2007年12月31日月曜日

バンコとして闘う



 レ・テット・レッド『バンコ』
 Les Têtes Raides "Banco"


 今、前作"FRAGILE"(2005)を引っぱり出してみたら、もうこの頃からTOT OU TARDレーベルとお別れしていたのですね。
 熱心なリスナーじゃないのがバレてしまいます。
 ステージは見るたびに圧倒されて、クリスチアン・オリヴィエのカリスマ性はベルトラン・カンタ(ノワール・デジール)やマジッド・シェルフィ(ゼブダ)に通じるものがあるのは確かなのですが、スタジオアルバムで聞くとそれがどうもうまく伝わってこないのでした。爺を含めてファンの一部の人たちは、クリスチアン・オリヴィエにどうしてもジャック・ブレルの亡霊みたいなものを求めてしまう(それはベルトラン・カンタにジム・モリスンの亡霊を求めるのと同じですけど)ので、ライヴステージではそれが満たされても、CDではシャンソン寄りの曲でないとその欲求は満たされないのですね。それを知ってて(すなわちそれを嫌って)、クリスチアン・オリヴィエは3作ぐらいシャンソン離れしたアルバム作ってしまいましたし。
 新作『バンコ』は力が入ってます。われわれ年寄りが大好きだった「ジネット」みたいな、縦横無尽アコーディオン・ワルツ(ただし必殺の超絶アコーディオンはジャン・コルティさんではありまっせん)の5曲め"J'ai Menti"を聞いた時には、わ、爺の求めていたレ・テット・レッドが帰ってきた、と小躍りしたものです。時事問題である不法滞在移民(Sans papiers)の窮状を歌った3曲め"Expulsez-moi"も強烈なメッセージで、「活動家」レ・テット・レッドは健在です。
 その他シャンソン寄り、オルタナ・ロック寄り、いろいろ良いのではありますが、このアルバム、10曲めに19分35秒の長い長いテキスト朗読(バックにインスト演奏があるので、スラムのように聞こえないこともないです)があります。"Notre besoin de consolation est impossible à rassasier"(われわれの慰めへの欲求を満足させることは不可能である)という長い長いテキストをクリスチアン・オリヴィエが、アジ演説でもするように読み上げます。これはクリスチアン・オリヴィエ作のテキストではありません。スウェーデンのアナーキスト作家スティーグ・ダーゲルマン(1923-1954)のエッセー(原文スウェーデン語の仏語訳)の全文です。
 ダーゲルマンは第二次大戦中に労組系新聞のジャーナリストとなり、43年にナチスを逃れてスウェーデンに亡命してきたドイツの労組活動家の娘と結婚します。戦後にドイツに取材し、ナチスの残した惨状を報告する記事を多く書き、世界から自業自得と冷観されながら極端な窮状を生きるドイツ市民の苦悩や憎しみが、彼の小説に大きく反映されます。45年発表の小説「蛇」から、ダーゲルマンは新しい北欧文学の旗手のように称賛され、世界各国語で翻訳されます。4年間第一線の作家として作品を出し続けたのち、49年に妻アンネマリーとの関係の悪化から、実存的苦悩に苛まれ、文字が書けなくなってしまいます。50年に離婚し、女優アニタ・ビョークと再婚しますが、その4年後車庫の中で排気ガス自殺でこの世を去っています。この「われわれの慰めへの欲求を満足させることは不可能である」は1952年に書かれたことになっていて、その全文(フランス語訳ですが)は(↓)に公開されています。
"Notre besoin de consolation est impossible à rassisier"
 あなたたちに(↑)を読めと言っているのではありません。この180行の文章は、生易しいものではありません。爺に訳せと言われても私はしません。重いのです。私はフランス語で字面を追うだけでもつらくなります。
 この180行をクリスチアン・オリヴィエは、このアルバムの最重要作品として私たちに押し付けてきたのです。12曲60分のアルバムで、この1曲だけで19分35秒ですから、この場所取り加減は尋常ではありません。このアルバムをどう評価するか、というのはこの1曲をどう評価するか、ということにほぼ等しいのです。で、私は、これはまずいのではないか、と思ってしまったのです。
 
<<< Track List >>>
1. Tam-Tam
2. La Bougie
3. Expulsez-moi
4. Banco
5. J'ai menti
6. Les Autres
7. Ici
8. Les pleins
9. Plus haut (feat. Olivia Ruiz)
10. Notre besoin de consolation est impossible à rassasier
11. On s'amarre

(試聴は以下のサイトで可能です)
"www.tetesraides.fr"
"www.myspace.com/tetesraidesofficiel"

CD WARNER 2564697302
フランスでのリリース:2007年12月3日


 

2007年12月30日日曜日

ジスカール=デスタン時代のお嬢さん



 パトリシア・ラヴィラ『全録音集 1973-1979』
 Patricia Lavila "Intégrale 1973-1979"


 歌詞の中に出て来る「ジョン・レノン」という名前にひっかかりました。お立ち会い、よろしいですか、この時代、ジョン・レノンは生きていたのですよ。ビートルズが解散して、ジョン・レノンは(普通のひとりの)ソロ・アーチストで、まだ聖人になっていなかったのですよ。ジョルジュ・ポンピドゥーが死んで、中道保守のヴァレリー・ジスカール=デスタンが48歳の若さで新大統領になったのが1974年のことです。ジスカール時代というのは、フランスが日本よりも10年ほど遅れてテレビがようやく一般家庭に定着した時期にあたり、レコードやラジオから生まれていた大衆的ヒット曲が、急激にテレビ主導型に移行していき、テレビからスター歌手が生まれるという現象が一般化していきます。テレビですから、容姿が良いこと、歌って踊れること、といったことが必須条件になるわけですね。クロード・フランソワとシェイラが急速に領土を拡張していった理由はここにあると言えましょう。
 大衆音楽のテレビショー化は別の言葉では「ヴァリエテ」の誕生となります。いまだに「ヴァリエテ」とはどういう音楽ジャンルなのか、誰もはっきりと言えないところがありますが、ウィキペディア(仏)はかなり明確に、20世紀後半にテレビ娯楽番組が普及させたさまざまな(varié)音楽のことで、アーチストは多くの場合事前にテープ録音された音に合わせて口パクするもの、と記述しています。狭義の音楽ジャンルとしてのヴァリエテとはそのテレビ用の歌と踊りの音楽である、ということになります。そのヴァリエテ創世記である60年代後半から70年代にかけては、そんなにヴァリエテに対する侮蔑的な意見というのは出なかったと思うんですが、「シャンソン」の人も「ロック」の人もこういう形でなければテレビに出られなくなっちゃった、というフランスのテレビの間口の狭さ(80年代半ばまでテレビ局は国営の3局しかなかったのです)が、あらゆる大衆音楽のヴァリエテ化という現象を招いてしまったのですね。それで80年代にFMが自由化されて、大衆音楽がヴァリエテでなくてもちゃんと表現の場を得られるようになってから、ヴァリエテ(この場合はテレビの口パク歌謡)がおおいに軽蔑されるようになるわけです。
 前説明が長いですが、ジスカールの時代はこのヴァリエテ全盛期です。ジスカール時代に絶大の人気を誇ったテレビ司会者が、ダニエル・ジルベールという女性で、「ジスカール=テレビ=ダニエル・ジルベール」はよく三題噺のタネになります。(そしてこのジルベールは81年のミッテラン当選後、テレビ界から消されてしまいます)。ヴァリエテ・テレビはクロード・フランソワ、シェイラというトップクラスの他に、ミッシェル・デルペッシュ、ジェラール・ルノルマン、ミッシェル・トール、デイヴ、イレテ・チュヌフォワ(Il etait une fois)、カレン・シェリル、ニコレッタ、アラン・シャンフォール、パトリック・ジュヴェなどをスターにしていきます。日本のアイドル路線に遠くない現象で、テレビでは録りの日の局の「出待ち」ファンたちが群がり嬌声を上げるという状態でした。マイク・ブラント、ジョー・ダッサン、沢田研二らもこの時代のど真ん中の人たちです。
 
 このパトリシア・ラヴィラは1957年、アルジェリアのオランで生まれています。父はフランス憲兵隊の隊長でした。パトリシアが5歳の時にヴィラ一家はアルジェリアを去り、リヨンに移住しています。そこで少女パトリシアはダンスと歌唱の勉強をみっちりして、中学・高校の文化祭の人気を一身に集め(そんなもんあるんかいな?)、いつしか土地の歌姫になってしまいます。それが功を奏して、73年にはバークレイ・レコードに届いたデモ・テープが社内に大反響を起こし、16歳で初のレコード録音をして、ヴァリエテ界にデビューしてしまいます。
 私は全くこの女性歌手を知りませんでしたし、聞いたこともありませんでした。爺がフランスで暮し始めたのがジスカール時代の最末期の頃だったからかもしれません。あるいはその頃テレビを見ても、熱心にヴァリエテを追いかけていたわけではなかったからです。またここで個人史的に考えて言えるのは、私のある音楽への興味の発端は「レコードから」と「ラジオから」という二つのパターンはあっても、「テレビから」ということはまずなかったということです。
 テレビ・ヴァリエテ時代の寵児であったらしいパトリシア・ラヴィラのバークレイ・レコード在籍時の全録音44曲(うち10曲は未発表録音)を収めた2枚組CDです。シャンソン復刻レーベルとして大変マニアックな仕事をしているマリアンヌ・メロディー社による初CD化になります。多すぎます。2枚組にしないで、編集ベストで1枚もので十分だと思います。そして旧譜復刻にしてはこの市販価格は高すぎます。コレクタープライスということなのでしょうか。しかしマリアンヌ・メロディーに多数の復刻依頼投書があった末のCD化ということがライナーノーツにも書かれてあって、コレクター市場で法外な値段で売買されているらしい彼女のレアなレコード盤のことを考えれば、旧ファンおよびセブンティーズ・ファンおよびヴァリエテ・ファンには目から涙の復刻であったようです。
 ここにあるのは、オリヴィア・ニュートン=ジョンとシーナ・イーストンとアバの同時代人です。全盛期のユーロヴィジョン・コンテストに見られた、どの国の出場者でも同じような満面の笑みと振り付けで歌われた、全肯定的(オール・ポジティヴ)なポピュラーソングのエッセンスがすべて詰まっています。パトリシア・ラヴィラの歌は、安定成長期セブンティーズのオプティミズムのすべてが詰まっています。失業もエイズもなかった時代のフランスです。歌のタイトル見ただけで楽観論が了解できます:「いつも恋はヴァカンス(L'amour est toujours en vacances)」,「あなたの心の小さな場所(Une petite place dans ton coeur)」,「365日が日曜日(365 dimanches)」,「ブルージーンとTシャツ(En blue jeans et tee-shirt)」,「いい天気,だから好きよ(Il fait beau et je t'aime)」,「1万人の男の子(cent mille garçons)」,「今夜はあなたのところにお泊まり(Ce soir tu me trouveras chez toi)」....。
 1年中がヴァカンスと恋であったセブンティーズ,そういうものは実際には存在しなかったのですが,ヴァリエテ歌謡の中ではそれしかなかった時代であったようです。夢のようです。ですからノスタルジーをそそるのです。存在しなかったものへのノスタルジーは,時代を共有しなかった若い人たちにも持つことができるのです。不滅のアバやカーペンターズを追いかける若い人たちの気持ち,わかってあげましょう。ひとつのキーワードはハーモニーです。70年代ほどハーモニーが重宝がられた時代はその前にもその後にもないように爺は思っています。調和の幻想と言いましょうか。そう言えば一家に一枚イ・ムジチ合奏団の「四季」があったのもその頃ではなかったかしらん。
 パトリシア・ラヴィラのような健康&安全ポップ・ミュージックは次の世代に否定されてしまう。それはジスカールが落選してミッテランが大統領になったというフランスの変化にもよるものです。国家統制テレビの匂いのするヴァリエテは,次世代の若者たちから忌み嫌われたのです。
 それが徐々に復権してくるのは,全世界的に散在する熱狂的なユーロヴィジョン・フリークたちのキッチュ趣味みたいなものが,インターネットの世の中に多くの奇妙なファンサイトによって伝播したからかもしれません。パトリシア・ラヴィラも(↓)のような強烈なファン・ブログがあります。題して『ジスカール時代のキラ星』!
La Star des années Giscard

 この73年から79年の足掛け7年にパトリシア・ラヴィラは13枚のシングル盤と1枚のLPをバークレイに残しました。その後も引退したわけではなく,CBSに移籍し何枚かシングルを出し,さらにVogueに移籍して1986年までレコードを出し続けます。人知れずですが。プライベートには,最初の夫がダヴィッド・アレクサンドル・ウィンター(オフェリー・ウィンターの父親。オフェリーはパトリシアの娘ではありまっせん)でした。二度の結婚で二児をもうけ,時は経ち,現在は二人の孫を持つ,幸福なおばあちゃん(50歳!)として暮らしているそうです。

<<< Track List >>>
- CD1 -
L'amour est toujours en vacances
Souris-moi et chante
Une petite place dans ton coeur
365 dimanches
C'est la première fois
Schlik schlak boom boom
Chante avec les oiseaux
En sortant du lycée
C'est bon d'avoir quinze ans
Te faire un peu souffrir
La chanson de nos vacances
Pense à moi
En blue-jean et tee-shirt
Pour toi c'est rien pour moi c'est tout
On se fâche on se quitte
Cent mille garçons
Ce n'est pas tout à fait ça
Mets tes bras autour de mon cou
Je n'ai jamais vu Jacques Brel chanter
A double tour à double coeur
Peut-être plus peut-être moins
- CD2 -
Paloma Blanca
Un garçon ça ne pleure pas
Il fait beau et je t'aime
Encore amoureuse
Ce soir tu me trouveras chez toi
Est-il heureux sans moi
Des larmes de musique
La petite fille qui pleurait
La nuit des Dieux
Made in paradis
Parle-moi
L'amour me va bien
Vis ta vie
La vraie vie
Et l'amour le reste du temps
Choisis l'amour
Chanson d'enfance
Parle-moi de toi
L'enfant blond
Devenir une femme
Je suis venue t'aimer
Je l'ai dit mille fois
Déclaration de paix déclaration d'amour

2CD MARIANNE MELODIE UN7882 (通販価格 24.90ユーロ)
フランスでのリリース:2007年2月


PS:youtubeにパトリシア・ラヴィラの73年ヒット「恋はいつもヴァカンス」(CD1の1曲め。L'amour est toujours en vacances)のテレビ画像を見つけました。超長髪にご注目ください。ドライヤーに2時間という感じでしょうか。
Patricia Lavila "L'Amour est toujours en vacances"

2007年12月29日土曜日

ポップ・フランセーズの100年



 セリーヌ・フォンタナ著『ラ・シャンソン・フランセーズ』
 Céline Fontana "LA CHANSON FRANCAISE"


 (128頁の一部)「ジョルジュ・ブラッサンスと並んでシャンソン・フランセーズ界の魅惑の口ひげ男だったジャン・サブロンは,日本公演の際に現地女性と恋に落ち,日本で生まれたジャンの息子はのちにシャンソン・ジャーナリストとなり,向風サブロンと名乗った」。

 (↑)うそですよ。

 この種の小百科全書的なシャンソン事典は他にもたくさんあり,向風のムックも多くの題材をそれらの書物に依存していたわけですが,この本は向風ムックとほぼ同時の9月末刊行でした。つまり爺はこの本を参考にできなかったのです。私は盗作ライターではないと身の潔白を訴えますけど.... この本が参考書として加わったら,もっともっと面白い内容になったであろうに....と悔やまれる一冊です。
 15年選手の女性ジャーナリスト,セリーヌ・フォンタナの初著。ソフトカバー270頁のシャンソン年代史で,シャンソン発祥のイントロダクションに始まり,本編は1920年代から2007年まで(ミスタンゲットからアブダル・マリックまで)の総覧的ガイドです。インターネット画面のような構成で,思わずクリックしたくなるような見出し+アーチスト太文字と,それに続く簡潔な紹介本文があり,その左右に,"Zoom"(注目すべき詳細),"la petite histoire"(エピソード),"Pour en savoir plus"(補足情報)といった小さい活字のコラムがついています。これがとっても味があるんですね。
 たとえば157頁めでアラン・スーションがらみで「ネーム・ドロッピング」という作法について説明していて,歌の中に著名人の名前を織り込むやり方なんですが,スーションでは「テオドール・モノー,ボリズ・ヴィアン,ジャック・プレヴェール,ジョン・レノン,アダモ,カール・マルクス,ジュリエット・グレコ,ソフィー・マルソー,クラウディア・シファー,フランソワーズ・サガン,サマーセット・モーム,アルレット・ラギエ,ピエール神父....」等が顔を出しています(歌がほとんど思い出されるところがすごい→自分)。それがヴァンサン・ドレルムでは「ファニー・アルダン,ステフィー・グラフ,チャールズ・ブコウスキ,パトリック・モディアノ,ダニエル・バラヴォワーヌ,ロザンナ・アーケット...」等ですね(これも歌全部知ってるところがすごい→自分)。というような,オタッキーな愛好者の心をくすぐるような記述があったりします。
 また141頁めにはジュリアン・クレールのファンの会のことが書いてあります。数あるファン組織のひとつに『パティヌールの会』というのがあり,1972年発表のエチエンヌ・ロダ=ジル作詞の"LE PATINEUR"(スケート男)という歌に因んで会の名前をつけた,言わば「初期ジュリアン・ファンの会」なんですね。ファン組織にありながらこの会は公然とクレールの80年代期(ジャン=ルー・ダバディー,リュック・プラモンドン,セルジュ・ゲンズブール,デヴィッド・マクニールなどが作詞していた時期。"LA FILLE AUX BAS NYLON", "COEUR DE ROCKER", "MELISSA"...)を酷評するんですね。気持ちはわからないでもないですが,長くやっているアーチストでは初期ファンと後期ファンで内ゲバがあったりするんでしょうね。

 カフェ・コンセール,ミュージッコール,ザズー,スウィング,ロックンロール,68年,フォーク,ディスコ,ヒップホップ,オルタナティヴ,ラップなど時代のキーワードに関する説明もとても丁寧です。写真(アーチストもレコード写真も)は一切載っていません。これはインターネットじゃないんだから,画像は無視して,文字を読め,という編集方針のように見ました。良い態度です。登場するアーチストたちもちゃんとしてます。向風と違って,ブリジット・フォンテーヌもマッシリア・サウンド・システムもミレイユ・マチューもちゃんと紹介されてます。-M-マチュー・シェディッドは表紙を飾ってますし。
 表紙に関して言えば,ピアフ,サルヴァドール,ブラッサンス,カルラ・ブルーニ(言うまでもなく,セリーヌ・フォンタナはこんなことになるとは知る由もなかったはずです)ですから,それとなくエディトリアルがうかがえようと言うものです。入門編としては申し分ありません。エピソードの数々こそがこの本の魅力の決め手です。シャポー,バ。
 因みにセリーヌ・フォンタナは現在トマ・フェルセンに関する本を準備中だそうです。おおいに期待しています。

CELINE FONTANA "LA CHANSON FRANCAISE"(HACHETTE PRATIQUE 2007年9月26日刊。12.90ユーロ)
 

2007年12月27日木曜日

山師トマ



 トマ・フェルセン『ノミ掻きの歌』(ポケット版ベストアルバム)
 Thomas Fersen "Gratte-moi la puce"(Best of de poche)


 ウクレレレレのレ。ホノルルルル。
 爺も子供の頃弾いてました。「カイマナヒラ」やら「竹の橋の下」やら。もちろん「タフアフアイ(ああやんなっちゃった)」も。牧伸二とタイニー・ティムね。牧伸二の女性版は? マキシン・ナイチンゲール!.... (頭いた。こういうのを北中さんは”オヤジギャグ”と言っていたんだろうな,と今急に自覚しました)。
 減ることを知らぬフェルセン。これが何枚めのアルバムでしょうか。ポケット版(文庫版)ベストアルバムと副題された,トマ・フェルセンの自選ベスト/ミニマル再録アルバムで,トマ(ウクレレ+ヴォーカルと相棒ギタリストのピエール・サングラ(バリトン・ウクレレ,マンドリン,バックコーラス)の二人だけの演奏です。「レ・パピヨン(蝶々)」,「ラ・ショーヴ・スーリ(こうもり)」,「ル・シャ・ボテ(長靴をはいた猫)」,「イヤサント(ヒヤシンス)」など,ライヴでやったら大合唱になってダンスが始まるような曲が,小音量撥弦楽器とトマの自然体ヴォーカルで聞こえてきます。これをレ・ザンロキュプティーブル誌のジョアンナ・セバンは「ストリップ・ショー」なんてうまい表現で評していました。確かに歌と声が裸にされる感じですね。この裸の感じがすごく良いのですね。こんなにきれいな旋律だったんだ,こんなに優しい言葉だったんだ,というのがくっきり浮き上がってきますね。
 編曲で旧友で偏屈な弦編曲の鬼才ジョゼフ・ラカイユの名前も出ていて,謝辞に「ウクレレ道を伝授してくれてありがとう」と書いてありました。つまりトマにウクレレの道を開いたのはラカイユさんだったのですね。ラカイユさんもドミニク・クラヴィック等のウクレレ・クラブ・ド・パリ(発音にうるさい人はユクレレ・クリュブと言うのかな)のメンバーです。
 聞いているうちに「吟遊詩人」という言葉がこれほどぴったりするスタイルはないのではないか,と思うようになりました。電気のないところでも,通りでも,地下鉄内でも,このスタイルでトマとピエールの二人はかなりの人たちを周りに集めて演奏できると思います。多くの人たちはそこでトマ・フェルセンをじっくり歌詞聞いて味わおうという気になるはずです。裸に近いこのスタイルで,トマは本当に聞かせてくれる芸人ですね。次はもっと脱いでくれるかもしれません。
 ピエールはやはりマンドリンがいいです。あの「鳥の舞踏会」(1993年。爺の本にも出てきた)のマンドリンが秀逸です。

<<< Track List >>>
1. LES PAPILLONS
2. MONSIEUR
3. CROQUE
4. LA CHAUVE-SOURIS
5. PEGASE
6. DIANE-DE-POITIERS
7. HYACINTH
8. JE SUIS DEV'NUE LA BONNE
9. LE CHAT BOTTE
10. ZAZA
11. LE BAL DES OISEAUX
12. LES MALHEURS DE LION
13. PIECE MONTEE DES GRANDS JOURS
14. MON MACABRE
15. GEORGES
16. LOUISE
17. BELLA CIAO
18. BIJOU
19. SAINT-JEAN-DU-DOIGT
20. LA BLATTE

CD TOT OU TARD 2564696890
フランスでのリリース:2007年11月

2007年12月25日火曜日

バルバラ事件



 どうにかこうにか、原稿を書き上げました。ヴァレリー・ルウーのバルバラ評伝『バルバラ/明暗のポートレイト』には驚かされる記述が多く、夢中で読みました。バルバラは死後10年間で聞かれ方/読まれ方がどんどん変わってきています。そのことを中心に原稿を書いたつもりなんですが、ほとんどヴァレリー・ルウーの受け売りになってしまったみたいです。ルウーは今、テレラマ誌のシャンソン評をよく書いていて、アラン・ルプレストのトリビュートアルバムを"ffff"で絶賛したのですが、その結論が

L'artiste a mal, mais n'a pas peur. Leprest sourit. « Pour moi, ça gazera mieux quand je serai devenu du gaz, quand je serai devenu du jazz, dans le sax du bon Dieu... » Il est, depuis longtemps, un gaz totalement enivrant.
(このアーチストは病んでいる、しかし恐れていない。ルプレストは微笑む「俺はガスになってしまった方がうまくスウィングするだろうさ、神様のサックスの中でジャズ気体になってしまった方がね」。彼はずっと前から全身が興奮ガスである)

と書いているんですね。爺の訳でうまく伝わるかどうかアレですが、背景を説明すると、実はルプレストは(こういうことははっきりと断言してはいけないことですが、多分)死期が近いようなんです。それをもうすぐ気体になって天国でスウィングするみたいに言うわけですね。それをルウーは、あんたはもともとガスなんだよ、と切り返すのですね。こういうこと書けるっていうのはすごいなあ、と爺はぶっ飛んでしまったのです。それ以来彼女が書くことは爺にはすごく説得力持っちゃってるわけです。ジャンピング・ジャック・フラッシュも実体はガスですけど。
 で、バルバラなんですが、ルウーの筆にかかると、本当にジム・モリソンかジャニス・ジョプリンか、と思うほど、破天荒でロックンロールな生きざまがはっきりと見えてきます。めちゃくちゃによく笑う、冗談噺の名人である一方、永遠の不眠症者で死と隣り合わせに生きていたようなところも、すごいです。ルウーはやはり父親との関係がバルバラの生と歌を決定したという大きな軸論にしたがって書いています。死後1年後に刊行されたバルバラ自伝で父親との近親相姦が告白されたことが、バルバラの歌の聞かれ方を決定的に変えてしまったわけですね。「ナント」は父の死の前に会うことができなかったことを悔やむ歌ですが、その悔やみとは父と和解し父を許すということができなかったこと、とルウーは読みます。以来バルバラは父を許すということばかりを歌に盛り込んでいる、と言うのです。「黒いワシ」しかり、「リリー・パシオン」しかり。バルバラの歌を愛する人たちにはぜひ読んでいただきたい本です。



 その原稿の終わりは、バルバラの代表曲のひとつである "Ma plus belle histoire d'amour c'est vous"を、大統領選挙敗北の総括本のタイトルにしたセゴレーヌ・ロワイヤルへの非難の文章で締めました。これは、本当にバルバラに対するリスペクトに欠けた愚行だと思います。カストール爺もたまには怒りの文章も書きます。

2007年12月22日土曜日

今朝の爺の窓(冬至)



 2007年冬至、午前9時半のわが窓です。朝日が当たって、しなの木の梢の赤がとてもきれいです。零下の日が続いているので、芝地は霜で真っ白になっています。今冬はアルプスもピレネーもスキー・リゾート地は、地球温暖化どこ吹く風の、豊富な雪だそうで、観光業者たちはえびす顔です。たぶん近いうちにこの下界にも雪がやってくるでしょう。
 スタニスラスの『冬』(ヴィヴァルディ『四季』の"冬”をモチーフにした曲です)のサウンドが合いすぎる昨日今日の風景です。そう言えば爺が押し売り気味にスタニスラスのCDを送りつけたウールハットのまつやまさんも、おさななじみのれいこちゃんも、スタニスラスを称賛してくれたので、じわじわと日本にスタニスラス病が蔓延していくかもしれまっせん。楽しみ楽しみ。
 さて爺は今日・明日・明後日と原稿地獄です。24日夜には解放されたいです。Joyeux Noelのあいさつはその時に。

2007年12月18日火曜日

サンタが町にやってきた



 (←)こんな写真だとわからないでしょうかね...。
 この2月から8月にかけて,「わが人生で最も」とは言わないけれど,精神的にも肉体的にも金銭的にも極端にハードな日々を送っていたので,その頃は今年はクリスマスなんか来ないだろうと思っていました。9月になってほっと一息ついたので,その苦難の期間をずっと暖かく支えてくれた妻子にお礼がしたくて,世界最高のロック・コンサートをプレゼントしようと思ったのでした。チケット発売とほぼ同時にフナック・ドッココムにアクセスした甲斐があってかなり良い席が取れました。
 12月17日POSB(ベルシー室内総合運動場)外は零下の寒さです。中は中高年のものすごい熱気です。娘は自分と同じような歳の子供たちはもちろんのこと,いわゆる若い世代の人々がほとんどいないコンサート会場にやや不安を抱いておりました(これはジョニー・アリデイっぽいぞ,と)。タカコバー・ママはこの年齢層の観客であれば,最初から最後まで座って見れそう,とほっとしておりました。持ち込んだ双眼鏡でVIP席ゾーンを見てみて,ひょっとしてサルコジ&ブルーニも来ているのではと探してみましたが...。
 開演予定20時,実際の開始は20時40分。しかし23時近かった終了まで,ザ・ボスとその仲間たちは全知全能を使って私たちにヴァイブを放っていたのでありました。タカコバー・ママの予想は見事に外れて,第一曲め第一音から総立ちでした。そりゃ,そうだもの。ありがたや,ありがたや。世にもありがたいものがステージで大奮闘しているような図です。E・ストリート・バンド,ブルース・スプリングスティーン,恩寵の瞬間というのはこのことでしょう。これを見るだけでも生きていて良かったと思ってしまいました。娘は両腕を高く上げて踊って,わけもわからず歌詞を大声で唱和しているし,こんなことを普段しないタカコバー・ママが何度も私に抱きついてきました。ああ生きていて良かった。これを見たら,この瞬間を体験したら,また明日からも生きて行けるはずです。
 私たちにもクリスマスがやってきました。皆さんにもクリスマスがやってきますように。そしてザ・ボスは最後にこんなサンタ帽をかぶって『サンタが町にやってくる』をゴキゲンなロックンロールで歌ってくれました。私たちに世界最高のサンタクロースが降り立ってくれました。一体どういうやつなんだ,こいつは!

 

2007年12月17日月曜日

さびしい王様



 12月17日,毎朝のクセで起きるとラジオのスイッチを入れ国営ラジオFRANCE INFOのニュースが流れる。「大統領ニコラ・サルコジと歌手でマヌカンのカルラ・ブルーニが交際中」。えらく日本ぽいニュースだなあ,と思い,そういう夢を見ていたのかなあ,と思い出してみる。ベッドを起き出して,サロンに行くと国営テレビFRANCE 2のニュースが「ニコラ・サルコジとカルラ・ブルーニが15日土曜日にディズニーランド・パリでデート中のところを雑誌3誌が写真でとらえた」と言っている。
 Assez !!!
 もうこれ以上同じことをマスメディアが言ったら,爺は怒り狂うぞ。
 今朝は気温が零下で,外は霜で真っ白だ。きのうのニュースでホームレス支援団体「ドンキホーテの子供たち」が,去年のサン・マルタン運河での行動と同じように,ノートル・ダム寺院近くのセーヌ河岸にホームレスのテント村を開設しようとしたら,機動隊の出動で強制撤去させられた,きわめてヴァイオレントな映像を見せられたばかりだ。このホームレスたちはこの寒さをどうやってしのぐのか。そんな時に大統領はディズニーランド・パリで美人マヌカンと遊んで,そんなところをニヤニヤ笑ってピープル雑誌の表紙写真におさまっている。
 先週1週間,カダフィに翻弄され,「人権宣言発祥国」のメンツを泥だらけにされた国の大統領が,その翌日にディズニーランドで,美人マヌカンとにやにや笑って遊んでいて,サルコジの親友アルノー・ラガルデールがオーナーであるピープル雑誌パリ・マッチと,その傍系ピープル誌にヤラセで写真をとらせ,明けて月曜日の朝,フランスの全メディアがそのことしか言わないのだ。外は零下だと言うのに!

 一般誌L'Expressのサイトを見たら,「サルコジはフランスで最初のアメリカ大統領だから」と書かれていた。メディア工作,世論操作や世論はぐらかしに長けた策士であるから,というのである。セシリアとの離婚をサルコジはものの見事に逆利用し,「傷ついた男」のポーズを最前面に出すことで,国民の同情票を集めた。外遊の際にファーストレディ連れでないことはたいへんなハンディキャップであるというような論調を雑誌メディアに展開させた。
 大統領になる前まではプライバシーを書き立てられる度に烈火のごとく怒っていたサルコジが,大統領になったとたんプライバシーを露出して国民からの好感度とシンパシーを操作しようとしている。
 カルラ・ブルーニにはあきれる。もう少しインテリジェンスのある女性と思っていた。
 だが爺にはもうシナリオが読めている。サルコジの作戦である。
 数週間後サルコジはカルラ・ブルーニに振られることになっている。サルコジはまたそこで「傷ついた男」を演じることができ,その時の失政や国民からの批判を,そのセンチメンタル・ドラマで大目に見てもらえることになるのだ。
 自ら不幸を演じる男,作戦的に自ら振られる男になること,これを爺は「人工(じんこう)コキュ」と名付ける。

 若い頃に,爺よりずっと美男でスポーツ体型の優男であった親友がいて,当然ものすごくモテたのである。女の子たちが向こうから次々に寄ってくるタイプ。しかしそいつは遊ばずにしっかりと真剣に恋愛してしまう性格で,恋しては破れては泣き,また恋しては破れて泣き,ということをくり返していた。つまりそれでもっともっといい男になっていったのだけれど。実にいい奴だったのだ。しかし,恋に破れるサイクルはかなり早くて,数ヶ月から1年くらいで失恋していた。だがいい男なので次の女性は見つかるのだよ。私はそいつの恋人だった女性たちを4人ほど知っているが,驚いたことに,その4人が4人とも容姿がとてもよく似ているのだ。よくもまあ,こんな似たタイプとばかり恋愛ができるもんだ,と思ったが,同じようなタイプでないと愛せない,ということもあるのだろう。つまり理想型というのがすでに固まっているのかもしれない。
 今朝フランスのメディアでは,セシリア・サルコジとカルラ・ブルーニの相似性を強調するものも少なくなかった。だからどうだと言うのか。背の小さい男にはナポレオン伝説が似合う,とでも言うのか。外は零下だと言うのに。


 

2007年12月13日木曜日

クリムゾンとクローバー


トミー・ジェームスとザ・ションデルズ
『アンソロジー 1966/1970』
Tommy James And The Shondells "Anthologie 1966/1970"


 しょんでるず,しょんでるず,七つの海が,早く来いよとしょんでるず
                         (三田明『若い港』1964年)
 
トミー・ジェームスというのは目立たない名前でしょうね。どこにでもありそうです。若い人たちには玩具のトミーが出している「きかんしゃトーマス」のジェームスとしか思いつかないかもしれまっせん。
 1966年のことです。My baby does the hanky panky, my baby does the hanky panky, my baby does the hanky panky, my baby does the hanky panky...。英語を知らなくても誰でも覚えられる必殺リピート歌詞の「ハンキー・パンキー」が全米1位になります。これがデビューシングルだそうです。日本では明石家さんまがテレビ番組のテーマで使っているということで知られているようです。

 バンド名のShondellsは「トミー・ジェームスと小便小僧たち」という意味ではありまっせん。トミー少年のあこがれのギタリスト/歌手だったトロイ・ションデルにあやかってのものです。ギタリストの分際で"トロイ"という名前なのは,エリック・クラプトン異名スロー・ハンドと関連があるのか,などと考えてはいけません。トロイ・ションデルは61年に「ジス・タイムThis time」という一発ヒットを放っていて,この歌は漣健児の日本語詞がついて『涙のさようなら』(いったいどうやったら,こういう必殺の日本語タイトルが考えつくのでしょうか!)というタイトルで飯田久彦(愛称チャコ。現エイベックス・エンタテインメント取締役)が歌っていました。

 フランスのレコード復刻の鬼職人,マルシアル・マルチネイ(Magic Records/MAM Productions社長)によるトミー・ジェームスとザ・ションデルズの『精選集 1966/1970』であります。6枚のEP(4曲)シングルと11枚のドーナツ盤から厳選した24曲で,「ハンキー・パンキー」(1966)に始まり,「ふたりの世界 I think we're alone now」(67年。この曲は20年後の87年に当時15歳のティファニーちゃんがデビューシングルとして全米NO.1になります),「モニー・モニー」(68年。これも19年後の87年ビリー・アイドルが全米NO.1ヒットにしてしまいます),「クリムゾンとクローバー」(69年)といったシクスティーズ有名曲が並んでいます。
 マルチネイの解説には,「ハンキー・パンキー」が63年に録音されたのに66年までリリースされなかったことや,67年から68年にかけてバンドメンバーの総入れ替えがあったことが書かれています。トミー・ジェームスを除いては前後で顔ぶれが全員変わったということなんですが,それがバンドはヴォーカリストだけで持っているという証拠と勘違いして,バンドなんかなくたってと70年にトミー・ジェームス君はソロアーチストになるんですね。それが斜陽の始まりなんですが。
 モップ・バンドみたいな音から,バブルガムになって,さらに極端なサイケデリックに至って,最後にはソフト・ロックになってしまう4年間のように聞こえました。60年代後半の一通りのことがすべて詰まっているような凝縮度です。

 爺はと言えば,あの当時は中学生ですから,トミー・ジェームスとザ・ションデルズはレコードでは一枚も持っておらず,AMラジオでのみの記憶になります。全米で1位だったら,青森あたりの民放ラジオでも聞くことができた時代です。「ミュージックライフ」にも載ってましたし。日本でも「サイケ」と3文字で一般化されたPsychedelicなLSD幻覚アートが幅を利かせていた頃で,原色たくさんのカラフルな流れ水玉やペイズリー模様を「サイケ調」と言ってました。また音楽はファズ・ギターやワウワウ・ペダルやジェット・マシーンや電気シタールが入ってると「サイケ調」でした。中学生だった爺もかなり幻覚状態というのに興味があって,接着剤系の吸嗅遊びというのも経験がありましたが,どちらかと言えば1本の「新生」とか「ゴールデンバット」で簡単にトリップしてしまえる,お手軽アシッド小僧でした。レコード持ってませんでしたらAMラジオだけが頼りなんですけど,ラジオでこの曲が流れたらトリップ気分という歌が数曲あって,その代表がレモン・パイパーズ「グリーン・タンブリン」,アイアン・バタフライ「ガダダビダ」,トミー・ジェームス&ザ・ションデルズ「クリムゾンとクローバー」であったわけです。
 かくして40年後に「クリムゾンとクローバー」と再会ということなんですが,それまでにもナツメロ系のFM局では何回も聞いているので,格別の懐かしみというのはありませんでした。ところが驚いたのはこれはは5分以上の曲だった,ということで,私はラジオではおそらくこの長いヴァージョンは一度も聞いたことがないと思います。これすごいですね。この浮遊感というのはただのトリップ感覚ではないですね。

 たぶん(←)のオリジナルアルバムにはこのヴァージョンで入っているのかもしれません(絶対入手しなければなりません)。真っ赤な心臓(クリムゾン色でしょうか)と三つ葉のクローバーというシュールな出会いもよろしいですが,ギターが何種類も違う音で介入するのが非常に絵画的です。あの頃,ギターって何でもできたんですねえ。揺れ加減もいいですねえ。天使系のコーラスワークもいいですねえ。4分30秒頃にスクラッチ効果の切れ切れヴォーカルになって徐々にフェイドアウトしていきますが,昇天モードです。

<<< Track list >>>
1. HANKY PANKY
2. SAY I AM
3. LOT'S OF PRETTY GIRLS
4. GOOD LOVIN'
5. IT'S ONLY LOVE
6. YA! YA!
7. I THINK WE'RE ALONE NOW
8. DON'T LET MY LOVE PASS YOU BY
9. MIRAGE
10. I LIKE THE WAY
11. RUN RUN RUN
12. GETTIN' TOGETHER
13. OUT OF THE BLUE
14. LOVE'S CLOSIN' IN ON ME
15. MONY MONY
16. 1.2.3. AND I FEEL
17. SOMEBODY CARES
18. DO SOMETHING TO ME
19. CRIMSON AND CLOVER
20. SWEET CHERRY WINE
21. CRYSTAL BLUE PERSUASION
22. BALL OF FIRE
23. SHE
24. GOTTA GET BACK TO YOU

CD MAM PRODUCTIONS 3930648
フランスでのリリース:2007年11月27日

(↓)「クリムゾンとクローバー」5分32秒ヴァージョン(1969年)


(↓)トミー・ジェームス&ザ・ションデルズ「クリムゾンとクローバー」(1968年)いとも”サイケ”な動画クリップ3分25秒


(↓)1982年ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツによるカバー「クリムゾンとクローバー」。なんともキマリますなぁ、う〜ん。


(↓)2009年プリンスによるカバー「クリムゾン&クローバー」。別格の輝き。トロッグス「ワイルド・シングス」を間に挟む殿下のお遊び。

2007年12月10日月曜日

カダフィがパリに来た朝,セーヌに鵜を見た



 朝9時頃,パリ16区のルイ・ブレリオ河岸の下のセーヌ脇自動車道路(ヴォワ・ジョルジュ・ポンピドゥー)を運転しながら,車窓から右手を伸ばして録った写真です。まあ危険!と思われましょうが,今日からカダフィがパリに来るというので厳戒体制で,朝から渋滞がひどかったので,シャッターを押した時は車は停まっていたので危険はなかったのです。
 鵜です。フランス語ではCormoran(コルモラン),別名 Corbeau de mer(海のカラス)とも言われますが,カラス科ではなくペリカン科の鳥です。秋冬にセーヌに多く見ることができます。潜水しての魚取りの名人ですから,セーヌにもたくさん魚がいるということですね。
 向こう岸に若干緑の芝生が見えているのは15区のアンドレ・シトロエン公園(そうです自動車王の名前のついた公園です)で,青い球形のものはその公園から百メートル上空まで昇れる遊覧気球(ただし地上とワイヤーでつながっています)です。また河岸に停泊しているTHALASSA(タラサ)と書かれた船は,国営テレビFRANCE 3の超長寿番組「タラサ」(毎週金曜日夜9時,フランスと世界の海と船のできごとを紹介する2時間番組。素晴らしい。見るたびに海をいとおしく思うようになります。海洋国日本にどうしてこういう番組がないのだろうか。)を生放送しているスタジオ船です。
 鵜は魚を口に入れても咀嚼せずに,そのまま喉に落としてしまいます。これを称して「鵜呑み」と言います。転じて,人の言うことを考えもせずに信じてしまうことの意味になります。元国際テロ仕掛け人であったカダフィを,内外の大きな反対の声を聞かずに,国賓として招待したサルコジは,カダフィのリビアは大量殺戮兵器の開発生産を放棄し,人権問題でも大きく前進したのだから国際的パートナーとして受け入れたと言っていますが,誰がそれを鵜呑みにできますか。

2007年12月9日日曜日

ザ・リデンプション・ソング



 5年間の亡命生活にピリオドを打ち、ティケン・ジャー・ファコリーが故国コート・ディヴォワールに帰ってきました。国は今やまっ二つに引き裂かれ、ローラン・グバグボ大統領の政府に反対する北部の人々が武装蜂起して内戦となり、多くの犠牲者を出しながら、南北対立は解決されず、あたかも二つの国となっていがみ合いながら共存しているような状態です。ティケン・ジャーは北部出身者であり、北側の反政府蜂起を理解するとしながらも武力衝突に反対し、和平を訴え続けていました。国として南北は和解しなければならないというメッセージを歌ってきました。そのことでティケン・ジャーは北側からは親グバグボ派のように見られ、南(政府支持)側からは反政府主張のメッセンジャー歌手のように見られ、どちらからも脅迫を受け、ティケン・ジャーの友人たちが実際に暗殺されたり、投獄されたりしました。
 そこで彼はマリに逃れ、音楽活動はフランスを中心に行うようになったわけです。
 12月8日、アビジャンのパルク・デ・スポールに集まった3万人のファンの前で、ティケン・ジャーは故国で5年ぶりのコンサートを行いました。そして国民の和解を訴え、グバグボの名前も、ギヨーム・ソロ新首相(元反乱軍代表)の名前も、アラサン・ウワタラ(北部勢力のリーダー)の名前も、同じように大聴衆に喝采させました。そしてステージ上には、北部支持のアーチストたちと親グバグボ派のアーチストたちも登場させ、和解のセッションを行ってしまったのですね。
 このメガコンサートは同じセットで来週は北部勢力の中心地でコート・ディヴォワール第二の都市ブーアケで行われることになっています。
 これで本当にコート・ディヴォワールに平和が訪れてしまうかもしれません。信じられますか? − 信じたいです。それだけの力を持ったアーチストですから。

2007年12月7日金曜日

今朝の爺の窓(2007年12月)



 10月30日の写真と見比べてみてください。
 これは今朝9時半頃のわが窓です。日が一番短い季節で夜明けは8時45分くらいです。これから冬至まで短くなり続けます。
 プラタナス(スズカケの実がぶらぶら)もポプラも全部葉っぱが落ちて,セーヌが丸見えになりました。手前に見える緑色塗りの箱型住宅は,船に乗った船上住宅なのです。岸から白い橋が架かっているのが見えます。向こう岸に2艘停泊しているのは石炭運搬船です。
 10月の写真にはなかったのに,向こうの河岸壁に大胆な7文字のグラフィティーが見えます。
 このところ雨がよく降っていて,気温がやや高い(日中は10度を越す)ので,芝生は緑色です。梢が赤くなっている木立はティユール(しなの木)です。この赤がなかなかきれいで,次の萌えを待っている希望を感じさせます。
 次回は雪でまっしろになっている図をお見せしたいです。
 
 

2007年12月3日月曜日

老いるショック



 64歳であります。考えるでありましょうね。
 「ステージに立つために痛み止めの注射が必要になったら,決断せざるをえないだろうに」と法國転岩王ジョニー・アリディは2009年を最後にロードに出ることを止めると発表しました。オン・ザ・ロード・アゲイン,オン・ザ・ロード・アゲインとここまで続けてきましたが,毎晩違うホテルで袋ひとつ抱えてボロボロになって寝る生活はもう続けられない,とも言いました。「俺は75歳までブルースやロックンロールを歌うつもりはない」とも言いました。この辺が歳を重ねる毎に古いワインのように味を増していくミシシッピーやシカゴの黒人ブルースメンとは違うのですね,とアゴラヴォックス(www.agoravox.fr)は書いてます。ロックンロール・アティチュードは「三つ子の魂」ではなかったのですか,と涙に暮れる女性ファンがラジオ(RTL)で引退撤回を訴えていました。
 国民のヒーローは多くのロックンローラーのような「野垂れ死に」を選ばなかった、ということだと爺は理解します。ジョニー・アリディは枯れることをせずに、花のままで去りたい。50年近い現役ですから。自分を保つために、スポーツだけでないさまざまな「ブツ」を使用していることを否定しないジョニーです。限界は玄界灘、限界だな。おまえはだまって隠居してろ、と言われた人たちが急に復活して小銭をかせぐ今日このごろ、絶対に引退は許さないというファンたちが圧倒的に多いジョニー・アリデイは、死ぬまで歌い続けることを宿命としなければならないはずだったのに、昨日急に「俺にも安楽な老後を楽しむ権利はある」と日和ったわけです。おまえは真のロックンローラーじゃねえ!と言われたら、「はい、そうでございます」と答える開き直りができちゃったのですね。
 フランスはこの男を許すんですよ。ド・ゴールやミッテランを許したように、フランスはこの男を偉人として歴史に残すでしょう。これから先、なんぼアホなこと言うても、ジョニー・アリデイは終身国民歌手です。それはそれでたいへんな重荷でしょう。

2007年12月2日日曜日

ヴァンサン会



ヴァンサン・ドレルム『フェイヴァリット・ソングス』
Vincent Delerm "FAVOURITE SONGS"


 こういうのは年寄りのすることですね。
 お気に入りの歌をゲストとデュエットしてしまうやつです。フランソワーズ・アルディとかシルヴィー・ヴァルタンもやりましたし、ミッシェル・デルペッシュは自分のレパートリーだけでそれをやりました(一種のトリビュート・トゥー・ヒムセルフ)。一連の「心のレストラン」ものなんかそれしかないのですが、もはやナツメロ・レパートリー再生手段でしかないような感じです。
 というわけで通常ならば、そういう企画だけで爺は相手にしないようにするのでしたが...。このヴァンサン盤はなごみましたねえ。2006年の11月と12月にパリのラ・シガールでライヴ録音されたものです。歌ヘタがひとつの芸になっているドレルム唱法と誰がデュエットできるのか、という興味もありましたが、結果はすべてのデュエット相手をドレルム化してしまい、どんな歌を歌っても全音楽をドレルム化できるという征服者の趣きです。なんとも言えない浮遊感に、頭はホワ〜っとしてきます。
 ムスタキさんは最初と最後(ゴーストトラック)で出てきますが、ドレルムの直系の先駆者ってムスタキさんだったと、はっと気付いてしまいます。もうゆるい、ゆるい。たまんないですね。
 一番ガツーンと来るのは4曲めのバンジャマン・ビオレーの佳曲中の佳曲「ル・セール・ヴォラン」(凧凧上がれ、天まで上がれ)で、原曲どおり、マリリン・モンローの「帰らざる河」がウクレレひとつで裏声歌唱されて、そのあとでジャーンと盛り上がりの間奏が入るところがありまして、この間奏の前の数秒の静寂があって、そこではどうしようもなく客からクスクス笑いが入ってしまうのです。ここがどうにもドレルム的で、ギャグではないのにどうやってもクスクス笑いがこぼれてしまう、ドレルムのキャラクターの勝利と言いましょうか、ここでビオレーの大名曲は一挙にドレルム化されてしまったのです。
 ヴァレリー・ルメルシエとの「ル・クー・ド・ソレイユ」(日焼けと言うよりは太陽の一撃、リカルド・コッチャンテ/リシャール・コッシアントの大ヒット曲です)もよろしおまっせ。二人のふわふわ感で、この熱唱曲(オリジナルでは)がぶちこわしなんですが、極上ですね。
 ニール・ハノン(ディヴァイン・コメディー)は、本国よりもフランスで評価が高くて、フランスの軟弱ロマンティストたちのヒーローとなっていますが、やはり貫禄ものですね。曲はドレルムの前のスタジオ録音アルバムに入っていたドレルム/ピーター・ヴォン・プールの作品で、ハノンのフランス受けを皮肉ったような歌なんですが、ハノンはちゃんとその役を演じてしまうし。えらいっ!
 「ジュッセ、ジュッセ、アイ・ラヴ・ユー」というセリフ部分まで入れてしまって原曲に忠実に再現するアラン・スーションの"Y'a d'la rumba dans l'air"(ルンバなふんいき)だけは、スーションがシャンパーニュ飲みながら正装して歌うもんだから(ブックレット写真でそうなっているからそう想像しているのですが)、勢いでドレルムが負けてるところがあります。スーションというのはたいへんな役者ですことよ。
 そのあとでゴーストトラックの「三月の雨」(ジョビン、ジョビンと降る雨)でムスタキさん再登場です。Un pas, une pierre, un chemin qui chemine... というフランス語詞(ムスタキさんです)も軽やかに、ドレルム流サウダージが極まります。いやあ、よい夜をありがとう、という感慨にひたれます。

<<< トラックリスト >>>
1. Votre fille a vingt ans (avec GEORGES MOUSTAKI)
2. Cent ans (avec RENAUD & BENABAR)
3.L'ennemi dans la glace (avec ALAIN CHAMFORT)
4. Quoi (avec CALI)
5. Les cerfs-volants (avec BENJAMIN BIOLAY)
6. Desir desir (avec IRENE JACOB)
7.Poulet No 728120 (avec KATERINE)
8. C'etait bien (avec HELENA)
9. Les embellies de mai (avec FRANCK MONNET)
10. Favourite song (avec NEIL HANNON)
11. Le coup d'soleil (avec VALERIE LEMERCIER)
12. Marine (avec PETER VON POEHL)
13. Au pays des merveilles de Juliet (avec YVES SIMON)
14. Les gens qui doutent (avec JEANNE CHERHAL & ALBIN DE LA SIMONE)
15. Na na na (avec MATHIEU BOOGAERTS)
16. Y'a d'la rumba dans l'air (avec ALAIN SOUCHON)
(Ghost track) Les eaux de Mars (avec GEORGES MOUSTAKI)

VINCENT DELERM "FAVOURITE SONGS"
TOT OU TARD / CD 8345105752
フランスでのリリース 2007年11月19日