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2025年5月28日水曜日

Time is Monet

”La venue de l'avenir"
『未来の到来』

監督:セドリック・クラピッシュ
主演:シュザンヌ・ランドン、アブラアム・ワプレール
2025年カンヌ映画祭公式上映作品
フランス公開:2025年5月22日

今から四半世紀前、クラピッシュのY2K映画『Peut-être(日本上映題:パリの確率)』(1999年)は、2000年前夜のパリという”現時点”にいる優柔不断な男ロマン・デュリスが、あるタイムトンネルで繋がっている2070年の(温暖化の結果砂漠と化した)パリにいる70歳の息子ジャン=ポール・ベルモンドと出会い、息子が父におまえが今夜”決めて”くれなかったら俺も俺の家族もこの世にいないんだ、と諭すストーリーだった。過去が未来を決定するというロジック。確実な過去があってこそ成立する未来であるが、往々にして未来はその確かな姿の過去を知らない。2025年クラピッシュ新作は、子孫たち(未来=2020年代的現在)が全く予期していなかった先祖たち(過去=約150年前)を手探りでさまざまな手掛かりから驚きながら知っていく、というタイムサスペンスもの。
 事の発端は1873年生れの女性アデル・ムニエが所有していたノルマンディー地方の野中の一軒家(現在は廃屋として放置されている)が、地方再開発(ショッピングモール建設)の予定敷地の中にあり、その系図から探し当てた子孫たち約30人を召集して屋敷の売却を求めてきた。30人を代表してセブ(映像クリエーター、演アブラアム・ワプレール)、アブデル(定年を控えた教師、演ズィヌディン・スアレム ← クラピッシュ映画の大常連)、セリーヌ(エリート会社員、演ジュリア・ピアトン)、ギイ(養蜂家、演ヴァンサン・マケーニュ)が全権大使として物件の検証調査に。1940年代から放置され草ぼうぼうの野っ原の中で朽ちかけている田舎家の扉が役人の立会いのもとに錠が壊され、子孫四人は見知らぬ祖先アデルの世界に入っていく。
 映画は現在と過去の二元中継のやり方で、1895年、若きアデル(演シュザンヌ・ランドン)がそのノルマンディーの家を出て、生き別れになっている母オデット(演サラ・ジロードー)を探してパリに出発するシーンを映し出す。その畦道を行く馬車を追いかける恋人の若き農夫ガスパールとの別れの接吻、「手紙書いて送るから」と言いながら、この若い男女、どちらも読み書きができないのだった。馬車を乗り継いでセーヌ河口の船着場へ、そこからセーヌ川を上っていく蒸気船に乗ってパリまで。その船の中で出会ったル・アーヴル出身の二人の若者、画家のアナトール(演ポール・キルシェール)と写真家のリュシアン(演ヴァシリ・シュネデール)、最先端のアートの都となったパリで一旗上げようというこの二人が、右も左も知らないパリでアデルの強力な助っ人になる。長い船旅の末、船はパリに近づき、行くてにオスマン建築の街並み、そして1889年に完成したばかりのエッフェル塔が姿をあらわし、三人の若者は驚嘆する(いいシーン)。
 顔も知らぬ母から養育費だけは定期的に受け取っていたが、住所は知らない。知っているのはその養育費の代理送金人の弁護士の住所だけ。訪ねて行けば弁護士はオデットの居場所は知らないが仕事場なら知っていると、教えられた住所に行ってみるとそこは娼館だった。夢にまで見た母オデットとの再会は、大きな幻滅となり、失意の娘は母と別れ、モンマルトルのビストロに間借り下宿しているアナトールとリュシアンのところへ。ここから三人の若者のユートピア的共同生活が始まるのだが、これがすごくいいのだ。まず下宿大家のビストロのおかみさんへの労働奉仕で食材の買い出しに行かされるのだが、当時19世紀末のモンマルトルの裏側は野っ原、農地があったり牧草地があったりの田舎風景で、点在する農家から野菜や鶏卵や牛乳を調達する(アデルがノルマンディー娘ぶりを発揮して牛から直接乳搾りする)。アナトールは絵の売り込み。リュシアンは写真の売り込み、それぞれの才能が芽を出して行く。リュシアンは写真技術の飛躍的進歩で絵画は衰退してしまうという持論を展開する。この映画の後半で活動写真の到来(史実として1895年)も予告されるのだが、活動写真(映画)の到来で写真は衰退してしまうと誰もが思った。しかし130年経った今日でも絵画も写真も映画も衰退していない。このメッセージ重要。それはそれ。アナトールはアデルに裸体デッサンのモデルをお願いし、アデルはアナトールにガスパールへの手紙の代筆と読み書きの教授を乞う。わ、モンマルトルっぽい青春(cf アズナヴール「ラ・ボエーム」)。
 一方”現代”の四人の子孫たちも朽ちたノルマンディーの田舎屋敷の中から、多くの写真、手紙、絵画などを発見して、それらの手掛かりから先祖アデルの人となりやその行状をパズル謎解きをしていく。その壁に飾られた肖像写真(後でそれらが19世紀の大写真家ナダールの撮影によるものとわかる)と印象派風な油絵作品に四人は魅せられる。映画は当初全く面識のなかったこの四人が、それぞれの個人事情を越えてこのパズル解きに没頭するようになり、やがて古くからの大親友であったかのような親密なつながりを築き上げていく過程も描いていく。19世紀側で形成される三人の若者のユートピアと並行して、現代の側でも四人のユートピアが出来上がっていく。
 四人のそれぞれのプライヴェートストーリーも挿入されるのだが、その中で最も若いセブのそれがひときわ目を引く。演じるアブラアム・ワプレールは現在28歳の新進男優で母親は故ヴァレリー・ベンギギ。クラピッシュは当初この役にフランソワ・シヴィルを予定していたのに、都合がつかず、アブラアム・ワプレールに回ってきたらしいが、たしかにシヴィルとよく似たキャラクターである。セブは映像クリエイターとして自分では独創的な映像(ファッション動画、音楽ヴィデオクリップなど)を作ってきたつもりなのだが、押しが弱く、言いくるめられやすい。ずっと父親と二人暮らしで、家族というものを知らず、女性づきあいが下手。そういう中でこの先祖パズル謎解きを見ず知らずだった三人の大人と連帯して行動する体験は、セブを大きく変えていく。その変化につれて、セブがヴィデオクリップを撮っている女性シンガーソングライターのフルール(演”ポム”クレール・ポメ)との関係もしだいに深まっていく...。
 19世紀末の側では、アデルと母オデットが和解する。アデルが知りたい二つのこと、それはなぜオデットが長い間アデルを放っておいたか、もう一つはアデルの父親は誰か。第一の問いの言い訳としてオデットが若き日に退屈なノルマンディーを出てパリで新しい世界を見たいと願って行動したハイカラ娘だったことを知る。その冒険心と美貌は華やかなパリで花開き、多くのアーチストたちの心を虜にする。とりわけ一人の画家と一人の写真家が。第二の問いの答えはそのどちらかがアデルの父親である、と。
 現代の側では廃屋で見つかった印象派風の絵をめぐって、アブデルが旧知の美術館学術員のカリクスト・ド・ラ・フェリエール(貴族を想わせる高貴な名前、演セシル・ド・フランス ← クラピッシュ映画の大常連)の助けを求め、この四人組に合流し、そのコネクションでル・アーヴルの(フランス第二の”印象派”作品を所蔵する)アンドレ・マルロー美術館の研究室にこの絵の鑑定を依頼することに。その結果、なんと非常に高い確率で作者はクロード・モネ(1830 - 1926)である可能性がある、と。その場合の評価価格は想像できないほど、と。
 映画の見せ場の一つで、四人+カリクストの五人がかの田舎屋敷に戻り、養蜂家ギイが持ち込んだ怪しげな煎じ薬を一緒に服用し、五人同時に幻覚体験をするシーンがある(←写真)。五人のトリップ先は19世紀末のパリのサロン(おそらく1874年の最初の印象派グループ展)であり、ヴィクトール・ユゴー(一瞬のチョイ役でフランソワ・ベルレアンが演じている)がいたり、ボードレールがいたり、写真家フェリックス・ナダールがいたり、モネ、セザンヌ、ベルト・モリゾ、ルノワール....。この印象派グループを酷評する評論家にカリクストは殴りかかっていく...。
 19世紀の側で、アデルの父親の可能性が高いオデットを熱愛した二人の男とは、画家クロード・モネと写真家フェリックス・ナダール(演フレッド・テストー)であった。パリの超売れっ子マルチ芸術家となっていたナダール(その被写体として名高い女優サラ・ベルナールも登場)のところへアデルは確かめに行く。若き日のオデットと同じようにナダールはアデルの初々しくも野生的な美しさに惹かれ、被写体モデルを請う。21世紀人たちがノルマンディーの田舎廃屋で発見した女性のポートレート写真の数々(オデットとアデル)はナダール撮影のものだった。
 さらにアデルはもはやパリ圏にいない画家クロード・モネ(演オリヴィエ・グルメ)をあのジヴェルニーの家まで訪ねて行く。まだ「睡蓮」の連作を描く前の頃である。モネにもオデットの記憶は鮮烈であり、その運命を変えた人物と言っていい(↓後述)。その面影を残す娘のアデルをモデルにモネはかのジヴェルニーの日本庭園を背景に描き始める...。
 そしてこのクラピッシュ映画の”やりすぎ”とも言えるシーンが続く。時期は1872年、若き日のモネとオデットは、ル・アーヴルの港を見下ろすホテルに泊まっている。夜明け前にモネは起き、ホテルの窓から港を描き始める。やがてオレンジ色の太陽が昇る。オデットが起き出し、絵筆を止めないモネに身を寄せる。そしてオレンジ色の太陽が港の波の上に映えているのを、オレンジ色の絵の具の横ギザギザ線で、ザッザッザッザッ... 。この横ギザギザ線!オデットとモネのインスピレーションだった。2年後の1874年、『印象・日の出』と題され印象派誕生のマニフェスト的名画となるこの傑作が描かれた時、オデットはアデルを身籠ったと....。ちょっと、ちょっとぉぉぉ....。

 21世紀の四人はこのようにしてパズル謎解きを終える。アデル・モニエの末裔たる30人の子孫たちは皆クロード・モネの子孫でもあった。2時間6分の19世紀と21世紀を行き来する映画はこういうハッピーエンドで閉じられる。昨年2024年、印象派誕生150周年でオルセー美術館を初め色々なところで大規模なイヴェントが開かれたが、みんな本当に印象派絵画が好きなんだよねぇ。これ私に異論はない。そしてこの19世紀末という刺激的な時代のパリ、エッフェル塔やオスマン都市計画、印象派、象徴派、街灯がガス灯から電灯に変わるのをモンマルトルの丘から見下ろし驚嘆歓喜する三人の若者のシーンあり、みな美しい。予算的に大変高くついたのではないかな。クラピッシュ最大の映画冒険だったと思う。
 シナリオ上で気になったのが、若い日にパリの芸術家たちに引っ張りだこだった美貌のオデットが、どうして娼婦に身をやつすことになったのか。これはサラ・ジロードーの演技からは「後悔しない女」という印象で、まったくネガティヴな感じはない。時代に先んじたハイカラ娘が失速して歳を重ねても、たとえどんな境遇でもパリとそのアートを享受できる女性のような。だから娘アデルはこの母と和解できたのだと思う。
 主演アデル役のシュザンヌ・ランドンは父ヴァンサン・ランドン、母サンドリーヌ・キベルランという名優+名女優の娘。いいんじゃないですか?たぶん来春セザール賞にノミネートされることになると思う。ただ、かつての日本のお正月オールスター映画のように、重要キャスティング(優れた俳優たちという意味です)多数で、おまけにモネやらユゴーやらサラ・ベルナールやら歴史的人物も多く出てくるので、なにかおめでたい(万人受けする)映画のような印象が強い。私の観た公開初日(5月22日)昼14時の回では拍手喝采が起きたし。大家撮りの映画と言えよう( ← これ悪口です)。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『未来の到来(La venue de l'avenir)』予告編

2022年4月6日水曜日

A star is reborn

"En corps"

2022年フランス映画
監督:セドリック・クラピッシュ
主演:マリオン・バルボー、ミュリエル・ロバン、ドニ・ポダリデス、ピオ・マルマイ、フランソワ・シヴィル、ホフェッシュ・シェクター
音楽:ホフェッシュ・シェクター+トマ・バンガルテール
フランスでの公開:2022年3月30日

画題"En corps"(アン・コール)はどう日本語にしていいのかわからないのでそのままにしています。(外国上映用の英語題は"Rise(ライズ)"ということだそうです)。無理して訳すと「からだで」「肉体の中で」「実体として」... また corps が軍隊の隊、バレエ団などの団の意味もあるので「集団で」「まとまって」という含みも考えられます。このヒロインがひとりのプリマドンナとして傷つき、集団的創造の中で自分を取り戻していくというストーリー性からもこの意味は大切だと思います。それから再生の物語なので、encore(アンコール、再び)という語との語呂合わせになっていることは間違いないと思います。
 主演のマリオン・バルボーはこれが映画初登場ですが、実生活でも現役のパリ・オペラ座バレエ団のプリマバレリーナ(danseuse étoile)でクラシックバレエとコンテンポラリーダンスの両フィールドで国際的な舞台で活躍しています。今年30歳。一方この映画のヒロインに重要な影響を与えるコンテンポラリー・ダンス・カンパニーの主宰者でコレオグラファーの役を演じるホフェッシュ・シェクター(実名出演)は、実生活でその人であり、イスラエル出身46歳、現在英国を拠点に世界的に評価の高い(日本公演も)先駆的コレオグラファーです。この世界第一線の二人が主軸となっている"ダンス”の映画ということなので、そのダンス芸術をありがたく拝見する2時間となったって、別にそれはそれですごいことになるはずなんです。ところが、そこはクラピッシュですから...。 
 ストーリーはいたってシンプルです。まず映画オープニングは(これが本当に美しい)パリ・オペラ座(パレ・ガルニエ)、当夜の上演作品は「ラ・バヤデール」、幕が上がる前、楽屋と舞台裏で緊張する出演者たち、ウォームアップを繰り返し、お互いを励ましあったり、チュチュのバレリーナたちの”生”の姿は、エドガール・ドガ描く「踊り子たち」をリアルで見る感じ。その緊張の頂点にあるのが主役寺院の舞姫を舞うプリマバレリーナのエリーズ(演マリオン・バルボー)、幕が上がり、ひとたび一座が巨大な工場機械のように動き始めると、制作に携わるすべての人たちが走り出す。美しい。その舞台助監督のひとりとしてセドリック・クラピッシュ自身がカメオ出演していて、ダンサーたちに無言の指示を与えている。舞台袖に退き次の出番を待つエリーズは、同じ一座のダンサーである恋人が、これまた同じ一座のバレリーナで親友と幕間時間に濃厚な接触をしているところを目撃してしまう。心千々に乱れてしまうエリーズ。出番がやってきて、乱れる心で舞台に躍り出て、大見せ場の連続スピン、そして大跳躍... が、なんたることか着地失敗、大転倒、オペラ座に鳴り響く悲鳴。ここまでの十数分間、セリフ一切なしで進行するのです。最初に聞こえる人の声が、このエリーズの悲鳴。
 救急車で病院に搬入され、左足の腱を損傷しており、全治には時間がかかるが、最悪の場合は二度とバレリーナとして復帰できない可能性も、と診断される。二つのショック、失恋とダンサーの命たる足の負傷、前者は全然たいしたことはないのだが、後者は人生が崩れるほどの衝撃なのです。26歳のエリーズはそれとどう向き合うか。クラシックバレエの特殊性、それは早く始まり早く終わるキャリアです。幼くしてお母さんに手を引かれてバレエ学校に通ったことから始まり、毎日数時間練習を続け、選別があり振り落とされ、地方から出て「オペラ座の子ネズミ」と呼ばれるオペラ座付属バレエ校で猛稽古を積み、その完成期は20代にやってくる。引力に逆らい宙に舞うことの頂点を迎え、やがて飛べなくなる。エリーズはその挫きがあまりにも早くやってきたことに、なんとか抵抗しようとします。
 片足をギブスで固められても、毎日の鍛錬を怠らない。なんとか再生の道を見つけたい ー と、この方向で映画が進むとスポ根ドラマと同じになってしまうんです。中には「第二の人生」探しを勧める者もいて、その代表が父親アンリ(演ドニ・ポダリデス)で、職業は地方(有能)弁護士、妻を早く亡くしやもめ暮らし、三人の娘(そのうちひとりがエリーズ)との付き合い方も下手(娘に"je t'aime"と言えない)、不器用な堅物男は「プロサッカー選手と一緒だよ、カタギの第二の人生を用意しなければならない」と説くのです。ドニ・ポダリデスに当たりの役です。どうしようもないなあと思いながらこの父親を愛しているエリーズですが、絶対にダンスの道は諦めたくない。ポダリデスを筆頭として、クラピッシュ映画なので脇を固める人物たちが、一癖も二癖もある”味”のある人たちばかり。キネ(スポーツ整体師)のヤン(演フランソワ・シヴィル、クラピッシュ前作"Deux moi"の主役)は医学(つまりエリーズを診断した外科医の半ネガティヴな経過判断)を信ぜず、ニューエイジっぽい精神論でエリーズを激励し、心の内でエリーズを熱愛する(が結果的にあっけなく振られる)道化師型キャラ。サブリナ(演スーエイラ・ヤクーブ、スイス人女優)はエリーズと同じオペラ座バレエ団に属していたが、同じように足の怪我で第一線を退き、今は女優を目指して修行中、竹を割ったようにものをズバズバ言いしかもフェミニスト、事故後にエリーズが最も意気投合し、頼れる姉御となっている。そのサブリナとカップルを組んでいるのがさすらいの料理シェフのロイック(演ピオ・マルマイ)で、店を持たずフード・トラックとキャンピングカーでイヴェントやセミナーのあるところに出張して料理を提供する。サブリナとロイックは口論のタネがつきない口喧嘩カップルですが、単純なことで和解ができ、夜にはキャンピングカーをゆさゆさ揺らしながらセックスをするという豪快さ。しかしロイックの独創的な料理探求の熱心さと腕は誰もが認めるところで、エリーズは(事故後の気分転換、ひょっとして第二の人生の手がかりかも、と)このカップルに付いて料理修行をしてみようか、という話に。
 ロイックの次の仕事先はブルターニュ地方モルビアン県の人里からちょっと離れた古い大屋敷。舞台芸術全般(音楽、演劇、ダンス etc)をこよなく愛する屋敷所有者ジョジアンヌ(演ミュリエル・ロバン、元国民的スタンダップ芸人、素晴らしい)が、ここをセミナー、アトリエ、スタジオ、ワークショップ、稽古合宿場としてアーチストたちを迎え入れているのです。ジョジアンヌ自身30年前に足を痛め、舞台を断念したという過去があって、今も杖の生活。しかし舞台芸術全般に通じたお世話おばさんのようなキャラで、アーチストの子たちが可愛くて可愛くて、という立ち回り。スネに傷持つエリーズもすぐにわが子のように。こういうおばさんのいる合宿所で創造活動ができるアーチストたちは幸せだと思いますよ。
 そんなところへ集団でやってきたのが、ホフェッシュ・シェクター・ダンスカンパニー!その場では料理人見習いでしかないエリーズですが、ついこの間までオペラ座プリマバレリーナだった彼女をホフェッシュが見逃すわけがない。「いつでも稽古の輪に入って」とホフェッシュが誘うのですが...。両者の波長はバッチリ噛み合っているのはわかっているのですが、やみにやまれぬ”踊りたい”衝動と、今動かしたら一生踊れなくなるかもしれない足の様子をうかがって葛藤するエリーズ。ええい、ままよ、見る前に跳べ。(↑写真:セドリック・クラピッシュ+マリオン・バルボー+ホフェッシュ・シェクター)
 踊りのシーンはすべて素晴らしい。門外漢の私でもふるえるほどヴァイブレーションが伝わってきますよ。私がね、この映画で最も美しいと思ったシーンは、ダンスカンパニーの全員が遠足にやってきた海の絶壁の高地、それだけでも美しいのに、夕暮れ近くになると強烈な風が吹きつけるのですよ、体が風で飛ばされそうになるほど、そこでこのダンスの仲間たちはめいめい立って足をふんばって糸につながれた凧のように風に身をまかせて右へ左へと揺れるのですよ。風と遊ぶ自由なからだ、風にしたがって動くコレグラフィー、これがみんなこの上なく楽しそうで、それを地面から撮ったり、空から撮ったりするカメラワーク。(それでぼくも)風をあつめて、風をあつめて。このシーン結構長く続くのですよ。どれだけしあわせか。
 そこで生まれる恋もあるのですよ。カンパニーのダンサーのひとりで、(既に映画前半で超絶ヒップホップダンサーとして皆を仰天させた)メーディ(演メーディ・バキ、現役のヒップホップダンサー)と恋仲になって笑顔がもどるエリーズ。映画的に見れば、この恋は完全に第二義。それが証拠にメーディはこの映画で極端にセリフが少ないが、いいやつ、存在感あり。

 ダンスカンパニーの合宿は終わり、ホフェッシュはエリーズに正式にパリで団員として参加してほしいとプロポーズ。エリーズの第二のダンス人生が始まる、というストーリー。だがしかし、クラシック・バレエのスターが、コンテンポラリー・ダンスで復活する、というだけの話ではないのを、どうやって説明しましょうか。クラピッシュが与えたエリーズという娘のキャラクターは、"étoile"(エトワール=スター)と呼ばれるバレエの頂点の(厳しい修行の末の鬼のような)硬質なイメージを剥ぎ取り、フツーの悩める20代の女性のような他愛なさが目立ち、素顔(化粧なしスッピン)の不安がよく読み取れるのですよ。この迷える娘は同世代の友情や世代違いの人々(ミュリエル・ロバン、ドニ・ポダリデス)にかなり支えられて再生に向かう。これが多種の迷える若者像を描くことにおいて独創的な映画を撮り続けてきたセドリック・クラピッシュの本領だと言えるのでは。だから父親アンリとの(どこにでもあるような頑固不器用な父親と勝気な娘のぎくしゃくした関係による)成り立たない会話と、最後にホフェッシュ・ダンスカンパニーの一員としてエリーズが踊り終わった時(なじみのない前衛的なダンスであっても)、おいおいおいおい泣いてしまう父親(ああ、ポダリデス、いい役者だ)がとっても生きてくるのです。わかりやすい。わかりやすいのがクラピッシュ。映画でクラシックもコンテンポラリーもすべてのダンスはみなすばらしいのに、これはダンスの映画ではなくクラピッシュの"迷える若者”映画だと思うんですよ、映画館を出ながら。おわかりかな?

カストール爺の採点 : ★★★★☆

(↓)"En corps"予告編 



(↓)テレビTV5 Mondeのインタヴューで"En corps"について語るセドリック・クラピッシュとマリオン・バルボー


2019年9月12日木曜日

もわもわっとした二人

『ふたりの自分』
"Deux Moi"

2019年フランス映画
監督:セドリック・クラピッシュ
主演:アナ・ジラルド、フランソワ・シヴィル
フランスでの公開:2019年9月11日

半世紀も前から、フランスの若く優しく不安定で脆い男や女やその群像を撮らせたら、この人に勝る監督はない、そういうセドリック・クラピッシュの13本目の長編映画です。時はスマホとSNSだけですべてができそうな21世紀的現代、場所はモンマルトルの丘と国鉄「北駅」の北側にあるパリ19区。高架地下鉄スターリングラード駅や北駅からの郊外電車/ユーロスター/タリスなどが画面にちょくちょく現れます。主人公二人、メラニー(演アナ・ジラルド。イポリット・ジラルドとイザベル・オテロの娘)とレミー(演フランソワ・シビル)は、全くお互いを知らない状態で、この19区の片隅に隣り合わせの二つの建物のそれぞれ上の階のアパルトマンに住んでいて、それぞれの窓を開けると同じように地下鉄や郊外電車のガタンゴトンという音が聞こえてきます。この二つの窓を、クレーンかドローンかでロングショットで撮る美しいシーンがあり、後ろにはモンマルトルの丘サクレ・クール寺院が見えます。大都会ですから、この二つのとても近い窓の二人の住人が知り合うことはまずないのです。そしてこの二人もそれぞれが「ひとり」から抜け出せずに生きていて、二人とも同じように不眠症で悩んでいます。この寂寥をアラン・スーションは「ウルトラ・モデルヌ・ソリチュード」(1988年)と歌ったのでした。その二人が不眠症を訴えて同じ時間に同じ薬局に行き、隣り合わせて二つの窓口にそれぞれ同じようなことを相談しているのですが、隣の人のことには気づかない(うまいシーンですね)。
 アラウンド30歳のアナは北フランスアミアン出身のガン研究所の研究員。半年後には研究所を代表して研究論文発表をしなければならない(その評価次第で研究費の割当が大きく左右される)という大役が待っているのだが、寝不足のため全く仕事に身が入らない。そこで精神分析医(psychanaliste)(演カミーユ・コタン、うまい)のところへ...。
 アラウンド30歳のレミはアルプスサヴォワ地方出身で超大手通販会社(ま、アマゾンでしょう)の倉庫係だったのが、ロボットに職を奪われ、配置転換で電話アフターサーヴィス課へ。寝不足で地下鉄の中で倒れ、病院で体異常はないものの心身症の疑いありということで、精神療法医(psychothérapeute)(演フランソワ・ベルレアン。うまい)のところへ...。
 このプシ(Psy = 精神医)にかかりに行くというのがこの映画のミソでして。映画題の"Deux Moi"(ふたつの moi )の "moi"とは単に「私」とか「自分」というのではなく、この精神医学の分野では「自我」と称されるものなんですね。だから、この映画の主題はふたつの病める自我がどう活路を見出していくか、みたいなもんなんです。
 で、21世紀的現在で、ウルトラ・モデルヌ・ソリチュードをお手軽に解消できると思われているのがソーシャル・ネットワーキング・サービス、すなわちSNS、すなわち出会い系で、この二人の主人公もそれぞれの側でそれを試します。当然それでウルトラ・モデルヌ・ソリチュードはさらに深まってしまうのですが。軽いコメディータッチの映画ですから、このSNSを地獄のようには描きませんけど、やっぱりこの出会い世界は壊れてますよね。
 それからこの二人にはそれぞれ病める自我をずっと以前から引きずっている原因があり、アナは両親の離婚(父が愛人作って逃げていく)そして完璧と思われた恋人との破局、レミーは幼い頃妹を病気で失い両親がそれを家族内のタブーにしている...。まあ、わかりやすい「深い傷」です。これらの深い傷に落とし前をつけないと、それぞれが自我を取り戻せないと、それぞれのプシ(心療医)が道をつけてやろうとするわけですね。探すのは自分(moi 自我)ですが。
 クラピッシュ映画の『猫が行方不明』(1996年)を伏線にしたような、一匹の猫が登場し、ふとしたことから最初レミーに飼われ、行方不明になり、隣建物の住人アナに拾われるというエピソードがあります。しかし猫は一方から他方に移るのですが、それで二人が出会いそうな予感は裏切られ、猫は縁結びにはなりません。
 この映画の真の縁結びは意外な人間なのです。フランス式コンビニの元祖、いわゆる"エピシエ・アラブ"と呼ばれる深夜まで営業する食品スーパー。この映画ではEPICERIE SABBAH ORIENTALE(エピスリー・サバー・オリアンタル)という店で、このサバーというのが店主の名前でしょう。このエピシエ(演シモン・アブカリアン、怪演)が、良い食品、悪い食品、クオリティーの違い、全部を知っているものの言い方で客に高いものを買わせることができる名人芸商人なんですね。俺の言うことを信用すればみんな満足。たしかに買った客はそのクオリティーに納得して、次の回もこの店主の意見を聞くことになります。そしてこのエピシエは近所のあらゆる情報を持っていて、世話好きときている。アナもレミーもこの店主に全幅の信頼を置く客になっていきます。そして、すれ違っても見ず知らずだったこの二人がある日、エピシエの紹介したコンパ(ハイチのダンス)教室のレッスン初日に...。
 ちょっとうますぎる。クラピッシュ節名調子全開。
 個人的なことですが、ちょっと。アナが学会での論文発表前夜、緊張で眠れないからとSNSで近距離フィットした初対面の男を部屋に呼び出して、セックスとドラッグとアルコールで乱れに乱れ、急性アル中でグロッギーになるが、駆けつけた妹キャピュシーヌ(演レベッカ・マルデール)の看護の甲斐あって翌朝、学会会場へ。そして暗記した内容が全部飛んでしまって、ほぼアドリブ勧進帳で、これまでのガン治療の主流だった化学療法(ケモセラピー)に代わる、患者自身の免疫を刺激してガン細胞を打ち破る免疫療法の有効性を弁舌さわやかに。ここでアナの心の中でなにかがふっきれるわけですが、免疫療法は私も病院で受けているので、ありがたくご高説を拝聴。私も"yes !"と喝采したのでした。
 ま、パリ下町と、二人のアラサーの迷える日々と、猫と、プシ。SNSを捨てよ、町へ出よう、アマゾンを捨てよ、隣のエピシエへ行こう、と呼びかけているわかりやすい映画でした。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ふたりの自分(Deux Moi)』予告編