凱旋門が布で包まれたこともあったね
2021年の爺ブログのレトロスペクティヴです。統計ソフトの数字によると、2021年の年間総ビュー数は5万8千ほどで、2020年より2千少なくなっています。そうだろうなあ、と思うフシいろいろ。総じて興味をそそられる文化現象・事件が少なかったと思う。文化の現場はコ禍に蹂躙されたまま。他人さまはそうでもないかもしれないが、高リスク高齢闘病者である私はずっと自宅幽閉者のままだ。本屋レコード屋映画館コンサート会場に行かない、ベランダガーデニングだけが生きがいの好好爺になりつつある。こんな状態でいい記事が書けるわけがないでしょう。同志たちもそれをよくわかっているのでしょう。お願い、見捨てないで。
音楽は2021年に購入したレコードCD(なんと50枚弱!)だけでフランスの音楽動向を判断したら怒られるでしょう。それでもオレルサン、クララ・ルチアニ、ジュリエット・アルマネに救済された1年だった、とは言い切ることができます。映画は本当に悲しいほど観ていないので、何も言えません。文学ではレイラ・スリマニの『他人の国』第二巻が出なかったことに心痛めておりますが、アメリー・ノトンブとクリスティーヌ・アンゴがようやく大きな文学賞が取れるようになったことに世の中変わったなあと実感しました。ゴンクール賞(モアメド・ンブーガール・サール『人々の最も秘められた記憶』)は盛りだくさんのすごい本なのだけど、”エンターテインメント性”がやや気に掛かったのでした。
さて、2021年の記事総数は57件、その中からビュー数の多い順で上位10件を。2020年もそうでしたが、ビュー数が1000を越えた記事はひとつもありません。さびしいですが、こういう年だったと謙虚に受け止めましょう。
1. 『クーシュネール警報』(2021年1月25日掲載)
年頭1月7日に発売され忽ちベストセラー1位となったカミーユ・クーシュネールの『ラ・ファミリア・グランデ』。そのちょうど1年前のヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』と同じように30数年前の性犯罪を告発する内容。エヴリーヌ・ピジエ、マリー=フランス・ピジエ、ベルナール・クーシュネール、オリヴィエ・デュアメル... 70-80年代の左翼闘士/文化人たちが築き上げたユートピアの背後で進行していた「性の解放」の暗部。スプリンゴラ『合意』の”小児愛”作家ガブリエル・マツネフが時の権力者ミッテラン/ジャック・ラングに庇護されていたように、左派"進歩派”の「性解放」は暗い部分を引きずっている。30数年後、今やメディア界・政治学界で超大物として君臨していたデュアメルが本書の当時の小児性犯罪告発で失脚する。それだけでは終わらない本。2021年末現在日本語訳されていない。
2. 『芸術と病気と家族の絆』(2021年10月3日掲載)
ベルギー映画。ジョアキム・ラフォッス監督映画『穏やかならざる人々(Les Intranquilles)』。双極性障害(bipolaire)の画家ダミアン、妻で木工工芸家のレイラ、息子でまだ学童であるアミン、この三人の強い絆がどこまでの重力の衝撃で壊れるかを試すクラッシュテストのような映画。アートと狂気は結果(作品)で説明するのはいくらでも可能かもしれないが、それを生きる現場はどうなのか。創造のプロセス上では世界の真ん中にいるアーチストにリミットが見えなくなる時、誰が支えになれるのか。何度も壊れて、離れて、またくっつく三人。ダミアン・ボナール、レイラ・ベクティ、そしてアミン役のガブリエル・メルツ=シャマー(イザベル・ユッペールの孫)、この三人の素晴らしさに尽きる。
3.『The Great Gig In The Sky』(2020年12月21日掲載)
2020年度ゴンクール賞作品エルヴェ・ル・テリエ著『異状(L'Anomalie)』は、たま〜に爺ブログがつける「★★★★★」評価だった。こんな本と出会うのは本当に稀だと思った。パラレル・ワールド、向こう側とこちら側(あるいはこちら側と向こう側)がひとつになる現象が243人単位で起こる。向こう側の243人とこちら側の243人が同じ人格を持ってひとつの世界に同居する。これをトランプ大統領のアメリカはどうするのか、習近平の中国は過去にどう対処したか...。科学はどう説明するのか、宗教はどう見るのか。あらゆるエキスパートの見方をその分野の言語で説明できるこのオールマイティーな碩学作家の頭脳と一筋縄ではいかないユーモア感覚。私の理解がついていかない部分が半分を占めるが、これは稀有な文学体験だということは間違いない。
5. 『父よあなたは強かった』(2021年8月24日掲載)
ゴンクールには届かなかったが、2021年はクリスティーヌ・アンゴがメディシス賞、そしてアメリー・ノトンブがルノードー賞を取った。小説世界の全く違う二人の作家だが、長年の読者として「読んできたよかった」と報われた気分。ノトンブはフランス人日本人問わず私の周辺では(ほぼそのメディア映りと異常に高い販売売上での判断だと思うが)評価が低い。I don't care。私は毎8月のノトンブ新作発表を心待ちにする読者である。このブログでもノトンブ記事は10件ある。ー 外交官パトリック・ノトンブは2020年3月、心不全のため83歳で亡くなったが、コロナ禍のため娘アメリーほか家族は病院面会ができなかった。最後のさよならを言えなかったあメリーの父へのオードがこの小説である。奇想天外な少年時のノトンブ男爵城体験と、若き外交官として遭遇してしまったザイール反乱軍による大量人質監禁事件。父の命を救う外交術たる「パラーブル」(長広舌説法)の文学性を継承した娘アメリーの名人芸の一席、この人はやはり本物だと思う。
6.『アネットおどろくタメゴロー... っと』(2021年7月13日掲載)
レオス・カラックス+ザ・スパークスのミュージカル映画『アネット』はカンヌ映画祭監督賞を取ったし、ル・モンド紙やテレラマ誌が最大級の賛辞を捧げた。日本では2022年4月に劇場公開ということで、最近またビュー数が増え始めている記事。記事でも触れてるけれど驚くほど「日本ウケ」を狙ってる感じが、ちょっと引いてしまう私である。記事はすごく長く書いていて、細部までのネタばれがたくさんだが、私が細部を気にしながらこの長尺(2時間20分)映画を見れたのは、やはり見せるところが多かったからなのだろう。観てから半年たった今、記憶に残っているシーンはほとんどないし、サントラ盤も(私当時絶賛したはずなんだが)あまり繰り返して聞いていない。時間が経ってまた「カラックス苦手」感が振り返してくる。スパークスの傑作音楽映画だと思いこみたいムキには「カラックス印」は本当に邪魔くさいと思いますよ。
7. 『あるセザール賞男優の蒸発』(2021年3月16日掲載)
この本にも「★★★★★」評価つけた。フローランス・オブナ著『郵便局の不審者』は2008年にフランス深部アン県(01県)の小さな村の郵便局で起こった女性職員殺人事件で、10年以上嫌疑をかけられ続けた元映画俳優の真実を追うノンフィクションエッセイ。少年時代に映画監督ジャック・ドワイヨンに発掘されて映画界入りし、セザール賞有望新人賞まで獲得した男。たまに声のかかる俳優業の他はノマド的に生きていた男が、たまたま短い間住んで町のマージナルな男たち(ジャンキー)とつるんでいたがゆえに、格好の容疑者に仕立て上げられたのだが、事件の真相は誰も知らない。長い年月の捜査の末に俳優の無実と結審するはずだったが、その裁判所出廷の日に俳優が蒸発。すべてが未解決のまま、ムラ社会とマージナルな人間たちの間の確執は消えない。フランス深部の現実を活写した重い本。
8.『膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み』(2021年2月9日掲載)
3巻の大河小説『他人の国』の2021年に予告されていた第2巻目の筆が止まってしまったレイラ・スリマニのエッセイ本『花々の香り・夜』は、ヴェネツィアのコンテンポラリーアートのミュージアムとして安藤忠雄が改装した「プンタ・デッラ・ドガーナ」に一晩閉じこもり、現代アート作品と向かい合ってその印象とそこから喚起される自分史についてつれづれに書き綴ったもの。レイラ・スリマニが初めて極私的な「Je」について語る、やや痛みを伴う作業だったのだろうが、それをいみじくも「膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み」とたとえている。モロッコの政財界の要職にあった父が不正事件の嫌疑をかけられ投獄され、その嫌疑が晴れぬまま62歳で病死。この父を想う長いパッセージの一部は記事中に日本語訳して載せた。父、フランス語、モロッコ... メランコリックな内省体験のミュージアムの一夜に、レイラ・スリマニ像がより鮮明に見えるようになる。
9. 『羚羊はどこへ行った - リズィー・メルシエ・デクルー頌』(2021年5月4日掲載)
ラティーナ誌2019年6月号に書いた記事『ランボーのように生き果てた女、リズィー・メルシエ・デクルーの軌跡』を加筆修正して再録したもの。雑誌掲載時は何の反応ももらっていなかったのに(やはり読まれていない連載だったのだな)、ブログでの再録にはメールやメッセージをいただいたし記事シェアもされた(初めて)。日本では評価が高いのは知っていたが、情報が何もないので、この記事は少し愛好者の刺激になったかもしれない。47歳、コルシカで人知れず息絶えたリズィー・メルヂエ・デクルーは、遺言にしたがってその113年前に詩人アルチュール・ランボーが焼かれた同じマルセイユの火葬場で灰にされた。2019年5月、元原稿のこの最後の数行を書いた時に、涙が止まらなかったことをよく憶えている。
10. 『Born to be WILDER』(2021年4月30日掲載)
初めて読むイギリスの作家ジョナサン・コーの『ビリー・ワイルダーと私(原題 : Mr Wilder and me)』の仏語訳(2021年春フランスでベストセラー)。ハリウッド全盛時代がとうの昔に終わり、名匠ビリー・ワイルダーと言えどもハリウッド予算で映画が撮れなくなった70年代、西ドイツ大資本の(税金対策)出資で作ることになった映画『フェドーラ』の制作にまつわる様々なエピソードと、それに偶然関与することになったギリシャ人の若い女性カリスタと名監督の交流。結局興行的には失敗し、ワイルダー作品としても忘れ去られることになる映画となったが、問題はそこではない。フェリーニ的に言えば、映画は祝祭である、ということを撮影現場の内と外と前と後まで描き出す作家の筆致の妙で読者がうんうんうなずくはず。オーストリア生まれのユダヤ人ワイルダーのヨーロッパへの複雑な思いと文化愛。パリ郊外ロケで、撮影地に入る前に寄り道してしまった農家で、極上のブリーチーズとワインで時間を忘れてしまうワイルダーとカリスタ... 。出来過ぎの話がたくさんで、目がくらくらしてくる300ページ。ファンになりました。また読みます。
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