2022年3月31日木曜日

日本人のおなまえ

Akira Mizubayashi "Reine de coeur"
水林章『ハートの女王』

ランスでの発売が2022年3月10日。2月24日に始まったウクライナの戦争が激化していく中で読んだ「戦争」の本だった。作者もこんな状況で読まれることなど全く考えていなかっただろう。
 『千年の愛』(2017年)、『折れた魂柱』(2020年)に続く水林の三作目のフランス語小説であるが、三作に共通しているがクラシック音楽の楽曲が小説を構成する重要なファクターであり、楽曲のムーヴメントと小説のムーヴメントが抜き難くシンクロしている。これは"水林スタイル”と呼んでいいオリジナリティーではないだろうか。そして最新作と前作『折れた魂柱』に共通するテーマは戦争と音楽であり、戦争が非人間性の淵に立つ人間のぎりぎりの行為であるなら音楽はその淵で人間を救済するものであるかもしれない。戦争で破壊され魂柱を折られたヴァイオリンを再生する人間の物語のように。
 しかしこの新作はその戦争の非人間性/残虐性において、前作と比較が難しいほど惨たらしい。小説の導入部である第一章第一節(p13〜p20)は 読むのが辛くなるほど惨たらしいリアリズムで描写される大日本帝国軍の中国での蛮行シーンである。1945年2月、日本降伏の6ヶ月前、満州で中国人住民をものもろくに食べさせずに強制労働させていた日本軍、そこから脱走を試みたという口実で中国人を処刑する。上官から日本刀を手渡され、皇軍兵士として犯罪者を斬首せよ、と命令される学徒動員二等兵(パリ音楽院に留学していた音楽科学生)ミズカミ。大日本帝国軍紀に定められたとおり、上官の命令は天皇陛下の命令に等しい、背くものは国賊として処罰される、という理屈で命令の執行をせまる上官の極限の恫喝を受けながらも、ミズカミは自分にはできませんと抵抗する。しかしその抵抗もいよいよ限界となり、わなわな震える両手で握り締めた日本刀を哀れな中国人の頭上から振り下ろさんとした時、その極限の極限の時にミズカミの頭の中に強烈な音楽が鳴り響くのである...。
 小説全編を読み終えたあと、この小説の核心はこの第一章第一節の8ページにすべて凝縮されている、ということがわかる。
 第一章で戦争の残酷さは繰り返される。ミズカミの子を孕んだ身で、安全な場所で出産すべくパリを逃れて北上していったアンナ、その避難行の人々の列に空から機銃掃射し、爆弾を落下させるドイツ軍機、周囲には死体...。場所はさらに移り、1945年5月東京、病院看護婦アヤコの帰宅途中、中野区野方の上空から襲ってくる米軍機、身内からはぐれて迷う見知らぬ少女の手を引き、とにかく安全な場所へと駆けて逃げ惑うが、アヤコの気がつくと引いていた手の少女は姿なく握った手だけが残っている...。
 ミズカミ・ジュンは1930年代にパリ音楽院に留学したヴィオラ奏者だったが、日中戦争(1937年〜45年)の激化により1939年にマルセイユから横浜行きの最後の運行汽船に乗り込んで帰日し、召集され1941年から大日本帝国陸軍の兵士となる。パリ滞在中に、ジュンが昼食客の常連となっていた音楽院近くのビストロで働く教員志望の女学生アンナと恋に落ち、戦争で引き裂かれることを知りながら、マルセイユでの最後の夜の交情でアンナは妊娠することになる。マルセイユからの最後の日本航路船「箱根丸」に乗り込む桟橋での最後の抱擁、その最後の最後にジュンはアンナの耳元でこう囁くのだった。
Tu es ma reine, Anna. Oui, ma reine de coeur...
それから二人は文通でのみの交信となるが、敵同士となった両国ゆえそれは途絶えてしまい、アニエスという名の女児が生まれたことだけを知りながらジュンは満州に送られる。そして第一章第一節で描写された”事件”があり、ミズカミは”病気”に倒れ、精神疾患者として日本に送還され、1945年3月東京の陸軍病院に収容される。さまざまな症状を併発して衰弱し、その上頻繁に錯乱発作を起こすミズカミの病状を献身的に世話したのが看護婦アマノ・アヤコ。戦争によって心も体も限界まで破壊尽くされた男は、アヤコの懸命のケアもさりながら、戦争が大カタストロフとして終結に近づき、やがて終戦、廃墟からの生き直しという窓の外の日本の動向ともシンクロして、生の世界に戻ってくる。1945年10月、ミズカミとアヤコは結婚し、翌年男児タカシ誕生。しかし戦争が破壊したミズカミの精神はついに治癒することなく、自らの命を絶って果てる。同じ頃、戦後のフランスで幼いアニエスを育てていたアンナは急性白血病でこの世を去っている。
 すなわち不遇の日本人ヴィオラ奏者ミズカミ・ジュンにはふたりの子供がいた。フランスにアニエス、日本にタカシ。そして小説はミズカミ・ジュンの孫二人の物語なのである。フランス側にマリー=ミズネ・クレマン=メルシオニ、現在パリ交響楽団の第一ヴィオラ奏者となっている。2007年11月、テアトル・デ・シャンゼリゼでパリ交響楽団での初のソリストとしてのコンサート(共演にチェロ奏者ヨー・ヨー・マ!)を終え、RATPバス80番で帰宅途中、同じコンサートから帰る途中の黒マントの初老の紳士と遭遇する。ミズネを今宵のソリストと認めるや当夜の演目のひとつショスタコーヴィチ(その夜は交響曲11番)についての談義があり、降り際にある本を読むように勧められる。書名は『耳は見る、目は聴く L'Oreille voit, l'oeil écoute』、著者名はオットー・タコッシュ(Otto Takosch)。読んでみるとそこには、(名前は伏せられているが)第二次大戦で引き裂かれた日本人ヴィオラ奏者とフランス人女学生の悲恋が...。ミズネはこれは祖母と祖父に起こったことと一致することに衝撃を受け、この著者と会うことを決心する。
 時間は前後し、1993年東京で高校生だったミズカミ・オトヒコは、祖母アヤコの葬儀のあと父タカシからその遺品の中にあった戦時中から書き綴られていた日記と祖父ジュンの満州出征中の日記を託される。パリでのジュンとアンナ、満州、戦争末期のジュンとアヤコの一部始終を知ったオトヒコは、(東京の大学でフランス語を習得し、フランスに渡り、著述家となり)十数年をかけてそのストーリーを小説化し、フランスで発表して文学賞を得るほどの高い評価を受けた。筆名のオットー・タクッシュは自分のニックネームの"Oto"をゲルマン系風に"t”を二つ重ねて"Otto”に、"タコッシュTakosch”は愛する音楽家ショスタコーヴィチ(Chostakovitch)の部分的アナグラムだ、と。(あとで述べるが、この小説はこのように名前に多くの意味が付与されていて...)
 オットー・タコッシュの小説『耳は見る、目は聴く』が引き合わせることになったミズカミ・ジュンの二人の孫、ミズネとオトヒコ。この出会いは作家オトヒコが描いたミズカミ・ジュン像に、さまざまな新しいファクターを加えることになる。ミズネの母アニエスの家の屋根裏にあったアンナの日記、アンナに宛てられたジュンの書簡、写真...。二人はおたがいが収集した遺品を読み直し、吟味し直し、ミズカミ・ジュンがいかに生き、いかに生き延び、いかに死んだかを再構成する。満州で極限の残虐性の淵に立ったジュンを人間として踏みとどまらせたもの、それは音楽家の脳内(あるいは見る耳と聴く目)が奏でたショスタコーヴィチだったという...  。人間性の最後の一片を救済する音楽の力、それを水林章はショスタコーヴィチ交響曲第8番の交響楽団演奏(パリ交響楽団、指揮アンドリス・レンソンス=架空の人物、ヴィオラソリスト:ミズネ)を実況解説する11ページ(p201〜211)の怒涛の筆致で描こうとするのである。ここがこの小説のクライマックスである。ここの部分はCDあるいはストリーミングで件の交響曲全曲1時間聴き通しながら読むというのが、この小説作品に対する礼儀だと思う。
 ショスタコーヴィチは往々にして”ソヴィエト(公式)の作曲家 ”というレッテルが災いして、政治的フィルターで正当な評価がさまたげられていると言われる。この交響曲8番は1942/43年のソ連赤軍とナチスドイツ(+枢軸国)軍の戦闘、いわゆるスターリングラードの戦いにインスパイアされた大曲であるが、1943年の発表に際してはソ連赤軍の英雄的勝利よりも悲惨な戦争の現実が強調された暗い作品とされ評価は低く、さらに社会主義リアリズム路線にそわない前衛芸術をパージする「ジダーノフ批判」政策の標的となって1960年まで上演禁止の処分を受けている。ショスタコーヴィチは政治プロパガンダよりも戦争とその中の人間の悲劇を描くことを選んだ。それがミズカミ・ジュンの脳内で鳴って、人間性は最後の一皮で救済された、という....。小説はショスタコーヴィチ交響楽のパワーを取り込み、その音楽の大波の潮頭を奏でるのがミズネの赤いヴィオラである、という...。
 ミズネは通常愛用の16世紀由来の名器ガスパロ・ダ・サロのヴィオラを弾くのであるが、このショスタコーヴィチ交響曲8番の舞台で、ミズカミ・ジュンが持っていた鈴木政吉製作の赤いヴィオラに持ち替えた、という...。戦争で悲惨の極みを体験したが、こうして音楽の精髄を繋いでくれた三人の祖父母、ジュン、アンナ、アヤコを鎮魂するミズネとオトヒコによる交響楽、という...。これは水林章の小説世界のエモーショナルな劇的構成のベスト・オブみたいなもので 、敬服するしかないではないか。

 さて、いろいろ気にかかるところがあった。まず題名の"Reine de coeur”であるが、私は最初はトランプカードの「ハートのクイーン」を想像したので、なにかこれが"切り札”になるのかな、と思い読み進めて行った。しかし小説にトランプやカードゲームは登場しない。前述のように1939年マルセイユ港でのジュンのアンナへの別れ際の言葉「きみは僕の女王だ、アンナ、僕の心の女王だ...」でしかこの"reine de coeur"は登場しない。フランスではトランプの「ハートのクイーン」は"Dame de coeur"であり"reine"ではない。で、ネットで"Reine de coeur"と検索すると、一番に出てくるのが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるトランプ王国の「ハートの女王」なのである。この女王は気に喰わない人物をすべて斬首刑に処する暴君であり、口をひらけば「首を刎ねろ!」を連発している。この「首を刎ねろ!」は満州でミズカミ・ジュンが上官から命令される言葉と同じである。こういうつながりは考えられるが、この小説に関しては、まさか、と思う。しかしこの"reine"は全く違うものだということが、小説の終わりの方がわかるのだが...。
 日本語ではなくフランス語で書かれた小説ということで、非日本語人読者のために日本がらみのことに説明的にならざるをえない部分があるのはしかたない。これはケベックのフランス語作家アキ・シマザキもよくやることだが、人名や漢字の音読み/訓読みの違いなどに非常に重要な意味を持たせてしまうことがある。シマザキの例で言えば『ホオズキ』(2015年)の中でほおずきを漢字で「鬼灯」と書いて、それを「きとう」と音読みにするというのが小説の核心になっちゃってる、これは非日本語人にしてみれば「へええ、そうなんですか」で日本語の深さに感嘆するハメになる。推理小説の"鍵”みたいな。水林のこの最新小説では、アンナの伯父フェルナンがアンナの死後アニエス(アンナとミズカミの娘)を親代わりで育て、退職後かなりがんばって日本語を習得する。そしてアニエスの娘が生まれた時にファーストネームの半分を日本語で、フェルナンが名付けたのが "Mizuné"という名前。すでにこの時点でフェルナンは「水音(みずね)」という漢字で考えている。水の音、水の音楽、水上(ミズカミ)の音楽... もうこれだけで、この娘の運命が見えてくる名前で、その宿命を引き受けて世界的ヴィオラ奏者に成長する。一方のオトヒコ、漢字で「音彦」は、自殺したミズカミ・ジュンの妻アヤコが、息子タカシの子(すなわち孫)に命名したもの。”音”+”彦”、音の男児、音楽の王子、そうオトヒコはミズネに説明する。するとミズネは激しく反応して「あなたはある意味オルフェ(オルペウス)なのね、竪琴の王子、あなたはオルフェのようにあなたのおじいさんを冥界から連れ戻そうとしているのね」(かなり意訳)と。ここで音彦という名前は全く違うディメンションを獲得してしまうのであるが...。「水」と「彦」、音/音楽で運命的に結ばれている二人は、最終部で実生活でも結ばれてしまう。名前は重要だけど、これでいいのかなぁ。
 昭和後期からの現象だろうか、伝統的な名前にさからってかなり独創的で奇をてらったようなファーストネームが増え、漢字の当て字も法則なく許容されて、字面だけでは読めないような名前がかなり多くなった。芸能人だけではないようで、私の甥の子供たちの漢字名前などはまったく読めない("誓"=ちから、"奈花"=なのは、"燈"=あかし)。二文字三文字で複雑でマルチな意味を持つ名前とか外国起源名当て字とか。話を「ハートの女王」に戻すと、1930年代からミズカミ・ジュンが愛用していたヴィオラは日本の名匠鈴木政吉が作ったものである。その名器は時を超えて、21世紀にフランスのパリ交響楽団の第一ヴィオラ奏者マリー=ミズネ・クレマン=メルシオニによっても奏でられるようになったのだ。お立ち会い、よろしいですか、この赤いヴィオラには実は鈴木政吉によって名前がつけられていた。「麗音」。何と読むと思いますか? ー 「れいね」。2000年代ならまだしも(2000年代では"れおん”と読むかな)、1930年代昭和初期の日本でこれを「れいね」と読める可能性、私はちょっと疑っている。では、これをローマ字表記に転記してみましょう: " r e i n e " となります。フランス式に表音記号的にアクサンをつけて " r é i n é ”と小説の中では書かれてはいるが、元のところは R E I N E 。つまりこの赤いヴィオラは "reine"(女王)という名前がついていた。"Tu es ma reine de coeur"というミズカミ・ジュンのささやきは、わが心の赤いヴィオラとも読めるわけですね ー これは実にきまり悪く思うのですよ、私は。

Akira Mizubayashi "Reine de coeur"
Gallimard刊 2022年3月10日 240ページ 19ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ショスタコーヴィチ交響曲第8番(一部)


(↓)小説とは何の関係もないが、フランシス・プーランク歌曲「ハートの女王 Reine de coeur」


 

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