2019年1月29日火曜日

必殺セロト人

ミッシェル・ウーエルベック『セロトニン』
Michel Houellebecq "Sérotonine"

 J'ai connu le bonheur, je sais ce que c'est, je peux en parler avec compétence, et je connais aussi la fin, ce qui s'ensuit habituellement.
 私は幸福を体験した、私はそれが何かを知っている、私はそれを専門知識をもって語ることもできる、そして私はその終わりも知っている、いつもそれに続いてやってくるものだ。
福の終わりと共にやってくるのが、死にいたる病 = dépressionデプレッシオン である。話者フローラン=クロードは46歳で、農業省に勤める高級公務員で、父母が残した巨額の遺産もあり、経済面での心配はないどころか、独り者ゆえこの先何十年だって収入なしでも楽に生きていける。しかし幸福が過去のものになってしまったがゆえに、その生が長くないことを察知している。小説の導入部はデプレッシオンの深刻化のプレリュードであるが、ちょっとどうしようもない。どうしようもないから深刻化するのだが。パリ15区ボーグルネル地区の高層マンション29階に、20歳年下の日本人女性ユズとカップルの生活を送っているが、ウーエルベックはそういう経験があるのだろうか、この日本女性のどうしようもなさは果てがない(このことだけで日本の読者が騒ぎ立てることもあるだろう)。どうせ時を待たず破局するものとわかっているが、ユズの極端な性遊やその両親との極端に煩雑な家族ドラマにガマンがならなくなったフローラン=クロードは、その頃はまだ少しは生に執着があり、29階からユズを突き落として牢獄で余生を暮らすことを避け、フランスで毎年12000件あるという「蒸発」の道を選ぶ。13区のメルキュールホテル(喫煙可ルームのある稀少ホテル)に身を隠したまではよかったが、フローラン=クロードはこの孤独に急激に消耗してしまい、自分を身繕いする体力も失うほど衰弱する。
 診察したアゾットと名乗る医師(小説の後半どんどん良くなっていく、人命を救うために医者になったという聖人寄りのパーソナリティー)は、新世代の抗うつ剤であるカプトリックス(一応念のため言っときますが架空の薬です)を処方する。これが幸福ホルモンとも呼ばれるセロトニンの分泌増加促進に画期的な効果があるということで、小説タイトルにもなる重要度でこの薬の効果が話者フローラン=クロードの生と死のカギとなるのである。しかしこれには副作用もあり、性欲を減退させてしまうのだ。この薬に依存し、この薬なしには生きられなくなるこの男には、この性機能がなくなっていく変化は、「幸福」をますます過去に遠ざけていく。なぜなら幸福は性と一体だったから。小説の前半が特にそういう表現が多いと思うのだが、ウーエルベックの描く "chatte" (まんこ)と "bite”(ちんこ)の快楽は本当に幸福で本当に愛だった。小説の終わり近くに、話者が20世紀初頭の独仏文学の2作品、トーマス・マン『魔の山』とマルセル・プルースト『失われた時を求めて』を引き合いに出して、西洋文明の崩壊の初期の重大な証言者だった巨匠二人が、かたやもう手の届かない若さと美しさを渇望して身悶えし、一方は上流社交世界でのすべての体験を虚しく捨て去り花咲く乙女たちとの淡い恋心だけが記憶として見出される、という二つの失われた幸福を、雄々しくいきり立っていくちんこと湿っていく若いまんこの美しさに替えたらどれほど明白か、と論じるパッセージあり(p333〜335)。ここ、すごいですよ。
 蒸発者は自分を捜索する身寄りはいない(日本人ユズなど全く眼中にない)ので、カプトリックス錠の効果で自殺衝動をほどよくコントロールできて、比較的自由に最初はパリ13区を徘徊する。主人公はうつ的人間ではあっても、十分な透明性があり、カフェ・レストランの風景の一部にもなれる。また十分に俗人でもあり、高級ベンツで見栄を張るところもあり、熱心なTVウォッチャーでもある。しかし徘徊はモディアノ小説のように、過去が喚起される場所に偶然入り込んだりもする。モディアノと違って過去を鮮明に記憶しているこの男は、深々と回想して過去の逃げ去った幸福を悔やむのである。クレール、ケイト、そしてカミーユ。そのすべての幸福の瞬間は逃げていくのだが、男は毎回それを逃げたままにしているのだ。あとを追わない。言い訳をしない。人がよく言うようなセリフを一言言えばいいのに言わない。去っていく幸福をそのまま見送りながら立ち尽くしてしまう男なのだ。取り返せないものと知りながら、そのままにして不幸になるのだ。これ、身に覚えのある読者は少なくないと思いますよ。フツーじゃん、と悲しく認める類じゃないですか。ウーエルベックのクローンのようにヘヴィースモーカーであり、エコロジーを鼻で笑ってディーゼル車を運転し、シニカルな言動の多いこの人物でありながら、この「なぜ別れたのかわからない」引力の弱さだけは、「並みだなあ」の悲哀に親しみを覚えよう。
 メランコリックなパリの徘徊者となったフローラン=クロードは、絶対来てはいけなかった魔界のような場所、国鉄サン=ラザール駅に磁力で引っ張られるように入り込んでしまう。紅茶づけのマドレーヌを必要とせず、この場所でのカミーユとの最初の出会いをあらゆるディテール込みで鮮明に思い出してしまった彼は、いてもたってもいられずカミーユとの過去をたどる旅に出かけてしまう。
 小説はここからバス=ノルマンディー地方を舞台にした一種のロード・ムーヴィーとなっていく。ここで唐突に私からみなさんにこの小説を読む際に、かたわらにミシュランのノルマンディー・ロードマップを用意することをおすすめしておきます。2010年ゴンクール賞作品『地図と領土』のテーゼ「地図は実際の土地よりも興味深い(La carte est plus intéressante que le territoire)」をこの小説と地図を見ながら実証できます。
 元農業省の役人であり、パリの国立農業高等師範校ENSA(通称"アグロ")卒業の農業エリートである彼は、ノルマンディー地方農林局(DRAF)で、ノルマンディーの三大チーズ(カマンベール、ポン=レベック、リヴァロ)のうち、世界的に名の知れたカマンベールでない後二者を国際的にプロモーションするというミッションで働いたことがある。そのDRAFに研修に来ていた獣医科の学生だったカミーユと恋に落ちるのだが、DRAFの上司はフローラン=クロードと同じパリのアグロで学生だったエムリックという男。これが素晴らしくいい奴なのですよ。小説の副主人公と言っていい。実際小説の4分の1ほどの分量はエムリックの農民闘争に費やされていて、この小説の社会・状況的なディメンションをぐわ〜っと膨らませて、またもやウーエルベックの予言的ヴィジョンに驚かされることになる。
 エムリックはノルマンディーの歴史的名家(11世紀ギヨーム征服王に就いてイングランド平定に功をなした貴族をオリジンとするアルクール Harcourt家)の子孫であり、土地に古い人間たちからすればまだ「城主のおぼっちゃま」と敬われたりもしていた。名門出のエリートとしてDRAFの要職を務めたのち、代々所有してきた土地の一部を譲り受けて酪農業者として独立する。乳牛3百頭を化学飼料を使わずに飼育し、原乳を製乳会社に納品する。ところがEUの共同農業政策は、他のEU加盟国の安い原乳の自由流通を促進し、フランスの酪農者たちは過酷な価格競争を余儀なくされ、原価割れで卸さざるをえないところまで苦境に立たされている。農家の廃業や自殺の話はあとを絶たない。エムリックは先祖代々が積み上げてきた富や土地を削ることで赤字補填をして酪農を続けてきた。家が持っている歴史的城館を "Hôtel de charme"(内装・景観を売りに、グルメレストラン、ワインカーヴ、フィットネス施設などを完備した滞在型観光ホテル)に大改造して本業の補填収入を得ようと企てるが、見事に失敗する。その上、これまた土地の貴族系家柄出身の才媛であった妻のセシルは長年エムリックの酪農業の困窮を支えてきたのに、ついに切れて、城館ホテルに宿泊した英国人著名ピアニストに誘惑されるまま、娘二人を連れ立って英国に移住してしまう。
 朝5時に起床して牛たちの世話をし、夜は会計帳簿と睨み合い帳尻合わせに没頭する、1週7日、1年365日、こればかりをしてきても赤字は止まることを知らず、親の土地を切り売りしていく。経営は好転の可能性は限りなくゼロ。口少なくなりアルコール(これが土地の酒カルヴァドスではなく安ウォッカであるという悲しさ)摂取量ばかり増えていくが、腐ってもノーブルな血の流れるエムリックは、優れたオーディオ装置でヴィンテージのロックレコードを聴くという密かな娯しみを失わない。もうこのどん詰まりの状態で、もはや何も語ることがなくなったエムリックとフローラン=クロードの間に、ディープ・パープル、1970年西ドイツ、デュースブルクでのライヴの海賊録音レコードの「チャイルド・イン・タイム」が流れ、話者がこの例外的なジョン・ロード、イアン・ギラン、イアン・ペイスの一音一音に打ち震えながら、エムリックと自分の断末魔の姿を想う、というこの小説で最も美しいパッセージ(p227〜228)があるのだ。
 農業省の役人だったフローラン=クロードは、EUとフランスの農業政策の加担者だった。フランスの農業従事者数は20年間で半数に減ったが、EU標準からすればそれでも多い。価格競争で負けてもっともっとフランスの農業が衰退することがEUの農業経済バランスを健全にする。フランスはEUのためにフランスの農業を見殺しにする。フランスの地方部がこのように見殺しになっている光景はノルマンディーだけではなく、全フランスであることは、現実に2018年11月から起こっている全国規模の民衆蜂起運動を見れば明らかであるが、小説は予言的にノルマンディー農民に「武装蜂起」させるのだ。
 「城主のおぼっちゃま」エムリックは、それにふさわしいノーブルなホビーとして狩猟/射撃をマスターしており、銃砲コレクションも弾薬も所有している。エムリックと同じように困窮している周囲の酪農家たちは、EU内から安い原乳をノルマンディーの製乳会社に運んでくる原乳トレーラー群を幹線道路封鎖によって阻止するという抗議行動を企てている。大型トラクターなど大型可動農機で、高速道路出口から分かれて製乳会社に通じる道を通行止めにする。やがてすぐに機動隊がやってきて、封鎖を解除しようとするだろう。「城主のおぼっちゃま」は言わば「領民」に武器を配るのである。そして自らは自家用の四駆ピックアップの屋根にスナイパーライフルを構え、封鎖ピケ隊の先頭で機動隊の出動を待っている。機動隊は抗議農民たちが銃砲を持っていることを察知するや、テロ事件対策用の突撃狙撃エリート隊を最前線に送る。絶対に最初に発砲してはならない、とエムリックは心に決めている....。
 死者:農民側10人(エムリック含む)、警察側1人。 
 領内の苦しむ農民たちのために権力に歯向かって戦い、非業の死をとげた領主のような、代々続くアルクール家に武勇伝として残るような高貴なエムリックの死。しかしわれわれにはそのようなものを尊ぶ文化が、ノルマンディーにもフランスにもヨーロッパにも残っていないのだ。西欧はとうの昔に死んだ。

 事件後逗留先だったエムリック領地内のバンガロー小屋を、エムリックから射撃練習用に預かっていたスナイパーライフルを隠し持って去り、話者のノルマンディー・ロードムーヴィーは、いよいよ過ぎ去った最大の幸福だったカミーユとの幸福の再構築という不可能に向かっていく。冬のノルマンディーの極深部で展開する狂おしい(接触のない)ストーカー物語のようだ。インターネットは簡単にカミーユが獣医として開業した動物診療所の住所をつきとめ、フローラン=クロードは向かいのカフェに身をひそめて獣医病院のドアの開閉を偵察している。20年前と何ら変わらないカミーユの姿を認める。そして何日かの偵察で、カミーユに幼い子供(男児)がいることがわかる。診療所のある町から何キロも離れた湖畔の集落の一軒家にカミーユは子供と二人で住んでいる。話者の追跡と偵察から割り出した想像で、小説は物語を膨らませていくが、それは全く事実と違うかもしれない。うつ病者の手前勝手な想像のストーリーでは、カミーユは子供の父親とも他の人間関係も遮断して、子供の養育だけを人生の柱にして静かに生きているはずである。ここでフローラン=クロードが再登場しても、彼女は最愛の息子を選択するはずであり、自分に勝ち目はなく、過去の幸福が再構築されるわけはない。

はっきり言えば、もしも私が牡鹿かブラジルの雄猿だったら、この問題は問われることもないだろう:哺乳類のオスがメスを手に入れるためにする最初の行動は、自分の遺伝子の優越性を保証するという目的で、その前に生まれた子供を全滅させることである。この習性は最初の人類にあっても長い間保持されていた。(p300〜301)

 つまりフローラン=クロードはカミーユと再び幸福になるには、その子を殺さなければならないと考えるようになるのだ。カミーユの知らぬうちに暗殺し、カミーユがその悲しみから癒えた頃に自分が再登場すれば、幸福の再構築は不可能ではない、と。 
 湖畔の家の対岸の冬季休業中のレストランに忍び込み、誰もいない備蓄貯蔵室に何日も寝泊まりし、エムリックから預かったスナイパーライフルを構え、対岸の家に4歳の少年が射程の中に入る時を待っている。そしてついに引き金に指がかかる時は来る。しかし...。

 ノルマンディー・センチメンタル・ジャーニーは絶望的に終わり、パリに戻ったフローラン=クロードは、これまでのカプトリックス錠の効果ではコントロールが全くきかなくなり、アゾット医師に倍量(最大許容量)である20mgのカプトリックスの処方を求めるが、このうつ病者の内分泌異常は死に至る寸前まで進んでしまっている。アゾット医師はこう言う:J'ai l'impression que vous êtes tout simplement en train de mourir de chagrin(あなたはごく単純に悲しみのせいで死につつあるようです)(p316)

 文明は死に、ヨーロッパとフランスと農業は死に、過去の幸福に憑かれた男の旅は悪く終わり、その肉体も死んでしまう。ウーエルベックはこの際にキリストと神の不完全さの理由も問うのですよ。この男のように「ごく単純に悲しみのせいで死ぬ」私やあなたの死は、セロトニン値などで決められてたまるもんですか。大いなる悲しみばかりが読後に数日残ってしまう、とてつもなく大きな小説です。

Michel Houellebecq "Sérotonine"
Flammarion刊 2019年1月4日  350ページ 22ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『セロトニン』発表時(2019年1月4日)のニュースTVフランス24のルポルタージュ。


(↓)1970年、ディープ・パープル「チャイルド・イン・タイム」ライヴ。



 
 

2019年1月22日火曜日

シュヴァルしい人生さ

『配達夫シュヴァル』
"L'incroyable histoire du Facteur Cheval"

2017年制作フランス映画
監督:ニルス・タヴェルニエ
主演:ジャック・ガンブラン、レティシア・カスタ
フランス公開:2019年1月16日

 末部分から言います。完成した「理想の宮殿」の前で、孫娘アリスが結婚披露宴を上げます。そこでミュゼット楽団がワルツを奏で、アリスと新郎ほか参列者がワルツを踊ります。そのミュゼット楽団でディアトニック・アコーディオンを弾いているのがマルク・ペロンヌその人です。
監督ニルス・タヴェルニエは言うまでもなく、大監督ベルトラン・タヴェルニエの息子です。そのベルトラン・タヴェルニエの私にとっての最高傑作が『田舎の日曜日』(1984年)です。 その最高の場面が娘(演サビーヌ・アゼマ)と父(演ルイ・デュクルー)がガンゲットでワルツを踊るシーンです。そのミュゼット楽団で弾いていたのがマルク・ペロンヌです。35年の時を超えて、父と息子の映画でマルク・ペロンヌがワルツを奏でているのです。難病(嚢包性繊維症)で体の動かなくなったマルク・ペロンヌが映画の画面に35年ぶりに現れます。これだけでこの映画はありがたいです。
 物語は郵便配達夫ジョゼフ=フェルディナン・シュヴァル(1836-1924)が理想の宮殿をたったひとりで建造する話です。シュヴァルを演じるジャック・ガンブラン(私の大好きな俳優です)は 対人恐怖症のところと狂気を孕む信念のところが、イッセー尾形演じる昭和天皇と極似しているところがあります。妻フィロメーヌを演じるレティシア・カスタはいつもながら美しいのですが、超貧乏郵便配達夫の妻にしては栄養体格十分なところが残念でした。ジャック・ガンブランは極痩せでしたから。
 理想の宮殿が狂気の産物であったところよりも、郵便夫シュヴァルの偉人伝にしてしまっているところがこの映画のたいへんな弱点です。もっと狂気を、と願ってしまった私です。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『配達夫シュヴァル』 予告編


(↓)他人様投稿のYouTubeですが「配達夫シュヴァルの理想宮」の概要です。


2019年1月9日水曜日

ボロは着てても心の錦

"Les Invisibles"
『見えない女たち』

2018年フランス映画
監督:ルイ=ジュリアン・プチ
主演:オードレー・ラミー、コリンヌ・マジエロ
フランス公開:2019年1月9日

 ルコジが大統領だった時代(2007-2012)から使われている言葉で「アシスタナ assistanat」というのがあります。これはフランスの社会保障制度に基づく、困っている人々への生活保護や無料医療などのシステムを、なにか過剰のもののように見做す人たちが言い始めた表現です。国庫は底をついているのに、この保護システムを悪用して、仕事をしない(例:長期失業者で職安の斡旋を拒否したり再就職する努力をしないが失業手当や生活保護はしっかり取る)人々が多すぎる、という考え方です。この「悪用者」たちは、貧困は自分の責任で陥ったという罪悪感がない。努力すればそこから抜け出せるという意欲もない。黙っていても国が保護してくれるという甘えがある。この過度な寛容を許したのはミッテラン等左派政権時代の悪しき遺物であり、そのような余裕など一切無くなった今日、社会保障制度の悪用を許すわけにはいかない、と、サルコジの時代にこのアシスタナ狩りが始まったというわけです。本当に本当に困窮している人々などごくごく少ないはずである、あとは「自力」で「自己責任」で生きてもらおう、という政策で、それによっていろいろな予算が削減されました。
 映画はこのアシスタナ狩りに関してはサルコジ時代よりは少しは人間味を増したオランド→マクロンの治世の現代が舞台で、場所は失業率は高い北フランスの地方都市です。その地方公共団体(市)が運営する困窮女性たちを日中に保護するセンターをめぐる物語です。このセンターの名前は"L'Envol"(飛翔)というのですが、このセンターでソーシャルワーカーたちの助言と指導によって女性たちが社会復帰&自立を果たして飛び立って行ってほしい、という意図の名前ですね。ところが市側の年間の統計によると、このセンターから自立して社会復帰した女性たちは全体の4%しかなく、残りはこのセンターの居心地の良さに依存して居座っている、と。これはソーシャルワーカーたちが甘すぎるからだ、と。病院の入院患者と同じように、完治しなくてもある程度の安定状態になったら出て行ってもらわなければ困る、と。その結果が出なければ、市としてはこのセンターを閉鎖するしかない、と。
 ここに集まる女性たちは、失業手当が切れてしまった無収入者だったり、元犯罪者だったり、元セックスワーカーだったり、身寄りのない外国人だったり...。だが、最低限清潔であること、寝る場所は自分で見つけること、など絶対に譲らない誇り高さがあります。映画はコメディー仕立てですから、多少誇張してわがままな女性たちのようにも描かれますが、この誇り高さは本物です。この映画に登場するこのホームレスの女性たちは、女優たちではなくそういうことを経験した(している)素人さんばかりなのです。この映画でいいなあと思ったのは、これらの女性たちが自分たちの素性を隠す(生きていく上のノーハウ)偽名がみな誇り高いのです:レディー・ダイアナ、エディット・ピアフ、チチョリーナ、ビヨンセ、フランソワーズ・アルディ(この人、本当にそっくり。瓜二つ)、ブリジット・バルドー、ブリジット・マクロン(!)...。彼女たちは朝のセンター開門からここに集まり、お茶やお菓子を食べ、シャワーと身繕いをし、おしゃべりを楽しみ、ソーシャルワーカーによる研修を(生半可に)受け、夕方には路上に散っていきます。これがもうこれ以上できなくなる、というニュースからこの映画は始まります。
 誇り高い彼女たちは、それ見たことか、行政なんぞ結局あてにならないんだ、とセンターを見捨てて、ガード下のホームレスのテント村に寄り集まります。しかし行政はこの不法野営を強制的に撤去してしまい、行き場所がなくなります。行政が連れて行こうとする絶対的にベッド数の足りない公営の浮浪者夜間収容施設(しかも男女混合!)といいう限りなく不安で危険な寝場所を拒否し、女たちは再び"L'Envol"センターの門を叩くのです。
 主人公のソーシャルワーカー、オードレー(演オードレー・ラミー)とその上司のマニュ(演コリンヌ・マジエロ。この素晴らしい女優に関しては近々に別記事で紹介します)の奮戦がここから始まります。市から社会復帰指導センターとして設置された施設なので、センター利用者を宿泊させることは禁止されているのですが、マニュは市に秘密で施設の一部を彼女たちの宿舎として提供する。そして市が望むように数ヶ月のうちに彼女たちを更生自立・社会復帰させることで、オードレーとマニュの「市民的不服従」を正当化しようというプランなのです。
 しかしこの映画は、その熱血ソーシャルワーカーたちの意気を汲んだホームレス女性たちが必死の努力で応えて見事に社会復帰していく、というイージーな美談の方向には行きません。手仕事アトリエ、廃品リサイクル、再就職活動、これを心理治療を兼ねた集団でのセラピーアトリエを通じて少しずつ進化していく。この心理療法を引っ張っていくのが、ボランティアのブルジョワ婦人のエレーヌ(演ノエミー・ロヴスキー)で、自ら離婚と家庭崩壊の危機にありながら、ボランティアにあらゆる個人的問題を超える生き甲斐を見出そうとする健気なキャラですが、毒もあるコメディー映画ですから、その辺のブルジョワ茶化しは痛快なほど。そしてこの「違法」女性再生工房は、過去も肌の色も宗教も違うが貧困という共通項で結集した女たちのユートピア的コミューンになっていくのですね。オードレーとマニュは、社会から見放された「見えない女たち」が少しずつ自信を取り戻していく様子を見て、勝利は近い、と思うのですが....、しかし....。

 オードレー・ラミーは、売れっ子女優アレクサンドラ・ラミー(ジャン・デュジャルダンの元妻)の妹で、テレビのシットコムやコメディー映画の脇役のような出番が多かった。いつも怒っているような口調が特徴。この映画の主役で、かなり一本気なソーシャルワーカーの役どころははまってましたね。理論はないけれど、気で勝る社会派の顔。私たちが2018年11月からたくさん見てきた怒れる「黄色いチョッキ」の女性たちとシンクロするキャラクター。
 そしてコリンヌ・マジエロ、この映画の「市民的不服従」のリーダー。戦い半ばにして、「違法アトリエ」を密告され、市の責任者から強制的に解散を命じられた時、私たちが仕事をするのはこういう女性たちが活き活きと生気を取り戻す姿を見るためではないのか、と抗言します。正しい。圧倒的に。この女優の素晴らしさは別記事で長く書きます。

 ラストシーン。機動隊に囲まれて、全財産である重いショッピングバッグを両手に抱えてセンターの門を出ていく女たち、こうべを高く、笑みを浮かべたり、中指を立てた腕を突き上げたり...。しかし消えることはない。この国で、この映画を撮った頃には「見えない人たち」であった「黄色いチョッキ」の民衆は、今見える人々です。この国で、 服従しないことは、今、民衆の多数派がやっているのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『見えない女たち』予告編


2019年1月4日金曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2018

Pépé Castor is alive and well and living in Paris

ブログの2018年にアップした56件の記事から、ビュー数統計の上位10位を紹介するレトロスペクティヴ2018です。これはブログに管理者用「ガジェット」として付いているビューカウンターをそのまま信頼してのランキングですが、たまにブログ上でも触れているように、時々明らかに読者ではない機械(ロボット)による大量「訪問」があり、奇妙なカウンター表示になることがあるのです。これは私にはどうすることもできないのです。2018年に関しては(前年2017年後半からの傾向ですが)1月と2月まで、異常に多いビュー数カウント(軒並み超5000ビュー/記事)があり、3月以降は急落ですが納得できるビュー数(数百ビュー/記事)に落ち着いて今日に至っています。爺ブログは(カウンターが表示する)東欧や中央アジアやアラブ首長国連邦などに多くの読者がいるとは考えられないのですが、そういうことになっています。もしもそれが事実だとしたら、それは大変な光栄なのですが。そういう事情で、レトロスペクティヴ2018は1月と2月に掲載した記事が多く上位にありますが、1月に亡くなったフランス・ギャル、#MeToo運動の盛り上がりなどに純粋に多くの方たちが反応してくださったのかもしれません。記事関連で言えば、個人的に2018年の最も大きな出来事は7月のフットボールW杯のフランス優勝と、11月からの「黄色いチョッキ」運動でした。
 最も心動かされた映画はクリストフ・オノレ監督の『愛され愛し早く走れ』 でした。最も印象に残った小説は(ごめんなさい、爺ブログで紹介してません。ラティーナ誌2019年1月号で書きました)本年のゴンクール賞受賞作であるニコラ・マチュー著『彼らの後の彼らの子供たち(Leurs Enfants Après Eux)』でした。そして最も多く繰り返し聴いたアルバムはアークティック・モンキーズ『トランクイリティー・ベース/ホテル+カジノ』でした。それから点滴治療中のイヤホン・ミュージックはもっぱらトム・ミッシュ『ジオグラフィー』でした。
会社を畳んで1年半、今やすっかり隠居老人/年金生活者になっていますが、2019年でガン治療生活3年目に入りました。18年10月から3週に一度ガン研究所に登院して免疫療法(治験)の点滴を受けています。「病気と共に生きる」はいよいよ日常的現実となっていて、これはりっぱな「仕事」だなぁと思うようになりました。コンサートと映画に行く回数は激減したものの、読む本の数は倍増しているのでバランスは取れています。生きている限り、やることはあります。爺ブログはそれを直接証言するものではありませんが、カルチャーというものが生き延びていく上でどれほど重要なものか、ということを私なりにいらっしゃる皆さんにお伝えしたく、楽しみながら続けています。どうぞ本年もよろしくおつきあいのほど、お願いいたします。

1. 『生まれついての”豚”(2018年1月13日掲載)
今最も信頼できる作家にして言論人であるレイラ・スリマニが、#MeToo運動に反論したカトリーヌ・ミエ+カトリーヌ・ロブ=グリエの「男が誘惑する権利を擁護する」論(これに大女優カトリーヌ・ドヌーヴが賛同者となったことで紛糾した)に真っ向から反駁してリベラシオン紙に投稿したトリビューンを全文日本語訳して爺ブログに掲載した。たちまち7千ビューを突破して、FBやツイッターでも多くシェアされた。リベ紙発表1月12日、爺ブログ掲載1月13日という速攻で、著者にも新聞社にも許可を取っていない。こういう無許可転載が多くなったのもこの2〜3年の爺ブログの傾向だが、こういう緊急の重要発言を見ると、多くの人たちに緊急で知らせたいといてもたってもいられなくなる。レイラ・スリマニはこのほかに11月にマクロン大統領の不法滞在外国人に関する発言に怒ってル・モンド紙に反論トリビューンを発表、これも爺ブログのここで全文訳して掲載したが、こちらは300ビュー足らずという奇妙な統計結果。

2. 『Tout pour la musique !(2018年1月12日掲載)
2018年1月7日にこの世を去ったフランス・ギャルに関して、爺ブログは1月9日、10日、12日と続けざまに3件の記事を掲載し、そのいずれもが多くの人たちの関心を集め3千ビューを超えていて、このレトロスペクティヴTOP10に3件とも入っている。ただ、そのいずれも私が書いたものではなく、パリ・マッチ誌、テレラマ誌、ル・モンド紙に掲載された記事を翻訳して紹介したもの。私自身の追悼稿は電子雑誌ERISの第23号にアルバム『ババカール』(1987年)紹介記事として1万字書いた。爺ブログで最も多く読まれたのは、このパリ・マッチ誌に載ったヤン・モワックスの追悼記事。「フランスを去ることには慣れているが、フランスに去られることはめったにない」という第一行から、エモーショナルなフランスと80年代への挽歌。5千ビュー超え。

3. 『裸々ランド (2018年1月19日掲載)
2017年発表のアルバムなのに、遅れて紹介した女性デュオ、ブリジットの5枚目"NUES"の短い紹介記事。アルバム紹介と言うよりは、その1曲め「パラディウム」だけの説明になっていて、それも「いっぱい泣いたら、オシッコの量が少なくなる」というこの部分だけに感銘を受けたという話。2018年、カテゴリー「新譜を聴く」で紹介したアルバムはたったの12枚。音楽業界人をやめたせいもあるだろうが、実際購入したアルバムも激減している。もっと音楽について語るべき、と反省もしている。「ラティーナ」連載も本紹介の方が多くなっていて、音楽雑誌にこういうことでいいのだろうか...。

4. 『Ta douleur efface ta faute (2018年1月29日掲載)
マルグリット・デュラスの同名小説をエマニュエル・フィンキエル監督が映画化した『苦悩』は、2018年最も印象に残った映画のひとつ。おそらく女優メラニー・ティエリーの代表作として歴史に残る可能性がある。第二次大戦後期の占領下のパリ、ゲシュタポのフランス人刑事(ブノワ・マジメル)と、捕われたレジスタンスの夫を救おうとする作家マルグリット(メラニー・ティエリー)の奇妙な関係。待つことの堪え難い時間の長さ。愛人(バンジャマン・ビオレー)との揺れる情欲。パリ解放後にして初めて知るナチスの想像を絶する残虐さ。観ている者をどんどん不安にさせるさまざまな映画効果。観客は呼べなかったかもしれないが、歴史に残って欲しい映画。

5. 『逃げてきた民に何の区別があるのか(ル・クレジオ) (2018年1月16日掲載)
ノーベル賞作家JMG ル・クレジオが、シリアやアフガニスタンなどからヨーロッパにやってきた避難民に対するフランス(大統領マクロンと当時の内務相ジェラール・コロン)の非人道的対応に猛烈な怒りを表明したトリビューン(週刊誌ロプス掲載)を、全文和訳して爺ブログに転載したもの。さらに4月にジュルナル・デュ・ディマンシュ紙のインタヴューでル・クレジオは再びマクロンの難民政策を厳しく批判したので、その部分訳も追記として転載した。隣国イタリアをはじめEU圏内でも移民/難民排斥を唱えるポピュリズムが台頭しつつある中、マクロンは少しずつこの傾向に近づいていっている。ル・クレジオの批判も「知識人の考えすぎ」と軽視したマクロン。支持率の急落はそういうところから来ているということに無自覚。嵐は11月にやってくる。

6. 『Merci les Bleus !(2018年7月20日掲載)
上に書いたように、個人的には最大の興奮事だったW杯優勝について書いた記事。おそらく2018年に私が最も高いテンションで書いた文章であり、長い。それだけ興奮していたのだと思う。歓喜の興奮。私があの夜興奮を抑えきれなくて出て行ったシャンゼリゼ通りを、その5ヶ月後、怒りの民衆たちが黄色いチョッキを着て行進している。このことについても私は何かを書かねばならない、という使命感がある。この民衆たちの運動は多面的で多様で、11月から1月現在までいろいろ変容もしてきた。たぶん同じ民衆なのだと思う。もっと中に入って行かねば、と思っている今現在である。

7. 『80年代を象徴する顔 (2018年1月9日掲載)
フランス・ギャルの死(1月7日)の当日、テレラマ誌のシャンソン評論家ヴァレリー・ルウーがウェブ版テレラマで発表した追悼記事を、全文和訳して転載したもの。私の最も信頼する音楽ジャーナリストのそれは、他のメディアが全般的に「偉大な国民的歌手」オマージュだったのに、驚くほど辛口で、80年代という危機感の少ない時代を平易なメッセージでスタンダード化した、言わば時代の産物のような評価だった。同時代人であるスーション、サンソン、クレールなどとは違って見られていたのだ。だから、彼女の死を悲しむ人たちは、消え去る80年代を悲しむのとほぼ同じ悲しみなのだろう。私もその同時代人だったから、よけい悲しかったのだと思う。

8. 『世界の起源 (2018年2月13日掲載)
今回のレトロスペクティヴで最も意外だった3千ビュー超えの記事。ノルウェーの若い女医二人が著した分厚い女性器解説書『下(しも)の悦び』(Les joies d'en-bas)を特集したテレラマ記事の一部を紹介したもの。女性を解放する最良の道は女性器を知ること。すべての秘密は女性器にあり。と、まあ、私のような老人男が言うには憚られることばかりであるが、歴史的にこれまでの「性はこのように教えられるべき」という理論はすべて男が捏造してきたもの。女性たちがそれに反証をつけて覆していく。その象徴的な例が、「処女膜(ヒーメン)」とその「出血神話」。なぜ有史以来、世界の人々はそれを信じてきたのだろう? 私はこの本を買って、娘にプレゼントしたが、どうも読んだ気配はなさそうだ。

9. 『フランス・ギャルとアフリカ(2018年1月10日掲載)
フランス・ギャルの死後、次々に出された追悼記事のうち、ひときわ目を引いたル・モンド紙ダカール駐在ジャーナリストによるセネガルとフランス・ギャルの親密な関係を紹介した記事を、(これまた)全文和訳して掲載したもの。加えて追記としてパリジアン紙に載ったユッスー・ンドゥールの追悼談話の記事も和訳して掲載した。セネガルとの関係は一般には「ババカール」の歌がよく知られているが、フランス・ギャル個人としては、夫ミッシェル・ベルジェが生きていた頃からあった夫婦の確執、そして夫の死、さらに娘の死といった連続した出来事の心の傷を癒せる唯一の場所がダカールの沖合にあるンゴール島だった、ということ。学校や医療施設を作ったりという美談もあるが、一番は心のセラピーだったのである。

10. 『I saw the light(2018年2月15日掲載)
2018年爺ブログで紹介した新作映画は9本。その中でとりわけ目立ったわけではない映画。グザヴィエ・ジャノリ監督『L'apparition (顕現)』は、社会派男優としてますます存在感を増しているヴァンサン・ランドンの毎度感服するヒューマン丸出しの演技が救いの作品。フランスの山間の村で聖母マリアの顕現を目撃したという少女、ローマ法王庁がそれが真実か否かの調査を依頼したのが、元戦場ジャーナリストのジャック(ヴァンサン・ランドン)。戦争も奇跡も詐欺も登場する宗教ミステリー。う〜ん...。映画はもっと多く観て紹介しないとだめだな、という自戒でレトロスペクティヴ2018は結び。