2023年7月20日木曜日

追悼ジェーン・バーキン/モワ・ノン・プリュ

2023年7月16日、暗い日曜日、76歳で亡くなったジェーン・バーキン。訃報後フランスのテレビのニュース番組で、街頭のファンたちの反応を求める報道マイク、「印象に残っている歌は?」と聞かれて歌い出す市民の歌は”Ex Fan des Sixties"、"Di Doo Dah"、"Quoi"...。そうなのだ。「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」ではないのだ。ファンたちが避けて通っているのではない。故人への敬意もあろうが、もはや”ジェーン・Bを代表する一曲”ではないのだ。私はこの一曲にのみ集約される歌手ではない。ジェーン・バーキンは長い時間をかけて”それだけではないジェーン”の地位を獲得していった。しかしそれはフランスの事情。世界的女優として羽ばたいていった娘シャルロット・ゲンズブールが、諸外国で聞かされる”父母のことで知っていること”がこの曲しかない、と嘆いている。そう、まだまだ世界的には「ジュ・テーム」のスキャンダル歌手がジェーン・バーキンである。しかしこの歌は一過性のスキャンダルで終わる歌ではない。
 2019年、私はこのシングル盤「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の発売から50周年となったことを機に、ラティーナ誌(2019年4月号)に『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュの50年』という記事を書いた。世界を変えた歌のひとつとして証明するために。だが、ジェーン・バーキン自身はこれを越えたかったのだ。これだけじゃない。そうとも。これだけじゃない。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2019年4月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の50年

 こ
の原稿を書いている32日はセルジュ・ゲンズブール(1928-1991)の命日であり、あれからもう28年の月日が流れたのだ。ゲンズブールは62歳でこの世を去ったが、私は今やゲンズブールよりも年上になってしまった。この日も彼が眠っているペール・ラシェーズ墓地には多くのファンたちが詰めかけているようだが、私はそこまでの熱心な信奉者ではない。しかし、この二、三十年で、私が公に発表している日本語の文章の総数で、ゲンズブールに割かれた行数は他を大きく引き離して圧倒的に多いはずだ。異論の余地なくポップ・フランセーズ最大の異才なのだから。
 その絶対的傑作とされる『メロディー・ネルソン』よりも、世界的にはるかに知名度が高いのがジェーン・バーキンとのデュエットによるシングル盤「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」である。このスキャンダラスなレコードがフランスで発売されたのが19692月のこと。すなわち今から50年前のことなのである。

 
 時期的にはそれから少しずれるかもしれないが、その歌から生まれたとも言えるバーキン/ゲンズブールの一人娘シャルロット・ゲンズブール(1971 - )は、大人になって歌手/女優として国際的な舞台で活躍することが多いが、外国で人々に父母のことで知っていると言われるのはこの歌のことしかない、と証言している。その世界的名声は、それまで非英語曲を頑なにシャットアウトしていた英国シングルチャートで1位になるという大武勇伝だけでなく、北欧、スイス、オーストリアなど欧州を席巻し、南米各国でも大ヒットする。しかも各国で放送禁止、放送時間制限、購買者年齢制限(未成年に売らない)などさまざまな障壁を乗り越えてのヒットである。
 

 50年後の今日、あの曲が世界中の国でヒステリックな検閲の憂き目にあったことなど、今のネット上の性表現に慣れた若い人たちには笑い話でしかないだろう。考えられないかもしれないが、ついこの間まで「性」は禁止されるものだった。それは人間の営みとしてはあっても、人前に出してはいけないものだった。60年代頃まで私たちは結婚前の性関係はいけないことだと教えられていたのだ。それをフランスを含む旧教的世界で禁欲的な道徳で圧倒的な影響力を持っていたのがローマ法王庁であった。19698月、法王庁の公式日刊紙オッセルヴァトーレ・ロマーノはこの歌「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」をわいせつと断定し、未成年者たちをこの歌から守れと訴えた。この圧力によりイタリアはこの曲の放送禁止を決定し、スペインとスウェーデンもそれに従った。
 フランスではレコードに「未成年(21歳未満)禁止」のスティッカーが貼られ、23時以前の放送が禁止された。英国BBCは「歌入りヴァージョン」が禁止でインストルメンタルは許可されたので、漁夫の利でスタジオ・ミュージシャン寄せ集め即席バンド
サウンズ・ナイス名義のインスト・シングル盤もヒット(チャート18位)した。ジェーン・バーキンの妹リンダはBBCの検閲に激怒して人気番組トップ・オブ・ザ・ポップスのディレクターに抗議の手紙を送ったところ、返事がウィットの利いたフランス語で返ってきた:

Moi jaime Je taime mais la BBC naime pas Je taime.
私自身はジュテームが好きなのですが、
BBCはジュテームが好きではないのです
冴えたブリティッシュ・ユーモアであるが、BBCに頼らずとも英国で9月に発売されたこのシングル盤が1017日に映えあるチャート1位に輝いたのは、ひとえにクラブでの爆発的な人気によるものだった。69年夏、ヨーロッパ中のクラブで男女はこのスローでチークを踊ったのだ。それはその後の夜更けの出来事の直接的なプレリュードであった。ジェーンの兄、アンドリュー・バーキン(写真家)は、その夏このレコードを卓上プレイヤーにかけて(エンドレス・リピートにして)曲に合わせて恋人とセックスしたことを告白しているが、ヨーロッパ中で何十万組のカップルが同じことをしたであろうことは想像に難くない。
 ローマ法王庁の圧力は、イタリアの検察を動かし、イタリア刑法が禁止するわいせつ物出版および上演に抵触するとして、ミラノのレコード工場で同シングル盤のストックを差し押さえた。当時この曲はイタリアのチャートの2位。この法解釈は全イタリアで個人がこの盤を所有しても同罪と見なされ、瞬く間にイタリア全土のレコード店頭から消えるのだが、禁止されれば欲しくなる人間の性(さが)、闇ルートではマリア・カラスのジャケットに差し替えられて5万リラの高値で流通したという。そしてこの法王庁の影響力が強大でカトリック信仰が根を張った南米大陸の各国でも、同じように禁止が逆に大人気を呼んで、闇の大ヒットとなっていく。
 この現象を評してゲンズブールは「バチカンは俺たちの最高のプロモーションエージェントさ」とほくそ笑んだのである。

 ウッドストックは69年の夏の出来事だった。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが
ベッドインした年でもあった。そしてその前年の68年、フランスでは5月革命という大事件があり、政治的には革命は起きなかったものの、若者たちを旧時代のモラルから脱皮させた大きな意識革命があった。間違いなく大きな変動が地球を包んでいた時期であるが、西欧で性の解放は経口避妊薬の合法化と共にやってきた。フランスでは68年に市販が認められ、74年から社会保険の払い戻しが適用されている。性は人類再生産のためではなくても良くなった。私たちは大手を振って性に快楽を求めても良くなったのだ。「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」はその時代のど真ん中の性的オーガズムへの賛歌であった。

 とは言え、この曲は69年に作られたわけではなく、ゲンズブールがジェーン・バーキンと出会う前に既に67年に完成されていた。ゲンズブールが世紀の女優ブリジット・バルドーと「まさかの」恋仲にあったのは67年のたった3ヶ月の間のことだった。なぜ「まさかの」と書いたかと言うと、これはゲンズブールにとっても信じられない半信半疑の恋だったからであり、それは後で解説する歌詞にも明らかなのである。ジョアン・スファールの映画『ゲンズブール、その英雄的生涯』(日本公開題「ゲンズブールと女たち」2010年)にもこのシーンは出てくるが、バルドーはゲンズブールに「世界一美しいラヴソングを作ってほしい」とねだる。伝説ではその願いに応えて一夜で作詞作曲したのがこの「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」ということになっているが、実は曲は前に出来ていて、66年のエドゥアール・ランツ監督映画『緑の心(Les Coeurs Verts)』のサントラとしてゲンズブールが作曲したインスト曲
Scène de balがオリジナルである。6712月に録音されたバルドー&ゲンズブールの「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」(編曲ミッシェル・コロンビエ)は、その録音翌日にリークされ民放ラジオ局ユーロップ1でオンエアされてしまう。ここから轟々のスキャンダルが持ち上がり、当時のバルドーの夫(3番目)であったドイツ人億万長者で写真家のギュンター・ザックスはその発売を止めさせるためにバルドーとレコード会社を脅迫する。その結果レコードは封印、バルドーはゲンズブールとの関係を絶たねばならなくなった。
 このバルドー&ゲンズブールの「ジュテーム」第一ヴァージョンは、1986年に封印を解かれ、売上をバルドー主宰の動物愛護団体に寄付するという条件でシングル盤化されるが、わずか2万枚のセールスに終わっている。

 世紀の恋を失ったゲンズブールはしばらく失意で立ち上がれなかったのだが、それを救ったのが、ゲンズブールよりも18歳年下のイギリス娘(当時21歳)ジェーン・バーキンであった。68年春、ピエール・グランブラ監督の映画『スローガン』で主演ゲンズブール&相手役バーキンとして初対面した二人は、全く波長が合わず、お互いに毛嫌いすらしていた。これでは撮影ができないと困ったグランブラ監督が、二人を高級レストランのマキシムスへ招待し、ひとつ三人で腹を割って話そうとテーブルを予約するのだが、よくある手で時間になっても自分は現れず二人だけの夜になる。グランプラの策はまんまと成功し、飲んで喰って踊って明け方まで二人は享楽し、オスカー・ワイルドが滞在し死の床となったことで知られるホテル「ロテル L
hôtel」(パリ6区。以来バーキン&ゲンズブールの定宿となる)の一室に倒れ込んでいく。伝説ではゲンズブールはそのまま倒れて寝入ってしまうのだが、バーキンは起きて24時間営業ショップ「ドラッグストア」に出かけ、その夜クラブで踊った曲のレコード(オハイオ・エクスプレス「ヤミーヤミーヤミー」)を買ってきて、ぐうぐう寝ているゲンズブールの足の指に挟んで、自宅に戻ったという話になっている。

 それはそれ。のちに世紀のカップルとなる二人はこの時から離れられない仲になり、ゲンズブールは封印したばかりの世紀のラヴソングをバーキンと再創造するのである。バルドーと録音したのと同じ
Cメジャースケールだが、バーキンにはバルドーよりも1オクターヴ上の声で歌わせる、このことが成功の大きな要因であったと後にゲンズブールは語っている。
  ではまずタイトルの
”Je t’aime moi non plus”だが、もとのフランス語からも意味のとりにくい不条理な表現で、直訳的には女が「私はあなたを愛している」と言い、男が「俺そうじゃないね」と答える。「いや俺は違う」という答えではない。出典は天才画家サルバトール・ダリの言葉:
Picasso est espagnol, moi aussi
Picasso est un génie, moi aussi
Picasso est communiste, moi non plus

ピカソはスペイン人だ、私もそうだ

ピカソは天才だ、私もそうだ

ピカソは共産党員だ、私もそうじゃない

に由来する。ジェーン・バーキンは後年(まさに
50年後の2019年だが)この歌が自分のために作られたわけではないことを踏まえて、作ったゲンズブール本人がまさかバルドーがこれを歌ってくれるわけがないと疑っていたから、こういう照れの返事を用意したのだ、と分析している。歌詞の大胆さに反してゲンズブールはとても臆病で恥ずかしがり屋なのだ、とも。ジュテームとかモナムールといったピロートークをまさかバルドーが俺に歌うはずがない。ところが
(女)あなたは波、私は裸の島
   
(
.)
(
) 肉体の愛には出口はない

性的恍惚にクレッシェンドしていく4分間シングル、その繰り返し運動の末に女は「今よ、来て」とエクスタシーに導く。バーキン&ゲンズブール版「ジュテーム」が出た時すぐさまエクスプレス誌は
Symphonie en râles majeurs”アヘアへ長調交響曲)という異名を与えた。その喘ぎ声に煽られ、事情を知らぬ少年少女たちは奇妙なセンセーションを覚えたが、それが何か知らずとも絶対親や大人たちには秘密にしておきたい何かだった。隠れて聞きたいイケナイ歌だった。さらに歌詞は変なことを歌っている。
Je vais je vais et je viens entre tes reins
おまえの腰の間を行ったり来たり

これが暗示するものはソドミー(肛門性交)である。禁止にも関わらずイタリアで大ヒットした結果、イタリアでは隠語で「ゲンズブール式セックス」と言えばソドミーのことになったという。
1976年ゲンズブール初監督長編映画『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』(
→映画ポスター)はゲイの男(ジョー・ダレッサンドロ)がアンドロギュノス風な女(バーキン)とソドミーによって愛し合うことが可能になるという物語だった。これもカトリック的道徳観をおおいに逆撫でするものであったことは言うまでもない。
 
 当時ジェーンは男性誌に裸身をさらし、ゲンズブールに絡まってほとんど透明のミニドレスでパリの夜に出没した。ゲンズブールという退廃趣味の
40男に操られたセックス人形のように見られることが多かった。つまり異常で狡猾な才能の持ち主に服従してその意のままに立ち回る哀れな芸女のように。そのイメージでフランスでスターになれたのかもしれない。だが、ジェーンが決して服従などしていなかったのは後年明らかになるし、本連載201812月号で取り上げたバーキンの日記『マンキー・ダイアリーズ』でもはっきりしている。

 1969
9月の時点でヨーロッパで80万枚を売ったこのシングル盤は、その後のローマ法王庁の禁止令が災い(幸い)して、10月中旬には総売上150万枚(うち英国が25万枚)に達し、年末にはその倍になったとも言われる(ジル・ヴェルラン著公式バイオグラフィー『ゲンズブール』2000年刊による)。バルドーが求めた「世界一美しいラヴソング」は、バーキンという代役ではない真のパートナーによって、世界中の誰もが知るラヴソングとして50年生き続けた。今でもこの歌を放送禁止にする国はある。もっとも最初から禁止されることを狙った制作意図もあったはずだが、禁止はバーキン/ゲンズブールに味方した。だが50年経ったら、一体どんな理由で禁止になったんだっけ?と想像できない世の中になってしまった、というわけではないのが2019年現在である。性は問題あるままだ。進んだだの、遅れてるだのの論議ではない。性の解放は男性原理で進めば女性の隷属はさらに深刻なものになる。21世紀はそのことを克服する性の開花を実現してほしい。性は愛であってほしい。バルドーのように最高に美しいラヴソングこそ常に求められるべきで、性とのハーモニーの古典として「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」は今日も有効なのである。

(ラティーナ誌2019年4月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)"Je t'aime... moi non plus"スコピトーン(1969年)


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