2021年8月14日土曜日

私はイエスがわからない

(←写真はジャン=バチスト・モンディーノ)

2021年8月18日に刊行されるアメリー・ノトンブの第30作めの小説『最初の血(Premier Sang)』を待ちながら。
毎年8月末のノトンブ新作発表はこれで30年続いていて、出れば書店ベストセラー1位になることはわかっている。その印刷されたページの活字ポイントの大きさ、ゆったりした行間と割付、私の仏語力をもってしても数時間で読めてしまうが、そのことが価値を決めるものではない。往々にしてスノッブな私のフランス人交友筋ではノトンブを読む者などひとりもいない。
重要な文学賞レースにはあまり縁のなかったノトンブが2019年に(仏文学賞の最高峰)ゴンクール賞の最終選考まで残り、落選した。おそらく一世一代の作品という気負いを込めて書かれたであろう『渇き(Soif)』は、イエス・キリストの受難を一人称(話者「私」=イエス)で書いた問題作だった。この作家は(その奇抜ないでたちやマスコミ露出のポップさに惑わされずに言おう)ただの流行作家ではない。日本で私が若かった頃のフランソワーズ・サガンのような読まれ方がされてしかるべき、と思うが、悲しいほどに日本語翻訳点数が希少なのだ。それはすべてのフランス現代文学について言えることではあるが。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

アメリー・ノトンブの
パーソナル・ジーザス

(in ラティーナ誌2019年11月号)

  フランスの文学シーズンは毎年8月末に始まる。2019年もこの夏の終わりに各出版社から合わせて524編の小説が発表され、それが11月の文学賞(ゴンクール、ルノードー、メドシス、フェミナ等)発表に向けて、メディアと書店店頭でのプロモーション合戦があり、各賞発表後は受賞作が何万から何十万部の売上を確実なものにする。最高峰の文学賞は言うまでもなくゴンクール賞であり、今年は20世紀文学の金字塔『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト)の第1巻「花咲く乙女たちの影に」が同賞を受賞して100年めという記念すべき年。 
 28
年前から欠かさず毎夏の終わりに新作小説を発表し、毎回ベストセラー1位になることで知られるベルギー人女性作家アメリー・ノトンブは、821日に28作めの作品『渇き(Soif)』を初版18万部という破格の冊数での店頭展開で出版した。この原稿を書いている9月末現在で『渇き』は不動の売上1位を続けていて、のべ30万冊を突破したと言われている。その上長いノトンブの作家キャリアで初めてかの最高峰の文学賞ゴンクールの候補作として、現在第二次選考まで残っていて、1027日の第三次選考(最終4作が残る)、114日の受賞作発表を待つ身となった。

 ノトンブのことは、
201310月号の本連載で、ストロマエと共にその2013年の夏を席巻した二人のベルギー人のひとりとして紹介した。私は日本での商社OL時代の奴隷的な体験を描いた作品『畏れ慄いて』(1999)以来のノトンブ読者であり、日本と関連した作品についてはネガティヴな印象を持った人間のひとりだったが、まさに2013年に本誌に書いた頃から印象が変わり、流行作家風なミノを被りながらもストーリーテリングと哲学的含蓄において当代随一の作家ではないかと思うようになった。それが証拠に私のブログでは日本語訳されていないノトンブ作品が6編も好意的評価で紹介されている。
 
 ノトンブはこの新作『渇き』を、自らの作家としての最も重要な作品テーマとして長年構想を温めていたが、
50歳になった時に機は熟したと判断して書き始めたと述懐している。重要もなにもまず畏れ多いテーマである。イエス・キリストの受難、すなわちエルサレムでローマ総督ピラトに司られた裁判によって死刑判決を下され、翌朝ゴルゴダの丘で磔刑によって命を落としたイエスの最後を、ノトンブが彼女のヴァージョンによって書き直すのである。しかもこの小説の話者「私」はイエスであり、ノトンブは一人称でイエスの言葉を記述するのである。

 この受難はキリスト者ならば新約聖書の四つの福音書で心に刻み付けられているだろうが、そうでない方はウィキペディアなどで軽くおさらいして欲しい。作者は幼少時から変わらぬ信仰(
foi)があり、イエスの信奉者であることを公言している。ならばこれは読むまでもないベタベタのイエス賛美の書か、と言うと、ノトンブにそのようなことがあろうはずがない。四つの福音書の内容を「私=イエス」が修正、場合によっては否定までして綴っていく、アメリー・ノトンブ私家版イエス受難の書である。伝統的で教条的なキリスト者たちが「冒涜」と目くじら立てても不思議ではない(実際ノトンブのもとに少なからず抗議文は来ていると言う)。

 これを書いている私はキリスト者ではない。あえて定義すれば無宗教者だが、長年の滞仏生活と親しんできた諸芸術の影響で、最もよく知る宗教はキリスト教になっている。信仰はない。本記事は聖書をよく知らぬ者が書いていることと前もってご理解いただきたい。

 

 小説はイエスのモノローグ体で書かれている。このイエスは肉体を持った生身の人間であり、好き嫌いも辛辣なユーモアもあり世俗的である。舞台はピラトが法廷を司る世にも不条理な裁判に始まり、それがたとえどんなに理に反していようが、イエスは死刑の判決を受け、翌日処刑されるということを知っている。
 法廷では、自分が起こした奇跡によって救われた人々が次々にイエスを糾弾する証言をする。カナの婚宴の奇跡の証人として出廷したその時の新郎は「たしかのこの男は水を極上の葡萄酒に変えたが、彼はその能力を披露するのにわざと宴の終盤まで待っていて、私たちの困惑と恥辱を楽しんでいた。もっと早くしていればそれは容易に避けられたものを。そのせいで私たちはまずい葡萄酒を先に出し、極上のものをずっとあとで出す結果になり、私たちは村の笑い者になってしまった」と言った。瀕死の子供をイエスに治癒された母親は「子供が病気だった頃は子供は静かにしていたが、治るやいなや子供は飛び回ったり叫んだり泣いたり、私にはもう休息の時間もなく夜も眠れない」と訴えた。モンティ・パイソン映画『ライフ・オブ・ブライアン』(
1979年、↑写真)を想わせるブラックなユーモアである。このさもしくも小心な人々を前にイエスはさほど苦々しい思いもなく、この世界の不完全を受け入れるように一言も抗弁しない。この人々が待っているのはスペクタクルである。神の子ならばその奇跡をもってこの窮地を逃れてみろ、と皆の眼が言っている。ところが奇跡はないのだ。ノトンブはこの奇跡に相当する能力を「エコルス écorce」と呼ぶ。イエスはこの秘術を会得したが、これを実現するには全身全霊のパワーを要する。フィジカルなものなのである。今やエコルスはなぜ起こせないのか、それはイエスが疲労してしまったからなのである。イエスをこの世に遣わしたとされる父=神は、イエスが生身の肉体を持っているということを考えに入れていなかった、とイエスは思う。このイエスはこの点において神を疑うという冒涜をおかしてしまっている、とイエスは自覚している。

 疲労し、体の痛みを感じ、牢屋での人生最後の一夜は到底眠りにつくことなどできないだろうと思うのだが、知らぬ間に眠ってしまっている、というのが生身の人間の証左。その一夜の思い巡りは、使徒たちのでこぼこな長所短所のことだったり、ユダの欠落した情緒のことだったり、マドレーヌ(マグダラのマリア)との恋のことだったり。イエスはもしもこの神の使者の道に進まなかったら、という選択肢も想像している。それは愛するマドレーヌと共に生き、家庭を築くという「普通の」生涯のことである。愛する女性と共に横たわり、愛の行為を交わし、深い眠りのあとで朝日に目覚め、川で身を清めるという幸福を思う。イエスにとってマドレーヌを最初の一目から愛することになるのは自明のことであり、説明のしようがない。そしてその回想のなかでこうマドレーヌをたとえるのだ。

おまえは私の一杯の水である。p51

 これがこの小説の核心的テーマであるから、それに続く部分を少々訳してみる。

 

渇きで死にそうな時に一杯の水がもたらす満足(快感)に勝るものはない。福音書筆者としてその名に相応しい文才を発揮した唯一の者がヨハネだった。そのゆえもあって彼の言葉は最も信憑性に欠けている。「私の与える水を飲む者は決して渇きを覚えることはない」とは私は一度も言ったことがないし、これは取り違えだったに違いない。(中略)本当のことを言おう、あなたがたが死にそうなほどの渇きの時に感じていることを大切に覚えていなさい。これこそが神秘的高揚なのだ。これは何ら比喩的なものではない。空腹が止むことを人は満腹と呼ぶ。疲労がおさまることは休息と言う。苦痛がなくなることは恢復。ところが渇きがなくなることを表す言葉はない。叡智に富む言語は渇きの反対語を作ってはならないと悟ったのだ。渇きを癒すことはできるが、その渇き癒しを示す言葉は存在しない。神秘的なことなど信じないという人たちは多くいる。だがそれは思い違いだ。死にそうなほどの渇きをひとときでも体験するだけで、この段階に達することができる。喉が渇ききった者の唇に一杯の水がもたらす得もいえぬ瞬間、それは神である。(p51-52)
このことを体験されよ:長い時間死ぬような渇きを耐えしのいだあと、一杯の水をひと息で飲んではならない。一口分を口に含み数秒間口腔にとどめ、それから飲み下しなさい。その驚きを吟味しなさい。その目の眩む感嘆、それは神である。

(同
p53
 Mystère(ミステール)、日本語では神の秘密と書いて神秘。宗教的奥義。ノトンブのイエスは、この神の体験はわれわれ生身の人間の身体でできると言うのだ。肉体を脱却せよ、精神・霊魂をよりどころとせよ、とは言わないのだ。肉体と共に生きていなければならないと言うのだ。 

渇きの苦しみを知るには生きていなければならない。
(本書裏表紙の2行)

 「私」をこの世に遣わした父=神は、「私」に肉体があることを軽んじた。イエスはこの父のエラーを見抜きながら、耐えきれぬ重さの十字架を担ぎ、公開処刑の道を歩んでいく。肉体の苦痛の限界を超える凄絶な苦行はエコルスによって切りぬけよ、と言われているのかもしれない。だがエコルスはない。肉体は限りなく傷つき痛んでいくが奇跡はない。ゴルゴタの丘への死の歩みの中で起こったことはと言えば、十字架の重さにつぶれてしまったイエスを刑吏の命令で十字架を支えてくれたシモン(キレネのシモン)、イエスの顔面に流れる血と汗を拭くために歩み出た至上の楽の音のような声の女ヴェロニカ(ベレニケ)、この二人の登場が魔術ならぬ人間界の奇跡と言えよう。イエスはこの二人に支えられるように、かの丘まで上りきり、十字架にはりつけられた。
(↑写真 マーチン・スコセッシ映画『キリスト最後の誘惑』1988年)
 ノトンブ版受難の書では、イエスが発した最後の言葉は「私は喉が渇いている」であった。十字架につけられたイエスの口の高さまで水を届けることはできない。兵士が水と酢を含ませた海綿を槍の先に刺してイエスの口に近づける

 アメリー・ノトンブは父=神のエラーを超克して、肉体のあるままでそのいまわの時に歓喜の極みである神の瞬間(渇きの止み)を獲得するイエスを描いた。表面的には奇跡など起こっていなかった裁判から処刑までの二日間のうちに、劇的ではない奇跡はいくつも起こっていたわけで、そのクライマックスで渇きの止みというニルヴァーナをもってきた。イエスは自分も神も救済したのである。このヴァージョンはおおいに賛否を呼ぶであろう。

 そしてもう一点。父=神はイエスを愛と信仰を人間に説くために遣わしたのだが、それは教えることができるものなのか、という問題である。愛することは教えられてできることか。おのれ自身を愛するようにおのが隣人を愛せよ、とイエスは説いたが、ノトンブのイエスはその説いたことに自ら疑問を抱いている。小説ではマドレーヌと恋に落ちるイエスが、マドレーヌを愛することに何の理由も説明もないことが強調される。愛せよと教えられて愛することができるか。恋愛にあるのは不可視な光線の交わりだったり、超自然な引力作用だったり、ロジックな説明を超えるものが介在するのである。愛することとはそういうことではないか。神を信じること、信仰することもまた同じではないか。ノトンブのイエスはここにも父=神のエラーを思うのであるが、それを超えるミスティック(神秘的、奥義的)なものは人間の肉体/身体の中にあるのではないか、例えば「渇き」のような

 この身体的なイエス像が、アメリー・ノトンブのパーソナル・ジーザスである。この中で一人称「私」で語っているのは、ノトンブが語らせているイエスにすぎない。言い換えれば語っているのはノトンブである。だが、この身体からの疑いをぶつけてくるイエスは、私にはおおいに説得力があり、ここまでキリスト受難を生身の自分に近づけたノトンブの文学性に脱帽するものである。論議はある。論難にも晒されている。かの「チコちゃん」の逃げのように「キリスト受難には諸説ございます」ではすまされまい。傲慢か勇気か、ノトンブは覚悟の上で「一世一代の作品」と自ら称して発表した。私は賞賛的にこの小説のその後を見守ろうと思っている。

(ラティーナ誌2019年11月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

Amélie Nothomb "Soif"
Albin Michel刊 2019年8月 155ページ 17,90ユーロ


(↓)2019年8月、民放ラジオEUROPE 1で「これは私の一世一代の小説」と断言するアメリー・ノトンブ。


(↓)デペッシュ・モード「パーソナル・ジーザス」(1990年)
 
 
(↓)「私はイエスがわからない」(ミュージカル『イエス・キリスト・スーパースター』 1973年、歌イヴォンヌ・エリマン)

2 件のコメント:

witmic@Jipang さんのコメント...

アダモの明日は月の上で、からここにたどり着きました。身に沁みる考察。楽しみにしています。お身体大切に、書き続けてください。

Pere Castor さんのコメント...

witmic さん、ありがとうございます。
極端にコメントの少ないブログなので、たいへん励みになります。
弱音は吐かないようにしたいんですが、先週から始まった新治療の副作用がかなりきびしく、ブログ更新が思うようにいきません(書きかけ3件あります)。ゆっくり休みながら少しずつやっていきますので、これからもたびたびお越しください。