"Le Hérisson"
『はりねずみ』
2009年フランス映画
監督:モナ・アシャシュ
主演:ジョジアンヌ・バラスコ、ギャランス・ル・ギエルミック、伊川東吾
フランス封切:2009年7月3日
2006年の大ベストセラー小説、ミュリエル・バルブリー作『はりねずみのエレガンス(L'élégance du hérisson)』の映画化です。原作はこの5月に文庫本化されたので、映画が良かったら読んでみようと思っていました。封切からちょっと日にちを置いての鑑賞なので、いろいろと良くない評判は聞いていました。この種の映画にはつきものの「原作小説と比べるとちょっと...」という物言いですね。
映画はとてもわかりやすい構成です。パリの超高級住宅街の古い石造りの高級アパルトマン(だからエレベーターがしょっちゅう故障する)の5階に住む高級官僚の一家の次女パロマは,11歳で人生に絶望しています。体面のみを重視し,外でも家でも政治家答弁のようなものの言い方をする父親。なにひとつ不幸なことなどないのに,自分の不幸を分析してもらいに精神分析医に通い,亢進剤とシャンパーニュを交互に飲み,家のいたるところにある鉢植えの観葉植物に熱心に話しかける母親(演アンヌ・ブロッシェ。はまり役です)。その教育レールに乗って超俗物に育ってしまった姉。パロマは明晰な頭脳と豊かな絵画的想像力を持ち合わせているために,この家を呪い,この家で金魚鉢の中の金魚のように育つことを拒否し,1年後の誕生日に自殺することを決意します。その自殺の日までのカウントダウンをパロマはヴィデオ日記というかたちで綴っていきます。
建物の最下階には多くの古い建物にあるように,入口横にコンシエルジュ(管理人室)があり,多くの場合がそうであるように,年中同じ服を着た,ふとっちょで,気難しい顔をした,住み込みの雇われ管理人のおばさんがいます。ルネ(ジョジアンヌ・バラスコ)はまさにそれを絵に描いたような女管理人です。管理人室にはいつでも誰も見ていないテレビが点きっぱなしになっている = これはフランス人が抱いている戯画的で侮蔑的な管理人イメージです。ルネはテレビなど全く興味がないのですが,その見ることのないテレビを(音量をゼロにして)わざわざ点けっぱなしにしておきます。自分がどこにでもいる平凡で透明で人畜無害の管理人であることをわざわざ見せつけるためです。ところがこのルネの実像はそうではないのです。
このぶっきらぼうで怖い顔をしたおばさんの外見は「はりねずみ」のようにとげとげしいものでも,中身は全く違うのだ,ということをパロマは察しています。それはその机に置いてあった読みかけの本が「谷崎」だったりするのを見てしまったからです。
ある日6階の住人が死に,代わりに初老の日本人紳士カクロウ・オヅ(伊川東吾)が新家主として引っ越してきます。東洋の神秘。不動産屋に連れられてオヅが初めて管理人室を訪れ,ルネと初対面します。オヅはルネに「前にそこに住んでいた家族をよくご存知でしたか?」と聞きます。ルネはつっけんどんに「どの家庭も似たようなもんです」と答えます。すると不動産屋が割って入って「幸せな家庭でしたよ」と言います。このあとの会話を下に書き取ります。
ルネ "Toutes les familles heureuses se resemblent"
(すべての幸福な家庭はみんな似通っている)
オヅ "Mais les familles malheureuses le sont chacune à leur façon"
(だが不幸な家庭はそれぞれ違ったかたちで不幸である)
これを言われたルネは電撃的なショックを受けるのです。そしてオヅはルネの飼っている猫の名前が「レオン」と知って,ルネの驚愕が自分が想像しているものと同じものだと確信するのです。種明かしをしますと,この2行はロシアの文豪トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な出だし文句なのです。日本では「レフ・トルストイ」とファーストネームがロシア読みで通ってますが,フランスでは「レオン・トルストイ」。つまりこの猫はトルストイのファーストネームを付けられた愛猫である,とオヅは看破するのです。
「はりねずみ」ルネは,管理人室の人目から隔絶された裏部屋を書庫書斎にして,数万の蔵書に囲まれて人知れず読書する無類の愛書家でありました。その上映画,音楽,絵画にも精通した,隠れ文化教養人でありました。この本当の姿を東洋の神秘の文化人オヅは少しずつ引き出そうとするのです。
パロマはこの建物の中で,何かが変わりつつあるのを敏感に感じとり,ルネとオヅと接近していきます。この吐き気のするブルジョワ的環境の中にあって,ルネとオヅとパロマの3人は知と友愛のユートピアを築いていくのですが...。
ジョジアンヌ・バラスコの役どころはとても難しいものです。故意に粗野,偏屈,無教養を装いながら,人目から隠れて文芸の豊かさに心を休める,知のエピキュリアンのような人物を一体どうやって体現化するのか? 顔やしぐさに,にじみ出る何かがなければ,この役は成り立たないでしょう。という理由で,私はこの役がバラスコではなく,ヨランド・モローであったら,ずっとそれらしい映画になるのではないか,と思ったのです。
伊川東吾の役どころはとても難しいものです。(中略)。顔やしぐさに,にじみ出る何かがなければ,この役は成り立たないでしょう。
それにひきかえ,自殺傾向のある少女パロマを演じたギャランス・ル・ギエルミックの,世の中を達観してしまったような一言一言,一挙手一投足にはたいへんな説得力があります。映画はこの少女でかなり救われているように思います。
(重箱のスミですが...)オヅがルネを初めて自分のアパルトマンに招待して,日本料理と言って「私が料理しました」として自慢して出すのが「ギョーザ+ラーメン」だったりするのは,「教養文化人」のすることではねえべさっ!と思うのです。たとえ原作がそうであっても,伊川とか日本人スタッフが関わっているんだったら,ちょっと注意してあげるようなことができなかったでしょうかね。
(↓『はりねずみ』予告編)
4 件のコメント:
僕は職業柄「はりねずみ」と「いんげんまめ」には、大変お世話になっています。エリソンとアリコはリエゾンしないHの説明に欠かせない。
あと、エリソンの形のお菓子がありますね。銀座通りにダロワイヨがあってアイスクリームのエリソンの大きいのを食べるのが夢でした。
ところで、僕も訳もわからずに読者になったのです。なにが有利なのかなど知らずに。最近読者になったり生徒になったりピンチヒッターになったり大忙し。
でも、一般に言う方の翁の読者を何年か続けて常に幸福です。最近はSaabヴァン・コントレール氏にも毎月「ラティーナ」でお目にかかれますが、「同じ事書いてるなぁ」などとは少しも思わず、だんだんヴァージョン・アップするのが楽しい。8月号の「フランス史」も、ああいう言い回しがビーバーおじさんの真骨頂だと感動しました。
いつもそうなのだけれども一件書き忘れました。
ていうか、これが本題だったのに。
原作では「ラーメンとギョウザ」ではなく「餃子の後に、ざる蕎麦」でした。オヅ氏はサーヴしながら「普通の献立じゃないんだけど」とか言い訳けしてた。
原作をゆっくりと1日数頁のペースで読んでいるタカコバー・ママが、作者ミュリエル・ベルブリーは2008年から京都に住んでいると教えてくれました。この作品を書いている頃は一度も日本に来たことがなかったそうです。
件の料理は "zalu ramen"となっています。ピーナツの香りがして、少し甘いソースにつけて食べる麺、という表現ですから、これは「つけ麺」かな、とも思うのですが、nouilles froidesとなっているので、日本語訳者が「ざるそば」にしてしまったのでしょう。私は「ピーナツだれの冷やし中華」だと思います。
「ざるラーメン」。気になってネットで調べたら,「ざるラーメン」「ざる中華」というのが存在するのですね!(うわ...また浦島太郎シンドローム...)
「冷やし中華」はスープ(たれ)がかかって出て来るのに,「ざるラーメン」は,麺(ざるの上)とたれが別々に出て来るというわけなんですね。だからミュリエル・バルブリーの原作は全然おかしいことを書いているわけではなかったのです。日本語訳者はなぜこれをわざわざ「ざるそば」にしたのでしょうか?
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