2023年7月31日月曜日

いろいろありすぎ、アリス・ギイ(1873-1968)の生涯

Catel & Bocquet "Alice Guy"
カテル・ミュレール(画)&ジョゼ=ルイ・ボッケ(脚本)『アリス・ギイ』


界映画史上初の女性映画監督アリス・ギイ(1873年生 - 1968年歿)はこの7月1日が生誕150年ということで、昨今回顧(&再評価)イヴェントが催されたり、記念切手(↓)が発行されたり。この記念切手は私も大好きなフランスのイラストレーター、アリーヌ・ザルコの作品で、カラフルでポップな仕上がり。

 カテル(画)&ボッケ(脚本)のバイオグラフィーBD作品は、『モンパルナスのキキ(Kiki de Montparnasse)』(2007年)と『ジョゼフィン・ベイカー(Joséphine Baker)』(2016年)という2大傑作があり、私はおおいに感銘を受け勉強になったのだが、その緻密な考証とドラマティックな画風は高く評価されている。この女性偉人伝のシリーズにはもう1作『オランプ・ド・グージュ(Olympe de Gouges)』(18世紀の劇作家/女優、フェミニスム運動の先駆)があるのだが、持ってないのでぜひ入手しようと思ってます。
 さてアリス・ギイであるが、上にもリンク貼りましたけど、日本語版ウィキペディアの「アリス・ギイ」項が非常に詳しく来歴や作品などを紹介しているので、参考にしてください。これだけでアリス・ギイのすべてがわかってしまうようなものだが、このカテル&ボッケのBD本は400ページのヴォリュームで、本編(BD物語アリス・ギイ伝)が320ページ、80ページが資料(年譜、人物解説、700本超のフィルモグラフィー、文献...)というたいへんなしろものなのである。なぜ(専門書でもないのに)こんなに資料が重要に扱われているのかというと、アリス・ギイは1968年に亡くなった頃はほぼ誰からも顧みられず、忘れ去られていた。その700本を超える映画作品もどうなっているのか誰も知らなかった。1920年以降全く映画を撮っていなかった(40歳で監督業引退)。このBDアルバムでは自分の会社の倒産売却と離婚の1920年代から1968年に亡くなるまでの不幸な40数年は33ページあつかいとかなり短縮しているが、かなり厳しかったことはよくわかる。復権と再評価は1970年代になってから(自伝の発刊が1976年、死の8年後)なのだが、まだまだなのじゃないかな。映画関係者でもアリス・ギイを知らない人がまだまだ多いようだし。このBDが丁寧に歴史考証してその生涯を詳しく物語化しているのは、この偉人があまりにも世に知られていないからでしょう。
 アリス・ギイは1873年、フランス、パリ東郊外、サン・マンデで生まれている。父エミール・ギイは実業家で南米チリで出版社を経営していて、本来一家(父母兄妹)はバルパライソValparaiso)で暮らしていたのだが、チリで天然痘が流行り出し、妊娠中の妻と胎児の安全のために一家は一時的にフランスに滞在した。この頃フランスとチリ間の船旅の所要日数は7週間。生まれたての子供にはこの船旅は無理、ということでスイスの母方の祖母にアリスを預け、一家はチリに戻っていく。アリスが3歳になった時母親が来て、アリスを南米チリへ連れていく。マゼラン海峡周りで南極ペンギンが見える。しかしチリでの大金持ちの生活は長続きせず、父の会社倒産と財産没収で一家は旧大陸に連れ戻され、アリスの教育は学費を切り詰めるため学校を転々としなければならなかった。演劇が好きで学校の舞台にもよく立ち、将来は女優にという夢があったが、父親の猛反対で頓挫。この演劇少女時代の経験が、のちの”劇”映画制作に大きく影響していく。
 家の経済状態のせいで、若くして働くことを余儀なくされるのだが、唯一の職業訓練として「速記タイプ」を超スピードで習得する。そしてパリで非常に優秀な秘書として”職業”デビュー。20歳。BDで強調されているのは、この19世紀末産業革命期における働く女性たちの危うく弱い立場に早くも異議を唱え、男性上位ヒエラルキーの圧力に屈しない才覚とアイディア力で重要なポジションを掴んでいく勇ましい姿である。1894年写真機製造販売会社に就職、社長代理をしていたレオン・ゴーモン(のちの世界有数の映画製作会社/上映館ネットワークのゴーモンの創業者)と邂逅。
 1895年、リュミエール兄弟がパリのグラン・カフェ地下のサロンで世界初の有料映画公開を行った年、レオン・ゴーモンは自分の名を冠した映像機械の販売会社ゴーモンを設立し、アリスはその社長秘書となった。その機材の開発製造販売にしか興味のなかったゴーモンに、その撮影機のデモンストレーション映像を制作して一般公開すべきと進言したのはアリスだった。リュミエール兄弟が駅に入る汽車工場から出る労働者たちといった実写映像で人々の度肝を抜いていたのに対して、アリスは娯楽性と物語性のある劇的な映像を提案する。大道具小道具撮影セットを用い、役者が演技する『キャベツ畑の妖精』(赤ちゃんはキャベツから生まれるという昔話を援用した妖精譚)をアリス自身が撮りたい、と。あまり乗り気でなかったゴーモンだが、アリス本来の仕事である秘書業務の時間の外でやることを条件に渋々許可を出す。ここで十代の頃演劇少女だったアリスのノウハウがフル活用され、セットと衣装のデザイン、俳優の演技づけ、 赤ちゃんたちの手配など、すべて彼女が采配し、自らカメラを回して、世界初の57秒の劇映画『キャベツ畑の妖精』(↓動画)は1896年に完成する。アリス23歳。



 この撮影の場面をカテル・ミュレールの絵はこう(→)再現している。女性たちの姿が多い、赤ちゃん誕生という女性の営みを描いた、まさに世界初の女性映画でもあったのだ。世界初の女性映画監督の登場でもあったが、それが話題やニュースになるような時代ではなかった。重要なのはアリスはこの時からゴーモン社の映画制作責任者となっていて、1896年だけで7本の短編映画を監督し、リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエス(特撮映画のオリジネーター)と並ぶ映画創成期の偉大なパイオニアとして名を残すはずであった。が、そうならないのは多分に「女性ゆえ」ということでしか説明できないように思える。BDでは男性制作スタッフの”上司”アリスへの妬みや、”あの時代からそうだった”映画界のセクハラ問題も描かれている。h無声映画に音楽の伴奏をつけて上映することを考案したり、蓄音盤に予め録音された音声を映像にシンクロさせて有声映画とする最初のトーキー映画のシステムを開発したり、その仕事はすべてアリスではなく”男性”がしたことにされている。1907年にゴーモンの映画制作責任者を退職するまで、アリスは100本以上の映画を監督制作したが、ゴーモン社の作品目録には監督名が自分でなくなっているものも多いと言う。

 1906年、南仏カマルグ地方でロケ撮影した映画『ミレイユ』のために急遽カメラマンとして抜擢された(ゴーモン社のロンドン支店の主任だった)イギリス人ハーバート・ブラシェと邂逅、BDではそのカマルグ撮影のシーンがなんとも美しく描かれているのだが、出来上がりでブラシェのカメラマンの腕は二戦級とわかるというオチがある。このアリスよりも9歳下の若造とアリスは恋に落ち、翌年には二人で渡米し、アメリカでの映画人生が始まることになる。しかしこのブラシェという男はどうしようもない輩(のようにBDでは描かれている)で、映画的にはテクニカルな意味でもプロデューサーとしての才覚にしても冴えないばかりではなく、アリスの映画ヒットの収益を投資でスってしまったり、複数の女優と不倫を重ねたり...。アメリカで最先端のスタジオを使って、野心的な映画(フェミニスト的傾向のテーマ、初の黒人主演映画など)を次々と制作し、チャップリンやキートンと肩を並べる活躍をしていたアリスが、アリスとブラシェの会社SOLAXの経営破綻のために1922年で映画が撮れなくなってしまったのは、すべてこの男のせいと言っていい。
 39歳で監督業引退。ブラシェとの間には二人の子供(娘シモーヌ、息子レジナルド)がいたが、1922年に正式離婚。この後のアリスの人生(フランスに戻ったり、またアメリカで仕事探したり...)は辛くて長い。そしてその映画人としての正当な評価がされないままに、忘れ去られた人となっていく。創成期の映画のフィルムは保管されているものが少なく、アリスの700本を超すと言われる作品も、焼却処分になったものも多く回収が難しいが、アリスは晩年までその回収捜索をしている。そして自分の仕事を記録する自伝を執筆するのだが、その自伝が出版されるのは、自らの死(1968年)から8年後の1976年のことだった。

 映画史から消されてしまった”世界初の女性映画監督”が、復権し、正当に研究されて作品が再発掘されだしたのはこの自伝の出版がきっかけで、それでも最近まで映画関係者でもその名を知らない人たちが多かった。この生誕150周年を機会にした一連の再評価(ARTE TVのドキュメンタリーTF1のニュースでの4分紹介エマニュエル・ゴームによる伝記小説ドキュメンタリー映画など)で、ずいぶん知られるようになったのではないかな。その中でこのカテル&ボッケのBD本は、その波乱の生涯にぐいぐい引き込んでいくパワーに圧倒される。映画好きの人たち、女性のパイオニアに興味ある人たちのために、日本語訳版出ればいいのにね。

Catel & Bocquet "Alice Guy"
Casterman刊 ハードカバー版 2021年9月22日、400ページ、24.95ユーロ
廉価ソフトカバー版 2023年6月7日、400ページ、10ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ARTE TVのアリス・ギイ紹介の3分動画

2023年7月24日月曜日

ヴェロニク・サンソンの用例

FabCaro "Moins qu'hier (plus que demain)"
ファブカロ『昨日よりも少なく(明日よりも多く)』
(Glenat刊 2018年5月)


ファブリス・カロの名を一躍ビッグにした不条理BDアルバムの大傑作『ザイ・ザイ・ザイ・ザイ』(2015年)の3年後のBDアルバム。ウェディング特盛麺というなんともシュールな表紙である。げに男女の仲とはシュールなものであり、出会わないミシンとコウモリの関係であり、それは往々にして知り合う前から壊れている。ファブリス・カロはその「壊れ」のさまざまな位相を1ページ基本6コマで描いてみせる。全部で約60編。
とりあえず2編紹介してみよう。

午前7時16分 アガットとベルナール

(上左)
男:う〜ん、きみのコーヒーはうまいよ、マ・シェリー。
(上右)
男:朝早くにきみを目の前にして飲める、なんてしあわせなんだ。
(中左)
男:僕はきみの起きがけの顔が大好きなんだ。髪も整えず、化粧もしていない。素敵だよ。
(中右)
女:ベルナール、あなた本当にむかつく人ね。いつもポジティヴで、すべてに満足してる。
(下左)
女:私あなたにうんざりしてるってやっと気づいたの。
(下右)
男;ほら、このことだよ。僕たち二人で最高なのは、どんなことでもお互いに言えるってこと。すばらしいことだよ。




21時28分 カミーユとフローラン

(これは絵だけでわかると思うんだけど、無粋に翻訳を)


(中右)
女:うまいわね。
(下左)
女:ギターのあとは、なにか違うものがいいわね。私の言いたいことわかるでしょ。
男:ああ、とてもよくわかるよ。









 
まあ他にも秀作はたくさんあるんだが、とどめを刺す一編というのがこれ(↓)。1ページひとコマ。フィーチャリング:ヴェロニク・サンソン(赤線は私)。


19時46分 マエルとクリストフ

女:クリストフ、あなたすっかり変わってしまったのね。知り合った頃には、まさかあなたがヒットラーの口ヒゲをして
ヴェロニク・サンソンの歌を歌いながら、テニスラケットを左手に、ウィンドーシャッターのパンフレットを右手に持って、リヴィングルームで裸でウンコするなんて考えもしなかったわよ。









 

この「壊れ」のありさまはシュールを通り越して異次元ワープものである。さてこの場合のヴェロニク・サンソンというメタファーの意味である。決して時代遅れの歌や人前で歌って恥ずかしい歌(例えばミッシェル・サルドゥーの歌のような)というニュアンスではない。これは英米ポップの歌を(英語で)暗記して歌えない人でも、あの時代(すなわちセヴンティーズの)新しげな(仏)ポップソングだったと愛した、ノンアングロフォン(No English spoken)の愛唱歌、という立ち位置。スノッブな人たちが鼻で笑うような。今日ではジュリエット・アルマネやクララ・ルチアニによるサンソン再評価によって、それほど抵抗はなくなったものの、その前はカラオケで歌うのもちょっと勇気が要ったと思うよ。さしずめこのクリストフが(ウンコ垂れながら)歌っていた歌というのは容易に想像がつく。「アリア・スーザ」(↓)に違いない。


2023年7月20日木曜日

追悼ジェーン・バーキン/モワ・ノン・プリュ

2023年7月16日、暗い日曜日、76歳で亡くなったジェーン・バーキン。訃報後フランスのテレビのニュース番組で、街頭のファンたちの反応を求める報道マイク、「印象に残っている歌は?」と聞かれて歌い出す市民の歌は”Ex Fan des Sixties"、"Di Doo Dah"、"Quoi"...。そうなのだ。「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」ではないのだ。ファンたちが避けて通っているのではない。故人への敬意もあろうが、もはや”ジェーン・Bを代表する一曲”ではないのだ。私はこの一曲にのみ集約される歌手ではない。ジェーン・バーキンは長い時間をかけて”それだけではないジェーン”の地位を獲得していった。しかしそれはフランスの事情。世界的女優として羽ばたいていった娘シャルロット・ゲンズブールが、諸外国で聞かされる”父母のことで知っていること”がこの曲しかない、と嘆いている。そう、まだまだ世界的には「ジュ・テーム」のスキャンダル歌手がジェーン・バーキンである。しかしこの歌は一過性のスキャンダルで終わる歌ではない。
 2019年、私はこのシングル盤「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の発売から50周年となったことを機に、ラティーナ誌(2019年4月号)に『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュの50年』という記事を書いた。世界を変えた歌のひとつとして証明するために。だが、ジェーン・バーキン自身はこれを越えたかったのだ。これだけじゃない。そうとも。これだけじゃない。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2019年4月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の50年

 こ
の原稿を書いている32日はセルジュ・ゲンズブール(1928-1991)の命日であり、あれからもう28年の月日が流れたのだ。ゲンズブールは62歳でこの世を去ったが、私は今やゲンズブールよりも年上になってしまった。この日も彼が眠っているペール・ラシェーズ墓地には多くのファンたちが詰めかけているようだが、私はそこまでの熱心な信奉者ではない。しかし、この二、三十年で、私が公に発表している日本語の文章の総数で、ゲンズブールに割かれた行数は他を大きく引き離して圧倒的に多いはずだ。異論の余地なくポップ・フランセーズ最大の異才なのだから。
 その絶対的傑作とされる『メロディー・ネルソン』よりも、世界的にはるかに知名度が高いのがジェーン・バーキンとのデュエットによるシングル盤「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」である。このスキャンダラスなレコードがフランスで発売されたのが19692月のこと。すなわち今から50年前のことなのである。

 
 時期的にはそれから少しずれるかもしれないが、その歌から生まれたとも言えるバーキン/ゲンズブールの一人娘シャルロット・ゲンズブール(1971 - )は、大人になって歌手/女優として国際的な舞台で活躍することが多いが、外国で人々に父母のことで知っていると言われるのはこの歌のことしかない、と証言している。その世界的名声は、それまで非英語曲を頑なにシャットアウトしていた英国シングルチャートで1位になるという大武勇伝だけでなく、北欧、スイス、オーストリアなど欧州を席巻し、南米各国でも大ヒットする。しかも各国で放送禁止、放送時間制限、購買者年齢制限(未成年に売らない)などさまざまな障壁を乗り越えてのヒットである。
 

 50年後の今日、あの曲が世界中の国でヒステリックな検閲の憂き目にあったことなど、今のネット上の性表現に慣れた若い人たちには笑い話でしかないだろう。考えられないかもしれないが、ついこの間まで「性」は禁止されるものだった。それは人間の営みとしてはあっても、人前に出してはいけないものだった。60年代頃まで私たちは結婚前の性関係はいけないことだと教えられていたのだ。それをフランスを含む旧教的世界で禁欲的な道徳で圧倒的な影響力を持っていたのがローマ法王庁であった。19698月、法王庁の公式日刊紙オッセルヴァトーレ・ロマーノはこの歌「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」をわいせつと断定し、未成年者たちをこの歌から守れと訴えた。この圧力によりイタリアはこの曲の放送禁止を決定し、スペインとスウェーデンもそれに従った。
 フランスではレコードに「未成年(21歳未満)禁止」のスティッカーが貼られ、23時以前の放送が禁止された。英国BBCは「歌入りヴァージョン」が禁止でインストルメンタルは許可されたので、漁夫の利でスタジオ・ミュージシャン寄せ集め即席バンド
サウンズ・ナイス名義のインスト・シングル盤もヒット(チャート18位)した。ジェーン・バーキンの妹リンダはBBCの検閲に激怒して人気番組トップ・オブ・ザ・ポップスのディレクターに抗議の手紙を送ったところ、返事がウィットの利いたフランス語で返ってきた:

Moi jaime Je taime mais la BBC naime pas Je taime.
私自身はジュテームが好きなのですが、
BBCはジュテームが好きではないのです
冴えたブリティッシュ・ユーモアであるが、BBCに頼らずとも英国で9月に発売されたこのシングル盤が1017日に映えあるチャート1位に輝いたのは、ひとえにクラブでの爆発的な人気によるものだった。69年夏、ヨーロッパ中のクラブで男女はこのスローでチークを踊ったのだ。それはその後の夜更けの出来事の直接的なプレリュードであった。ジェーンの兄、アンドリュー・バーキン(写真家)は、その夏このレコードを卓上プレイヤーにかけて(エンドレス・リピートにして)曲に合わせて恋人とセックスしたことを告白しているが、ヨーロッパ中で何十万組のカップルが同じことをしたであろうことは想像に難くない。
 ローマ法王庁の圧力は、イタリアの検察を動かし、イタリア刑法が禁止するわいせつ物出版および上演に抵触するとして、ミラノのレコード工場で同シングル盤のストックを差し押さえた。当時この曲はイタリアのチャートの2位。この法解釈は全イタリアで個人がこの盤を所有しても同罪と見なされ、瞬く間にイタリア全土のレコード店頭から消えるのだが、禁止されれば欲しくなる人間の性(さが)、闇ルートではマリア・カラスのジャケットに差し替えられて5万リラの高値で流通したという。そしてこの法王庁の影響力が強大でカトリック信仰が根を張った南米大陸の各国でも、同じように禁止が逆に大人気を呼んで、闇の大ヒットとなっていく。
 この現象を評してゲンズブールは「バチカンは俺たちの最高のプロモーションエージェントさ」とほくそ笑んだのである。

 ウッドストックは69年の夏の出来事だった。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが
ベッドインした年でもあった。そしてその前年の68年、フランスでは5月革命という大事件があり、政治的には革命は起きなかったものの、若者たちを旧時代のモラルから脱皮させた大きな意識革命があった。間違いなく大きな変動が地球を包んでいた時期であるが、西欧で性の解放は経口避妊薬の合法化と共にやってきた。フランスでは68年に市販が認められ、74年から社会保険の払い戻しが適用されている。性は人類再生産のためではなくても良くなった。私たちは大手を振って性に快楽を求めても良くなったのだ。「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」はその時代のど真ん中の性的オーガズムへの賛歌であった。

 とは言え、この曲は69年に作られたわけではなく、ゲンズブールがジェーン・バーキンと出会う前に既に67年に完成されていた。ゲンズブールが世紀の女優ブリジット・バルドーと「まさかの」恋仲にあったのは67年のたった3ヶ月の間のことだった。なぜ「まさかの」と書いたかと言うと、これはゲンズブールにとっても信じられない半信半疑の恋だったからであり、それは後で解説する歌詞にも明らかなのである。ジョアン・スファールの映画『ゲンズブール、その英雄的生涯』(日本公開題「ゲンズブールと女たち」2010年)にもこのシーンは出てくるが、バルドーはゲンズブールに「世界一美しいラヴソングを作ってほしい」とねだる。伝説ではその願いに応えて一夜で作詞作曲したのがこの「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」ということになっているが、実は曲は前に出来ていて、66年のエドゥアール・ランツ監督映画『緑の心(Les Coeurs Verts)』のサントラとしてゲンズブールが作曲したインスト曲
Scène de balがオリジナルである。6712月に録音されたバルドー&ゲンズブールの「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」(編曲ミッシェル・コロンビエ)は、その録音翌日にリークされ民放ラジオ局ユーロップ1でオンエアされてしまう。ここから轟々のスキャンダルが持ち上がり、当時のバルドーの夫(3番目)であったドイツ人億万長者で写真家のギュンター・ザックスはその発売を止めさせるためにバルドーとレコード会社を脅迫する。その結果レコードは封印、バルドーはゲンズブールとの関係を絶たねばならなくなった。
 このバルドー&ゲンズブールの「ジュテーム」第一ヴァージョンは、1986年に封印を解かれ、売上をバルドー主宰の動物愛護団体に寄付するという条件でシングル盤化されるが、わずか2万枚のセールスに終わっている。

 世紀の恋を失ったゲンズブールはしばらく失意で立ち上がれなかったのだが、それを救ったのが、ゲンズブールよりも18歳年下のイギリス娘(当時21歳)ジェーン・バーキンであった。68年春、ピエール・グランブラ監督の映画『スローガン』で主演ゲンズブール&相手役バーキンとして初対面した二人は、全く波長が合わず、お互いに毛嫌いすらしていた。これでは撮影ができないと困ったグランブラ監督が、二人を高級レストランのマキシムスへ招待し、ひとつ三人で腹を割って話そうとテーブルを予約するのだが、よくある手で時間になっても自分は現れず二人だけの夜になる。グランプラの策はまんまと成功し、飲んで喰って踊って明け方まで二人は享楽し、オスカー・ワイルドが滞在し死の床となったことで知られるホテル「ロテル L
hôtel」(パリ6区。以来バーキン&ゲンズブールの定宿となる)の一室に倒れ込んでいく。伝説ではゲンズブールはそのまま倒れて寝入ってしまうのだが、バーキンは起きて24時間営業ショップ「ドラッグストア」に出かけ、その夜クラブで踊った曲のレコード(オハイオ・エクスプレス「ヤミーヤミーヤミー」)を買ってきて、ぐうぐう寝ているゲンズブールの足の指に挟んで、自宅に戻ったという話になっている。

 それはそれ。のちに世紀のカップルとなる二人はこの時から離れられない仲になり、ゲンズブールは封印したばかりの世紀のラヴソングをバーキンと再創造するのである。バルドーと録音したのと同じ
Cメジャースケールだが、バーキンにはバルドーよりも1オクターヴ上の声で歌わせる、このことが成功の大きな要因であったと後にゲンズブールは語っている。
  ではまずタイトルの
”Je t’aime moi non plus”だが、もとのフランス語からも意味のとりにくい不条理な表現で、直訳的には女が「私はあなたを愛している」と言い、男が「俺そうじゃないね」と答える。「いや俺は違う」という答えではない。出典は天才画家サルバトール・ダリの言葉:
Picasso est espagnol, moi aussi
Picasso est un génie, moi aussi
Picasso est communiste, moi non plus

ピカソはスペイン人だ、私もそうだ

ピカソは天才だ、私もそうだ

ピカソは共産党員だ、私もそうじゃない

に由来する。ジェーン・バーキンは後年(まさに
50年後の2019年だが)この歌が自分のために作られたわけではないことを踏まえて、作ったゲンズブール本人がまさかバルドーがこれを歌ってくれるわけがないと疑っていたから、こういう照れの返事を用意したのだ、と分析している。歌詞の大胆さに反してゲンズブールはとても臆病で恥ずかしがり屋なのだ、とも。ジュテームとかモナムールといったピロートークをまさかバルドーが俺に歌うはずがない。ところが
(女)あなたは波、私は裸の島
   
(
.)
(
) 肉体の愛には出口はない

性的恍惚にクレッシェンドしていく4分間シングル、その繰り返し運動の末に女は「今よ、来て」とエクスタシーに導く。バーキン&ゲンズブール版「ジュテーム」が出た時すぐさまエクスプレス誌は
Symphonie en râles majeurs”アヘアへ長調交響曲)という異名を与えた。その喘ぎ声に煽られ、事情を知らぬ少年少女たちは奇妙なセンセーションを覚えたが、それが何か知らずとも絶対親や大人たちには秘密にしておきたい何かだった。隠れて聞きたいイケナイ歌だった。さらに歌詞は変なことを歌っている。
Je vais je vais et je viens entre tes reins
おまえの腰の間を行ったり来たり

これが暗示するものはソドミー(肛門性交)である。禁止にも関わらずイタリアで大ヒットした結果、イタリアでは隠語で「ゲンズブール式セックス」と言えばソドミーのことになったという。
1976年ゲンズブール初監督長編映画『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』(
→映画ポスター)はゲイの男(ジョー・ダレッサンドロ)がアンドロギュノス風な女(バーキン)とソドミーによって愛し合うことが可能になるという物語だった。これもカトリック的道徳観をおおいに逆撫でするものであったことは言うまでもない。
 
 当時ジェーンは男性誌に裸身をさらし、ゲンズブールに絡まってほとんど透明のミニドレスでパリの夜に出没した。ゲンズブールという退廃趣味の
40男に操られたセックス人形のように見られることが多かった。つまり異常で狡猾な才能の持ち主に服従してその意のままに立ち回る哀れな芸女のように。そのイメージでフランスでスターになれたのかもしれない。だが、ジェーンが決して服従などしていなかったのは後年明らかになるし、本連載201812月号で取り上げたバーキンの日記『マンキー・ダイアリーズ』でもはっきりしている。

 1969
9月の時点でヨーロッパで80万枚を売ったこのシングル盤は、その後のローマ法王庁の禁止令が災い(幸い)して、10月中旬には総売上150万枚(うち英国が25万枚)に達し、年末にはその倍になったとも言われる(ジル・ヴェルラン著公式バイオグラフィー『ゲンズブール』2000年刊による)。バルドーが求めた「世界一美しいラヴソング」は、バーキンという代役ではない真のパートナーによって、世界中の誰もが知るラヴソングとして50年生き続けた。今でもこの歌を放送禁止にする国はある。もっとも最初から禁止されることを狙った制作意図もあったはずだが、禁止はバーキン/ゲンズブールに味方した。だが50年経ったら、一体どんな理由で禁止になったんだっけ?と想像できない世の中になってしまった、というわけではないのが2019年現在である。性は問題あるままだ。進んだだの、遅れてるだのの論議ではない。性の解放は男性原理で進めば女性の隷属はさらに深刻なものになる。21世紀はそのことを克服する性の開花を実現してほしい。性は愛であってほしい。バルドーのように最高に美しいラヴソングこそ常に求められるべきで、性とのハーモニーの古典として「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」は今日も有効なのである。

(ラティーナ誌2019年4月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)"Je t'aime... moi non plus"スコピトーン(1969年)


2023年7月17日月曜日

追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(2/2)を読む

(←リベラシオン紙2023年7月17日号フロントページ)

(前記事より続く)
2023年7月16日、76歳で亡くなったジェーン・バーキンに追悼の意を込めて、2018年と19年に上下巻で発表されたジェーンBの極私的日記の紹介記事(ラティーナ誌掲載)の(加筆修正)再録の後編です。
後編は(ゲンズブールとの破局後)ルー(・ドワイヨン)の懐妊から始まり、ケイト・バリーの突然の死(2013年)で終わる。社会的に行動する人(反極右、反レイシズム、移民支援、チェチェン、ビルマ、バルカン、そして東日本大震災)でもあったジェーンの姿もまぶしい。”ゲンズブール絡み”だけの人ではない。1年前に脳卒中(AVC)で倒れてからその健康状態の危うさが知られるようになったが、この日記でもずっと前から何度も入院していることが書かれていて、晩年のダメージはかなりのものだったと思う。2019年11月に書いた私のこの記事の結びが「生きていてください」となっている。これはあの時思わずついて出た言葉だけれど、今となってはかなわないこと。安らかに、ジェーン。

★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2019年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ジェーン・バーキンの極私的日記を読む・2

  
今からちょうど1年前、本連載は『ジェーン・バーキンの極私的日記を読む』という記事だった。ジェーン・バーキン(1946〜 )が11歳の時から認めていたごくプライベートな日記を編集した本『マンキー・ダイアリーズ』(1957 1982)の紹介だったわけだが、その1年後その第二巻めにして完結編のジェーン・B日記『ポスト・スクリプトム』(1982 2013)が刊行された。上下巻合わせて800ページの大著になった。日記第一巻は809月にジェーン・Bがヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸を出ていき、ジャック・ドワイヨンという同世代の映画作家と新生活を始めるという、大転換期の到来をもって終わる。いわば「ゲンズブール期」の終わりであった。図式的に私たちは「ポスト・ゲンズブール期」が第二巻に来ると思っていたのである。この見方は芸能記者的であり、ゲンズブール信奉者的でもある。つまり稀代の鬼才芸術家ゲンズブールと別れたジェーン・Bに何が残っているのか、という人格軽視である。ところがこの上下巻の日記800ページでわかるのは、ジェーンにとってゲンズブールの重要度は計り知れないものだが、彼女の大部分に及ぶものではないということ。ゲンズブールとの絡みのみで彼女を推し測ろうとすると、はみ出る部分の方がずっと多いのである。

 1982年、お腹にルー(・ドワイヨン)を宿している頃から下巻は始まる。ほとんど露悪趣味的に私生活をメディアに公開することで話題性を提供することを言わば戦略的にやってきたゲンズブールに歩を合わせて、高級/低級のグラヴィア雑誌に登場していたジェーン・Bは、ゲンズブールと正反対でメディア露出を嫌悪するジャック・ドワイヨンの意向を尊重して私生活を隠すようになる。映画女優としてのジェーン・Bは、フランスでのデビュー作でゲンズブールとのカップル成立のきっかけとなった『スローガン』(1969)以来、軽めのラヴ・コメディー向けファッショナブルでセクシーな女の役というパターンが決まっていた。喰うためには回ってきた役を断るわけにはいかないが、大女優ジュディー・キャンベルの娘はこのまま大衆コミック女優でいたくはないと思っていた。それをラジカルに変えたのが、新伴侶ジャック・ドワイヨンの監督作品『放蕩娘』(1981)に主演したことだった。夫と別れて両親の家に戻ってきた心理的に不安定な30歳女という、化粧を落として生身をさらけ出す難しい役どころを初めて演じたことによって、女優として別のディメンションを獲得したのである。映画は商業的な成功を得ることはなかったが、それ以来女優バーキンへのオファーは一転し、大衆コメディー映画はなくなり、いわゆる独立系の作家主義映画から声が多くかかり、ジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、アニェス・ヴァルダなどと仕事するようになるのである。

 
 彼女は全く自分に自信がなかった。全く無名の状態でイギリスからフランスに飛び込んできて、ゲンズブールというピグマリオン的パートナーのおかげで(スキャンダル効果で)歌手/女優としてスターダムにのし上がるが、それは人工的で表層的なものと知っていた。そしてこれはずっと後世に(今日まで)続く問題なのだが、彼女のフランス語は英語訛りが抜けず、間違いも多く、女優として大きなハンディキャップであると思っていた。それを大きく覆したのが、1985年、20世紀仏演劇界の鬼才パトリス・シェロー(1955
2013)18世紀マリヴォー作『贋の侍女』の主役にジェーンを抜擢したことだった。フランス語での演劇舞台など立てるわけがない、マリヴォーなど聞いたこともない、とジェーンはシェローに辞退しようとするのだが、シェローはそのハンディキャップのひとつひとつを彼女から取り除くことに成功し、先進的な古典劇のヒロインに仕立て上げ、その公演で高い評価を受けるのである。


 ポスト・ゲンズブール期は、操り人形師的だったゲンズブールの呪縛から解放され、一段上の表現力を得た女優への飛躍の時期であった。その変貌は当のゲンズブールにも大きく影響する。別離後も二人の子シャルロット(1971年生)の養育のこともあり、セルジュとジェーンは親密な関係を保っていた。心の傷はゲンズブールの方が数倍深く、すぐさま
amitié”(友愛的関係)に移れるわけはなかった。癒えようもない傷を抱えたまま、1983年、ゲンズブールは別離後初のジェーン・Bのソロアルバム『バビロンの妖精』の制作を申し出るのである。レ・ザンロキュプティーブル誌20191023日号のインタヴューでジェーンは「おそらく私の最良のアルバムに違いない。これは彼の悲嘆のどん底の時期のものよ。彼はその悲嘆を私に歌えと渡したのよ。彼はガンズバール“という挑発的な道化者に変身してしまったので、自分では人に見せることがなくなった彼のこの側面を私に託した。彼は私を通して彼の苦悩を表現する必要があったというわけ。」と語っている。

 

 彼女自身が最良と自負する『バビロンの妖精』
(←ジャケット)、それに続く『ロスト・ソング』(1987年)、そして『いつわりの愛』(1990年)の3枚のアルバムは彼女にとってだけでなく、ゲンズブール楽曲総体の中で並外れて叙情的な作品が詰まったものである。ゲンズブールの苦悩の重さを表現しただけでなく、アーチストとして女性として大きく変貌したジェーン・Bに彼は最良のものを与えたのである。

 そして運命の
1991年がやってくる。日記はその年が初めからどれほど複雑なものであったかを伝えている。20歳にならんとするシャルロットの5年に渡る最初の大きな恋が破れ(父の死という大きな悲劇の前に)すでに激しく不安定になっている。その姉のケイト(・バリー)は警察沙汰にもなる麻薬依存症で、センターでの隔離治療をやっと始めたところ。そしてジェーンは10年になるジャック・ドワイヨンとの関係を疑い始めている(彼女が熱望しているにも関わらず、ドワイヨンは彼女で映画をつくろうとしなくなってしまった)。それに加えて父デヴィッド・バーキンももはや余命短いことがわかっている。ゲンズブールはアルコールをやめない。あの32日の日記は動転している。

ママンが真夜中に電話してきた、セルジュが死んだ、と。
「セルジオ、今誰と何食べてるの?」

「水しか飲んでないよ」

「酒飲んだでしょう、嘘つきね」

「さあ、俺はもう仕事に出かけなきゃならないんだ」

「はいはい、そうでしょうよ」

「また、明日な」

「ダイヤモンドありがとう、優しいわね」

私は彼にそれを言ったのかどうかは定かではない。最も美しい贈り物があるとすれば、それは彼と再会すること。私は本当にありがとうと言ったのだろうか?その会話の翌日、ジャックが私に言った「セルジュに電話しろ、彼はおしゃべりがしたいんだ」、私はその時リンダ(註:ジェーンの姉)のところにいて、その次の日にしか電話できなかった、ありがとうセルジュ、あなたのすべてにありがとう。

ママンがセルジュは死んだと言い、そのことで私の世界はカオスに、静寂そして暗黒、セルジュが死んだ、ありえないわ、恐怖、殴打、すべては朧げだけれど、悪夢の正確さが。まだ頭の中にあるわ、そんなのありえない、彼じゃない、私はチェイニー・ロウ(註:ロンドン、チェルシー地区)のわが家に立ち寄っただけ、彼と私、もう幽霊だわ。

 Post-Scriptump162

 その時ジェーンはロンドンの借家で、ジャック・ドワイヨン、娘のルー(・ドワイヨン)、ケイトの息子ロマンと共に休暇を過ごしていた。パリにとんぼ返りして、ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸に着くと、執事からセルジュが死の二日前に買ったというダイヤモンドの指輪を渡される。棺の中に「マンキー」(ジェーンが幼女の時から抱いて寝ている猿のぬいぐるみ、日記の告白相手)を滑り込ませ、彼女は40年の半生をセルジュと共に葬るのである。その埋葬の前々日、今度はロンドンから電話が鳴り、父デヴィッドの死を知らされる。姉リンダにはいつもデヴィッドが「私が死ぬ時はセルジュを連れて行くからね」と言っていたという。

  19913月にほぼ同時に起こった最愛の二人の人間の死。私たちはゲンズブールのことを最重要に思いたい傾向があるのだが、日記はそうではない。個人史の正確な証言なのだから。日記では父の死の悲しみの方が大きな痕となっているように読める。ジェーン・Bの日記の気がかりの大部分は家族のことなのである。その中心は3人の娘、すなわちケイト・バリー、シャルロット・ゲンズブール、ルー・ドワイヨン(↑写真;ジェーンBと3人の娘)であり、順風満帆で育つことなどあるはずがなく、それぞれが大きな問題をいくつも抱えるのを自分ごととして正視してやらなければならない母親の告白が綴られる。3人のうち最も問題が多いのが長女のケイトだった。ローティーンの頃から学校も勉強も嫌いで、男友だちと遊び惚け、アルコールとドラッグにも早くから手を染めていてた。学校を変え、好きな道(服飾デザイン、写真)を見つけてやり、ドラッグ抜き治療、私生児出産。精神的にも経済的にも不安定だが、三姉妹で最も優しい気性のケイトをジェーンは恒常的に支えてやらなければならない。月日は流れ、2010年代になり、それぞれ問題を抱えながらも、シャルロットは女優/歌手として世界で活躍するスターになったし、ルーはマヌカン/女優としては花が咲かなかったもののシンガーソングライターとして世界的な評価を受けるようになった。最も知名度は低いがケイトも写真家としてやっていけるようになったと、波乱の母の歳月がやっと落ち着いたと思った頃、20131211日、ケイト・バリーは引っ越ししたてのパリのアパルトマンの窓から転落して謎の死を遂げている(事故死説と自殺説あり)。日記はその日付をもって、「もう何も書くことができない」と最終ページになる。 

娘を守りきれなかった母の限りない悲嘆は、ジェーン自身の70余年の人生そのものがスコーンと足を掬われた印象で描かれる。本書の最後の2行は

私の足の下にあった絨毯が引き剥がされ、私は転び、病気になった。それもいいじゃないか。(同 p425

と締める。絨毯の上を歩んできた人生だったかもしれない。不完全な自分におどおどしながらも、ゲンズブール、ドワイヨン、シェローらにぶつかっていき成長変貌をとげてきたはずだった。永遠の未成熟少女(ロリータ)は自分の娘たちに友だちのように甘える母親であった。それでも家族に囲まれ連帯しあうことで根をしっかりしたものにし、その家族連帯はバーキン家、ゲンズブール家、ドワイヨン家、アタル家(シャルロットの伴侶イヴァン・アタルの両親)に分け隔てなく拡張し、ジェーンはその大オーケストラのど真ん中にいた。日記は、ジェーン・
Bの様々な困難や試練の時を持ち支えるベースが、この拡大ファミリーであったことをよく示している。それを絨毯の道と比喩したのだと私は思う。

 ポスト・ゲンズブール期は、彼女が政治的/社会的な問題に大胆にコミットする行動でも注目された時期だった。反レイシズム/移民支援/チェチェン/ボスニア/ビルマ(アン・サン・スーチー)
ジェーン・Bは前線に立って発言し、行動し、現地へ飛んだ。激化する旧ユーゴスラビア紛争のさなかの1995年、セルビア人勢力に包囲されたボスニアの首府サラエボに、ジェーンは防弾衣に身を固め、セルビア側のスナイパーの攻撃をかいくぐり、国連平和維持軍にエスコートされて入城する。本書p194p21420ページは、娘ルーに宛てた手紙の形で書かれた、サラエボまでの道のりでの体験を詳しく伝える生々しい戦場レポートである。ここまでやったとは!
 このサラエボ行きに参加した行動的文化人の一人に作家のオリヴィエ・ロラン
(1947〜 )がいた。軍用車や民間タクシーを乗り継ぐこの旅でジェーンと隣り合わせたこの男は、まさに戦友として体験を共有した。ゲンズブールと同様12年ほど続いたドワイヨンとの関係も92年頃から冷えて別居していたが、ジェーン・Bはこの戦場の中で新しい恋に落ちるのである。ロランとの関係はフランスでもマスコミで取り沙汰されたことは少ないが、この日記では二人のパッションだけでなく、文化人的な惹かれ合いが大人“の世界を思わせる。二人とも過去の多いほぼ50歳の恋でもあったし。 

 社会派行動人ジェーン・Bの偉業で私たち日本人が忘れてはならないのが、2011年東日本大震災の際、いち早く日本にやってきて被災地を回ったのち、中島ノブユキを中心とした日本人バンドを率いて3年がかりで日本と世界で義援金集めのコンサート”VIA JAPAN”を挙行したこと。

 しかし日記の終盤、
2010年からめっきりページが少なくなってわかるのは、ジェーンの深刻な病気である。入退院を繰り返し、重いケモセラピー(化学療法)点滴の合間を縫ってコンサートを行っていたのだが、病状は簡単に好転しない。こんな状態の中で東日本大震災のニュースを見るや、いてもたってもいられなくなり、日本に飛んでしまったジェーン・B。そしてこの日記には「日本に行かなきゃ!」と彼女に言い出したのはケイト・バリーだったとある。それはあの長女の願いでもあったのだ。

 日記は閉じられたが、今日ジェーン・
Bは何もやめていない。最良のゲンズブール楽曲を歌い続けている。生きていてください。

(ラティーナ誌2019年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


(↓)ベルギー/ブリュッセルの本屋Librairie Filgranesで『ポスト・スクリプトム』 のプロモインタヴュー。だいぶ疲れている様子


2023年7月16日日曜日

追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(1/2)を読む

2023年7月16日、ジェーン・バーキンがパリの自宅で亡くなった。76歳だった。
この女性を語ること、それはかつて私たちには「セルジュ・ゲンズブールの」という枕詞なしにはできなかったのだ。それがジェーン・Bというひとりの女性像として確かに把握できるようになったのは、2018年10月とその翌年10月に発表されたジェーン・バーキンのプライベートな日記の上下巻800ページが暴き出した”生きざま”によってだった。「ゲンズブール史の一部」として限定されるわけのない、自由なエゴと共に不安定に紆余曲折してきた生身の女性の記録、それは必ずしもすべて正直なものではあるまい。日記とはそういうものだろう。私はこの上下巻に魅了され、雑誌「ラティーナ」にそれぞれ3ページずつの紹介記事を掲載してもらった。もう一度この女性の生きた軌跡を(ゲンズブール絡みでない多くの部分を含んで)知っていただきたく、追悼の意をこめて、ここに再録します。ジェーン、安らかに。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2018年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ジェーン・バーキンの極私的日記を読む(1)

 イギリス出身の女優・歌手ジェーン・バーキン(1946― )が、11歳の時から断続的に書き続けてきた極私的日記を(書き直しなしで)整理編集、自らフランス語翻訳して発表出版、題して『マンキー・ダイアリーズ』。マンキーとは少女の時に縁日くじ引きで当てた猿のぬいぐるみ人形の名前で、日記の告白相手となった。それは少女時代から大人になってさえもいつも寝床に一緒にいてくれないと眠れないフェティッシュで、旅先にも必ず持っていった。103日に刊行されたその第1巻は、1957年から1982年までの日記を集めたもの。ロンドンでの少女時代から、18歳で女優デビュー、20歳で映画音楽作曲家ジョン・バリー(007シリーズの音楽)と結婚、女児ケイトを出産後離婚、フランスに渡りセルジュ・ゲンズブールと邂逅恋仲に、その後ろ盾でフランスで歌手・女優として大成功、シャルロット出産をはさむ12年の愛情生活が1980年に破綻、映画監督ジャック・ドワイヨンと新生活、女児ルーを出産するところでこの第1巻は終わっている。来年出版予定の第2巻はそこから2013年の長女ケイト・バリーの謎の死(事故説と自殺説あり)までが収められる予定で、バーキンはケイトの死で日記の役目は終わったとして、その後は全く書いていない。

 映画と音楽のスターであったジェーン・Bの私生活は隠されていたわけではなく、私たちは芸能誌などでかなりスキャンダラスな部分まで知っている。それはとりわけゲンズブールの「生涯の女性」として、その1991年の死の頃から世界的に高まったゲンズブール評価によっても大きくクローズアップされた。わずか12年のカップルであったが、言わば「世紀のカップル」のような神話化が進行した。そのため、メディアがこの女性を語るときどうしても「ゲンズブール史の一部」という限定がついているように思えてしまう。その死から年月が経てば経つほどエスカレートする神格化にともない、彼女はその最重要証人としてその生涯と作品を繰り返し繰り返し語っていくしかない。2016年から始まった、中島ノブユキを編曲者・音楽監督とする「バーキン/ゲンズブール・シンフォニック」の世界ツアーが大成功で今日も続いているのを見るにつけ、この女性は死ぬまで「ゲンズブールのミューズ」であり続ける運命を背負っているは間違いない。しかし人間ジェーン・Bはそれだけに集約されるわけではない。たぶん私たちはこの日記で初めて人間ジェーン・Bに接しているのである。主語「私」がジェーンである人間に。

 自ら定めた編集方針では、原文の英語からフランス語に翻訳はしても、シンタックス・エラーや不適切な表現があっても訂正や書き直しはしない、としている。現在(2018年)のバーキンからの補足と注釈は別書体印刷で付記されているものの、本文はリアルタイムでその時・その場での肉声なのである。12歳の少女は不安で、意地悪で、嫉妬深く、コンプレックスがあり、大人を呪ってみたりするのである。18歳の無鉄砲な娘は、15歳年上で離婚歴も子供もある作曲家ジョン・バリーとの結婚がどんな不幸になるものかなど全く予想していない。日記の現在地点の視点は未来から修正されることはできない。間違いも非合理もどうすることもできない。

 ロンドンでの少女時代とワイト島での寄宿学校生活などを読み進めていくうちに否応なく了解されるのは、この小ブルジョワ家族の絆の強さである。第二次大戦中イギリス海軍の士官としてイギリス南岸とブルターニュ半島を往復してフランスのレジスタンスを支援した父デヴィッド・バーキン(1914-1991)はその戦傷が後を引き、何度も入院と手術を繰り返すのだが、この父へのジェーンの思いは後年のゲンズブールへの思いと等価できるほどの厚みがあり、この日記の第二部で読むことになろう19913月にたった5日の間を置いて相次いでこの世を去ったゲンズブールと父デヴィッドの死の衝撃は想像を絶する。母である女優ジュディー・キャンベル(1916-2004)には、自分が女優になる上でコンプレックス絡みの複雑な感情もあった。少女の頃妹のリンダには、姉の自分に比べて何でもうまくでき、自分には許されないことも何でも許されている、というジェラシーがあった。学業成績だけでなくアート全般に長けた兄アンドリューは、一生に渡ってジェーンの守護者兼スーパー助っ人となる。この一家は彼女が家を出てからも、ロンドン、パリ、ヴァカンス地、女優ジェーンの外国のロケ地などに集まって、幸福な家族の時間を過ごすのである。それは父親の違うジェーンの二人の娘ケイトとシャルロットが加わっても事情は同じで、バーキン家の結束は堅固そのものである。

 ゲンズブール絡みの興味で読み始めた読者には、第1巻の3分の1の少女からハイティーン時代の稚拙で感覚的で非論理的な文章は興味を殺がれるかもしれない。それでも1963年、エディット・ピアフが死んだ時、たまたま語学研修合宿でパリに来ていたジェーンの民泊したアパルトマンがピアフ邸の隣で、訃報を聞きつけてやってきた報道陣や有名人たちで大混雑の隣家の前で、無名イギリス人少女ジェーンが報道陣からフランソワーズ・アルディに間違われて取材を受ける、というとんでもないエピソードも見つかる。

 奥手のハイティーンだったようだ。初めての重要な恋関係はジョン・バリーという15歳年上の有名作曲家、それがそのまま結婚、出産へと発展した。後年のゲンズブールとは22歳の年の差。年齢差と社会的上位に基づく権威的で教育的で支配的な男に傅く傾向があったということか。1966年ミケランジェロ・アントニオーニ監督映画『欲望』(67年カンヌ映画祭パルム・ドール)での全裸演技(当時としては大スキャンダル)で少し脚光を浴びたバーキンだったが、新人女優の将来は不安定だった。ダンディーにして既に作曲家として映画界の重要な地位にあったバリーは、精神的職業的不安定を一時的に解消することにはなるのだが、不在の多い夫であった。当時の日記の文面は彼女の旺盛な性的好奇心を隠せない。この性的冒険欲は、同好者にしてその道一流の通人であったゲンズブールによって大きく開花することになる(68年に色街ピガールの安宿での体験エピソードあり)が、その愛はもちろん性的魅力のみによって燃え上がったものではない。


彼は甘く優しく強く、官能的で性的な素晴らしさを持ち合わせているけれど、私は単なるセクシーな男以上のたくさんのものを持っていて、輝きがありユニークだと感じている。もしも彼を失うとしたら、私がこれまで失ってきたすべてのものよりも大きな損失となる。なぜなら私はこれほどまでに満たされた感覚を今まで持ったことがなかったのだから。これは真実の愛であり、私は自分がとても強くなった。私たちはお互いを補っていると思う。ジョンと私がお互いを破壊しあっていたのとは逆に。
19701月の日記。『マンキー・ダイアリーズ』p139-140

 その「真実の愛」は1968年から81年まで続く。映画女優ジェーン・バーキンはフランスで開花し、ゲンズブールというパートナーは彼女を第一線のヒット歌手にもしてしまう。そのデビューに冷ややかだったイギリスを後にして、ジェーン・Bはフランスで真実の愛と確固たるアーチスト(女優・歌手)の地位を得た。それはすべてゲンズブールが与えたものと言われるかもしれないが、それは徐々に重苦しいものとなり、12年後には耐えられなくなる。しかしその破局まで、この世紀のカップルはほとんど夢のような素晴らしい日々を送るのである。パリ7区ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸を本拠に、セルジュ、ジェーン、ケイト、シャルロット(71年生まれ)の4人家族は円満で笑いが絶えなかった。特にこの日記で描かれているゲンズブールの良きパパ、良き家長ぶりには驚かされる。家族キャンプで自転車やボート遊び、さらに自炊などに奮闘するゲンズブールの姿がジェーンのイラスト入りで描かれる。イギリスのバーキン家ともフランスのギンズブルグ家とも調和的な関係が築かれ、破天荒というパブリックイメージとは程遠いゲンズブールであった。

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5月、シャルロットを身籠った体で映画『ガラスの墓標』のプロモーションのためにゲンズブールと共に日本を訪問、この時の日記分量は6ページに及び、エキゾチックな描写が続くが、日本は遠い国だったのだ、と改めて思う。その2ヶ月後にジェーン・Bはロンドンの病院でシャルロットを出産するのだが、新生児に原因不明の黄疸症状が現れパニックに陥る。その時の日記の補足説明文に「目が細くて真っ黄色だったのを見て、2ヶ月前にセルジュと私が日本を旅行したせいだと思った」(前掲書 p176)という記述あり。ジェーン・Bにしてこのようなレイシスト・ジョークを発するものなのか。
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年夏の終わり、ブルターニュからパリに帰る途中、ゲンズブールは思いつきで、戦争中に(ロシア系ユダヤ人の子ゆえ)匿ってもらっていたサルト地方の農家に寄りたいと言いだす。12歳で絵の上手い少年だったリュシアン・ギンズブルグの痕跡を約30年後に見つけられるか。場所が近くにつれてゲンズブールは興奮しだし、ここはこうだった、あそこはどうだった、とジェーンに解説していく。そして件の農家に着いた時、大きな家という記憶があるのに、実際は小さなものであることに驚く。あの窓から隣家に住む19歳の娘が髪を解くのを見ていた。絵がうまいということで、入り口に自分の絵を貼ってもらっていた村の教会。そんな記憶が蘇るのだが、今住んでいる人に聞くと当時の家主も住人もいなくなったり、死んでしまったりで。「俺、リュリュなんだけど、憶えてないですか?」と聞くも虚し。時も人も移ってしまう。途方もない寂寥がゲンズブールを襲い、それを見ていたジェーンがこの悲しい午後を日記で記録する。私にはこれがこの第1巻で最もエモーショナルなパッセージであり、ジェーン・Bの眼差しの暖かさが感じられる日記文も胸に迫る。

 
 この本のちょっとした暴露部分として、出版時にフランスの芸能各誌で話題にもなったことだが、ゲンズブールは3ヶ月も風呂に入らないと記されている。汗をかかない体質だそうで、洗面台やビデなどを使って少量の水分で体を洗うことはあっても、浴槽はめったに入らない。しかし清潔さは申し分ない、と。

 心臓疾患で何度病院に収容されても、タバコもアルコールもやめない。ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸の一階サロンは、マニアックに博物館化されていて、そこにあるものは配置を変えることも触ることもできない。79年ジャマイカ録音アルバム『オ・ザルム・エトセテラ』でゲンズブールは13枚目にして初めてチャート1位、プラチナ・ディスクを獲得、ヴィクトワール賞を総なめ、さらにフランス国歌ラ・マルセイエーズのレゲエ版のため極右団体から抗議と脅迫を受けるというスキャンダルも起きた。それまで音楽的にはバーキンの影に隠れていたのに、ここで一挙にゲンズブール・スーパースターが誕生する。暴言、奇行、極度のアルコール依存、ゲンズブールの「ガンズバール化」(ジキルとハイドに模した悪の別人格)はこの頃から顕著になり、家庭内でも暴力的・暴君的になることもあった。

 日記はそれと同時期の事件として、ジェーンのお抱えヘアメイク担当で彼女のすべての映画撮影現場に同行させていた腹心の友アヴァの突然の病死の衝撃に多くのページが割かれ、死後何度も夢の中に現れるこの女性への断腸の哀惜が綴られる。ジェーンではもうコントロールが難しく、健康など全く意に介せず暴走をエスカレートさせるゲンズブール、そして消えることのない失った親友への思い、79年から80年の日記は自らの死をも喚起させる暗さが支配的になる。成長して難しくなる娘たち、父デヴィッドの度重なる入院、いろいろなものがひとつのカタストロフに向かって渦巻き上がっていくような日々の中で、79年夏、ジェーン・Bは同世代(2つ年上)の若手映画作家ジャック・ドワイヨンと出会っている。日記は彼女の情動の高まりを隠せないし、セルジュへの愛は揺るぎないものとしても、この別の強いセンセーションを失いたくない。虫の良い話だが、ジェーンB
はゲンズブールとドワイヨンとの調和的な三人の関係というのはできないものだろうか、と苦悩する。ドワイヨンもまた苦悩しながらジェーンを熱愛する

 この日記本第1巻の大詰めにして最大の山は809月、ジュリアン・クレールとセルジュが録音していたスタジオから、ひとりジェーンが抜け出し、タクシーを拾ってパリ右岸のノルマンディー・ホテルに部屋を取り、そこから電話帳でドワイヨンの名を探し、当てずっぽうでかけてみる。

最初に出た相手はご婦人で、私はジャック・ドワイヨンという人をご存知ありませんか、と尋ねた。すると彼女はそれは私の息子ですと答えた。私は彼がどこにいるのか知りたいのですが、と言うと、ご婦人は今私の横で眠っていますよ、と。これがおしまいであり、これがはじまりでもあった。(前掲書 p334

 「真実の愛」はこの夜、いったん壊れてしまうのであるが、日記第1巻の最終部はこの夜からたった1年後既にセルジュとの復縁(同じような関係はもう持てないと知りつつも)を願う述懐が綴られている。そしてお腹の中にはルー・ドワイヤンが宿っている、というところでこの本は終わる。

 芸能伝記本にありがちな脚色や修正を一切排したジェーン・Bのリアルな過去、葛藤も矛盾も邪気もそのまま曝け出した日記、私はこの人が本当に好きになった。

(ラティーナ誌2018年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)『マンキー・ダイアリーズ』発表時、ボルドーのMollat書店のインタヴューに答えるジェーン・バーキン。愛犬ドリーも出演。