2021年1月25日月曜日

クーシュネール警報

Camille Kouchner "La Familia Grande"
カミーユ・クーシュネール『ラ・ファミリア・グランデ』

2021年1月20日現在、フランスの書籍売上の1位(ずっと1位だったゴンクール賞エルヴェ・ル・テリエ『異状』を破った)。2020年1月に発表され、30数年前に著者が14歳の時に有名文芸作家から受けたペドフィリア犯罪を告発する手記本として社会現象的ベストセラーとなったヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』のちょうど1年後、カミーユ・クーシュネール(1975年生れ、現在45歳)の本書は同じように30数年前、14歳だった著者の双子弟が義父から受けた近親相姦犯罪を告発するもの。この二つの書には影響関係があり、クーシュネールはスプリンゴラ『合意』の勇気に大きく感化されたことを告白していて、それがなければ私はこの本を書けなかったろう、と。
 スプリンゴラとクーシュネールに共通するものとしてサン・ジェルマン・デ・プレというバックボーンがある。これはフランスの出版界、文学・思想界、アカデミズムなどの中心というメタファーであるが、本書中で高名な法学者であるクーシュネールの義父が何度か鼻歌で歌うジュリエット・グレコの"Il n'y a plus d'après à Saint-Gerimain-des-Près(サン・ジェルマン・デ・プレのあとには何もない)という歌が象徴するような、知の最前線としてのパリ左岸に属する人々のスノビスムである。

 クーシュネールの本は著名人オンパレードである。まずこの著者カミーユ・クーシュネールであるが、”フレンチ・ドクター”と呼ばれた人道的医療活動「国境なき医師団」「世界の医師団」の設立者ベルナール・クーシュネール(1939 - )の娘である。この父は政治家となり、2000年代には大統領にふさわしい人物像人気投票1位にもなるのだが、2007年には左派から寝返ってサルコジ新政府の外務大臣に就任する。カミーユはベルナール・クーシュネールの最初の妻エヴリーヌ・ピジエ(1941 - 2017)との間に生まれた3人の子のひとりであり、兄弟は兄(この本では仮名で「コラン」となっている)とカミーユと双子で生まれた弟(この本では仮名「ヴィクトール」)である。本書でもキーパーソンのひとりとして登場する女優のマリー=フランス・ピジエ(1944 - 2011)はエヴリーヌの妹で、カミーユには叔母にあたる。
 共に左翼の闘士であったベルナールとエヴリーヌは1964年に共産主義学生同盟が主催したキューバ革命支援滞在中に知り合うが、本書ではフランス代表団のリーダー格のベルナールの尽力で革命指導者フィデル・カストロとの直接の面談が許されることになり、グループでの面談のあと、カストロの指名でエヴリーヌひとりがその場に残り、それから4年間にわたってエヴリーヌはカストロと愛人関係を持つというエピソードがある(←写真カストロとエヴリーヌ・ピジエ)。そのキューバ滞在後にベルナールとエヴリーヌは1970年に結婚し、3人の子の誕生を見て、1984年に離婚している。カミーユのこの本では、世界の戦地や飢餓地に飛び回って人道的医療活動をするこの父は子供たちにとっては「不在の父」であったし、母エヴリーヌにとっては世界各地に愛人がいる不貞の夫であった。
 次いでエヴリーヌと恋仲になるのが、彼女より9歳年下の政治学者・憲法学者・政治家(1997年から2004年まで社会党選出の欧州議会議員)のオリヴィエ・デュアメル(1950 - )(→近影写真)であり、1987年に正式に結婚し、カミーユと二人の兄弟には義父となる。しかしこの本ではこの名前は一度も登場せず「義父」とだけ記されている。
 メディアの報道では、このオリヴィエ・デュアメルによる当時未成年だった義理の息子(本書ではヴィクトールという仮名になっているカミーユの双子弟)への性行為に関する暴露告発がこの本の主眼のように言われているが、そればかりに集約されるものでは全くないのだ。
 カミーユが証言しているのはあるユートピアの建設からその崩壊までのストーリーである。そのユートピアの中心人物が「義父」とエヴリーヌ・ピジエであり、その場所は南仏プロヴァンス地方ヴァール県の海浜保養地サナリー・シュル・メールである。1980年代半ばからこのサナリーの「義父」の別荘で夏のヴァカンスを過ごすことになるのだが、「義父」はその別荘をどんどん拡張し、エヴリーヌと3人の子供、エヴリーヌの母親のポーラ・ピジエ、妹のマリー=フランス・ピジエだけでなく、大人子供老人数十人が共同生活をする、プール、ペタンク、テニスなどの施設を持った大きなヴィラに改造する。そこに毎夏集まってくる友人家族たちは、エヴリーヌと「義父」同様の現役の左翼の闘士たちばかり。集まれば始まってしまう討論・議論、音楽とダンス、アルコール、(ライト)ドラッグ、ほとんど全裸のプールサイド....。南仏の陽光の下で繰り広げられるこの活気とインテリジェンスに満ちた名調子の討論の応酬を少女カミーユは、夢の国の出来事のように見ていた。この個性の強い左翼人たちをやんちゃな享楽人に変身させ、喜びあふれる共同体を作り上げていったのが「義父」その人だった。カミーユをはじめエヴリーヌの子3人はみな「義父」のことが大好きだった。それは不在の父だったベルナール・クーシュネールに欠けているものすべてをこの「義父」が持っていたからだった。とりわけ「義父」がもたらす知的刺激にカミーユは魅了されていた。そしてこのユートピアは"大家族 = ラ・ファミリア・グランデ”と呼ばれたのである。
 時は1980年代、81年に社会党フランソワ・ミッテランが大統領に当選して以来、社会の中枢部で「左側」の人間たちが重要なポジションを占めていった。彼らは資本主義を倒すのではなく、その中で権力と影響力を増大させるにとどまり、政権を維持することが「目的」になってしまった。この頃から「ゴーシュ・キャヴィア(Gauche Caviar)」と揶揄される特権的左派ブルジョワが幅を利かせるようになる。この本ではそういう記述はないが、一般的な目からすればオリヴィエ・デュアメルなど大企業や放送局のトップなどと血縁関係のあるボンボンの学者であり、ゴーシュ・キャヴィアの典型と言える存在だった。だから、カミーユ・クーシュネールがこの本の前半で描いた夢のようなサナリー・シュル・メールのユートピアは、とりもなおさずゴーシュ・キャヴィアの理想郷だったと考えられるのである。
 エヴリーヌ・ピジエは法学教授であり著述家でもあったが、とりわけごりごりのフェミニストであった。この本に現れる彼女の戯画的にドグマティックなフェミ思想は、パンティーを履かないこと、出産しても授乳しないこと、など。しかしカミーユは母親を愛していたし、フェミニストとして厚く尊敬もしていた。エヴリーヌのフェミ思想の源流はその母ポーラ・ピジエ(1922-1988)であった。マリリン・モンローと極似した美女であったこの女性は、夫ジョルジュとの間に3人の子供(長男ジル、長女エヴリーヌ、次女マリー=フランス)を宿したが、極右主義者で第二次大戦中ペタン政権の高官であり、戦後も戦犯追求の手から逃れニュー・カレドニア島で裕福に暮らしていた夫ジョルジュ・ピジエと離婚・再婚・再離婚して決別している。ポーラの人生を180度変えてしまったのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書『第二の性』(1949年)であり、女性の自由、解放、自立は彼女自身が実践したことだった。それは夫と別れ無一物で幼い子供3人を連れてニュー・カレドニアからニースに至り、無学な彼女がタイピスト見習いから始めて最後にはその会社の会計責任者となるというキャリアも証明している。自由、自由、自由、その言葉をポーラは子供たちに繰り返し、孫のカミーユもそれを聞いて育った。かのサナリー・シュル・メールのヴァカンス共同体でもポーラは最大の敬意を集める年長者であった。
 ラ・ファミリア・グランデの崩壊の最大の原因のひとつは、1988年のポーラの自殺だった。自殺するわけのない強い女性と思われていたポーラは68歳で投薬自殺した。その2年前、エヴリーヌと突然連絡を取ってきた父親ジョルジュは、その面会後しばらくして銃で自殺している。父の自殺には動揺は少なかったものの、ポーラの死の衝撃はエヴリーヌの精神状態を大きく破綻させ、それは長引きエヴリーヌ自身の死まで続くのである。

 カミーユの中ではラ・ファミリア・グランデの崩壊は既に始まっていた。14歳の時に双子弟から「義父」による性行為のことを聞かされた時から彼女の中ですべては変わった。弟ヴィクトールはこのことを誰にも明かさない欲しいと言った。「義父」がヴィクトールにその沈黙を強要したことでもあった。「義父」はこれは恥ずべきことであり、これが世に知れたら俺は自殺するしかない、と脅しもした。それが何ヶ月あるいは何年続いた関係だったのかカミーユは知らない。ヴィクトールは誰にも明かさないことが(「義父」を最愛の人とする)母エヴリーヌを守ることであり、愛するサナリーの共同体を守ることだと信じ、カミーユに約束させた。
 カミーユたちは「義父」との接触を避けるようになり、エヴリーヌは精神を衰弱させ、ラ・ファミリア・グランデはしぼんでしまう。月日は流れ、子供たちは学業を終え、カップルとなり家庭を築き、子供を育てる。そしてヴィクトールの子(男の子)があの年齢”14歳”に達するに至り、カミーユはそのことに言いようのない恐怖を感じ、「義父」に絶対にその孫に近づかせてはいけない、そのためにはエヴリーヌにすべてを話さなければならないと決断するのである。エヴリーヌは子供たちの言うことを理解したら、必ずや「義父」と別れるはずである、と思っていた。ところが、エヴリーヌはそのことを知り、夫がそのことを認めたうえで、なおも夫を擁護する側に回るのである。この本の中で最も残酷な母エヴリーヌの声が166ページめに現れる。
ヴィクトールに彼女は義父はそれを否定していないと言った。「彼が後悔していること知ってるでしょ。彼はずっと自分を責め続けている。でも彼だってよく考えてのことだったの。おまえもう15歳にもなっていたんだから。その上ソドミー(肛門性交)はなかったのよ。フェラチオだけよ。それは全然違うことでしょ。」
私にはこんな非難の言葉を放った。「おまえたちはどうやって私を騙し続けてこれたわけ?第一におまえよ、カミーユ、おまえが私に警告するべきだったはず。おまえたちがどれほど私の男を好きだったのかはよく知ってる。だから私はすぐにおまえたちが私から彼を奪おうとしたんだってことがわかったわ。被害者は私の方だわ。」
 3人の子供たち、とくにカミーユとヴィクトールの双子とエヴリーヌの間の溝はいよいよ深まり、その対立はエヴリーヌの死(2017年)まで和解することがなかった。
 そのエヴリーヌの死(急性ガンによる病死)の前に、2011年のもうひとつの死がエヴリーヌに衝撃を与える。2007年にヴィクトールの秘密が告白されてから、積極的にカミーユとヴィクトールを支持し、エヴリーヌに夫(オリヴィエ・デュアメル)との離別を強く進言していたのが妹のスター女優マリー=フランス・ピジエだった。生れてからずっと仲違いなどしたことのなかった姉妹は初めて激しい対立状態となった。そしてその和解を見ないまま、2011年4月24日、サナリー・シュル・メールから遠くないトゥーロンのマリー=フランスの別荘のプールの底に、椅子に繋がれた状態のマリー=フランスの死体が発見される。法医学鑑定で多くのアルコールや薬物の摂取が認められ、自殺と推定されたが、その死の謎は今日も論議を残したままである。しかしエヴリーヌにとって父と母に続くこの身内の「自殺」は、子供たちの「離反」(決して離反ではないのだが)に加えて致命的な責め苦となる...。

 世の中はことさらにオリヴィエ・デュアメルのペドフィリア/近親相姦犯罪について騒ぐのであるが、それはそれで大変な事件であると認めつつも、私はこの本の極めてロマネスクな女たちのドラマに心打たれる。カミーユ・クーシュネールは和解することなく死んだ母エヴリーヌ・ピジエを鎮魂するためにこの本を書いたとしか思えない。
 たしかに"インセスト”(近親相姦)は告白/告発することが非常に難しいことであることはよく理解できる。その告発は必然的に家庭・家族を破壊してしまうものだから。フランスでは子供の10人にひとりが近親相姦の被害者である、という数字も上がっている。重大な問題であり、この本を契機に "#MeTooIncest"というハッシュタグも生まれたし、メディア上で議論の輪は広がっている。
 渦中の人オリヴィエ・デュアメルの失墜は日々メディアが喧しく伝えるところであるが、現行法では時効となっているこのインセスト/ペドフィリア犯罪に関して検察側の再審査の動きもある。共和国大統領エマニュエル・マクロンもインセスト問題告発に国として支援する制度化を提案している。一冊の本は(昨年のヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』と同じように)世を大きく動かすことになっている。それはそれでおおいにやってください。
 だが、私はそれよりも80年代の驕れる左翼の幻想と(この本で本当に素晴らしく描かれている)ユートピアの解体の方が強烈に印象深かった。エヴリーヌとマリー=フランスのピジエ姉妹のフェミニストとしての生きざまと二人の確執は、もっと詳しく知りたくなった。特にマリー=フランス・ピジエという作品にも監督にも恵まれなかったスター女優の謎の死については文献を当たるにします。刺激が多く、教えられることが多い一冊であった。

Camillle Kouchner "La Familia Grande"
Seuil刊 2021年1月7日、210ページ、18ユーロ

カストール爺の採点:★★
★★☆

(↓)2021年1月13日、TVフランス5「グランド・リブレーリー」で自著『ラ・ファミリア・グランデ』について語るカミーユ・クーシュネール
YouTubeで見るをクリックしてください)

2021年1月19日火曜日

耐え難きを耐え 忍び難きを忍び

 Djaïli Amadou Amal "Les Impatientes"
ジャイリ・アマドゥー・アマル『忍耐しない女たち』

20
21年1月現在、書店ベストセラー第3位(1位は2020年ゴンクール賞エルヴェ・ル・テリエ『異状(L'Anomalie)』、2位は近親相姦告発の書カミーユ・クーシュネール『ラ・ファミリア・グランデ』)で、2020年度ゴンクール・デ・リセアン賞(高校生2000人の審査員によって選出される文学賞)を受賞した作品。作者ジャイリ・アマドゥー・アマルは、1975年カメルーン最北部の町マルーアに生まれたフランス語表現の作家/女性運動家で、民族的にはプル人(アフリカ北西部から中央部にかけてのサハラ砂漠の広い範囲で生活している遊牧の民、総人口は5千5百万人と言われる)で、宗教的にはムスリムである。
 小説の舞台もカメルーンの北の町マルーアで、商業や運輸などで財を成して定住したプル人の富裕層が多く住む地域で展開する。時代はスマホもネットフリックスもある21世紀的現代である。この中で何度も繰り返されるひとつの言葉がある。それは「ムニャル」というプル人の言葉で「忍耐」を意味する。忍耐せよ。この女性たちはすべて忍耐せよとしつけられ、忍耐こそがプル人女性の最高の美徳であると繰り返し教えられた。この忍耐とはとりもなおさず従属を受け入れることに他ならない。小説は三部に分かれ、接点のある3人の女性のそれぞれの忍耐の物語がオムニバス的に綴られるのだが、いずれも忍耐は限界を超えてしまう。
 最初に登場するのはラムラという17歳の娘。学業に長け、リセを卒業したら大学で薬学を学び薬剤師となることを志望しているが、父親(家の長)は女に学問は無用であり、結婚して子を産み育て、夫を助けることこそ女の幸福という「伝統」を頑なに守りたい人間ゆえ、勉学はリセの卒業までと命じている。その父親は成り上がりの実業家でその成功と権力の証拠のように4人の妻を持ち、子供の数は30人に及ぶ。この一部族のような大家族を高い塀で囲った広大な領内に住まわせている。女の子供は生まれてくるものだが、神アッラーから与えられた父親の仕事というのは、責任を持ってその女児をしつけ育てて美貌を与え、父親自身がそれに相応しい夫を見つけてやり結婚させることで終わるのであリ、ラムラの父も”良き父親”としてその義務を遂行する。一方ラムラには将来を誓った恋人アミヌーがいて、学業を続けたいラムラを理解し、自らもエンジニアとなるための勉強を続けたい、二人でチュニジアの大学へ行こうという約束もしている。アミヌーはそのプル人社会の伝統慣習に従ってその父を通じてラムラの父親に婚約の申込みをし、一旦それは承諾されてしまう。ラムラの喜びも束の間、父親は事情が変わったとその婚約を破棄し、別の結婚相手アルハジ・イッサを選びその男との結婚をラムラに強制する。この男はこの地域で最も大きな企業の経営者であり、壮年の年代で現在までひとりの妻サフィラがいて6人の子供をもうけていたが、若いラムラの美貌の虜となり二人目の妻にしたいと申し出てきた。商魂たくましいラムラの父はアルハジ・イッサの企業との協力関係を得ようとこの婚約に二つ返事でOKを出し、ラムラに大学とアミヌーを断念させる。
 ここまで書いて、旧時代の家父長制度・一夫多妻制・男尊女卑社会をステロタイプ化したバックボーンが見えてこようが、これは戯画ではない。この小説はこれがアフリカ現代社会にまだ根強く残っている現実であることを示そうとしている。女性たちの絶対的服従が制度として機能している現実。
 この構造を厳然として保とうとしているのは男性たちだけなのではなく、女性たちを含めた社会全体なのである。この小説の中で女性たちの連帯はない。娘の苦しみを庇い擁護しようとする母親もいない。女たちは一夫多妻というシステムの中で反目しあい、嫉妬しあい、いじめあい、自分のポジションを確保することしか考えない。弱点を見せたら(女たちから)一斉に攻撃される。日本時代劇の「大奥」の構図と同じである。だから女親たちは、男親と全く同じように女児→娘には徹底した"ムニャル”(忍耐)を教え込むのである。忍耐こそ最高の徳であり、女の幸せは究極の忍耐の果てにしかやってこない。
 あらゆる抵抗むなしく、ラムラがアルハジ・イッサと婚礼を挙げる同じ日に、ラムラの義理の妹(父は同じで母は別妻)ヒンドゥーもいとこ関係にある男ムーバラクと結婚する。ラムラと同じようにヒンドゥーも父親に結婚を取りやめてほしいと嘆願していたが、これも全く聞き入れられない。相手のムーバラクは裕福な環境に育ちながらも、自分がやりたい仕事をやらせてもらえないというフラストレーションで仕事もろくにせず、アルコールとドラッグと女遊びにひたるろくでなしである。その上サイテーなことにこのムーバラクは極めて暴力的であり、アルコール+ドラッグ+バイアグラなどの薬物の効いている間は見境のない凶漢と化してしまう。あらかじめその噂を知っていたヒンドゥーは、無理やりの婚姻の末、それが予想をはるかに超えたウルトラな凶暴さであり満身創痍の身になってしまう。あまりの酷さに逃亡も試みるヒンドゥーだったが、連れ戻され親族全員から"ムニャル”(忍耐)の説教を聞かされるばかり。この社会ではDVは妻をしつけるための夫の「権利」であり、忍従しない妻に落ち度があると見做される...。
 ラムラとヒンドゥーの二つの不幸なストーリーの後に登場する第三の女性がサフィラであり、前述のように17歳のラムラが第二夫人として嫁いでいった富豪実業家アルハジ・イッサの第一夫人である。35歳であり、アルハジ・イッサと結婚して20年、6人の子をもうけている。何一つ不自由のない豊かな生活を営んできたが、若く目の覚めるような美貌の持ち主ラムラにアルハジ・イッサの関心のすべてが奪われ、燃えたぎる嫉妬は新妻が領内に入るやいなやありとあらゆる嫌がらせと妨害を始めるようになる。ここで重要な役割を果たしているのが「呪い」であり、サフィラは大金をつぎ込んで複数の”マラブー(marabout = 魔術師、祈祷師)"にラムラへの呪いをかけさせる。この小説ではラムラのように教育を受けて現代社会に通じている教養の持ち主とは対照的に、サフィラは旧時代のアフリカの価値に固執する女に描かれている。しかし実際にラムラへの妨害嫌がらせに功を奏するのはマラブーの呪いではなく、(サフィラが不正にせしめて行使している)金の力なのだが。カメルーンの奥地の奥地に棲む高名なマラブーから、サフィラが夫の寵愛を新妻から奪い返すための秘策として、夫の食べ物と飲み物に密かにサフィラの小水を混ぜること、という言いつけを真に受けて実行するというエピソードもあり。このサフィラにとっても夫の不義に対しては"ムニャル”(忍耐)が肝要ということを心に念じているのだが、サフィラの忍耐は、呪いによってラムラに不幸が訪れるまでの忍耐なのである。その嫌がらせに対しては全面的な防戦状態にあるラムラは、心身共に傷ついた状態でその仕掛け人であるサフィラに対して自分はアルハジ・イッサとの結婚など望んでいなかった、この結婚から逃げ出したかったと告白する。これをサフィラは最初全く理解ができないのである。世に”女の最高の幸せ”を放棄したい者などあるはずはない。しかしラムラが真実を語っていることは察知する。仇敵のように思われた若い美貌の女から真実が告げられた時、サフィラは少なからず動揺し、この娘にかすかな友情のようなものまで感じるのである。
 小説の救済はまさにここにあり、アルハジ・イッサとの悪夢のような結婚生活とサフィラの権謀術数の嫌がらせの数々に極限まで傷ついたラムラはついに蒸発することに成功し、ラムラに教えられたかのようにサフィラはアルハジ・イッサの絶対的支配から解放されることをうすうす考え始めるのである。”ムニャル”(忍耐)しない女たちのはじまり...。

 文体は何か民話でも読んでいるように、その土着的で超越的な事情にぶつかってしまうが、「アフリカってそういうもんでしょ」という先入観を壊すためにもしつこく非ロジカルなくりかえしがあっていいと思う。白人が書く見聞録ではないのだから。わからないところはわからないままだが、はっきりわかるのはこの家父長制の極端な男性社会は女性にとって百害あっても一利もないし、それを自分たちを守るものとして擁護する女性たちも被害者として目覚めなければならない。ベナンの少女たちのガレージロックバンドであるスター・フェミニン・バンドをこのブログで紹介したとき、このベナンの地方部の子たちが「女たちよ、勉強しよう、学校へ行こう、自立しよう」と歌うことがどれほど重要なのかピンと来なかった部分があったが、この小説で、それは何度でも繰り返し繰り返し訴えなければならないことだとはっきり知らされた。制度化された男尊女卑、強制結婚、一夫多妻制、少女妊娠、陰核切除... これらはアフリカのカリカチュアではなく実状である。女性のアーチストたち、著述家たち、言論者たちが目覚めよと訴えることには理がある。このカメルーンの作家ジャイリ・アマドゥー・アマルは、明晰にも「忍耐をしないこと」という第一歩を示している。その忍耐を拒否することの意義に、フランスの高校生たちは心動かされたということだ。この若い人たちのエモーションはわれわれ大人たちにおおいに教えるものがある。

Djaïli Amadou Amal "Les Impatientes"
Editions Emmanuelle Collas刊 2020年9月 240ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ジャイリ・アマドゥー・アマル、『忍耐しない女たち』を語る


2021年1月2日土曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2020

Covidさんが
そろってにぎやかに

統計ソフトによると2020年爺ブログの年間総ビュー数は6万強だそうです。年間の記事本数は2020年はがんばって61本ありました。つまり平均して記事ひとつについて大体100人の方が読まれているといううれしい数字です。長期化してしまったコ禍の影響をわがブログも直接的に被り、映画もコンサートも本屋も行けないという日々の中で、記事内容はたいへん限定されたものになった1年でした。特に映画は8本しか紹介していない。これほど映画を観れなかった年はない。ビュー数の上位10で選ぶこのレトロスペクティヴ2020の中に映画記事は1本もないのです(次々点=12位でフランソワ・オゾン『85年夏(Eté 85)』、ただこれは2020年を代表するような映画ではないと思います)。上位はコ禍関連と女性たちの告発(スプリンゴラ、デパント、スリマニ)が大半を占めました。わがブログがフランスの状況とシンクロしていることの証左であり、わがブログに求められているのはこういうことなのでしょうね。ジャーナリズムではない市井の人間の世相見ですが、わかっていただきたいことがあってこちらは書いています。
 映画も音楽も十分に摂取できなかった1年でしたが、個人的ベストということでは映画ではロドリーゴ・ソロゴイエン監督映画『マードレ』、音楽アルバムではガエル・ファイユの『Lundi Méchant(むかつく月曜日)』が最も印象に残りました。文学では群を抜いて今年のゴンクール賞作品であるエルヴェ・ル・テリエの『L'Anomalie(異状)』が強烈でした。
 ではレトロスペクティヴ2020の10本、ビュー数の多い順で並べてありますが、1000ビューを超えた記事は1本もありませんでした(ちょっと寂しい)。

1. 『性感染症ですらない平凡なウイルス(2020年5月5日掲載)
2019年も1位はウーエルベックだったが、2020年はコ禍第一次外出制限の頃、ラジオFrance Interの番組に送られたウーエルベックの手紙(5月4日に朗読放送された)で、このパンデミックの前と後では世界が全く異なるだろうという大方の論調に真っ向から反対して、「すべては全く前と同じままだろう」と断言する冷笑的な考察。この記事はその手紙全文を(無断で)訳して掲載した。パンデミックによって突然個々人が隔離された状態はその小説『ある島の可能性』(2005年)が予見した世界と似ているが、本人はそれを忘れているような(カトリーヌ・ミエによって指摘されてそうかと気づく)無責任さ。ニーチェとフローベールを引き合いに出した「歩くことの必要性」のくだりはさすがに面白い。2020年10月に刊行された(トランプ米大統領支持論を含む)時事論集"Interventions 2020"は本ブログで紹介しませんでしたが、悪しからず(私は信奉者ではないので)。

2. 『「嘘こそが文学」とシオランは言う(2020年1月22日掲載)
ヴァネッサ・スプリンゴラの『合意』が出版されたのが1月2日。この年最大の問題の書になるという勢いのようなものが最初からあったし、文壇は大きく揺れ動き、この書でフランスで#MeTooは映画と芸能界、スポーツ界を経て文学に至った。この本の紹介記事はラティーナ誌2020年3月号に書いた(本ブログに加筆修正再録した)が、その記事は糖尿病悪化でビセートル病院に入院中に書き上げた(今となってはいい思い出)。一冊の本が70-80年代に称賛擁護されていた"性の解放”の暗部(小児/未成年性愛)を暴露告発する。この勇気を微力ながら機会あるごとに雑誌やブログで支援できたこと、これに関しては私はわれながら本当にいい仕事をしたと思っている。

3. 『これからは立ち上がってずらかることだ(2020年3月3日掲載)

フランス映画界の最大の祭典セザール賞のセレモニー(2月28日)の終盤、女優アデル・エネル(仏映画界内の性犯罪被害者にして最初の告発者のひとり)がロマン・ポランスキー監督の受賞に抗議して、満身の憤怒をあからさまにして席を立ち退場していった。この行為を熱烈に支持して、作家ヴィルジニー・デパントがリベラシオン紙に投稿した檄文全文を(無断)翻訳して掲載した記事。デパントは2020年の当ブログで最も登場回数が多かったし、フランスの#MeTooムーヴメントに興味を示す読者のみなさんに熱心に読まれていたようだ。喜ばしいことにデパントは2020年日本で『ヴェルノン・シュビュテックス・1』と『キングコング・セオリー』の邦訳が出版され、陽の目を見ることができた。とてもうれしい。

4. 『"福島”でも変わらなかった日本がコロナ禍で...?(2020年4月19日掲載)
フランス語で表現する日本の作家水林章が、コ禍のせいでフランス滞在を急遽中断して日本に帰り、日本のコ禍状況について仏週刊誌ロプスのインタヴューに答えた同誌記事の重要部分を(無断で)翻訳して本ブログに掲載した記事。水林氏には報告したものの、氏と相談の上ロプス誌との権利関係のこじれを案じてその後数ヶ月ブログから削除していた(ほとぼりが冷めたと思ったので11月から再掲載)。”福島”の教訓を活かせなかった日本への悲観的な見方、(当時の)安倍政権のコ禍政策への厳しい批判、私たちには激しく同意できることばかりであったが、この声がなかなか日本に届かないもどかしさに動かされての記事掲載だった。水林氏の小説『折れた魂柱』に対して2020年フランスで様々な文学賞を与えられることになっていて、コ禍で日本を出られず受賞セレモニーに不在だったものの、氏がフランスで評価を飛躍的に高めたいい年だったと思う。

5. 『言葉のあや(2020年11月20日掲載)
2018年以来フランス語音楽アーチストとして世界で最も愛聴されるようになったアヤ・ナカムラ。一部ではあるが日本でそのステージネームである「ナカムラ」ということだけで注目されているという現象に、私は少しく嫌悪感を抱いていたので、"日本とは全く関係ないんだが、これだけクオリティーが高いのだ”ということを言いたくて記事にした。アヤ・ナカムラは傑物である。”フランスから世界に”というポジションなのに、あえてフランス国籍を取得していない(誇り高くマリ国籍のまま)。たぶんフランスのことなど何とも思っていないフシがある。そこがまた(誤解されようが何とも思っていない)この女性のレアな偉大さだと思う。

6. 『白人たちへの手紙(2020年6月7日掲載)
#BlackLivesMatterムーヴメントの引き金となったジョージ・フロイド殺害事件と、フランスの2018年アダマ・トラオレ殺害事件に関して「何が問題なのかわかっていないわが白人の友たちへの手紙」と題した作家ヴィルジニー・デパントの国営ラジオFrance Interへの投稿(6月4日に朗読放送された)を(無断で)全文翻訳した記事。デパントはこの2020年あらゆる方面で怒りの声を上げていたような印象があるが、こういう作家は本当に貴重。フェミニストにしてロック的反逆者にして大作家。今すぐではないだろうが『ヴェルノン・シュビュテックス』に次ぐどんな作品が出てくるか本当に楽しみ。

7. 『スターになれりゃいいね、あれはいいね(2020年12月8日掲載)
ベナンの都市部ではない奥まった地方でワイルドな音楽を奏で始めた7人の少女楽団スター・フェミニン・バンドのデビューアルバム。ヨーロッパ白人たちが商魂ででっちあげた、いわば植民地収奪的なマーケティングを批判する人たちはいる。だが、この少女たちはあらかじめ決められた未来(男性原理の家父長制度にようって決められた強制結婚、若年出産、往来のピーナツ売り...)に果敢に抵抗して、アフリカ女性たちの未来を拓くために国際的”スター”になろうとしている。これは"計算”でも"システム内の成功”でもない(と信じる)。この少女たちが早く自分たちの言葉を載せた自分たちの曲を作れるようになってほしい。ダンスバンドとしてその地方だけでなくベナン国内、ひいては周辺のアフリカ諸国まで人気を獲得しつつある。スタイルはアフロ・ガレージロックである。いいバンドとして育ってほしい。応援しよう。

8. 『ジュリエット・グレコが切れ切れに語る(2020年7月17日掲載)
2020年に物故した最大の偉人のひとり、ジュリエット・グレコは9月23日に93歳で亡くなった。その2ヶ月前、テレラマ誌がヴェロニク・モルテーニュ(元ル・モンド紙シャンソン批評家)によるグレコのインタヴュー記事を掲載した。おそらくこれがグレコ最後のインタヴュー。しかしグレコはもはや多くを語れず、切れ切れに歌うことのできない最晩年を悔しんでいる。コ禍で面会禁止の閉じこもりを強いられた老人施設の人たちと共通する悔しさだと思う。強さではなく"sale caractère"(性格の悪さ)で生きてきた、とジュリエットは言った。怖いものなど何もないと思われていたサン・ジェルマン・デ・プレのミューズは最後に、怖いものがたったひとつある、と。「人に好かれないこと。これは私がとても小さい時から怖かったことなの。今も続いているわ」。安らかに。

9.『レイラ・スリマニ、スプリンゴラ『合意』について語る(2020年3月1日掲載)
レイラ・スリマニもすっかりわがブログの常連になってしまい、現在までスリマニ関連の記事は8本載せている。第3作めの小説であり3巻におよぶ長編となる『他人の国(Le Pays des Autres)』の第一部が3月5日に刊行になり、向風三郎はラティーナ連載の最終回(2020年5月号)にその紹介記事を書いた。フェミニストにして反レイシズムの論客としてメディア上で鋭く発言するこの作家の姿はまぶしい。2020年のわがブログが、ヴァネッサ・スプリンゴラ、ヴィルジニー・デパント、レイラ・スリマニを何度も登場させたのは、彼女たちのパワーにどれほど私が敬服しているか、ということである。『他人の国』第二部は2021年に最も待望されている書であり、必ずここで紹介することを約束する。

10. 『ベルナール・ベローさんを悼む(2020年8月2日掲載)
パリの日本語新聞オヴニーをはじめ、当地の日本語メディアの草分けだったエディシオン・イリフネの創始者ベルナール・ベローさんが7月30日に亡くなった。小沢君江夫人と共に私には本当にお世話になった人。十年を超える闘病の末だったが、私は同じ病気の後輩であり、ジョルジュ・ポンピドゥー病院で偶然出会った時、この病気とのつきあい方をいろいろアドバイスしてくださった。70年代からのベローさんと小沢さんの市民視線のエディトリアルを貫く紙面はどれだけ私に影響を与えたことか。葬儀のあとで小沢さんが「もう(パリの)70年代の記憶がある人がいないのよ」と言っていたが、私は79年(オヴニー創刊の年)にフランスに移住したのでその新聞デビューを知っている。ツワモノだったなぁ、ベローさんは。合掌。