2011年4月30日土曜日

Elle a "L." a...



L. (Raphaële Lannadère) "INITIALE"
エル(ラファエル・ラナデール)『頭文字』


 テレラマ誌2011年4月16日の表紙を飾った女性歌手です。同誌シャンソン評担当のヴァレリー・ルウーは「この数十年で最も強烈なアルバム」と言い、1964年バルバラの自作自演歌手としての初のアルバム『バルバラ、バルバラを歌う』(「ナント」「ピエール」「サン・タマンの森」「死にあこがれて」...)に匹敵する力がある、とその評を閉じます。
 イニシャルひと文字のステージ名となると、どうしてもあの「-M-」の同類か亜流かと思われてしまうでしょう。私はこれは大変なハンディキャップだと思います。おまけにひと文字だと、インターネット検索でその「L」を特定するまでの労力と時間たるや、たいへんなものです。このことは本人もさんざん言われたでしょうが、頑固にもそのステージ名に拘ったのでしょう。「L」はさまざまな意味やイメージを持った文字であり、「エル」という読みも同様にさまざまなものを象徴します。思いつくまま列記しますと、「L」は長さ longueur であり、液体の量を示すリットル litreでもあります。大学入試の Bac L は文系のことで、「L」は文字(lettre)や文学(littérature)を指します。英語の「L」はlarge。「エル」は elle(三人称単数女性形=彼女)であり、aile(翼)にもなります。これらの多義性から考えても「L」はいい名前です。女性的で、液体的で、文学的で、飛行的で、大きく長い。
 「エル」は今30歳。その辿ってきた道も異例です。読書家で音楽狂の両親だったそうで、母親はラフェエルの妊娠中にバルバラとビリー・ホリデイをノン・ストップで聞いていた、と言います。羊水の中でその歌に揺られていたわけです。幼女時代、すでに祖母の家で自分のコンサートを催し、ジャック・ブレルの歌をソラで覚えていた、というのが家族の驚きだったそうです。生まれついてのように歌はラファエルに住み着き、民俗音楽学を学んだ彼女はポリフォニー合唱グループの一員として、「ワールド系」のツィガーヌ、コルシカ、ブルガリア、ゴスペルなどのポリフォニーのレパートリーを歌うようになります。2002年にラファエルは「L」というステージネームを掲げてソロ歌手としてデビューしますが、最初のコンサートはパリのステーキレストランの地下でした。苦節幾星霜、地下キャバレー、ピアノバー、彼女はその中で詞と曲を書き溜めていきます。もう6ヶ月して何も芽が出なかったら、私は止める、そう自分に言い続けて、彼女は歌の世界にしがみついてきました。 
2009年6月、レコード会社もマネージャーもない「L」は自主制作で6曲入りミニアルバム
"PREMIERES LETTRES"を録音します。そして自ら受話器を取って、「私は新人歌手"L"の広報担当です。ぜひこの歌手を聞いてみてください」とレコード会社とメディアに電話をかけまくったのでした。飛びついたのはローカルラジオ局と国営FMネットのFIP。これを聞いたブリジット・フォンテーヌが「私はラジオですごい新人歌手を聞いた、その名は"L"。」とインタヴューで語りました。噂は噂を呼び、どことも契約のないこの無名歌手は、「ブールジュの春」フェスティヴァルや「フランコフォリー」フェスティヴァルに呼ばれ、そのレパートリーはメジャー・デビューする前からスタンダード化するという、異例の受け入られ方を示します。
 そのスタンダード化した歌が"Petite"という鮮烈な歌でした。それはアフリカ出身の「不法滞在」の娼婦を、その常連客だった男が追っていく歌です。

 私の可愛い女、私の優しい女、
 私はおまえのすべてを記憶している
 その胸を焦げつかせる両のかかと
 そのうなじの香り
 その好みのままに
 舗道が照らし出す
 おまえの黒光りする肌と
 おまえの尻の曲線
      ("Petite")

 この歌を初めて聞いた時のショックを私も覚えています。この狂おしい愛を、「L」は湿度と乾度の両方が混じり合ったメランコリックな声で歌いきります。深夜のパリの色街にもある純愛を描く白黒の短編映画を見る思いで、聞く者は戦慄するはずです。一度聞いたら忘れられない歌の力があります。
 約2年の月日を経て、「バルバラの再来」というシャンソン愛好者たちの異例の讃辞を浴びながら、「L」のメジャー・デビューのフルアルバムはこの4月11日にリリースされました。私的な伴侶でもあるバビックス(BABX)も大変な才能を持ったアーチストです。私はバビックスの「エレクトロショック・レディーランド」は後世に残る佳曲であると自信を持って言うことができます。そのバビックスの繊細なアレンジ/プロデュースも「L」のデビューアルバムの大きなプラスだと思います。しかし、すべては「L」の官能的な声と黒々とした歌の世界と「L」そのものの存在感が圧倒的な11曲のアルバムです。アルコール、煙草、薬物(メスカリン)、色街、ゲットー(シャトー・ルージュ)... このエクリチュールは古き「悪き」パリです。聞く曲すべてが「古典」の重さがあります。希有です。

<<< トラックリスト >>>
1. Mes lèvres
2. Jalousie
3. Mon frère
4. Petite
5. Château Rouge
6. Pareil
7. Mescaline
8. Initiale
9. Je fume
10. Romance et série noire
11. Les corbeaux

L. "Initiale"
Tôt ou Tard CD 3238582
フランスでのリリース:2011年4月11日


オフィシャル・サイトwww.initiale-l.com

(↓)既にスタンダード。「L」の"Petite"。

L. - Petite par Europe1fr


 

2011年4月26日火曜日

フリー・アズ・ア・バード



Mathias Malzieu "METAMORPHOSE EN BORD DE CIEL"
マチアス・マルジウ『空の果てのメタモルフォーズ』


 マチアス・マルジウの3作めの小説です。表紙を見ての通り、前作同様、大人(あるいは大きな子供)向けのファンタジー童話という趣向です。2作めの『時計じかけの心臓』に関しては拙ブログの2008年1月14日付け記事で紹介しています。これは既にマルジウのバンド、ディオニゾスによる仮想サントラ(拙ブログ2008年1月15日付け記事で紹介)がありましたが、この新作小説にはまだサントラがありません。小説の中に登場する歌はジョニー・キャッシュが多く、マルジウの近年のジョニー・キャッシュ傾倒が窺えます。
 この2作めと3作めの間に、『時計じかけの心臓』の映画化(3Dアニメ)が決まり、リュック・ベッソンがプロデュースし、マチアス・マルジウの監督で制作され、2012年公開の予定でプロジェクトは進行中です。このおかげで、彼のバンド、ディオニゾスは休止を余儀なくされ、バベットは2枚めのソロアルバム『ピアノ怪獣』(拙ブログ2010年11月13日の記事で紹介)を発表し、他のメンバーの一部もコルレオーヌCorléone)というバンド名でアルバムを出して、ディオニゾス復帰までの息継ぎをしています。
 この小説もまた映画のおかげでディオニゾスで活動できないマチアス・マルジウの「息継ぎ」でもあり、彼自身もロック・アーチストとしてステージに立てないフラストレーションをこの小説で晴している部分があります。ライヴでは小柄でまさにピーターパンのようにステージせましと飛び回るマルジウには、この興奮を長い間経験していないことは大変な渇きであるわけです。この小説のキーワードのひとつは「アドレナリン」です。一種のアドレナリン欠乏症と言える現状のマルジウは、この小説の主人公に「アドレナリン出まくり」状態を実現するためなら何でもする空中落下スタントマンを持ってきます。しかも「世界一ドジなスタントマン」なのです。
 トム・クラウドマン(Tom Cloudman)は幼い頃から空を飛ぶことを夢見ていて、手製の翼ではばたいてみたり、自転車に羽根をつけて坂を急降下したり、強風の日に蝙蝠傘を持って屋根から飛び降りたり、という、普通に考えつくあらゆることをやって失敗しますが、その何度も失敗して地面に叩き付けられる前の一瞬の浮遊時間に激しいアドレナリン分泌を覚えます。失敗することは全然恐くない。こうして彼は職業として「空中落下見せ物芸人」になり、サーカステントの最上段からバケツめがけて落ちたり、屋根から屋根に飛び移るのに失敗して広場に墜落する芸で人気を集めます。人々はこれをエンターテインメントとして見て、その失敗を笑って拍手するのですが、実は本人は本当に失敗していて、毎回全身打撲でボロボロになってしまうのです。それでもかまわない。この一瞬でも「飛んでいる」時のアドレナリンが一種のドラッグ効果を持って、彼にこの芸を続けさせ、いつかは本当に空を飛べるようになると信じているのです。
 ところがトムを病魔が襲います。これを作者は"La betterave"(ラ・ベトラーヴ。甜菜。ビート大根)を名付け,赤いぶよぶよした塊が体の中のあらゆるところを襲っていくイメージで描きます。実際のベトラーヴは(→)こんな形状ですが,確かに血腫とイメージが重なります。この腫れ物が体中に増殖して臓器や神経を攻撃します。すなわちこの甜菜大根型の怪物はガンのメタファーですが、この怪物にとって、空中落下芸人という職業で言わば自虐的に体をぐしゃぐしゃにしてしまったトムの体は、既に咀嚼されてある食物のようにおいしく食べやすいのです。
 収容された病院では、セクシーなガン科女医クエルヴォと肝っ玉看護婦のポーリーヌの制止を聞かずにやんちゃを繰返し、あらゆる病室の羽枕から羽根を抜き取って、自分の飛行芸のコスチュームを作り、病院廊下で飛行(落下)パフォーマンスを展開します。ステージ名「トム・メガトン・クラウドマン」の大ファンで、トムをヒーローと崇める白血病の少年ヴィクトールは、重い治療のために卵型の頭ばかり大きく見えますが、トムを心の支えにして闘病生活を送っています。しかしトムへのベトラーヴの浸食攻撃は激化し、病状は悪化していきます。
 病棟の夜の彷徨の果てに、トムは非常螺旋階段のてっぺんにある鉄扉を押し開けると、病院の屋上と思われたそこはなんと雲の上の鳥の国でした。そこにはエンドルフィンと名乗る、赤い羽根に覆われた半分鳥で半分人間の女がいました。(一般名詞の「エンドルフィン」は脳内モルヒネなどとも言われ、脳内で機能する神経伝達物質のひとつで、多幸感をもたらす、とされます。)この「半鳥女」をマルジウは、"femmoiselle"(ファモワゼル)というきれいな造語で綴りますが、femme (女)と oiselle(雌鳥)の合成語であり、後半の方は demoiselle(少女、未婚女性)のニュアンスも含まれましょう。「鳥嬢」とでも訳語をあてたくなります。エンドルフィンは昼は人間の姿を持ち、夜にファモワゼルとなる二重の生を生きています。彼女の一族の起源は18世紀の科学者で、古典詩や神話に現れる半人半獣を「愛」による突然変異で実現してしまったのです。しかし半人半獣族はこの世に隠れて生きることを余儀なくされ、地球上で数えるほどの人口(この言い方おかしいですね)しかいませんが、各人は(この言い方もおかしいですね)はこの種を絶やさず後世に残すことが使命となっているのです。エンドルフィンはトムに取引きを申し出ます。「あなたの病いを直し、あなたの空を飛びたい夢を実現させてあげる代わりに、あなたは私に子種を提供する」。トムはそれに二つ返事で同意するのですが、その代償の大きさを知らなかったのです。
 ここには愛があります。トムはこの半鳥女を電撃的に愛し、その世界に属する者になりたいと欲します。そのためならば死んでもいい、と。陳腐な歌の文句のようなこのことです:「愛のためなら死んでもいい」。この小説ではそれがマルジウ一流の想像力で、ある種ルイス・キャロル的な想像力で、トムの望むすべてを実現させてしまうのです。その代償にトムは「人間としての死」を受け入れるのです。
 ガン転移は進行し、トムの人間としての肉体はどんどん破壊されていきますが、トムの体は体毛に代わって羽毛に覆われるようになります。首を前後に振って歩くようになり、猫を怖がるようになります。メタモルフォーズ(変態)は死と同じスピードでトムの中で進んでいき、体はどんどん小さくなっていきます。
 この小説で最もエモーショナルなパッセージはエンドルフィンがトムに鳥としての飛行術を教えるところです。それはトムの積年の夢が果たされる瞬間でもあり、愛する女性の属する世界へのデビューでもあります。そのダブルの夢の出来事のクライマックスに、エンドルフィンはこう言うのです:「私、妊娠したわ!」。俺はパパになった。この喜びは文字通り天にも昇る思いなのです。そしてこのパパは生まれて来る子の前に「俺がパパだよ」と現れることが出来ない、という運命を引き受けてしまったのです。
 実はエンドルフィンの昼の「人間の姿」であったのは、ガン科女医クエルヴォでした。エンドルフィン=クエルヴォは、ドジな見せ物芸人だった頃からトムに目星をつけていて、自分たちの種族を後世に残す協力者の候補として「愛の視線」を送っていたのでした。クエルヴォ、ポーリーヌ、ヴィクトール等に見守られて、トムの変態は最終段階となり、体が鳥のサイズになると同時に脳も比例した大きさになり、言語機能を失い、人間トムは死に、鳥のトムは空に飛び立って行きます。より正確にはトムは空のひとかけらに変身してしまうのです。小説の原題の"Métamorphose en bord de ciel"とは「空の淵に変身する」ことなのです。...その数ヶ月後、エンドルフィンは男児を出産します。

 2作めでティム・バートン映画のような冒険奇譚ファンタジーを書いたマルジウは、この3作めでは同じようなファンタジー文体を使いながら、「愛」「死」「再生」をじっと見つめているような小説を書きました。飛行や病気や薬物はすべてメタファーとして登場し、ポップ・ミュージックのクリエーターらしいポップな表現は前作とは変わらないのに、「死」を受け入れる青年の描写は戦慄的です。マチアス・マルジウはアンファン・テリブルという言葉が似合いすぎる表現者、と私は再確認しました。

MATHIAS MALZIEU "METAMORPHOSE EN BORD DE CIEL"
ISBN : 978-2-0812-4906-6
(2011年3月FLAMMARION刊。160頁。17ユーロ)


(↓オフィシャルサイト)
www.metamorphoseenborddeciel.com/ 

(↓2011年3月、パリ、テアトル・デュ・ルナールで開かれた『空の果てのメタモルフォーズ』出版記念パーティーの動画)

2011年4月22日金曜日

てぇえんだ!てぇえんだ!


 『セルジュ・ゲンズブール庭園』は、その歌「リラの門の切符きり」(Le poinçonneur des Lilas)に因んで、パリ19区と20区とセーヌ・サン・ドニ県レ・リラ市の境界にある「リラの門」(Porte des Lilas)に作られました。これは19世紀にパリ防御のために作られた環状城壁に設けられた17の門のひとつでしたが、第一次大戦後に城壁は取り壊され、1973年からは城壁跡にパリ市をぐるりと囲む環状自動車道「ペリフェリック」の出口のひとつとなっています。ゲンズブールの歌に出てくる地下鉄ポルト・デ・リラ駅は、1921年に地下鉄3号線の駅として開設され、1935年には11号線も通り、両線の乗り換え駅としても機能します。
 21世紀になって、騒音防止のためにポルト・デ・リラ地区を通る環状自動車道ペリフェリックに屋根をかけてトンネル化してしまいました。そのトンネルの屋根の上に造園されたのが、このセルジュ・ゲンズブール庭園です。つまり元々土地があったところではなく、自動車道トンネルの上に盛り土して作られたものです。これをテレラマ誌はレ・リラとパリの間の「ノーマンズ・ランド」と表現しています。
 ペリフェリックというものがこんなに面積のあるものなのか、と驚くほどの広い空間です(1.4ヘクタール)。芝生も歩道も植え込みも中央部は幾何学的な線引きですが、周囲は自然を模した植物と樹木が混在し、池や橋もあります。連続性がないところがポストモダンでしょうか。子供たちのための遊戯グラウンドやバスケットボール・コートもあります。ベンチの他に日光浴用の木製サンデッキもあります。 
 私が行ったのが木曜日の夕方(午後7時頃)だったせいか、それともできたばかりで人が知らないせいか、人はまばらでした。初夏を想わせる気温25度の好天でも、こんな閑散とした状態なのはちょっと意外。土曜日曜はどんな状態なのでしょうか。
 私が写真撮っていたら、仲間たちと遊んでいたひとりの少女が近づいてきて「あんたツーリスト?」と聞いてきました。「いや、私はゲンズブールのファンなんだよ」と答えると、誰それ?っていう顔されました。そんなもんかもしれませんね。
 土地柄、遊んでる子たちは19区っ子/20区っ子と郊外っ子で、色さまざまで元気です。散歩や日光浴してる大人たちも色さまざまですね。Couleur Café なんて歌が頭をよぎりました。
 この先,ここに名画座映画館が加わるそうです。そう言えばルネ・クレールの1957年の映画に『リラの門』(ピエール・ブラッスール主演)という作品があり、ジョルジュ・ブラッサンスがアナーキスト歌手役で準主役になってました。それに合わせて小ジャレたカフェ・スタンドなんかもできるんでしょうか。あんまりソフィスティケートされてほしくないですね。
 今の季節なので、こんな風に、その名の通り、リラの白い花も咲いてたりします。

LE JARDIN SERGE GAINSBOURG
Paysagiste : FRANCK MATHE
Porte des Lilas 75019 Paris

 

2011年4月20日水曜日

闘うスカイロック



 スカイロックというFM局は私はほとんど聞きません。娘はラップにそれほど食指をのばさないということと,音楽をFMよりもインターネットで摂取する世代に属するので、これまたスカイロックを聞きません。娘が最も聞いているFM局はアドFMです。
 その看板"Le premier sur le Rap"(ラップのトップ・ステーション)がうたうように、このラジオ局は1996年から大きく方向転換して、それまでのFMポップス・ステーションから脱皮して,他の局が見向きもしなかったラップ,ヒップホップ,R&B(しかもほとんどがフランス”郊外”産)をプログラムのメインにすることによって他局と差別化して成功を収めました。鮮やかな成功です。
 ざっと歴史を紹介します。81年にFM電波が自由化され,全国で何百と生まれた自由FM局が84年に商業広告が許可になることで,多額のコマーシャル収入を得られる局だけが生き残るというFMビジネスの時代に移ります。自由ラジオ局La Voix du Lézard(ラ・ヴォワ・デュ・レザール。トカゲの声)は1983年に生れ,創業者はピエール・ベランジェ(1958 - ),学生の時から海賊放送/自由放送を積極的に用いるエコロジスト運動家だった人です。スローガンは「一歩進んだ電波 Une longueur d'onde d'avance」で,音楽的傾向はロック,ニュー・ウェイヴ,そしてまだそう呼ばれていなかった頃のワールド・ミュージック。このFMが一番面白かった頃,言わば第一次FM世代にベランジェは属するわけですが,FM商業化に伴い,ベランジェのパートナーとして,60年代イエイエ時代の旗頭番組「サリュー・レ・コパン」を制作していたダニエル・フィリパキとフランク・テノが加わり,往年の民放のコマーシャルのノウハウを使って,FM生存競争に勝ち残っていきます。1986年,ラ・ヴォワ・デュ・レザールは社名を「スカイロック」に変更,若い年齢層(15-25歳)に圧倒的に人気の高かったNRJ(エネールジー)の対抗馬として,若者FMステーションに変身します。
 FM業界にも音楽業界にも幸福な10年(1986-1996)が過ぎます。メガストアが次々に誕生し,メガコンサートが全国津々浦々で催され,メガヒット曲がたくさん生まれた10年でした。そして第一次FM世代は歳を取り,少年少女の好む音楽についていけず,成熟した音楽や懐メロに好みを変えていきます。そういうアッパー世代やミドル世代向けのFMネットであるシェリーFM,RFM,ウーロップ 2(現ヴァージン・ラジオ),ノスタルジーなども聴取率を確実にかせぎます。しかし,われらがスカイロックは96年に老いることを拒否して,NRJがあまりにも粗野で,凶暴で,反道徳的であるという理由で敬遠してきたラップを大胆に導入することで,次世代の15-25歳代のリスナーを勝ち取ったのでした。96年,若者たちが聞く3大FMネットは,NRJ(ポップ),スカイロック(ラップ,ヒップホップ,R&B),ファン・ラジオ(ダンスミュージック)となったのでした。
 こうして成功したFMネットは巨大企業化してメディアに派手に露出していきますが,冬の時代は突然やってきます。スカイロックは15-25歳層をターゲットとしているため、広告クライアントが限られています。インターネットという若者たちに急激に浸透してしまった媒体は、そのクライアントをどんどん奪っていき、広告収入が減少します。そこでスカイロックは自らがインターネットプロヴァイダーとなり、ヨーロッパ最大規模の無料ブログ提供スペースとして伸長します。私の娘が5年前に初めて作ったブログもスカイロック・ブログでした。そのブログスペースに広告を流し込んでいくことで、ラジオの広告収入減を補っていくわけですが、同社広告収入はいつしかラジオ5割/インターネット5割にまでなり、インターネット様々という態でした。しかし、その若者たちをソーシャル・ネットワーク(フェイスブック、ツイッター)がごっそりさらっていくのです。この激変は2010年から顕著で、テレラマ誌の数字によると同社の広告収入利益は2009年で8.2百万ユーロ、それが2010年には2.5百万ユーロにまで落ち込みます。

 4月12日、いつもと変わらず平常プログラムでオン・エアーを続けていたスカイロックのスタッフは、その放送のさなかに通信社AFPの短信で、社長ピエール・ベランジェが解任されたことを知ります。同社の7割の株を保有するホールディング会社Axa Private Equityによって、創業者にして3割の株保持者であるピエール・ベランジェは社長の座を追われ、新社長による(リストラを含む)合理化が始まる、と報道は伝えます。
 スカイロックのスタジオは、たちまちにしてレジスタンスのバリケードと化します。DJパーソナリティーはリスナーに向かって「きみたちの好きなスカイロックを守れ!」と訴えます。「スカイロックの死はラップの死に等しい、ラップの死は自由の死だ」などと飛躍したことも言うわけですが、これを聞いた若者たちは大挙してパリ2区のスカイロック社前に集まってきて、大きなデモになってしまったのです。
 放送では即座に届けられたたくさんのアーチストたちの連帯のメッセージが紹介され、電話ダイヤルインでスポーツ界のスターたち、芸能人たち、知識人たちがダイレクトに支援メッセージを言います。短時間でこれは大きな抵抗ムーヴメントとなってしまったのです。

 株主様たちはご存知なかったのです。ラジオとは何なのかを。株主たちはどの企業も皆同じで、利益が出なければトップを変えたり、リストラしたりということを自分たちが決められると思っていたでしょう。ところがラジオには「口」があり、大衆はラジオの側につくのです。スカイロックというのはただのラジオではない。ピエール・ベランジェという海賊放送や自由FMの時代からラジオ界のど真ん中にいた老戦士が率いるラジオです。ピエール・ベランジェこそスカイロックの「魂」そのものであるわけです。スタッフはそういう社長に惚れて、一緒にこのラジオを作ってきた人たちばかりなのです。だから若い時のベランジェと同じように、ラジオを使っての抵抗ゲリラ戦などお手のものなのです。
 そして当のピエール・ベランジェはスタッフに守られながら、スカイロック社長室に籠城しています。7割の株を持つホールディング会社Axa Private Equityから、株を買い取るための工作をしていると言われます。
 ウィキペディアの記述では4月12日から13日にかけて、全世界のツィッターで最もツィットされた言葉は "Skyrock"だったそうです。そしてフェイスブック上ではDéfendons la liberté de Skyrock(スカイロックの自由を守ろう)ページが創設され、4日間で50万人がその「ヴァーチャル抗議デモ」に参加したのでした。
 そして4月30日(土)にはパリのナシオン広場(歴史的には1963年にジョニー・アリディやシルヴィー・ヴァルタン等によるフランス最初のロック・フェスティヴァルが開かれた場所です)で、午後2時から真夜中までスカイロック支援メガコンサート(無料)が組まれています。
 この「自由 Liberté」という言葉、強いですよね。人の心を動かしますよね。たかだか一民間企業の経営紛争が、どうしてフランスの若者たち全体の「自由」に関わる問題にまで膨れ上がるのか? − 私は、これがラジオさ、と思って喝采しています。ラジオにはまだこれができるパワーがあるのです。あらゆるラジオがこういうパワーを取り戻して欲しいです。がんばれ、スカイロック!

(↓コロネル・レイエルのヒット曲のスカイロック支援の替え歌。バックにスカイロック闘争を伝えるニュース画像のコラージュ。ピエール・ベランジェの姿も見える)

2011年4月13日水曜日

ボーイ,リスン・トゥー・ミー ケアフリ〜...

La Talvera "Cançons Pebradas" ラ・タルヴェーロ 『カンソン・ペブラダ(みだ〜らな歌)』  天空の城ラピュータを想わせる町コルド・シュル・シエル(ミディ・ピレネー地方,タルン県)にあるオクシタニア文化振興団体コルダエは,35年前から南仏の民衆の間に消えずに残っているオック語民謡や民話を採譜/採録して,書物やレコード・CDとして発表しています。その代表のダニエル・ロッドーはオクシタニア・オリジンではなく,イタリアのサルデーニャ島から亡命してきた反ファシスト闘士の子で,自分たちを迎えてくれた優しいオクシタニアの地に文化的恩返しをしているような部分がありますが,ロッドーの地道な採譜活動などの成果である出版物に,それまでの学術的で権威的なオクシタニア文化のオーソリティーたちの中には,よそ者にかき回されてたまるか,と露骨にコルダエの活動を白眼視する者もいます。  ことは1994年にコルダエが出版した『ラコーヌ山地地方の民話選集』の中に挿入された一連のエロティックな艶笑民話に対して,某高名なるオクシタン文化研究家が,烈火のごとく激怒して,高貴なるオクシタニア文学の伝統を貶めるとは何ごとか,という内容の抗議文をロッドーに送ったことに始まります。その手紙には,問題の本が同封されて,その問題の部分の頁を研究家氏がハサミで切り取り,その代わりに彼の家族への手紙の写しが添えられ「われらが子孫がこのページを絶対に目にすることがないように」と書かれていました。この頑迷なる研究者氏の検閲・発禁要求をロッドーたちは大笑いして受取り,コルダエの建物の中にある小さなオクシタニア文化ミュージアムで,この手紙と切り刻まれた本をガラスケースの中に入れて展示してあります。  そういうことだったら,もっとやらにゃあいかんなあ,と思うのがロッドーでして,今度は十数年の時間をかけて,オクシタニアに伝承された民謡の中の春歌・艶歌,それをもとにロッドーが補作詞した歌,そしてロッドーの創作のエロティック民謡を全部で21曲入れたラ・タルヴェーロのアルバムを作りました。  いつもラ・タルヴェーロのアルバムでは,野生の小鳥のようなヴォーカルを聞かせるセリーヌ・リカール(ダニエル・ロッドー夫人)が、このアルバムではみだ〜らな声で歌っているかというと、そういうことはありまっせん。6曲めで、控えめに女性の恍惚スーハー呼吸が挿入されるのを唯一の例外としますと、ラ・タルヴェーロ独特の田舎アトモスフィア(動物や鳥の声、牧場、農場の音...)とフォークダンスビートに合わせて、セリーヌとダニエルがコミカルに田園的性風俗を歌っているものがほとんどです。というわけで、このオック語歌詞をだれかが逐一日本語にするという仕事をしないと、日本の人たちには一体このアルバムのどこが面白いのかはわかりっこない、というハンディキャップがあります。  古今東西、この種の歌というのは、人前で言えないような内容を露骨な言葉を避けて、誰にもわかる別の言葉を使ったり、誰にもわかる別の物をメタファーとして用いたりして、誰にでもわかる仕方で歌うものですから、聞く人たちの爆笑や下卑た笑いを誘うようにできています。フランスの田舎にはそういうメタファーになるものが、たくさんあるじゃないですか。腸詰、蜜壷、アスパラガス、鳥巣、イチジク、胡瓜、イガグリ、ふいご...。フランス深部では山と積まれた干し草の中、背の高い草むらの中、村の教会の告解室の中で何が起こっているのか子供たちはみんな知っているです。
 吊り橋を渡る途中で足を滑らせ  娘は川に落ちちゃって  ペチコートはべしょべしょ  小川に沿ってきた通りすがりの3人の猟師  野うさぎを射止めたと思ったら  射止めたのは小娘だった  その射ったタマは鉛の弾じゃない  その射ったタマは娘を小躍りさせる生の身  ズボンの前を膨らませる生の身  娘は母親に言う「大きなネズミだったよ」  私の脚の間に入ってきた大きなネズミは  なにか白いものを口から吐き出すのよ  その長いモノは3つの部分からなり  赤い頭、太い首、そして長いひげ  まるでりっぱな軍人さん       (11曲め「吊り橋」)  トゥーロンに行く途中  ボーケールの町を通っていったら  魚屋の娘に出会ったよ  おいらはしたいことさせてくれるかい?って聞いたら  娘は「父ちゃんと母ちゃんに聞いとくれ」と答える  父ちゃんは「ちゃんとできるんだったらね」と答える  母ちゃんは「少しだったらね」と答える  それでおいらは3回おさわりをしたんだが  娘はそんなもんじゃ足りないって言う  それでおいらはちゃんと靴を脱いで  もう一戦したんだ  「もしもそれでも足りないって言うんなら   店に取れ立てのボラがありまっせ!」        (4曲め「トゥーロンに行く途中」)
   こうやって全部訳してくれる人がいないと、日本の子供たちは楽しめないでしょうが、爺のブログでは「ほんのさわり」(いろんな意味でね)だけを。  なお9曲めに入っている「俺のベリンバウ」(草原で全裸で日光浴しているお嬢さんに、俺のベリンバウを出して弾いたら踊ってくれたんだけど、途中でベリンバウが折れてしまって、それをお嬢さんが手でいろいろしてくれて直してくれる、という意味深な歌。ダニエル・ロッドーのオリジナル)は、2007年のラ・タルヴェーロのアルバム『ブラマディス』の8曲めに入っている「俺のベリンバウ」と全く同じヴァージョンです。ちょっと手抜きじゃないですかね。 <<< トラックリスト >>> 1. LO CANARI カナリヤ 2. LO MENAL 手回し軸 3. LO FAUDAL DE CUER 革のエプロン 4. EN ANGUENT A TOLON トゥーロンへ行く途中 5. GARA GRA QUE LO TABAT タバコにご注意 6. LO CONILH 子猫 7. DIGA JOANTOL ジョアン坊や 8. QUAND ISABELETA VA AL JARDIN イザベレータが庭に行く時 9. MON BERIMBAU 俺のベリンバウ 10. AQUO FA BEN なんて気持ちいい 11. LA PLANQUETA 吊り橋 12. LA MARGOTON ラ・マルゴトン 13. LA SARRAMINGUETA サラマンゲータの城 14. LO BRAVE VESIN 健気な隣人 15. RAIMON レーモン 16. BATUCADA CALHOLA みだ〜らなバツカーダ 17. BORREIAS ブーレ 18. LO BARATIER PREN SA DALHA 鎌を取る小作人 19. LA VOLIAI BIQUI 俺は彼女をむしりたい 20. LA RASCLETA 熊手 21. LO PERDIGAL やまうずら 22. AQUESTE SER 今晩 LA TALVERA "CANÇONS PEBRADAS" CD CORDAE TAL16 / L'AUTRE DISTRIBUTION AD1865C フランスでのリリース 2011年5月25日 前作『ソパック・エ・パタック』(2009年)のレヴューはこちら (↓2009年ラ・タルヴェーロの30周年をルポルタージュするフランス国営テレビFRANCE3のオック語版ニュース。Oh la la...こんなヴィデオ知らなかったですよ。すごい、クロード・シクルやアンドレ・マンヴィエルとの共演シーンも入ってますね。タトゥー、マニュ・テロンも生身で登場してオック語でしゃべっています。セリーヌ・リカールはいつ見ても妊娠していそうな、大地のお母さん)

2011年4月12日火曜日

アヨーリ! みんな達者でなにょーり!

MASSILIA SOUND SYSTEM "LIVE E LIBERTAT" マッシリア・サウンド・システム 『ライヴ&リベルタ』  マッシリア・サウンド・システムの新ライヴ盤はDVD+CDというフォーマットです。DVDが『ライヴ&リベルタ』と題され,2008年7月30日,カルパントラ(PACA地方,ヴォークルーズ県)でのライヴ映像です。CDが『いたるところにワイをぶちまけろ』と題された1996年にマルセイユ,ピュイラギャルド(ミディ=ピレネー地方,タルヌ・エ・ガロンヌ県),アルル(PACA地方,ブッシュ・デュ・ローヌ県)の三つの町で収録されたライヴを編集した16トラックCDです。題名から見てもわかる通り,メインは2008年DVDで,1996年CDはボーナス扱いです。  3つ開きのディジスリーヴ装のパッケージングの両翼を開くと,真ん中にリュックス・Bの顔があり,「マルセイユの道化師,リュックス・B(1961-2008)の記念に」と献辞がプロヴァンサル語で書いてあります。  右の袖に入ったCDにはリュックス・ボテがMCとしてクレジットされ,左の袖に入ったDVDにはそれがありません。2007年のスタジオアルバム『ワイ&リベルタ』(日本題『ワイと自由』)の録音の頃にリュックスは病床にあって録音に参加できず,2008年7月18日に亡くなったので,このDVDのコンサート(7月30日)はその直後のものになります。お弔いライヴです。  DVD『ライヴ&リベルタ』は,それまでバラバラにサイドプロジェクト(パペー・J&ソレイFX,ワイスター,ムッスー・T&レイ・ジューヴェン)で忙しかったマッシリアの3人(本来ならば4人のはずだった)のMCが再びガッチリ組んで作ったスタジオアルバム『ワイ&リベルタ』のレパートリーでのコンサートライヴです。バンド登場前に場内にワイスターの2006年アルバム『ルールドへ行け!』の中の1曲"Les Fracas de la Plaine"(ヴォーカル:リュックス・B)が流れ,それを神妙に聞いたあとでムッスー・T,ジャリ・パペ・J,ガリのMC3人がステージに駆け上がり,"Massilia Fai Avans"(マッシリア前進せよ)でコンサートがスタートします。  アルバム『ワイ&リベルタ』の曲順に沿って進行する(例外はタイトル曲でタトゥー作の「ワイ&リベルタ」で、ショー後半の盛り上がり部分に待ち受けています)ライヴは私がパリのバタクランで見たものと同じですが,パリでするのと「南」でするのでは,こんなに違うものか,と思わせるいい感じのバイヴレーションです。サイドプロジェクトではあまり目立つことがなかったジャリ・パペー・Jが,マッシリアでは声量にしてもMCにしても一番目立って元気,ということがひとつ,逆にサイドプロジェクトで最も成功しているタトゥー・ムッスー・Tが,マッシリアでは控えめになってしまう,という2点がこのDVDでははっきり見えます。DJカヤリックのターンテーブルも見せ場あり,ブルーのギターはスタジオ盤の千倍は良く鳴ります。私は『ワイ&リベルタ』の解説で,それらを見事にまとめているのはジャリとタトゥーというカリスマに挟まれた若いガリ・グレウの度量ではないか,と書きましたが、このDVDでも良い立ち回りが印象的です。  ボーナスの1996年ライヴCD『いたるところにワイをぶちまけろ On met le Oaï partout』は未発表のものではなく、こういうジャケットで1996年にリリースされていたものですが、長い間廃盤になっていて、コレクター市場では30ユーロぐらいの値段で流通しているものです。サードアルバム『コマンド・ファダ』(1995年)の直後のライヴで、4人MC(ジャリ、タトゥー、リュックス、ガリ)にDJゴアタリ(ターンテーブル)とジャンヴィエ(キーボード)というフォーメーションです。なんとも若々しい。みんな30歳代で、ガリに至ってはまだ29歳だった頃ですから。「ラガ・バレティ」(マッシリアが作った言葉で、ラガマフィンによるオクシタン・ダンスパーティ)花盛りの時代で、忘れ去られたオック語/プロヴァンサル語が南仏地方の若者文化の中にぐぐ〜っと再導入されていったのは、こういう機会にマッシリアの歌やMCで若者たちが「自分たちの言葉」を取り戻したからなんでしょう。陽気でポジティヴでリズムに乗ったミリタンティスム、それを教えてくれたのはボブ・マーリーさ、とタトゥーは言うのです。マッシリアはこの地方の子たちに「アヨーリ!」というあいさつ言葉を定着させ、ポジティヴにマルセイユとその周辺を夢のオクシタニアに近づけていく、そういう元気が漲っていた時期ですね。今はどうか、と言いますと、マッシリア・サウンド・システム(1984年結成)活動歴27年、それなりに老いましたが、達者でなにょーり、新スタジオアルバムでそろそろ帰ってくる頃ではないでしょうか? <<< トラックリスト >>> DVD "LIVE E LIBERTAT" 1. LUX B 2. MASSILIA FAI AVVANS 3. RENDEZ-VOUS A MARSEILLE 4. DE LONGUE 5. TOUJOURS (ET TOUJOURS) 6. LO MICRO ES ROMPUT 7. OAI E LIBERTAT 8. AU MARCHE DU SOLEIL 9. A L'AGONIE 10. DIMANCHE AUX GOUDES 11. LAISSA NOS PASSAR CD "ON MET LE OAI PARTOUT" 1. CA PART DE LA... 2. COMMANDO FADA 3. LO REGGAE ES MON COMPANH 4. CHOURMO ! 5. CONNAIS-TU CES MECS? / MISE EN EXAMEN 6. DEGUN NI PERSONNE 7. BUS DE NUIT 8. LA MAIRE E LA FILHA 9. VIVE LE P.I.I.M. 10. GES D'EMBROLHA 11. M'EN FOTI 12. REGGAE FADOLI 13. LE SON DES RAGGAS / QUAND LE SOUND EST BON 14. STOP THE CONO 15. AQUO'S MASSILIA 16. LO OAI MASSILIA SOUND SYSTEM "LIVE E LIBERTAT" DVD+CD ADAM / WAGRAM 3239622 フランスでのリリース:2011年4月4日 (↓2011年3月31日マルセイユ『ライヴ&リベルタ』発表記念アペリティフ会)
Massilia Sound System - Apéro-écoute "Live &... par 2marsWebTV

2011年4月3日日曜日

今朝の爺の窓 2011年4月3日



 母親に電話したら、青森は雪という話でした。大震災のあと、4月だと言うのに「雪」。神様というのを仮想に入れている自分としても、この2月3月4月は、神様は理不尽なことばかりなさる、と思ってしまう爺でした。
 この季節、私たちは少し天気が良ければブーローニュの森、向かいのサン・クルーの森、うちの犬の大好きなムードンの森、桜が見事なソー公園などに行って、春の到来を楽しみます。「春可楽」(はるたのしむべし)。余裕があるとかないとかそういう問題ではない。春は来れば人々に希望を与えてくれるはずです。陽光と緑の萌えと花々が奏でる交響楽に耳を傾けましょう。われわれは城館や大庭園を所有する階級とは無縁であっても、野に出ればそういう春風と緑と花々と光を感じることができます。
 私は16年前からこのバルコニーにいて、この喜びを日々感じています。今はスーラの描く近視眼的点描の世界が、毎春のように私の目の前に広がります。私には「絵心」がありませんが、見ているだけで、記憶の中の中学/高校の時の美術教師に「どうです、こんなもんですよ」と自分の絵を自慢して見せているような気になります。美しい季節、これは(今のところ)毎年やってくるのですねえ。来年もきっと来ますよ。