2018年9月19日水曜日

突然炎のごとく

Christine Angot "Un tournant de la vie"
クリスティーヌ・アンゴ『ある人生の転換期』

 「クリスティーヌ」という名前が一度も登場しないクリスティーヌ・アンゴの最新小説。2015年の前作『ある不可能な愛(Un amour impossible)』は、卑劣漢だった亡き父とその不実な男を愛し続けた母、そして十代(14歳から17歳)の時に父親から性暴行を受けていた娘の三角関係において、後年になってからの母と娘の一連の対話を通じて、ある不可能な愛が存在したと検証する深い作品だった。あれから事情は変わり、アンゴは今や国営テレビ土曜深夜の人気トークショーのレギュラー超辛口批評家として全国民に知られるパーソナリティーとなった。ノトンブなどと違って決して大多数の読者に評価される作品を出してきたわけではないアンゴが、2016年以前とは比べ物にならない知名度を獲得したわけだが、テレビレギュラー出演の前と後では小説も変わってしまうだろうな、という危惧はあった。テレビは怖い。その怖さとは、芸能誌・ピープル誌および黄表紙ウェブの晒し者となることを余儀なくされることで、文学作品もあのテレビ人の書いたことか、という見方をされることであった。
 アンゴはそんなものなにひとつも恐れはしない。3年ぶりの新作は、極私的オートフィクションのど真ん中の直球ラヴストーリーで、ピープル誌/黄表紙サイトがこの作中人物の実物は誰々でといったことを喧しく言おうが、そんなものはどうでもいい。長くアンゴ作品と付き合ってきた者たちには、これが今から10年前の小説『愛人市場(Le marché des amants)』の続編であることがすぐわかろう。ある種のプチブル/パリ左岸派的な文芸人であった「クリスティーヌ」(47歳)が、パリ18区/北郊外系ラップ・アーチストである「ブルーノ」(32歳)と、年齢/身分/環境/文化的温度差を越えた電撃的な恋に落ちるのだが、二人の間のさまざまな境界をすべて越えることがついに叶わず、「クリスティーヌ」はこちら側に残る。だが向こう側に開きかけた扉を閉めずに支えてくれたのが、「ブルーノ」の親友である「シャルリー」で、「クリスティーヌ」と「シャルリー」の恋仲になりかけるところでその作品は終わっている。知らなくてもいいことであるが、「ブルーノ」とはリアルな世界においてはドック・ジネコことブルーノ・ボーシールで、「シャルリー」とはマルチニック島出身のサウンドエンジニアであるシャルリー・クロヴィスである。クロヴィスの前妻との間にできた4人の子供は、2011年のアンゴの小説『子供たち(Les Petits)』で克明に描かれ、それがプライバシーの侵害として件の前妻に裁判で訴えられ、アンゴは敗訴している。これも知らなくてもいいことではあるが。
 さて『愛人市場』の10年後の続編『ある人生の転機』は、「ブルーノ」は「ヴァンサン」、「シャルリー」は「アレックス」と名が変わっていて、話者「クリスティーヌ」は名前が一度も登場しない「私 je」となっている。これまで何度となく訴訟沙汰になって敗訴し続けていることへの対策かもしれない。
 もうかれこれ9年も同棲関係を続け、安定した愛情関係を保っているアレックスと「私」だが、9年前に激しく短い狂熱的な恋愛関係にあったのに姿を消していたヴァンサンの姿を垣間みてしまう。「私」はそのあまりの衝撃に理性的思考と平衡感覚を失ってしまう。音信不通だった音楽アーチストのヴァンサンは、アレックスに連絡を取り、サウンドエンジニアの仕事があるから、もう一度俺の元で働いてくれ、と。つまり「公然と」現れてしまう。そして「私」との関係も修復したい、と。「私」は動転しているが、衝動はすでにこの誘いに抗うことができない。さあ、どうするのか。これは36通りも答えがあるわけではなく、アレックスと別れてヴァンサンと復縁する、ヴァンサンを諦めアレックスと添い遂ぐ、どちらも捨てる、どちらも取る、ぐらいしかチョイスはない。揺れる「私」には虫が良いとわかりきっていても「どちらも取る」が 最良なわけだが...。
 この三角関係において一番弱い立場にあるのがアレックスである。マルチニック島出身の褐色の肌+ドレッドロックのサウンドエンジニア(無名ではあるがミュージシャンでもある)で、アーチストとして成功している(グアドループ島の血をひく褐色のラップアーチスト)ヴァンサンと違い定職定収入がなく、著述業である程度高収入の「私」のヒモのように生きている。別れた妻との間に子供もあるが、会いに行くこともままならない。「私」との同棲はアレックス+「私」の娘(この小説ではほとんど登場しない)+「私」の3人暮らしであるが、これが9年間続いたのは、ひとえにアレックスの安定した抱擁的愛情のおかげであり、「私」はこれは何ものより代え難いと悟っている。たとえ文無しであろうとも。
 しかし「私」を全く寄せ付けないアレックスとヴァンサンの堅固な親友関係というのがあり、ワゴンバスで寝食を共にしてツアーするミュージシャン仲間、カリブ系褐色人同士のブラザーシップという「私」以前に存在していた一種の"兄弟仁義”である。われながら兄弟仁義とはうまく喩えたものだが、この場合兄貴分はヴァンサン、弟分はアレックスでありこの上下関係は崩せない。これはその前作と言える『愛人市場』で「クリスティーヌ」が越境しようとしてもたどり着けなかったあの向こう側であり、ヴァンサンとアレックスが自分には見えない裏の会話をしているような疎外感も「私」は抱いている。それは極端には「私」のことも二人で裏取引をしているのではないか、という疑いにまで至る。
 「私」はどちらも失いたくない。抗しがたい情動としてはヴァンサンに強烈に持っていかれそうになるのだが、それに正直になることはアレックスを失うこと。小説の前半は「私」のどうしようもない身勝手さを包み隠さず出してしまう。両者を天秤にかけてメリット/デメリットを比べたりもする。どうしようもない。キリキリと神経を逆立てて、何が真実なのかを探そうとする。それはこの愛は本物なのか、相手の愛は本物なのか、自分の愛は本物なのか、という問いである。問い詰めである。クリスティーヌ・アンゴはこの問い詰めにおいて容赦はしない。ダイアローグにおいて、相手が気に触れる何かを言えば、それを繰り返し引き出して何度でも問い詰めていく。この作家はそうやって言葉で真実を探していくのだ。ところがアレックスもヴァンサンも、そういう理詰めを超えて不透明になったり意固地になったり解釈不能になったりする、ということもこの作家は書けるのである。この判断停止を余儀なくされる壁に打ちのめされるのも「私」なのだ。
 アレックスはヴァンサン再登場という激変事に、初めからはじかれるのは自分だという予想があった。自分には勝ち目がない。そして下手に出て「自分に身を引いてほしいのなら、はっきり言ってほしい、俺はマルチニックに帰る」と「私」との口論の度に言うようになる。「私」はその度にアレックスを絶対に離さないと説得せざるをえない。しかしヴァンサンに強烈に惹かれていることを隠そうともしない「私」を前に、アレックスはどんどん不幸になる。その上アレックスにとってヴァンサンの兄貴分的優位もどんどん重くなっていく。
 この記事の標題につかったトリュフォー映画『突然炎のごとく(JULES ET JIM)』(
1962年)がこの小説の中に登場するのは、アレックスと「私」が同棲するアパルトマンにヴァンサンがひょっこり現れ、ヴァンサンの手料理でパスタを3人で食べ、緊張のない和やかなひと時を過ごしたあとである。男二人は外出すると言うので、その前に「私」がパソコンに映画をダウンロードするのをアレックスに手伝ってくれ、と頼む。

ー どの映画が欲しいんだ?
ー 『突然炎のごとく』、トリュフォーの映画よ。
彼は後ずさり、椅子が倒れてしまった。
ー なぜこれを観たいんだ?
ー アレックス、私がこれを観たいだけよ。何が問題なの?
ー それはひとりの女と二人の男の映画だろう?
ー 今度は私の観る映画を制限しようと言うの? 私を検閲するの? あなたどうしたいの? 少し行き過ぎじゃない?
口調が高ぶった。そこへヴァンサンが入ってきた。
ー 一体何を二人でまた口論してるんだ?
ー  アレックスが私が『突然炎のごとく』を観ることに賛成じゃないの!もう狂ってるわ!次は私が読むものまで制限するんじゃない?
ー アレックス、やってやれよ。トリュフォーはいい映画だ。だけど俺の意見ではね、きみはギャバンが出てる『猫』(註:1971年ピエール・グラニエ=ドフェール監督映画。シムノン原作。相手役にシモーヌ・シニョレ)を観た方がいいと思うよ。もう観たかい?いつも口論ばかりしている人たちの映画さ。
ー ヴァンサン、私はもうこの男についていけないわ!検閲官よ。私には私が観たいものを観る権利がある。もう狂ってるわ。彼にどうかしてるんじゃないのって言ってやって。
ー アレックス、トリュフォーの映画なんだから、いいだろう、もうやめろよ。
ー ほうら見たことか。言ってやってよ。彼はあなたの言うことしか聞かないのよ。あなたは彼のご主人さまなの?
ー そうイラつくなって。さあ映画をダウンロードしてやれよ。
ー 彼はあなたの言う通りのことをするわ。彼はあなたの言うことしか聞かない。ご主人さまと奴隷だわ。
ー さあ外に散歩に行くよ。きみも俺たちと一緒に来いよ。
ー 誰が行くもんですか。
(Christine Angot "Un tournant de la vie" p.99 - 100)

 トーンはわかるのではないだろうか。アレックスはどんどん立場を失っていく。小説はヴァンサンとの密会の機会を狙う「私」がどんどん露呈していき、ヴァンサンが「私」に仕事依頼と称してシナリオを書かせるために一緒に海浜ホテルに同宿するなど、後戻りができないほど情動は高揚してしまう。アレックスもまた夢中でヴァンサンとツアー仕事をするようになるが、「兄貴いい奴」感は屈折し、「俺さえ身を引けば」と「ヴァンサンに取られたくない」は交錯して自暴自棄傾向を増していく。それは激昂のあまり「私」を"pute(ピュット)"と罵ってしまう。ピュット驚くタメゴロ〜。生まれてこのかた誰からも言われたことのないこの言葉を言われたら「私」は絶対許すわけにはいかない。二人の9年間の愛の巣を出て行く「私」であったが...。
 大転換はその後でやってくる。長年のミュージシャンおよび裏方生活で身にたまったアルコールと煙草とドラッグ、そしてヴァンサン再登場以来の「私」との激しい確執と精神ストレスの末、アレックスは腎臓機能を完全に麻痺させて倒れてしまう。それはその後のアレックスの余命に関わる重大なもので、腎臓移植なしには人工透析で生き延びるしかない。この段階で「私」はアレックスに添い遂げる決意をするのである。そしてヴァンサンがどんどん偽物っぽくなり、彼女が求めていた愛の真実はそういう結論にしよう、という収拾に向かうのである...が....。
 いつものアンゴの小説のような勢いで読ませるリズムは前半にはなく、途中で読むのどうしようかなとためらったことあり。特に多く出てくるダイアローグは、どうしようもない痴話げんかレヴェルのものもあり、郊外ミュージシャンのインテリジェンスの欠如を揶揄しているようなニュアンスもあり。『愛人市場』で描かれた「向こう側」の二人の男の現実にやっとアンゴがリアルに実体験したかのような。しかし「私」の身勝手な愛はやはり結論に近いものを見つけて終わらせるのですよ。キリキリとした緊張感を最後まで保ちながら。そして "Un tournant de la vie(人生の転換期)"はボロボロでやってくる。これはクリスティーヌ・アンゴさ。

Christine Angot "Un tournant de la vie"
Flammarion刊 2018年9月8日  182ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)パリ4区レ・カイエ・ド・コレット書店で9月8日に開かれた『Un tournant de la vie』出版記念クリスティーヌ・アンゴを囲む会。



2018年9月15日土曜日

いつも心にホホマニを ー ラシッド・タハ頌

シッド・タハが9月11日の夜心不全で「眠りのうちに」亡くなりました。59歳でした。80年代から同時代で追ってました。支持してました。私も移民の端くれですから。Carte de Séjour(キャルト・ド・セジュール=滞在許可証)というバンド名に込められた「B級市民」の意思表示を私も共有しました。ラシッドはフランス国籍を取らなかった。アルジェリア国籍の外国人居住者だった。理由はともあれ、私もフランス国籍を取らない頑迷で誇り高い外国人だった。2度楽屋で会って二言三言言葉を交わしたことがあるが、アルコールがひどくて全然聞き取れなかった。この人には話してもホラ&大言壮語が返ってくるだけだと言われていたが、聞き取れなかったけどそういうことだったろう。ましてや面識のないアジア人である私とは。だけど支持してましたよ。

 私は多くは語れませんよ。だけど、84年「ホホマニ Rhorhomanie」の衝撃はストレートだったし、向風三郎の『ポップ・フランセーズ』本でも「ホホマニ」はかなり熱く書いた記憶がある。デビュー時からカンタベリー派英人スティーヴ・ヒレッジ(元ゴングのギタリスト)がなぜこれに惚れ込んでプロデュースを買って出たのかもなんとなくわかった。ずっと後年、アルコール+ドラッグ+女性関係がこのおセンチな万年少年を消耗させていったのもなんとなくわかった。多くは語れませんよ。悲しいけれど熱心なファンではなかったから。だが、テレラマ誌のワールド欄主筆のアンヌ・ベルトーが素晴らしい追悼記事を書いてくれた。よくわかります。ラシッド・タハ、お見それしました。今、本当にいたわしい気持ちになっています。以下アンヌ・ベルトーによるタハ追悼記事の全文訳です。

この歌手は心臓発作のため59歳で亡くなった。ライとシャービを今日の嗜好にアップデートさせた、トラッシュであると同時に気高い煽動者であった。
すでに数年前から彼が衰弱していたのは周知のことだった。しかし彼は毎回帰ってきた、時には虫の息だったけれど、常に大きな顔をして帰ってきた。だから彼は不死身なのだとみんな思うようにもなっていた。ラシッド・タハ、80年代の伝説的なバンド、キャルト・ド・セジュールのリーダー/ヴォーカリスト、私たちの贔屓のアラブ・ロックンローラーは2018年9月11日火曜日の夜、心臓発作で59歳(数日後の9月18日に60歳になるはずだった)という阿呆のような年齢で亡くなった。タバコを咥えながら、嘲るような眼差しで、帽子を目深におろして私たちに決別の挨拶をする姿が見えるようだ。それは「ブラック=ブラン=ブール」(註:90年代、特に98年W杯優勝の時に言われた、黒人=白人=アラブ人の調和的共同体)のフランスの殿堂の入り口に所在なく姿を見せ、バーのカウンターはどこかと問い、そこに肘をついたとたん威嚇的大声で「糞食らえってんだ!」と言い放つ姿のような。
ほぼ40年前、これと同じ激情でもって彼はリヨンでキャルト・ド・セジュールというロックバンドを結成した。移民排斥法であったストレル法(1977年)とボネ法(1980年)への反撃として。このバンドは尊大さあふれるアラブ語ロックを連発し、人々の意識を目覚めさせた。第二世代となったマグレブ出身者のフランス社会は火をつけられたように盛り上がった。バンドがマグレブの古いしきたりであるマリアージュ・アランジェ(親族同士で調停契約して決められる結婚)を告発した場合も含めて。マグレブ第二世代はそのスポークスマンを得たのだ。1986年パスクワ(内相)の移民法に反撃し、オラン(アルジェリア)生まれで10歳でフランスに上陸した少年は、コーラン教育学校から修道院系中学校への転校を経て、28歳の皮肉をこめてシャルル・トレネの「優しいフランス Douce France」(それは彼が成長した70年代のフランス:最初はアルザスで、父親がブーサック社繊維工場で工員の職を得た。ついでヴォージュ地方...)をカヴァーした。「彼は勇ましく闘士的で、運動における仲間意識を体現していた」とジャック・ラングは敬意を表して悼んだが、当時ラングはこのキャルト・ド・セジュールの「優しいフランス」のシングル盤を、ラシッド・タハとシャルル・トレネと一緒に国会前で議員たちに配ったのだった。

1989年のバンド解散のあと、このシンガーは90年代にソロアーチストとして飛翔する。よりロックで、よりエレクトロに。彼は冷やかし付きのライマン(ライの歌い手)で、アルジェリアの古典的楽曲を当時のパンク的嗜好で再生(アルバム "DIWAN"と"DIWAN 2")し、「ヤー・ラヤー」(アルジェリア人ダフマン・エル・ハラシのシャービ名曲)をダンスフロアーにも通用する世代を超えたヒット曲に変えてしまった。そして1998年その「1.2.3 ソレイユ」の仲間たるハレドとフォーデルと共に満杯のベルシー総合室内運動場を踊り狂わせたのだ。その後の10年、彼は「シャービのジョー・ストラマー」だった。テット・レッドのクリスチアン・オリヴィエと「テキトワ」(警察による人種差別的顔面判断への抗議)を、クラッシュのミック・ジョーンズと「ロック・エル・カスバ」を歌った。その他、ブライアン・イーノ、U2、コールドプレイとも共同作業した。
しかしその後、反逆児はその頂点から堕ちてしまう。ある者たちは彼は終わったと言い切った。飲酒、あらゆる種類の過剰摂取、そして彼が絶対語ることがなかった遺伝子系の病気、それらが彼の偉大さを失わせ、それはステージの上にまで露呈し、彼が最悪の状態を人前に晒しさえした。
2011年のある夜、私たちがリラ(パリ郊外)の彼の自宅アパルトマンで取材した時、彼がそのドアを開けたとき仰天した様子だった。みっともない出で立ちで、両脚はふるえていて、私たちとのアポを完全に忘れていたことは明らかだった。私たちをサロンに置き去りにして、外套をはおり、「ここを動かないでくれ、ちょっと買い物をしてすぐ帰るから!」と。30分後シャンパーニュの瓶2本を持って戻ってきた。シャンパーニュをグラスに2度注ぐ間に、彼が選曲するのに何度もいらいらしたあげくやっと見つけたバシュングの "Blue Eyes crying in the rain"をバックグラウンドで聴きながら、私たちの会話はあらゆる方向に拡散した。「プチ・ブーニュール petit bougnoule」(北アフリカの貧乏小僧)だった子供時代のことや、「窓と女を金網張りで閉ざす土地の愚かなアラブ人たち」のこと、ジダンのこと、作家アズーズ・ベガグ(シラク大統領期の機会均等推進担当大臣だった)にレジオン・ドヌール勲章候補に推薦されたが拒否した話などなど...。
彼は息子のアイレス(Eyles。職業マヌカン)のことも語った。「母親はフランス人?」という質問に、彼は「アルジェリア人と公言すべきだ!」と答えた。それから彼の失恋話も。かつてはするどく辛辣な言葉のプレイボーイとして鳴らしたタハだが、そんな彼にもブルースも優しい心もあったのだ。実はちょうどその夜も「ランデブー」の約束があったのだ。再び彼は姿を消し、5分後に再登場したときには、すみれ色のパンタロン、白革のバブーシュ靴で王子様のように変身していた。
私たちのインタヴューはタクシーの中まで続き、ヒット曲しかかけないFMラジオを聴きながら、話題はコーランにまで及んだり、脈絡もなく「カビリア人はみんな牡蠣を開けられるが、みんな牡蠣が大嫌いなんだ」と話が飛んだ。 行き先はシャングリ・ラ、5つ星高級ホテル、足をふらつかせながらもロックスター氏は大君のように入場し、うやうやしくドアボーイに案内されていった。夜も更け、彼の少数の取り巻くグループに向かって「さあ、みんなVIPラウンジに行こうぜ!」と呼びかけたところで、私たちはそのエネルギーに負けてしまい、そこでおいとますることにしたのだ。
これこそがラシッド・タハだった。トラッシュと気高さの混じり合い、お祭り騒ぎと厳しさの混じり合い、大仰なハッタリと単純さの混じり合い。メニルモンタン通りカフェ・デ・スポールとビュット・ショーモンの丘ローザ・ボヌールの常連、その気になればバブーシュ靴をはいてシャンゼリゼ大通りを行進することもできる。
その2年後(2013年)、アルバム "Zoom"(ブライアン・イーノ、ミック・ジョーンズ、ロドルフ・ビュルジェとのコラボレーション作)で再びシーンの前面に戻ってきた。ウーム・カルトゥーム、カート・コバイン、エルヴィス・プレスリーの幽霊に憑かれ、ゲンズブール風霊感に包まれた暗いアルバムであった。トリアノン劇場でのコンサートで、私たちは往年の大いなる宵のラシッド・タハの復活を見た。弱ってはいるが、才能あるマンドール奏者にして素晴らしいヴォーカリストでもあるハキム・ハマドゥーシュに支えられ、格の違いを見せつける未体験のロックンロールを展開した。ロドルフ・ビュルジェとミック・ジョーンズを従えて不朽の名曲「ヤー・ラヤー」を歌い出すときに、タハは「この歌はあんたたちも爺と婆なんだってことをわからせてくれるだろうよ、この間抜けども!」とわめいた。

最近録音を終え2019年にBelieveレーベルから発売されることになっているアルバムの曲 "Je suis africain(俺はアフリカ人)"もうすぐ聞けるのだろうか?もちろんだ。フランス国籍を申請したことなど一度もなかったラシッド・タハはアルジェリア人であり、マグレブ人であり、ロックの言語を話すことで彼はガリア人(フランス人)たちや海峡の向こう側のポップスターたちを結集させることができたのだ。
2016年、「ライの30周年」イヴェントで私たちは再び彼に会うことができた。メニルモンタンのカフェ・デ・スポールのテーブルにつき、周りにはハキム(ハマドゥーシュ)、プロデューサーのミッシェル・レヴィ(フランスの"ムッシュー・ライ")、そして近所の友人たちがいた。大口叩きで酔っ払い、だが決して一本の線を見失うことはない男、彼のことはそう記憶しよう。彼はハキムに隣の薬局に「歯の接着剤」を行かせたのだ。たった今落としてしまった切歯の端まできらめく男なのだ。一言で言えばユニーク。

アンヌ・ベルトー
(Web版テレラマ、2018年9月12日)

(↓)"Ya Rayah" 1997年オフィシャルクリップ


(↓)9月13日、フランスのニュース専門TV局FRANCE 24の16分追悼特番。

2018年9月1日土曜日

やめられないとまらないエピセーヌ

Amélie Nothomb "Les Prénoms Epicènes"
アメリー・ノトンブ『わが名はエピセーヌ』

 レノン・エピセーヌ(prénom épicène)とは、男名前でも女名前でも通用するファーストネームで、フランスではカミーユ(Camille)、フレデリック(Frédérique)、マクシム(Maxime)などがありますが、この小説で登場するのはドミニク(Dominique)とクロード(Claude)です。エピセーヌ名前の二人、ドミニクという女性とクロードという男性が出会って夫婦になり、娘が生まれます。 そこで娘につけた名前がエピセーヌというのです。エピセーヌの二人から生まれた子供がエピセーヌ。ここまで読んで、なんともはやくだらん、と思われたムキもありましょうね。
 ところがこのエピセーヌという名前は歴史的に由緒あるものなのです。英国17世紀、ウィリアム・シェイクスピアの同時代人の詩人・劇作家にベン・ジョンソンという御仁がおって、その代表作のひとつが『エピシーン、またの名を無口な女 (Epicoene, or the Silent Woman)』(初演1609年)です。音が何よりも嫌いで防音屋敷に住む偏屈老人モローズは、子がないために死んだら財産をすべて大嫌いな甥のドーフィンに取られてしまう。それを避けるためになんとか結婚相手を探して今から子作りをしようと。見つけてもらった嫁は1日に6語しかしゃべらないという寡黙なエピシーン。ところがいざ結婚すると豹変して立て板に水のように1日中しゃべりっぱなし。モローズはこれはたまらん、こんな地獄を味わうんだったら、甥に財産を譲った方がまし、と書類にサイン。しかしわかたのはこのエピシーンは、ドーフィンが育て上げ意のままに動くようになった女装の少年であることがわかる....。
 ジェンダーフリーな名前をしたジェンダーフリーな人物だったというわけです。このベン・ジョンソンの作中人物に魅せられたドミニクとクロードが、このエピシーンという名前をいただいて、フランス化してエピセーヌとして娘につけたのです。しかしこのノトンブ小説はジェンダーを主題にしたものではありまっせん。
 2017年の前作『己が心臓を叩きたまへ(Frappe-toi le coeur)』のテーマは「嫉妬」でした。2018年新作のテーマは「復讐」です。ここ数作に続いている寓話調の展開で、最初は荒唐無稽なストーリーの始まりのような印象さえあります。なにしろ「名前」の話ですから、こんな名前の人はその名前に縛られた運命で生きてしまうみたいな安直物語なんじゃないか、という危惧ですね。ノトンブを甘く見ないで。大丈夫大丈夫。
 物語の最初は1970年です。イントロは男女の別れです。ついさきほどまで燃えるような愛情交わりをしていた25歳の男女、男が求婚するが、女が大企業の御曹司にプロポーズされてパリで大ブルジョワの妻として暮らす、と告げ、男を捨てる。男は一生の女性に見限られ、極度の上にさらに極度の忿怒のあまり、復讐を心に誓う。
 本編に入って、ところはフランスの西の果てブルターニュのブレスト。土地の小さな貿易会社テラージュ社に勤める目立たない25歳の女ドミニクの前に忽然と現れ、シャンパーニュをおごる男クロード、一目惚れしたとその後もデートに誘う。男を知らぬおぼこではないが、"ravissante"(うっとりするほど美しい)とは言われたことがないドミニク、自分とは無縁のことのようにうっちゃっておこうとするがどこか気になる。3日後の2度めのデートで、男はパリに会社を設立するために奔走していると言い、近い将来そのトップとしてパリで暮らすことになる、と。田舎娘のドミニクには一度も足を踏み入れたことのないパリなど遠い世界だったが、特段憧れもあったわけではない。田舎の誘惑者によくあるホラっぽい「パリに連れていってやる」の類かと思いきや、その設立予定の会社が彼女が勤めるテラージュ社のパリ支社であると知り、信用していい話かも、と。これらすべてが壮大なるクロードの復讐計画の緻密に計算されたディテールであった、というのがわかるのは小説終盤のことだがそれはそれ。パリやら企業トップやら「本物の恋」やらが自分とは無縁のものと決めつけていたドミニクを少しずつ揺さぶっていくクロード。その決定打が、なんとシャンゼリゼの香水店で買ってきたお土産の「シャネルの5番」なんですぜ。どこの田舎でこんな古典&古典、俗悪ですらある女騙し道具にひっかかる女があるものか、と思うでしょうが、ノトンブの描写は違う。この香りの陶酔を一切の揶揄皮肉なく、見事に描くパッセージ、素晴らしい。このシャネル5の魔法は本物なのである。
 小説全体で現代ブルジョワ社会の象徴として(ブランドとしての)シャネルと、(実生活でノトンブが紅茶代わりに飲んでいるという)シャンパーニュのドーツ(Deutz)が随所に登場します。この辺のエレガンスを悪びれずに称賛的に書いてしまうノトンブですが、堂々としたものだなあと思いますよ。
 さてドミニクとクロードは結婚して、パリ右岸エチエンヌ・マルセル通りに居を構えます。庶民的なレ・アール地区なんですが、これをクロードは人に言う時は「ヴィクトワール広場近く」と言うようにドミニクに強調します。その方がシック(原文のまま chic)に聞こえるから。クロードは何かにつけてこのアッパークラスへのこだわりがあります。テラージュ・パリ支社は最初環状線の外のサン=トゥーアンに社屋を構えますが、商才に長けた若きビジネスマン、クロードの手腕でぐんぐん成長し、パリ市内バティニョール地区に移転して大社屋になります。とにかくパリのアッパークラスに食い込もうという上昇志向です。そして住居も庶民的パリ右岸から、シックなパリ左岸7区ブルゴーニュ通りに引っ越していく。この時はドミニクに「ブルゴーニュ通りに住んでいる」ということを強調するように言うのです。絵に描いたようなブルジョワ志向ですが、ブルターニュからパリ右岸そしてパリ左岸という道程にノトンブはスタンダール小説的な立身出世ストーリー性を重ねるわけですね。言うまでもなくノトンブはベルギーの人ですから、今のようなパリ左岸人になるまでにさまざまな道程を越えてきたという自身のストーリーもあるようです。
 ずっと子供を望んでいて(しかも3人も欲しかった)そのためには毎晩でも性交するクロードの願いはなかなか叶わず、やっと4年目の1974年9月、ドミニクが死ぬほど苦しんだ挙句に女児を出産。上で述べたように、名前はエピセーヌ。しかし待望かなったはずなのに、クロードは生まれたとたんにこの子を激しく憎悪してしまう。これも小説の終盤でクロードから述懐されることなんですが、一目見たとたん、この子は自分に似すぎていると悟ったからなのです。クロードの壮大で綿密な復讐計画の唯一の失敗がこのエピセーヌの誕生であった。そんなことも知らず、子供はドミニクの愛を一身に受けてすくすく育っていきます。物心つくと自分は父親から愛されていない、と言うよりははっきりと嫌われている、ということがわかってしまう。この嫌う父と嫌われる娘の間に立たされるドミニクは、娘をかばいながらも夫を咎めることができない、弱くて薄い存在なのです。なぜならどんなことがあっても1970年のシャネルの5番以来、クロードはドミニクの「生涯の男」であり続けていたのです。サイテーなのは(これも後年のクロードの述懐からですが)クロードは弱くて薄いゆえにドミニクをほぼ完璧に操作することができたということです。終盤の終盤では「存在すらしない女」と言ってしまいます。それはそれ。
 この小説のすごいところは、クロードという怪人物を父としてそれから徹底的に忌み嫌われる娘エピセーヌが、その憎悪において父を凌駕してしまう、つまり父が娘を嫌う数倍の憎悪でもって娘が父を嫌い、10歳のみそらでいつか父を殺してやると心に決めるのです。そのいつかは長い時の末であることはわかっている。この執念深さこそ、クロードとエピセーヌに共通するものであり、クロードからエピセーヌへのDNAであると言えるのですね。
 エチエンヌ・マルセル通りで幼い日々を過ごすエピセーヌにはたったひとりの親友サミアがいました。大家族で、兄弟姉妹がたくさんいて、いつも美味なミントティーを作ってくれる母親、エピセーヌを見ると頬ずりして抱きしめ「ここはおまえの家だから」と言ってくれる父親、エピセーヌの三人家族とは全く対照的な世界です。ノトンブには珍しく社会格差やレイシズムの問題が登場します。切っても切れない親友同士となってもバックボーンの違う二人は引き裂かれます。クリッシェではありますが、ある日、サミアからの電話をたまたま居合わせた父クロードが取ってしまい、こういう黒々とした悪意丸出しのセリフが飛び出します。
「アロー? きみがサミアだね、モロッコ人アラブよろず屋の娘だろう... なんだってきみの父親はアラブよろず屋じゃないって? フランスでアラブよろず屋じゃないモロッコ人なんて存在するのか? 待ちたまえ、娘が目の前にいるから代わるよ...」 
この直後、エピセーヌはサミアから絶交を言い渡されるのです。サイテーっしょ。この日エピセーヌは心の日記にこう記します「1985年11月19日はわたしが死んだ日。享年11歳。」
 この日からエピセーヌは深海魚と化すのです。より正確にはあの古代魚シーラカンスに。生態環境が種に適さなくなった時、次にその環境が再び適したものに戻ってくるまで、この魚は死のような眠りの潜伏期に入れる。エピセーヌは深々と仮死期に入り、寡黙な成績抜群優等生として、パリ左岸5区のブルジョワコレージュ(中学校)に進みます。
 小説はここからにわかにドミニクが前面に出てきます。あとで思えばクロードの仕掛けであったわけですが、娘と父の問題、会社の急成長、そんな中で外野に置かれていたような疎外感を持っていたドミニクに魔法をかけたのがまたシャネルでした。好きなだけシャネルのウェアを買ってやり、外食に連れ出し、それまで顔を出させなかったブルジョワ交流にも顔を出させ、華のある世界にドミニクの場を作ってやったのです。ドミニクは最愛のクロードの愛が帰ってきたと、15年前のシャネル5の陶酔を思い出すのです。こうして美しいブルジョワ夫人と変身したドミニクに、クロードは相談を持ちかけます。会社で絶対に取引を成功させたい相手がいるが、キーパーソンのクレリー氏がフランス第二の電機会社の重役かつ大富豪家御曹司ゆえ、なかなか近寄れない。その人物と同じゴルフクラブやジムなどに登録して近づこうとしたが顔を合わせることもできない。聞けば、その御仁は三人の娘がいて、うち二人はエピセーヌと同じコレージュに通っているそうだ...。ここでドミニクはひらめき、その夫人とコレージュのPTA会合の機会に接近してみる、と言うのです。愛の戻ったクロードからのミッションを与えられ、水を得た魚のように社交スパイと変身したドミニクは、その道に自分でも気づかなかった新能力を発揮します。しかし時間はかかりました。2年越しでそのクレリー夫人(その名をレンヌ Reine すなわち女王と言う)と知り合い、親しい交際が始まり、友情すら芽生えてしまいます。
クロードはもうひと押し欲しい。超セレクトなクレリー氏のサークルに入るために、クレリー家が時折開催するレセプションに招待されて、公式に対面して話ができるようにしてほしい。ドミニクはその最後の使命をまんまと成功させ、1986年1月26日、クレリー家夜会にドミニクとクロードは現れます。シャンパーニュ・ドーツ・キュヴェ・アムール(右写真)が皆に注がれます。「これこそ世界最高のシャンパーニュですわ!」と感嘆の言葉を、まるで自分の勝利宣言のように叫ぶドミニクでしたが...。
 愛するクロードのために使命を遂行できた喜びで最高に満たされたドミニクでしたが、その最高はサイテーに大転落します。夜会のサロンから、レンヌ・クレリーと夫クロードが忽然と姿を消した。ドミニクはクレリー邸の中を方々探し、奥の間で二人が話し込んでいるのを聞いてしまうのです。
 すべては小説のイントロに戻っていきます。すなわち16年前に破局した男女とはクロードとレンヌであったわけで、クロードは16年かけて、若いレンヌを自分から奪っていった富と権力とパリ・ブルジョワ生活を手に入れ、レンヌを奪い返すという壮大で綿密なリヴェンジを企てたのです。そのためにドミニクを手なずけ、自分の駒として動かしてきたのです。「クレリーと別れて俺と一緒になれ、16年前愛していた男とやり直そう、俺には今やすべてがある」とクロードはレンヌに迫りますが、レンヌは拒否し、リヴェンジは頓挫します。そればかりか、その話をすべてドミニクに聞かれてしまったのです...。

 ここからは14歳の少女エピセーヌがすべてイニシアティヴをとります。ドミニクからすべて事情を知らされ、母娘はドミニクの両親の住むブレストの家に逃げてきます。ほぼ生まれた時から父を憎んでいたエピセーヌはついにわが復讐の時は来た、といともてきぱきとドミニクとクロードの離婚訴訟を手配し、母娘の新生活の準備万端を整えます。動顚したドミニクは何もできないでいるのに、14歳の天才的に頭の良い娘がすべてをしてしまう。これは前述のシーラカンス理論で、11歳から14歳までの仮死状態の時に深海で種の古えの知恵などを学習しまくり、来たるべき再生の時を待つ、ということをエピセーヌもしていたということなのです。すべてに聡明で冷静で論理的であらゆるノウハウを知り尽くしたような14歳になっていたのです。この離婚は妻と夫の離婚だけではない、娘と父の離婚でもある。父の娘への憎しみを娘の父への憎しみが凌駕する。絶対に壊されなかった父と娘のパワー・オブ・バランスを遂に破壊して、娘は解放される。勝利。クロードはすべてを失い姿を消す...。
 その10年後、ガンに冒されほぼ死の床にあったクロードからエピセーヌに電話が来て、24歳の英語教授となったエピセーヌは呼び出しに従ってクロードの病室を訪問します。父の最後の意志の話に立ち会っても、娘が小さい頃に抱いた殺意は一向に消えないのです。執念深さだけが似てしまった父娘の、どちらの執念深さが勝つか...。

 ね?読ませる小説ではありませんか。世にも稀なストーカーであるクロードというキャラクターよりも、弱くて薄いと定められたドミニクという女の浮き沈みが本当によく描かれていると思います。そしてドミニクの一番の恨み言は、この一連のストーリーにおいて結局自分は「当事者」ではなく「第三者」であったということの悔しさなのです。これをエピセーヌは娘の分際で賢者のような言葉で、しかしあなたは彼を愛していたでしょう、愛する者は常になによりも強いのです、
La perssone qui aime est toujours la plus forte
なんて言ってしまうのですよ。 けっ、14歳の小娘に40歳の母親が諭される、これ「チコちゃんに叱られる」ですね。

Amélie Nothomb "Les Prénoms épicènes"
Albin Michel刊 2018年8月22日 160頁 17,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アルバン・ミッシェル社によるプレゼンPVで本作を語るアメリー・ノトンブ。
インタヴュー中、ぐびぐびシャンパーニュを飲んでおる。


(↓)国営TVフランス5の文学番組ラ・グランド・リブレーリー、2008年の放送開始から毎年9月1週目に登場するアメリー・ノトンブ。2018年9月5日放送分。


(↓)記事タイトルに援用した「やめられないとまらない」のCMテーマ(1969年)は『(ルイ・ド・フュネス)サントロペ大混戦』(1964年)の歌"Douliou-Douliou Saint-Tropez"(曲レイモン・ルフェーブル+ポール・モーリア)のパクリだと思う。