2025年9月29日月曜日

The Unforgettable Fire

Akira Mizubayashi "La forêt de frammes et d'ombres"
水林 章『炎と影の森』


林章のフランス語小説第5作め。作家自身が「ロマネスク三部作」と名付けた『折れた魂柱(Ame brisée)』(2019年)、『ハートの女王(Reine de coeur)』(2022年)、『忘れじの組曲 (Suite inoubliable)』(2023年)の3作に通底するテーマは、大日本帝国による15年戦争(1931 - 1945)によって運命を砕かれ、非業の死をとげる若き日本人音楽家の遺した芸術の痕跡が、数十年の時を経て子孫たちによって再生され、完成形の音楽となって世に知られるものとなり、悲劇の死者が鎮魂されるというもの。これらの魂の人間性が破壊されるのを救った最後の砦が音楽であった。水林は音楽の救済を文学化するという独自の作風で、フランスで高い評価を受けるようになった。さて、その三部作の幕を下ろした後、水林はどういう方向に行くのか、と言うと、この新作でも始点は三部作と同じように15年戦争なのである。この戦争で激しく肉体と魂を傷つけられた芸術家とその二人の親友(同じく芸術家)が蘇生し、再生し、救済される。三部作ではその救済のよりどころが音楽ひとつであったのだが、新作ではそれが大きく広がり、絵画になり、音楽になり、文学になり、性になる。すなわち生きるというアートのすべてであるかのように。
 小説の時間は1944年から2035年までの91年。この長い年月を通してその時々の重要人物の重要場面に名脇役としてハンナ(Hanna)という名の雌の柴犬が登場している。およそ1世紀も生きる柴犬と思ってもらうと困ってしまうが、象徴的なこの物語の証人もとい証犬としてその居場所をあけておいてやろうじゃないですか。
 1944年12月、空襲が頻繁になっている東京、上野の郵便局で、年賀状用臨時職員として雇用された3人の若者が出会う。画家の卵レン(蓮)、画家志望の娘ユキ(雪)、そして音楽家(ヴァイオリニスト)志望のビン(敏)。芸術家を目指す3人には絶望的な”戦時”であり、西洋芸術に関連した大学や専門校は休校を余儀なくされ、独学独習で来たるべき”芸術を自由に学べる日”を待つしかない。意気投合した3人は「上野3人組(Trio de Ueno)」を気取って芸術談義に口角泡を飛ばすのだが、共通してこの戦争を呪っていて、勇ましい大本営発表の嘘を見抜いており、日本の敗戦は近いと見ている。やや年上のレンは戦況が激化する前に幸運にもパリ留学を体験していて、幾多の美術館での”本物”との出会いや新しいムーヴメントの現場での立ち合いを経験している。レンはその自由と創造性を忘れることができない。忌々しき戦争が終わったら、必ずパリに戻ると心に決めているのだが。そのソウルブラザー(すみません魂の兄弟という意味です)となったビンへも音楽を志すならヨーロッパに行かねばダメだ、と熱く説く。ビンは子供の頃の事故で脚を負傷して歩行障碍者となり、父親の強い勧めでこの脚でも将来自活でき人に認められる人生を送るべしと音楽修行を始めた。それがこの戦時では、招集令状がやってこないという皮肉な幸いとなるのだが。ユキが通っていたのは文面から推測するにお茶の水の文化学院、そこでフランス語と美術を学んでいたが(文面から推測するに、学長西村伊作の天皇制批判で大日本帝国政府から閉学処分を受け)学院が無期閉鎖となり、根津の自宅で家業の餅菓子屋を手伝いながら独習していた。留学経験もありフランス語が堪能なレンは、ユキの仏語個人教師となり、テキストとして「ゴッホ書簡集」(Wiki 註:手紙は、ゴッホが過ごした場所によって時期が分けられている。 言語は、ゴッホが書いた言語のまま収録されている。 そのため、最初の2巻はオランダ語、第3巻は、パリ時代から始まるため主にフランス語となっている)のフランス語部分を二人で読み進めていく。
 「上野3人組」は一種の「ジュールとジム」的なところもあるが、青年芸術家二人は告白することなく共にユキに恋慕しており、そのことを青年二人は互いに見抜いている。しかし上野3人組のユートピアは長くは続かず、1945年5月、レンは赤紙を受け取り、満州前線(奉天)に送られることになる。レンは愛犬ハンナ(雌の柴犬)を根津のユキ宅に預け、戦場に向かうのである。
Yuki-chan, mattéténé..., ma douce Yuki, tu m'attendras... (p60)
ここまでが第1章。

 第2章は1945年6月、戦地でレンが重傷を負い日本に送還、東京の陸軍病院に収容され手当てを受けるところから始まる。レンの帰国を知り病院に駆けつけたビンであったが、高い重症度ゆえ面会が許可されず、その許可まで待つこと2週間、やっとレンの病室に行けたビンが見たのは、顔半分を重度の火傷で変形され、その上、両手を切断されていた親友の姿だった。もう二度と絵筆を持つことができない。この途方もないショックのため、レンはユキとの再会を頑なに拒むのだった。
 戦地でレンは従軍戦争画家として、皇軍の進軍を讃え兵士たちの士気を鼓舞する戦争画を描くことを命じられるのだが、上官タカダ(芸大卒の審美眼を持つが、戦時ではそれが通用せず、軍国賛美を最優先しなければならないというジレンマを内に秘めている)は3枚レンに描かせ、3枚とも不合格として、レンの従軍画家の地位を剥奪して、一兵卒として最前線に送ってしまう。ー 未来においてこの上官はレンの死後、未亡人ユキの前に現れ、戦地での自分の愚行を詫び、廃棄されるはずだったレンの3枚の絵を(その芸術的価値を知っているがゆえに)密かに保管し、終戦後日本に持ち帰っていて、作者に届け詫びを言わねばとずっと思っていた、と告げることになる(第3章)。
 その結果、レンは新米歩兵となって最前線に赴き、森と薮の中を食糧確保のために進む途中、抗日武装戦線の焼き討ちに遭い、燃え盛る森の中で銃撃を浴び...。紅蓮の炎と死傷者たちの阿鼻叫喚の中で見た地獄、この記憶がレンを全く別のディメンションの芸術家たらしめていくのだが、それは次章の話。
 第2章は戦争の火炎地獄を体験し、両手を失ったことで芸術家生命も絶たれたと絶望のどん底で病床にあったレンがいかにして”生”に帰還するか、という重要なパッセージ。1945年7月22日、陸軍病院にユキがやってきた。絶望の淵に立たされ、掛け布団を払ってその両腕のさまを見せ、悲嘆するしかないレンにユキはこう言う:
解決は絶対にあるはずよ。あなたはすべてを失ったわけじゃない。あなたは生きているのよ。あなたは両手を失っただけ。その他のものは全部あなたの体についている。絵筆を掴むんだったら、両足もあるし、口もある。あなたの頭は無傷だった、つまりあなたの知識にもあなたの想像力にも傷はついていない。あなたには両目両耳があり、嗅覚も味覚も触覚もある。そのすべてであなたはあなたを取り巻く世界と自然の信号を感知することができるのよ! (p90)
この章で気になった箇所二つ。足繁く病院に見舞いに来る健気なビンが(レンが聞きたいと言うから語った)自分の音楽家としての現状と展望について展開すると、レンが半狂乱になっておまえが恨めしい(羨ましい)と何度も叫び続けるシーンあり。それと前途が真っ暗な自分に自暴自棄になり、おまえがユキを恋慕しているのは知っている、おまえこそがユキと一緒になるべきだ、と投げ捨てゼリフを吐く。これらをビンはぐっと堪えるのですよ。辛いなぁ。
 ユキが何度めかの見合いに(この小説で重要な役割の)柴犬ハンナを病院に連れて行ったのだが、制止を払ってハンナがレンの病室のベッドに飛び乗り、体を摺り寄せていく。衛生上、病院ではこれ絶対無理なはずなのだが、ま、小説ですから。
 レンはユキと(ハンナと)の再会以来、恢復の傾向に向かうが、その日々の間に8月6日と9日の新型爆弾投下の大惨劇があり(レンの両親実家は広島にある)、ほどなくして15日に日本は敗戦し、長かった15年戦争が終わる。
 1946年3月20日、レンとユキは結婚する。根津の家でユキの両親とビンだけの立ち合いで祝言を上げ、その婚姻の夜、両手を失って初めてレンは絵を描くことになる。絵筆を口に咥え、ユキの裸体をカンバスにして、霊感のままにレンは絵の具をユキに塗りつけていく。口を使い、足を使い、肘まででその先がない両腕を使い、ユキの体は絵になっていく。それは同時に性的興奮となり、そのクリエイションは愛情交わりと同時進行し、エクスタシーはやってくる....。ここまでが第2章。

 第3章はその16年後の1962年春、レンの葬儀から幕を開く。あの婚姻の夜、画家として蘇ったレンは、根津の家の改造アトリエで日夜憑かれたように大作の絵を描き続け、口に咥えた絵筆と足の指に挟んだ絵筆だけでなく、額、鼻、前腕、肘など使える体の部位全てを使って絵の具をカンバスに塗りつけていった。そのテクニックは驚くべき進化をとげ、ダイナミックな表現からデリケートな細部描写まで可能な肉体のペインティングツールを獲得していった。また足の指も挟んだ鉛筆で文字が書けるほど鍛錬され、ノートや日記を書き記せるようになっていた。そのインスピレーションの源はすべてあの満州の戦場の燃え上がる森の阿鼻叫喚地獄図であった。レンはその特大版の作品を連作で15枚描き、総題を『炎と影の森(La forêt de flammes et d'ombres)』と名付けた。それには画号として”Mitsu(光)"とサインが入っていた。それが完成した時、精も魂も尽き果てたように、レンは息を引き取ったのだった。人これをライフワークと言ふ。
 その間に親友ビンは1946年にヨーロッパに移住し、ユーディ・メニューインアルチュール・グリュミオーに師事し、フランス、英国を経て、スイスに迎えられ、ジュネーヴの有名オケ(と言えばスイス・ロマンド管弦楽団と特定されると思うが)のコンサートマスターに着任する。驚異的な出世。
 その間にレンとユキの間に女児アヤが誕生し、このレンの葬儀の時アヤは13歳の中学生。絵の道を共にした父と母の子なのに、幼い頃からクラシック・ヴァイオリンを習っている。
 公開展示されることなく根津のアトリエに置かれたままになっている『炎と影の森』連作は、通夜・葬儀に訪れる人々の目に触れ、大きな衝撃と感動をもたらす。とりわけ、上述した満州前線での上官タカダが葬儀の数日後突然未亡人ユキを訪問し、レンの作品を内心高く評価していたのに軍基準に従って不合格にした経緯を詫び、その戦時中のレンの作品およびデッサンを返還するのであるが、その時にそのアトリエに置かれていた『炎と影の森』を見て号泣するのである。この大作はなんとかして世間に公開しなければならない、という強い意志はユキにも生まれているのだが、それが実現するのはさらに数年後(次章)のこと。
 ビンはジュネーヴで訃報を受け取り、ユキに追悼のためにとレコードを2種(フルトヴェングラー指揮ベートーヴェン第9、そしてベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番第5楽章「カヴァティーナ」←この後者がビンにとって世界で最も美しい音楽であり、生涯を通じて極めたいレオアートリーであった)を送ったのち、自らもスイスから飛行機(所要時間30時間とあり)で東京に飛ぶのであるが、レコードが届いたのが葬儀の40日後、ビン自身が根津のユキ宅に到着したのは65日後であった。62年当時、飛行機でヨーロッパから日本にやってくると言うのは大変なことだったのですね。
 ユキとレンの娘アヤとビンの初対面。才能あるヴァイオリニスト同士のフィーリング合致。アヤはすぐさま親しみをこめて「ビンおじさん (Oncle Bin)」と呼ぶ。Oncle Ben's il ne colle jamais. オンクル・ビンはアヤにとって師となり第二の父となり、将来において多大な影響を与えることになる。16年後に再会したユキのもうひとりの恋人ビン、そのエモーションを隠し貞節を装う二人であったが、短い滞在が終わり、ジュネーヴに帰っていくビンはユキに何度も”A bientôt(また近いうちに!)”と繰り返すのだが、ユキはこの言葉を信じないでいる。しかし....。ここまでが第3章。

 第4章。時は1979年。両親を失い、娘アヤもヨーロッパ留学してしまい、ハンナと二人暮らしになったユキは、意を決して思い出深い根津の家を売却し、ハンナを共にしてパリに移住する。この時ユキ56歳。パリには既に娘のアヤとその伴侶のポールが住んでいて、住居の手配などは娘が済ませていて、新住所はパリ14区ボワソナード通り(モンパルナス界隈)。
 この章で語られる重要なテーマはこの”ヨーロッパ移住”である。戦中の上野3人組が渇望した憧憬の地ヨーロッパに、ビンは根を据え大音楽家となってしまったが、ユキも遂に錨を下ろした。娘アヤは22歳で渡欧し、父レンが若き日に貪るように通った美術館の数々の洗礼を受け、第二の父オンクル・ビンが出会ったような名演奏家たちの教えや演奏に深く影響され、欧州を謳歌している。小説のその後の半世紀の流れで、アヤの娘も孫娘も(なぜか女系)ヨーロッパ(フランス)人として根付いていくが、ユキに発するこの女系の子孫たちはすべてハンナという名の柴犬を愛玩している(不思議)。
 このパリ移住に際して、ユキはアパルトマンの他にその近くにかなり大きな倉庫の賃貸契約も結んでいる。そして自身のパリ到着の半年後、『炎と影の森』全作をはじめレンのほぼ全作品が船便で到着し、その倉庫に納められる。ここから月日をかけてユキはレンの作品館をつくりあげていくのだった。そのプロジェクトの初めの頃(1980年春)にジュネーヴからパリに足を運んだビンは、亡き親友のライフワーク『炎と影の森』全作を初めて目にし、その想像を絶する表現の塊に感無量となり、その場にいられなくなってホテルに戻り休まねばならぬほどであった。同時にこのユキのレン作品展示館のプロジェクトを全面的に支援せねばと心に決め、それは”Espace Ren(エスパス・レン=レンの空間、レンのスペース)"という名で具体化が始まる。その同じ1980年6月、ビンの長年のプロジェクトである弦楽四重奏団”Quatuor Luce クワチュオール・ルーチェ”(レンが画号を”Mitsu = 光”と名乗ったように、ビンも自らの四重奏団を”ルーチェ=光”のクワルテットと名付けた)のお披露目コンサートがジュネーヴで開かれ、ユキはジュネーヴに向かった。1945年以来35年間かけがえのない友情で結ばれていたユキとビンはユキのジュネーヴ滞在最後の夜に恋人同士に変わった。
 パリに戻り、ユキはアトリエに籠り、憑かれたように絵の制作を始める。数ヶ月の日々をかけて描き終えた絵は(これは第5章で明らかにされることだが) ,1946年にユキが描いていた一枚の絵と対をなす。旧作は「画家 Peintre」と題され、出来上がった新作は「音楽家 Musicien」となっている。すなわちユキが生涯かけて愛した二人の人物を主題にしているのだ。この2枚の作品をユキは人目の触れない戸棚の中に閉まっておく。そしてかの倉庫は数年の改装工事の末、ユキの念願通り、レンの『炎と影の森』および主要作品を展示するエキスポ・ロフト、そしてレンの絵に囲まれたクラシック室内楽の演奏会場としてオープンする。完成されたそのスペースは"Espace Ren Bin (エスパス・レン・ビン、レンとビンの空間)と正式に名付けられる。ここまでが第4章。

 第5章。2014年(蛇足だが、時の大統領はフランソワ・オランド、首相マニュエル・ヴァルス、10月にパトリック・モディアノにノーベル文学賞)の秋、ユキが91歳で亡くなる。この章は「上野3人組」の80年を総括するような、その終焉を幕引きする祝祭的フィナーレである。ピカソの『ゲルニカ』、丸木位里・丸木俊の『原爆の図』(埼玉県東松山市・丸木美術館)と並び称される20世紀戦争画のモニュメントとなったレン・ミズキ『光と影の森』を常設公開しているパリ14区「エスパス・レン・ビン」の創設者だったユキ・アリサワの追悼コンサートが、満席の「エスパス・レン・ビン」(二代目館長はユキの娘アヤ・ミズキ)で催され、そのMC(マスター・オブ・セレモニー)は「上野3人組」最後の一人、90歳になった巨匠ヴァイオリニスト、ビン・クロサワ。ユキの死後、忠犬ハンナの”ここ掘れワンワン”で偶然発見されたユキ・アリサワ1980年制作の油絵2点(↑上述)「画家 Peintre」と「音楽家 Musicien」がコンサートの幕間に登場し、初めて公に公開される。
 演目はベートーヴェン弦楽四重奏曲13番作品130、メンデルスゾーン弦楽四重奏曲2番作品13。第一部の演奏者はビンの門下生の若いフランス人スイス人韓国系フランス人で構成された四重奏団で、第一ヴァイオリンはアヌーク・ミズキ(アヤの娘=ユキの孫娘)。そのベートーヴェン四重奏曲13番の第4楽章の終わりで演奏者の交替があり、第一ヴァイオリンのアヌークだけが残り、アヤ・ミズキ(第ニヴァイオリン)、ベネディクト・デュモン(チェロ、この記事では紹介していないがパリにやってきた若き日のアヤ・ミズキが出会った重要な友人)、そしてこの機会に例外的にビン・クロサワがヴィオラを担当する。そして(ビンとユキにとって最重要な楽曲だった)第5楽章「カヴァティーナ」がこの4人で奏でられる前にビンは、レンとユキとの長〜いストーリーを聴衆に語るのだった...。
 水林の小説であるから、これまでの作品同様、楽曲の演奏のありさまを作者はパッションを込めて丁寧に描写(文字化/文章化)するのであるが、かなり忠実な読者たる私でも、毎回この名演奏描写の箇所はほんとうに苦手なのである。どんなに書かれてあっても”音”は聞こえてこない。
 2024年、ビンはジュネーヴで息を引き取る。100歳。ここまでが第5章。
 それに続いてエピローグとして、アヌークの娘アリス(すなわちアヤの孫娘にしてユキの曽孫娘)によって記された後日記録が5ページほど。署名日付は2035年9月となっている。この数ページは、「あとのたはむれ」みたいなもんですよ。

 15年戦争末期の最も残酷な時期に出会った若き芸術家3人、その戦争は3人をグジャグジャに破壊してしまうのだが、最大の被害者にして瀕死の傷を負ったレンは、その地獄から友情と愛情(含む性愛)によって生還し、ライフワークの戦争画『炎と影の森』を完成し、40代の若さでこの世を去る。残されたユキとビンは支え合い、愛し合い、長生きして芸術家として、天才画家レンの友として生き遂げる。絵画と音楽と愛(含む性愛)、これがこの3人を生きさせていたものなのだろう。(正直に言えば、この小説の水林の”性愛”描写はあまりデリケートではないと思う ー これはポール・オースターの”性愛”描写についても似たような印象がある)
 この3人はあの戦争末期の出会いの時から同じようにヨーロッパに惹かれ、芸術のすべてがそこにある地のように憧憬していた。2人に先立って1943年にヨーロッパを体験していたレンは再渡航の夢を果たせずに死んだが、ビンは1946年に、ユキは1979年にヨーロッパに移住している。たぶん救済はここにもある。この問題はこれを書いている私自身にも向けられている。私はなぜヨーロッパに向かったのか。私はなぜまだヨーロッパにいるのか。
 フランス語作家となることによって、たぶん日本語の制約から解放され、表現のディメンションの広がりを獲得したと思われる水林章にとって、この3人を日本から引き離してヨーロッパに移したことは大きな意味があることだろう。その子、その孫、その曾孫まで小説は日本から距離を取らせている。象徴的なのは、ユキもビンも自らしたためている日記が、時が経つにつれて日本語からフランス語に代わっていくのである。これは母語の喪失という現象であるよりも、フランス語の方が自らに正直な言語に変わっていくということなのだと思う。これは水林自身の内部で起こったことであろう。
 で、上野3人組によって夢見られたヨーロッパは、実際の話、今はどうなのさ ー というのが私の問題であるが、私はまだヨーロッパにいるのですよ。

Akira Mizubayashi "La forêt de flammes et d'ombres"
Gallimard刊 2025年8月14日 280ページ 21ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ボルドーの独立系書店 Librairie Molletの動画で『炎と影の森』について語る水林章 


(↓) U2 "The Unforgettable Fire"(1984年)

 

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