2026年6月下旬から(小休止の2日間を挟んでも)20日間以上に渡ってフランスは観測史上記録破りの熱波酷暑に襲われ、パリでも最高気温40度を超す日が続いた。過去にひと夏で15000人の(熱波が原因とされる)死者を出した2003年の酷暑よりも気温は上回り、熱死者数はそれを超えるのではないかと危ぶまれたが、それは大したことがなかったようだ。その代わり遊泳中の事故、溺死者数は3桁に達し、過去に例を見ない。遊泳禁止だったパリのサン・マルタン運河や、(3カ所の遊泳区画の)川開き前のセーヌ川でも多くの若者たちが飛び込む光景がニュースになった。
2003年と2026年の酷暑は"Canicule(カニキュール)"(熱波)という言葉で表現されたが、今から50年前、同じほど暑かった1976年の夏は、”Sécheresse(セシュレス)”(干魃)だった。雨の降らない日々はその年の3月に始まっていて、それは200日も続くことになる。大干魃(la grande sécheresse ラ・グランド・セシュレス)だった。
1976年3月、四谷の大学の仏文科生だった私は学科に休学届を出した。私はあの大学と肌が合わず、興味もなく、友人もほとんどなく、フラストレーションばかり溜めていた時期だった。大学の3年間で肝心のフランス語が”中級”止まりだったのは自分のせいか。大学だけではない。私は東京にほんとうに辟易していた。18歳で東北の片隅から出てきた若造であったが、思えば、その辺の無知な田舎の小僧のように、私は東京に過度な幻想を持っていたに違いない。そう、東京に出ればなんとかなる、と思っていたドリーマーだった。父母家族と極端に悪い関係だったわけではないが、十代後半は家を出ることばかり考えていて、この環境から抜け出さなければ自己実現はありえないと思っていた。青臭さを誇りに思っていた頃。一人で何もできないくせに。東京に出ればなんでも可能なはずだった。一応(象徴的な意味での)その"droit de cité"(「市民権」ー 自由に住み通行し法に守られて生きる権利)を得たいと願い、東京に幾度もぶつかって行ったつもりだったが、その奮闘は虚しいものだった。悲しいね。3年間蠢いてみたけれど私には居場所がなかった。
アルバイトで金を貯めたわけではない。アルバイトはほとんどしなかった(2度家庭教師をして、2度とも受験に失敗させた実績あり)。むしろ生活を切り詰めて親からの仕送り金の残りを貯めていったら3年で往復航空券代くらいは捻出できた。加えて東京での生活費と同じ額の仕送りを両親に出してもらうということで、私はフランス渡航を決めた。フランスの大学に留学手続きを取り、初めてパスポートを取得し、初めてフランス政府(正しくは在日フランス領事館)に就学ビザ(右写真→)を申請し、外貨(フランスフラン)を買い、住んでいたアパートを引き払い(あの時持っていた本やレコードはどこに行ったのか記憶がない)、あとは出発を待つばかりだった頃、この1976年フランス大干魃のニュースが耳に入ってきた。当時、四谷の仏文科の一学年上の先輩連中でフランスに留学滞在していた数人が情報ネットワークとなっていて、私のような渡仏を控えた後輩に現地の情報を共有させていた。今思えば、何を情報交換のツールにしていたのだろう?航空郵便?国際電話? ー その中でフランスは旱魃で春から全く雨が降らず、極端な水不足で、給水制限のためシャワーが使えなくなっている、というすごい話が...。
1976年6月29日、羽田発(成田空港開港は2年後の1978年)北回りアンカレッジ経由パリCDG行きのエールフランス便に乗り込んだ。18時間ほどの所要時間だったと記憶している。翌日6月30日早朝にパリCDG空港(2年前の1974年開港、現在のCDG1)に到着。四谷の大学のフランス留学生ネットワークで、1年先輩のSさんが空港で迎えてくれて、何から何まで先輩に助けられて、空港からパリ市内ポルト・マイヨまで(エールフランスのリムジンバス)、そこからメトロで国鉄SNCFサン・ラザール駅、そして駅の窓口でカーン行きの片道切符を買うところまで、全部Sさんのヘルプで全く問題なく...。すごいなぁ、1年足らずの滞在で現地に溶け込んだ市民のように振舞えるようになるものなのか。私はと言えば、早朝からこんな至れり尽くせりのヘルプをしていただいたのに、日本からの手土産も持っておらず(!)、ただただ無言で言われた通り先輩の後をついて国鉄駅まで辿り着け...。おまけに電車の待ち時間に、駅カフェのカウンターで生ビールを奢ってもらった。25cc(ハーフパイント)の生ビールのことを”demi (ドミ)"と呼ぶのはその時初めて知った。その日(その頃)は真夏のように暑かった。これが大旱魃の夏か。その時私は初めての外国旅行に恥ずかしくないようにと(背抜きの夏物だったが)スーツ&ネクタイ姿のお上りさんであった。暑い中の移動で汗だらけで辿り着いた駅で、いただいた冷たい生ビール。午前中だったはず。うまい。その暑かった夏、私は多量のビールを消費することになる。
「ここからはきみひとりだから」ー Sさんと別れて、急に心細くなった私はサン・ラザール駅のホームから電車に乗り込んだが、乗ったのは”電車”ではなかった!サン・ラザール駅からのノルマンディー長距離線はまだ”電化”されておらず(完全電化は1996年!)、ディーゼル&ガスタービンエンジンで動くTurbotrain(チュルボトラン)という高速鉄道車両(4両編成)だった。時速160キロまで出て、パリ/カーン間を2時間ほどで繋ぐもので、1981年にTGVが開業するまで、フランスを代表する高速列車だった。
羽田から乗ったエールフランス機もそうだったが、この時代国鉄車両も全席喫煙可だった。どこもかしこも煙モクモクだった。そして当時のフランス人スモーカーのほとんどが、いわゆる "cigarette brune(褐色タバコ = ジターヌ、ゴーロワーズ等)”で、アメリカ系の"cigarette blonde(金髪色タバコ = マールボロ、ウィンストン等)”は前者に比べて高価であることもあり少数派だった。この褐色タバコの匂いが乗り合わせた客車の中に充満していたのが、私のフランス最初のセンセーションだった。この私の身にまで染み込みそうな強烈な香りが、私にとって”フランスなるもの”の最初だった。この褐色タバコ臭、私は嫌いではなかった。これに包まれるのがフランスにいることの実感とも思えた。
18歳の時からスモーカーだった私は、さっそく褐色タバコ吸いになった。ゴーロワーズ・カポラル、ゴーロワーズ・ヴェルト、ディスク・ブルー、セルティック、ジターヌ、ジターヌ・マイス... それぞれのフィルター付き/フィルターなし、なんとたくさんの種類を試したことか(しかし結局何週間かして、結局アメリカ系のシガレット・ブロンドに戻っていくのだけど)。あの頃着ていたものにはすべてこの褐色タバコの匂いが染み付いていたに違いない。この”第一のフランスの香り”という印象は、その後帰国(大学卒業→就職)してから再び社会人として再渡仏した1979年に降り着いたパリで、同じ褐色タバコの匂いが圧倒的に鼻に襲ってきた時に、「ああ、フランスに帰ってきた」と全身で感じられたものだった。そしてこの匂いは80年代90年代にはフランスからも消え去っていったのだった。褐色タバコだけでなくタバコ総体が社会悪としてどんどん世の中から排除されていったのはご存知の通り。私は娘が生まれた1994年にスモーカーをやめた(やめられた)。今褐色タバコを吸いたいとは全く思わないが、この煙の匂いが流れてきたら強烈なノスタルジー感に陥ることは間違いない。
1976年6月30日午後、ノルマンディー地方カルヴァドス県カーン市の駅に降り着いた。右も左もわからない。自分のフランス語は通じるかどうかわからない。とりあえずその夜の宿を確保しなければならない。日本から持ってきた地図を開いてもホテル情報などなく、地図上で"hôtel"という文字があるのは "Hôtel de Ville"と"Hôtel d'Escoville"(オテル・デスコヴィル)という2か所だけ。前者は私の仏語知識でも”市役所”という意味であることは知っていたが、後者は知らないが、ホテルっぽいではないか。それが駅から近いのか遠いのかもわからず、重いスーツケースも持っていたし、タクシーで行くことに。おそらく私のフランスでの最初のフランス語会話というのはタクシー運転手とのやりとりだったのだな。「オテル・デスコヴィル、シルヴプレ ー ウイ、ムッシュー」。着いたところにホテルらしいものは影も形もなかった。これは後日知ることになるのだが、16世紀に建造された当時の大富豪の子爵の居城を歴史的建造物として保存していた”名所旧跡”館であったのだ。まずい。重いスーツケースを持って、暑い中を歩いて探さなければならない。運よく市の中心部に近いところだったので、"Hôtel"と書いた看板が目に止まり、渡りに船で「部屋ありますか Avez-vous des chambres pour ce soir ?」と飛び込んでいった。分別など何もなかったが、入ったホテルは三ツ星(!)だった。カーン大学に前もって予約していた学生寮に入室できる日まで、2泊ぐらいしたんだな。制服のドアマン/ポーターがいた格式ある古めのユーロピアンホテル。場違い、身分不相応はすぐに自覚したが、どうしようもない。部屋に通されて、そのあとは食事も何もせず、ただただ爆睡していたはず。時差/ジェットラグの初体験。昼なのか夜なのか。
そしていつまでたっても日没しない長い長い昼 ー 1976年フランスは(春に時計を1時間進め、秋に1時間遅らせる)「夏時間(サマータイム)」をその3月27日に初実施したばかりだった。初めてのサマータイムの夏は大旱魃の夏になった。夜10時になっても昼の明るさが残っている。1973年オイルショックのせいでラジカルなエネルギー節約が急務となって採用したこの夏時間、エネルギー危機を脱したら元に戻すと言われていたのに、今年2026年で50年も続いているのだ。不評よりも好評が大きく上回っているからだ。さまざまな弊害(新生児と高齢者の体内時差による変調など)が言われていたのに。長い長い昼、遅い遅い夕暮れ、いつまでも野外に居れる自由、たぶん私はサマータイムの至福を知った最初の日本人の一人だったのだろう。その上、その夏フランスは雨がまったく降らなかったのだ。1972年、わが最愛のヴェロニク・サンソンはそのデビューアルバムの中の「バイーア」でこう歌っていたのだ。
Les jours de pluie ça n'existe pas 雨の日なんてありえない笑ってるバイーア。私もこの歌を口ずさみながら、大旱魃の夏を笑っていた。農業従事者の方々には申し訳ないが。猛烈な湿気の梅雨時期の日本から暑く乾いたフランスにやってきた私は、皮膚感覚としてこの乾燥が心地よかった。幸いにして水道蛇口からは水が出ていたし、シャワーからはふんだんにお湯が出ていた。
Les jours de pluie ne reviendront pas 雨の日は二度とやってこない
( .... )
Les jours de pluie, qu'est-ce que ça veut dire ? 雨の日って何のことなの?
Les jours de pluie, ça me fait bien rire 雨の日なんて笑わせるわ
低ノルマンディー(Basse Normandie)地方の首邑カーンは、第二次大戦の連合国によるノルマンディー上陸作戦とそれに続く地上戦の大激戦地となり、市街地は聖堂と病院を除いて壊滅的に破壊され、現在の市街は1960年代までかかって再建されたものである。だからほぼ箱型の建物が区画正しく並び、市道は広く、どことなくソ連(&共産圏)的な第一印象だった。15世紀に創立されたというカーン(総合)大学の建物も大戦で破壊され、私が入ったのは1957年に再建されたキャンパスだった。市街地の北にある11世紀にイングランドの王座につく征服王ウィリアム(ギヨーム)の居城跡の城壁を抜けた北側に大学キャンパスはあり、大学のシンボルは不死鳥(フェニックス)で、その彫像モニュメント(↑写真)が立っている。大戦で焼け落ちた大学だもの。それだけでなく町は大戦からの再建・再出発ということを誇示するモニュメントが多くあり、重い「終わらない戦後」感が漂っていた。フェニックス ー それにかこつけてこんなことを書くとナルシストの誹りを免れないかもしれないが、50年後の今にして思えば、私はこの時が私の「再生」「再誕生」だったように思っている。私はこの地で何も知らなかった。人とどう話していいのかも、パン屋でどうやってパンを買うのかもパンの名前も知らなかった。ナイフとフォークをどう使って食べるのかさえ知らなかった。私は赤ん坊のようにすべてを再学習しなければならなかった。同時に私は東京で、および日本で、何も知らずに生きていたのだ、ということを知らされた。私は一から(正しくはゼロから)やり直さなければならなかった。Bonjour la France !
11世紀に建てられたというカーン城の城跡を残す城壁内の公園に登り、そこからキャンパスに向かう小径の両側の緑地は大旱魃で真っ茶色に変わっていた。夏休みで人の少ないキャンパスに、外国人向け夏季講座を受講する外国人たち(学生だけではない、子供もいい歳の大人も)が集まってくる。日本人もたくさんいた(30人ほどか)。フランス語テストがあって、クラス分けされ、私は一応”中級”クラスに編入されることに。トラック競技のできる大きなグラウンドを挟んで4棟立っている学生寮のうち、夏の間空室になっている2棟が宿舎としてこれら”夏季学生”たちを収容し、私は最上階(4階)の角部屋が割り当てられた。南側の窓からは初めて見るヨーロッパ大陸の地平線が望める絶景。La terre de France ! ポプラ並木。窓下の南方に4面のテニスコートがあって、サマータイムのおかげで夜11時頃まで(照明なしで)プレイしている音が聞こえる。部屋にはベッドと机とクロゼットと洗面台(水&湯)しかなく、トイレとシャワーは共同。食事はグラウンドと大学キャンパスの間にある大きな学食(キャパ数百人)で。前菜、主菜、チーズ(ノルマンディーでこれを外せるわけがない)、デザート。私にはすべて美味であった。食べ放題のパン(スライスされたバゲット)は部屋に持ち帰っておやつがわりに食べた。バゲットも美味。これらに関してはフランス新座者の私には本当に恵まれていたと思う。
部屋が決まったあと、市の中心街のヌーヴェル・ギャルリー(ギャルリー・ラファイエット傘下の地方百貨店チェーン)まで行って、日本のマーク(National)のラジカセとムーリネックス(仏家電メーカー)のフィルター式カフェティエール(コーヒーメーカー)を買った。かの三ツ星ホテルのすぐ近くに焙煎コーヒー豆屋さんを見つけて、挽いたコーヒー豆を買った。東京で”アメリカンコーヒー”ばかり飲んでいた身にはまだエスプレッソ(フランス式にはエクスプレス)が苦手だったのだ。ー 眺めのいい最上階の部屋で、香りの良いコーヒーとラジカセから流れる音楽 ー Coffee & Music、すぐさま私のせまい部屋は同じ階の日本人学生たちが集まる(タダでコーヒーが飲める)サロンになってしまった。カセットは日本の友人がまめにいろいろ(しかも頻繁に)送ってくれたので、夏の間だけでかなりの量になったが、その夏のヘヴィーローテーションアルバムは3枚。
ー ヴェロニク・サンソン『ヴァンクーヴァー』ー 鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ』
ー ボズ・スキャッグス『シルク・ディグリーズ』
奇しくも3枚とも2026年に「50周年記念盤」が出るほど名盤になってしまったのだね。
こうして私の最初のフランスの日々は始まった。夏季講座の教室も喫煙可で、帆立貝の殻が灰皿がわりに置かれていたが、私は褐色タバコを吸って嫌煙者たちから睨まれて教室喫煙を断念した。30人ほどのクラスは多彩な国籍の学生たちで埋まり、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、南欧、オセアニア... We are the world。シエラ・レオーネという名前も知らなかった西アフリカの国の外交官予備軍のエリート、パーラビ国王時代のイラン(ホメイニのイスラム革命は3年後の1979年)から来ていた親ホメイニ派の学生、ピノチェットによるクーデター(1973年)で軍政化したチリに戻れなくなってフランスに留まっていたチリの学生、国土を失い抵抗するパレスティナからの留学生... こんな小さな教室でも世界情勢のど真ん中にいるように思うことがあった。みんなあまり上手でないフランス語で主張するから、私の下手なフランス語も通じているようだった。外国人同士のフランス語は一所懸命だから、通じると一挙に上達したような錯覚に陥る。ところがこれはフランス人には全然通じないのだ。夏の間、外国人相手にフランス語力がついたと思っていた自信は、秋以降の本学期にガタガタと音を立てて崩れ落ちるのだが、それはまた別の話。しかし私は一所懸命だった。東京にいた時に比べたらめちゃくちゃたくさん喋っていたと思う。たぶん私はこの時点でずいぶん変わったはずだ。
だが私を変えたのは主にそういう教室での行状だったわけではない。大旱魃の夏は心も熱くさせたし、野外で大いに遊びもしたし、宵になれば毎晩誰かの部屋で飲み会があったし、夜にキャンパスの芝生の上で(禁止はされていても)キャンプファイアーを焚いて、飲んで踊って騒いで夜を明かすこともあった。アルコールだけでなくジョイントも回ってくるし。草上で愛し合っている子たちもいたし。1976年夏、私は何度恋に落ちただろうか。その夏ナイーヴな私はどれだけ泣いただろうか。
その8月の4週目だったと記憶している。大旱魃で200日間降らなかった待望の雨が、やっと到来した。午後、激しい雷が鳴り、一挙に降り出した激しい夕立に、みんな学生寮からほぼ裸の状態で外に出て天から降り注ぐ雨を浴びた。大旱魃の終わり。みんなが何かに優勝したような大歓声を上げて激しい雨を受けていた。Shower the people ! (←これも1976年の歌だ)ー これがわが1976年夏の最も美しい瞬間だった。
私がノルマンディーのキャンパスでほぼパラダイス的な時間を過ごしていたこの1976年夏でも、地球は回っていて、世界ではさまざまなことが起こっていた。7月2日、南北に分かれていたヴェトナムが統一。7月4日、米合衆国独立200年。7月17日、カナダ・モントリールでオリンピックが開催され、体操でルーマニアのナディア・コマネチが10点満点を。7月27日、日本の前首相・田中角栄がロッキード事件で逮捕された。8月26日、フランスの首相ジャック・シラクが辞任、即日レイモン・バールが後任首相に。9月9日、中国毛沢東主席死去。ー 世界は動いていた。Et pourtant elle tourne !
(↓)1976年夏 モントリオール・オリンピック閉会式のテーマ "Je t'aime" 歌エステル・サント=クロワ
1976年夏は私を映画に開眼させてくれた日々でもあった。高校の時も東京で大学生だった時も映画館にほとんど足を運んだことがなかった。特に実家にいた時は両親が映画を不道徳なるものと決めつけていて、私が映画館に行くことを極端に嫌っていたという事情があり、私の映画歴は非常に貧しかったのだ。東京では一度も映画館に入ったことがなかったと思う。
学生寮からはバスを使っていかなければならない距離にあったが、市の南側に「シネマ・リュックス(Cinéma Lux)」というアートシアター系の上映館があり、日替わり/時間替わりで多種の映画をかけてくれるシネフィル向けプログラムが売りだった。その演目をチェックして、私はかなり足繁くこの映画館に通った。最初に観た映画のことはまだしっかり憶えている。アラン・パーカーの『バグジー・マローン(邦題ダウンタウン物語)』(この時ジョディー・フォスター14歳)。この映画を一緒に観に行った日本人女性と、私は1979年に結婚(1982年に離婚)することになるのだが、「シネマ・リュックス」が取り持つ縁だったのだ。スコセッシ『タクシー・ドライヴァー』(その年のカンヌ映画祭パルム・ドール賞)、トリュフォー『アデルの恋の物語』(アジャーニ)、ベルトルッチ『ノヴェチェント(1900年)』(5時間映画!1部と2部)、テシネ『バロッコ』(アジャーニ&ドパルデュー)、クロード・ジディ『手羽先とモモ(L'aile ou la cuisse)』(ルイ・ド・フュネス&コリューシュ)、ジョゼフ・ロージー『クラン氏(Monsieur Klein)』(アラン・ドロン).... その年わが大学寮の日本(男子)学生たちの間だけで話題になっていたのが大島渚『愛のコリーダ』(その年のカンヌ映画祭で初上映)は、”有志”たちと一緒にパリまで遠征して観たと記憶している。しかしこの1976年、(観たのは秋だが)、シネマ・リュックスが私に見せてくれた最良の映画はカルロス・サウラ監督の『クリア・クエルボス(邦題カラスの飼育)』(9歳のアナ・トレント)だった。カラスを飼い育てる者は目を抉られる(スペインの諺)。イマジナティヴであり残酷でもあり、亡き母の真実を想像の世界で感得する少女のイノセンス。フランコ独裁の終焉(1975年)がもたらした自由創造の最初の傑作のように観た。主題歌のジャネットが歌う「ポルケ・テ・バス」は、聞くたびに私の夢の1976年を甦らせてくれる「プルーストのマドレーヌ」ソングとなってしまった。
(↓)ジャネット「ポルケ・テ・バス」 in カルロス・サウラ映画『クリア・クエルボス』
1976年夏、私はノートにボールペンでたくさん絵を描いていた。詩ともうわ言ともつかぬ言葉もたくさん書いていた。映画メモを書いていた。頻繁に手紙を書いていた。これらの絵やたくさんの言葉はどこにも残っていない。渡仏前にミノルタの一眼レフを買って、たくさん写真を、と思っていたのだが、滞在中カメラの登場する場面は本当に少なかったし、その時の写真は今一枚もない。何にも形として残っていないから、それらはすべて私の夢になった。1976年夏の私の夢から、50年経っても私は抜け出せないでいるのだ。私は抜け出せずに、今もフランスに居て夢見続けている。1976年のもう一つの歌、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」はこう終わる: But you can never leave ! そう、私は決して抜け出せないのだよ。
(↓)アラン・スーション「ビドン」(1976年)詞スーション/曲ヴールズィ
懐かしくて泣けてくる。








0 件のコメント:
コメントを投稿