりまくったわけである。この必死のしゃべりをこの小説では "palabres"(パラーブル)という言葉で表現している。手元のスタンダード仏和辞典では”palabres(パラーブル)"を「長広舌、だらだらした議論、小田原評定」と訳している。ー 小田原評定(おだわらひょうじょう)という言葉知ってましたか?私初めて知りましたよ。うまいこと言うもんですね。ー 千夜一夜のシェヘラザードのごとく、人質1500人の命が1日でも長く保たれるように、パトリック・ノトンブはパラーブルの名人となった、という一席、講談にしたらさぞ面白かろう。
 この名人芸に魅せられたか、反乱軍の頭目であり9月5日にコンゴ人民共和国の暫定大統領を僭称したクリストフ・グベニエ(Christophe Gbenye)はベルギー領事に一目置き、格好の問答相手として重宝する。しかし人質作戦3ヶ月が過ぎ、情勢の極度の緊迫化はついにノトンブ処刑という決定を導いてしまう。

 さて小説の冒頭は、話者(私=パトリック・ノトンブ)が銃殺の処刑場に連れていかれるところから始まる。しゃべってしゃべってしゃべり続けた3ヶ月がようやく終わり、死の恐怖よりも、もうしゃべらなくてもいいのだという安堵感が勝り、心は平静であり、その12人から成る銃殺隊の12の銃口から弾丸が発射されるまでの短いが永遠のような時間に目の前に蘇ってくるのは28年の"私”の人生である。
 この175ページの小説は、この冒頭イントロに続いて全体の4分の3までがパトリック・ノトンブが生まれて妻ダニエルと結婚するまで(26歳ごろまで)、そして終わりの4分の1がパトリック・ノトンブが見舞われたコンゴ、スタンレーヴィルで起こった反政府軍による大量人質監禁事件、そして大団円がドラゴン・ルージュ作戦である。
 パトリック・ノトンブは言うまでもなく作者アメリー・ノトンブの父親であり、2020年3月17日に83歳で亡くなっている。死因は最初コロナウィルス感染症と報じられたが、直後心不全と訂正された。しかしベルギーも1回目のコロナ・ロックダウン期であり、アメリーは病室での最後の対面ができなかったと悔やんでいる。ベルギーの外交官として華々しいキャリアを積んでおり、このドラゴン・ルージュ作戦(1964年)のトラウマも癒えたであろう4年後の1968年から1972年まで大阪のベルギー領事館に総領事として日本滞在している。アメリー・ノトンブは1966年7月ベルギー生まれで、「1967年8月神戸生まれ」と書いてあるバイオグラフィーは誤り(自身の詐称)であるが、日本関連の記述/発言はホラもフィクションという作家なので気にしないで。幼いアメリーの日本体験が後の大作家を生むことになるのは間違いないのだから。この小説に話をもどすと、あの時スタンレーヴィルで銃殺されていたら、アメリーもこの世にいないわけで、娘の未来の生を救い、多くの人質たちを救い、彼自身を救ったのはパトリックの「パラーブル術」であったというのがこの小説の最も重要なテーマ。その「パラーブル」のセンスは、作家アメリー・ノトンブの「ストーリーテリングの妙」として継承されている、と言いたいのだろうね。
 パトリック・ノトンブ自身、かのスタンレーヴィルの人質事件の回想手記本"Dans Stanleyville(スタンレーヴィルの中で)"を1993年に発表している(右写真)。おそらくこの小説の同事件に関する記述はこの手記を基にしているであろう。アメリー・ノトンブの創作部分もかなりあるとは思うが、この事件の中でのベルギー領事の立ち回りは敬意をもって書き写されたと信じる。ただ、この小説の中で(当時の)「私(=パトリック・ノトンブ)」が、反乱軍兵士たちにある種のシンパシーを抱きかけるところで、「ストックホルム症候群」として分析しようとするのだが、この症候群の名のもとになったストックホルムの銀行強盗人質立てこもり事件は1973年に起こっていて、これはさすがに矛盾するのですよ。それはそれ。
 
 もうひとつ重要なテーマは、未来のパラーブル名人となるパトリック・ノトンブの人格形成において決定的な役割を果たしたベルギーの古い貴族家(男爵家)である「ノトンブ家」にまつわる奇譚である。実に奇態な家柄である。
 パトリックの父アンドレ・ノトンブは軍人で、パトリックが生後8ヶ月の時、地雷処理訓練の最中に25歳の若さで爆死した。未亡人となった母クロード(軍人家の出身)は再婚を希望せず、社交界に出入りする美貌の寡婦として自由に生きる道を選ぶが、ノトンブ家を忌み嫌い、幼子パトリックの養育はもっぱら自分の両親にまかせていた。5歳で既に読み書きも堪能な聡明な子になったが、育ての親たる老将校夫婦はパトリックが(柔和な老人に育てられたがゆえに)人形のように華奢な子に育ったことが不安になり、軍人家の子として逞しさを備えなければならない、と。この子をガッチリ鍛え直すには「ノトンブ家に送ればいい」というのが老将校のアイデアだった。6歳の夏休み、パトリックはルクセンブルク国境に近いアルデンヌ地方の奥地にあるノトンブ男爵の壮大な城に送られる。亡き父アンドレの父、すなわち少年の祖父ピエール・ノトンブ男爵は由緒ある貴族家の当主にふさわしい品格と誇りは持っているが、経済/金銭感覚が欠落していて、一応職業は弁護士であるがまともな収入を得られない状態でこの城を維持するという恒常的貧困状態にあった。その上子沢山(全部で13人)で、最初の妻(パトリックの祖母)と死別してから、若妻と再婚していて、一番下の子供はパトリックと同い年だった。亡きアンドレが長男であったから、その男爵称号はパトリックが引き継ぐことになる(実際、現在のwikipediaでpatrick nothombを検索すると「1953年10月より男爵」とある)。しかしそんな金看板とは無縁の現実がこの城にはあり、歳のいかない5人の子供たち(+新座のパトリック)にはまともな食事が出ないほどの困窮ぶりであり、ボロを纏った山賊のような子供たちとパトリックは生存をかけて食べ物を取り合うはめになる。ハラペコの体で野山を駆け回り、川で体を洗い、サッカーPKごっこでキーパーばかりやらされボロボロになる。ところが幼いパトリックはこの野生的で原始的なサバイバルの毎日に未体験の歓びを覚え、そのインテリジェンスで野生児たちの信頼すら勝ち得ていく。当初は一度の夏休み体験だけと組まれていたノトンブ城滞在は、パトリックのたっての希望で冬も夏も何年も続けられるようになる... 。冬はベルギーの極寒地方でありながら城の暖房はほとんどなく、取れる作物もないから食事も減り、夏とは比べ物にならないほど過酷なものであるが、雪の止んだ日、湖面に積もった雪をはらいのけて、その凍った湖面でのスケート、これに夢中になってしまう。しかし汗で衣類をびしょびしょにするとあとで暖房のない城で強烈な感冒にやられてしまうので、汗をかかない程度の運動量でスケートするという微妙なテクニックを会得する(こういうエピソードの滑稽さはアメリー・ノトンブ一流のものである)。
 城主ピエール・ノトンブ男爵は自称詩人であり、詩集も出版している。ヘボい詩なのだが、幼いパトリックが詩と文学に拓けていくきっかけともなっていて、この小説では男爵の詩から一挙飛びでランボーに至っている。それがのちには「言葉の人」としての才能をどんどん開花させていく。学生時代、フラットシェアの同居者の恋路を助けるためにラヴレター代筆をするエピソードでも、状況に応じた感情表現の盛り上げを変幻自在の文体で綴るパトリック・ノトンには、未来のパラーブル名人となる要素が顕在している。
 そういう「言葉の人」パトリック・ノトンブへのオマージュをこのような小説の形で表現した娘アメリー・ノトンブにあふれる亡き父への敬愛の書である。

 ここまでで私もやめておけばいいのだが、この小説の核心の核心をバラしてしまう。パトリック・ノトンブには致命的なハンディキャップがある。今「致命的」と書いたが、まさに「命に至る」問題である。血を見ることで起こってしまう反射性失神。鮮血を見ると気を失ってしまう。これは少年の頃、ノトンブ城での滞在中に初めて症状が出てから、ずっと治ることなく、そういう機会を極力避けてきた。例えば精肉店の前を通らないとか、レストランでレアステーキを注文しないとか...。職業選択の段になって、医者や軍人は無理、と。外交官が血を見ないという保証はないのだが...。コンゴに赴任して、前述の事件に遭遇して、死体のそばにいる場面はあったのだが、必死に目を背けてこらえた。
 小説の最後はかの「ドラゴン・ルージュ作戦」で、ベルギー軍パラシュート降下隊が人質たちの監禁されたヴィクトリア・パラスホテルに突入して、反乱軍との銃撃戦の中、約9割の人質たちが救出される。パトリック・ノトンはその助かった生存者の一人である。つまり周りが銃撃戦の流血事態となっている中、パトリックは気絶せずに逃げ通すことができた。これをアメリー・ノトンブはエピローグと本の裏表紙にこういう1行で結語する:
Il ne faut pas sous-estimer la rage de survivre
生き延びるための狂躁をあなどってはいけない
これは名人の娘の名人、アメリー・ノトンブ、至芸の一席である。

Amélie Nothomb "Premier Sang"
Albin Michel刊 2021年8月18日、175ページ、17,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)出版社アルバン・ミッシェル制作のアメリー・ノトンブによる"Premier Sang"紹介動画。

2021年8月19日木曜日

天保の改革

MC★Solaar "Qui sème le vent récolte le tempo"
MC★ソラール『風の種を撒く者は天報を受く』
(1991年)

を去ること30年前、あの時クロードMCは21歳だった。1991年10月にリリースされたMC★ソラールのファーストLP"Qui sème le vent récolte le tempo"は、レコード会社Polydorとの権利訴訟のため2000年から販売停止となり、20年以上も入手困難の状態にあった。 訴訟沙汰がひとまずおさまって、2021年、Polydor からの3枚のアルバム:”Qui sème le vent.."(1991年)、"Prose Combat"(1994年)、"Paradisiaque"(1997年)が封印を解かれて再発されることになり、その第一弾として2021年7月に出たのがこの"Qui sème le vent..."。
 1991年、第一次湾岸戦争が勃発し、ソ連が崩壊し、ゲンズブールが死んだ年。そしてニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の年でもあった。大統領は2期目のフランソワ・ミッテランで、首相はミッシェル・ロカールからエディット・クレッソン(フランス初の女性首相、フランス現代史上最も評価の低い首相であろう)へ変わった年で、私は音楽業界人(独立レコード配給会社社員)になって3年目だった。私がいた独立系のレコード会社でも急激に売上を伸ばしていくのはワールド・ミュージックとラップで、社内は活況を呈していた。小回りのきく中小企業に比べて、そんな流れに大手FMやメジャーレコード会社は一歩も二歩も遅れていた感があったが、1991年仏シングルチャート"TOP 50"に異変がおこり、同年6月21日(メジャーのPolydorからリリースされた)MCソラールのシングル盤"Bouge de là"が、7月末にチャートイン、10週間居座り、9月には最高位22位に至り、推定売上枚数は51000枚というヒットとなった。これがフランス大衆音楽史上最初のフレンチラップのヒットシングルということになる。

 当時フランスのラップになど全く興味のなかった耳からすれば、ステロタイプ化された「郊外」「ストリート」「パラレル経済」「”システム”憎悪」などを散文的に早口でまくしたてる不良音楽とはずいぶんと違うものに聞こえた。それが何によるものか、というのはあとになってわかっていくのだが、サウンドの要に後のフレンチ・エレクトロ・シーンの立役者となるフィリップ・ズダール(1967 - 2019。ラ・ファンク・モブ→カシウス)、ユベール・ブラン=フランカール(著名サウンドエンジニアのドミニク・ブラン=フランカールの息子。ブームバス→カシウス)、エチエンヌ・ド・クレシー(スーパー・ディスカウント)、そしてMCソラールを通じて一躍売れっ子プロデューサーになってしまうDJジミー・ジェイことクリストフ・ヴィギエがいた。1971年生まれのヴィギエは16歳で既にパリ郊外のクラブでDJとして鳴らし、18歳でDMC(Disco Mix Club)のフランスチャンピオンになり、その機会にMCソラールと邂逅している。17歳の時LOTOに当たり大金をせしめ、自らの録音スタジオを開設、そこでMCソラールのデモは録音された。前三者に比べれば圧倒的にスクラッチとサンプルを武器とするジミー・ジェイは、自らのヴィンテージなジャズ、ソウル、ファンクなどのコレクションからサンプルしてクロードのライムにあてがった。"Bouge de là"のリズム/メロディーラインは1970年代イギリスのファンクバンド、サイマンデの曲"The Message"(1973年)をサンプルしたものだった。
 このシングルヒット"Bouge de là"に気をよくしたレコード会社Polydorのはからいでクロードとジミー・ジェイらスタッフは大予算+バスチーユの録音スタジオ+バスチーユオペラ座の弦楽隊などをあてがわれ録音されたのがアルバム"Qui sème le vent..."であった。
 アルバムタイトルの出典は旧約聖書のホセア書にある格言
Qui sème le vent récolte la tempête.
風の種を撒く者は嵐を収穫する
である。禍のもとをつくる人は、それの何重にも大きくなった禍に遭う、という意味。自業自得や身から出た錆と似たものだが、「倍返し」の目に遭うというのがミソ。この"la tempête"(嵐)をクロードMCは"le tempo"(音楽用語:テンポ、速度)と代えた。テンポとは日本語でもそうだろうが、フランス語でもなんともレトロな響きのある言葉である。イタリア語起源の音楽用語でもあり、一般的に速さや進度を指す。大衆音楽の領域では昨今は"リズム”や"ビート”といった言葉に比べれば影の薄い言い方になっていたかもしれない。これをクロードはあえてテンポと言ったのだ。マニフェスト的に。"Parce que le tempo est roi"(なぜならテンポは王なのだから)。MCソラールとは沈黙・静寂を徹底的に言葉で埋め尽くす者、言葉をばら撒くことで肉体の美=ダンスを現出させる者、ばら撒けばばら撒くほどテンポは躍動する。
大仰に発せられるひとつひとつの語、ひとつひとつのフレーズによって
クロードMCは言葉の突撃兵と化す
音楽の闘技場にあってはテンポは王様だ
手綱は俺が握っている、修辞の闘牛士
マタドールさ、一対一でとどめを刺せるさ
さあもうひとがんばり、体を激しく揺らせ
タイムロスはなしだぜ、知ってるだろ
テンポは王様なんだから,,,
風の種を撒く者はテンポをものにするのさ
(Qui sème le vent récolte le tempo)


この曲のバックトラックはブームバスことユベール・ブラン=フランカールが制作し、サンプルされたのはルー・ドナルドソン(Lou Donaldson)「ワン・シリンダー(One Cylinder) 」(1967年)。当時はYouTubeやストリーミングのライブラリーといった簡単に過去の音源を検索できるものなかったから、多くの人たちはそれがどういう"サウンド”であったのかなど知るよしもなかった。ただ聴いたフィーリングは、それまでひたすらに熱く情感的で硬質だったラップとは違う"クール”なものであったことははっきりと思ったはずだ。他にサンプル元が明らかになっている曲を列記すると:
3曲め "Matière grasse contre matière grise"が、ジ・インスティチュート(The Institute)"Watsonian Institute"(1978年)
4曲め "Victime de la mode"が、ベン・シドラン(Ben Sidran) "Hey Hey Baby"(1972年)
6曲め "Armand est mort"が、マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye) "Inner city blues"(1971年)
10曲め "Caroline"が、サウスサイド・ムーヴメント(Southside Movement) "Save the world"(1974年)
15曲め "La Divise"が、ホール・ダーン・ファミリー(The Whole Darn Family) "Seven Minutes of Funk"(1976年)とブギー・ダウン・プロダクション(Boogie Down Production) "You must learn"(1989年)

 この歴史的アルバム"Qui sème le vent..."の全体的な"クール”なグルーヴ感を決定していたのはこれらのサンプル元のサウンドだったということが今日では容易に了解できるであるが、当時はこれが”ジミー・ジェイの音”と違う評価を受けていたのだ。それはそのまま「MCソラール+ジミー・ジェイ=最強」ともてはやされ、1994年のセカンドアルバム"Prose Combat(プローズ・コンバ)"で頂点となるのだが、その後のコンビ解消以来MCソラールの評価は熱を失い、「ファースト/セカンドを超えられない」30年アーチストとしての今日がある。分野は違えどミッシェル・ベルジェ制作のファースト/セカンドを超えられない50年アーチスト、ヴェロニク・サンソンと事情は似ている(すんません、関係ありまっせん)。

 だが、1991年"Qui sème le vent..."は新しいサウンドの登場であるよりも、新しい詩人誕生の事件であった。 チャドの血を引き、セネガルの首都ダカールで生まれたクロード・ンバラリは、フランスでバカロレアに合格し、パリ大学ジュッシユー校で哲学と言語(英語、スペイン語、ロシア語)を学んでいる。どれほどの読書量であったろうか。とりわけリトレ仏語辞典(19世紀の仏語百科辞典)が座右の書であったことは伝説となっている。しかしクロードMCの卓抜な言語センスの習得を可能にしたのは学校でも辞書でもない。自伝的に9曲め"A temps partiel(ハーフタイム)"は”独習の徒”としての自分をこう語っている:
ラッパーのCAP(職業認定書)、トースターのBEP(学習免状)、
MCの資格証明、マイクロフォン修士号、響きのいい踏韻名人号、
すべて合格したさ
クロードMCは大成功と言うべきかな
バカロレアの後、大学に挑戦したけど、学部がなくなった
だからラップは独学でものにしたというのが真実さ
言語のスウィングのマスター
曲芸師、綱渡り師、夢遊病者、だけど俺は
先人の知恵を垂れ流すやつらには見向きもしなかった
自分自身を信じること、これはもっともな主義さ
第一人称の話者はおまえ自身でなければならない
だからそれを機能させるには誰も恐れることはないのさ
(A temps partiel)



 1991年MCソラールの言語がもたらした変革は、ラップに文学的(詩的)リファレンスと比類なき地口(言葉遊び)センスとシャンソン的(抒情)物語性を導入したことであった。その先駆としてクロードMCが最も敬愛する心の師がセルジュ・ゲンズブールであった。1991年はゲンズブールが62歳で他界した年だった。既に神話化は始まっていたが、ゲンズブールが破格の天才として世界的評価を獲得するのは死後だいぶ経ってからである。1991年仏ラップ界でゲンズブールをリファレンスとする者など誰もいなかったはずだ。ステロタイプな見方だろうが、反逆不良たちたるラッパーたちにとってゲンズブールなどオーソドックスすぎる唾棄すべきオールドスクールであったと思う。時は経ち、ゲンズブールはラップ/ヒップホップのみならず、全方位のアーチストたちからリスペクトされるアイコンとなった。同じく時は経ち、MCソラールは今やその詩業において最もゲンズブールと比較されるアーチストのひとりになった。
 このアルバム"Qui sème le vent...”で、最もゲンズブール的修辞の詩法を用い、最もシャンソン的物語性が香り、最も抒情的で哀感に富んだナンバーが「カロリーヌ」である。アルバム中最も完成度の高い曲である。バスチーユ・オペラ座管弦楽団のストリングスは、文字通り"秋の日のヰ゛オロン"に聞こえる。
 まずトランプの4つのマークをフランス語でどう言うかというところから説明しなければならないだろうか。
♣️クラブ → Trèfle (トレフル)
♠️スペード → Pique (ピック)
❤️ハート → Coeur (クール)
♦️ダイヤ → Carreau (カロー)

歌の物語は破局したカロリーヌという娘との恋を哀感をこめて回想するもので、トランプカードにあやかってこんな必殺のリフレインを決めている。
Je suis l'as de trèfle qui pique ton coeur, Caro-line.
カロリーヌ、俺はおまえの心臓を刺す三つ葉のエース

このリフレインを探し当てた時、クロードMCはどう思ったであろうか。フレンチラップのみならずシャンソン・フランセーズの歴史においても、未来永劫記憶されるであろう一行になるとは思っていなかっただろうが、歴史はこの一行をしてソラールをゲンズブールのレベルに押し上げようとしているように思える。
カロリーヌはダチだった、サイコーの娘だった
あの娘のことを思い出す、俺たち二人のことを、
俺たち二人のヴァニラアイスクリームのコーンを、
ストロベリー、フランボワーズ、ミルティーユを大食らいするあの娘を、
あの娘のくだらない熱狂を、あの娘の安っぽい格好を、
Je suis l'as de trèfle qui pique ton coeur, Caro-line
(Caroline)



再発アルバム"Qui qui sème le vent...”の16トラックについては、失業者ホームレスの死をあつかった6曲め「アルマンは死んだ(Armand est mort)」、当時のハードコア・ラップのスタイルで展開する自伝的(ヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュの若き日)7曲め「北地区(Quartier nord)」、あの頃のソラールのポシ(posse)が結集してフリースタイル・インプロを展開する14曲め「ラガ・ジャム(Ragga Jam)」など、当時のLPで一度聴いただけで二度と聞かなかったトラックも再発見したが、"Bouge de là"、"Victime de la mode"、"Qui sème le vent..."などの既に"老成”した楽曲にくらべると、21歳クロードの若さを感じてしまう。そして何を置いてもこのアルバムは「カロリーヌ」だけが群を抜いて私の心を刺す(qui pique mon coeur)のだった。

<<< トラックリスト >>>
1. Intro
2. Qui sème le vent récolte le tempo
3. Matière grasse cntre matière grise
4. Victime de la mode
5. L'Histoire de l'art
6. Armand est mort
7. Quartier Nord
8. Interlude
9. A temps partiel
10. Caroline
11. La musique adoucit les moeurs
12. Bouge de là (part 1)
13. Bouge de là (part 2)
14. Ragga Jam
15. La Devise
16. Funky Dreamer

MC★Solaar "Qui sème le vent récolte le tempo"
CD/LP/Digital Polydor
(オリジナル発売日:1991年10月15日)
再発:2021年7月8日

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)2021年夏、30年後にファーストアルバム"Qui sème le vent..."について語るMC★ソラール。BRUTによるルポルタージュ。(ジミー・ジェイ、アンジェルなど登場)
 

2021年8月14日土曜日

私はイエスがわからない

(←写真はジャン=バチスト・モンディーノ)

2021年8月18日に刊行されるアメリー・ノトンブの第30作めの小説『最初の血(Premier Sang)』を待ちながら。
毎年8月末のノトンブ新作発表はこれで30年続いていて、出れば書店ベストセラー1位になることはわかっている。その印刷されたページの活字ポイントの大きさ、ゆったりした行間と割付、私の仏語力をもってしても数時間で読めてしまうが、そのことが価値を決めるものではない。往々にしてスノッブな私のフランス人交友筋ではノトンブを読む者などひとりもいない。
重要な文学賞レースにはあまり縁のなかったノトンブが2019年に(仏文学賞の最高峰)ゴンクール賞の最終選考まで残り、落選した。おそらく一世一代の作品という気負いを込めて書かれたであろう『渇き(Soif)』は、イエス・キリストの受難を一人称(話者「私」=イエス)で書いた問題作だった。この作家は(その奇抜ないでたちやマスコミ露出のポップさに惑わされずに言おう)ただの流行作家ではない。日本で私が若かった頃のフランソワーズ・サガンのような読まれ方がされてしかるべき、と思うが、悲しいほどに日本語翻訳点数が希少なのだ。それはすべてのフランス現代文学について言えることではあるが。

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★


この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

アメリー・ノトンブの
パーソナル・ジーザス

(in ラティーナ誌2019年11月号)

  フランスの文学シーズンは毎年8月末に始まる。2019年もこの夏の終わりに各出版社から合わせて524編の小説が発表され、それが11月の文学賞(ゴンクール、ルノードー、メドシス、フェミナ等)発表に向けて、メディアと書店店頭でのプロモーション合戦があり、各賞発表後は受賞作が何万から何十万部の売上を確実なものにする。最高峰の文学賞は言うまでもなくゴンクール賞であり、今年は20世紀文学の金字塔『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト)の第1巻「花咲く乙女たちの影に」が同賞を受賞して100年めという記念すべき年。 
 28
年前から欠かさず毎夏の終わりに新作小説を発表し、毎回ベストセラー1位になることで知られるベルギー人女性作家アメリー・ノトンブは、821日に28作めの作品『渇き(Soif)』を初版18万部という破格の冊数での店頭展開で出版した。この原稿を書いている9月末現在で『渇き』は不動の売上1位を続けていて、のべ30万冊を突破したと言われている。その上長いノトンブの作家キャリアで初めてかの最高峰の文学賞ゴンクールの候補作として、現在第二次選考まで残っていて、1027日の第三次選考(最終4作が残る)、114日の受賞作発表を待つ身となった。

 ノトンブのことは、
201310月号の本連載で、ストロマエと共にその2013年の夏を席巻した二人のベルギー人のひとりとして紹介した。私は日本での商社OL時代の奴隷的な体験を描いた作品『畏れ慄いて』(1999)以来のノトンブ読者であり、日本と関連した作品についてはネガティヴな印象を持った人間のひとりだったが、まさに2013年に本誌に書いた頃から印象が変わり、流行作家風なミノを被りながらもストーリーテリングと哲学的含蓄において当代随一の作家ではないかと思うようになった。それが証拠に私のブログでは日本語訳されていないノトンブ作品が6編も好意的評価で紹介されている。
 
 ノトンブはこの新作『渇き』を、自らの作家としての最も重要な作品テーマとして長年構想を温めていたが、
50歳になった時に機は熟したと判断して書き始めたと述懐している。重要もなにもまず畏れ多いテーマである。イエス・キリストの受難、すなわちエルサレムでローマ総督ピラトに司られた裁判によって死刑判決を下され、翌朝ゴルゴダの丘で磔刑によって命を落としたイエスの最後を、ノトンブが彼女のヴァージョンによって書き直すのである。しかもこの小説の話者「私」はイエスであり、ノトンブは一人称でイエスの言葉を記述するのである。

 この受難はキリスト者ならば新約聖書の四つの福音書で心に刻み付けられているだろうが、そうでない方はウィキペディアなどで軽くおさらいして欲しい。作者は幼少時から変わらぬ信仰(
foi)があり、イエスの信奉者であることを公言している。ならばこれは読むまでもないベタベタのイエス賛美の書か、と言うと、ノトンブにそのようなことがあろうはずがない。四つの福音書の内容を「私=イエス」が修正、場合によっては否定までして綴っていく、アメリー・ノトンブ私家版イエス受難の書である。伝統的で教条的なキリスト者たちが「冒涜」と目くじら立てても不思議ではない(実際ノトンブのもとに少なからず抗議文は来ていると言う)。

 これを書いている私はキリスト者ではない。あえて定義すれば無宗教者だが、長年の滞仏生活と親しんできた諸芸術の影響で、最もよく知る宗教はキリスト教になっている。信仰はない。本記事は聖書をよく知らぬ者が書いていることと前もってご理解いただきたい。

 

 小説はイエスのモノローグ体で書かれている。このイエスは肉体を持った生身の人間であり、好き嫌いも辛辣なユーモアもあり世俗的である。舞台はピラトが法廷を司る世にも不条理な裁判に始まり、それがたとえどんなに理に反していようが、イエスは死刑の判決を受け、翌日処刑されるということを知っている。
 法廷では、自分が起こした奇跡によって救われた人々が次々にイエスを糾弾する証言をする。カナの婚宴の奇跡の証人として出廷したその時の新郎は「たしかのこの男は水を極上の葡萄酒に変えたが、彼はその能力を披露するのにわざと宴の終盤まで待っていて、私たちの困惑と恥辱を楽しんでいた。もっと早くしていればそれは容易に避けられたものを。そのせいで私たちはまずい葡萄酒を先に出し、極上のものをずっとあとで出す結果になり、私たちは村の笑い者になってしまった」と言った。瀕死の子供をイエスに治癒された母親は「子供が病気だった頃は子供は静かにしていたが、治るやいなや子供は飛び回ったり叫んだり泣いたり、私にはもう休息の時間もなく夜も眠れない」と訴えた。モンティ・パイソン映画『ライフ・オブ・ブライアン』(
1979年、↑写真)を想わせるブラックなユーモアである。このさもしくも小心な人々を前にイエスはさほど苦々しい思いもなく、この世界の不完全を受け入れるように一言も抗弁しない。この人々が待っているのはスペクタクルである。神の子ならばその奇跡をもってこの窮地を逃れてみろ、と皆の眼が言っている。ところが奇跡はないのだ。ノトンブはこの奇跡に相当する能力を「エコルス écorce」と呼ぶ。イエスはこの秘術を会得したが、これを実現するには全身全霊のパワーを要する。フィジカルなものなのである。今やエコルスはなぜ起こせないのか、それはイエスが疲労してしまったからなのである。イエスをこの世に遣わしたとされる父=神は、イエスが生身の肉体を持っているということを考えに入れていなかった、とイエスは思う。このイエスはこの点において神を疑うという冒涜をおかしてしまっている、とイエスは自覚している。

 疲労し、体の痛みを感じ、牢屋での人生最後の一夜は到底眠りにつくことなどできないだろうと思うのだが、知らぬ間に眠ってしまっている、というのが生身の人間の証左。その一夜の思い巡りは、使徒たちのでこぼこな長所短所のことだったり、ユダの欠落した情緒のことだったり、マドレーヌ(マグダラのマリア)との恋のことだったり。イエスはもしもこの神の使者の道に進まなかったら、という選択肢も想像している。それは愛するマドレーヌと共に生き、家庭を築くという「普通の」生涯のことである。愛する女性と共に横たわり、愛の行為を交わし、深い眠りのあとで朝日に目覚め、川で身を清めるという幸福を思う。イエスにとってマドレーヌを最初の一目から愛することになるのは自明のことであり、説明のしようがない。そしてその回想のなかでこうマドレーヌをたとえるのだ。

おまえは私の一杯の水である。p51

 これがこの小説の核心的テーマであるから、それに続く部分を少々訳してみる。

 

渇きで死にそうな時に一杯の水がもたらす満足(快感)に勝るものはない。福音書筆者としてその名に相応しい文才を発揮した唯一の者がヨハネだった。そのゆえもあって彼の言葉は最も信憑性に欠けている。「私の与える水を飲む者は決して渇きを覚えることはない」とは私は一度も言ったことがないし、これは取り違えだったに違いない。(中略)本当のことを言おう、あなたがたが死にそうなほどの渇きの時に感じていることを大切に覚えていなさい。これこそが神秘的高揚なのだ。これは何ら比喩的なものではない。空腹が止むことを人は満腹と呼ぶ。疲労がおさまることは休息と言う。苦痛がなくなることは恢復。ところが渇きがなくなることを表す言葉はない。叡智に富む言語は渇きの反対語を作ってはならないと悟ったのだ。渇きを癒すことはできるが、その渇き癒しを示す言葉は存在しない。神秘的なことなど信じないという人たちは多くいる。だがそれは思い違いだ。死にそうなほどの渇きをひとときでも体験するだけで、この段階に達することができる。喉が渇ききった者の唇に一杯の水がもたらす得もいえぬ瞬間、それは神である。(p51-52)
このことを体験されよ:長い時間死ぬような渇きを耐えしのいだあと、一杯の水をひと息で飲んではならない。一口分を口に含み数秒間口腔にとどめ、それから飲み下しなさい。その驚きを吟味しなさい。その目の眩む感嘆、それは神である。

(同
p53
 Mystère(ミステール)、日本語では神の秘密と書いて神秘。宗教的奥義。ノトンブのイエスは、この神の体験はわれわれ生身の人間の身体でできると言うのだ。肉体を脱却せよ、精神・霊魂をよりどころとせよ、とは言わないのだ。肉体と共に生きていなければならないと言うのだ。 

渇きの苦しみを知るには生きていなければならない。
(本書裏表紙の2行)

 「私」をこの世に遣わした父=神は、「私」に肉体があることを軽んじた。イエスはこの父のエラーを見抜きながら、耐えきれぬ重さの十字架を担ぎ、公開処刑の道を歩んでいく。肉体の苦痛の限界を超える凄絶な苦行はエコルスによって切りぬけよ、と言われているのかもしれない。だがエコルスはない。肉体は限りなく傷つき痛んでいくが奇跡はない。ゴルゴタの丘への死の歩みの中で起こったことはと言えば、十字架の重さにつぶれてしまったイエスを刑吏の命令で十字架を支えてくれたシモン(キレネのシモン)、イエスの顔面に流れる血と汗を拭くために歩み出た至上の楽の音のような声の女ヴェロニカ(ベレニケ)、この二人の登場が魔術ならぬ人間界の奇跡と言えよう。イエスはこの二人に支えられるように、かの丘まで上りきり、十字架にはりつけられた。
(↑写真 マーチン・スコセッシ映画『キリスト最後の誘惑』1988年)
 ノトンブ版受難の書では、イエスが発した最後の言葉は「私は喉が渇いている」であった。十字架につけられたイエスの口の高さまで水を届けることはできない。兵士が水と酢を含ませた海綿を槍の先に刺してイエスの口に近づける

 アメリー・ノトンブは父=神のエラーを超克して、肉体のあるままでそのいまわの時に歓喜の極みである神の瞬間(渇きの止み)を獲得するイエスを描いた。表面的には奇跡など起こっていなかった裁判から処刑までの二日間のうちに、劇的ではない奇跡はいくつも起こっていたわけで、そのクライマックスで渇きの止みというニルヴァーナをもってきた。イエスは自分も神も救済したのである。このヴァージョンはおおいに賛否を呼ぶであろう。

 そしてもう一点。父=神はイエスを愛と信仰を人間に説くために遣わしたのだが、それは教えることができるものなのか、という問題である。愛することは教えられてできることか。おのれ自身を愛するようにおのが隣人を愛せよ、とイエスは説いたが、ノトンブのイエスはその説いたことに自ら疑問を抱いている。小説ではマドレーヌと恋に落ちるイエスが、マドレーヌを愛することに何の理由も説明もないことが強調される。愛せよと教えられて愛することができるか。恋愛にあるのは不可視な光線の交わりだったり、超自然な引力作用だったり、ロジックな説明を超えるものが介在するのである。愛することとはそういうことではないか。神を信じること、信仰することもまた同じではないか。ノトンブのイエスはここにも父=神のエラーを思うのであるが、それを超えるミスティック(神秘的、奥義的)なものは人間の肉体/身体の中にあるのではないか、例えば「渇き」のような

 この身体的なイエス像が、アメリー・ノトンブのパーソナル・ジーザスである。この中で一人称「私」で語っているのは、ノトンブが語らせているイエスにすぎない。言い換えれば語っているのはノトンブである。だが、この身体からの疑いをぶつけてくるイエスは、私にはおおいに説得力があり、ここまでキリスト受難を生身の自分に近づけたノトンブの文学性に脱帽するものである。論議はある。論難にも晒されている。かの「チコちゃん」の逃げのように「キリスト受難には諸説ございます」ではすまされまい。傲慢か勇気か、ノトンブは覚悟の上で「一世一代の作品」と自ら称して発表した。私は賞賛的にこの小説のその後を見守ろうと思っている。

(ラティーナ誌2019年11月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

Amélie Nothomb "Soif"
Albin Michel刊 2019年8月 155ページ 17,90ユーロ


(↓)2019年8月、民放ラジオEUROPE 1で「これは私の一世一代の小説」と断言するアメリー・ノトンブ。


(↓)デペッシュ・モード「パーソナル・ジーザス」(1990年)
 
 
(↓)「私はイエスがわからない」(ミュージカル『イエス・キリスト・スーパースター』 1973年、歌イヴォンヌ・エリマン)

2021年8月12日木曜日

ヌーヴォー・ウェスタン

『トム・メディナ』
"Tom Medina"

2021年フランス映画
監督:トニー・ガトリフ
主演:ダヴィッド・ミュルジア、スリマン・ダジ、カロリーヌ・ローズ・サン、シュザンヌ・オーベール
音楽:カロリーヌ・ローズ・サン、ニコラ・レイエス、トニー・ガトリフ
フランスでの公開:2021年8月4日

度のことではあるが、トニー・ガトリフは素晴らしいアクター/アクトリスを発掘する。前作『ヂャム(Djam)』(2017年)の主演女優ダフネ・パタキアには全面的に魅了された私である。この新作に主演したダヴィッド・ミュルジアもダフネ・パタキアと同様ベルギー人であり、演劇とサーカスの世界にいたという、アクロバティックなアクションと詩的情動が同居する逸材。この不安定でありながらびりびり張りつめている顔がこの映画の魅力のほとんどを決定していると言えよう。
 撮影は2020年、コ禍対策第一回めのロックダウン(3月17日から)の直前に緊急に行われた。 つまり2月から3月、晩冬初春、場所は南仏カマルグ地方。広大な自然保護区内のワイルドな湿原であり、疾走する白い馬の群れ、ピンクフラミンゴなど絵はがき的なショットも映画に挿入される。映画冒頭は(たぶんアルルと思われる)闘技場でのコリーダのシーン。既にトロー(カマルグ産の闘牛用の牡牛)がピステに登場しているのだが、正装したメインのトレアドールが、黒猫が目の前を通ったという不吉な迷信の呪縛に怯んでしまい、周りがいくら説得してもピステ入場を拒み、場内のやんやの声援はやがて怒号に変わっていく。そこへ客席からピステに降り立ったひとりの若者、怯むトレアドールから闘牛帽を奪い、丸腰でトローと対峙し、トローを挑発する。「おまえは何をやっているんだ、出て行け!」の場内の声を無視して、若者はトローを挑発をし続け、突進して向かってくるトローを見るやあわてて逃げ客席スタンドのフェンスにしがみつく。トローが中央に戻ると、若者は再びピステに降り、トローを挑発し、怒るトローの突進にまた客席スタンドへと逃げていく。得意そうな若者の不敵な笑顔、これはショーマンの恍惚に違いない。無鉄砲な目立ちたがりだが、見せ場はつくれる。命知らずのアクロバット。映画のトーンは早くも「ウエスタン」なのである。
 若者は(おそらく数度の軽犯罪の刑罰として)通常は鑑別所送りとなるべきだったところを、民間の身柄預かり元のところで住み込み職業訓練をして、一定の指導期間を終え(民間)監督者から合格証がもらえれば、社会復帰できるというプロセスを履行しに、カマルグ地方の牧場農家に向かう途中だった。身柄引き受け人の名はユリス(演スリマン・ダジ)、カマルグの白馬の飼育牧場の主、既に何人もの軽犯罪受刑者たちを教育更生させてきた”馬喰親方”タイプの屈強頑固な男。ジョン・ウェインを想ってもいい。
 ユリスは前もって若者に身柄受け入れ受諾の手紙と旅費の小切手を送っていたが、その手紙の封も切らず、若者は約束の日から数日遅れて徒歩でやってきた。泥まみれでたどり着いた若者はトム・メディナと名乗った。ユリスがトムの住み込みの寝場所としてあてがったのは、数年前に行方不明になった息子(画家の卵だったようだ)の部屋だった。ユリスが抱える大きな心の傷である。トムは部屋に飾られた息子の絵画(カマルグの馬とトロー)に強く感じ入るものがあり、そこからトリップもしてしまう。これはトニー・ガトリフ映画に共通するものだが、ガトリフ映画のヒーロー/ヒロインたちは、(近代人が失ったであろう)、動物や自然と感応・交感できる”プリミティヴな”能力をそなえている。プリミティヴ&ピュアー、だから現代社会と軋轢があり、排除されがちな人々。
 そしてこの映画で異彩を放つのが、ユリスの娘ステラ(演カロリーヌ・ローズ・サン)で、父に代わって牧場のすべてを任されていて、蹄鉄打ちやら馬の飼育手入れ全般(トムの職業訓練のコーチとなる)をする一方で、農家の一角を閉め切り、爆音音響でギターをかき鳴らして、ほぼデスメタル風サチュレーション・ヴォーカルでがなりたてる、という音楽家。実際カロリーヌ・ローズ・サン(ドイツ出身のシンガー・コンポーザー)は10年ほど前からロック、メタル、シャンソン、声楽などの分野でライヴ活動を行っている。この映画のサウンドトラックにも5曲提供している。この娘は父の右腕であり、カマルグのワイルドな自然の中で強靭に育ってしまったのだろうが、おそらく芸術家肌だった(失踪した)兄との間には確執があったに違いないし、それが父と心の傷を共有するところでもある。
 この世界に飛び込んできたトムは、純な悪ガキのように突っ張りながらも徐々に順応していく。馬で駆けるシーン多し。因みに「カマルグ・ウェスタン」として今日まで最も有名なのは、ジョニー・アリデイ初主演映画『ジョニーはどこにD'où viens-tu Johnny?)』(1963年、共演にシルヴィー・ヴァルタンとピエール・バルー)であった。この能天気な"芸能娯楽”映画とガトリフ映画が全く何の関係もないとは言えない。どちらもどこから来たのかわからない若者が主人公なのだから。
 厳しい目の監督者であり親方であるユリスも人間としての高さを感じさせるものがある。古い印刷の本を読んでいるのだが、それは何かと興味を示すトムに、これはトルバドールの言語(プロヴァンサル語/オック語)で書かれた伝承譚だと、一説を読んできかせる。目を輝かせて聞き入るトムに、おまえのためにこの本のバイリンガル版(オック語とフランス語)を買ってやるよ、と。するとトムは短期間のうちにオック語をマスターしてしまう。ガトリフ映画に登場する流浪者たちの強みは耳と言語センスであり、流れて生きることを多言語で支えている。
 さて、このオフシーズンで人気のないカマルグの湿地帯や浜辺で、ペットボトルなどのプラスチックごみを拾い集めている行動的エコロジストの一団がいる。そのひとりシュザンヌ(演シュザンヌ・オーベール)は、観光地(ジタンの聖地)サント・マリー・ド・ラ・メールの街頭で観光客相手にローズマリーなど香草を売ってわずかな収入を得て、街道脇に留めた古風なルーロット(キャラバン)の中で生活している。トムに芽生えるほのかな恋心。しかしシュザンヌには彼女の両親によって無理やり生き別れにされた3歳の娘がいて、この娘を取り戻して一緒に暮らしたいという悲願がある。この悲願への旅立ちが映画のクライマックスとなるのであるが...。
 プリミティヴ&ピュアーなトムはこの環境でもさまざまな問題を起こす。妻に暴力を振るう夫を現場で見てしまったトムは夫に襲いかかり大怪我を負わせる。トムを警察に引き渡さざるをえないユリスにトムは「女に拳をあげる男を目の前に見て、あんたならどうする?」と詰問する。これは圧倒的にトムが正しいのだ。ユリスとステラはトムの真の味方となるのだが...。
 裁判所出頭命令、晴れて監督期間終了のお墨付きがもらえる日に、トムは姿を現さない。「トム・メディナ」という男は存在しない。でっち上げのアイデンティティーでここまでやってきたが、ユリスには嘘を通し続けられない。貧困と戦乱を逃れて地中海をボートで渡ってきた(その間に同行した弟が命を落とす)素性をユリスに告白し、トムは再び流浪の身となる。その旅は、その日のうちに、愛するシュザンヌとその子を奪還しに行く旅へと変わっていく。二人で徒歩で進む旅へと。エンドマーク。
 これはまさにウェスタンですよ。
 2020年第一次ロックダウン前のカマルグで撮られた緊急感がカメラアイにも明らか。野生の白馬のように御し難く直進型の若者トム、憑物となってトムが幻視してしまう白く光り突進してくるトローのイメージ、サント・マリー・ド・ラ・メールの守護聖人である黒い聖女サラへの安直な祈り.... 現地で浮かんだであろうさまざまなアイディアを乱暴に詰め込んだような編集もいつものガトリフ調だ。ニコラ・レイエス(ジプシー・キングス)の挿入歌(2曲)も直球ど真ん中でこれ以上求められないようなはまり方。美しいカマルグに、どこからやってきたのかわからない美しい黒い瞳の若者が、出会いと苦悶苦闘を経て脱皮し、またどこかへ去っていく。それだけの映画がどれだけ心を射るか。また同じような映画をガトリフは撮り続けるだろう。変わらぬ巨匠の熱情に感謝。

 
カストール爺の採点:★★★☆☆
 
(↓)『トム・メディナ』 予告編


(↓)MC ソラール「ヌーヴォー・ウェスタン」(1994年)