ポール・ガスニエ『衝突』
リリア・アセーヌ(『苦々しい太陽』、『パノラマ』)、アンブル・シャリュモー(『生きとし生けるもの』)に続いて、テレビTMCのトーク番組「コティディアン(Quotidien)」のジャーナリストの中から3人目の作家がデビューした。ポール・ガスニエは1990年生れ、2019年から「コティディアン」のジャーナリスト/コメンテーターとして時事/社会/国際問題を担当する切れ者記者である。
ガスニエの初の文学作品『衝突』は2025年8月21日にガリマール社から刊行され、9月8日に発表された2025年度ゴンクール賞の第一次選考の15作品の一つに選ばれていて、9月中は書店ベストセラーの上位にあって注目されていた。ロマン(小説)ではなくレシ(出来事記録)であり、自身の母の母の死(”事故死”とも”他殺死”とも呼ぶのに躊躇う)に関するその後の自身の調査によって知られていくさまざまなことの記録である。
著者の立場はポール・ガスニエ自身であり、テレビにも露出する時事リポーター/ジャーナリストであるが、母の事件があった時(2012年6月6日)著者は21歳で、インドのボンベイ(ムンバイ)でフランス大使館管轄の仕事をしていた。事件現場からは遠いところにいたのだ。
場所はリヨン市1区、リヨン市役所のあるクロワ・ルース地区、高台クロワ・ルースの丘から市庁舎広場の方に降りてくる細い坂道ロマラン通り、作者の母は自身が半年前に開設したばかりのヨガ練習場に向かって自転車を漕いでいた。そこへ背後から時速80キロで”ウィリー走行”(前輪を地面から浮かせ後輪のみで走行する曲乗りテクニック)で突進してきたモトクロス・バイク KTM654cc(→写真)に追突される。母は病院に収容されるが1週間の昏睡状態の末に命を落とす。
これはフランスでは2010年代から社会現象化した"Rodéo Urbain(ロデオ・ユルバン)”と呼ばれる、オートバイ、四輪バギー、四輪車などが公道上で極端な曲乗りテクニックを競う非合法スペクタクルと関連している。乗っていた18歳の少年はこの6月の午後の時間に狭い坂道の公道で、ひとりロデオ・ユルバンを気取り、悦に入っていたのだが、前方を走る自転車を避け切れない。この火の玉バイクKTM654ccは、バイク愛好者専門サイトでは「テストステロン(男性ホルモン)とならず者の血から構想された」と評されていて、そのデザインは「凶暴」と形容されている。2022年のゴンクール賞作品ブリジット・ジローの『生き急ぐ Vivre vite』では、作者の伴侶クロードがホンダCBR900ファイアブレードという怪物オートバイにまたがり予期できなかったウィリー走行に吹っ飛ばされて即死する。ある種のオートバイは魔物であり怪物であり重破壊兵器である。これは四輪車も同じか。
件の少年はこの怪物を操るための免許を持っていない。大麻検査に陽性反応が出ている。名前をサイードと言い、モロッコ系移民二世である。一度ならず前科があり、警察からはすでにマークされている。
さらにこの事故/事件には付帯状況があり、負傷したサイードに代わってその時現場にいたサイードのダチ2人が証拠を隠すためにKTM654ccに乗り逃走している。警察の取り調べにサイードは(無免許罪を免れるために)自分が乗っていたのは軽スクーターだったと虚偽の証言をしていたが、すぐに事故を起こしたKTM654ccが見つかってしまう。防犯カメラ映像の証拠もあるのに、事故状況についていろいろ虚偽証言を繰り返すがすべてバレてしまう。絵に描いたようなステロタイプな”郊外”不良である。そして事件から裁判(1年半後の2013年暮)までの予防拘禁期間にも、仮保釈条件のリヨン1区に足を踏み入れないという禁を破って、10数回1区にいる姿を防犯カメラが捉えている(それには理由があるのだが、あとで述べる)。
無免許、スピード違反、曲乗り、麻薬効果.... といった条件で引き起こされた事故であっても、殺意はなく、”過失致死”の範疇に入れられる。サイードへの判決は禁固4年が言い渡され、予防拘禁期間などを差し引くと、サイードはこの判決の夜から監獄で暮らし、1年3ヶ月で出所することになる。この刑が軽いのか重いのか。被害者(作者の家族)側の弁護士はこの判決に満足しているので、そんなものなのだろう。
だが、当時の作者はこの途方もない事故/事件に、冷静に向き合うことなどできるわけがなく、悲しみ、怒り、憎しみ、不可解といった感情が混然と襲ってきて、この”喪”はいつまでも明けられないでいた。
母の死から10年の月日が経つ。その間に作者はジャーナリストになっていた。2022年春のフランス大統領選挙に向けて、作者は某候補者(作中では名指されていないが、当時急伸長して極右RN党のマリーヌ・ル・ペン候補を脅かしていた新極右党”再征服”のエリック・ゼムール)の選挙キャンペーンを追跡していて、某大規模集会(作中では特定されていないが2021年12月5日パリ北郊外ヴィルパント国際見本市会場で催されたゼムール候補の決起集会=15000人参加)に取材に行き、そこで展開される極限まで白熱した集団ヒステリーに驚愕するのである。極右RN党に輪をかけた過激な移民排斥論で支持を拡大した同候補は、日々の三面記事ネタで世を騒がせる移民絡みの犯罪&事件をあれもこれもと例に出し、市民生活を脅かし伝統文化を破壊し治安を崩壊させる悪のすべてが移民問題に起因しているがゆえに、早急な移民ゼロ政策の断行を訴え、大喝采を浴びている。移民によって家族を殺され、傷つけられ、公園や職場や教室を占領され、ビジネスを失い、テロに怯え.... そういう被害者たちが涙を流しながらゼムールの演説に救世主を見出して極端に興奮しているのだ。作者は、そこで自分はその被害者のひとりだと気がつく。移民の不良少年の凶悪バイクによって母を殺されたのは私だ。私は”権利として”ゼムールの側につくはずの人間なのだ。作者は揺れ動かされる。
10年前の母の死で自分を襲ってきた悲しみ、怒り、憎しみ、不可解といった感情のありかを検証するべく、作者は再びこの事故/事件の真相/深層を調査していくというのがこの小説である。母を死に追いやったものは事故なのか、事件なのか、この境界の曖昧な出来ごとを作者は事故とも事件とも名指さずに、「衝突 (la collision) 」と呼ぶことにした。
アプローチはジャーナリスト的であり、警察や裁判所の事件簿をはじめ、被害者側の弁護士、被告側の弁護士、この裁判の担当判事まで直接のインタヴューを得ている。そして自分と3歳しか違わない同世代人であるサイードの個人史についてもさまざまな証言を通して概観を掴んでいく。
この「衝突(la collision)」とは、分断化され敵対する二つの世界の衝突のように単純化され短絡的に構図化されうるのか? フランス対移民社会、BoBo(ブルジョワ・ボエーム=左翼エコロジスト系新上流クラス)対パラレル(地下)経済(麻薬・贋ブランド流通)無法社会、良識ある大人社会対無軌道な若者たち...。この対立を鮮明な善悪論で断じ、憎悪を煽り、解決は排斥しかありえないとする極右ポピュリズムに、母の死は加担することになるのか?
作者と母は親友同士のような仲の良さだったと言う。作者は母をママンと呼ばず、そのファーストネームで呼んでいた。作者は母の生き方が好きだった。母が体現してきて作者が受け継いだ「こちら側」のヴァリュー(価値)を「衝突」によって壊されまい、守りたいと構えるのだが、「衝突」してきたものは”敵”だったのか、”悪”だったのか。
母は1957年グルノーブルで生まれた。その祖父は第二次大戦抗独レジスタンス殊勲者でレジオンドヌール勲章も授かっている。裕福ではないが7人の子沢山で賑やかで自由な雰囲気の家族だった。イエイエに合わせて踊り、活発な青春期を過ごし、16歳で未来の夫(作者の父)と出会い19歳で結婚した。”結婚したから私は何でも自由にできる”(p.88)と考える女性だった。母はパリで建築学の勉強を終えフリーの建築家となり、情報工学エンジニアだった(つまり当時最先端だった)父は世界中どんなところでも仕事ができる身の軽さがあり、インドのポンディシェリを皮切りに、プラハ、ミラノ、ニース、ロンドンと転居していった。7歳上の姉と作者はほんの小さい頃からこの父母の移住の旅に同行し、自然とコスモポリタンな子供に育った。東欧共産圏が崩壊して新しい民主国家となったチェコのプラハで、古い修道院を旧共産党政府が接収して政治囚収容監獄に使っていた石造の建物を、35歳の若き建築家だった母がフランス政府を後ろ盾にフランス語学校を中心にした文化施設にリニューアル改造するという大仕事を請け負っている。才能もあり機会にも恵まれ、一家は世界を楽しむように転々としてきたが、母はいまだに”男性原理”的であり、クライアントに妥協を強いられる建築界に限界を感じるようになり、新しいことに活路を見出したいと、何年も研究/学習して準備していたのが「ヨガ」だった。最初の移住地ポンディシェリが”修行”の始まりであるから、30年のヨガ修練者であり、サンスクリット語で文献を読み漁る”マスター”だった。ロンドンから帰仏し、リヨンに居を定めたのは、このヨガスタジオを開設するのにクロワ・ルース地区が最適と踏んだからだった。そしてヨガスタジオのオープンの半年後に、母は「衝突」によって帰らぬ人となる。
クロワ・ルース地区が古都リヨンにあって昨今一風変わった人気スポットになっているのには長い歴史がある。古く繊維業で栄えたこの地区は、クロワ・ルースの丘陵に多くその織工たちや関連産業の労働者たちが住んでいた。その経営陣たちはリヨン中心街にいるのだが、まだ組合や労働運動などなかった頃、この労働者たちは自警団的に武力を装備して経営陣らに待遇給与改善などを交渉し、時には武力に訴え、流血沙汰にもなり、市民たちから恐れられた。フランス革命後も、クロワ・ルースは武装解除に従わず、その労働者コミューン的性格は受け継がれ、産業革命時に流入してくる労働者たちを受け入れていく。フランス随一の金融都市リヨンにあって、この職人町は重要な対抗勢力になっていく。産業形態・経済システムが変わっていっても、その気質は継承され、1960年代には最初期のマグレブ系移民労働者たちもこのクロワ・ルースの丘に住み、”受け入れられ”同化していったのである。
大規模な移民移入が進み、大都市は低所得者用高層集合住宅(シテ)を林立させた郊外タウンを周囲に作り、その受け皿にしたのであるが、リヨンもその”荒れる郊外”の代名詞となったヴェニシュー市のマンゲット地区(1981年から移民系住民の暴動が起こっている)をはじめ、多くの周辺都市がマンゲット化した。
クロワ・ルース地区が”移民街”にならなかったのは、リヨン市内ということで住宅費/生活費の高さのせいもあるが、パリでもリヨンでもどの大都市でも市政・都市再開発は低所得者層を郊外に追いやることを露骨にやってきたのである。その結果、ある種乱雑として汚くすらあった旧庶民街が1980年代頃から妙に小綺麗になり、芸術家やプチブルジョワたちも集まってきて、ちょっと古くもあり、エキゾティックでもあり、絵になる街並みになってスノッブな若い人たちで賑わうようになる。私はここで、私が1996年から事務所を持っていたパリ11区オーベルカンフ通りのことを想うのであるが、庶民的意味でごちゃごちゃだった旧職人街が見る見るうちに小洒落た街に変身していく様をこの眼で見ている。それと同じような感じだと想像するが、リヨンのクロワ・ルース地区は人々を惹きつける魅力を獲得したのだった。そして政治的には、オーベルカンフ通りもクロワ・ルース地区も、左派・左翼・エコロジストに投票する人たちが多数派なのである。
さて件のサイードの父は1960年代に最初の”移民の波”に乗ってモロッコからリヨンにやってきた。30代だった。インドシナ戦争(1946年ー1954年)では、”フランス兵”として前線に送られている(これは作者が書いているのだが、インドシナ戦争はフランス植民地の独立勢力とフランス植民地から送られた”フランス兵”が戦った、フランス人が手を汚さない戦争だった)。そしてクロワ・ルース地区に住居を構えられた。妻をモロッコから呼び寄せ、家族を構成し、子供は3人授かり、末っ子がサイードだった。この一家とほぼ時期を同じくしてこのクロワ・ルースの丘に住み着いたマグレブ系移民たちは、後年になって郊外にしか入居できなかった移民たちに比べると恵まれていた、と言うべきか、ある種のハッピーヒューであったかもしれない。そして先住者(=クロワ・ルース市民)たちとの軋轢が後年の郊外入居者たちよりも少なかったかもしれない。クロワ・ルースには労働者たちを”迎える”伝統があったはずだし。
サイードのようにそこで生まれ、そこで育った移民の子たちは、周りに”フランス社会”を見て育っていて、その点が上述のマンゲットのように言わば”ゲットー化”された社会しか知らずに育った子たちとは違うはずではないか。荒れていない公立学校に通い、勉強すれば高等教育の道も開けたはずだ。いわゆるフランス人側から見る”同化”が可能な環境だった。さらに言えば、この一家は裕福ではないが、貧乏では全くない。4人の子と妻を養い、一家を定期的にモロッコにヴァカンスで連れて行き、家を購入できる収入(+フランス退役軍人交付金)がサイードの父にはあった。その環境にありながら、この4人の子供のうち、2人(長兄のアブデルと末っ子のサイード)が勉強を嫌い、学校を嫌い、職業訓練を嫌い、グレた。本稿の後で登場させるが、姉のアフシアは非常に聡明な女性で、一人で父母とサイードを弁護する立ち回りをしている。
このグレ=非行化の大きな要因と言えるのが、1990年代からフランス全国に浸透してしまったドラッグ禍であり、少年たちがその売買ルートの末端実行役になるだけで簡単にいい報酬が得られる地下経済が出来上がってしまったことだ。勉強と学校を嫌った兄アブデルはディーラーになった。監獄も経験している。だがこのアブデルはただの”ワル”ではなかった。少年グループの兄貴分として人望が厚く、近所の大人たちも好印象を持って一目置く硬派の”兄ィ”で、娘たちにも人気があった。サイードはアブデルが自慢の兄だったし、自分のモデルでもあった。兄についてまわり、兄もサイードを可愛がっていた。だがアブデルはドラッグ密売グループ同士の抗争に巻き込まれ、アブデルのかつてのダチに射殺されてしまう。サイードは最愛の人物を失ったのである。それが作者の母の死の1年前に起こった事件だった。
弟サイードの計り知れないショックだけでなく、このアブデル射殺事件はリヨン1区クロワ・ルース地区にも大変なショックとなり、この地区の不動産評価額が軒並み20%下落し、リヨン市と公安当局はこの地区の治安悪化に歯止めをかけることが最緊急課題となった。兄を失いますます無軌道な不良となったサイードは、警察に世話になる回数を増やした。
裁判でサイードの弁護士だった人物からも、サイードの地区で接触があったソーシャルワーカーからも、その他作者が裁判の10年後に取材し得られた証言からも、異口同音にサイードの人物像は”どうしようもないやつ”なのだ。何度裁判をやり、何度監獄に入ろうが、懲りずにまた同じ(小さな)ことをしてしまう。この小説の中で作者は、公判などで同じ場所に居合わせることはあっても、一度もサイードと対面していない。面と向かい、言いたい、確かめたい、聞きたいことはある。するべきかしないべきか。この小説の時間で作者はしていない。
ひとつ重要と思われることがある。サイードは作者の母を死なせた「衝突」のあと、その1年半後の公判までの間に、”父親”になっている。予防拘禁期間に、仮保釈条件のリヨン1区に足を踏み入れないという禁を破って、10数回1区にいる姿を防犯カメラが捉えているのは、そのためだったのだ。どうしようもないならず者だったサイードがこれで変わるかもしれないとは考えられないことではない。
小説の大きな山場は、サイードの姉アフシアとの対面である。アフシアは10年前のサイードの公判の時に、法廷の外の廊下で、作者の家族の方に一人で歩み寄り、サイードの家族の名において深く詫び、許しを乞うたという経緯がある。健気で、彼女の家族の尊厳を一身で守ろうとする強い心の女性だ。10年後、作者の申し出に応じて、リヨンのカフェで再開する。弁護士やソーシャルワーカーらの証言とやや温度差があり、アフシアはサイードが事件後どれほど後悔し、どれほど消沈し、どれほど自分のせいで亡くなったマダムとその家族へ詫びの心があったかを語るのだが、その真摯さには疑いの余地がない。敬虔なムスリムであるアフシアの語りの核心的ことばは「許し pardon」である。これは敬虔なキリスト者でも同じなのかもしれない。アフシアはもう一人の弟アブデルが射殺されたあと、悲嘆と憎悪と消沈の入れ混ざった煩悶の日々を送っていたが、そこから前に歩み出すために「許し pardon」を選んだと言う。
このことは10年前、「衝突」から1年後の2013年夏、作者が思い立ってリヨンからパリまで徒歩縦断を挙行するのだが、その途中サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の出発地として知られるヴェズレーでひとりの巡礼者セルジュと遭遇し、母の死に整理のつかない怒りと悲しみと憎しみと不可解に苛まれている作者に、セルジュはやはりサイードへの「許し pardon」を説くのである。その時作者は承服していない。だが10年後、その姉アフシアの説く「許し pardon」には心が動いてしまうのである。
もうひとつ山はやってくる。作者のリヨンでの”母の死再検証”の調査も一段落する頃、親しくなった裁判所筋から情報が入る。サイードがまたまた再犯したらしい。前段のアフシアとの対面での会話では、サイードがやっと抜け出しつつある(具体的にはミニ運輸会社を設立してまっとうに稼動しつつある)ことをアフシアは強調していたのだが...。やはりダメなのか。何度更生しようとしても同じように転んでしまうやつなのか。作者はそれを知りたいのだ。知ったところでどうなるものでもないのに。母の死が、この野郎がどんな卑劣漢かを知ったところで何も変わりはしないのに。作者はこのサイード再々々々々犯裁判の公判を傍聴すべく、裁判所にやってくる。その姿を見た姉アフシアが作者の前に立ちはだかる。家族の尊厳を尊重してほしい。私たち家族はサイードを擁護するためにここにいる。あなたがここにいることで私たちの立場は揺らいでしまう。今すぐここを立ち去ってほしい。
アフシアは最後の最後までサイードを庇うだろう...。
母を死なせた「衝突」事件の裁判長だった人物が、作者にこんなことを言う。この話に何か教訓はあるのか?
Paul Gasnier "La Collision"
Gallimard刊 2025年8月21日 161ページ 19ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番ソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えて、『衝突 La Collision』について語るポール・ガスニエ
弟サイードの計り知れないショックだけでなく、このアブデル射殺事件はリヨン1区クロワ・ルース地区にも大変なショックとなり、この地区の不動産評価額が軒並み20%下落し、リヨン市と公安当局はこの地区の治安悪化に歯止めをかけることが最緊急課題となった。兄を失いますます無軌道な不良となったサイードは、警察に世話になる回数を増やした。
裁判でサイードの弁護士だった人物からも、サイードの地区で接触があったソーシャルワーカーからも、その他作者が裁判の10年後に取材し得られた証言からも、異口同音にサイードの人物像は”どうしようもないやつ”なのだ。何度裁判をやり、何度監獄に入ろうが、懲りずにまた同じ(小さな)ことをしてしまう。この小説の中で作者は、公判などで同じ場所に居合わせることはあっても、一度もサイードと対面していない。面と向かい、言いたい、確かめたい、聞きたいことはある。するべきかしないべきか。この小説の時間で作者はしていない。
ひとつ重要と思われることがある。サイードは作者の母を死なせた「衝突」のあと、その1年半後の公判までの間に、”父親”になっている。予防拘禁期間に、仮保釈条件のリヨン1区に足を踏み入れないという禁を破って、10数回1区にいる姿を防犯カメラが捉えているのは、そのためだったのだ。どうしようもないならず者だったサイードがこれで変わるかもしれないとは考えられないことではない。
小説の大きな山場は、サイードの姉アフシアとの対面である。アフシアは10年前のサイードの公判の時に、法廷の外の廊下で、作者の家族の方に一人で歩み寄り、サイードの家族の名において深く詫び、許しを乞うたという経緯がある。健気で、彼女の家族の尊厳を一身で守ろうとする強い心の女性だ。10年後、作者の申し出に応じて、リヨンのカフェで再開する。弁護士やソーシャルワーカーらの証言とやや温度差があり、アフシアはサイードが事件後どれほど後悔し、どれほど消沈し、どれほど自分のせいで亡くなったマダムとその家族へ詫びの心があったかを語るのだが、その真摯さには疑いの余地がない。敬虔なムスリムであるアフシアの語りの核心的ことばは「許し pardon」である。これは敬虔なキリスト者でも同じなのかもしれない。アフシアはもう一人の弟アブデルが射殺されたあと、悲嘆と憎悪と消沈の入れ混ざった煩悶の日々を送っていたが、そこから前に歩み出すために「許し pardon」を選んだと言う。
このことは10年前、「衝突」から1年後の2013年夏、作者が思い立ってリヨンからパリまで徒歩縦断を挙行するのだが、その途中サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の出発地として知られるヴェズレーでひとりの巡礼者セルジュと遭遇し、母の死に整理のつかない怒りと悲しみと憎しみと不可解に苛まれている作者に、セルジュはやはりサイードへの「許し pardon」を説くのである。その時作者は承服していない。だが10年後、その姉アフシアの説く「許し pardon」には心が動いてしまうのである。
もうひとつ山はやってくる。作者のリヨンでの”母の死再検証”の調査も一段落する頃、親しくなった裁判所筋から情報が入る。サイードがまたまた再犯したらしい。前段のアフシアとの対面での会話では、サイードがやっと抜け出しつつある(具体的にはミニ運輸会社を設立してまっとうに稼動しつつある)ことをアフシアは強調していたのだが...。やはりダメなのか。何度更生しようとしても同じように転んでしまうやつなのか。作者はそれを知りたいのだ。知ったところでどうなるものでもないのに。母の死が、この野郎がどんな卑劣漢かを知ったところで何も変わりはしないのに。作者はこのサイード再々々々々犯裁判の公判を傍聴すべく、裁判所にやってくる。その姿を見た姉アフシアが作者の前に立ちはだかる。家族の尊厳を尊重してほしい。私たち家族はサイードを擁護するためにここにいる。あなたがここにいることで私たちの立場は揺らいでしまう。今すぐここを立ち去ってほしい。
アフシアは最後の最後までサイードを庇うだろう...。
母を死なせた「衝突」事件の裁判長だった人物が、作者にこんなことを言う。この話に何か教訓はあるのか?
「それはあなたのお母さんが悪い時に悪いところにいた、1秒も1センチもずれず悪い時に悪いところにいた、ということだけですよ」(p.149)これは断じて結論ではない。だが、(これだけの再調査をして)すべてを知ったところで、作者は区切りをつけられるわけではない。母の喪は終わらない。自由人だった母はその意志を通して生き、もうひとつ先のステップとなるはずだったヨガスタジオが軌道に乗るのを見ずに死んだ。この「衝突」は二つの世界の衝突ではない。ましてや極右ポピュリストの三面記事誇大解釈による「われわれ」世界と「非われわれ」世界の衝突などではありえない。リヨンのこの坂道はこの「衝突」に歴史、文化、宗教、階級闘争、移民史といったもろもろのことがらが関与していることを教えてくれた。この膨張していくさまざまなエレメントを作者が直視して書き綴っていったらこういう小説になった。この膨らみが文学の力なのだと思うし、作者の葛藤と立ち会うわれわれの読む進める体験も文学の力を分かち合うことなのだ。母の死が不条理なように、アフシアの頑なな弟擁護も不条理だ。この二人の女性の強さが、強烈な印象となって残る。この出口は用意されてあったはずはないのだが、読後感はエモーショナルだ。
Paul Gasnier "La Collision"
Gallimard刊 2025年8月21日 161ページ 19ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番ソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えて、『衝突 La Collision』について語るポール・ガスニエ
(↓)2017年5月、マンチェスター・アリーナ/アリアナ・グランデのコンサートで起こった爆弾テロ(死者22人)の犠牲者に対するオマージュで、フランス対イングランドの試合(於スタッド・ド・フランス)の前にフランス共和国近衛軍楽隊(ガルド・レピュブリケーヌ)が(オアシス)”Don't look back in anger"を演奏。
0 件のコメント:
コメントを投稿