2009年7月31日金曜日

今朝の爺の窓 (2009年夏)




 わが窓の下を流れるセーヌの対岸、パルク・ド・サン・クルーの最も川側にあったマロニエの大木の並木が全部伐採されてしまいました。ずいぶん景色が変わりました。とは言っても,この写真ではわからないかしら?
 8月の末に3日間開かれるRock En Seineも、この並木がなくなったおかげで視界がかなり開けたので、塀越しに見る「ただ見客」が多数押し掛けて来ることでしょう。私たち家族は28日と30日の2日間行くことにしています。

 
 そのパルク・ド・サン・クルーで、しかもわが窓の真正面にあるカスカード(滝泉水モニュメント)を使って、9月12日に「ヨーロッパ最大の花火イヴェント」が開かれるのだそうです。名付けて Le Grand Feu de Saint Cloud 。地上12メートルの空中ステージのピアノショー(水とライトショーと小音量花火つき)が前座で、そのあと22時から23時20分まで、1時間20分の大花火ショー。
 こんな規模のものですから、入場料取るんですね。シャンパーニュつきのVIP席が56ユーロ(7500円?)、椅子席が39ユーロ(5300円?)、立ち見が大人で25ユーロ(3300円?)、子供で12ユーロ(1600円?)。観客の見込み数は20000人だそうです。私らの感覚では、花火ってただで見るものだと思いますがね。オフィシャルサイトで見たら、VIP席は「完売」となってましたね。わが家のバルコンを使って、超VIP席でヤミ商売しようかしら。

2009年7月19日日曜日

(トルス)トイ・ストーリー



 『はりねずみ』2009年フランス映画
 "Le Hérisson" モナ・アシャシュ監督
 主演:ジョジアンヌ・バラスコ、ギャランス・ル・ギエルミック、伊川東吾
 フランス封切:2009年7月3日


 2006年の大ベストセラー小説、ミュリエル・バルブリー作『はりねずみのエレガンス(L'élégance du hérisson)』の映画化です。原作はこの5月に文庫本化されたので、映画が良かったら読んでみようと思っていました。封切からちょっと日にちを置いての鑑賞なので、いろいろと良くない評判は聞いていました。この種の映画にはつきものの「原作小説と比べるとちょっと...」という物言いですね。
 映画はとてもわかりやすい構成です。パリの超高級住宅街の古い石造りの高級アパルトマン(だからエレベーターがしょっちゅう故障する)の5階に住む高級官僚の一家の次女パロマは,11歳で人生に絶望しています。体面のみを重視し,外でも家でも政治家答弁のようなものの言い方をする父親。なにひとつ不幸なことなどないのに,自分の不幸を分析してもらいに精神分析医に通い,亢進剤とシャンパーニュを交互に飲み,家のいたるところにある鉢植えの観葉植物に熱心に話しかける母親(演アンヌ・ブロッシェ。はまり役です)。その教育レールに乗って超俗物に育ってしまった姉。パロマは明晰な頭脳と豊かな絵画的想像力を持ち合わせているために,この家を呪い,この家で金魚鉢の中の金魚のように育つことを拒否し,1年後の誕生日に自殺することを決意します。その自殺の日までのカウントダウンをパロマはヴィデオ日記というかたちで綴っていきます。
 建物の最下階には多くの古い建物にあるように,入口横にコンシエルジュ(管理人室)があり,多くの場合がそうであるように,年中同じ服を着た,ふとっちょで,気難しい顔をした,住み込みの雇われ管理人のおばさんがいます。ルネ(ジョジアンヌ・バラスコ)はまさにそれを絵に描いたような女管理人です。管理人室にはいつでも誰も見ていないテレビが点きっぱなしになっている = これはフランス人が抱いている戯画的で侮蔑的な管理人イメージです。ルネはテレビなど全く興味がないのですが,その見ることのないテレビを(音量をゼロにして)わざわざ点けっぱなしにしておきます。自分がどこにでもいる平凡で透明で人畜無害の管理人であることをわざわざ見せつけるためです。ところがこのルネの実像はそうではないのです。
 このぶっきらぼうで怖い顔をしたおばさんの外見は「はりねずみ」のようにとげとげしいものでも,中身は全く違うのだ,ということをパロマは察しています。それはその机に置いてあった読みかけの本が「谷崎」だったりするのを見てしまったからです。
 ある日6階の住人が死に,代わりに初老の日本人紳士カクロウ・オヅ(伊川東吾)が新家主として引っ越してきます。東洋の神秘。不動産屋に連れられてオヅが初めて管理人室を訪れ,ルネと初対面します。オヅはルネに「前にそこに住んでいた家族をよくご存知でしたか?」と聞きます。ルネはつっけんどんに「どの家庭も似たようなもんです」と答えます。すると不動産屋が割って入って「幸せな家庭でしたよ」と言います。このあとの会話を下に書き取ります。

 ルネ "Toutes les familles heureuses se resemblent"
   (すべての幸福な家庭はみんな似通っている)
 オヅ "Mais les familles malheureuses le sont chacune à leur façon"
   (だが不幸な家庭はそれぞれ違ったかたちで不幸である)

 これを言われたルネは電撃的なショックを受けるのです。そしてオヅはルネの飼っている猫の名前が「レオン」と知って,ルネの驚愕が自分が想像しているものと同じものだと確信するのです。種明かしをしますと,この2行はロシアの文豪トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な出だし文句なのです。日本では「レフ・トルストイ」とファーストネームがロシア読みで通ってますが,フランスでは「レオン・トルストイ」。つまりこの猫はトルストイのファーストネームを付けられた愛猫である,とオヅは看破するのです。
 「はりねずみ」ルネは,管理人室の人目から隔絶された裏部屋を書庫書斎にして,数万の蔵書に囲まれて人知れず読書する無類の愛書家でありました。その上映画,音楽,絵画にも精通した,隠れ文化教養人でありました。この本当の姿を東洋の神秘の文化人オヅは少しずつ引き出そうとするのです。
 パロマはこの建物の中で,何かが変わりつつあるのを敏感に感じとり,ルネとオヅと接近していきます。この吐き気のするブルジョワ的環境の中にあって,ルネとオヅとパロマの3人は知と友愛のユートピアを築いていくのですが...。

 ジョジアンヌ・バラスコの役どころはとても難しいものです。故意に粗野,偏屈,無教養を装いながら,人目から隠れて文芸の豊かさに心を休める,知のエピキュリアンのような人物を一体どうやって体現化するのか? 顔やしぐさに,にじみ出る何かがなければ,この役は成り立たないでしょう。という理由で,私はこの役がバラスコではなく,ヨランド・モローであったら,ずっとそれらしい映画になるのではないか,と思ったのです。
 伊川東吾の役どころはとても難しいものです。(中略)。顔やしぐさに,にじみ出る何かがなければ,この役は成り立たないでしょう。
 それにひきかえ,自殺傾向のある少女パロマを演じたギャランス・ル・ギエルミックの,世の中を達観してしまったような一言一言,一挙手一投足にはたいへんな説得力があります。映画はこの少女でかなり救われているように思います。
 (重箱のスミですが...)オヅがルネを初めて自分のアパルトマンに招待して,日本料理と言って「私が料理しました」として自慢して出すのが「ギョーザ+ラーメン」だったりするのは,「教養文化人」のすることではねえべさっ!と思うのです。たとえ原作がそうであっても,伊川とか日本人スタッフが関わっているんだったら,ちょっと注意してあげるようなことができなかったでしょうかね。



↓『はりねずみ』予告編
 
Plus d'infos sur ce film
 

2009年7月15日水曜日

Great balls of fire!

 毎年7月14日の夜は、15区の建物の最上階のアパルトマンに住んでいるピエール=アントワーヌとナタリー夫妻のところで、エッフェル塔の花火を見るというのが恒例になりました。これで4回目かな? シャンパーニュ一瓶といなり寿司と巻き寿司を持っていく、というのがカストール家の毎年の挨拶礼儀で、それが評判良くて、寿司おけに入れた約50個のいなりや巻きは、いつもものの3分でなくなってしまうのでした。で、このおかげで毎年爺の一家はVIP扱いで、今年も特等席で花火を見ることができたのでした。
 今年はエッフェル塔が出来て120年というお祝いがあり、また花火の前座、おっと失礼、シャン・ド・マルスの無料コンサートが、引退ツアー中の国民歌手ジョニー・アリデイということもあって、たいへんな人出でした。
 で、それはそれは豪華絢爛な花火で、こんなすごいもの、見たことないのはもちろんのこと、今後死ぬまでに見ることができないんじゃないかな、とも思いました。花火というよりは無数の巨大な火の玉がエッフェル塔から連続的打ち出される図は、私の原始の心を鷲掴みという感じでした。センセーショナル&エモーショナル。

下のヴィデオは娘セシル・カストールが撮影しました。

2009年7月8日水曜日

よう売ってクレオール



La Compagnie Créole "L'Intégrale 1982-1990"
ラ・コンパニー・クレオール 『全録音集 1982-1990』

 昨夜はフランスの主要テレビ局の8割がマイケル・ジャクソン追悼セレモニーに占められましたが、国営フランス3は果敢にも当初予定の番組を変更せずに"LA FOLLE HISTOIRE DU DISCO"(狂気のディスコ・ストーリー)というディスコ・ミュージックを大回顧するプログラムを放映しました。司会はアマンダ・リアーでした。自分が"FOLLOW ME"というディスコ・ヒットを出した経緯がある当事者だからなんでしょうか、トーンが徹頭徹尾弁護的で、人はディスコをバカにしたり蔑んだりするけれど、実はこんなにすごい音楽なんだ、というのを証明しようとするんですね。できませんが。ディスコは「曲1曲」という単位ではなく「キロなんぼ」で売られる音楽だ、なんていう論者まで出てきました。困ったものです。一体この侮蔑は何なのでしょうか? 踊るための音楽というのはそうでない音楽より数段低級という、言われのない差別感覚が識者には顕著です。
 ラ・コンパニー・クレオールもその最盛期にはずいぶんと叩かれました。これを叩く人々にまずあるのは, "Musique de bal"(ダンスパーティー音楽)への蔑視です。冠婚祭,誕生日,クリスマス,新年などの時にターンテーブルに乗るレコードなど,鑑賞に値するわけがないという低級音楽観です。それから「本物ではない」という見方です。世は80年代前半,ワールド・ミュージック黎明期で,アフリカやマグレブやカリブからさまざまなポップ・ミュージックがフランスで聞かれだした頃です。その中でこのバンドは,仏海外県アンチーユ(マルチニック,グアドループ,ギュイアンヌ)出身の5人で構成されながら,パリで制作され,クレオール語を使わずフランス語で歌い,作詞作曲を本土白人に託して,テレビで口パクで歌っていました。これはカリブ・クレオールの衣をかぶっただけの,本土白人の商業的な産物でしかない,というわけです。そういう見方では,カッサヴやマラヴォワは本物であり,ラ・コンパニー・クレオールは偽物である,ということになります。ズークという新しい音楽の誕生が,仏海外県アンチーユの人々のアイデンティティーの高揚という社会的な意義を含んだ熱狂的な盛り上がりとなっていた時に,こいつらは本土白人に魂を売り渡した,といった極論も聞かれました。しかし,何を言われても,このバンドはめちゃくちゃに売れました。
 仕掛人は二人です。ジャン・クリューガー(フランス語読みして「クリュジェ」と呼ぶ人もいます)とダニエル・ヴァンガルドは、60年代半ばからソングライターチーム(どちらが作詞、どちらが作曲ということではなく、二人ともどっちもできるようです)兼プロデューサーとして、シェイラ、クロード・フランソワ、ペトゥラ・クラークなどへの曲提供者でした。以前この欄で紹介しましたレ・パリジエンヌのデビューにもジャン・クリューガーがプロデューサーとして関わっていて、レ・パリジエンヌのレパートリーにもヴァンガルド/クリューガーの曲があります。ダニエル・ヴァンガルドは自らシンガーとしてもレコードを出していて、コレクターサイト Encyclopedisqueによると、67年から79年の間に7枚のシングル盤を発表しています。そのうちの1枚71年の「シュワバダ・ディン・ドン」は「ダン&ジョナス」という名義になってますが、実はヴァンガルド&クリューガーなのです。またこの二人が71年に「ヤマスキ・シンガーズ」を名乗って今やカルトアルバムとなっている『華麗なるヤマスキの世界』を発表しています。このあたりから私たちはこの二人の異様な才能を意識せざるをえないのですが、並外れたレア・グルーヴと並外れたエキゾティスムは、70年代に「ディスコ」という優れて無国籍なダンスミュージックの勃興によって、ヴァンガルド/クリューガーは水を得た魚のごとき、八面六臂の活躍を開始します。ラ・ヌーバ、クラブ・サン・ティレール(「ヤマスキ」がデビューしたパリのクラブ)、ザ・グレート・ディスコ・ブーズーキ・バンド、ソウル・イベリカ・バンド、シェイラ&B・ディヴォーション、エディー・ジョンス...
 世界的ヒットはザ・ギブソン・ブラザース。いかにも源氏名なバンド名ですが、マルチニック島のソウルバンドに、サルサ風ディスコを歌わせた「キューバ」(1978)でミリオンヒット。続いてオタワン。カナダの首都もじりの名前ですが、グアドループ島出身のシンガー、ジャン=パトリック。オバカなディスコの世界的リファレンスとなる「D.I.S.C.O」(1979),「You're Ok / T'es OK」(1980),「Hands Up / Haut les mains」(1981)、これらはすべて全世界の地中海クラブで毎夏毎夜踊り狂われました。
 この二つがラ・コンパニー・クレオールの直接の先祖と言えましょう。すなわちヴァンガルド/クリューガーは仏アンチーユ出身のアーチストで世界的ヒットを出したという経緯から、このラ・コンパニー・クレオールにも勝算があったのです。ディスコが衰退しても、トロピカルなダンスミュージックは不滅である、と。この『全録音集』についてあるダニエル・イシュビア(ビル・ゲイツやマドンナの評伝著作のある人です)のライナーノーツによると、多くの業界プロたちから「こんなものは売れるわけがない」という否定的な意見があったにも関わらず、ということになってますが。ことの発端はダニエル・ヴァンガルドがパリのクラブでアルチュール・アパトゥー(グアドループ島出身。黒めがねと帽子のギタリスト)の弾くギターに惚れ込んだことでした。これをダニエル・イシュビアは「ズーク・ギター」のように書くんですが、これってタブー・コンボなどで聞かれるハイチのコンパのギターですよね。(というふうにイシュビアの解説というのは、いちいちひっかかるところがあります)。
 黒メガネ、超低音ヴォイス、コンパギターの人、アルチュール・アパトゥーと意気投合したヴァンガルドは、フランス本土で白人受けのするアンチーユ・ダンスバンドを作ることになります。ここで重要なのは「白人受けのする」ということで、アンチーユで受ける、または本土のアンチーユ・コミュニティーで受ける、ということを目的としてないのです。なぜならばそういうバンドは山ほどあり、その小さな市場でひしめいていたのであり、テクニック的にも音楽的にも優れていて、ちょっとやそっとで太刀打ちできるものではなかった、と思います。むしろ地中海クラブ的に、白人が楽しめて踊れる音楽が目的であり、その方が市場も大きく、ラジオやテレビにも門戸が開かれているからです。フランスでテレビが3チャンネルしかなかった時代ですから、門戸が狭いかわりに、それに乗じれば宣伝効果は甚大であったのです。
 アルチュール・アパトゥーがオーディションの結果、メンバーとして選考したのは、女性ヴォーカリスト/ダンサーのクレマンス・ブリングタウン(bringtown。他のカリブの島からbringされて来た家系でしょうか。マルチニック島出身)、ギタリスト/ヴォーカリストのジョゼ・セベルーエ(ギュイアンヌ出身)、サルサ系ベーシスト/ヴォーカリストのジュリアン・タルカン(グアドループ島出身)、ゴスペル系ヴォーカリスト兼ドラマーのギ・ベヴェール(マルチニック島出身)。つまり全員ヴォーカル担当です。仏海外県アンチーユ3カ所の出身者からなる5人組、ラ・コンパニー・クレオールが誕生しました。
 ダニエル・ヴァンガルドは最初、このバンドをオリジナル曲ではなくアンチーユのレパートリー(クレオール語)で勝負させます。それだけでは本土白人をアピールするわけがありません。その世界の百戦錬磨の猛者であるヴァンガルドは、アンチーユのダンサブルなフォルクロールをつなぎ合わせて、ダンスフロアにおあつらえの「ノン・ストップ・ダンスミュージック・メドレー」に仕立て上げます。AB面で35分に及ぶメドレーは、ヴァカンス地のクラブのターンテーブルを直撃します。それに加えて、島に行ったことがある人は知っていても、そうでない人には縁もゆかりもなかった島の甘く優しい大衆歌「バ・モエン・アン・チ・ボ Ba moin en ti bo」(小さくキスしておくれ)をダンスチューンにしてシングルヒットさせます。
 こんなものは売れるわけがない、としぶしぶだったレコード会社キャレールは仰天します。そしてそのまま続いてくれよ、という期待を無視して、アルチュール・アパトゥーはアンチーユ・トラッドを嫌って、ヴァンガルド/クリューガーのオリジナルに注目してしまいます。それはジョー・ダッサン、サッシャ・ディステル、カルロスなどに売り込んでおきながら、いずれからも断られていた "C'est bon pour le moral"という曲で、アパトゥーはこれを聞いた時、これは俺たちにうってつけの曲だから、ぜひ俺たちにくれと言って引き下がりません。1983年、ダニエル・イシュビアの解説によると、FMが自由化されて仏ロックのテレフォヌやバシュングが国内チャートを席巻し、クインシー・ジョーンズの洗練された編曲でマイケル・ジャクソンがダンスフロアを魅了していた頃、"C'est bon pour le moral"は「ビリー・ジーン」などとは遠い世界の曲でありました。大手ラジオ局に拒否され、大型店の見出し商品から外されたこの曲は、ある日この5人組がクロード・キャレール(同名レコード会社社長)の縁でテレビ局の歌謡番組(ギ・リュックス司会)に出演して口パクで歌ったのがきっかけで急激に火がつきます。「気分は上々。C'est bon pour le moral」大衆はこういうリフレインを求めていたのです。

Un p'tit feu pour démarrer, 小さく火をつけておいて
Une caresse pour décoller.  ちょっとおさわりで上昇気分
Si tu veux te réchauffer,  熱くなりたいんだったら
Faut savoir bien béguiner. 恋の火遊びを知らないとね

C'est bon pour le moral, これは精神衛生上いいことなんだよ
C'est bon pour le moral, これはとても気分を良くするんだ
C'est bon pour le moral, これで心も快感だ
C'est bon pour le moral, セ・ボン・プール・ル・モラル
C'est bon, bon, c'est bon bon, セ・ボン、ボン、セ・ボン、ボン
C'est bon, bon, c'est bon bon. セ・ボン、ボン、セ・ボン、ボン


 セ・ボン、ボン、嘘ついたら針、セ・ボン、ボン。ちょっと好色なクレオール気分。この「セ・ボン、ボン」は90年代初めに島の好色歌手フランキー・ヴァンサンのメガヒット「パッションフルーツ」(Vas y Francky, c'est bon bon bon...)に継承され、好色度を激化させます。ゲンズブールが歌ったように、いつの間にか島は3つの「S」、 Sea, Sex and Sun の集うところとなっていたのです。それはともかくとして、83年夏「セ・ボン・プール・ル・モラル」はNO.1ヒットとなり、老若男女の大衆的フランス人層全般に「セ・ボン、ボン!」と大唱和させたのでした。
 ヴァンガルド/クリューガーはおおいに焦ります。バンドはテレビにひっぱりだこで、コンサートツアーも組まれてしまいます。次なるオリジナル曲を出させば。新曲やヴァンガルド/クリューガーの引出しにしまっていた曲を次々に引っぱりだして、ラ・コンパニー・クレオールに歌わせますが、"Vive le douanier Rousseau", "Le bal masqué", "Ca fait rire aux oiseaux","Machine à danser"... ヒットに次ぐヒット。その最大のヒットとなった"Le bal masqué"(仮面舞踏会)は、フランスのシングルチャート上に32週乗り続けるという最長記録を達成したのでした。デカレカタン、デカレカタン、オエ、オエ!

Aujourd'hui 今日はキスしたい人みんなに
J'embrasse qui je veux, je veux キスできるのよ
Devinez, devinez, devinez qui je suis 私が誰だか当ててごらん
Derrière mon loup, 仮面に隠れて 私はキスしたい人にだけ
J'embrasse qui je veux, je veux キスするの
Aujourd'hui, tout est permis 今日は何でも許されるのよ


 クレマンスがスカートひらひらさせて「今日は何でもOKよ」と歌えば、そのままメガヒットになる、ってもんじゃありませんが、健康お色気とトロピカルなダンスビートで、このバンドは90年まで第一線を走り続けます。覚えやすいリフレイン、大衆的なBPM、満面の笑みで歌う5人のかけあいヴォーカル、難しいことなど何一つないからこそ愛された音楽でした。ヴァンガルド/クリューガーはその辺のツボを心得ているゆえに、時勢の流行りものをひょいひょいと剽窃してきます。ズークやコンパのパクリはもちろん、サルサが流行ればサルサ、ソカが流行ればソカ、レゲエが流行ればレゲエ、そんなふうに手を変え品を変えなんですが、基本的には金太郎飴のようなトロピ・ダンス歌謡がラ・コンパニー・クレオールの真骨頂です。

 この『全録音集』は6枚のオリジナルアルバムを4枚のCDにまとめた65曲入りです。さすがにまとめて聞いたら、脳が溶けそうになります。しかし、ゆっくり時間をかけて、1枚ずつ聞いていくと、ヒット曲でないものの中に、なかなか捨てがたいグルーヴ感があったり、腰がふっと軽くなるようなライト感覚(チック・コリアのリターン・トゥー・フォーエヴァーかな、ライト・アズ・ア・フェザー)があるものがあります。島の音楽として聞くということに拘らなければ、このライト・ミュージックの大衆性はたいへん興味深いものに聞くことができるはずです。

LA COMPAGNIE CREOLE "L'INTEGRALE 1982-1990"
4CD FREMEAUX & ASSOCIES FA5224
フランスでのリリース : 2009年6月


(↓ LA COMPAGNIE CREOLE "C'EST BON POUR LE MORAL")


(↓ LA COMPAGNIE CREOLE "LE BAL MASQUE")


 

2009年7月7日火曜日

濡れたカラスの羽根のように黒い



Richard Ruin & les Démoniaques "THE HEIMLICH MANOEUVRE"
リヒャルト・ルイン & レ・デモニヤック 『ハイムリッヒ・マヌーヴァー』


 ベルリンの人。だから「リヒャルト・ルイン」とカタカナ表記しましたが,定かではありません。アルバムタイトルの「ハイムリッヒ法」というのは,不意に食べ物が喉に詰まったりして窒息状態になった時に,背後から両腕で抱き,胸とへその間に拳を当てて5回ほど思い切り圧迫して,喉に詰まったものを吐き出させる応急救助法のことです。言い得て妙なタイトルで,このアルバムは胸に詰まったものを絞り出すようなヴォーカルがこの人の真骨頂です。
 トム・ウェイツ,スコット・ウォーカー,ボウイー,ニック・ケイヴ... 私にはそんなところがすぐに思い出されますが,黒々とした抒情は私たちのバシュングを想わせますし,ダンディーぶるところは私たちのクリストフも。コールドウェイヴ〜ノーウェイヴよりはずっと情念的なギターやストリングスや金管の音がしてますし,どうやらバッド・シーズ,アインツルツェンデ・ノイバウテン,スワンズなどと関わった人たちがバッキングしているようです。バンド名は「レ・デモニヤック」とフランス語です。悪魔に取り憑かれた人々という意味です。はい,怖いですね,怖いですね。
 退廃や耽美よりも,抒情の昂りを重んじるような,1曲1曲が丁寧に構成されていて,一級の演歌,一級のファド,一級のお涙モノクロ短編映画を想わせる出来です。私のような泣きものが好きな中高年にはたまらないアルバムです。

<<< トラックリスト >>>
1. LOW
2. LACRIMA
3. THE SCARIEST THING
4. SPEAK A LITTLE SPELL
5. DEEPER
6. MISFORTUNATE
7. POISON
8. DARK EYES
9. THINGS YOU DON'T KNOW
10. NO SORROW
11. JUST BREAKING
12. SOMEHOW

RICHARD RUIN & LES DEMONIAQUES "THE HEIMLICH MANOEUVRE"
CD LE BONBON NOIR LM60441S
制作2006年。フランスでのリリース:おそらく流通されていない。


(↓) RICHARD RUIN "POISON"
その他 YouTube上にニューヨークでのライヴ画像数編公開中。

2009年7月4日土曜日

『カストール爺の生活と意見』は2周年を迎えました




 当ブログ『カストール爺の生活と意見』は本日で2周年を迎えました。
 その前にしていたHPのことを考えれば、ずいぶんとゆっくりしたペースで続けてますが、職業的必要度と無縁のスペースなので、私も好き〜にやっています。時代は変わって、画像や映像が簡単に載せられるようになったので、書いてることがずいぶんと分かりやすくなったのではないかと思います。インターネットの進歩は私たち中高年の想像力では考えられません。一方で音楽媒体(CDやレコード)の没落や、活字メディアの衰退などがあり、私たちはインターネットの進歩のお手伝いをしすぎた感もあります。しかし原稿依頼で「〜字以内」や「XとXXについての言及必須」みたいな制約があったり、スポンサーや業界への目配りを余儀なくされることを考えたら、こういうブログに書くことの自由は何よりも貴重なものです。
 原則は「私は好きで書いている」ということです。これに少なくない読者の方たちがいらっしゃることは、とても励みになります。音楽を聞いたり、本を読んだり、映画を観たりすることは、本来楽しいことであるはずです。過去にそれらを職業的に消化していた時期がありました。何かを書くために、何かを言うためにそれをしなければならなかった、という無理をしていたのですが、アホらしいことをしていたものです。
 さまざまな高価な娯楽に比べれば、本は安い、映画は安い、CDは安いと思います。中高年はこういう好きなものにしがみついて老いていきます。同好の士に、長かったり短かったりする文章で、こういう場所で語っていけるのは、書く側の喜びと一種のセラピーでもあります。
 もうしばらく続けるつもりなので、今後とも、ひとつ、よろしく。

2009年7月1日水曜日

スタジオ盤『リリ・パッシオン』の怪



 7月1日号のテレラマ誌(こちら様も表紙はマイケル・ジャクソンでした)で,同誌シャンソン担当のヴァレリー・ルウーが,バルバラ(1930-1997)作,バルバラ+ジェラール・ドパルデュー主演の音楽劇『リリ・パッシオン』にスタジオ録音盤が存在したと書いています。この音楽劇は1986年1月にパリのゼニットで上演され,その模様はダブルライヴアルバム『リリ・パッシオン』として記録されています。しかしこのライヴ盤の前に,1985年秋に『リリ・パッシオン』がスタジオ録音されていた,と言うのです。
 この録音に大きく関わった二人のミュージシャンがいます。ひとりはオーケストレーションを担当したウィリアム・シェレール,もうひとりは20年近くに渡ってバルバラの伴奏アコーディオニスト/キーボディストだったロラン・ロマネリ。シェレールはその編曲に至極満足していて,「傑作」と自評するのですが,逆にロマネリはそれを最低と酷評し,その意見の相違のために,バルバラとの20年来のコラボレーションをご破算にして,バルバラと絶交してしまいます。ロマネリ離脱によって,このスタジオ録音はオクラ入りし,ライヴ用のオーケストレーションはスタジオのそれとは全く違ったものになった,ということなんですね。
 ヴァレリー・ルウーは,ロマネリとの離別に深く傷ついたバルバラが,この録音をどこかに埋めてしまったもの,と思っていたのですが,実はバルバラが亡くなる数ヶ月前に,バルバラ自身が所属レコード会社にこの録音を探し出して発表するようにと依頼していたことがわかったのです。つまりバルバラの記憶ではこの録音はレコード会社のアーカイヴにまだ残っていることになっているんですね。
 その後のことはルウーも知らないそうなのですが,必ずやいつか陽の目を見て欲しいですね。それがアーチストの遺志だったのですから。