2009年4月24日金曜日

Sunny, thank you for the sunshine bouquet


4月24日金曜日午前。
ナイーヴの人,早く条件書ください。ディスコグラフの人,早くプライスください。オートル・ディトリビューションの人,早くアーチスト資料ください。ユニヴァーサルの人,早く納品してください。編集の人,早く割付け校正ください。日通と近鉄の人,早く集荷に来てください。

この天気では,仕事できる状態ではないのです。


このレ・パリジエンヌに関しては拙ブログ「天気が良すぎて働けない」をご覧ください。

2009年4月18日土曜日

イギリス人は利口だから水や火などを使う

ミッキー&トミー『ステート・オブ・ミッキー・アンド・トミー』
Micky & Tommy "STATE OF MICKY AND TOMMY"


 イギリス人は利口だから水や火などを使う − ロシア民謡「仕事の歌」の歌詞の一部で、そのあとは「ロシア人は歌を歌い、みずからなぐさめる」と続きます。何のことだかわかりますか?「水や火」というのは蒸気機関なんですね。蒸気機関の普及による産業革命が早かったイギリスに比べて、ロシアはまだまだ人力で働いていた、という時代の「仕事の歌」です。
 19世紀20世紀では、ヨーロッパのやや遅れた国々から見れば、一番進んでいたのはイギリスでした。イギリスに比べたら、フランスなんて十歩も百歩も遅れていた。そう感じていた人たちがたくさんいたのです。
 ことを60年代の大衆音楽に限定してみましょう。かたやビートルズ、ローリング・ストーンズが席巻していた国があって、海峡を渡ってこちら側の大陸にくると、あらら...ジョニー・アリデイ、シルヴィー・ヴァルタンですからね。この格差は一体何なのかと、と愕然としたのは、実は音楽ファンだけではなく、アーチストたち自身でもあったのです。
 1ヶ月半ばかり、爺はフランソワーズ・アルディのことばかり資料を追ってきましたが、彼女も初期の頃、この問題でおおいに悩んでいたのです。アルディの1962年のデビュー盤は「おお、おお、シェリー」という米国曲カヴァーを第一曲めにした、4曲入りEPシングルでしたが、全くパっとせずに、発売3ヶ月後に2000枚という売上で消えていく運命にあったのです。それがある偶然があって(ここのところは5月号「ラティーナ」読んでください)、そのシングルの中の1曲「男の子女の子」が注目され、爆発的なヒットとなってしまうのです。63年にフランスで百万枚ヒットになり、隣国イタリアでも百万枚ヒットになり、その人気はイタリアからスペイン、ドイツ、イギリスに波及し、19歳で国際スーパースターになってしまったのです。
 アルディが契約したレコード会社ヴォーグは、売れてるんだから、どんどん録音して、ばんばんレコードを出そうとするのですが、アルディは外国に出て、特にイギリスを知ってから、ヴォーグの録音はお粗末であるということを知ってしまうんですね。例えばその「男の子女の子」を聞いてみましょう。バックはB級エレキバンドですよね。後世になってアルディは、たとえこの曲が自分を世に出した国際ミリオンヒットであっても、このレコードの出来のひどさに恥じて、自分のレパートリーとして認めたくなくなるのです。これはひどい曲だった、と。
 この「男の子女の子」の国際的ヒットは、64年にイギリスでその英語版「ファインド・ミー・ア・ボーイ Find me a boy」を録音させることになり、そこでフランソワーズは、ストリングスやピアノが加わった繊細な「イギリス式」録音を初体験するのです。このストリングスの起用にこだわっていたフランソワーズ・アルディに対して、ヴォーグ側は「エレキバンドのバッキングで十分にヒットしているのに、なんでストリングスが必要か」という経済的な理由で断るのでした。そんなにわけの分からん連中だったら、もう議論したくないから、とにかくイギリスで録音させてくれ、というのがアーチスト側の希望でした。こうしてアルディはその国際的な成功をタテに、64年以降、イギリスで録音する自由を得ることになるのです。アーサー・グリーンスレード(ゲンズブールの「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」他)や、チャールズ・ブラックウェル、ジョン・ポール・ジョーンズ(未来のレッド・ゼップ)等が、アルディの編曲者/バンドマスターとなり、アルディはフランスよりもイギリスで「スウィンギング・ロンドン」の真っただ中で録音するという幸福を得るわけですね。
 この「イギリスの音」にこだわるアーチストは多く、例えばミッシェル・ポルナレフがレコード会社AZとの契約にデビューシングルをイギリス録音で、という条件をつけ、その結果「ノンノン人形」はジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズがバッキングするということになったのです。ジョニー・アリデイもシルヴィー・ヴァルタンも当時の録音にはすごいメンツが参加しています。後者の兄、エディー・ヴァルタンがシルヴィーの曲や録音に大きくものを言うのですが、そのエディーがイギリスから連れて来た凄腕の助っ人が、ミッキー・ジョーンズ(ギター。1944 - )とトミー・ブラウン(ドラムス。1940-1978)だったのです。
 この二人はともに英国バンドニーロ&ザ・グラディエーターズ(Nero & the Gladiators。60年唯一のヒットがクラシック曲「剣士の入場」のインストカヴァー)のメンバーだったんですが、続くヒットがなく解散して、フランスに渡ってディック・リヴァース(「ツイスト・ア・サントロペ」)のバックバンドに入ります。それをエディー・ヴァルタンが引き抜いて、シルヴィーのバックバンドのメンバーにするんですが、その才能は演奏だけではなく、ソングライティングの面でも買われ、1964年からシルヴィーに曲を提供するようになります。
 1966年、兵役から戻ったジョニー・アリデイは、これからの世の中英米ヒットのカヴァーだけではあかん、と悟り、ロック色を強め、アリデイ型オリジナル・ロックを創っていくのですが、そのスタッフにグリン・ジョンス、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ゲイリー・ライト(スプーキー・トゥース)、ミッキー&トミー等が大きく関わっていきます。
 そして、いろいろと問題のあったヴォーグとの5年契約が切れて、自分のレーベルを設立したフランソワーズ・アルディも、このミッキー&トミーに作曲/編曲/スタジオワーク等たくさん仕事を依頼するんですね。そのコラボレーションは70年のアルバム"SOLEIL", 72年の英語アルバム"IF YOU LISTEN"で顕著です。
 またイギリスのテレビショー「レディ・ステディ・ゴー」にシルヴィー・ヴァルタンが出たりすると、ミッキー&トミーがバックミュージシャンとして故郷に錦を飾るんですね。複雑ですけど、こういう形でミッキー&トミーは、外国で花開く英国アーチストみたいな見方をされます。オーストラリアで芽を出したザ・ビージーズみたいなもんですけど。この本国で認められずに外国で流謫の身となったアーチストというコンセプトが数年後にミッキー・ジョーンズをしてフォーリナーというバンドを結成させることになるんですよ。
 ミッキー&トミーはフランスでも決して第一線に出たことはありません。しかし、フランスのレコード会社と契約して、フランス人には絶対に出来っこない、先端のソー・ブリティッシュなロックサウンドのレコードを出していくんです。また映画音楽や、偽名バンドでのファンク・ブーガルーのインストルメンタルのレコードも出します。こういう助っ人&裏方の目立たないミュージシャン稼業ですが、トミー・ブラウンはジョニー・アリデイに"Ma jolie Sarah"というジョニーの大ヒット曲を書いて、ウハウハウハウハ生きてましたし、ミッキー・ジョーンズは、ルー・グラム、イアン・マクドナルドと結成したフォーリナーで世界のビッグネームになってしまいます。

 フランスの旧譜復刻の鬼であるマジック・レコーズが2008年秋に出した「ミッキー&トミー」の全フランス録音24曲のCDです。まあまあ、驚きの連続です。シルヴィー・ヴァルタンのバックミュージシャンたちが、影でこんなことしていた、という1965年から71年にかけての仏録音マージービート、仏録音サイケデリック、仏録音スウィンギング・ロンドン...。裏方の悲哀など微塵もなく、フランス人には絶対できっこない誇り高いブリティッシュ・サウンドです。特にNimrodニムロード名義の2曲"The Bird"と"Don't let it get the best of you"は、後世のライブラリーものサイケデリック・コンピレーションで幾度となく収録される、カルトナンバーとなっています。出稼ぎ者の徒花とでも言いましょうか。異郷の地にあってもイギリス人は本当に冴えていたんですね。

<<< トラックリスト >>>
1. Micky & Tommy "With love from 1 to 5"
2. Micky & Tommy "Sunday's leaving"
3. Micky & Tommy "I know what I would do"
4. Micky & Tommy "Quelqu'un qui part" (Someone Like You)
5. Micky & Tommy "Frisco Bay"
6. Micky & Tommy "Julian Waites"
7. Micky & Tommy "Nobody knows where you've been"
8. Micky & Tommy "Good time music"
9. Micky & Tommy "If I could be sure"
10. Micky & Tommy "Alice"
11. The Blackburds "Promenade dans la foret du Brabant"
12. The Blackburds "Absolument Hyde Park"
13. The Blackburds "Get out of my life woman"
14. The Blackburds "Don't go home"
15. The Blackburds "The In Crowd"
16. The Blackburds "Don't need nobody"
17. Nimrod "The Bird"
18. Nimrod "Don't let it get the best of you"
19. The J. & B. "There she goes"
20. The J. & B. "Wow! wow! wow!"
21. Micky & Tommy "Never at all"
22. Micky & Tommy "Then you got everything"
23. Thomas F. Browne(with Mike Jones) "Gentle Sarah" (Ma jolie Sarah)
24. Thamas F. Browne(with Mike Jones) "Carry My Load"


Micky & Tommy "State of Micky and Tommy"
CD Magis Records 3930773
フランスでのリリース:2008年10月


(↓ ステート・オブ・ミッキー&トミー "I know what I would do" フランスのテレビ映像)

(↓)ニムロード 「ザ・バード」(1969年)


(↓)トーマス・F・ブラウン「ジェントル・サラ」(1971年)


(↓)ジョニー・アリデイ「ジョリー・サラ」(1971年

2009年4月16日木曜日

この偶然を感謝して


 イニアテュス『この偶然を感謝して』
 IGNATUS "Je remercie le hasard qui"


 との始まりは2月にジェローム・ルッソー・イニアテュスが来るべき新アルバムの2曲め(アルバム2曲めがアルバム中最良の曲ということが世の決まりになっているようですが,例外もあります)に用意していた曲 "Dans l'herbe"のヴィデオ・クリップ(オリヴィエ・マルタン制作のアニメーション)をインターネット上に公開したことです。このヴィデオがyoutubeのカウンターで,10日間だけで10万人が見てしまうという,異例の反響でした。これに狂喜してしまったイニアテュスが,アルバムのリリースを1ヶ月繰り上げて,ネット配信は3月から,CDアルバムは4月頭から店頭に並ぶようになったのでした。
 とは言っても,イニアテュスが所属していたレコードレーベル,アトモスフェリックが残念ながら立ち行かなくなってしまって,イニアテュスは全部自分の独立会社イニアチューブでやらなければならなくなったのです。配給からプロモーションから全部彼ひとりでやっています。身軽と言えば身軽ですが。こうやってリリース日を変えるなんて,彼の思いつきでひょいっとできるようになったのです。
 私もこのヴィデオには早くに大拍手を送った人間のひとりです。3月には,このヴィデオがこの6月に開かれるアヌシー国際アニメーション映画祭に,ヴィデオ・クリップ部門で正式にコンペ参加することが決まりました。このヴィデオだけで大きな話題になるのでは,とジェロームが考えたのは無理もないことです。これは傑作です。
 というわけで,イニアテュスはこの傑作ヴィデオを世界に知らしめるべく,各国のyoutubeにその国語の字幕つきヴァージョンで置いてもらうことを考えます。英語字幕版が出来て,次に日本語字幕版も4月2週目から「ピセ ダン レルブ」というカタカナタイトルで公開されています。


 このクリップ字幕はジェロームの友人でベルヴィルに住む日本人女性のリカさんがつくりました。これに関してジェロームと私の間に数度のメール交信があります。
 まずうまく訳せているかどうかジェロームが私の意見を聞いたので,私はすばらしいと思うと答えました。そしてリカさんのデリカシーと言いますか,ニュアンスづけに感心したことを告げました。それは歌の中で繰り返される "Pisser dans l'herbe"を,最初から4回目まで彼女は訳さずに「ピセ・ダン・レルブ」というカタカナ表記のみにとどめて,最終の5回目に初めて訳して「草の中に小便をする」という字幕になります。これは繊細な翻訳アートだ,と称賛しました。
 ジェロームはこれをリカさんから聞いていなかったので,"Quelle bonne surprise!"(うれしい驚き!)と受け止めたものの,やはりタイトルは意味のわからないカタカナではなく,訳した言葉の方がいいんじゃないか,と言ってきました。
 最初からタイトルで訳してしまったら,リカさんの4回のミスティフィカシオン(なにやらわからない神秘的な状態を保っておくこと)が全然利かなくなってしまうではないですか。
 「小便」「おしっこ」,私自身あまり書き言葉で使いたくない言葉なので,そういうタイトルが来たら,その歌嫌いになるでしょうね。そこで,こういう場合のカタカナ表記で逃げるというのは,すばらしいと思うのですよ。おまけに「ピセ」というのは日本人の耳にも可愛く聞こえる語感じゃないですか。これが「ユリネ uriner」(放尿する)というカタカナだと,そんなに可愛くないですね。「ピセ」は得な響きです。日本の若い人たちは写真撮ってもらうときに「ピス,ピス」と言ってますよね。私にはあれは "peace"よりも"piss"に聞こえますけど。
 というジェロームがあまりわかってくれてないかもしれないけれど,私はこんな理由でタイトルをカタカナの「ピセ・ダン・レルブ」のままにしておくことを勧めたのでした。

 つまるところ「草に立ちション」という歌です。田舎のじっちゃんばっちゃんの家に遊びに行って,都会暮らしの自分が忘れかけていたものを取り戻すことを,最も典型的に象徴する例として,庭の草むらに立ちションをすることをもってくるんですね。太古の血が体内に蘇ってくるようなセンセーション(ション)を感じているわけです。それで,雪が積もってたら最適コンディション(ション)でしょうが,文字書いたり,絵を描いたりできるじゃないですか。これができるのは...男だけだぁ!とイニアテュスは,急に男に生まれたことの喜びを(50歳近くになって)感じてしまうのです。そのお道具を授かったという幸運な偶然を,どれほど感謝すべきか,と歌っているのですよ,お立ち会い。

 しみじみ,いい歌ですねえ。


<<< トラックリスト >>>
1. Mon amour
2. Dans l'herbe
3. Le soleil chante
4. Lourd, lourd
5. Que tu dis
6. Ce soir (avec The Strange "O")
7. Pas Question
8. Place Alphonse Chenal
9. Les hommes
10. Les ventres des ministres
11. Les doux calculs

IGNATUS "JE REMERCIE LE HASARD QUI"
IGNATUB CD IGN0009
フランスでのリリース:2009年4月3日

2009年4月9日木曜日

モクレンよ永遠なれ

Claude François "Magnolias Forever"
クロード・フランソワ「モクレンよ永遠なれ」
(1977年)
作詞エチエンヌ・ロダ=ジル
作曲ジャン=ピエール・ブーテール

 4月5日,わが町ブーローニュの市役所前のモクレンがあまりにも見事なので,「マニョリア,フォーエヴァー!」と叫んでしまいましたよ。

Your girl is crying in the night 
Is she wrong or is she right 
Je ne peux plus rien y faire 
俺にはもう何もできないんだ
Your girl is shining in the night 
Burning burning burning bright 
Je ne sais plus comment faire  
俺にはもうどうしていいのかわからないんだ  


  エチエンヌ・ロダ=ジル作詞/ジャン=ピエール・ブールテール作曲『モクレンよ永遠なれ マニョリアス・フォーエヴァー』。歌と踊りと風呂場の電球替え:クロード・フランソワ(1939-78)。死の数ヶ月前の1977年録音です。  
 爺はこういう超強烈なショービズ臭を放つ人は苦手でして,ヒット曲を出すこと/金を得ること/ファンを得ることのためだったら何でもできる,という類いのプロフェッショナリズムが良質の音楽を作ることなどできるはずがない,と思っていました。巨万のヒットを出すには,巨万の投資をしなければならない,という考え方だったようで,派手にバラまき派手にかき集める方式でエンタープライズ・クロード・フランソワは火の車だったそうです。一度そういう見栄を切ったら,たとえ支払える金がなくてもプライヴェート・ジェット機で移動し続けなければならない,という晩年期でした。事故死説,暗殺説,さまざまありますが,自殺説もよく言われます。  
 エチエンヌ・ロダ=ジルは,クロクロの最後の抵抗(ディスコへの転向)のために雇われた作詞家でした。ジュリアン・クレールの作詞家として知られた左翼インテリ詩人が,多くの人が唖然とする中,虚飾のショービズ王と組んだわけですが,クロクロと面と向かった時に何かを予見してしまったのかもしれません。  
 「モクレンよ,永遠なれ」のクロクロの第一声は「俺にはもう何もできないんだ」,第二声は「俺にはもうどうしていいのかわからないんだ」。本当にそうだったとしたらどうします? モクレンの白いあるいは薄くれないの美を,太古からの女性美と例えて,色は匂えど散りぬるを,とロダ=ジルは詠みます。ダンサーチーム,クロデットの半裸の美女たちを乱舞させても「俺にはもう何もできないんだ」,「俺にはもうどうしていいのかわからないんだ」が真実だとしたら...。モクレンの花はシロシロ,心はクロクロ...。永遠なれ。


参考までにサエキけんぞう・ヴァージョン(↓) ただし,マニョリアは「睡蓮」ではありません,断じて。

2009年4月7日火曜日

パレスチナに「シラク通り」が出来る

 子供たち,英語をもっと勉強しなさい。
 英語は身を助けます。
 どんな英語だっていいんです。


 ちょっと前の話題ですが,3月28日,パレスチナ,シスジョルダニア(ヨルダン川西域)の主邑ラマラで,フランスの前大統領ジャック・シラクの名を冠した通り「ジャック・シラク通り」の竣工式が行われた,というのです。この通りは全長2.7キロあり,パレスチナ大統領府の近くも通るラマラの主要道路のひとつになる予定で,工事にはあと数ヶ月かかります。
 なぜこの名前がついたかと言いますと,ラマラの女性市長ジャネット・ミハイルによると「パレスチナのために尽力してくれた前大統領に感謝の意をこめて」だそうです。
 何のことだか,日本にいる人たちにはさっぱり見えないでしょうが,ジャック・シラクは1996年10月22日,一躍パレスチナの英雄になったのです。このことをパレスチナ人たちは未来永劫において語りつぐために,通りの名前にしてしまおう,というわけです。
 この10月22日,ジャック・シラク大統領はイスラエルへの初めての公式訪問の一環として,イエルサレムを訪れます。随行員たちと共に徒歩で東イエルサレムに入ります。ここはイスラエルが実効支配しているものの,パレスチナが未来の首都と決めている,紛争の台風の目のようなところです。市民に愛嬌を振りまいたり,握手攻めにあうことが何より好きなシラクは,パレスチナ系住民の多いこの地区で,住民たちの歓迎を受けるべく,どんどん進んで行きます。ところが,そのガードにあたったイスラエル政府の私服警備隊は,シラクの行くてを阻み,住民とのコンタクトに身を割り込んでシラクを押し戻します。何度も押し戻しをくらったシラクは,ついにがまんがならなくなり,私服にこう喰ってかかります。

 What do you want?
 Do you want me to take my plane, to go back to my country, to go back to France?
 Is that what you want?
 This is a provocation!
 This is not a method! Please, stop now!


 歴史的シーンです。ホワット・ドゥー・ユー・ウォント? ドゥー・ユー・ウォント・ミー・トゥー・テイク・マイ・プレーン? ジス・イズ・ア・プロヴォケーション!って...(唖...)。 感動的な英語です。このシーンは世界中のニュースで流れ,ユーチューブで限りなく増幅され,その結果,ジャック・シラクはパレスチナの英雄になってしまったのです。
 だから,どんな英語だっていいのです。シラク・キャン・ドゥーですから。



 

2009年4月2日木曜日

元祖カストール爺

Père Castor, raconte nous une histoire
Même deux histoires
Père Castor, mets tes lunettes et lis nous tout !

カストール爺、お話ひとつ聞かせて
お話ふたつでもいい
カストール爺、さあ眼鏡をかけて、僕たちに全部読んできかせて

2009年4月1日水曜日

今朝のフランス語「アヴォワール・ラ・バナヌ」



Avoir la banane 「アヴォワール・ラ・バナヌ」
 くだものです。「バナナを持つ」ということです。3月25日,ニコラ・サルコジは現政権政党(つまりご自分の党)UMPの議員総会の演説で「J'ai la banane(ジェ・ラ・バナヌ)」(私はバナナを持っている)と言ったのです。

 "Je me fais taper dessus mais j'ai la banane. C'est dur pour moi aussi mais en même temps, je rêvais d'être président de la République et je le suis, donc ça va..."
 「私はずいぶん叩かれているが,それでも私はバナナを持っている。私にとっても辛いことだが,それでも私は共和国大統領になることを夢見ていたし,私は今そうなっている。だから,サヴァ...」


 私はバナナを持っているからサヴァ,とサルコジはご自分のバナナを誇示したわけです。
 「俺は大きなバナナを持っている」と言う男がいたら,まあ!!!と驚嘆の声がでますでしょうし,ご婦人に「あなたはバナナを持っていますか?」と聞いたら,平手打ちが飛んでくるでしょう。あらぬ誤解が生じます。だからこの「バナナを持つ」という表現はあまり使われないのです。
 一般に使われる同義のくだもの表現は

Avoir la pêche 「アヴォワール・ラ・ペッシュ」
(桃を持つ)

です。「桃を持つ」は元気いっぱいという意味です。Elle a la pêche(彼女は桃を持っている)は「あの娘,エネルギーではちきれそう」という意味です。La pêche !(ラ・ペッシュ!)と言うと「元気はつらつ!」ということです。男が J'ai la pêcheと言うと「俺,もりもりだぜ」という意味ですが他意はありません。しかし,ご婦人に「よい桃をお持ちですね」と言ったら,平手打ちが飛んでくるでしょう。言葉の使い方はむずかしいものですね。

 さて,どちらもくだけた家族的な表現ですが,一般的に使われる「桃を持つ」ではなく,あまり聞かれない「バナナを持つ」という表現を使って,自分は健康に充ちていてやる気バリバリである,ということをサルコジは言ったのです。この「バナナ」というチョイスが,いろいろと言われるわけですね。
 保守陣営ながら,今や政敵となっている前首相のドミニク・ド・ヴィルパンは「共和国大統領がその地位にあって証明しなければならないのは,バナナを持っているということではなく,賢明さを持っているということである」と,グサっと言ってしまうんですね。
 また野党第一党の社会党(PS)の前第一書記フランソワ・オランドはこう言いました。

 Nicolas Sarkozy a dit avoir la banane, mais les Français ont les peaux de banane eux tous les jours et glissent dans la précarité.
 ニコラ・サルコジはバナナを持っていると言ったが,フランス国民は毎日バナナの皮ばかり踏んでいて,貧困の中に滑り落ちている。


 peau de banane (ポ・ド・バナヌ = バナナの皮)

 これは日本でも世界でも同じような比喩に使われますが,踏むとつるりと滑って,ステンと転んでしまいます。転じてフランス語では「思いがけない落とし穴,罠」といった意味になります。オランドの切り返しには,バナナの中身はサルコジや金持ちたちばかりが食べて,国民には皮ばかり,という含みもありますね。座布団一枚。