2020年7月27日月曜日

母親は何で動いているの? Comment ça marche, une mère ?

"Madre"
『マードレ(母)』


2020年スペイン映画
監督:ロドリーゴ・ソロゴイエン
主演:マルタ・ニエト、ジュール・ポリエ
フランスでの公開:2020年7月22日

 舞台は南西フランス/ヌーヴェル・アキテーヌ/大西洋岸ランド地方、映画の中で地名は出てこないがテレラマ誌(2020年7月22日号)の映画評では「ヴュー・ボーコー (Vieux-Baucau)」と場所が特定されている。強い西風、サーフィン族にはたまらないであろう高い波、どこまでも続く砂浜、その上の灌木砂丘、その上のランドの原生林... 美しいところだ。映像はドローンや手カメラやさまざまな角度でこの美しい海浜と一緒に、憂いをたたえたひとりの女性の顔がシンクロして遠くに近くに。こういうシーンが多い。これがこの映画の美しさだと思う。多くを物語る風景の場所であり、沈黙のうちに多くを表現してしまうすばらしい女優(マルタ・ニエト)の顔だ。
 スペイン人監督のスペイン映画なのに、舞台はず〜っとこのフランス/ランド地方だし、言語もフランス語シーンの方がスペイン語よりずっと多い。おまけに、この主人公エレナ(演マルタ・ニエト)のフランス語はたどたどしい。そこがこの女性が言葉少なくとも、強烈ななにかに突き動かされていることを際立たせている。
 映画の最初の舞台は(映像に街並みは出てこないが)マドリードであり、アパルトマン屋内で平凡な会話をする初老の母とその娘。「新しい彼はどうなの?」「ただの友だちよ」といった類い。平和で幸せそう。娘エレナがその"友だち"との食事に出かけようとしたその時に電話が鳴る。電話の相手は6歳になるエレナの息子のイバン。(映画はマドリードのアパルトマン屋内しか映さない。イバンは電話音声のみの出演)「どうしたの?ヴァカンスはどう?パパは一緒にいるの?」ー 複雑な事情が一瞬にして了解される。別れた男との間にできたひとり息子、母エレナのもとを離れて冬のヴァカンスを父親ラモンと一緒に過ごしている。ところがイバンはパニックに陥っている。一人ぼっちで、周りには誰もいない。パパは僕をここに連れてきたっきり戻ってこない。あたりは暗くなってきた。どうしたらいい? ー 落ち着いて、パパは必ず帰ってくるから。周りはどんなところ? 家とはお店とかない? ー 周りには何もない、海と砂浜と森しかない、誰もいない... 。 エレナはイバンの説明から、父と子がキャンピングカーで北上し、フランスに入り、西海岸地方にいることが漠然とわかる。彼女はあらゆるところに電話をかけラモンと連絡を試みるが果たせず、スペイン警察もイバンの携帯電話で現在位置を特定することもできない。その携帯電話はもうバッテリーがほとんどない。エレナは息子に大丈夫だから、落ち着いて、と繰り返すのだが、あたりは真っ暗になり、そしてイバンの前にひとりの男が姿を表わす。エレナはイバンに走って逃げることを命じる。逃げて隠れられるところがあれば身を隠して、と。イバンは森に逃げ込み、灌木の中に身を隠す。しかし電話から聞こえるのは、イバンを追いかけ、見つけ出した男の声(フランス語)、そしてそれっきり音声は途切れる。テンションの極度の高ぶり、パニック、エレナはどうすることもできず、家を飛び出して行く。
 ここまでがイントロ。もうここまでのストーリーだけで大変なサスペンス映画なのだ。エレナのこの先の行動のすべてが、一体何によって突き動かされているのか、ここまでで十分わかってしまうのだ。
 映画のメインのストーリーは、その十年後から始まる。消えたイバンの姿を求めてエレナはフランス/ランド地方の海浜保養地ヴュー・ボーコーに移住し、海辺のレストラン/バーで働いている。人とあまり交わることなく、時間があれば浜辺を散策し、もの想いにふけるという10年間が過ぎ、エレナは39歳になった。彼女を理解し支えてくれる男ホセバ(演アレックス・ブレンデミュール)もいて、ヴュー・ボーコーを捨てて新しい生活をと誘ってくるのだが...。その毎日の日課の物憂い顔した浜辺の散策で、ある日すれ違ったスポーツ少年クラブの一団、その中の巻き毛の赤髪少年ジャン(演ジュール・ポリエ)に目が釘付けになる。エレナは衝動的に少年の後を追跡し、家族でヴァカンス滞在しているヴィラまでつけていき、幸せそうな父+母+三人兄妹の一家のたたずまいを覗き見て、ああ、これは断念しなければと天を仰いだに違いないのだが...。
 驚いたことに翌日少年はエレナの職場(レストランバー)に現れる。彼は前日エレナにつけられていたことを知っていて、それをとても"Cool"なことと感じたと言うのだ。ジャンはどこにでもいる生意気な16歳のように、エレナとの急接近を試み、うぶで子供っぽいが"いい男”であろうとするあの手この手で...。最初の誘いが「ビーチフットの試合に出るから見に来い」という無邪気さ。この背伸びのなさ(下手な駄洒落のようだが、これは"性”伸びの欠如)が、どれだけこの映画を救っているか。そして向こうから飛び込んできてくれたこの少年に、エレナは当惑しながらも、うれしさは隠しきれない。
 彼女が埋めたいのは、10年前に失った子供の不在であり、欠如であり、空白である。10年間埋まらずにぽっかり空いたままの穴は、この(生きていればその姿に極似しているに違いない)少年の出現で、何か別もので満水になっていくようなセンセーション。二人は逢瀬を重ね、友人や家族の前でも"カップル”として憚らず登場する。16歳と39歳、少年と"クーガー”。世間の目はやはり黙ってはおらず、筋書き的には"禁じられた愛”あるいは”ロメオとジュリエット”方向に向かっていくのだが、この映画はそのメロドラマ性の陳腐さをはねのける。なぜなら、これは"恋愛”ではないのだから。
 象徴的なシーンがある。祭りのような誰もが解放されたような夜、エレナもジャンも他の若者たちもどれだけのアルコールを飲んだろう、ウォッカ、テキーラ、ウィスキー... その泥酔度ではエレナはずっとずっと死ぬほど続けられるのだが、その前に若いジャンがしたたかに酔っ払って、真夜中の海に真っ裸で突進していく。1分経って帰ってこなければ助けに来てほしい、と。この1分間の間エレナは、帰ってこない子供、蒸発していくイバンのドラマを追体験して真っ青になるのである。パニック寸前のエレナの前に、真っ暗な海からジャンは真っ裸で震えながらか還ってくる。タオルで迎え、抱きしめ、エレナとジャンは砂浜に掘られた穴の中で海風を避けお互いを温め合い、母と子のようにひとつになる。少年はこんな愛を知っていたか、母親はこんな愛を知っていたか。これは"恋愛”ではないのである。
 その夜、ジャンをその家族の滞在別荘に送り届けたあと、エレナはその泥酔を数十倍延長させて、飲み、踊り、男たちの誘惑に身をまかせ、自暴自棄の果てまで進もうとするが、朝日は彼女を"自分”に連れ戻す。なにか、神の介在まで想わせるような救われ方である。
 この神々しいエレナと少年ジャンの関係は、世俗的には不幸が目に見えているし、ヴァカンスが終わりパリに帰る未成年ジャンとその一家は、何一つ理解することなく、これを(いわゆるよくある思春期の”ヴァカンスの恋”にして)終わらせようとする。何も終わらない。終わったのは理解しうるすべてを理解し常にエレナを支えることに終始したいい男(本当にいい男)ホセバとの関係。エレナはそれほどまでの代償と犠牲を払ってまで、子を失った母の情念に身をまかせて、10年の空白を一挙に埋める激情に身をまかせて、そのひと夏を過ごし、しかし、それはやっぱり終わるのである...。

 私がやはり強烈に惹かれるのはエレナ役のマルタ・ニエトの不安定さと狂気と隠しようのない情緒の上昇と下降であり、「母」情念の爆発であり、少年ジャン(ジュール・ポリエ)のどうしようもない子供っぽさである。何度も繰り返すがこれは"恋愛”ではない、ということがどれほどこの映画でエモーショナルなことであるか。荒波と潮風がびしびし顔にぶつかってくる痛さを感じて映画館を出た。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『マードレ』予告編


(↓)映画中、2度にわたってジャンがエレナにヘッドフォンとカーステで聴かせる歌。エレナが(意味もわからずと言っていいと思う)「いい歌ね」と目をつぶる。これがダミアン・セーズ「若者たちよ、立ち上がれ Jeunesse lève-toi」(2008年)。脈絡もわけもわからないが、感動的な選曲。

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