2019年5月17日金曜日

おかあさんは川へ洗濯に

"Dolor y Gloria"
『苦悩と栄光』

2019年スペイン映画
監督:ペドロ・アルモドバール
主演:アントニオ・バンデラス、アシエル・エツェアンディア、ペネロペ・クルス
2019年カンヌ映画祭(コンペティション)出品作
フランスでの公開:2019年5月17日

 映画のための映画。映画によって救われる映画人の映画。アルモドバールの自伝的要素を大きく含む作品で、自身の化身アントニオ・バンデラスが泣かせる「男」の映画。
 サルバドール(演アントニオ・バンデラス)は長い間映画から遠ざかっている監督で、インスピレーションの枯渇だけでなく、持病と自分では思っている脊髄障害で腰痛・背痛・頭痛・耳鳴り・不眠症に悩まされている。32年前に撮った映画 "Sabor"(味)がリストアされシネマテーク入りし、再評価の気運が高まっているが、当時サルバドール自身はひどく低く評価していたのに今見直すと良い作品だったことが改めてわかってきた。そのシネマテークでの再上映会に合わせて、サルバドールは主演男優だったアルベルト(演アシエル・エツェアンディア)と再会する。32年前はサルバドールはアルベルトの演技が気に入らず、ほとんど喧嘩別れとなっていた二人だったが、旧交はすぐに深まっていく。当時からアルベルトが常習的なジャンキーだったことを知っているサルバドールは、持病の緩和になればと、生まれて初めてアルベルトからヘロインを分けてもらい試してみる。その効果でサルバドールに蘇ってくるのは少年の日の思い出なのである。 
スペインの田舎の貧しくも幸せな母(ペネロペ・クルス)との日々。川で洗濯をする女たち、歌を歌いながら洗濯ものを川辺の灌木の上に干す女たち、このシーン、本当に美しい。この洗濯女ペネロペ・クロスは『戦場を駈ける女(Madame Sans Gêne)』(1961年)の洗濯女ソフィア・ローレンにそっくりだ。
 天才的に早熟で賢く読書好きで、美しい声で歌を歌える子供だったサルバドール(演アシエル・フロレス)は、家に学費の余裕がないので、推薦で入れて学費無料の神学校で学ばせたいという母に逆らい、死んでも神父になどなりたくないと言う。 ある日、聡明博学な少年サルバドールの前に、読み書きを知らない左官職人の(美しい)青年が現れ、手紙の代書をしてくれないか、と言う。少年は今の世の中に読み書きができないのは一生の損だと青年を諭し、マンツーマン授業で読み書きを教えてやろうと言う。年端もいかぬ小僧が大人相手に厳しい教師のような口調と教育法でスペイン語の読み書きを叩き込むのだが、これが少年の「性の目覚め」になるとは...。
 初老のサルバドールは沈痛のつもりで始めたヘロインにいよいよ依存症になっていき、幻覚の中で再会する過去が少しずつ彼を変えていく。創作から遠ざかっていたはずの彼には手をつけられずにいる過去の書きかけがいくつかある。サルバドールの幻覚トリップ中にアルベルトはサルバドールのパソコンの中身を盗み見、保存されていたファイルの中の「アディクシオン」と題されたテクストの美しさに心打たれる。かつては喧嘩別れしたものの、サルバドールの優れた才能には敬服していたアルベルトは、俳優として再起するためにこのテクストが欲しい(独り舞台演劇の台本に使いたい)とサルバドールに迫る。最初は頑なに拒否していたものの、ヘロイン欲しさか、少し上向きかけた創作意欲のゆえか、サルバドールはそのテクストを推敲して手を加え、「このテクストはまさしく俺の告白であり、この作者が俺であることは知られたくない、だから作者として俺の名前を出さないでくれ」という条件でアルベルトに差し出す。
 そしてマドリードの劇場で上演されたこの作者不詳のモノローグ劇「アディクシオン」は、アルベルトの会心の演技で大好評を博す。それは30年前の覆面作者(サルバドール)の創造の泉が溢れ出ていた頃、そのインスピレーションのすべてだった恋人(男)との激烈な愛と苦悩と中毒(アディクシオン)を(メロ)ドラマティックに表現したもので、エモーションは観客席を包み込んでしまう。その観客席の中に、なんと、数年ぶりにブエノスアイレスからたまたま一時帰国していたという30年前のサルバドールの恋人、フェデリコ(演レオナルド・スバラグリア)がいたのである。上演後アルベルトの楽屋に飛び込み、作者に会わせてくれ、と。その夜のうちに、フェデリコはサルバドールの住むマンションのドアを叩き...。↓写真サルバドール(アントニオ・バンデラス)とフェデリコ(レオナルド・スバラグリア)
この映画で間違いなく最も感動的なシーン。30年前に別れの言葉もなく別れた二人が、その後のいきさつ話に花を咲かせ、あっと言う間に夜は過ぎ、抑えていたエモーションは今にも爆発しそうなのにぐっとこらえ、「アルゼンチンに遊びに来いよ/ああ、絶対に行くよ」などとあり得ないとわかっていることを言い合い、30年前にできなかった真の別れのあいさつのように、唇と唇で激しく接吻するのですよ!

 50年前、少年サルバドールがスペイン語の読み書きを教えていた美しい左官職の青年は、夏の暑い日、その持って生まれた絵心で段ボール紙の上に少年の姿を描いていく。サルバドールの家の台所のタイル張りの仕事を終えた青年は、台所の中で大タライに水を入れて裸になって体を洗う。美しい逆三角形の上半身。青年は少年にタオルを持ってきてくれないかと呼び、タオルを持って台所に入っていくと、サルバドールはそのあまりに美しい裸身の衝撃に気を失ってしまう...。その50年前に左官青年が描いた少年サルバドールの肖像画が、マドリードのアマチュア画秀作展に出品されているのを初老サルバドールが見つけてしまう...。

 その他すべての偶然はこの映画の中で、生気を失っていたサルバドールを「生」の側に少しずつ回帰させていく。そしてヘロインを断ち、脊髄の手術を受け、生き返りを決意するのである。再びめぐってきた創造のインスピレーションの導くままに、再び映画を撮るために。映画に救われるために。

 お立ち会い、この映画にはいつものアルモドバールのような奇抜さやズレのある諧謔はありませんよ。自分に正直な自分のことを語っている映画だから。たぶん幾多の映画監督がやったであろう「私は映画だ」タイプの映画と言えるのだろうが、この強烈さはアルモドバールさ、と言っておきましょう。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『苦悩と栄光(仏題 Douleur et Gloire)』 のフランス版予告編。


2019年5月14日火曜日

ボワット(ノワール)生きてんじゃ...

ITO Shiori "La Boîte Noire"
伊藤詩織 『ラ・ボワット・ノワール』
(原題『ブラックボックス』/日本語からの仏訳ジャン=クリストフ・エラリー&アリーヌ・コザ)

著『ブラックボックス』(2017年文藝春秋社)出版から2年後、2019年4月フランス語訳が出ました。著者よりやや若い世代に属するわが娘に読んでもらいたくて買ったのですが、薦める前にまず自分が読まなければ無責任と思い読みました。読み始めたら一気に読めますね。よく構成されているし、谷も山も谷も峡谷も丘もある流れも、ドキュメンタリー映画制作者のセンスを思わせるメリハリ+立体感です。原著は当然日本語読者を想定して書いたでしょうから、こういう(ノンフィクション)本の外国語翻訳だと、日本における付帯状況に関する脚注解説でページがうるさくなるものなのですが、なんとほとんど注釈がありません。これは仏語訳者のたいへんな手腕ではないかしらん。最初からフランス語で書かれたアキ・シマザキの小説群に見られるような文中の時に説明的にすぎる(歴史的状況的)日本背景の記述がありませんが、それがなくても、ここに見えてくるのは紛れもない日本です。
 シマザキの小説のようにその日本には重苦しい公的抑圧(パブリック・プレッシャー)があり、可視不可視にのしかかる性差別や、「普通に生きる」ために不文律のしきたりに従ったり、沈黙したり、逆らわないようにしたり、という古いモラルがあります。伊藤がこの事件を最初に告白する相手は家族(両親と妹)ではない。家族には心配をかけたくない、何事もなかったことにしておきたいというのが最初の反応で、実際に事件の翌日に会うことになっていた妹とは、何事のなかったように会い、お茶とショッピングをするのです。自分が強姦被害者であるのに、そのことで家族に迷惑がかかってはいけない、とまず最初に考えてしまう。「家族に迷惑」って何ですか? 確かに伊藤の生い立ちと経歴も記述されているので、小さい頃から勝気で闊達で、自分の好きなことをやり通すということにおいて、親にそのわがままを許してもらっていたというところはあるでしょう。自分の道を切り拓くために、十代からアメリカやヨーロッパで苦学生をしてきて、一人前になるまで親から学費生活費の援助はもらってきたわけですが、それは親の理解であって、親の迷惑や親への負債ではない。ひとたび成人して社会人になったなら、もう親に迷惑をかけてはいけないという、よく言えば独立心、悪く言えば負債返済心みたいなものが、この伊藤の手記ではとても気になった。この悲劇的事件に両親家族は抗いようもなく巻き込まれていくことになるのだけれど、伊藤の描写では娘の惨事におろおろと狼狽する優しく弱々しい両親と、娘のその後の行動を心底のところで理解できていない両親も登場する。それはしかたない。だがその「極力迷惑をかけたくない」という性向は、伊藤があの事件から闘っていくことになる旧態然とした日本のモラルの重要な一部なのではないのでしょうか。家族に社会に世の中に迷惑をかけたくないという理由で、性暴力被害に泣き寝入りする女性たちのケースのどれだけ多いことだろうか。自分が受けた幾多の言われのない攻撃は、家族にも及んでしまうのだけれど、それはしかたのないことであって迷惑ではない。自分の闘争を一緒に闘ってもらうのだから、両親家族にも。味方なんだから。
 それはそれ。事件は(みなさんご存知のように)2015年、東京、伊藤当時26歳、TBSワシントン支局長だった山口敬之によるレイプドラッグを使った意識のない状態での強姦行為の被害者である伊藤が警察に訴えた結果、山口が「準強姦」事件の容疑者として逮捕される寸前に「上からの支持で」逮捕されず、事件そのものも不起訴となった、というもの。本書はその全容を詳らかにし、被害者である伊藤が逆に追い詰められていくような、言わばカフカ的に不条理な警察捜査の連続、日本における「性犯罪」に関する法制度の前時代で封建的で性差別的な実態、そして国家の上層部からの指示があれば法律など通り越して不正が免罪される現政権の「ユビュ王的独裁国家」的圧力まで暴露している。性犯罪の女性被害者たちが、日本では告訴しても「勝てっこない」ということがシステムとして確立されているような分厚い壁もよく説明されているし、理不尽極まりないことに今年になって連続している「男親による実娘強姦事件」の無罪判決も、本書が解読する現行の(明治以来変わっていない)法制度では抗いようがないものに思えてきます。「抵抗の形跡がない」が「同意の上」に解釈されてしまうということです。
 本書を外国語翻訳で読む人たちはたぶん驚くに違いない「準強姦」なる日本の法規定語があります。フランス語では "quasi-viol(カジ=ヴィオル)"と訳されていて、そのまま仏訳の造語です。「おおよその性暴行」「ほとんどの強姦」という意味になるかと思いますが、それがどういう行為なのかというのは判断できません。また英語では "quasirape"となっていて、これはそのまま読まれれば "almostレイプ”、"semi レイプ"だと解釈されましょう。ご丁寧にも ネット辞書Wiktionary には "quairape"の項があり、こう説明されています。
Simulated rape for example as a type of roleplay.
(例えば役割演技の形式による見せかけの強姦)
つまり、これは強姦/性暴力ではない。演技や見せかけであって強姦とは別物と英語では思われてしまう。 日本語の字面を見ても"準”がつくことによって、本物ではないこと、擬似のこと、という印象を受けます。そこまで至っていないもののような印象です。ところが、これは強姦に変わりがないのです。日本の刑法規定で意味する「準強姦」とは、
女性の心神喪失や抵抗ができないことに乗じて、または暴行・脅迫によらずこれらの状態にして姦淫する罪 (デジタル大辞源)
 のことなのである。正真正銘のレイプ行為なのです。 暴力を伴えば強姦、暴力が介在しなければ準強姦、というこの名称の分け方は被害者が被る身体的精神的打撃に対してあまりにも無神経ではないですか。あなたが受けた強姦は「ソフト」でしたよ、と法律から規定されてしまったような。レイプにハードもソフトも正も準もない。レイプはレイプなのである。
 山口が使用したレイプドラッグによって(この部分は確定的な証拠がない)心神喪失状態にされた伊藤は、山口の宿泊するホテルの部屋に運ばれ、未明にレイプ被害のさなかに意識を取り戻すが、その前夜の寿司屋からそこに至る一部始終の記憶が全くなくなっている。警察はその強姦犯罪捜査において、ホテルなどの密室における事件の犯罪立証の難しさについて「ブラックボックス」という表現をつかったと本書は言っているが、当然その上の意味で、生存者ゼロの飛行機事故の事故原因の重要な手がかりとなる操縦士ヴォイスレコーダー(ブラックボックス)と同じような働きをなすはずのものが、伊藤の失われた記憶のほかにあるはずなのである。寿司屋、タクシー運転手、ホテル従業員、ホテル防犯カメラなど、伊藤の記憶の代わりになる断片を拾い集めてパズルを埋めていく作業は困難を極めるが伊藤は決してあきらめない。ブラックボックスは少しずつ開いていく。ここが本書の表現力の優れたところで、ミステリー的に読者は引き込まれよう。
 だがあえてこの伊藤の書の文学的な重さについて言えば、それは上でも一箇所で形容したように非常に「カフカ的」な日本社会が構造的に「女性」および「性犯罪被害者」を貶めていく、その力学を伊藤が苦悩して格闘して明晰に描写する筆力であり、カフカ的不条理の黒さに読者はきわめて文学的な体験を共有すると思いますよ。その文学的な重さに関しては、北フランスの田舎でゲイと貧困ゆえに虐めぬかれた少年時代を描いて21歳で作家デビューしたエドゥアール・ルイと共通する繊細でありながら自制のきいた(底知れぬ)パワーを思わせました。だから、いつか伊藤が(自伝的であってもいい)フィクションを書く日が来たら、その文学的昇華力は必ずやインパクトの強いものであろうことは間違いないと思いますよ。
 アメリカやヨーロッパの多様なリファレンスを提示できるし、ジャーナリストとして現場体験(コロンビア密林の反政府ゲリラ/麻薬密売地帯などの取材)で培われたのか、この若い女性はかなりのところまで自己防御できる鎧を身につけてはいます。しかし彼女を孤立させてはいけない。ひとりにしてはいけない。日本のカフカ的不条理な社会構造は伊藤ひとりではどうすることもできないものだから。私は娘ほかフランス人の友人たちにこの本を読んでもらうようすすめます。伊藤詩織を応援します。

カストール爺の採点:★★★★★

ITO SHIORI "LA BOITE NOIRE"
Editions Picquier刊 2019年4月 230ページ 19.50ユーロ

( ↓)2019年4月19日、国営テレビFRANCE2の朝番組「テレマタン」で5分にわたって紹介された伊藤詩織の事件とその行動と日本の反響に関するルポルタージュ。たいへん良くできています。


(↓)その1年前、2018年4月、AFPによる1分間ルポルタージュで、日本における "#MeToo"の例として紹介される伊藤。