2022年6月22日水曜日

One for the money

”Elvis”

2022年アメリカ/オーストラリア合作映画
監督:バズ・ラーマン
主演:オースティン・バトラー、トム・ハンクス
フランスでの公開:2022年6月22日

今年のカンヌ映画祭で世界初公開(5月25日)され、センセーションを呼んだエルヴィス・プレスリー(1935 - 1977)のバイオピック2時間39分。フランスの劇場公開は公式には6月22日(水)だったが、その前日6月21日がちょうど40周年となった「音楽の日 Fête de la musique」に当たったため、多くの映画館で”音楽の日特別プレミア”で21日20時の回にお披露目上映された。私はそのプレミア上映をわが町ブーローニュの商業シネコン(7ホール)の(観客まばらの)おっきいホールで観ましたよ。集客が悪かった理由はいろいろあると思うが、この国はやっぱりエルヴィスよりもジョニー・アリデイがキングだったのだ、ということかもしれない。70代80代の往年のファンたちにしたって、この国ではレコードやラジオでしかエルヴィスに触れられなかったのだ。全世界にファンはいたのに、このアーチストはアメリカを出て世界のファンに会いに行くということができなかった、というのはこの映画での重要なファクターのひとつである。フランスにも日本にも(ファンはいても)来れなかったので、リアル体験がない。だからプレスリーは世界的スーパースターでありながら、アメリカの"ドメスティック”なスターにとどまっている印象がある。私はファンではないし、ベスト盤CDしか持っていない。生前(現役)の頃は、姉がたった1枚「サスピシャス・マインド」(1969年)のシングル盤を持っていた、という程度。この映画でも出てくる1973年の世界同時衛星生放送「アロハ・フロム・ハワイ」も見ていない。だから当時を知る人間のひとりである私ではあるが、当時のエルヴィスを懐かしむ思い入れが希薄な状態で観た映画であることを予め言い訳しておきます。
 映画は悪徳興行師・山師・卑劣漢ジャーマネで世界最高のエンターテイナーを徹底的に蝕み(ヤク漬け)死に追いやったとされるトム・パーカー大佐(1909 - 1997)(演トム・ハンクス、この人本当に楽しんで"どうしようもない卑劣漢”を演じてるように見える)の惨めな最晩年の病床の独白から始まる。エルヴィスの死後20年もの間大佐は生き続けるのだが、ギャンブル(ルーレット)依存症で何百万ドルも失いながらも止められず、その最後の悲惨な姿のさらけ出しは、この映画制作陣の取ったポジションを冒頭で明らかにしているようなもの。だが、この映画の進行の中で、幾度か大佐の「釈明」「言い訳」の機会を与えていて、最後には「殺したのは私ではない」というエルヴィスの死の本当の理由の”大佐ヴァージョン”をもってくる。映画はその結論に向かって進むように組み立てられていて、なりゆきを注釈する「語り手」は大佐なのである。発見し、育て、スーパースターに仕立て上げたのは大佐なのだから。
 さてエルヴィスである。それは超スーパースター伝であるから、相応のカリスマ性を俳優(オースティン・バトラー)が体現できるか、という視点で観客が見てしまうのは当然である。どうなんでしょうねぇ?多くの人は、”あ、違うね”と見るのではないだろうか。眼光するどい”反抗性”、ワルさのようなものが足りない。ところが、一級のエンターテインメント映画『ムーラン・ルージュ』(2001年)で実証済みのバズ・ラーマン監督の激しいショー展開の映像手法は、この主役俳優を前代未聞のショー・エンターテイナーに見事に仕立て上げているのである。ひとたびステージの上に立つと、この若者は"けだもの”になる。フランス語表現でこれを"bête de scène(ベート・ド・セーヌ)"と言う。その声、そのアクション、その腰の振りで女性たちをトランス状態に持っていってしまう魔力を、映画のマジックで映像化してしまうのである。ベート・ド・セーヌは雄叫び、目まぐるしく(卑猥に)動きまわり、場内を半狂乱にさせる。わおっ。このステージシーンだけ延々続いてくれれば、われわれはどれほどうれしいか。そうはいかない。映画ですから。 
 それに加えてすごくいいなぁと思ったのは、エルヴィスの少年時代。ディキシーの地ミシシッピーで、貧しい(父親が牢獄にいる)家庭に育ち、黒人の子たちと一緒に遊び、ブルースギターの伴奏つきの黒人売春小屋を覗き見してブルースに痺れ、黒人メソジスト教会のゴスペル・プリーチャーに陶酔し、そのゴスペルの昂まりに感極まって体をぶるぶる震わせてトランスに入っていく少年。この子はこの黒い神の音楽に祝福されていて、やがて運命のようにその黒い神の音楽の化身になっていく。もう完璧な神話化ですけど、私には説得力あった。
 パーカー大佐はそれを最初に見抜いたのは自分だ、という自負があった。この超”金の卵”を本物のスターにできるのは自分しかいない、という自負も。エルヴィスはこの山師をあえて信用する。ゼニになるなら手段を選ばないという大佐の権謀術数も。人種隔離主義の治世下にあったアメリカで、その白人保守反動(公序良俗)権力からさまざまな制約を受けることになるエルヴィスのロックンロールは、大佐の権力への忖度(そんたく)で何度も消沈しそうになるのだが、その大佐の陰険なる下心をその都度裏切ってしまうのがエルヴィスのロックンロール・アティチュード、という出来すぎた話。
 それに関連して、ご親切に挿入されるアメリカ20世紀史(50年代から60年代)の変遷:人種隔離政策、公民権運動、キング牧師暗殺、ロバート・ケネディ暗殺....。ガキの頃からのダチ、音楽の師匠/仲間、宗教的信仰を同じくする人々、そういう基盤を持ったエルヴィスが、明白な政治的ヴィジョンを持って黒人たちを支持援護し、種々の事件に深く心痛める人のように描かれる。これはどうでしょうかねぇ。
 兵役で中断されるスター街道、兵役後イメチェンを図るパーカー大佐はハリウッド映画スターへの転身、さらに巨大スポンサーつきのTVスターへの転身を企てる。大佐は巨万の富を得るが、音楽アーチストとしてエルヴィスが最もつまらなかった時期。これを覆すのが、連続クリスマスTVショーでのエルヴィスのロックンロール・アティチュード。やっぱり(何度かある)このロックンロール・アティチュードでエルヴィスが生き返るシーンは観てる者はその度に溜飲を下げる思いになるのだよ。
 大佐の誤算(と言うか理解できなかったこと)は、プリシラとの恋愛、そしてエルヴィスのロックンロール・アティチュードだった。要するにパーカー大佐は"愛”も”音楽”も理解していなかった、ということになろうが、エルヴィスと大佐は恋仲にも似た、何度も破局しそうになりながらも、奇妙な親子愛的友愛で結ばれ続けるのである。エルヴィスは蝕まれていると知りつつも。
 世界的な超メガスターになりながらも"世界”に出れない。これは山師パーカー大佐がアメリカ国籍のないオランダからの密入国者であり、パスポートを持てない(出入国ができない)身であったことに起因する。このことは極秘事項でありエルヴィスも知らされていない。海外ツアーに出たがるエルヴィスをなんとかごまかして、ラスヴェガス・インターナショナル・ホテルでの超長期公演契約を結んで、エルヴィスを国内に釘付けにする。このストレスと、それを維持するための"ヤク漬け”で、エルヴィスのすべては壊れていく...。
 トム・パーカー大佐の「殺したのは私ではない」という最後の弁明は、それは"音楽”だったというもの。音楽に祝福され、音楽と一体化することを許された男は、音楽を愛しすぎ、音楽に命をささげ、音楽に求められるまま死んでしまったのだ、と。その証拠として出される映像が、立つこともおぼつかない状態で行われた死の2ヶ月前のステージ(1977年6月21日)の曲「アンチェンド・メロディー」。これはエルヴィス・プレスリー本人の当時のテレビ画像を(だいぶ修正したはずだけど)そのまま映画の中で使っている。これねえ、このコンテクストで、映画館の大画面で見せられたら、もう泣けて泣けて...。音楽に召されたのだ、と信じてしまうではないか...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『エルヴィス』予告編 1


(↓)『エルヴィス』予告編 2


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