2022年6月19日日曜日

野ばらのひと

Fabcaro "Zaï zaï zaï zaï"
ファブリス・カロ『ザイザイザイザイ』
(2015年刊)


近年BD、小説、演劇、映画で当代一奇態なユーモアの書き手として急激に評価の高まっている"ファブカロ”ことファブリス・カロ(1973年生、現在48歳)が、長い下積みから抜けて一躍メジャーになるきっかけとなったBD作品。2015年、生まれ故郷であり現在も活動の地盤であるラングドック地方の首邑モンプリエのローカルBD出版社6 Pieds Sous Terreから出版され、異例中の異例、18万部を売る全国的大ベストセラーとなり、ラジオドラマ、舞台演劇、映画化もされている。つまり7年の間にもう「古典」という地位を手にしてしまったのだ。
 読みました。参りました。超傑作だと思う。 
 BDとはあまり親しいつきあいをしていないので、グラフィック的にどうかと言われてもなんとも答えられないところであるが、シナリオ/ストーリーテリングは破格の達人の仕事である。顔表情なしの無機質登場人物ばかりが、静止ショット構図を何コマかくりかえして、セリフだけでストーリーを回す手法が多い。フォトロマンのようでもある。セリフ/シナリオが本領の人なのだが、硬質な絵も笑えるタッチがビシビシ決まっている。
 シナリオはこうである。BD作家であるファブリスがあるスーパーで買い物をし、レジで会計をするときに、レジ嬢に「当店のポイントカードはお持ちですか?」と問われる。「持ってるよ」とズボンのポケットをごそごそ探す。ない。「違うズボンに入れたまま忘れてきたんだと思う」。しかしレジ嬢はこの問題を警備員に告げ、警備員は「ちょっと事務所までご同行願います」と。ファブリスは「カードは持っているんだが、他のズボンの中に忘れてきただけだ」と抗弁する。警備員がしかたないから強制的にと迫ってくるところを、ファブリスは買い物キャディーの中にあったネギを掴んで振り上げて(このネギを振り上げるというのが不条理さを際立たせている)警備員を威嚇し、その場から逃走する。ことは即座に一大緊急大事件となって国家レベルに広がり、ファブリスは凶悪犯として全国に指名手配される。本作の副題に"Un road movie de Fabcaro”と冠されているが、壮大な逃走ロードムーヴィーは、ヒッチハイクにつぐヒッチハイクで、物語は野を越え山を越え進行する。1ページ6コマ、あるいは2ページ12コマのスケールで、警察の内輪ギャグ、テレビニュースギャグ、テレビ評論家ギャグ、ブルジョワ家庭ギャグ、ユダヤ人ギャグ、BD業界ギャグ等々が次から次へと飛び出す。
 その後文学の領域でその才を高く評価されることになる表現の巧みさは、ここでも随所にあるのだが、その例を2カ所だけ紹介する。まず、ファブリスが家に残された妻子、とくに二人の娘を思って、今どき非常に珍しいガラス箱型電話ボックスから電話するシーン。「人生は10月の寒空の下の片目の犬みたいなものだ」というメタファーを使う。

(左上)
娘たち、パパだよ。よくお聞き。パパは今夜家に帰れない、たぶんあと数日は帰れないと思う。
(右上)
もうニュースで見たと思うけど、おまえたちにはわかってほしい、パパは悪党なんかじゃないんだ。
(左下)
いつもいつもいいパパだったわけではない、認めるよ。週末に一緒にいたことなんかないし、パパはいつもBDフェスティヴァルに行ってた。
おまけにおまえたちにはそこでパパはおいしいものばかり食べていたと思わせていたけれど、実はほとんどタブーレばっかりだったんだよ。
(右下)
いつもいつも好きなことばかりできるわけじゃない。人生なんて10月の寒空の下の片目の犬みたいなものなんだ。そのことをおまえたちが知るのはずっとずっと後のことであって欲しいとパパは願っていたんだ。
 

パパは(ポイントカード忘れの件で)家庭を破壊するというリスクを冒そうとしたのではないと続くのだが、この電話は番号違いでほかの相手(ケバブ屋のオヤジ)にすべて聞かれている。
 それから、ヒッチハイクにヒッチハイクを重ね、やがてようやく安全地帯を思われたラジオもテレビも電波が通らない辺境の町ロゼールにたどり着く。その町の露天市で偶然に遭遇したリセ時代の同級生のソフィー・ガリベール。
ぱっと見だけでは30年ほど前のことを思い出せないソフィーに、当時のことを語って記憶を蘇らせようとするファブリスの長広舌(以下全訳)。

「ねえ、憶えてるよね、いつも僕はVネックのセーターでその下にタートルのアンダーだったから顔が大きく見えたんだよ、その上には茶色のジャージで、おしりの形がはっきり見えるやつ、ズボンが巻き上がらないようにゴムの足紐がついてた、他の連中はみんなアディダス・チャレンジャー着てたんだけど。それで、きみは休み時間には必ずきみの親友のサンドリーヌ・フレオーとふたりで校庭を歩いて横切っていた。何度も往復してた。二人は横に並んでゆっくり歩いていた。きみたちの歩調はきっちり揃っていて、1ミリの違いもないみたいだった。まるでバレエのようさ。僕はそれを何時間だって見つめ続けることができただろうね。他の連中が取っ組み合いしたりかけっこしたりサッカーしたりしてる真ん中で、きみたちが休み時間におしゃべりをしながらゆっくり歩いているのを見て、僕はきみたちは成熟してるんだなぁと思った。そして僕はこんなシナリオを頭に描いていたんだ:きみは彼女に僕のことを話している。きみは彼女にきみは僕の方を見ることができないと言っている。だって僕の方を見たら、みんなにきみが僕に恋心を抱いていると悟られてしまう。きみはこれは秘密、とサンドリーヌ・フレオーときみの間だけの秘密にしておこうと思った。だからきみはずっと僕を見るのを避けていた。でも僕はね、心の中できみに何度も繰り返し言ってたんだよ。きみは僕を見ていいんだ、って。他の連中なんてなんにも知りっこないよ、って。きみはちょっと長めの青いK-Way風な上着を着ていて、それはカッコ悪いなと思われがちなのに、僕にはすごく似合ってると思ったんだ。その装いは他の女の子たちには到底達することのできない高み、一風違う人格を醸し出していた。それで教室ではね、ななめうしろの席からいつもきみのことばかり見つめていたんだ。そのせいで、あの日バッセ先生が僕に当てて第五共和制の始まりの年について質問した時に、僕は全然関係のないトンチンカンな答えをしたんだ。先生が質問したことを僕は何も聞いていなかった。なぜならちょうどその時に僕はきみを見つめながら、杉林の陰できみがそっと目を閉じながら僕に接吻するのを想像していたからなんだ。すごいことだよね。もしも今日、僕に第五共和制がいつ始まったのかと問うても、僕は絶対に答えられないよ。それがいつなのか僕は絶対に知ることも覚えることもできないんだ。その答は僕の中で一生涯、きみが杉林の陰でそっと目を閉じながら僕に接吻するイメージで遮られたままなんだから。」


これはこれだけで一冊の本が書けると思う。私はこのセンスに脱帽する。これはBDの人であるよりは、文学の領域で活字だけのパワーでいろいろメチャクチャできそうな予感。で、2022年の小説『サムライ』(2022年5月ガリマール社刊)を読み始めたので、近々このブログでレヴューします。
 なおこのBD本の結末は、逮捕され、裁判の結果、公共勤労奉仕刑でカラオケ・レストランで『野ばらのひと』(フランスでは1969年ジョー・ダッサン歌"Siffler sur la colline"として知られる)を歌う、ということ。赤塚的「これでいいのだ」というエンディング。ザイザイザイザイ。

Fabcaro "Zaï Zaï Zaï Zaï"
Editions 6 Pieds Sous Terre ©️2015年 70ページ 13ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)「野ばらのひと」岸洋子


(↓)2021年フランソワ・ドザニャ監督(主演ジャン=ポール・ルーヴ)で映画化された『ザイザイザイザイ』予告編


0 件のコメント: