2018年7月20日金曜日

Merci les Bleus !

フランス人になった娘へ、きみたちは美しい

23年前に日本で生まれた娘は、22歳でフランス人になった。申請書類を提出して約1年半待たされ、審査官の面接も2度受けた。オランド時代の末期だった。マリーヌ・ル・ペンが大統領になったらほとんど困難になるから、今のうちに、と急かしたのは私だった。この選択はごく自然なものだと思っている。娘はこの地で育ち、この地に溶け込んで、この地と喜怒哀楽を共有し、この先もこの地あるいはヨーロッパで生きていく。自然な流れだ。国籍がないことでぶつかる様々な壁のことは、移民で外国人の端くれである私も知っているが、社会に出つつあった娘には深刻なものがあった。官報(ジュルナル・オフィシエル)上で(国籍取得者として)娘の名が載った時、私たちの小さな3人家族は盛大に祝った。おめでとう、ノートル・プティット・フランセーズ。
そんな時期とぶつかって、2015年夏、私は発病して手術を受け、一旦落ち着いたものの、2016年11月に再発して長い(いつまでという期限はない。短い場合もあるらしい)闘病生活に入った。医師の厳命で21年続けた自営の会社を閉鎖し、満納前に(驚くほど低額の)年金受給者になった。それでもフランスの社会保険による医療制度は入院費も含めて全額無料、おまけに2018年6月から受けているキュリー研究所(パリ本部)の治療は世界最先端の遺伝子標的の実験治療であり(私が世界で37番目の臨床実験例だそう)、私のような貧乏な外国人の端くれにここまでしてくれるとは、と本当に頭の下がる思いである。
誰も好きこのんで病気になる者はいないが、00年代からの長い音楽業界危機を臥薪嘗胆でしのいで、アナログレコード復調でやっとトンネルを抜けだせるかと思っていた(実際2015-16年度は黒字転化)矢先に仕事をやめざるをえなくなったのはアンラッキーと悔やんでいる。低収入期(無収入期も含む)が10年ほど続いたので、「これから」だったのだが、長いつきあいの奥様は「あんたはお金と縁がない」とはじめからあきらめていたようだ。今、一番心残りなのは、娘に残してやれるものが何もない、ということ。「おとうさんは好きなことだけして生きてきたんだから、それでいいじゃない」と娘に言われると、おいおい、まだ殺すな、と言いたくなる。
好きなことだけして生きてきたわけではないが、「人に頭を下げて仕事したくない」というわがままだけはどうしようもなく、仕事はいろいろと転職したが、娘の誕生が引き金になって独立して自営業者になった。そして成功という字を見ることなく会社は閉じたが、仕事は好きだった。特にアーチストや制作者たちと一緒になって、クリエーションやムーヴメントに立ち会ってその証人となり、それが正当な評価を得られるよう手助けしてやる、それは往々にしてお金になることではないのだが。私はフランスの音楽が好きだったのではない。この地で生まれる音楽が好きだったのである。同じことではない。訛りがあったり、混じり気があったり。告発だったり嘆きだったりするのに、しっかりダンスに誘い込んでしまう音楽、民と共鳴し共有するもの、よく言われる言葉だけれど、グルーヴやヴァイブレーションというものを私はこの地でよく感じるようになったのだと思う。もともと文学系の人間なので、ダンスは全然ダメだったのに、だ。
大学を卒業して就職した小さな会社がパリに転勤させてやるというのでやってきた1979年夏、時の大統領はジスカール=デスタンだった。1年経ったら日本に帰るから、もう1年経ったら日本に帰るから、と両親を騙し続け、職を転々と移り、最初の奥様に愛想を尽かされ、給料の大半はレコード買いに消えていった。渡仏10年でレコード業界で仕事するようになり、そのままそのプロになっていった。ラジオ・ノヴァを聞き、アクチュエル誌とリベラシオン紙を下敷きにしてライターまがいの仕事もするようになった。「ワールド・ミュージック」なる非英米系大衆音楽の浮上は、ミッテラン時代(1981 - 1995)のポジティヴな遺産の一つである。私はそれにうまく乗ったのかもしれない。
私はミッテランが大統領だった14年間をよく知っている。私が26歳から40歳になる14年間だった。人生で最も音楽を聴いていた時期だったし、フランスで聴かれた音楽が最もポジティヴで楽観的だった時代かもしれない。そのことを最新の電子音楽誌「エリス」のフランス・ギャル記事で書いた。私の好きだったフランスがあるとすれば、まさにこの時期だったと言えよう。
フランスは激しいところだ。革命があった土地柄かもしれない。ある日を境に昨日と今日がまるっきり変わってしまうことがある。私の知る最初のその日が、81年5月8日のミッテラン大統領誕生の日だった。FM電波が解放され、同性愛が刑法条項から消え、死刑が廃止される。だが、昨日と違うフランスが始まったという希望の時期は長続きしない。フランス人はいつも不平は大声で言う。広場や通りは不平の声をマキシマムに増幅できる。通りに出よう、広場に集まろう、私は不平を言う人たちが好きだ。私はカフェのカウンターで大声で言い合う人たちが好きだ。
1998年7月12日、フランスで主催されたサッカーW杯でジネディン・ジダンのフランスチーム(レ・ブルー)が決勝でブラジルを破って初めて世界一の座についた。隣国であるイタリア、スペイン、イギリスに比べればその宗教的と言えるほどの熱狂度もなく、プロチームの天文学的数字の予算もなく、どこか欧州内のBクラス的な見方をされていたフランス・チームが、国内の十分な期待も得られていない状態(特にフランス最大手のスポーツ新聞 L’Equipe紙のエーメ・ジャケ監督批判)で大会に臨み、下馬評に反して一戦一戦劇的に勝ち進み、民衆の心を鷲掴みにしていった。ジダン、バルテス、アンリ、ブラン、ドサイ、デュガリ、チュラム…。このチームを構成する選手たちのルーツの多彩さから、フランス国旗三色旗 Bleu Blanc Rouge(ブルー・ブラン・ルージュ:青白赤)をもじって Black Blanc Beur(ブラック・ブラン・ブール:黒人・白人・アラブ人)と称されたが、これには揶揄的ニュアンスなどない。フランスの保守的で封建的な考えを持った人々が認めたくなかった複数民族・複数文化が共存して溶け合う社会が、スポーツの世界で実現し、それがチームとして世界チャンピオンとなったことを高らかに宣言する新しい三色なのだから。そのトップとして国民的ヒーローとなったのが、ジネディン・ジダンという名のアルジェリア系移民の子だったのだから。
このジダンの「ブラック・ブラン・ブール」フランスチームは2000年の欧州選手権も制した。郊外の子たちの熱狂を想像できるだろうか。この「勝つフランス」は郊外のフランスが作ったのだから。地方から出てきた労働者、アルジェリア戦争後のマグレブ引揚者、70年に人手不足解消政策で連れてこられた海外県出身者、南欧や東欧出身者、フランス語圏アフリカ出身者、インドシナ半島出身者…。これらの子供たちは、私の娘と同じように、フランス語を徹底的に叩き込まれ、フランス革命や民主主義や人権宣言の精神を学び、努力によって得られる機会均等の成功のチャンスを説かれた。ところがこの最後だけは全く当てにならないとすぐにわかってしまう郊外の現実が子供たちを挫いてきた。肌の色の違い、宗教の違い、出自の違いがあらゆる成功の道を閉ざしていた。ジダンのフランスチームはその壁に大きな風穴を開けてくれたのだ。世界一のチームはこの子たちの希望であり手本であり手が届く現実であった。

このマルチカラーなフランスの夢は長続きしない。第一の大きな影は2001年9月11日ワールド・トレード・センターのテロ事件だった。「イスラム脅威論」の台頭。2002年4月22日フランス大統領選挙第一次投票の結果、極右フロン・ナシオナル党のジャン=マリー・ル・ペンが得票2位で決選投票進出。移民排斥党が支持政党順位第2位へ。
2007年5月6日保守強硬派ニコラ・サルコジが新大統領になり、「移民・融和・国民資格・連帯開発省 Ministère de l’Immigration, de l’Intégration, de l’Identité nationale et du Développement solidaire」なる長い名前の省を開設、新たな移民の入国を締め付けるだけでなく、すでに国内にいる外国人及び国籍取得者に「フランス的フランス人」規範を強要する政策を開始。サルコジ治世の5年間(2007-2012)が、私の小さな家族には最も生活しづらい時期だった。サルコジの掲げる”Identité Nationale”(私はこれを”国民資格”と訳しているが、フランス人たる要件、あるべき国民像、国民アイデンティティー、この国に生きることができる資格というものを2007年にはっきりさせよう、という主張)の構想は、バゲットにベレー帽のフランス人と区別して、何世代前に帰化しようが近年に国籍を取得しようがルーツがどこであろうが「XXX系フランス人」をBクラス国民に格下げしようとした。それまで就職採用などで肌の色や宗教や家系オリジンによる偏見選別をやめさせようという法律や監視が強化されきたのに、逆にサルコジはまさにその区別を強調して「モデル」に遠いものを排除する、あるいは強制的に「モデル」に近づけることを画策した。同じ国民の中に(まさに日本語的な)「国民↔︎非国民」の断絶を恣意的に生じさせる。それは「ブラック・ブラン・ブール」のフランスの終焉であり、サルコジとその支持者たちは「ブラック」と「ブール」は「ブラン」ではない、と再定義したのだ。
サルコジの5年間でこの”L’Identité Nationale”構想は成就することはなかった。しかしサルコジ構想は人々を深く分断させ、相互憎悪を増長させていった。これを中途半端なままで終わらせてしまう保守政党の限界に幻滅した人々は極右ポピュリスト党に鞍替えし、その勢力は止まらない。郊外の可能性を封殺したフランス(と西欧)の欺瞞に激怒する人々にインターネットを通じてイスラム原理主義はジハードを説く…。
2012年5月6日夜、サルコジを破って新大統領となったフランソワ・オランドを祝福しに、娘と私はバスチーユ広場に行って人々と束の間の熱狂を共有した。サルコジを落とすための選挙だった。2002年5月のシラク対ル・ペンの決選投票がル・ペンを落とすために心ならずもシラクに投票せざるをえなかった時のように。サルコジよりも「まし」ではなく、サルコジほど悪いわけではないだろう、という消極性。いったん分断され相互憎悪するようになった郊外は一朝一夕に和解するわけはない。
2013年1月、イスラミスト武装勢力に国土を制圧されつつあったマリにオランドは3000人のフランス軍兵士を送り込み、オランドの戦争が始まった。2013年12月中央アフリカ共和国に1600人派兵。2014年9月、イラクにあるイスラム国ダーイッシュの軍事拠点にフランス空軍が初めて爆撃攻撃。以来オランドのフランス軍はイラクとシリアでダーイッシュを標的に計約1000回の空爆を行い、ジハード派戦士2500人を殺害したとル・モンド紙は報じている。だがそのオランドの戦争は、戦場をフランスに引き込んでしまった。
2015年1月7日シャルリー・エブド編集部襲撃(死者12人)、1月8日モンルージュ銃撃戦(死者1人)、1月9日ヴァンセンヌのユダヤ食品店イペル・カシェール籠城(死者4人)、4月19日ヴィルジュイフのカトリック教会襲撃(死者1人)、11月13日サン=ドニのスタッド・ド・フランスとパリ10区と11区の路上、そして11区バタクラン劇場(全部で死者130人うちテロリスト7人、負傷者413人)、そして2016年7月14日ニース、プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の遊歩道)の花火大会見物客めがけてトラックが暴走(死者86人、負傷者434人)....
フランスの人たちは不思議だ。Je suis Charlie、Je suis Bataclan、Je suis Nice…。攻撃されても攻撃されても、われわれは怖くはないと立ち上がり、広場や通りに出て人々と手をつなぎあう。「オランドの戦争のせいだ」と責任を追及する声もないわけではない。しかし恐怖に支配され、自由を失うことを何よりも嫌う。この共和国をつくっているのはわれわれ市民であり、この共和制の理念は市民たちが守る。怖くないと声を出すこと、それが自由が何よりも尊いと思う人たちへの連帯だ。だから私たちの小さな外国人居住者家族はレピュブリック広場に行き、この人たちと一緒に声を上げて歩いた。
戦争当事国であり、非常事態宣言の続いていたフランスはその年観光客の数を激減させた。音楽に携わる者として、「バタクラン」の前と後ではすべてが変わってしまった。バタクランの後ではもう同じように歌うことはできない。多くのアーチストたちがこのテーマで作品を発表した。そしてパリはあるのか?毎日が宴のようなパリの夜はまだあるのか? ー Evidemment, mais pas comme avant (もちろんあるわよ、でも以前のようじゃないわ)と歌ったのは1987年のフランス・ギャルだった(”Evidemment”)。
2016年6月から7月、厳戒態勢の中でフランスはサッカー欧州選手権大会(EURO2016)を挙行した。フランス国内10か所のスタジアムを使って1ヶ月間行われた競技で、ディディエ・デシャン監督率いるフランスチーム(当時FIFA世界ランキング17位)は決勝でクリスチアノ・ロナルドのポルトガルに敗れて2位になった。だが、テロの脅威にさらされた大会がすべて順調に運び。(予想外の)フランスチームの準優勝にフランスの人々はおおいに喜んだものだった。しかし、しかし、その準優勝の1週間後に、ニースのテロは起こり、86人が亡くなり、われわれは再び暗澹たる気持ちに落とし込まれるのである。
2002年にル・ペンを落とすために多くの人たちがしかたなくシラクに投票したように、2017年5月、マリーヌ・ル・ペンを落とすために、ノルマル・シュップ(高等師範校)出の大秀才にして、ロッチルド銀行→大統領府総秘書次官→経済産業大臣の若き(当時38歳)の超エリート、エマニュエル・マクロンに大挙して投票した。貴公子のように振る舞うこの新大統領は、郊外のことなど知ったことではないと言わんばかりに、地方公共団体への交付金を削減し、市町村の運営する各種スポーツクラブの存続を危うくしている。しかし、しかし、その1年後に事情は変わり、全国津々浦々の公営スポーツクラブの充実こそ、この国の未来を支える重要な事業であるとマクロンは気付いたらしい。なぜなら、サッカーフランスチームが世界チャンピオンになったのだから。

2018年6月から7月、私の娘と同じ年頃の若者たち(19歳のキリアン・ンバペに至っては98年W杯優勝時まだ生まれていない)で構成されたフランスチーム(当時FIFA世界ランキング7位)がよく戦ってくれた。それは少し98年チームの勝ち進み方と似ていて、最初は危なげで実力を出し切れていないようなかたさがあり、簡単にボールを取られハラハラするシーンが多かったが、一戦ごとにチームは強くなっていった。不平不満がお家芸のフランス人たちは緒戦の段階では、デシャンの采配がどうのとか、1ゴールも取れないジルーは何しているのかとか、要所要所でミスるグリエズマンは大丈夫なのかとか色々言っていたのだ。だが、大型画面を店に備えつけた街々のカフェは満杯になり、大都市に設けられたファンゾーン(テロ対策のために予約制、厳重な身体&所持品検査、アルコール飲料禁止)はどこも超満員、試合中もさることながら、その勝利の後は長〜い祝宴が続く。歓声とクラクション。私はその期間中に病院に通って治療を受けていて、場合によって1泊から3泊の入院もしていて、病院のどこに行ってもその話ばかり。韓国がドイツを破っては「よくやった!」(?)と褒められ、日本がベルギーに土壇場で逆転負けしては「実に惜しい!」と同情されたり。誰もがコミュニカティヴ。世界はフット。そして何よりもコミュニカティヴなのはフランスの人々の誇らしげな喜び。町々の窓と車のアンテナに飾られる三色旗の数が増えていき、通勤通学にフランスチームのユニフォームを着ていく若者たち(娘も背番号14ブレーズ・マテュイディのユニフォームで職場に行った)、98年勝利の歌グロリア・ゲイナー「恋のサバイバル」がFMや店内放送でヘビロテになり…。準々決勝(対ウルグアイ)、準決勝(対ベルギー)、決勝(対クロアチア)、人々のコミュニカティヴな興奮はクレッションド的に上昇していく。
2018年7月15日モスクワ20時(現地時間、フランスは19時)、わが家のテレビ受像機に向かって家族3人は歓声を上げたし、わがアパルトマンの建物の中庭は叫びと物音が反響したし、通りはあらゆる車のクラクションでものすごいデシベルとなった。ああ、良い瞬間だ。最高だ。絶対に忘れまい。
私はこのすぐ後に向風三郎のフェイスブックのタイムラインにこう書いた。
98年決勝の勝利の瞬間、実況のティエリー・ロラン(1937-2012)がこう言ったのね:
Je crois qu'après avoir vu ça, on peut mourir tranquille.
「これを見た後では、もう安らかに死ねますよ」
Enfin, le plus tard possible, mais on peut.
「できるだけ長生きした後でね、でも安らかに死ねますよ」

ティエリー・ロランはこれを2度見ることなく亡くなったのだけど、わしは今日2度目を見た。
誰にもわからないかもしれないけれど、生きててよかった、と思っている、本当に。これで本当に安らかに死ねると思う。もうちょっと長生きしてからね。
Merci les Bleus !!!!

Merci les Bleus ! この一言に尽きる。テロに打ちのめされたフランスをレ・ブルーが解放してくれた。分断され憎みあっていた人々をレ・ブルーが和解させてくれた。シャルリー・エブドの後、バタクランの後、私がレピュブリック広場で会ったたくさんの顔と、2018年7月15日の夜、私がシャンゼリゼ大通りで会ったたくさんの顔は、たぶん同じ人たちなのだ。だが表情はまるでまるで違う。狂喜し、乱舞し、抱き合い、「チェック」し合い、On est les champions!と連呼し、We are the champions, Seven Nation Army(po po lo po po po po)、そしてラ・マルセイエーズをがなりたてる。誰が呼びかけたわけでもなく、シャンゼリゼが民衆の歓喜に占拠され、凱旋門とエッフェル塔は勝利の色にライトアップされる。酔い痴れて良いのだ。この陶酔は町中に国中に伝染する。
そして98年「ブラック・ブラン・ブール」のように、このレ・ブルーは再び郊外の夢を蘇らせる。とても若い選手たちで構成された2018年レ・ブルー、私たちはこの子たちがどこから出てきたのか知っている。ごく小さい時から地方や郊外の小さなフットボールクラブで練習を重ねていたのだ。私の家から50メートル川上にある公営の小さなスタジアムに練習に来ている子供たちと何ら変わらないのだ。チームに溶け合い才能が引き出されれば、肌の色がどうだろうが、宗教がどうだろうが、貧乏人の子だろうが活躍の場は与えられる。嘘だと思ったっていい。だが現に世界チャンピオンたちは私たちの近いところから出たのだ。93県(パリ北郊外セーヌ・サン・ドニ県。90年代からフランスの「荒れる郊外」の代名詞のように言われる)の小さな町、ボンディーの町営フットボールクラブのコーチだった父親によって同クラブで徹底的に鍛えられたのが少年キリアン・ンバペ。

W杯のレ・ブルー優勝後、日本やアメリカやその他の国で、「フランスらしからぬ」名前の選手の起源ルーツをいちいち調べ上げ、これはフランスチームとは呼べないなどとしたり顔で論じる輩がたくさん出てきた。アフリカの旧フランス植民地から強い選手を金で釣り上げて帰化させて作ったチームであり、フランス帝国主義の植民地収奪の今日的延長である、と。はっきり言う。これらの輩はレイシストである。サルコジと同じほどにレイシストである。なぜならこの輩たちはサルコジと同じように「フランス人たる資格」を肌の色や宗教やルーツによって決定しようとしているのだから。私たちが住んでいるのはそういうところではない。市民たちがテロや恐怖に屈することなく、子供たちが肌の色や宗教やルーツに関係なく自分で自分の道を決定できる共和国成員になるように、ことがあれば広場や通りに出て集まって話し合い連帯する、理想の国でなど全くなく欠点は幾多もあるところだけれど、良い時は激しく良い(例えばW杯優勝時のように)、コミュニカティヴな喜怒哀楽を持ったところだ。若いレ・ブルーの選手たちのように、ンバペ、ポグバ、ウンティティ、マテュイディ、カンテ、ンゾンジ、キンペンベ、グリエズマン、エルナンデスなど「フランスらしからぬ」名前であろうが、フランスを世界チャンピオンに導くパワーになり得る。何しろこの若い人たちがテロに打ちのめされたフランスを解放してくれたのだよ。
私の娘は「フランス人らしからぬ」姓名のまま、「フランス人らしからぬ」アジア人の顔をしてフランス国籍者になった。だが誰にも「おまえはフランス人らしくない」などとは言わせない。娘はこの地で自分の選んだ道を進み、この地の歩みに関わり、この地の嵐にもまれたりもする。レ・ブルーの若者たちと同じように、この地の未来を築いていく者のひとりだ。
私はと言えば、フランス国籍者とならず誇り高い外国人のままだが、この地の音楽と歴史に関わってきた「関係者」のひとりであり、ここにいる市民の端くれである。2018年7月15日、私はここにいることがどれほど幸せかと思った。私は国家や国歌や国旗を愛したことはない。断じて。だが私はこの日、ここにいる人たちの歓喜の震えをもらい、この素晴らしい人たちと共にいることを誇りに思った。レ・ブルーが私をも解放してくれたのだ。私はたぶん少し娘に嫉妬している。

Merci les Bleus, encore et encore !

                                2018年7月19日、パリ、キュリー研究所の病室にて / 對馬敏彦

(↓Huff Post フランスがYouTubeに貼った2018年7月15日夜のシャンゼリゼ光景)


(↓ Vegedream "Ramenez La Coupe")


(↓ 2018年W杯、レ・ブルーの全ゴール)

2018年7月14日土曜日

思えばマッケイよ

(予告)
ムッスーT&レイ・ジューヴェン『オペレット 第2集』
Moussu T & Lei Jovents "Opérette vol.2"

フランス発売:2018年10月19日

これはマニヴェット・レコーズ(Manivette Records)によるプレスリリース全文です。文中にあるクロード・マッケイ著『バンジョー』(1929年)については、後日、本ブログにて紹介します。お楽しみに。


えばムッスーT&レイ・ジューヴェン(1)というバンドの成り立ちはひとりのジャマイカ人に負うものであった。その人は偉大なる作家クロード・マッケイ(1889-1948)であり、その小説『バンジョー』との出会いがわれらがバンドに、世界に開かれた大港湾都市としてジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたいという強い欲求を抱かせたのだった。あれから15年近い日々が流れ、ムッスーT&レイ・ジューヴェンは今や押しも押されぬオクシタニアのシャンソンの「顔」となり、オクシタニアの都市的詩情とクレオールのリズムとバンジョーとブルージーなギターを混ぜ合わせた今日的なブルースを生み出している。マッシリア・サウンド・システム(2)MCとギタリストであるタトゥーとブルーによって結成され、当初はマッシリアのサイドプロジェクトのひとつにすぎなかったのだが、それは少しずつフランスの音楽シーンで最も刺激的なバンドのひとつとなっていった。

クロード・マッケイの60周忌に当たる2008年、マルセイユの歴史学者ピエール・エシナールの尽力により、二人はアメリカのジャズがマルセイユ港に上陸した頃の豊富な演奏演目資料を探求することができ、この頃のプロヴァンス地方のアーチストたちの才能と驚くべき新しさをさらに発見するに至ったのである。2014年、誇り高くも『オペレット』と名付けられたアルバムの第1集を掲げ、かねてよりマルセイユのシャンソン伝統に色濃く染まっていたムッスーT&レイ・ジューヴェンは、ようやくにしてその偉大なる先達たちにオマージュを捧げることとなった。「マルセイユの大衆音楽の歴史の中に参画すること、それはとりもなおさずこの1930年代のマルセイユ歌謡と出会うことであり、このマルセイユ歌謡は結果としてマルセイユ文化として全国規模の大成功を収めた最後の文化表現となった(中略)。このマルセイユの人々は世界に向かって耳を開き、今の俺たち自身も日々試みていることだが、港の波止場に陸揚げされる音楽と土地の伝統的な歌謡を混ぜ合わせた新しい音楽ジャンルを創造したということがはっきりとわかった。このマルセイユの音楽ジャンル(すなわちオペレット)は、プロヴァンスの伝統とイタリア大衆歌謡とベル・カントとアフロ・アメリカン音楽の出会いの産物であった、ということが俺たちには明白になったんだ。」

マルセイユのオペレット楽曲を集めたアルバム今回の第2集にあたって、ムッスーT&レイ・ジューヴェンは二つの世界大戦に挟まれたこの文化的に実り豊かな時期の重要さを重ねて強調し、その甘美さと技巧とユーモアセンスで今日の好みに合わせて再現されたあの時代のレパートリーを(再)発見する旅へと私たちを誘う。第2集に収められた13曲のうち、12曲は当時の楽曲のカヴァー、そして1曲はオリジナル新曲。ここでムッスーT&レイ・ジューヴェンはヴァンサン・スコット、ルネ・サルヴィル、アリベール、ジョルジュ・セレルスといったオペレットの創始者たちに素晴らしいオマージュを捧げているだけでなく、いくつかの希少な真珠のような曲も発掘し、さらに1曲サプライズとしてモリアーティのローズマリー・スタンレーがゲストとして参加、J'ai rêvé d'une fleur(「私は花の夢を見た」曲ヴァンサン・スコット、詞ルネ・サルヴィル、創唱アリベール&ジェニー・エラ、1932年)をタトゥーとデュエットで披露している。私たちが喜んで口ずさむことになろうこれらのメロディーは、往々にして私たちの日常を写す鏡であり、今日的に時事的であったりもする。結びとしてムッスーTの言葉を引用しよう:「このオペレットの大きな浴槽に浸かっていくにつれて、われわれの先達たちの歌はどんどん今日の日常生活のありように近づいていって、果てにはその歌を演奏しながら俺たちは俺たち自身が作った歌を演っているような気がしてくる。このエスプリに則って、学術的かつ文化保存の見地からは遠く離れて、俺たちはこのささやかなマルセイユ・シャンソン名曲集を世に送り出す。それは俺たちにとっては博物館の陳列品ではなく、俺たちの毎日に役に立つ道連れとなるはずだから。」  
(↓) "Opérette Vol.2"のティーザー。


追記(2018年7月30日)

クロード・マッケイの小説『バンジョー』については、月刊ラティーナ誌2018年9月号(8月20日発売)の拙連載「それでもセーヌは流れる」の『マルセイユ1920年代のブラックネス』という記事で長々と論じています。そちらを参照してみてください。

それからムッスー・テ&レイ・ジューヴェン新作『オペレット第2集』 に関しては、同じくラティーナ誌の2018年10月号(9月20日発売)に詳細紹介すると、予告してしまいました。爺ブログでなくてゴメンなさい。