2017年6月30日金曜日

OK フレッド

フレッド・ヴァルガス『毒糸蜘蛛が出るとき』
Fred Vargas "Quand sort la recluse"

 フランスで2017年上半期ベストセラー1位の推理小説です。 私は推理小説はごく稀にしか読みませんので、この作家も初体験です。フレッド・ヴァルガスは1957年生まれの女流ミステリー作家・動物考古学者(中世)です。フレッドというファーストネームで多くの人は男性を想像するのですが、フランスでは男性にも女性にもつけられるファーストネーム Frédérique(フレデリック)の短縮愛称がフレッドです。他に男女に通じる名前には Claude(クロード)、Camille(カミーユ)があります。すでに日本でも数作翻訳されているようですが、世界的に 「アダムスベルグ警視」を主人公とする連作で大変な人気を博していて、映画化・テレビ化・BD化もされています。この『毒糸蜘蛛が出るとき』はアダムスベルグ・シリーズの第9作目になります。
 南仏ニームの周辺で、70歳すぎの老人男性3人が、次々に毒グモに刺されてその毒が原因で死んでしまいます。南米から渡ってきたとされる "Recluse"(ドクイトグモ)の毒がその死因とされていますが、この毒で死ぬという例はフランスでは非常にまれで、数年に1件ほどの件数だったのが、続けざまに3件。これをインターネット界のフォーラムが騒ぎ立てる。地球温暖化や農薬使用などの環境変化でドクイトグモが南仏に異常発生しているのではないか? また同様の環境変化で南仏のドクイトグモが突然変異して、毒性が数十倍数百倍強力なものになってしまったのではないか? こうして南仏に毒グモパニックが広がっていきます。と、ここまでは警察が出るような事件ではないはずで、医学・疫学・動物生態学の範疇の問題です。おまけに被害者がすべて高齢者であり、抵抗力の弱まった者には少々の毒でも命取りになることがあり、この3人の死はごく平凡な老人の事故的病死とみなされそうです。
 これをアダムスベルグ警視はクサイと睨むのです。立件されていないから捜査の段階に入れないものの、国立生物研究所のクモ研究の権威に会いに行き、南仏のドクイトグモが人を殺せるのか、南仏でクモの突然変異が起こっているのかを尋ねます。そこで偶然出会った南仏のクモ愛好家の女性イレーヌ。彼女はインターネットのフォーラム上で騒がれていることが気になって、アダムスベルグと同じ質問をしに国立研究所までやってきた。専門学者の答えはネガティヴ。ドクイトグモが人間に致死量の毒を盛るには200匹が束になって同時に人間を刺さない限りありえない。また南仏でのドクイトグモの突然変異現象は見られていない。ではなぜ3人の老人は死んだのか。
 会見後のカフェのショコラ一杯のおごりで打ち解けたアダムスベルグとイレーヌ。彼女から明かされる意外な事実。3人の老人はお互い知り合いだった。その縁は1940年代の南仏の慈善孤児院ラ・ミゼリコルドに遡り、収容された孤児だった3人は手のつけられないワルだった。ワルガキたちは総勢10人で徒党を組み、「ドクイトグモ団」と称していた。その名は彼らがドクイトグモを使ってイタズラをするからなのですが、これはイタズラの範疇をはるかに逸脱した「犯罪」領域のものでした。孤児院の同僚のベッドの中やズボンの中に猛毒を持ったドクイトグモを放つ。被害にあった少年たちは病院に収容されても、戦争中でペニシリンの入手が困難で、その猛毒は壊疽を起こし、片目や片足を失ったり、頰に穴が空いたり、睾丸を取られ一生不能になったり...。被害者の数は10人。この被害者たちが「目には目」論で、60年後にこのドクイトグモ団10人に復讐しようとしているのではないか。
 アダムスベルグは警察というタテ社会の中で上から捜査許可が下りないこの事件(なにしろ殺人事件という確たる証拠がない)に、組織に逆らってでも入り込むつもりです。えり抜きの優秀な捜査班だったのに組織フラストレーションで人心バラバラになっている部下たちをふたたびひとつにまとめ上げ(この辺、日本人が好みそうな企業小説っぽい)、頑迷な上司を出し抜いて捜査に乗り出します。
 「ドクイトグモ団」の10人のうち、既に4人は事故死(と見せかけた殺人事件である疑いが濃い)で亡くなっていて、今3人がドクイトグモの毒で死んだので、生き残りは3人。アダムスベルグはこの3人に必ずや次の殺人事件が起こると踏んで、万全な護衛体制を敷くのですが、3人は一人また一人と(科学的根拠では死ぬわけのない)ドクイトグモの猛毒で殺されていく。おまけに犯人グループと目星をつけていた孤児院の毒グモ被害者たちは全く動きがない。 そして「ドクイトグモ団」に恨みを持つのは孤児院の被害者だけではないという新事実。この極悪の不良少年団は、無数の集団強姦事件を少年の頃から成人した後まで連続的に起こしていて、被害者数は数知れない。(強姦事件は被害届けが少なく解決も少ないという何処も同じ事情。このことは女性作家ですからね、怒りを持って書いてますよ)。果たして犯人は毒グモ被害者か、強姦被害者か、それとも...?

  で、アダムスベルグと部下たちの必死の捜査にもかかわらず、「ドクイトグモ団」は10人全員殺されてしまいます。こんな奴らを生かせておいてはいけない、というような捜査陣内部の微妙な心の揺れも作家は挟み込むんですね。人情がある。この辺がうまい。
 そして中世から伝わる奇習で、このドクイトグモと同じ名前の「ラ・ルクルーズ」と呼ばれるものがあります。それは穢されて社会構成員として生きられなくなった女性(あえて例をあげれば、婚前に処女を失った、強姦された、密通したなどで社会的に追放された女性)が穢れを浄化するために、何ヶ月も鳩舎のような小さな小屋の汚辱の中で独房生活を送り、不憫に思う村人たちから小さな穴を通してもらう水や残飯などで生きのびるという苦行をするのです。多くはその業の途中で死んでしまうのですが、自らの糞尿などの汚辱の中で生きのびる者もいる。その奇習も中世的には穢れを浄める聖なる行為として村からはある種崇められていた。この風習は20世紀には地方条例で禁止されることになりますが、その「ラ・ルクルーズ」を少年の日のアダムスベルグが、聖地ルールドの近くの村で偶然見たことがあるのです。そしてその中にいた女の記憶も、小説の土壇場で蘇ってくるのです。完全犯罪の秘密はこの「ラ・ルクルーズ」にあった...。

  私は今病気治療のため、2週間に一度病院に半日入院して、4時間ほど横になって点滴を受けていますが、この480ページの厚い小説は2回の点滴で読み終えました。これは夢中になれますね。ベストセラー1位は合点がいきます。フレッド・ヴァルガス、ファンになりました。次作も必ずここで紹介します。

FRED VARGAS "QUAND SORT LA RECLUSE"
Flammarion刊 2017年5月、480ページ 21ユーロ

(↓)国営テレビ FRANCE 5の文学番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ドクイトグモが出る時』を語るフレッド・ヴァルガス。


(↓)エロール・ダンクリー「OK フレッド」(1979年)
 
  

2017年6月11日日曜日

T'as l'air con chez toi ? (エアコンある?)

ジュリ・ブランシャン・フジタ『ジェーム・ル・ナットー』
Julie Blanchin Fujita "J'aime le nattô"

 本にいるちょっとだけ日仏バイリンガルな日本人友人(女性)に誕生日プレゼントで送るつもりで買ったのですが、読み出したら止まらなくなりました。ジュリ・ブランシャン・フジタは1979年フランス西海岸シャラント・マリティーム県サント(ジ・アトラス・マウンテンズのフランソワと同じ出身地ですね)生まれのイラストレーター/BD作家です。この本の序章のような生い立ち紹介によると両親とも美術教師&絵描きで、お金はそんなになくても廃屋を買って改装して売りに出すような器用/ラヴ&ピース/自由気ままな家庭環境だったようで、ジュリさんも色々反抗しながらもリセから絵描き方面の学校に進みます。美術系のディプロマは取っても職にありつけない悪戦苦闘は「アマゾンでの生活よりも辛い」と、それよりも若干楽なアマゾンに滞在すること6ヶ月、その体験をBD作品化したところ出版社が見つかり、その作品が各方面で目に止まり、学術系のイラストレーターとしての道を歩むはずだったんですが...。日本の極地動物研究チームに同行して日本の南極観測船「しらせ」に乗って南極へというプロジェクトへのフランスの助成金が断ち切られ、明日をも知れぬ状態でジュリは日本にやってきてしまいます。これが2009年10月のこと。
 それ以来、東京(+近郊)で畳アパート暮らしで、東京&日本に溶け込んでいくのですが、住んだところが町田、鶴瀬(埼玉県)、目黒、碑文谷(学芸大学)、清澄白河... なんていう、私のような東京知らずにはエキゾチックなところばかりなのです。
 
230ページのバイリンガル(仏日語)イラストレイティッド生活体験記です。えらいのは、立派にバイリンガルなんですよ。多分に日本人夫の協力は得ていると思いますけど、(→)こんな感じで、手書きフランス語と手書き日本語が並んで乗ってます。ただ、本当にバイリンガルの人にはわかる、この仏文と日文の微妙な違いや意図的なはしょり方が実は非常に面白いのです。だからこれは絶対両方読まなければなりません。
 フランスとは大きさも黒光りも違う日本のゴキブリが飛ぶこともできるという驚愕の発見や、電車の中は深々と熟睡できる環境だったり、 歩道を傍若無人に暴走するママチャリへの恐怖、ゆるキャラやマスコットの氾濫(警察マスコットのピーポくんの「万引きはダメ、本は買いましょう」ーこんなん初めて知りましたよ)... などなどその観察眼はやや「不思議の国ニッポン」風ではありますが、ベースには日本の大衆生活の見事さを愛でるリスペクトがあります。
そして本のタイトル通り、日本の大衆食への偏愛があります。『ジェーム・ル・ナットー(私は納豆が好き)』はマニフェスト的です。よく言われることですが、これは非フランス人にとっての香りのきついフレンチ・ナチュラル・チーズ (fromage qui pue)と同じで、その国の人でなければ最初は一様に拒絶感をあらわにします。納豆に至っては頑なに拒絶する関西人たちも多いでしょう。本書のジュリさんも最初はダメなんですが、やがて大ファンになっていきます。日本食は何でも食べられるけど納豆だけはダメというガイジンとは「チョトチガイマス」という誇らしさが。
 この日本生活体験記の中に、2011年3月11日の東日本大震災も描かれています。18ページのスペースを使って、大地震体験から、日本人と滞日欧米人などに入る情報の違い、フランス国による退避勧告で沖縄に一時疎開といったことが描かれています。これはフランス人にも日本人にも一般にはあまり知られていなかった「あの時の在日フランス人」の貴重な証言だと思いますよ。
 そしてイッセイ(一世)君という秋田出身の若者と恋に落ちて、悪戦苦闘の挙句、フランスで二人で新生活を始めようと日本を去るというエピローグで終わる本ですが、日本を去る前に若者の郷里の秋田に行き、雪に埋もれた温泉宿「鶴の湯」に一泊します。そこで雪の露天風呂に二人で浸かっていると、イッセイ君の姿が見えなくなり、そこに一羽の鶴が舞い降りてきます。鶴はジュリさんの頭に乗った温泉手ぬぐいをくちばしでツンツンと突きます。あ、これはもしかして...。そうです、これはフランスではコウノトリ(シゴーニュ)が運んでくるもの...。
 こういう風に日本が見られたら、そりゃあ、日本だって捨てたもんじゃないですよ。西洋白人(女性)からの恵まれた日本観察という偏見を打破できるのは、まさにこのバイリンガル視線だと思いますよ。結局日本語をものにできなかったアメリー・ノトンブとの決定的な違いはこれです。多くのバイリンガル人にお勧めできる本です。

JULIE BLANCHIN FUJITA "J'AIME LE NATTO"
Hikari Editions刊 2017年5月、230ページ  18,90ユーロ

(↓)ジュリ・ブランシャン「納豆が好き」のプレゼン。

2017年6月9日金曜日

スナークちゃんだったのかぁ...!

オルヴァル・カルロス・シベリウス『秩序と進歩』
Orval Carlos Sibelius "Ordre et Progrès"
 
 ラジル国旗に書いてあるポルトガル語 "Ordem E Progresso"(秩序と進歩)は、社会学の祖と言われるフランスの学者オーギュスト・コント(1798-1858)の理念です。なぜ唐突にこんな大言壮語なお題目をアルバムタイトルにしたか、ということは日本の政党モットーみたいなもんで「未来への躍動」「前進と飛躍」の類の空疎感を醸し出すためではないか、と思います。
 オルヴァル・カルロス・シベリウスの音楽はそういうハッタリの強さに溢れています。高校生の頃に初めて『原子心母』 や『クリムゾンキングの宮殿』を聞いた時の「どうしてここまで大げさなんですか?」という賞賛半分・呆れ半分の印象を思い出させます。あるいはボストンの2枚のアルバムに針を落す度に訪れる「わぁっ!光り輝いちゃってるなぁ!」のワクワク感みたいなみたいなもんです。
 「秩序」という点においては、黄金時代のポップミュージックの掟(ビーチボーイズ、トッド・ラングレン...)をしっかり踏襲した見上げたサウンド構築ですし、無駄のない構成、ケレン味たっぷりのギター/シンセ/ドラムスの早変わり展開、これはオーダー通りの品揃えと言えましょう。淀みや混沌一切なし。「進歩」という点は、それそのまんまなんですが、 プログレなんですな。60-70年代からポジティヴに考えられた技術の進歩、西洋音楽の未来みたいな展望。

 とここまで書いて、レーベル資料を読み直したら、オルヴァル・カルロス・シベリウス、「本名アクセル・モノー 」というのを見て、はて、この名前はどこかで見たな、と。遠い記憶から、1999年にアルノー・フルーラン=ディディエに紹介されたスナーク君(当時23歳)だったことを思い出した。ブリコラージュ(DIY)手作り楽器やギターやナベカマを宅録多重録音で、不思議なポストロック系の音楽をクリエートしていた子。ノイジーな抒情系みたいなスタイルが好きで、早速日本に紹介したら結構反応があって、2枚目のCDアルバム『オングストローム』(2000年)は谷理佐によるライナーノーツ付きで日本配給されるという栄誉を得ました。その中で谷理佐は「一見して子供っぽいヘナチョコのスナークが実は、ロックの次に来るものの舵の一端を握っている可能性は大きい」なんて書いてました。そのヘナチョコのアクセル君が17年後、こんな「秩序と進歩」を掲げる真正面なプログレ・サイケ・ポップを展開することになろうとは。

 どことなくスナークの雰囲気が残っている6曲めのインスト曲 "Locus Solus"は、知らなければ誰もがフランソワ・ド・ルーベの映画音楽と思うでしょう。インスト曲ばかりだった1999年から、凝りようは昔と変わらないのだけど、歴史を学ぶ前と学んだ後のような時の流れ。ポストロックやっていた子がクラシックロックに飲み込まれてしまったような。ピンクフロイドの40年の時の流れみたいなものを、一人で背負っちゃったのかな。冗談っぽい立ち振る舞い(↓のクリップ)が、実はすべて本気じゃないんだよ、と言ってるようで。ところが、この音楽は本気で楽しめますよ、特に私たちの世代は。全曲フランス語。勇気ありますよ。

 Orval = ベルギーのトラピスト修道院産ビールの商標。
   Carlos = 1947 -   。ベネズエラ出身のテロリスト、またの名をジャッカル。
   Sibelius = 1865-1957。フィンランドの大作曲家。

<<< トラックリスト >>>
1. COUPURE GENERALE
2. LES OUBLIES
3. COEUR DE VERRE 
4. MEMOIRE DE FORME
5. A MA DECHARGE
6. LOCUS SOLUS
7. DOPAMINE
8. ANTIPODES
9. DESASTRES ET COMPAGNIE
10. ENTREFER (BONUS CD)
11. MONUMENT (BONUS CD)

LP / CD BORN BAD RECORDS BB093
フランスでのリリース : 2017年4月28日 

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"COUPURE GENERALE"(オフィシャル・クリップ)



 

2017年6月6日火曜日

デパント、デパントで半年暮らす

2017年5月24日にヴィルジニー・デパントの3部構成の大作『ヴェルノン・シュビュテックス』の第3巻が出版され、作品は完結を見ました。全3巻合わせた総ページ数は1200頁。この大小説に関しては、私は2015年に半年のインターヴァルで発表された第1巻と第2巻の時から問答無用の支持の声を大にしていて、同年の月刊ラティーナ10月号に絶賛の紹介記事を書きました。それから2年弱の間を置いての第3巻の刊行です。この2年に大きく変わってしまった世界を象徴するのがバタクラン乱射テロ事件です。デパントは書く予定でいたことを全面的に書き換えなければならなかったと言います。
 それも踏まえて、私はこの6月20日に発売されるラティーナ(2017年)7月号に『ヴェルノン・シュビュテックス3』に関するかなり説明的な紹介記事を寄稿しました。ぜひ読んでみてください。その執筆中に大変参考になったのが週刊レ・ザンロキュプティーブル誌(2017年5月24日号)で、その号の特別編集長がヴィルジニー・デパントでした。同号に掲載された『ヴェルノン・シュビュテックス3』をめぐるロングインタヴューの冒頭部分を、私のフェイスブック上で(無断)翻訳掲載したところ、かなりの反響をいただきました。特に先のフランス大統領選挙でのマリーヌ・ル・ペンとFNへの辛辣な分析の部分は、「よその国のこととは思えない」という意見をたくさんいただきました。以下にその部分だけ再録します。

(レ・ザンロック : この最終巻を書くのは大変だったでしょう?)
ヴィルジニー・デパント(以下 VD):自分で驚いたのは、第1巻第2巻もだいたい同じだったけど、莫大なページをかなり短い時間で書けたということ。私は最初から結末は知っていたけれど、2015年11月13日の事件(バタクラン・テロ)で私は長い間書けない状態に陥った。私はストーリーを変えたくなって、様々な他の筋を求めていったのだけど、結局何にもならず時間を失っただけ。『ヴェルノン・シュビュテックス・1』が出版された2015年1月7日(註:偶然にもシャルリー・エブド襲撃テロ事件の日と重なった)から今日まで2年間で、すべては変わってしまったのよ。この2年間の出来事をすべて文章の中に流し込むこと、それが最も複雑で難儀な仕事だった。

(レ・ザンロック:2年間にそれほどまで変わったことというのは何でしょう?)

VD:それはひとつの革命だったのよ、実際にフランスにおいてはね。既に終焉しかけていたテロリズムがその言葉を一挙に噴き出させた、しかも誰も想像できなかった凶暴さで。それから2008年の経済恐慌はヨーロッパのすべての国の不安定さを加速させ、ギリシャを転落させ、外国避難者たちの危機的状況は避けられないものになり、難民キャンプや地中海で膨大な数の死者が出たことを私たちは見ている。しかし私たちはこれらすべてのことに慣れてしまった。慣れることこそ最悪のことで、それはさらに重大な過ちを準備していた。例えば難民たちをトルコに送り返すことなど、その少し前までは考えられないことだった。それから最近の選挙もさらにひとつのカタストロフ(大惨事)をもたらした。マクロンに投票しなければならないことに私たちはみんな躊躇していた。来るべき事態への恐怖心から嫌々ながら投票することをもう私たちは続けて3度も4度もしてきた。それは気が滅入るなどというレベルをはるかに超えている。私たちの多くはサルコジを落選させるためにオランドに投票し、保守統治の長い年月の後に社会党というのはちょっとはマシなんじゃないかと思ったのだが、オランドの5年間には非常に失望した。その結果(今年の大統領選)第一次投票でマリーヌ・ル・ペンが得票首位となった地方の数々を見るや、私たちは悲嘆に声もなかった。助けの手を差し伸べることと、拳を振り上げること、それは全く違うことでしょう…。国民がその自身の国を崩壊させるために投票するのを見ることになるなんて、これはただごとではないでしょう。
(レ・ザンロック:あなたは人々がFNに投票するのは絶望感によるものだと思いますか、それともこの政党の真の姿を知らないことから来るものですか?)

VD: 私はこの国においてはものを知らないということはあまりないと思う。FNに票を投じるのは異議申し立てのための投票であるとは信じられない。それはレイシズムに投票することであり、警察による弾圧や拷問を支持する投票なのです。すべてが秩序正しく行われるには強圧的な政治をするだけで十分だと信じている人たちの投票なのです。パパが威厳を持ち強権的であればすべてはうまく行くと信じている子供の投票なのです。私が思うに、FN支持者たちはこの強権政治は軽犯罪者たちやアラブ人たちにしか適用されないものだと想像しているのです。そしてFNが彼らに説いているように、今日のフランスの問題は、貧困や富の寡占化ではなく、まさにアラブ人だけなのです。それさえなくなればうまく行くと納得している。しかし彼らは思い違いをしているはず。なぜならばその強権政治は彼ら自身、彼らの子供たち、彼らの親族たちにまで及ぶものです。彼らの生活は改善されないし、彼らの払う家賃は安くはならない。その上、子供がいつもの時間に帰宅しないということがあるたびに、子供が学校に行かなかったのかそれとも警察に捕まったのか、とビクビクすることになる。強権国家とは法治国家ではなく、その官僚たちがやりたい政治を実行するのに何の障害もない国家のことです。その国家ではあなたはどうして自分の子供が拷問されたのかを警察に問い質しに行くことなどあなた自身がしなくなる。なぜならあなたはそのことで警察があなた自身に厄介ごとをふっかけてくると知っているから。すなわちその国家はあなたが恐怖しなければならない国家ということ。もしも独裁政権のもとで正直で善良な市民たちが丁重に扱われたなどということがあったなら、歴史的に多くの独裁制が大手を振っていた頃からそれははっきりしてだろうに…。けれどもFNの台頭はこの10年間にフランスのメディア上で非常に巧みにキャンペーンされたので、もはや誰も驚かないことになってしまった…。
(週刊レ・ザンロック誌 2016年5月24日号)

 ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス1.2.3』 は日本語訳刊行の予定があるという噂は全くありません。バルザック「人間喜劇」に匹敵すると称された、21
世紀テロの時代の人間群像とかすかに幻視できる救済の可能性を描く1200ページ。必ずやちゃんと日本に紹介されますように。

(↓)国営TVフランス5の文芸番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ヴェルノン・シュビュテックス3』 を語るヴィルジニー・デパント