もはや止めることのできない地球温暖化による天変地異現象のニュースは年を追うごとに頻度も苛烈さも増していっている。2025年夏、私のいるフランスは毎日山火事のニュースでテレビ画面が覆い尽くされ、その火の手は山間部のみならず、フランス第二の都市マルセイユの市街区にまで及んだ。乾燥した国フランスで、気温35度を越す猛暑では森林で容易に自然発火する。Soldats du feu (火の戦士たち)と異名される消防士たちは、一たびの山岳火災で地方を問わず何千人と動員され、何日も休みなく続く消火活動に従事する。女も男も。現地住民たちが火の戦士たちに食事や休息施設を提供し、火の戦士たちの出動や帰還の沿道には住民たちの大拍手と応援感謝エールが上がる。山はそこにあって美しいと崇めるものではなく、この戦士たちや人間たちが必死になって守らなければその形を失ってしまうものになってしまった。そんな思いでジャン・フェラ(1930 - 2010)の「山 (La Montagne) 」(1964年録音)を聞き直してみた。
2010年3月13日、ジャン・フェラが79歳で亡くなった時、同年のラティーナ誌5月号のために向風三郎は『それでも山は美しい ー ジャン・フェラ讃』と題された追悼記事を書いた。これから何世紀、何十年、何年、山は美しいままでいられるのだろうか、そんなことも考えてしまうではないか。
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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2010年5月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。
ー ジャン・フェラ讃
ふるさとの山はありがたきかな(啄木)
日本の国土は7割が山である。日本のどこに立っても振り向けばそこに山がある。啄木の「ふるさとの山」は特定の山を指して詠んだものだろうが、日本人のほとんどがそれぞれの「ふるさとの山」を持っているので、この「山」は共有された郷愁のシンボルとなった。誰の心にもふるさとの山はあり、これは極めて日本的な心象風景なのである。
ところがよその国では事情が違ってくる。私の現在位置であるフランスは山が少ない。北隣のベルギーには全く山がないし、東隣のスイスには山しかない。こういう原風景を持つ人たちには啄木の山は解釈が異なってくるだろう。話をフランスに戻すと、フランスには山が少ないが、南西にはスペインとの国境をなすピレネー山脈が、南東にはスイスおよびイタリアとの国境をなすジュラ山脈/アルプス山脈がある。そしてこの二つの高く大きな山系の間に、フランス南半分のほど真ん中にマッシフ・サントラル(中央山塊)と呼ばれる山地があり、標高1800メートル級の休火山が峰を連ねている。この地理環境は、山が少ないとは言え、多くのフランス人にとって、振り向けばそこに山はないけれど、山は探しに行けばある、ということになる。多くのフランス人は山の環境にはいないけれど、ある日、山と出会うのである。
2010年3月13日土曜日、歌手ジャン・フェラが79歳で亡くなった。反骨のシャンソン作家として、往時はジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・ブレル、レオ・フェレと共に並び称されていたシャンソンの四巨星の最後の存命者だった。テレビやマスコミにめったに出ない人だったが、なくなったとなると国営テレビが急遽特番を放送するほどの重要度だった。その日、ニュースでは街頭の人たちにフェラの死へのコメントを求めていたが、口々に「偉大な民衆歌手」、「信念の詩人」、「最後の左翼アーチスト」といったオマージュの言葉を捧げ、そして「彼の歌で最も印象深く残っているものは?」と尋ねると、ほぼ満場一致で「山(La Montagne)」と答えた。
それは1964年に発表され、ジャン・フェラの最大のヒット曲であり、同時に日本で最も良く知られるシャンソン楽曲のひとつとなった。日本でジャン・フェラの名前は知らずとも、シャンソン歌手古賀力(つとむ)(1934 - 2018)の訳詞による「ふるさとの山」は非常に広く知られており、古賀自身の歌唱だけでなく、多くの”ニッポン・シャンソン”歌手たちによって歌い継がれている大スタンダード曲となっている。
今も山は美しいこの古賀ヴァージョンは1970年代に東京のFMで盛んにオンエアされ、過度に東京に集中した(当時の私も含めた)地方出身者たちの心の琴線をおおいに震わせたものだった。古賀の歌詞の迫り来るエモーションによって、望郷の涙で枕を濡らした者も多かったはずである。これは訳詞によって独自のシャンソン楽曲として見事に成功した稀な例であり、その独り立ちは祝福されるべきものである。この郷愁的抒情感はオリジナルにはない。ここで私は古賀詞に異を唱えるわけではなく、古賀詞の詩情はその自由翻案によって「山」を「ふるさとの山」に昇華させたことをむしろ称賛するものである。それに対してジャン・フェラの「山」は「ふるさとの山」ではないのである。フェラの「山」のリフレイン部は
春は花が咲き乱れ
空に小鳥さえずる
ふるさとの山は
Pourtant
それにしても
Que la montagne est belle
山はなんて美しいんだ
Comment peut-on s'imaginer
つばめが飛んでいるのを見て
En voyant un vol d'hirondelles
秋がやってきたんだ、なんて
Que l'automne vient d'arriver?
誰が想像できるかね?
この皮肉なトーンは、都会での生活の非人間的なありようをさまざま挙げて、それにひきかえ、なんて山は美しいんだ、と返す歌の展開からなるものである。ツバメが秋を告げるものではない、というほどに明白なのである。フェラの「山」はふるさとではない。フェラは山に回帰していったのではなく、山と出会ったのである。
ウーレカ。われ山を発見せり。1964年夏、初めて人に連れられて訪れたマッシフ・サントラルの山中、アルデッシュ県の小さな村アントレーグ・シュル・ヴォラーヌ(←写真)の美しさに強烈に心打たれ、この歌「山」は同年11月12日朝9時に録音された。以来フェラはこの小さな村(現在でも人口600人ほど)を離れず、副村長をつとめるほどこの村に溶け込み、住民たちに慕われながら、ついにこの村で死の床につくのである。山の人として生まれなかった彼は、自ら望んで山の人になった。「山」のおしまい(第三連)の歌詞はこう歌われている。
Leur vie, ils seront flics ou fonctionnaires図らずもこの「ホルモン漬けのチキンを喰わされる」という箇所のプロテスト性もあり、この歌は後年にフランス初のエコロジー・メッセージソングとしても評価されることになる。
警察官になろうが公務員になろうが
De quoi attendre sans s'en faire
彼らの生活は何の心配もなく
Que l'heure de la retraite sonne
定年退職の時を待つのみ
Il faut savoir ce que l'on aime
人々の好むものに従い
Et rentrer dans son HLM
公団住宅に帰ってホルモン漬けのチキンを
Manger du poulet aux hormones
食べなければならないのさ
Pourtant
それにひきかえ
Que la montagne est belle
なんて山は美しいんだ
Comment peut-on s'imaginer
つばめが飛んでいるのを見て
En voyant un vol d'hirondelles
秋がやってきたんだ、なんて
Que l'automne vient d'arriver?
誰が想像できるかね?
ジャン・テネンボーム(後のフェラ)は、1930年12月26日、パリ西郊外オー・ド・セーヌ県ヴォークレッソンに生まれた。父ムナシャ・テネンボームは貴金属細工職人で、1905年に帝政ロシアからフランスに移住して帰化したが、宗教的にユダヤ教徒でなかったにも関わらず、家系がそうであるという理由で1942年占領ドイツ軍に捕えられ、アウシュヴィッツ収容所に送られ帰らぬ人となっている。11歳だったジャンは父親がユダヤ系だったことすら知らなかった。ジャンを除く家族はナチスの追求を避けるために、南西フランスのピレネー地方に逃れるが、ジャンは中央フランスのオーヴェルニュ地方の叔父のところに隠れ、1942年暮れに叔父宅から出て、道中共産党員のレジスタンス部隊に匿われながら、ピレネーの家族と合流することに成功する。ジャンと共産党との強い縁はここに始まる。終生一度も党員登録をしたことはないし、後年ハンガリー動乱やチェコ「プラハの春」でのソ連介入、そしてそれを支持したフランス共産党の姿勢にははっきりと非難する立場を取るのであるが、ジャンはそれでも共産党のどうしたちを一生の友としている。12歳の時に受けた一宿一飯の恩義は一生ものなのである。
父の死とナチスからの逃避行、ジャンはその数ヶ月に連続した重大な体験で、後年「私は12歳で大人になれると思った」と述懐している。
戦後、家計を助けるために16歳で学業を捨て働き始めるが、音楽と演劇に惹かれ、仕事のかたわら劇団の中で端役を演じたり、ギターで作曲したり、ジャズバンドで演奏したりした。23歳で仕事を辞め、芸名をジャン・ラロッシュと名乗り、音楽のプロの駆け出しとなるのだが、最初はパリの右岸と左岸のシャンソン・キャバレーのオーディションを通ってやっと何曲か歌わせてもらう程度。
1955年、道を歩きながらジャンの頭にひとつのメロディーが浮かぶ。彼の作曲法は自声で歌って旋律を組み立てるものだが、彼はそのメロディーが数年前に読んだある詩とぴったり合うはずだと直感し、慌てて家に帰り、本棚を探して、その詩集を見つけ出した。それがルイ・アラゴン詩集『エルザの瞳』だった。
おまえの瞳はあまりに深く、私がそれを飲み込もうとしたら、あらゆる太陽がやってきて、その瞳に映し出すのが見えたほどだ。
ジャンがずっと敬愛していた詩人ルイ・アラゴン(1897 - 1982)は、20世紀初頭の前衛芸術運動ダダイスムとシュールレアリスムの中心的な推進者のひとりだったが、1927年に共産党に入党して大戦中はレジスタンス活動に従事し、1928年にロシアの詩人ウラジミール・マヤコフスキーの義妹エルザ・トリオレと出会い、エルザへの激烈な恋愛からインスパイアされた詩を多く発表している。詩集『エルザの瞳』(1942年刊)の表題詩「エルザの瞳」に曲をつけたジャンは、その譜を楽譜出版社に見せたところ気に入られ、楽譜社のはからいで当時の人気歌手アンドレ・クラヴォーがその曲を録音することになった。そして作曲家として著作権協会に登録する段になって「ジャン・ラロッシュ」という名が既に別人によって登録済みであることを知り、急遽(伝説ではフランス地図を開いて目に止まった南仏コート・ダジュールの港町の地名サン・ジャン・キャップ・フェラ Saint-Jean-Cap-Ferrat に閃いて)「ジャン・フェラ(Jean Ferrat)」と名乗るようになる。
1956年、セーヌ右岸のシャンソン・キャバレー、ミロール・ラルスイユ(セルジュ・ゲンズブールはここで伴奏ピアニストをしていた)で歌っていた女性歌手クリスティーヌ・セーヴル(1931 - 1981)と出会い、二人は恋に落ちその3年後に結婚することになるが、クリスティーヌがジャンの曲を歌っていたのを聞きつけたジェラール・メイズ(1931 - )(当時は楽譜出版社の使い走りだったが、後年独立してジャン・フェラ、ジュリエット・グレコ、イザベル・オーブレ、アラン・ルプレストなどを擁する名シャンソンレコード会社”ディスク・メイズ”を起こし、ジャン・フェラの終生の友となる)がジャンの才能に非常に惚れ込み、レコード業界を奔走してジャン・フェラとデッカ・レコードの契約を成立させ、歌手フェラの本格的なレコード歌手としての道を開く。
アラン・ゴラゲール(1931 - 2013)はパリ左岸サン・ジェルマン・デ・プレのジャズピアニストで、ボリズ・ヴィアンの共作曲家/編曲家であり、後には60年代期のセルジュ・ゲンズブールのアレンジャーとして知られることになるが、ジャン・フェラとは1960年デッカ盤4曲入りEP以来、フェラの全レコード録音曲の編曲を担当することになる。その初デッカ盤の中の1曲「マ・モーム(俺のいい娘)」がジャン・フェラ最初のヒット曲となる。
俺のいい娘はスターの真似事なんかしないサングラスなんかかけない
グラビア雑誌に載ったりしない
俺のいい娘はクレテイユの女工
郊外。華やかなパリから一歩外に出た郊外は工場と倉庫と低家賃高層集合住宅(HLM)が立ち並ぶ”バンリュー・ルージュ”(”赤い郊外”とはパリを包囲する郊外の多くの市に共産党市長が選出されていた60-70年代の異名)、そこでの貧しくも清い恋を描いたミュゼット風ワルツ曲が、ジョニー・アルデイとイエイエ・ブームが大ブレイクした年にヒットする。ジャン・フェラは逆説的であった。場違いなほど時流とシンクロしない自分のシャンソン道を通した人だった。この「場違い」を早くも見抜いたジャン=リュック・ゴダール監督が、その映画『女と男のいる舗道』(1962年)にフェラを登場させ、ジュークボックスでこの「マ・モーム」を歌わせている(↓)
1962年には後に最も重要なフェラ楽曲の歌い手となるイザベル・オーブレ(1938 - )と出会い、その夏オーブレはフェラ作「太陽の子供たち(Deux enfants au soleil)」というヴァカンス讃歌を大ヒットさせる。そんな平和な歌のあとで、フェラは1963年にホロコーストを描いたジャン・ケイヨール脚本/アラン・レネ監督の映画『夜と霧』(1956年)にインスパイアされた「夜と霧」という歌を発表し、フランス国営放送はこの曲を放送禁止に処する。父親をアウシュヴィッツで失ったジャンの心の叫びであるが、時の権力はこれを不穏当として封じにかかり、レコード芸術家協会(ACCアカデミー・シャルル・クロ)は逆にこの勇気を讃えACCディスク大賞を授けるのである。
同じように1965年、水兵たちの反乱を描いたセルゲイ・エイゼンシュテイン映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)を題材にしたフェラの歌「ポテムキン(Potemkine)」は、出演予定されていたテレビ番組がこの歌を歌うという理由でフェラを降板するという事態を招き、文化人たち(ルイ・アラゴン、エリザ・トリオレ、ジャン=リュック・ゴダール、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレ...)が検閲抗議の声明を発表する騒ぎとなった。
イエイエ全盛の時代という逆風を跳ね除け、ジャン・フェラは人民の苦悩や戦争の残虐さや純文芸的恋愛詩(『フェラ、アラゴンを歌う』 1971年)を歌い、その確固たる地位を築いていった。真摯に「不穏当」であるがゆえに、検閲のたびに民衆のフェラへの支持は高まり、そのコンサートは毎回超満員となった。会場はアランブラ(Alhambra)、ボビノといった昔ながらのミュージックホールを飛び越して、1970年からは5千人収容のパレ・デ・スポール(現在のドーム・ド・パリ)に登場している。当時ジョニー・アリデイしか満杯にできないと言われていたこの屋内スタジアム型ホールをあえて選んだのは、フェラの聴衆は高価なミュージックホール入場料を払えない、採算ベースで入場料をできるだけ安く抑えられるのは巨大会場しかない、というフェラのファン配慮からであった。聴衆とできるだけ近い位置にいることこそ彼の望みだったのだ。ロックスターとはほど遠い音楽世界を持ったこの抵抗シャンソン歌手は、大方の予想を覆して、連日この巨大ホールをソールドアウトにした。ラジオで聞けない、テレビで見れないこの歌手は、共産党のフェスティヴァルであるユマニテ祭や、68年5月革命のストライキ中のルノー工場や、このパレ・デ・スポールで民衆の前に姿をあらわし、大喝采を浴びた。しかしこのパレ・デ・スポール級のメガコンサートが極度の疲労としてフェラにのしかかり、1973年を最後に二度とステージに現れることはなかった。
(↓)1972年パレ・デ・スポールのジャン・フェラ
1964年に出会ったアルデッシュの山の村アントレーグ・シュル・ヴォラーヌに本格的に定住するようになったのは1974年のこと。妻のクリスティーヌ・セーヴルと、その前夫との子ヴェロニク(ジャンはわが子として育てている)との三人暮らし。1981年にクリスティーヌが50歳の若さで病死。1990年に村の商店の女主人コレットと再婚し、コレットは20年間その最期までジャンに添い遂げた。山村での生活は、花(ダリア)を育て、家の下を流れるヴォラーヌ川でカワマスを釣り(村の男たちと同じようにジャンもカワマスを手づかみで捕えることができた)、村人たちとカフェでカード遊びをし、広場でペタンク球戯をし、そしてゆったりとした時間の中で作詞作曲活動も。里に降りてレコード録音をする頻度は2年に一度から5年に一度になり、1994年発表の『フェラ95』(アラゴンの詩16篇に新しく曲をつけたアルバム)が生涯最後の録音となった。
しかし山にいながらもフェラは声を上げ続け、親ソ路線を改めないフランス共産党を叱りながらも、左派および左翼全般を支援し、2007年のフランス大統領選挙では農民同盟(コンフェデラシオン・ペイザンヌ)のリーダーでアルテルモンディアリスム派のジョゼ・ボヴェを支持した。そしてその死の翌日(2010年3月14日)が投票日になっていた2010年地域圏選挙では、アルデッシュ県の左翼共闘戦線(共産党と左翼党の共闘リスト)を支援していた。最後まで左翼の人だったのだ。
日本史上で言われている特定の政治思潮という意味ではなく、私はこの歌手は「労農派」という言葉が似合う人だと思う。その折目正しい歌い方、ビロードの美声、絶やさぬ笑顔。「はてしなき議論のあと”ヴ・ナロード(人民の中へ)!”と叫び出づるものなし」と嘆いた啄木に代わり、ジャン・フェラはパレ・デ・スポールのナロード(人民)の中に立った。しかし多くの非共産党系左派/左翼からは「スターリニスト」呼ばわりもされた。しかしフェラはその歌でも明らかなように党や指導者を愛しているのではない。そこにいる人々の味方なのである。誰にどう言われてもキューバを愛する歌”Cuba, si !(クーバ・シ)”を歌うのは、カストロを賛美するためではなく、その人民を愛しているからに他ならない。
音楽的にはジャン・フェラは変化の乏しい人で、レオ・フェレやセルジュ・ゲンズブールのように新しい音楽と交わることなどなかったが、シンプルで頑固な語り口を続けた点ではジョルジュ・ブラッサンスと共通するものがあろう。死期を察していたかのように2009年秋にリリースされた初のCD3枚組ベストは、何のプロモーションを要することなく数週間で30万セットを売り、2009年フランス盤CDの年間売上の3位となり関係者を驚かせた。
女性は人類の未来である
La femme est l'avenir de l'homme
1975年、フェラは高らかにこう宣言した。私は何よりもこういうジャン・フェラに賛同し拍手する者である。ショービジネス(ひいては資本主義社会)に疲れ、山でその幸福を見出した男が予見した未来社会は女性であった。クリスティーヌ、コレット、それは実在した人類の未来だった。2010年3月13日、ひとりの自由人が山で死んだ。それでも山は美しい。
(ラティーナ誌2010年5月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)
(↓)ジャン・フェラ「山 La Montagne」(1964年テレビ録画)
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