2022年1月29日土曜日

Dear Prudence

Michel Houellebecq "Anéantir"
ミッシェル・ウーエルベック『無化』

 

物というオブジェを偏愛する作者が、自ら装本の細かい指示(紙質、ティポグラフィー、割付...)を出して作らせたという、ドイツ装(私はドイツの本を持ったことがないのでわからないが、そう呼ばれているそう)ハードカバー、背綴じ、赤栞リボンつき736ページ、重さ830グラムの大著。こだわりに相応しい風格。日本語訳も同じ装本で出るのかな?もう準備されているとは思うが、これは日本語訳たいへんなのではないかな。まず「政治」が大きな要素になっているので、このフランスという国の政治が現状況においてどうなっているのかを外国読者に知っておいてもらわないとついていけないところがあるように思う。これまでのウーエルベックの小説に比較できないほどドメスティックなのだ。現フランスにかなり近いのである。
 設定は2026年末に始まり2027年末まで。2027年はフランス大統領選挙の年であり、その前の大統領選は2022年。現実の今2022年1月の時点で投票(4月10日と24日の2回投票)まで3ヶ月を切っていて、まだ公式に立候補していない現職マクロンを除いて、他候補たちのキャンペーンはオミクロン禍真っ只中で進行中。2015年発表の小説『服従』でウーエルベックはこの2022年にイスラム穏健派候補が大統領に当選するシナリオを描いたのだが、この新小説では違うシナリオになっていて、その名前は一度も登場させていないものの現職大統領(つまりマクロン)が2017年の当選に続いても2期目(2022年)も当選して2027年の任期満了を待っている。ただし大統領が再任できるのは連続2期までで、2027年はこの現職は立候補できない。政局は安定していて、とりわけ経済再生の評価は高く、政権党の候補が出れば、現職の代わりに当選し、その任期5年間を無難につとめてくれれば、2032年には今の現職が再び大統領として復帰できるだろう、と。この小説の政治風景には左派政党、エコロジスト、伝統保守政党の姿はほとんど見えない。2027年も決選投票となれば政権党と極右RNで争われることになるが、RNはマリーヌ・ル・ペンの次世代の新候補となっていて、これが大変な切れ者である。多少苦戦はするかもしれないが、政権党の勝利はまず動かないだろう、というのが2027年1月頃の大方の予想。

 この現大統領下の政権の10年間の安定を支える最大の立役者が経済相のブルーノ・ジュージュ。その経済再生策が成果を見せたおかげである。この小説が発表された時、メディアはこの人物のモデルは現経済相ブルーノ・ル・メールであろうと報じた。ウーエルベックがプライベートに親しく交友しているそうだが、実のル・メールは中道保守の政治家で2017年のマクロン政権誕生に伴って保守LR党から政権党LREMに合流、以来経済相という重要ポストにある。フランス経済省庁舎はパリ12区ベルシーにあり、1989年に完成し、セーヌ川に片足を突っ込んだ状態で工事をやめたような両端を切られた巨大な高架橋のようなポストモダン建造物(→写真)。小説はこの庁舎建物を舞台にするシーンが多くあり、ウーエルベックがル・メールのつてで詳しく取材したのだろう。
 小説の主人公はポール・レゾンという47歳のグランゼコール出の経済省官僚で、役職は経済相ブルーノの顧問。職場経済省まで徒歩で行けるベルシー地区の高級アパルトマンに住むブルジョワ官僚だが、長年の伴侶のプリュダンス(ビートルズ"Dear Prudence"にインスパイアされた父親がつけた名前)との関係は冷えていて、同じアパルトマン内でほぼ別居状態。経済大臣ブルーノも妻との関係が悪化していて、ブルーノは自宅を離れてこのベルシーの経済省庁舎の最上階にある大臣宿泊室にひとりで住んでいる。だからこの大臣は外出の機会がなければ24時間この庁舎の中にいることになるが、そのことに不満はない。むしろ執務後その宿泊室に懸案の書類を持ち込んで仕事することを楽しんでいるような仕事好き。ピザやサンドイッチを食べながら。そういう仕事大好き大臣のおかげでこの国の経済はうまく回っているが、このブルーノには政治的野心がほとんどない。記者会見やテレビ出演が好きではない。だがその国の経済舵取りの手腕を高く評価され、政治的信望はかなりのもので、政権党は2027年大統領選にブルーノが出馬すれば当選確実と踏んでいる。本人はそれを望まないが、次の政府でも経済相を続けたいと願っている。お互いの夫婦の危機の告白以来、聞き役のポールはこの孤独で無欲(ナイーヴではない"無欲な政治家”像、稀だと思う)な仕事魔に強いシンパシーを抱き、良き補佐役として時々深夜の大臣宿泊室で一緒に呑んでいる。
 さてこの700ページを超える大著は、たくさんの要素を孕んでいるが、大きく4つの軸がある。まずひとつは2027年大統領選挙というフランスの政治の大きなドラマである。ウーエルベックの政情占いという書き方ではない。政治の争点などあまり問題にしなくなった時代、すなわちSNSトレンド/ユーチューバー/インフルエンサーだけがものを言う世界にあっては、このような国を左右する選挙にあってもそのインフルエンサー流の演出テクニックが決め手となり、選挙戦は内実は候補者のパフォーマンスコーチのコーチング戦なのである。うなずける。このシナリオでは政権党と極右RNの決選投票となるのだが、この両党に政策公約の違いはほとんどないのだ(!)。しかしその決戦の行方を決定づけてしまう事件が...。
 第二の軸は犯行声明も要求もない国際的テロ事件である。超先端のテクノロジーのデモンストレーションのような謎のネット乗っ取り映像、極度に絞られた照準に発射された魚雷一発だけで世界経済に甚大な影響を及ぼすことを見越した攻撃、主要国の諜報機関は情報を共有してこのテロを分析するがテロ組織の正体は掴めない。フランス内務省直属の機関であるDGSI(国内治安総局)は、このテロの世界経済直撃という観点から経済相に最新情報を漏れなく伝え、ポールもその中に。さらにポールの父エドゥアールが退役した元DGSI幹部であり、現DGSIでこの件を担当するマルタン=ルノーが当時エドゥアールの部下で、エドゥアールがこの件に関して個人的に調査をしていた可能性がある、と...。そしてこれは第三の軸に関係するのだが、エドゥアールは隠居地であるボージョレ地方の村の屋敷でAVC(脳卒中)で倒れ、命は取り留めたものの全身不随で病院にいる。それはそれ。同じテロ組織のものとみられる第二のネット映像は超精巧超リアルなCG動画で、経済相ブルーノがギロチンで断頭されるというもの。その他伝承民話や秘密結社法典や悪魔学や象形学やデスメタルや... ウーエルベックの碩雑学がふんだんに発揮される謎解きエピソードも。ー この2027年的現在において、テロはイスラム過激派の独壇場ではない。ウルトラ極右、ウルトラ極左、カトリックウルトラ十全主義、ウルトラエコロジスト、終末系宗教、悪魔主義....。超先端のテクノロジーと資金源とネットワークさえあれば、人類の大混乱は起こりうる。この小説は相手が誰かわからない地球規模テロを解き明かしていく、というウーエルベック一流の胸わくわくのエンターテインメントでもある。
 第三の軸は家族ドラマである。上に書いたように父エドゥアールがAVCで倒れる。生死の間をさまよっている父の病床に、離れ離れだった子供たち(ニ男一女)が集まってくる。エドゥアールの妻シュザンヌ(三人の子の母、彫刻家)は既に亡くなっていて、その死後彼の身の回りの世話をしていたヘルパーのマドレーヌがそのまま(結婚はせずに)新しい伴侶となった。北フランスのアラスで暮らしているポールの妹のセシルは、公証人のエルヴェと所帯を持ち、二人の娘がいる。敬虔すぎるほどのカトリック信者であり、その結婚も信仰と関係していた。専業主婦であったが夫のエルヴェが失業するという(公証人が失業する?今日ではありえる話)不慮の事態となり、今後に不安を抱えている。父倒れるの報せに一番先に駆けつけ、おろおろするマドレーヌ(微妙な立場、結婚していないので家族ではない、病院側とのやりとりも介入できない、たぶん相続の話に参加できない...)を支え、病状の把握、医師との対応、すべて的確にこなし、集まってくる兄弟たち家族の寝るところから食事の世話までそつなくこなす。そしてセシルは祈るのである。ひたすらに神に父の回復を願い祈るのである。ポールが病院に馳せ参じてしばらくのちに、医師の予測をくつがえしてエドゥアールは意識を取り戻す。セシルの必死の祈りが通じた、ということを誰が否定できよう。
 ポールとセシルは歳があまり離れていないせいもあり、話は通じる。ところが問題は弟のオーレリアンであり、その歳の離れのせいか兄とも姉とも交流が少なく、性格もおじけた籠り気味の子供だったが、老いてから彫刻家デビューしてそこそこ名を成した母シュザンヌのDNAを引き継いだか、歴史的タピスリーの復元修繕家として文化省依頼の仕事をしている。ポールとセシルはこの弟のことをよく理解していないが、それよりも二人が全く理解できないのはこの弟が結婚した相手インディーのことなのである。ウーエルベックの前作『セロトニン』(2019年)でも”どうしようもない女”がいて、それは日本人女性ユズであったが、本作のインディーのどうしようもなさは全くその比ではない。元花形政治ジャーナリスト、保守系メディアの主筆から左派系メディアの論説委員に簡単に転身できる無節操さが災いしてか徐々にネームバリューを下げ、今はフリーランス。だが第一線復帰を虎視淡々と狙っていて、義兄のポールに強引に接近するのは、大統領選挙の動向のカギを握る経済相ブルーノの独占情報を得たいがため。 ー さて親が生死の境をさまよっている時、子供たちが集まる夜に当然のごとく出てくるのが遺産相続の話。どこも一緒なんだなぁ、と思いつつも、まさかウーエルベックの小説でこんな世俗的な言い争いを読まされるとは思っていなかった。紛糾する原因をひとりでつくるのがインディーで、落ち目ジャーナリストとなった今その収入減の穴埋めに最大限の遺産を絞り取ろうというあからさまな魂胆。それが潰されそうになるとわかるや、このインディーは義父の一族への復讐だけでなく、その代表者で経済相側近であるポールのポジションにひもつけて経済相ブルーノおよび現政権まで醜聞スキャンダルに落とし込む大一番に打って出る(詳細は書かないでおく)。
 (実際の世界で)2020年未曾有のパンデミックによって露呈した この国の医療体制と医療従事者たちの こじれた関係と現場での倫理性に関わる問題の数々、2027年設定のこの小説 でも聖者のように献身的な医師や従事者がいる一方で、人命よりも"効率””生産性””数字”を重視するシステム側の圧力が勝る現場がある。父エドゥアールは昏睡状態から目覚め、全身不随でも目の瞬きで意志を伝えられるまで回復した時点で、病院からEVC-EPRと呼ばれる植物状態蘇生リハビリ施設に転院させられる。内縁の妻マドレーヌが病室に住み込み同居し、車椅子散歩や流動食調理まで懸命の介護の甲斐あって、エドゥアールは少しずつ反応がはっきりしてくる。ポール、セシル、オーレリアンにとっても紛糾のない穏やかな時がしばらく続くのだが、"数字”を重んずる病院上層部は聖者のような担当医師を左遷し、マドレーヌの病室同居を(介護労働者の職を奪っているという理由で)禁止する。このまま父をEVC-EPRに残せば、見殺しにされるに違いない....。
 本ブログでも頻繁に紹介している北フランスの寒村出身の青年作家エドゥアール・ルイが証言しているように北フランスでは選挙になるとフツーに極右RN(旧FN)党に票を投じる。この小説で北フランスのアラスに暮らすセシルとエルヴェの夫婦もRNに投票する者である。フツーに「いい人」っぽいことと極右支持は相反することではないし、RNもフツーに通ってしまうポジションを獲得したということだろう。セシルとエルヴェに関しては深いカトリック信仰という共通のベースがあるが、エルヴェは若い頃行動的極右運動セクトのメンバーだった過去がある。この父エドゥアールの療養施設の収容条件悪化に、エルヴェがイニシアティブを取ってエドゥアール誘拐脱走プランが立てられ、その実行部隊としてエルヴェの旧知の極右地下組織のコマンドが送られる。セシル、ポール、オーレリアンの同意のもとの作戦敢行なのだが、国家上級公務員にして経済省官僚であるポールはことの重大さを甘く見ていた...。
 かくしてウルトラ極右前衛コマンドの計画通り、エドゥアールを医療施設から"救出”し、ボージョレ地方の屋敷に奪回することができた。しかし(上で少し述べたが)オーレリアンの妻で政治ジャーナリストのインディーがこの事件の一部始終を週刊誌上ですっぱ抜き、ことさら経済相側近の上級官僚とウルトラ極右地下組織との密な関係を強調したのだった。オーレリアンは自殺する。そして既に選挙運動中のブルーノはこの醜聞報道を最小に揉み消すことができたが、ポールは休職処分に。奇妙なことにこの誘拐事件はどこからも訴えられることがなく、エドゥアールはそのままボージョレの館でマドレーヌに介護されながら人生の最期まで生きることになろう...。
 さて大統領選挙は予めブルーノが望んだ通り、ブルーノは立候補者とならず、現大統領のもうひとりの”右腕”でポリティック・アニマルであるバンジャマン・サルファティを政権党の候補者として立て、ブルーノは次政権の経済相でナンバーツーというポジションでこの候補を支援する。ところが当初は楽勝と踏んでいたこの選挙戦、追い上げるRNの若い新人候補(マリーヌ・ル・ペンの後継者)はルックスと弁舌力でどんどんポイントを稼ぎ、(上に述べたように政策公約の違いはほとんどないので)経済相ブルーノの”安定成長”実績だけの売りではこの猛追に耐えられるかどうか。つまり2027年は明確な移民排斥主義が大半の選挙民におおいにものを言う時勢となってしまっていたのだ。ところが、ところが...。
 かの連続国際テロ事件は、その犯行声明や要求もないまま、中国船籍の大型コンテナ船の魚雷による撃沈に続いて、デンマークにある(商業的)精子提供機関の極秘の精子貯蔵庫を火炎放射器で全焼させる。後者のはカトリック十全主義系の人工的生殖補助(ART)反対派の行動のように推測できようが、この"精子ビジネス”には国際的巨大資本による投機の動きもあり...。人類存続の是非は「人工」にかかっている、という文明の終焉も見える。犯行グループは象徴的にネット上に悪魔学の図版(←バフォメット)などを残している。これをフランスDGSIの新米職員で、北欧デスメタルにやたら詳しいオタクの若者がいろいろと謎解きをしていくエピソードはウーエルベックの限りを知らない雑学知識の大勝利と脱帽しよう。
 大統領選挙戦が終盤に入った頃、それまで死者を一人も出していなかった連続テロ事件とは異次元の大量殺戮テロ事件が発生する。地中海上でアフリカから北上してヨーロッパ沿岸にたどり着こうとする何百人という難民を乗せたボートを魚雷で沈没させ、救命ブイにつかまり助けを求めて浮いている生存者たちを攻撃船の上から機関銃で一斉射撃し、その海上の大殺戮シーンをネットで生中継したのだ。ー 政権党は選挙キャンペーンの中止を決定する。この事件で移民排斥主義政党(すなわちRN)の敗北は決定した、と。めちゃくちゃにブラックなシナリオであるが、この大惨劇はブルーノらに大勝利をもたらすのである...。

 第四の軸はプリュダンスとの復縁とポールのガン闘病である。この小説は一連のテロや極右や妹セシルのカトリック信仰などで、宗教がいろいろなところで重要なファクターとなっているが、ポールとの関係が冷えて10年間同じアパルトマンで同居/別居していたプリュダンスが少しずつよりを戻してきたのはウィッカという新宗教に入信してからのことである。一時ヴィーガンとなって極端に痩せ細っていた彼女が心の平衡を取り戻して女性の肉体に戻っていったのもこの宗教のせいらしい。男神と女神のある宗教。女性性を取り戻したかのような関係性の復活。かの一連のテロ事件のDGSIの捜査線上にこのウィッカの名前も上がっている。犯人グループの残すネット上の象徴メッセージに、ウィッカのシンボルであるペンタグラム(五芒星、逆さにすれば悪魔のシンボル)が現れる。無神論者ではないが無宗教者であるポールは、2027年的世界でさまざまな宗教がウルトラ化していることを感じている。プリュダンスの帰還を、性行為の快楽の取り戻しによって確認していくポール。愛は復活したが、新しい試練がある。
 単なる歯痛と思って長い間ほったらかしにしておいたものは、ようやく診てもらった歯科医で異状がわかり、耳鼻咽喉科の精密検査で口腔ガンと診断される。パリ5区のピティエ=サルペトリエール病院(私も何度か世話になった)でこの悪性ガンが転移する前に除去手術が可能だが、口腔内の一部と舌を切り取り人工臓器で再生させる必要がある、と。成功しても新臓器(舌)がもとに近い機能を取り戻すには1年以上のリハビリを要する、と。ポールはこの手術をなんとしても避けたい。セカンドオピニオンを求めて、経済相ブルーノの口利きでこの分野でヨーロッパの権威である医師のいる欧州最大級のガン研究所、ヴィルジュイフのギュスタヴ・ルーシー研究所(私が4年前から世話になったいる)へ。最も有効な手段として手術を推奨するが、化学療法(ケモセラピー)と放射線療法(ラジオセラピー)で増殖と転移を抑えながら、ギリギリまで待つことは不可能ではない。しかし手術のタイミングを失い手遅れになる可能性もある。ポールはプリュダンスに偽り、手術を回避する方法を選択する....。
 ケモセラピーとラジオセラピーのさまざまな副作用に苦しみながら、ガン細胞にエネルギーを吸われみるみる痩せていくポール。プリュダンスはそれに献身的に寄り添い、行きたいというところに連れ出し、義父エドゥアールの最後の日々に立ち会っているマドレーヌのように聖母化していく。そしてもはや不可能と思われた性行為まで実現してしまうのだ(この辺はウーエルベックですから)...。

 ポールが証言し立ち会っている2027年的世界は、西欧文明の終焉に近い黄昏た風景であり、人間性がもてあそばれ、政治がほとんど意味をなさなくても選挙をする社会である。生きようとする人たちがよりどころにするのは愛だったり、宗教だったり、もっとウルトラな何かだったり。静かなエピキュリアンでありたかったポールは、治る可能性を選ばず、死を選んだということだが、その死への道すがらに愛にしがみついていたいと思っている。世界は「無化」に向かっているし、ポールも自ら「無化」を病で体験しながらそれに向かっている。
 ウーエルベックにしては泣かせるようなエモーショナルなパッセージがいくつかある。弟オーレリアンとベナン出身の黒人看護婦マリーズとの純愛物語(オーレリアンの自殺で終わる)は本当に泣かせる。だが、この730ページのずっしり重い本にぎゅうぎゅうに詰められた国際経済・地政学、先端テクノロジー、テロリズム、ウルトラセクト、悪魔学、カトリック信仰、新興宗教、フランス政治、フランス医療事情、フランスメディア事情、ボージョレ地方観光、ブルターニュ地方観光、パスカル論、バルザック論、古典推理小説(コナン・ドイル、アガサ・クリスティー)論、最新ガン治療... 、これらの雑学百貨には頭が下がるが、かなりあっぷあっぷなのだった。これだけ網羅された情報の末に、「大小説」感はゼロ。むしろ水増しされた印象。ストレートに心理小説書いてくれれば、とも思うが、そういう作家ではないので。

Michel Houellebecq "Anéantir"
Flammarion刊 2022年1月7日  736ページ  26ユーロ


カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)"Dear Prudence" The Beatles (1968)
プリュダンスの父親は若い頃ジョン・レノンのファンであり、彼女の名前はそこから由来している。そのことを彼女は(出会いの)数週間後に明かしたはずだ。ポールにしてみれば「ディア・プルーデンス」はビートルズの最良の歌では全くないし、さらに言えばホワイトアルバムをビートルズの頂点の作品だと思ったことなどない。彼にはプリュダンスをその名で呼ぶことができず、最も甘美な瞬間にあっても彼は彼女を「マ・シェリー」あるいは「モ・ナムール」と呼んでいた。
(Michel Houellebecq "Anéantir" p 31)


2022年1月19日水曜日

埠頭の女たちと著述家のデオントロジー

"Ouistreham"
『ウィストレアム 』

2021年フランス映画
監督:エマニュエル・カレール
主演:ジュリエット・ビノッシュ、エレーヌ・ランベール、レア・カルヌ
フランスでの公開:2022年1月12日

2010年ベストセラーとなったフローランス・オブナのノンフィクション・エッセイ『ウィストレアム 埠頭』をベースにして、こちらもベストセラー作家であるエマニュエル・カレールが自由翻案でさまざまなエピソードを加えてフィクション化した映画。映画監督カレールとしては3本目の長編映画であり、2本目のフィクション映画。 しかしこの映画の制作を発端から主導していたのは、女優ジュリエット・ビノッシュだった。仏映画サイトAllocinéに記載された情報によると、原作者フローランス・オブナは『ウィストレアム埠頭』の映画化のプロポーザルを何件も受け取っているが尽く断っていた。それを既にオブナと親交があったビノッシュが何度も食事に誘い出して執拗に説得したそうなのだ。それほどこの女優はこの映画でやらねばならないことの意義を深く感じ取っていた。それは不可視な人々を可視化すること、世に存在していないかのように人目につかず過酷な条件で働き生きている人々を”カンヌの大スクリーンに"顕在化させること。オブナはビノッシュの熱意に打たれ、それを承諾するのだが、条件がふたつ:映画は映画の人たちが作ること(原作者は一切関与しない)、エマニュエル・カレールを監督とすること。
 『ウィストレアム埠頭』は21世紀初頭のフランスの地方(ノルマンディー、カルヴァドス県、中心都市カーン)の底辺の労働事情について長期的に潜入体験取材したきわめてジャーナリスティックな、一種の告発書であった。フローランス・オブナがその本名を名乗って(本名を名乗っても誰も彼女が著名なリポーターだということに気づかない)、50歳の職業経験ゼロ(専業主婦だったが、離婚して働かざるをえなくなった)の女性として、職安で基礎訓練を受け、派遣の清掃婦として現場労働者デビューする。大失業時代の、極端に過酷な労働条件に文句を言えない、軍隊的な規律づくめとハラスメントの嵐の中でわずかな糧を得て生きる老若の女たちを描いたものである。エマニュエル・カレールのこのフィクション映画はその原著の持つジャーナリスティックな告発性を大部分尊重はしているが、それがメインの主題とはなっていない。この映画は潜入レポート的な報道性をむしろ控えめにしている。
 文筆家マリアンヌ・ウィンクレール(演ジュリエット・ビノッシュ)は、21世紀的現在の大失業吹き荒れる地方社会における生活不安定(プレカリテ précarité)を実体験して直視し、それを本にして発表するというプロジェクトを立て、パリのメディア社会との接触を一切断った状態にしてノルマンディー地方のカーンにやってくる。元専業主婦の50歳、離婚してひとり暮らし、職業経験ゼロ(ゆえに失業手当もない無収入者)という人物像を演じて、見知らぬ町で職探しを始める。映画の冒頭、マリアンヌが職安の受付で担当職員との面談の順番待ちをしていると、列を全く無視して恐ろしい剣幕で職員に会わせろと乱入してくる若い女あり。必要書類全部間違いなく提出したのにどこからも何の連絡もなく何日も過ぎている、3人の子供抱えて文無しでどうやって生きろと言うのか。この女の名前はクリステル、これを演じるエレーヌ・ランベールはキャスティングで選ばれた非プロ女優、実生活では派遣労働者。この女性の他、ビノッシュを除いてこの映画の登場人物のほとんどがノン・プロ俳優で占められている。これは一種の”真実味”の追求ということなのだろうが、その”真実味”の追求が映画やフィクションやジャーナリズムの思い上がりの部分であり、それをこの主人公のマリアンヌがずっと懸念している、というジレンマもこの映画は描いてしまう。
 長期に潜入体験して、地方の底辺(女性)労働の実態を本にすること、これがマリアンヌの目的であり、生の人間と出会って、生の話を聞き出したい。そのためは文筆家という顔を隠し、同じフィールドに属する人間の顔をしたい。この嘘の顔を作り、人に偽ることは、果たして報道する(ものを書く)者の態度として正しいのか?それは許されるのか?このデオントロジーの問題が、映画を観終わってみると、この映画の最も大きなテーマであることがわかる。これはオブナの本にはないことだ。
 この映画のサスペンスは、いつマリアンヌの正体がバレるのか、ということである。50歳の職業経験ゼロの女性マリアンヌを担当した職安女性職員は、早い時期にこの女が著名な著述家であることに気づき、訝しげに一体何をしようとしているのかと詰問する。「私は生身の人たちと出会って真実を書きたい」というマリアンヌの嘆願に、職安女性は折れその秘密を守る。就職・再就職訓練コースで出会うのは毎回おなじみの顔。職能と資格を持たない者たちが非正規パートを繰り返した挙げ句、最後に落ち着くのは派遣清掃の仕事。マリアンヌは実際にいくつかの職につき、ハラスメントの猛攻撃などで毎回解雇され、それでも中にはいる思いやりのある人たちのつてでなんとか続けていく。しかし、このノルマンディー地方でどこからも見放され、働く機会を奪われた無職能女性たちが、最後の最後に行くことになるのがウィストレアム埠頭なのである。
 それは英仏海峡(ポーツマス⇄カーン)を往復する豪華フェリーの発着港であり、夜間を含む1日数回の寄航時に、着岸から出港までの短時間(1時間半)に数百の船室を超スピードで清掃するという仕事。危険・汚い・きついの3K仕事で、健康体でも長く続けられない(足腰に変調をきたす)。労働の墓場と言われる職場。マリアンヌがカーンの職安センターで出会った(前述の)クリステル、そして十代で無学歴のマリルー(演レア・カルヌ、ノンプロ女優)も回り回ってこのウィストレアム埠頭のフェリー清掃の場でマリアンヌと再会することになる。
 映画はオブナの本と同じようにその極端に過酷な労働事情を映し出すことも忘れないが、マリアンヌが現場で出会う女性たちとは友情・連帯感がポジティヴに生まれていく。著述家マリアンヌは未来の本のために、もっと深いところまで知ることができる(本のヒロイン的な)ひとりの女性が必要だと考える。その人物として彼女はクリステルを想定し、この若い三児のシングルマザーに接近していく。 ツッパリ型で気が強く口の悪いクリステルは、この人当たりのいい不思議な中年女性(季節でないのに冷たいノルマンディーの海に裸になって飛び込むシーンあり、あきれるクリステル)に少しずつ心を開いていく。あつくなっていく友情。しかしサスペンスシーン:マリアンヌが車にガソリンを入れているすきに、助手席にひとりいたクリステルはマリアンヌのハンドバッグを開け、身分証明証を盗み見ていたのだ! ー それを知ったマリアンヌは疑心暗鬼になり、自分の正体がバレたらどうなるのかと気が気ではない。しかししかし、ある日、クリステルのアパルトマンに招待されたマリアンヌは、既に仲良くなっていた三人の息子たちから大歓待され、”Joyeux anniversaire(ハッピーバースデー)"の合唱の輪の真ん中にいる。(クリステルが身分証明証を盗み見たのはその誕生日を知るためだったのだ)そして息子のひとりが選んだという四葉のクローバーのペンダントを贈られ、マリアンヌはそれを一生肌身離さずつけていようと心に決めるのである。ー このエピソードはもちろんオブナの本にはないエマニュエル・カレールの創作であるが、うまい。カレールに一本取られた感じ(シャポー)。
 ウィストレアム埠頭の過酷な清掃労働班の女性たちはみなすばらしい。厳しい鬼班長のナデージュ(演エヴリーヌ・ポレ、ノンプロ女優、実際に清掃班長だったようだ)のヒューマンなオーラ。そしてそのサブとして働いていた長身の美女ジュスティーヌ(演エミリー・マドレーヌ、ノンプロ女優、この人本当に逸材)が再就職先が決まり、清掃班控室でお別れパーティーをするのだが、このシーンがこの映画で最高にしあわせになれる。フェリーに乗船する(主に男性)客たちがみんな振り返るようなこの美貌の長身女性が、なぜこんな職場にいたのかはこのパーティーの後でわかるのだが、マリアンヌはジュスティーヌが性的マイノリティー(性同一性障害)で長く社会的に受け入れられなかったことを知る。とにかくこの職場ではよき副班長で他の清掃スタッフたちの面倒見も良く、明るい花のような存在だった。去るジュスティーヌのために自作ラップを捧げる若者、鬼班長ナティーヌに催眠術をかける迫真のショーなど、このシーンは恩寵の瞬間の連続であり、最後に時間が来て清掃班全員の乗るフェリーに向かうシャトルバスが遠ざかっていくのを、セクシーなドレスで踊りながら見送るジュスティーヌの美しいことったら...。
 この最高の恩寵のシーンの直後にカタストロフはやってくる。映画ですから。最高にソリッドなものになったクリステル、マリルー、マリアンヌの3人の友情、とりわけクリステルとマリアンヌのそれは、(詳細はここでは書かないでおくが)マリアンヌの正体が明らかにされたとたんに無惨にガラガラと音を立てて壊れてしまう...。

 オブナの本とはかなり離れてエマニュエル・カレールはこのようなフィクション化を選んだ。オブナの本は、この社会的に不可視だった女性たちが主役であり、それを書いている自分ではない。だがこの映画は書いている著述家が主役であり、その書くことのために取った手段について自ら問い詰めることになる女性を描くことになった。取材のために自らを偽り、うそをつくことは著述家として正当なことか? 問題はエティックでありデオントロジーである。
 これはエマニュエル・カレールが説明していることだが、この映画の主人公であるマリアンヌ・ウィンクラーという女性は職業を常に"著述家 ecrivain"と規定している。"ジャーナリスト"としていない。ところがフローランス・オブナは自称も他称もジャーナリストである。誇り高いジャーナリストである。マリアンヌをジャーナリストとしなかったのは、"作家 ecrivain”エマニュエル・カレールの意思であり、この映画は作家視点で書き直された映画だということをはっきりさせたかったのだろう。この映画のマリアンヌはジャーナリストとしては悩まなくていいところを作家として悩み、あのカタストロフを招いた、ということなのだろう。こうしてこの作品はカレールの映画になったのだが、それはありだと思いますよ。「本」と「映画」の別物化の成功例だと思いますよ。
 ジュリエット・ビノッシュ?ますますすばらしい。自分が絶対映画化したかったという熱意がひしひしと伝わる。そしてこのすばらしいノン・プロ女優たちを、ほぼ合宿状態で率先して演技指導したのもビノッシュだった、と。”姉御”ジュリエットと仲間たちの毎晩の大笑いが想像できる、そういう映画。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ウィストレアム』予告編

2022年1月11日火曜日

Requiem pour un twisteur ツイストびとのための鎮魂歌

"Twist à Bamako"
『ツイスト・ア・バマコ』

2021年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:ステファヌ・バク、アリシア・ダ・ルス・ゴメス
フランスでの公開:2022年1月5日


マルセイユ人情映画のスペシャリスト、ロベール・ゲディギアン監督が初めてマルセイユを抜け出して撮った作品。舞台は1962年のバマコ。(撮影ロケは昨今のマリの政情では不可能なので、隣国セネガル、ダカール郊外で当時のバマコを再現して行われている)。フランスの100年以上にわたる植民地支配から独立してできたばかりのマリ共和国、初代大統領モディボ・ケイタはソ連と中国との関係を強化し、社会主義国家建設を強力に推進する。バマコの(ある種裕福な)繊維業者の息子で20歳のサンバ(演ステファヌ・バク)は優秀な学業成績と優れた弁舌の才能を持ち、社会主義的理想に燃える好青年で、新国家建設の前衛たる青年隊幹部として、積極的に地方に出向いて新社会づくりの実行班活動の毎日。明るい未来を一身に背負ったような、すがすがしい顔とさわやかで力強い演説で、行く先々での受けもよい。脱植民地革命は前途洋洋のように見える。
 この新しい時代を謳歌する若者たちは、日が沈むと"サップ”に着飾ってクラブに集まり、朝までツイスト/ロックンロールを踊って過ごすのである。この映画のクラブのシーンで流れる音楽は:「ツイスト・ア・サントロペ」(レ・シャ・ソヴァージュ)、「スーヴニール・スーヴニール」(ジョニー・アリデイ)、「シェイク」(オーティス・レディング)、「ビー・マイ・ベイビー」(ロネッツ)、「ハレルヤ、アイ・ラヴ・ハー・ソー」(レイ・チャールズ)、「サーフ&シャウト」(アイズレー・ブラザース)、「レッツ・ツイスト・アゲイン」(チャビー・チェッカー)などなど。すなわちフランスのイエイエとアメリカのR&Bなど1962年的欧米若者人気音楽とシンクロしたもの。オプティミスティックなサンバは脱植民地革命はロックンロールのリズムで進行すると豪語する。しかし「革命幹部」たちはそうは思わないのである。これは欧米帝国主義の退廃音楽であるからして、社会主義建設には悪影響しかない、という教条スターリン主義が徐々に。
 背景には「旧フランス領スーダン」から独立した二つの国、セネガルとマリが独立後の路線の違い(欧米寄りのセネガル、ソ連中国寄りのマリ)から対立し、マリの指導者たちが厳格な統制経済体制の確立を急ぐことになったことがある。結果的に民衆が独立の熱狂に沸いた恩寵の時代は非常に短いものとなる。
 映画はサンバとその青年革命支援隊のメンバーが地方に赴き、そこで社会主義建設の意義を住民に説き、教育や農業の支援を行うところから始まる。サンバは一貫して(公用語)フランス語で人々に話そうとするのだが、村によっては理解を得られないところがある。その村はバンバラ語しかわからない。サンバに代わって隊員のひとりがバンバラ語で教宣していると、村の首長が出てきて完璧なフランス語で村の宴に招待するから、今夜はここに残れ、と。村の長にふさわしい人格者であり碩学であり論客でもあるこの初老の男は、電気も通っていないこの村でこの社会を昔からつつがなく回しているのは伝統のおかげであるという論を言う。急速な変化を必要とせず、伝統を尊び守っていくことこそ肝要と。進歩派サンバらからすれば最も手強い保守反動論であり、乗り越えなければならないものであるが、古いアフリカはどっこい動かない。
 その村からバマコに戻る途中、彼らの乗ったピックアップバンにひとりの密航者が潜んでいることが発覚。娘の名はララ(演アリシア・ダ・ルス、素晴らしい!)、親同士の取り決めで強制結婚させられ、夫の家から逃げ出してきた、と。サンバは彼の目指す社会主義では強制結婚や一夫多妻制や陰核除去などの因習はすべて廃止されるべきと考える理想家であるがゆえに、この娘を棄てていくわけにはいかない。家族や党に隠して、ララをバマコに連れて行き、住むところと職を世話してやる。仲間たちの連帯に助けられ、この村から出てきた無一物の娘は、都会的に変身し、”サップ”に着飾り、メイクをほどこし、クラブに行ってツイストを踊るようになるのである。
 ロベール・ゲディギアンがこの映画を制作することになった最大のきっかけは、2017年パリのフォンダシオン・カルティエで催されたマリック・シディベの写真展『マリ・ツイスト』で受けた強烈なショックだった。同エキスポのトレーラー(↓)

このあまりに短かったバマコの「ツイストブーム」を記録した写真の数々に、ゲディギアンは自らのマルセイユの青春期と同じヴァイブレーションを感じたのだそうだ。このマリック・シディベに敬意を表して、この映画の中にもひとりの写真家が登場して、クラブやストリートやビーチに出現してこのまばゆいバマコの青春群像を写真に収めている。この美しい写真の数々が、映画のラストで非常に重要な役割を果たすのだが、それはバラさないでおく。
 さて爆発するバマコの青春は、サンバとララの恋の急速な盛り上がりを頂点(ララはサンバの子を妊娠する)に、美しいシーンをしばし続けるのだが、長続きはしない。ララが強制的に嫁がされたのは、あの村の首長の息子のひとりであり、首長は家の名誉を汚されたことで息子を強く責め、あらゆる手段を使ってもララを連れ戻すことを厳命する。きわめて暴力的な追っ手はほどなくバマコまでやってきてその魔手をララに延ばさんとしている。独立政府はさまざまな締め付け政策を打ち出し、禁酒令、音楽とダンスおよびクラブ営業の禁止を決め、ツイスト時代は終わる。また独立政府は経済統制を強化して、自由交易を極端に制限し、その影響をもろに受けて立ち行かなくなったサンバの父の繊維業をはじめ、商工界は自由経済を奪回すべく、政府への直接抗議活動として大規模なデモを組織する。デモは暴徒化し、独立政府はなんとか鎮圧することができたが、大統領モディボ・ケイタはこれをクーデター未遂と断定し、首謀者を重罰に処すると発表し、その首謀者のひとりにサンバの父がいた。サンバは反革命分子として党を除名され、かつての青年隊の仲間たちからも見放される。サンバもララもバマコで生きるのが困難になってくる。
 村の追っ手の魔手からララを逃すため、サンバはララを隣国セネガルのダカールに避難させるプランを立てる。そしてバマコの駅で、ララを乗せたダカール行きの電車が出発する前に、まさにウェストサイド・ストーリーのように、サンバは刺殺されてしまう...。

 たしかに描き方が戯画的であるところもある。アフリカの社会主義建設やサハラの封建的因習や、アメリカン・グラフィティー的な青春や...。100年以上もこの大陸を隷属してきたフランスの映画人がこんな描き方でいいのか、と思うところもないではない。だが、この映画の陽光のような短い青春の爆発は希望である。映画のラストは、どうにかこうにか生き残り、孫と共にマリ北部で生きている老婆ララの2015年の姿である。イスラム過激派に軍事的に制圧された頃のあの地区で、ララは(↑あの当時撮られた写真をいっぱい壁に貼り付けた)家の中で大きな音で音楽をかけて孫たちと踊っている。そして外に出て、カラシニコフ銃を構えた男たちに目もくれず、踊りながら頭からスカーフを外していく...。老婆はあの夢のようなバマコのツイストが忘れられないのだ。レッツ・ツイスト・アゲイン!

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ツイスト・ア・バマコ』予告編


(↓)欧米ツイスト曲に混じって、1曲だけサントラに使われている当時のマリの楽曲で、ブーバカール・トラオレの「マリ・ツイスト」(1963年)


(↓)記事タイトルに拝借したゲンズブール「ツイストびとのための鎮魂歌」、オルガンはエディー・ルイス。(奇しくも1962年)

2022年1月8日土曜日

Jumped so high

"En attendant Bojangles"
『ボージャングルスを待ちながら』

2020年フランス映画
監督:レジス・ロワンサール
主演:ヴィルジニー・エフィラ、ロマン・デュリス
原作:オリヴィエ・ブールドー小説『ボージャングルスを待ちながら』(2018年)
フランスでの封切:2022年1月5日


半のテンポの良さが素晴らしい。冒頭は1958年コート・ダジュール、まばゆい陽光の下海辺パレスホテル、戦後経済成長で財を成した実業家夫妻の集まったハイソサエティーなカクテルパーティー、あの時代の総天然色映画のような色彩、文字通り "Le champagne coule à flots"(波のごとく注がれるシャンパーニュ)の超バブリーな宴にどこからともなく現れるホラ吹き男ジョルジュ(演ロマン・デュリス)、あるテーブルではドラキュラと親交のあったハンガリア貴族の末裔だとぶち上げ、またあるテーブルではデトロイトの自動車王の息子を名乗り、あちこちでご婦人方の人気を一身に集めてしまう。この姿・立ちまわりは2021年に惜しまれてこの世を去った国民俳優ジャン=ポール・ベルモンド(1933 - 2021)と極似。フランスでは往々にしてジャン・デュジャルダンにその後継者の姿を見ようとするのであるが、芸のレンジの広さ(アンダーグラウンドから大予算大衆娯楽映画まで)においてはロマン・デュリスの方がベルモンド的である。そのデュリスとベルモンドは2000年セドリック・クラピッシュ映画『パリの確率(原題:Peut-être)』で共演している。(↓"Peut-être"予告編)

設定は未来に生きるベルモンドが、2000年に生きるデュリスの子ということなのだが、そんなことよりも動画1分29秒めに注目していただきたい。対面する横顔ふたつ、この両者はアゴの張り具合が同じなのだ。花王石鹸なのですよ。
 それはそれ。そのパーティーで世にも華麗にダンスする美女(自分の名前を記憶しないので、気分で何と呼ばれてもいい、仮の名をカミーユ)(演ヴィルジニー・エフィラ)を見るやジョルジュは一目ぼれ。原作小説ではその日の気分で名前を変える女はコンスタンス、ジョルジェット、ルネ、オルタンスなどの名前を使いわけるのだが、この映画では「今日の気分の名前は?」とジョルジュに問われると、女は開口一番「ジャン=ポール!」と答えるのですよ。この映画の制作は2020年で、まだベルモンドは存命中だったが、これは死後に追加されたオマージュと考えるべきかな?原作にはない突然の「ジャン=ポール」は一体何なのかな?
 それはそれ。麗しいダンスの淑女とホラ吹き男は運命の出会いを果たし、ジョルジュはこの退屈を極度に恐れ、厄介ごとや悲しみに心が奪われると精神パニックを起こしてしまうこわれものの美女に、絶対に退屈のない毎日を約束する。それからは毎日が宴であり、毎夕ふたりのパリのアパルトマンは招待客で溢れかえり、"Le champagne coule à flots"の大饗宴を繰り広げることになる。二人の至福の時はダンスであり、そのクライマックスに必ずかかる音楽が「ミスター・ボージャングルス」なのだ。映画のサウンドトラックは(原作小説ではそうだった)超有名なニーナ・シモンのヴァージョンを使っていない。サントラはマーロン・ウィリアムス歌のヴァージョンで、これはかなり残念。
 長男ガリー(演ソラン・マシャド=グラネ、素晴らしい子役)が登場してからは、ますますこのユートピアは笑いの止まらない幸福空間に。幸福な女と幸福な男の間に生まれた幸福な子はホラ話とシャンパーニュとダンスで明け暮れして、何の憂いもない。重要な脇役として(仮名)カミーユの幼少からの庇護者にして上院議員”オルデュール”(汚物)と呼ばれる紳士(演グレゴリー・ガドボワ、いい味出す俳優さんだ)と、ガリーの大の仲良しでアフリカ土産の巨鳥でアパルトマン内で家族同様のペットとして暮らしている”マドモワゼル・シュペルフェタトワール"(余計な付け足し嬢、ミス余分)。原作小説から想像してこの巨鳥の映画出演は不可能だろうと思っていたが、見事な映画のマジック(CGではなく実写に見えた)。
 「ミスター・ボージャングルス」の歌詞どおり、He jumped so high, then he lightly touched down. いとも高く跳び上り、そしてゆっくりと降りてくる。この幸福の頂点から、エピキュリアン家族3人はゆっくりと降りてきて、そして底無しに落ちていくのである。(仮名)カミーユの狂気の発作が再び起こり始める。金が底をつき、長年開封せずにうずたかくためておいて手紙の山は請求書と税追徴金ばかりで、気がつけばその負債は天文学的数字。宴の終わりは憂いの始まり。それに(仮名)カミーユは全く堪えることができず精神を壊していく。アパルトマンを手放すのなら焼いた方がまし、と放火未遂事件を起こし、駆けつけた消防隊員(フランスの消防隊は医療救急も兼ねるのでそこんとこ理解して)の手でそのまま精神病院へ。病院地獄。1960年代のこととわかっていても、この精神病棟は...。
 このパターン(ユートピア→転落→病院地獄)で想い起こす映画2作:ひとつはジャン=ジャック・ベネイクス『37°2(ベティー・ブルー)』(1986年)、これは地獄の果てに主人公が小説を書くという終わり方だが、この『ボージャングルス』は原作小説では小説を書く結末なのに映画はそう終わっていない。もうひとつはミッシェル・ゴンドリーの『日々の泡』(ボリズ・ヴィアン原作)(2013年)で、この映画と同じようにロマン・デュリスが主演していて、前半の奇想天外なユートピアの描き方は『ボージャングルス』と同じほどわくわくものなのだが...。これらの映画の決め手は”転落の急降下”。映画ですから。
 しかし『ボージャングルス』には再浮上がある。ジョルジュとガリーは精神病院からカミーユを”脱獄”させることに成功し、かつてのバブリーな金持ち時代のように派手なオープンカーを運転して南下し、国境を越え(1960年代にはまだ国境があった!)スペインに渡り、カミーユとジョルジュの夢だった"スペインの城"に住み、エピキュリアンな隠遁生活を始める。この"スペインの城”とはダブルミーニングであって、フランス語表現"Château en Espagne(シャトー・アン・エスパーニュ=スペインの城)"とは「不可能で非現実的な計画」を意味する。不可能を現実にする最後の夢、これがその城であった。しかし、しばしの夢のような時間のあと、カミーユの発作はまた始まってしまう。カミーユが「向こう側」に行ってしまうのは時間の問題だということをジョルジュとガリーは知っている。
 この映画で最高に美しいシーン、それは城にその村人たち(ほぼヒターノの人々だろう)を招いて、大きな酒宴を開き、興は最高潮に盛り上がり、音楽が高鳴り、情熱的な踊りの輪が...。お立ち会い、音楽は「ミスター・ボージャングルス」ではないのだよ。すばらしい村の歌姫がパッション込めて歌う、曲は「アドロ」(この曲が出たのが1967年だから時代的には合っている。サントラで使用されているのは伝説的ヒターナの歌姫ロラ・フローレスのヴァージョン)。男たちと女たち、すばらしい踊り手たちの真ん中にヴィルジニー・エフィラとロマン・デュリスがいて、迫力あるフラメンコステップと情熱の視線でエモーショナルに踊るのである。とりわけロマン・デュリスの見事さよ、恐れ入りました。そしてこれがこの映画の本当に最後の宴になってしまうのだよ。このシーンは原作小説にはない。

 上述のボリズ・ヴィアン『日々の泡』のミッシェル・ゴンドリーによる映画化のように、オリヴィエ・ブールドー小説『ボージャングルスを待ちながら』もまた映画化困難と思われていた作品であり、このレジス・ロワンサールの想像力の大冒険のような映画化には敬意を表したい。ロワンサールはこれまでの2作品である『タイピスト!』(2012年、ロマン・デュリス主演)と『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(2020年)が日本公開され好評だったので、たぶんこの映画も近いうちに日本の劇場で観られるようになると思う。原作小説『ボージャングルスを待ちながら』も2017年に日本語訳が集英社から出版されている。小説も映画も愛していただきたい、そう願うカストール爺です。
 ヴィルジニー・エフィラ?ますますすごい女優になってきた。大器晩成型の44歳、って言ったら怒られるかな? 強調しておきますが、ベルギーの人です! 

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ボージャングルスを待ちながら』予告編


(↓)映画サウンドトラックより「ミスター・ボージャングルス」(歌マーロン・ウィリアムス)

2022年1月2日日曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2021

凱旋門が布で包まれたこともあったね

2021年の爺ブログのレトロスペクティヴです。統計ソフトの数字によると、2021年の年間総ビュー数は5万8千ほどで、2020年より2千少なくなっています。そうだろうなあ、と思うフシいろいろ。総じて興味をそそられる文化現象・事件が少なかったと思う。文化の現場はコ禍に蹂躙されたまま。他人さまはそうでもないかもしれないが、高リスク高齢闘病者である私はずっと自宅幽閉者のままだ。本屋レコード屋映画館コンサート会場に行かない、ベランダガーデニングだけが生きがいの好好爺になりつつある。こんな状態でいい記事が書けるわけがないでしょう。同志たちもそれをよくわかっているのでしょう。お願い、見捨てないで。
 音楽は2021年に購入したレコードCD(なんと50枚弱!)だけでフランスの音楽動向を判断したら怒られるでしょう。それでもオレルサン、クララ・ルチアニ、ジュリエット・アルマネに救済された1年だった、とは言い切ることができます。映画は本当に悲しいほど観ていないので、何も言えません。文学ではレイラ・スリマニの『他人の国』第二巻が出なかったことに心痛めておりますが、アメリー・ノトンブクリスティーヌ・アンゴがようやく大きな文学賞が取れるようになったことに世の中変わったなあと実感しました。ゴンクール賞モアメド・ンブーガール・サール『人々の最も秘められた記憶』)は盛りだくさんのすごい本なのだけど、”エンターテインメント性”がやや気に掛かったのでした。
 さて、2021年の記事総数は57件、その中からビュー数の多い順で上位10件を。2020年もそうでしたが、ビュー数が1000を越えた記事はひとつもありません。さびしいですが、こういう年だったと謙虚に受け止めましょう。

1. クーシュネール警報(2021年1月25日掲載)
年頭1月7日に発売され忽ちベストセラー1位となったカミーユ・クーシュネールの『ラ・ファミリア・グランデ』。そのちょうど1年前のヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』と同じように30数年前の性犯罪を告発する内容。エヴリーヌ・ピジエ、マリー=フランス・ピジエ、ベルナール・クーシュネール、オリヴィエ・デュアメル... 70-80年代の左翼闘士/文化人たちが築き上げたユートピアの背後で進行していた「性の解放」の暗部。スプリンゴラ『合意』の”小児愛”作家ガブリエル・マツネフが時の権力者ミッテラン/ジャック・ラングに庇護されていたように、左派"進歩派”の「性解放」は暗い部分を引きずっている。30数年後、今やメディア界・政治学界で超大物として君臨していたデュアメルが本書の当時の小児性犯罪告発で失脚する。それだけでは終わらない本。2021年末現在日本語訳されていない。

2. 『芸術と病気と家族の絆
(2021年10月3日掲載)
ベルギー映画。ジョアキム・ラフォッス監督映画『穏やかならざる人々(Les Intranquilles)』。双極性障害(bipolaire)の画家ダミアン、妻で木工工芸家のレイラ、息子でまだ学童であるアミン、この三人の強い絆がどこまでの重力の衝撃で壊れるかを試すクラッシュテストのような映画。アートと狂気は結果(作品)で説明するのはいくらでも可能かもしれないが、それを生きる現場はどうなのか。創造のプロセス上では世界の真ん中にいるアーチストにリミットが見えなくなる時、誰が支えになれるのか。何度も壊れて、離れて、またくっつく三人。ダミアン・ボナール、レイラ・ベクティ、そしてアミン役のガブリエル・メルツ=シャマー(イザベル・ユッペールの孫)、この三人の素晴らしさに尽きる。

3.『The Great Gig In The Sky(2020年12月21日掲載)
 2020年度ゴンクール賞作品エルヴェ・ル・テリエ著『異状(L'Anomalie)』は、たま〜に爺ブログがつける「★★★★★」評価だった。こんな本と出会うのは本当に稀だと思った。パラレル・ワールド、向こう側とこちら側(あるいはこちら側と向こう側)がひとつになる現象が243人単位で起こる。向こう側の243人とこちら側の243人が同じ人格を持ってひとつの世界に同居する。これをトランプ大統領のアメリカはどうするのか、習近平の中国は過去にどう対処したか...。科学はどう説明するのか、宗教はどう見るのか。あらゆるエキスパートの見方をその分野の言語で説明できるこのオールマイティーな碩学作家の頭脳と一筋縄ではいかないユーモア感覚。私の理解がついていかない部分が半分を占めるが、これは稀有な文学体験だということは間違いない。

4. 『まる星やつら(2021年6月4日掲載)
マッシリア・サウンド・システムの9枚目のアルバム『性悪(Sale caractère)』は、手にした時、ちょっとこれはなぁ、と尻込みした。なんとか悪口を避けるようにレヴューは書いたが、結構無理していたのだよ。こんなコロナ禍の難しい時期にスタジオに入って、まだ感染対策の会場規制がどうなるかわからない頃にツアーの日程を決めた。ツアー終盤に近い12月にパリに上ってきたマッシリア(於エリゼ・モンマルトル)、タトゥーに会って、なぜにこんなに急いで?と聞いたら、パペーJの最愛の人が死んで深刻な鬱状態だった40年来の相棒に生気を取り戻させるための緊急なアルバムだった、と。たしかにこのアルバムの一番の主役はパペーJであり、そのヴィンテージなラガダブ・スタイルが前面に出た曲が多い。ダチっていいなぁ、バンドっていいなぁ、と今さらながら思っていた頃にかのビートルズ・ドキュメンタリー『ゲットバック』も放映された2021年末だった。

5. 『父よあなたは強かった(2021年8月24日掲載)
ゴンクールには届かなかったが、2021年はクリスティーヌ・アンゴがメディシス賞、そしてアメリー・ノトンブがルノードー賞を取った。小説世界の全く違う二人の作家だが、長年の読者として「読んできたよかった」と報われた気分。ノトンブはフランス人日本人問わず私の周辺では(ほぼそのメディア映りと異常に高い販売売上での判断だと思うが)評価が低い。I don't care。私は毎8月のノトンブ新作発表を心待ちにする読者である。このブログでもノトンブ記事は10件ある。ー 外交官パトリック・ノトンブは2020年3月、心不全のため83歳で亡くなったが、コロナ禍のため娘アメリーほか家族は病院面会ができなかった。最後のさよならを言えなかったあメリーの父へのオードがこの小説である。奇想天外な少年時のノトンブ男爵城体験と、若き外交官として遭遇してしまったザイール反乱軍による大量人質監禁事件。父の命を救う外交術たる「パラーブル」(長広舌説法)の文学性を継承した娘アメリーの名人芸の一席、この人はやはり本物だと思う。

6.『アネットおどろくタメゴロー... っと(2021年7月13日掲載)
レオス・カラックス+ザ・スパークスのミュージカル映画『アネット』はカンヌ映画祭監督賞を取ったし、ル・モンド紙やテレラマ誌が最大級の賛辞を捧げた。日本では2022年4月に劇場公開ということで、最近またビュー数が増え始めている記事。記事でも触れてるけれど驚くほど「日本ウケ」を狙ってる感じが、ちょっと引いてしまう私である。記事はすごく長く書いていて、細部までのネタばれがたくさんだが、私が細部を気にしながらこの長尺(2時間20分)映画を見れたのは、やはり見せるところが多かったからなのだろう。観てから半年たった今、記憶に残っているシーンはほとんどないし、サントラ盤も(私当時絶賛したはずなんだが)あまり繰り返して聞いていない。時間が経ってまた「カラックス苦手」感が振り返してくる。スパークスの傑作音楽映画だと思いこみたいムキには「カラックス印」は本当に邪魔くさいと思いますよ。

7. 『あるセザール賞男優の蒸発(2021年3月16日掲載)
この本にも「★★★★★」評価つけた。フローランス・オブナ著『郵便局の不審者』は2008年にフランス深部アン県(01県)の小さな村の郵便局で起こった女性職員殺人事件で、10年以上嫌疑をかけられ続けた元映画俳優の真実を追うノンフィクションエッセイ。少年時代に映画監督ジャック・ドワイヨンに発掘されて映画界入りし、セザール賞有望新人賞まで獲得した男。たまに声のかかる俳優業の他はノマド的に生きていた男が、たまたま短い間住んで町のマージナルな男たち(ジャンキー)とつるんでいたがゆえに、格好の容疑者に仕立て上げられたのだが、事件の真相は誰も知らない。長い年月の捜査の末に俳優の無実と結審するはずだったが、その裁判所出廷の日に俳優が蒸発。すべてが未解決のまま、ムラ社会とマージナルな人間たちの間の確執は消えない。フランス深部の現実を活写した重い本。

8.『膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み(2021年2月9日掲載)
3巻の大河小説『他人の国』の2021年に予告されていた第2巻目の筆が止まってしまったレイラ・スリマニのエッセイ本『花々の香り・夜』は、ヴェネツィアのコンテンポラリーアートのミュージアムとして安藤忠雄が改装した「プンタ・デッラ・ドガーナ」に一晩閉じこもり、現代アート作品と向かい合ってその印象とそこから喚起される自分史についてつれづれに書き綴ったもの。レイラ・スリマニが初めて極私的な「Je」について語る、やや痛みを伴う作業だったのだろうが、それをいみじくも「膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み」とたとえている。モロッコの政財界の要職にあった父が不正事件の嫌疑をかけられ投獄され、その嫌疑が晴れぬまま62歳で病死。この父を想う長いパッセージの一部は記事中に日本語訳して載せた。父、フランス語、モロッコ... メランコリックな内省体験のミュージアムの一夜に、レイラ・スリマニ像がより鮮明に見えるようになる。

9. 『羚羊はどこへ行った - リズィー・メルシエ・デクルー頌(2021年5月4日掲載)
ラティーナ誌2019年6月号に書いた記事『ランボーのように生き果てた女、リズィー・メルシエ・デクルーの軌跡』を加筆修正して再録したもの。雑誌掲載時は何の反応ももらっていなかったのに(やはり読まれていない連載だったのだな)、ブログでの再録にはメールやメッセージをいただいたし記事シェアもされた(初めて)。日本では評価が高いのは知っていたが、情報が何もないので、この記事は少し愛好者の刺激になったかもしれない。47歳、コルシカで人知れず息絶えたリズィー・メルヂエ・デクルーは、遺言にしたがってその113年前に詩人アルチュール・ランボーが焼かれた同じマルセイユの火葬場で灰にされた。2019年5月、元原稿のこの最後の数行を書いた時に、涙が止まらなかったことをよく憶えている。

10. 『Born to be WILDER(2021年4月30日掲載)
初めて読むイギリスの作家ジョナサン・コーの『ビリー・ワイルダーと私(原題 : Mr Wilder and me)』の仏語訳(2021年春フランスでベストセラー)。ハリウッド全盛時代がとうの昔に終わり、名匠ビリー・ワイルダーと言えどもハリウッド予算で映画が撮れなくなった70年代、西ドイツ大資本の(税金対策)出資で作ることになった映画『フェドーラ』の制作にまつわる様々なエピソードと、それに偶然関与することになったギリシャ人の若い女性カリスタと名監督の交流。結局興行的には失敗し、ワイルダー作品としても忘れ去られることになる映画となったが、問題はそこではない。フェリーニ的に言えば、映画は祝祭である、ということを撮影現場の内と外と前と後まで描き出す作家の筆致の妙で読者がうんうんうなずくはず。オーストリア生まれのユダヤ人ワイルダーのヨーロッパへの複雑な思いと文化愛。パリ郊外ロケで、撮影地に入る前に寄り道してしまった農家で、極上のブリーチーズとワインで時間を忘れてしまうワイルダーとカリスタ... 。出来過ぎの話がたくさんで、目がくらくらしてくる300ページ。ファンになりました。また読みます。