2024年10月27日日曜日

アズナ アズ ナンバーワン

"Monsieur Aznavour"
『ムッシュー・アズナヴール』


2024年フランス映画
監督:メーディ・イディール&グラン・コール・マラード
主演:タハール・ラヒム、バスティアン・ブイヨン、マリー=ジュリー・ボープ
フランス公開:2024年10月24日

ず映画制作の背景から。この映画のプロデューサーであるジャン=ラシッド・カルーシュ(1974年生れ、50歳)は2017年のグラン・コール・マラード&メーディ・イディールの監督デビュー映画”Patients"(観客動員数130万人!)以来、2作目"La vie scolaire"(2019年)そしてこの3作目『ムッシュー・アズナヴール』と、両監督とタッグを組んできていて、そのほかに音楽アーチスト、グラン・コール・マラードのプロデューサーでもある。アルジェリア移民の子で、マント・ラ・ジョリー(パリ郊外、同地の元スター歌手フォーデルとは従兄弟の関係)出身、コメディアン、スタンダップ芸人、ミュージシャンなどの下積みがある。この男がゴールデンボーイとなるのは2006年4月のことで、なんとシャルル・アズナヴールの娘カティア(アズナヴールの6人の子のうちの4番目)と結婚したのである。仏ウィキペディアの記述によると、カティアが盗まれた携帯電話をカルーシュが取り戻してやったというのが馴れ初めのようだ。こうしてカルーシュは大アズナヴールの跡取り婿となり、一挙に芸能界でハバを利かすようになった、というわけ。この事情をおさえておかないと、どうしてこれが(遺族アズナヴール家から公認された)”公式”バイオピックなのか理解できないと思う。どうしてこの制作陣?どうしてこのキャスティング?という公開前から多くあった(批判的)疑問が、ある種否定的で偏見がらみの前評判としてモヤモヤしていたのである。
 そのモヤモヤの核みたいなものがタハール・ラヒムにアズナヴール役ができるのか、ということ。映画の評価はタハール・ラヒムの演技がこのモヤモヤを晴らすことができるかどうか、という点に集中するのだと思う。
 
 さてシャルル・アズナヴール(1924 - 2018)の伝記映画(バイオピック)である。実人生においてアズナヴールは偉大な成功者であり、生涯現役で94歳の高齢でその死の2週間までステージに立っていたという、アーチスト冥利に尽きる大往生であった。自邸の湯を張った浴槽に横たわっていた状態で臨終していた、という安らかさも伝説的である。幸福な幕の閉じ方と言えよう。昨今話題になったバイオピックでは、フレディー・マーキュリー、エルヴィス・プレスリー、エミー・ワインハウス、エディット・ピアフ、ダリダ.... など、凄絶ボロボロな生きざまと不遇な人生の閉じ方、という傾向がわれわれにはしっくり来るし、それなりの感動が約束されていたような納得感で観ることができた。ところがこのアズナヴールは(当然たいへんな苦労はしたものの)あらゆる成功と名声と巨万の財産を手に入れ、良い家族に囲まれ、愛したステージを離れることなく、幸福のうちに生涯を閉じた。これはストーリーとして面白いの?と首を傾げたくもなろう。この場合、モロであからさまな「サクセス・ストーリー」にするしか映画として成立しないのではないか。野心と上昇志向を次から次に満たしていく「昇り坂」映画。太閤記もどき。これもどうなんでしょうね....。
 映画は時系列に忠実に、アルメニア難民であるアズナヴーリアン家のパリ移住から始まる。 実際にはアメリカ移住を目指していて、その入国許可待ちでヨーロッパを移動中に、1923年にサロニカでシャルルの姉アイーダが生まれ、翌1924年にパリでシャルルが生まれたことをきっかけにフランスに定住するようになる。映画は歴史的悲劇であるトルコによるアルメニア大虐殺(1915〜16年)と強制移動にまつわるドキュメンタリー映像を映し出し、アズナヴーリアン家族がその当事者的被害者であったことをうながす。そんな歴史的背景によって流謫の苦労と貧困に悩まされる家族であったが、父親ミシャは楽天家であり、飲食店経営を何度も失敗しながらもアルメニア系移民たちを自店に招待して宴会を開いていた。このシーンで流れるのが、ロシア・ツィガーヌの伝承歌「二つのギター」で、幼いシャルルが宴会の真ん中でコサック・ダンスを披露している。この「二つのギター」は1960年にシャルルが仏語詞をつけてレコーディングしていて、その録音の中でロシア語歌詞部分は父親ミシャ・アズナヴール(元バリトン歌手)が歌っている。経済感覚はゼロだったが楽天的で音楽に溢れた家庭を作っていた父親、その家計の穴を塞いで、さまざまな小さい職で小銭を稼いでくるのが、アイーダとシャルルだった。金になることならば何でもするというハングリーさと営業センスは子供の頃から身についていたものだった。アイーダと共に演劇の舞台に立つ(初舞台は9歳の時)ようになったシャルルは、観客の前に出ることとスポットライトを浴びることの快感を知り、これこそが自分の道だ、と。12歳でミュージックホール(アルカザールカジノ・ド・パリ)に雇われ、小間使い、舞台係、給仕、お笑い端役などをこなしながら、幕袖からモーリス・シュヴァリエやシャルル・トレネのステージを見て、「わだばトレネになる」と高い志しを立てた。

 1941年、17歳、ナチスに占領されていたパリで、「ミュージックホール学校(のちにシャンソン俱楽部)」ディレクターだったピエール・ロッシュ(ピアニスト/作曲家 1919 - 2001)(演バスティアン・ブイヨン、好演)と出会っている。この映画の中では運命の出会いは3つあり、ひとつめはこのピエール・ロッシュ、ふたつめはエディット・ピアフ(1915 - 1963)(演マリー=ジュリー・ボープ、快演)、みっつめはアズナヴールの3人目の妻ユラ・トルセル(1940 - )(演ペトラ・シランデール)である。1967年に結婚し、アズナヴールの死まで52年間添い遂げたスウェーデン人マヌカン出身のユラは、その重要度という点で異論はないが、冒頭で述べた事情から憶測するに、アズナヴール/ユラ夫婦の第一子であるカティア(即ちこの映画のプロデューサーの妻)への忖度ではないか、と勘ぐりたくなるところがある。それはそれ。ピエール・ロッシュは、5歳年下でまだ17歳の若者の作詞と即興のセンスに仰天して、作曲/ピアノ/相方歌手となってデュエット「ピエール・ロッシュとシャルル・アズナヴール」(↑写真)を組み、二人で苦楽を共にしながら”シャンソン道”をひた走る。この映画では曲作りや興行元や音楽出版との交渉などでアズナヴールが常にイニシアティヴを取り、ロッシュはその優れたパートナーに寄りかかって興行先各地で女遊びばかりするような描かれ方。
 ナチス占領下のパリでのもうひとつ重要なエピソード、それはこの2024年2月に非フランス人(アルメニア移民/無国籍者)として初めてパンテオン納骨堂に(レジスタンス英雄・国家的偉人として)収められたミサック・マヌーシアン(1909 - 1944)とアズナヴーリアン家に交流があり、少年シャルルがマヌーシアンのチェスの相手だったということ。また(外国人)レジスタンス隊のリーダーだったマヌーシアンを匿っていたという廉で、アズナヴーリアン家にゲシュタポのガサ入れ/検挙の魔手が襲い掛かろうとするが、寸前に逃げのびるというシーンあり。明らかに2024年的トピックスとしてシナリオに加えられたものと思う。

 この新進のシャンソン・デュオのロッシュ&アズナヴールの噂は既にその世界の女王であったエディット・ピアフにまで届き、(イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーなど気に入った新人男たちを子飼いあるいは愛人として巻き込む傾向のあった)ピアフは若造シャルルをまんまとその影響下に従える。ロッシュ&アズナヴールは入国ヴィザなしでピアフをニューヨークまで追いかけて行き、米移民局に留め置かれ、移民官の前で唯一知っている英語スタンダード曲を歌って審査をパスするという武勇伝シーンあり。ピアフの口利きで、デュオはカナダ/ケベックで仕事を得るが、これが北米ケベックというスモールワールドにおける”大成功”となって二人は鼻高々なのだった。そしてピエール・ロッシュはこの成功に甘んじ、この地で結婚して家庭を作りたいなどという”保守反動”に転じ、デュエット解消へ。だがピアフはそのケベックのような田舎で天狗になるような”志しの低さ”を鼻で笑い、本物の成功を掴んでみろ、とアズナヴールを挑発し、自分の小間使いとして扱き使う。
 エディット・ピアフを演じたマリー=ジュリー・ボープの存在感はたいへんなもので、貫禄の"グアイユ"(gouaille = パリ下町人特有の不平&茶化し口調)、迫力の姉御/芸能女王のアティチュードは、バイオピック”La Môme"(2007年オリヴィエ・ダアン監督、邦題『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』)のマリオン・コティヤールよりもリアリティーの点で優っていると思う。そのピアフはアズナヴールの声がくぐもっている("voix voilée" 不明瞭でよく通らない声)ということが歌手として致命的だと断言する。だから、ピアフはアズナヴールを歌手としてではなく、シャンソン作家として一流にしようとするのだった。小男(1メートル62センチ)、不恰好な鼻、ブサメン、おまけに曇った声、これらのハンディキャップはスター歌手になることを限りなく遠ざけるものであったが、アズナヴールは"不屈の男"であった(というのが映画の全体的トーン)。そして一人前になるには、ピアフの庇護の傘から抜け出さなければならなかった。
 1960年、アズナヴールは36歳になっていた。自作自演ソロ歌手としてなんぼ頑張っても芽が出ない。これが当たらなければ歌手を廃業する、という覚悟でステージに上った1960年12月12日パリ・アランブラ劇場、その歌が"Je m'voyais déjà"(日本題「希望に満ちて」)であった。日本語では「起死回生の一発」と言うのだろうか。独自のジェスチャー演出で歌をドラマチックに仕立て上げるアズナヴールのステージ芸を再現するタハール・ラヒム、このシーンは本当に上手い。一か八かのパフォーマンスの後で大喝采がやってくるという結果がわかっているわれわれ映画観客にしても、このシーンはジ〜ンと来るものがある。これはタハール・ラヒムの力量のなせる技と思うのだが、テレラマ誌は「イミテーション」と酷評する(わからないでもない)。
 このアランブラの一夜のあとは、ヒットに次ぐヒット、押しも押されぬ大スター歌手となり、カーネギーホールを満杯にする国際スターとして(フランク・シナトラに「次はあんたと同じギャラを取って見せるよ」と言うシーンあり)、桁外れの名声と富を得るのだが、このアズナヴールはどこまで行っても上昇志向で、次から次に目標を上方修正していくのであった。この破竹の勢いを一時的にストップさせる不幸な事件はこの映画ではひとつしかない。それはひとりだけ家族にも父アズナヴールの派手な暮らしぶりにも馴染めなかった息子パトリック(1951- 1976)の突然の死であった。映画の中では死因(麻薬オーバードーズ)については触れていなかったと思う。この時だけアズナヴールは立ち止まっておおいに苦悶することになり、映画はここで暗く沈むアズナヴールを映し出すのである。圧倒的サクセスストーリーの唯一の暗部であるかのように。
 
 映画はその他”アズナヴール伝”中のいいとこ取りの数々のエピソードが挿入される。「ラ・ボエーム」やシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーをテーマにした「人が言うように Comme ils disent」がいかにして生まれたか、とか、生涯の女性ユラ・トルセルとの出会いのシーン(←写真)(ここで1974年英国チャートNO.1になった"She"がバックに流れる)とか...。名声、富、最愛の女性、すべて吾れにあり、そういう映画にしてしまったのですよ。グレイテスト・アーチストのグレイテスト・ストーリーに。2時間13分ありがたく拝見しましたが...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ムッシュー・アズナヴール』予告編

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