2009年5月31日日曜日

吹けよ風、呼べよエル・ハラシ



 Kamel El Harachi "Ghana Fenou"
 カメル・エル・ハラシ 『ガナ・フェヌー』


 Hommage à Dahmane El Harrachi(1925-1980)


 その長男カメル・アムラニは1973年にアルジェリアで生まれました。アルジェのカスバで1940年代から人気を博する大衆歌謡、シャアビの大歌手であった父の名「エル・ハラシ」を、カメルは18歳の1991年に襲名しています。そして1994年には父と同じ道を辿り、故国を離れてパリに移住し、バルベスやベルヴィルのマグレブ・カフェで歌うようになります。

 なぜにおまえの心はそんなに悲しいのか?
 なぜにおまえはそこに不幸なままで留まっているのか?
 厄介ごとは長くは続かない
 おまえは何も築かない、何も習得しない、一切何もしない
 年月は長続きしない
 おまえの青春も俺の青春も長続きしない
 おお不幸な者よ、おまえの運も俺の運も尽きてしまった
 (『ヤー・ラヤー 流謫者』)


 父が作ったこの断腸の望郷の歌「ヤー・ラヤー」は、ラシッド・タハのカヴァーによって全世界的に知られるようになりました。その父が55歳の若さで亡くなってからもう30年になろうとしています。父のレコードやカセットは次々にCD化され、その味わいと情に深い嗄れ声/ダミ声で歌われるシャアビは、フランスや日本で新しいファンを獲得していっています。
 カメルはフランスでの「カフェ」デビューからゆっくりと時間をかけて、少しずつ頭角を表し、2005年の「ブールジュの春」フェスティヴァルで大きくクローズアップされ、マグレブ・コミュニティーの外の大きな世界に「父の息子」の大型シャアビ・アーチストとして迎えられます。父のレパートリーと自作シャアビ曲で構成される"HOMMAGE A DAHMANE EL HARRACHI"のショーは、ギター、バンジョー、ヴァイオリン、チェロ、タール、デルブッカなど7人のアンサンブルをバックに、父のようにマンドールを弾き、父とは違う声で歌うカメルが、古くて新しいマグレブ大衆歌謡シャアビを現在進行形で展開します。
 2009年3月マルセイユでの「バべル・メド」フェスティヴァルで最も熱い注目を集めたと言われるカメルが、アルジェリアでのカセット録音以来初めて、フランスで録音スタジオに入って制作したファーストアルバムが5月25日に発売されました。父の顔半分と自分の顔半分を合成した「エル・ハラシ」ヘリテッジ・アルバムです。「父の子」でなくなるにはまだまだ時間がかかることでしょうが、「エル・ハラシ」の名の継ぎ方はこういう形でないと、ね。
 なお、カメルはこの夏はハレドのコンサートのオープニングアクトで出るようです。

 <<< トラックリスト >>>
1. GHANA FENOU
2. WALAHI MADRIT
3. MA YEST'HAS BELDJAMRA
4. KHAOUDI RAHTEK
5. EL BARANI
6. HYATI MAAK
7. YA HILOU
8. ILA TEBGHI
9. CHHAL AAYIT MESBAR
10.(Bonus track) YA RAYAH

KAMEL EL HARACHI "GHANA FENOU"
TURN AGAIN MUSIC/MOSAIC CD 393372
フランスでのリリース:2009年5月25日


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↑2009年3月マルセイユ、バベル・メド・フェスティヴァルでのカメル・エル・ハラシ

 

2009年5月21日木曜日

左官屋、水道工事屋、アコーディオン弾き



 「イタリアにはこういう言い伝えがあるんだ。男の子が生まれたら、その生まれたばかりの赤ん坊を思いっきり壁に投げつけるんだ。壁にくっついて残った赤ん坊は将来左官屋になって、壁からずり落ちた子はアコーディオン弾きになる」。
 ジャン・コルティさんがこの話を私にしていたら、隣にいた奥さんが「それはイタリアの言い伝えじゃないでしょ。ジョー・プリヴァが作った話ですよ」と割って入って来ました。「オリジナルはね、アコーディオン弾きじゃなくて、ミュージシャンだったのよ」とも続けました。するとジャンさんは「イタリアでミュージシャンって言ったら、アコーディオン弾きのことじゃないか」と切り返します。
 
 このいい感じ、わかります?
 5月20日水曜日午後、ノワジー・ル・グラン(パリの東側の郊外。ディズニーランドも遠くない)にあるジャン・コルティ邸でのインタヴューでした。80歳のジャンさんは大変元気でした。食後時間にお邪魔したので、まだワインの瓶が残っているテーブルで、その残りワインをちびちび飲みながら、葉巻煙草を時々吸いながら、いろんな話をしてくれました。
 何度もアコーディオン弾き稼業をやめようと思ったこと。その場合,イタリア系移民が何かと引合いに出すのが,左官屋と水道工事屋で,何はなくても体力とちょっとした技術さえあれば一家を喰わせられる仕事というのはこの二つでした。1958年に結婚した時,奥さんが美容院を買い取り,ジャンさんは音楽を捨てて,髪結いの亭主(仕事としては美容品や化粧品の外商みたいなものを考えていたそうです)で生きていこうとしたのに,ジャック・カネティ,そしてジャック・ブレルと出会って,事情は一転してしまいます。
 やめようとしていると人に出会ってしまう。ジャンさんは3度こういう出会いをしています。最初は1959年のジャック・ブレル,1980年代にはジョー・プリヴァ。南仏バンドルで隠居していたジャンを「アコーディオンの嫌いな南仏人たちの中でおまえは何もやることがないだろう。仕事をやるからパリに出て来い」と無理矢理パリに引っ張り出したのは,バスチーユ「バラジョー」のアコ帝王ジョー・プリヴァだったのです。そしてプリヴァと共にステージに立ったり,テレビに出たり...。そしてラ・リシェール・レーベルの名盤『パリ・ミュゼット』の録音に参加したり...。ジャンさんもこの『パリ・ミュゼット』が流れを大きく変えた1枚だったと強調していました。なにしろ私を初め,アコーディオンなどまるで興味のなかった無数の若い人たちを,強烈に惹き付けてしまったのですから。
 そして90年代にはクリスチアン・オリヴィエ(レ・テット・レッド)と出会ってしまいます。あるジャーナリストの紹介で,ルエイユ・マルメゾンにあったルノー工場の社員食堂で演奏していたレ・テット・レッドを見たジャンは,初めは自分とはあまり縁のない音楽とは思いながら,何か面白そうなことをしていると感じたそうです。クリスチアン・オリヴィエが,こっちに来て一緒にやろうよ,と無理矢理誘うのですが,「俺はあんたたちの音楽を何も知らないから」と言うのに,オリヴィエは「あんたならどうにかしてできるはずだよ」と聞きません。で,やってみたら,どうにかなってしまうんですね。

 こうしてジャンさんは,左官屋にも水道工事屋にもならず,髪結いの亭主にもならず,いやだいやだと言いながら,ずっとアコーディオン弾きを続けてきたのです。

 なにかとてもいい原稿が書けそうな気がしてきました。

2009年5月13日水曜日

騒々しいポリフォニーの進化

 今年で第4回めだという「ジャズ・ノマード」フェスティヴァルです。場所がピーター・ブルック劇団で知られるテアトル・オ・ブッフ・デュ・ノールで,とにかくこの環境で劇や音楽が鑑賞するのはいつも素晴らしい体験です。ほぼ円筒形に4階までのバルコニー席がある,天井がとても高い劇場で,PAなしでも十分に声が通る理想的なアコースティック環境です。私はここでブルック一座の「カルメン」,ベラ・ヴィラ&カリ,ジャン・コルティ,テット・レッドなどを見たことがありましたが,いずれも心に残るものばかりです。  副題を "La voix est libre"(ラ・ヴォワ・エ・リーブル)と言い,これは「声は自由」とか「言論は自由」という文字通りの意味との他に,"La voie"(ラ・ヴォワ:道,進路,方法)にかけてあって「方法手段は何でも自由」という意味でもあります。つまり,「何でもあり」なんです。  ジャズマンでない人たちが多く出演して,「声」を出すんですね。哲学者や科学者も「声」を出します。今回は遺伝学の世界的学者で,環境問題や人種差別問題にも大きくコミットしている84歳のアルベール・ジャカールが初日の第一声を上げました。すごくわかりやすく,大笑いをそそる大変な話術家で,今盛んに言われている「危機 crise」という言葉を「変異 mutation」に置き換えたらどうなるかを説明してくれました。ためになります。  そのあとモロッコのダンサー(タウフィク・イゼディウ)とマリのコラ奏者(バラケ・シッソコ),スラマー3組によるスラムがあって,第一部が終了。  第二部にブラジル/ノルデスチの歌姫レナータ・ローザと,マルセイユ/オクシタニアの男声ポリフォニー・グループ,ルー・クワール・デ・ラ・プラーノの初コラボレーションのステージです。題してルー・クワール・デ・ラ・ローザ。ノルデスチとオクシタニアの共同作業は,フェムーズ・T,ニュックス・ヴォミカ(+シルヴェリオ・ペソア),ボンブ・2・バルなどいろいろありますが,これは声と声のミクスチャー。地声ヴォーカルのテクニックの粋を徹底追及するマニュ・テロン(ルー・クワール・デ・ラ・プラーノ)と野性美あふれるハイトーン民謡ヴォーカルのレナータ・ローザの丁々発止が,ありえないポリフォニーとして調和する恩寵の瞬間が何度もありました。いやあ,すごいです。 (↓ヴィデオ撮りました。これはノルデスチ寄りのセッションです)

2009年5月10日日曜日

ジョーン・バエズになれなかった修道尼



『スール・スーリール』2008年ベルギー映画
"Soeur Sourire" スティン・コニンクス監督作品 主演:セシル・ド・フランス
フランス封切 2009年4月29日


 セシル・ド・フランスが素晴らしい。この映画はこれに尽きるような気がします。
 ベルギーの女性、ジャニンヌ・デッケルス(1933-1985)の生涯を追う、いわゆるバイオピク(biopic)です。伝記映画とは言え、だいぶ脚色され、制作者側の批評眼もかなり強烈です。ジャニンヌ・デッケルスの破天荒な生きざまと悲劇的な結末は、決して彼女が20世紀社会やらショービジネスのシステムの「被害者」あるいは「殉教者」であるとは言えない部分が多いからです。それはほとんどが「自分が撒いた種」の結果なのです。それがこの映画の視点ではっきりしています。
 ジャニンヌ・デッケルスの生涯についての概略は 5月4日の拙ブログに書いたので参照してください。愛のない家庭に生まれ育ち、愛のない母親から逃れるために修道院入りしたジャニンヌは、修道院の中でも規律・静粛・祈祷の生活に馴染めません。自分を抑えることができないのです。お腹が空いた、夕食まで待てない、と誰はばかることなく炊事場からパンを出して食べるというシーンがあります。これに修道院長は厳罰を処します。ジャニンヌは懲りません。大声で怒りを表現したり、時には暴力にまで訴えることがあります。
 彼女は愛を探して修道院入りしたのに、修道院は愛を与えてくれません。これは駄々っ子のロジックですね。
 「ドミニク」のエピソードでも、修道院は顔と名前を出さないことなどさまざまな条件を強要します。そして大ヒットしたことをジャニンヌに隠そうとします。修道院の門の外に報道陣が大挙して詰めかけ、謎の女性歌手「スール・スーリール」にインタヴューを要求します。修道院が堪えきれずに、この門を一度開けてしまうや、ジャニンヌはもうロックスター気取りで有頂天。そしてアメリカの大人気番組(実際はエド・サリバン・ショーのことなんですが、映画では違う名前になっていました)が修道院に番組撮影陣を送り込んで実況放送した時に、ジャニンヌは「私はコンサートツアーをして世界を回りたい」と言ってしまいます。
 修道院はそれを阻止する目的で、彼女を数ヶ月間カトリック大学に送り込み、神学を徹底的に勉強させようとします。映画ではこの大学生活の中で、若い男女学生たちと交流することによって進歩的な考え方や女性解放運動を知るように描かれています。折りも折り、68年学生運動の前夜のことですから。そしてここで煙草とアルコールも知るのです。経口避妊薬讃歌「黄金のピル」はこのようなコンテクストで作詞作曲されました。
 「私はスター」とのぼせ上がっているジャニンヌは修道院との度重なる衝突に堪え切れず、修道会を脱会して、一人の音楽アーチストになります。修道院とレコード会社の契約によって「スール・スーリール」という芸名が使えなくなるなど、さまざまな障害を乗り越えて、ジャニンヌはカナダのコンサートツアーの契約を勝ち取ります。その第一夜のモントリオールでのコンサートで、大喝采を受けながら、最後にアンコールで新曲「黄金のピル」を歌うのです。この歌がローマ法王庁の逆鱗に触れ、カトリック教会側からの手回しで、翌日からのコンサートがすべてキャンセルになります。ここからジャニンヌは地獄に落ちていくのです。
 家族に愛されず、教会に愛されず、社会にも大衆にも愛されずにすべてを失ったジャニンヌは、少女の頃からたったひとりだけ自分を愛してくれた女性アニーのもとに帰っていきます。同性愛をずっと拒否し続けていたジャニンヌは、この地獄の中でアニーとの愛に目覚めるというお話です。
 映画は教会やレコード会社や税務局とのトラブルというディテールにはあまり触れていません。何冊も出ているスール・スーリール評伝の本では、この金銭トラブルのことが中心になっているようですが、映画はそれを重要視していません。監督がインタヴューで断言しているように、これは「愛の映画」なのです。愛を求めてさまよい続けた放蕩児が、ボロボロになって最後に見つける愛、という筋書きですね。そしてジャニンヌとアニーは薬物心中であの世に旅立つわけですが、むしろハッピーエンド風な幕切れに描かれています。

 実在したジャニンヌ・デッケルスという女性は、本当に手に負えない誇大妄想のエゴイストだったようです。セシル・ド・フランスはこの女性を「ロックンロール・スター」と評しています。ナイーヴな反逆者を貫き通した頑迷な女性の悲劇です。泣けます。

(↓)予告編

2009年5月4日月曜日

ニック、ニック...



 「ラティーナ」原稿締め切りまであとX日。頭がフランソワーズ・アルディ漬けから脱することができず、さっきまで何を書こうかいろいろ悩んでおりました。短い時間で、青森の図書館のネットサーヴィスで検索したごく最近のフランスのニュースで、私がフランスを出た4月28日の翌日にフランス封切になった映画『スール・スーリール』が、結構話題になっているようなのです。1963年の地球規模大ヒット「ドミニック、ニック、ニック...」の人の伝記映画です。「ドミニック」はビルボードのチャートで、初めて第一位になった「フランス語」の歌です。出どころはフランスではありません。ベルギーです。それもベルギーの女子修道会です。
 大雑把なことは知っていました。これは修道女シスター・リュック・ガブリエル、本名ジャニンヌ・デッケルス(1933-1985)の自作自演曲ですが、貧しい人への愛のメッセージと少しの寄付ができれば、と思って彼女が作ったこの曲は、この全世界ヒットなど予想していなかった時点で修道会とレコード会社フィリップスの契約によって制作されたものなのです。ですから彼女は本名も出せず、フランス語圏では「ほほえみシスター(Soeur Sourire)」、英語圏ではもっとシンプルに「ザ・シンギング・ナン(歌う修道尼)」と呼ばれていました。全世界で2百万枚を売った時点で、話はガラリと変わってきます。なにしろこの収入は修道会とレコード会社のみが手に入れ、ジャニンヌには一切入らなかったのですから。その上、彼女はほとんど無給でプロモーションショーや、テレビ(米国エド・サリヴァン・ショー等)に出演していたのですから。匿名ながら、世界的名声はジャニンヌのものになりますが、それ以外のものは何一つ手に入れられなかったのです。
 ここからジャニンヌはラジカルに変身し、修道会およびカトリック教会を敵に回し、フィリップスを相手どって訴訟を起こします。するとベルギー税務局が、彼女が得たであろうという収入の概算をもとに、天文学的な数字の税金をジャニンヌにかけてきます。理不尽きわまりない上、払えようがないこの税金を少しでも軽減するために、再びレコーディングしたりするのですが、ヒットは二度とおとずれません。
 重度のノイローゼになったとも、アルコール中毒患者になったとも伝えられました。ベルギーの芸能メディアは、かなり意地悪にこの「なれの果て」を報道しました。レズビアンであったことも揶揄の対象になりました。
 そして1985年、彼女の唯一の親友にして伴侶だった女性アニーと心中することによって、その生涯を閉じています。

 私はこれを映画見ないで原稿仕上げなければならないのです。危険ですかね?

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