2015年8月10日月曜日

キリキリング・ミー、ソフトリー...

ーイスカウトはへんてこな歌を歌います。私は一度も入隊したことがありません。全世界のスカウトたちは一緒に野山を歩く時の退屈しのぎに歌を覚えるのでしょうが、そのレパートリーは全世界でつながっているようです。ガキの時分、カブスカウト/ボーイスカウトに入っているダチがおりまして、そいつがそこで覚えてきたへんてこな歌を教室で披露して、にわかにクラスの人気者になってしまう、ということがありまして...。その有名な例が「クイカイマニマニ」や「サラスポンダ」といういう歌でして、これは日本ではボーイスカウトだけではなくNHK「みんなのうた」が全国的に一挙に広めたと言われています。
  私らがガキの時分は意味不明でもみんな暗記して歌ってました。私らあの頃6歳7歳ですよ、それも青森くんだりの田舎ですよ、それでもこれらの歌は「マイ・ボニー」とか「オオ、マイ・ダーリン、クレメンタイン」といった英語の歌なんかよりも圧倒的に普及度が高く、当時の日本の子たちは幼くしてワールドミュージックを血肉化していたのであります。
 さて今回取り上げるのはそのボーイスカウト・ソングのひとつ、"Kili Watch"です。日本でのカタカナ表記なんですが、"Watch"を英語の腕時計と解釈されたんでしょうか、「(キリ)ウォッチ」となってますよね。まあ、戦後の英語コンプレックスと言いましょうか、外来語はすべて英語と思われていた時代風潮もありましょうね。ところが、これは英語ではない。ですから、これは歌で歌われているように「キリ・ワッチ」と表記されるべきものでしょう。歌詞はこんな感じです。

kili kili kili kili watch watch watch watch
キリ キリ キリ キリ ワッチ ワッチ ワッチ ワッチ
ké um ken ké ala 

ケ ウム ケン ケ アラ
ali a tsalma, a tsalma poli watch
アリ ア ツァルマ ア ツァルマ ポリ ワッチ
ali a tsalma, a tsalma poli watch

アリ ア ツァルマ ア ツァルマ ポリ ワッチ

kili kili kili kili watch watch watch watch
キリ キリ キリ キリ ワッチ ワッチ ワッチ ワッチ
ké um ken ké ala 

ケ ウム ケン ケ アラ
ali a tsalma, a tsalma poli watch
アリ ア ツァルマ ア ツァルマ ポリ ワッチ
ali a tsalma, a tsalma poli watch

アリ ア ツァルマ ア ツァルマ ポリ ワッチ


 この繰り返しですから、3〜4回で覚えられますよね。
 そしてこの歌を世界的に広めたのはボーイスカウトではない。
 この歌をボーイスカウト・レパートリーから剽窃して、1960年にご機嫌なロックンロールナンバーとして全世界的にヒットさせたのが、 ベルギーの4人組バンドです。世界的には「ザ・カズンズ (The Cousins)」、出身地のブリュッセルと仏語圏では「レ・クーザン(Les Cousins)」として知られています。ベルギーでは世界的ヒットによってこういう二通りの源氏名を持つ例は、「ドミニック、ニック、ニック」の「ザ・シンギング・ナン(The Singing Nun)」(世界圏)と「スール・スーリール(Soeur Sourire)」(仏語圏)のジャニンヌ・ディッケルスがありましたね。
 このバンドは1954年にブリュッセルの6人の若者たちによって結成され、「ラ・ジューヌ・エキープ(La Jeune Equipe)」と名乗っていました。意味は「若い仲間」、青年団ですね。スカウトっぽく礼儀正しくも、なんともダサい名前でした。エレキギター、コントラバス、ドラムスなどで編成されたラ・ジューヌ・エキープはバー、クラブ、ダンスホールでのダンスバンドで、レパートリーはタンゴ、チャチャチャなどのラテン音楽がメインでした。しかし54年はビル・ヘイリー「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の年、彼らもそのショックをモロに受けたのです。中心人物はグイド・ヴァン・デン・メエルショート(ギター、ヴォーカル)とアンドレ・ヴァン・デン・メエルショート(リード・ギター、ヴォーカル)の兄弟。だから、バンド名は「ザ・ブラザース」でもおかしくなかったのですが、そうならなかったのは、1959年にブリュッセルの中心広場グラン・プラス(今やユネスコ世界遺産)に開店した当時最もベルギーでハイプなクラブ "Les Cousins"のせいなんですね。そのオーナーはベルギーの音楽界・興行界の有名人で、大の映画好きとしても知られていた。お立ち会い、いいですか、この"Les Cousins"というクラブの名前は、当時すごい勢いで映画界を席巻していた仏ヌーヴェル・ヴァーグの傑作映画のひとつ、クロード・シャブロル監督『いとこ同士(原題:Les Cousins)』(1959年)からいただいたものなんですね。

 その新開店クラブ「レ・クーザン」のバンドとしてラ・ジューヌ・エキープが契約したのですが、当時7人までバンドメンバーが増えていたのに、そのクラブの舞台スペースが小さく、やむなく4人組までリストラされたのでした。こうしてリード・ギター、リズム・ギター、エレキベース、ドラムスというベーシックなロック4ピースバンドとなったのです。
 グイドとアンドレのヴァン・デン・メエルショート兄弟はこれを機に芸名を取り、それぞれギイ・ドーヴァン、アンドレ・ショアを名乗ります。メンバーは他にドラマーのアドリアン・ランシー、そしてベースのギュス・デルス(これが問題の人物。後述します)。1960年7月1日、クラブ「レ・クーザン」でお披露目コンサートで2曲演奏。上々の人気で、バンドはクラブオーナーから、7月14日(仏革命記念日)の大ダンスパーティーでの演奏を任されます。その夜、クラブは超満員で、バンドは大喝采のうちに2セットのショーを終えます。この夜に居合わせたのが、ジャン・クリューガー(1937 - )でした。
 休題閑話。ジャン・クリューガーって今や日本語ウィキにも記事があるのですね。「ヤマスキ」の日本盤リリース以来の知名度アップでしょうね。良くも悪くもベルギーっぽく、山師っぽくもある未来の世界的プロデューサーです(閑話休題終わり)。
 ジャンの父親ジャック・クリューガーは音楽出版社World Musicを経営する一方、ベルギーの新しいレコード会社Disques Paletteのディレクターであり、新人発掘に腐心していたのですが、ジャンはすぐさま父親に「すげえバンド見つけた」と報告します。さっそくジャック・クリューガー自身によるオーディションがあり、バンドの演奏に納得したジャックは即座にシングル盤録音の契約をします。1960年9月15日、ブリュッセルのフィリップス録音スタジオの3トラックレコーダーが、バンドのオリジナル曲2曲を録音します。1曲がチャチャチャのリズムのラテン曲「フエゴ(Fuego)」、そしてもう1曲がロックンロール曲「キリ・ワッチ (Kili Watch)」。そしてレコード盤が刷られる段になって、ラ・ジューヌ・エキープというバンド名が気に喰わないクリューガー父子は、別のバンド名を考えろ、とバンドに迫ります。バンドはそれでは、と、バンドの人気の発火点となったグラン・プラスのクラブ「レ・クーザン」に因んで、そのまま「レ・クーザン」をバンド名にすることにしたのです。
 初のシングルレコードは、A面が「フエゴ」、B面が「キリ・ワッチ」で初回プレスされました。その間にバンド内で内紛が起こります。この2曲がメンバー4人の共作であるのに、ベーシストのギュス・デルスがベルギー著作権協会に2曲ともギュス・デルスの作詞作曲であると登録してしまったのです。これを承諾しない3人のメンバーはギュスをバンドから放逐し、代わりに当時17歳のベーシスト、ジャック・ステックを加入させます。つまりレコード発売の前に既にメンバーチェンジがあったというわけです。
 そして遂にデビューシングルが発売されることになるのですが、発売予定は10月14日。その日にクラブ「レ・クーザン」のオーナーは、可愛がったバンドのデビューの景気づけにブリュッセルのプラザ・ホテルのバンケットルームを借り切ってデビュー記念パーティーを催します。そのためににオーナーは、このシングル盤の初回プレス数千枚のうち、千枚を買い取ってパーティー参加者に配るつもりでいました。
 新人バンド「レ・クーザン」のデビューシングル「フエゴ」(B面「キリ・ワッチ」)はこうやって世に出る予定でした。ラジオ局はこの発売前に曲を放送で紹介します。ベルギーのフランス語局RTBとフランドル語局BRTは10月9日に「フエゴ」をオンエアしました。そしてRTBは翌10日に、そしてBRTは13日に初めてB面の「キリ・ワッチ」を流したのです。なんたることや、反応が全然違うのです。放送局に電話が殺到します...。
 14日、プラザ・ホテルの「レ・クーザン」デビュー記念パーティーは大盛況。そのシングル盤はあっと言う間に消えてなくなります。
 その間にジャン・クリューガーは異変に気がつきます。ベルギー初のロックンロール・ヒットが誕生したのです。しかも並みの勢いではない。初回プレスは時間を待たずになくなってしまうだろう。ジャン・クリューガーは、第2回めのプレスから、A面とB面を入れ替え、バンド名を「THE COUSINS (ザ・カズンズ)」と印刷するように指示したのです。

  隣国フランスでは当時のティーンネイジャー聴取率40%を誇った人気ラジオ番組「サリュ・レ・コパン」で11月15日に初オンエア。年末を待たずにジョニー・アリディがジル&ジャンによる仏語詞をつけてカヴァーシングルを発表。「ムスターファ」のボブ・アザムもカヴァーしてます。それから61年に入って世界的なヒット曲になっていきます。この世界ヒットにはジャン・クリューガーがおおいに暗躍しているのですが、クリューガーのダークサイドについてはまた別の機会に。もちろん日本盤も出ました。おぼろげながら女性歌手による日本語カヴァーもあったように記憶しているのですが、誰か知りませんか?

 さて、冒頭の話にもどります。この歌はもともとはボーイスカウトのレパートリーなのです。このバンドやましてや元ベーシストのギュス・デルスが作詞作曲したものではありません。しかし今日でもこの曲の作詞作曲者にはギュス・デルスの名が記載されています。つまりデルス(及び権利者)にはまだ印税が入って来るのでしょう。この辺でまた世界音楽界の暗黒ストーリーが書けそうです。ま、それはともかく、この歌のオリジンはと言うと、インドということらしいのです。フランスの好事家音楽サイトBIDE & MUSIQUE では「インドの伝統的な戦いの歌」と説明されています。そういう歌の著作権料を(バンドメンバーでもなくなった)デルスはひとりで得ていたわけですね。
 バンド、ザ・カズンズはこのヒットの後、約120曲を録音して1966年に解散。1987年にベルギーのナツメロ番組出演を機会に再結成しましたが、2年と続いていませんでした。2003年1月に「キリ・ワッチ」のリードヴォーカルをとっていたグイド・ヴァン・デン・メエルショートが72歳で亡くなっています。




THE COUSINS (COMPILATION) "THE COUSINS"
MAGIC RECORDS CD 3931003
フランスでのリリース:2015年4月

<<< トラックリスト >>> 
1. LAWDY LAWDY
2. LIMBO ROCK
3. HAMBONE
4. KATHLEEN
5. HEY MAE
6. RELAX
7. SWEET VIRGINIA
8. THE ROBOT
9. ROSES ARE RED (JE REVIENDRAI MY LOVE)
10. HEY HEY
11. PEPPERMINT TWIST
12. STODOLA
13. ELLE A DIT "MMM"
14. MOI RIEN
15. LITTLE HONDA
16. WADIYA
17. MICHAEL
18. MARCHE TOUT DROIT
19. KILI WATCH
20. PEPPERMINT TWIST (STEREO VERSION)

 
 

2015年8月3日月曜日

ニーナもし今なら

Gilles Leroy "Nina Simone, roman"
ジル・ルロワ『小説ニーナ・シモン』

 の作品は2013年にメルキュール・ド・フランス社から単行本で刊行されました。私は2015年春に出たフォリオ版文庫本で読みました。新刊でなくてごめんなさい。
 作者ジル・ルロワは2007年『アラバマ・ソング』(米作家フランシス・スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ・フィッツジェラルドの生涯を描いた伝記フィクション)でゴンクール賞を受賞した作家で、この『小説ニーナ・シモン』の中でも、晩年のゼルダ・フィッツジェラルドが収容された北カロライナ州アッシュヴィルの精神病院で、慰問演奏に来たピアノ科女学生ユーニス・ウェイモン(後のニーナ・シモン)と出会い、ユーニスに「パリに行きなさい、あなたはパリに行ったら解放される」と予言めいたことを言うシーンがありますが、もちろんフィクションです。
 この小説に登場するニーナ・シモンは実在した米国のピアニスト・歌手・作曲家・公民権運動闘士のニーナ・シモン(1933-2003)です。この稀代のアーチストは80年代に既にパリに3年ほど滞在していますが、1993年には南仏プロヴァンス地方の町ブーク・ベレール(Bouc Bel Air)にヴィラを買って、本格的にフランス移住してしまいます。フランスとの縁は、その芸名を仏女優シモーヌ・シニョレ(1921-1985)に由来する(日本語版ウィキペディアはそれゆえに「本来は「ニーナ・シモーヌ」と読むのが正しいのかもしれない」と記述しています)ことを初め、黒人作家ジェームス・ボールドウィン(1924-1987)にも触発されて早くからパリに憧れていたという経緯があります。
 小説は南仏ブーク・ベレールの彼女のヴィラに、 フィリピン人の男リカルドが使用人として雇われるところから始まります。年代としては90年代の末の方だと思われます。近くに同じようにアメリカから移住してきた引退歌手のボビー・ウィリアムス(架空の人物)のところで夜の炊事係として雇われていたリカルドが、それだけでは収入が足りない(彼は40歳になる既婚者でフィリピンに居る家族に送金して養う義務がある)ので、ニーナの屋敷で昼の時間働かせて欲しいと申し出たのです。
 この時既にニーナ・シモンは屋敷に数人の使用人がいても、屋敷の維持状態は悪く、金回りが悪くなり始めているのがわかります。彼女はそれがマネージメントを担当する3人の男(マネージャー、財産管理、プロモーター... 3人とも"Harry"というファーストネーム)が裏でピンハネする金額が莫大であること、暴利をむさぼる複数のレコード会社との権利訴訟で費やされる金と時間のせいであることを知っています。ショービジネスの暗黒部分の被害者であること、だからこの世界の人間(ジャーナリストも含めて)は誰も信用していない。口が悪く、性格が悪く、暴君のように周りの者たちを平気で傷つけながら、それでも金を騙し取られていく悲しい老いた女王の姿があります。
 アジア人リカルドは、別の雇い主のボビー・ウィリアムスが男色家であるために、ニーナ・シモンがそちら方面の人と決めつけて揶揄され傷つくのですが、確かにある種女性的で優しく家事仕事一般と気配りに長けていて、ニーナが他の使用人たちには絶対に置かない信頼を勝ち得ていきます。屋敷の中には、彼女のデビューから今日までの歴史的瞬間を展示した写真ギャラリーがあり、それをひとつひとつニーナがリカルドに解説していく、という形で小説は彼女の人生をなぞっていきます。
 「私は歌手になどなりたくはなかった
 最重要ポイントはここだと思うのです。人種差別政策真っただ中の米国北カロライナ州トライロンの貧しい黒人家(母牧師・父清掃夫)に生まれたユーニスは4歳からピアノを始め、その才能を見抜いた裕福な白人家庭から資金援助されて、毎日休みなしでピアノの鍛錬を重ね、ジュリアード音楽院まで進み、次は高等クラシック音楽の最高峰と言われたカーティス・インスティチュートに入り、黒人初の世界的クラシックピアノ独奏家になるはずでした。ところが、カーティス校の入学実技テスト(課題はバッハ、ベートーベン、ショパン、ドビュッシー)で、ユーニスとして自分のベストの演奏をしたと確信していたのに、不合格になるのです。ただひとりの黒人受験者であったユーニスは、この不合格の理由は「黒人であったから」ということ以外に考えられないのです。私は世界一のクラシック・ピアニストになれるはずだった。しかしその道を閉ざしたのは肌の色だった、ということなのです。ニーナ・シモンはそれを一生恨み続けます。
 喰うためにクラブ歌手(ピアニスト)になり、「ニーナ・シモン」という別人格の大衆音楽アーチストになっていくわけですが、成功すればするほど、実はこんなはずではなかった、自分はクラシックという高級芸術の(黒人初の)巨匠になるはずだったという悔恨が増大していきます。自分を慰めてくれるのはピアノだけである。ショーのあとでショービズ儀礼的に未明まで酒の席につきあっても、自宅に帰ってピアノに向かってショパンやバッハを弾いて自分を取り戻すという習慣がありました。だからツアーなどで(ピアノのない)ホテルの部屋に入れられるを嫌っていました。
 40年後カーティス・インスティチュートは、ニーナ・シモンに過去の「不合格判定」を正式に詫びる手紙を送ってきます。もう過去のことで取返しがつかないとは言え、ニーナには自分が正しかったという「逆転勝訴」 なのです。さまざまな音楽院からニーナは「名誉博士号」を受けます。「これからは私を"ドクター・ニーナ・シモン"と呼ぶこと」、と彼女は名刺やレターヘッドや、コンサートポスター、テレビの出演者名称などに全部「ドクター」をつけることを強要します。これは自分の進むべき道を誤らせたなにものか(それはとりもなおさずレイシズムというものなのですが)への復讐でありました。
 しかし今のニーナ・シモンは60歳を過ぎて、脊髄の痛みと躁鬱病のためにリチウム服用が欠かせず、おまけにシャンパーニュ他のアルコール類を浴びるほど飲んでいるという荒れ方で、それにも関わらず、次のコンサート、次のツアーと仕事を持ち込んでくる(そうでないと台所が火の車である)マネージメント3人ハリーとの日常的な激突があります。結局は仕事を受けてしまうのですが、もうやめたい、もううんざり、のニーナの叫びを理解するのはリカルドだけなのです。
 このニーナの極度の躁鬱病(双極性障害)をはっきりと示した事件が 1995年7月25日に起きます(史実)。ニーナのヴィラの隣りの家の少年(15歳)が自宅プールであまりにも騒がしくするので、ニーナがピストルを発砲して少年を負傷させてしまったのです。小説はこのことに「私の静寂=精神統一を妨げた」「少年が人種差別語を何度も口走った」などのニーナ側の「弁」を付け足しますが、実際には裁判でニーナは禁錮8ヶ月(執行猶予つき)の有罪判決を受けています。小説の中ではこの事後処理で1万5千ドルの慰謝料をニーナが払っています。
 誰も信用しない、わがままで意地が悪い、人を平気で傷つける、 アルコール中毒、そういう老女がリカルドに次々に自分の過去を清算・総括するための回想を述懐していきます。リカルドは良い聞き役だったり、そうでなかったり。しかしひとつの確かな人格を持ったダイアローグ相手としてそれに向かい合っていきます。
 マネージャーに騙され、レコード会社に騙され... そして男たちに騙され。生涯の男、と心に決めた男たちは次々に去っていく。愛の欠乏。小説はシモーヌ・シニョレとの対面のシーンも出てきますが、奇しくもその名前の一部をもらったシモーヌ・シニョレと自分の共通点は「男に裏切られ続ける女であること」という悲しい結論があります。
 1986年にシャネル(No.5)のCMに使われ、世界的ヒットとなった"My Baby Just Cares For Me" も、録音時の契約の曖昧さから、自分には全く金が入ってこない、ましてやシャネル社には自分にNo.5のひと瓶でも贈ってくれるようなエレガントさもない。
 また非常に興味深いのはこの小説のニーナ・シモンはジャーナリストなどからビリー・ホリデイと比較されることを極端に嫌っていたこと。 これは小説の中で、2回それぞれ別のジャーナリストからビリー・ホリデイに比される質問を受けて、2回とも烈火の如く逆上してあんな女と一緒にしないで、と退けてしまうのです。ニーナ・シモンは「私と比較できる音楽家はマリア・カラスだけ」と言うのです。これは前述したようなクラシック音楽コンプレックス、高級芸術コンプレックスだけではない、音楽性と女の生きざまに関する視点の相違と大いなる自尊心なのだと思います。この辺はよく読んであげなければなりません。
 ヴィラの財産は徐々に窮乏していき、平行してニーナの体は衰弱していくのですが、何が何でも帳尻を合わせようとするマネージメント側は次のコンサート、次のツアーと彼女を酷使します。リカルドには何度も執拗に、ヴィラに残って使用人を続けるように、倍の給料を払うから残るように、とニーナが嘆願するのですが、リカルドは「しがらみ」のために結局居残れず、ヴィラを去って行きます。そしてニーナは2003年4月、愛犬以外誰にも看取られなかった状態でヴィラで死体で発見されるのです。

 読ませる小説です。稀代のアーチストの気難しさや気まぐれやコンプレックスの詳細もさることながら、黒人差別の歴史、ショービジネスの裏、パリとフランスがなぜアーチストたちを魅惑するのか、といったこともよく見えて来る素晴らしい筆致です。かつてパリのサンタンヌ通りで入った日本食レストランで、出された食事をめぐって店の主人と大げんかをして、店から出て行けと言われます。「あなたは私が黒人だから私を嫌うのでしょう」とニーナが反駁します。すると日本人は「私は黄色人種だからあなたを嫌うのだ」と返します。圧倒されたニーナは、数年後パリを再訪した時に、この日本人シェフともう一度会ってみたいと心から思うのですが、店が見つからない。ジル・ルロワの創作エピソードに違いないのですが、じ〜んと迫る話です。そういう話ほかにもたくさんありますから。

GILLES LEROY "NINA SIMONE, ROMAN"
FOLIO文庫版 2015年3月刊 280ページ 7ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆ 

(↓)ニーナ・シモン「行かないで」