Benjamin Biolay "Saint-Clair"
バンジャマン・ビオレー『サン=クレール』
うちでも絶賛した傑作『グランプリ』(2020年)に続く、ベン・ビオレーの11枚目のアルバム。2022年6月に発表された先行第一弾シングルの「愛を返せ(Rends l'amour)」の時に、爺ブログでアルバム制作の背景を説明してあるように、ビオレーがほぼ定住し始めた南仏ラングドック地方の港町セートと大きく関係していて、アルバムタイトルとなっているサン・クレール山はセートを見下ろす標高175メートルの丘で、頂上に輝く十字架と展望台がある。多くの古い欧州の丘のある町がそうであるように、高いところから聖者に見守られ加護されているのだろう。古くからの信心深さが残る土地柄。私の感覚では「抹香臭い」のだが。
アルバムジャケット、ブックレットには聖人やカトリック信仰をシンボライズした図版とデザインをあしらっているが、これはセートやカマルグ地方に何百年も空気のように染み付いたアトモスフィアであろう。土地のジタンたちの入れ墨のようなものと私は解釈する。「サンタ・クララ」「サント・リタ」「サン・ジェルマン」「サン・クレール」など聖人の名が歌のタイトルとなっているが、聖人賛美の歌では全くない。信仰も祈りも全くないわけではないが、希薄だ。これは古い南ヨーロッパの”イメージ”でしかないが、それはそれで美しい。
アルバム『サン・クレール』は基本的に2年前の『グランプリ』と同じロックサウンド。2枚通して聴くと「続編」と言われてもしかたない。ビオレー(ヴォーカル/キーボード)、ピエール・ジャコネリ(ギター/ベース)、ヨアン・ダルガール(キーボード)、フィリップ・アントルサングル(ドラムス)の4ピースロックバンド。この編成のバンドでのコンサートを去年ラ・セーヌ・ミュージカルで見る機会があったのだが、本当によく鳴るいいバンド。ジャコネリのギターが引っ張っていくパワーロックがとりわけいい。このバンド環境ではビオレーはロックヴォーカリスト然としていて、ミオセックを思わせるものがある。
アルバムはこの聖人たちの雰囲気を醸し出すようなややバロック風な30秒のインストルメンタル序曲(”Cadidum cor, frididum caput" ラテン語です、訳:冷たい心、冷たい頭)で始まり、全部で17トラック(トータルランタイム:1時間4分)収録されている。はっきり言って17トラックは多い。もっと精選してほしかった。どれとは言わないが長年の手癖で作ってしまえたような曲があって、往年の超多作期のジャン=ルイ・ミュラのようである。
6月の「愛を返せ(Rends l'amour)」(アルバム3曲め)の当ブログレヴューでも書いたのだけど、野卑で下品な語彙がかなり顔を出す。これは今に始まったことではないビオレーの持ち味なのだろうが、上辺でふてぶてしく悪ぶってみせるポーズ(映画俳優バンジャマン・ビオレーはそんな役しかできない)と女性蔑視紙一重のどんなパートナーにも満足を得られないエゴイストな言辞がメランコリックな男ビオレーの一貫したイメージをかたち作っている。そこにある種の評者たちはセルジュ・ゲンズブールとの共通性を見てしまうのであるが。それに関連して、この9月7日のマリー=クレールWEB版のインタヴューで、アルコール依存症だったことを告白していて、30歳の頃は1日5リットルのヴォトカをガブ飲みしていた、と。「ツアーの途中、フロアディレクターが一週間のヴォトカの瓶を数えてみたら30本あった。これは苦しかったよ。全く気持ちのいいもんじゃない。俺は脂肪質になるし、おまけにこの量でも全然酔っぱらうことがないんだ...」。ナイトクラブに出没し、数々のアヴァンチュールが黄表紙雑誌を騒がせもした。ゲンズブール/ガンズバール流儀の破滅型酩酊期であったようだ。だがどの酔いどれ詩人も同じようにゲット・ノー・サティスファクションでメランコリックで違う楽園を求めてさまよう。このアルバムにはそういう自伝的な、ノー・サティスファクションのくりかえしの人生をふりかえり、何を求めて、どこへ行くのか、と自らに問う歌がいくつかあり、このふてぶてしい男の繊細な自省にぐっと来るものがある。
きみは僕を忘れる
人生を忘れるように僕を忘れる
夜の鳥よきみは僕を忘れ
僕はきみを忘れる
視力を失うように
きみを忘れる
初めから僕はきみを忘れていたんだ
もうすぐそんなことも考えなくなるよ
これは先行シングル「愛を返せ(Rends l’amour)」の歌詞でもはっきりしているのだが、ビオレーにとって恋愛とセックスは全く別物なのである。セックスは常に悲しく、男たちは言い訳ばかりするが、恋愛の悲しみはそんな次元の問題ではない。底無しのメランコリアの男ビオレーはその癒しを求めて聖女探しをしていたのかもしれない。その求道の途上でできたアルバムがこの『サン・クレール』と深読みができるのだよ。
たぶん最も核心的な歌だと思うが、13曲めのまさに天を仰いで神の名も出しながら歌うバラード曲「しかし(Pourtant)」で、迷えるビオレーは昇りつめる。
俺は西へ西へと向かい過ぎて、
おそらく東に来てしまったのではないか
と告白する
天の世界では良い風が吹いているのかと自問するおお天蓋よ俺は観念した高みにある神の沈黙に向かって俺は告解する
俺は迷えるあほんだらだ俺は特上の失望者だそれでも俺は若くして死ぬために最大限の努力をしてきたステージの上で黄色いライトを浴びながら死なないために最大限の努力をしてきた
そうとも最大限の努力さ人が俺から離れていくように
俺は遠くまで行かなかったが
かなり早い速度で走ったんだどこで、何が、誰が、いつ?答えはたくさんあった、だがしかし、
しかし...
俺はもう自分の顔を鏡で見ない
喉の中にひどい味覚が残っている
あの高いところでは火はあるのかと自問する
長い年月にわたるうんざりする戦争ヘルメットすらかぶっていない誰が俺にこんな贈り物をくれたのか
卵、雌鶏娼家のおかみ、娼婦
あの高いところではみんな目を凝らして詮索してるだから俺は若くして死ぬために最大限の努力をしてきたステージの上で黄色いライトを浴びながら死なないために最大限の努力をしてきた
そうとも最大限の努力さ人が俺から離れていくように
俺は遠くまで行かなかったが
かなり早い速度で走ったんだどこで、何が、誰が、いつ?答えはたくさんあった、だがしかし、
しかし...
誰かがこの水を青い絵の具で染めた時われらの罪のない子供たちの血で染まった幾多の川の流れのことを俺は忘れてしまったのさ誓って本当だとも、俺は若くして死ぬために最大限の努力をしてきたんだステージの上で黄色いライトを浴びながら死なないために最大限の努力をしてきたんだ
そうとも最大限の努力さ人が俺から離れていくように
俺は遠くまで行かなかったが
かなり早い速度で走ったんだどこで、何が、誰が、いつ?答えはたくさんあった、だがしかし、
しかし...
しかし...
(↓)「しかし(Pourtant)」
わおっ。本気でこんな歌作ってしまったのだ。死なずにいる自分のための鎮魂歌。たぶんさまざまな努力をしてきたのは本当のこと。こういう歌、また作って天に向かって悲嘆を込めて歌い続けるのだろう、死ぬまで。迷えるビオレーがただの才能ある(ポップ)音楽アーチストだけではない、ということは徐々に知られていくことだろうけれど。
アルバムはキャッチーでタイトなロックナンバーもあれば、得意の(メランコリックな)”男のリクツ”節もある。その中で一曲だけ、状況にコミットしたテーマの曲がある。16曲め「海渡り(La traversée)」は、アフリカ大陸から粗末なゴムボートや木舟に乗って命懸けでヨーロッパを目指して地中海を渡ってくる難民たちのことを歌っている。セートもまた地中海の港町であり、この海はアフリカにつながっている。
人生は長くまず最初に善人たちを殺し愚者たちを残す人生とはある人々には良いものだが
ある違う人々には
何の役にも立たない金持ちもいれば貧乏人もいるあまり金持ちでない者もいれば
極度に貧乏な者もいる
湾に灯りがともる
今夜もまた海は
血を吐き出す
海を渡り切る前には
人生の未来が
何もなかった人々の血が
湾に灯りがともる
明日になれば海水浴客たちがその前で昼寝をするだろう
塩と風の悲しみなど知らず
海賊や難破に遭う恐怖も知らず
海が泣いているということすら知らず
(↓)「海渡り(La traversée)」
こういう歌があると、やっぱりこいつはいい奴なんだなぁ、と思う。
だがこのアルバムの最良の部分は、前掲の16曲め「しかし(Pourtant)」のような正直な内省の嘆き節で、正直にこれまでの人生をいやだいやだと振り返りながら、それでも生きていくしかない不条理をどう見つめるか、というテーマだと思う。5曲め「(ある)ラヴェル(〈Un〉Ravel)」は素晴らしい。数々のクラシック名曲をパクって自分の楽曲にしてしまったセルジュ・ゲンズブールに倣ったのかもしれないが、曲名が示すようにこれはモーリス・ラヴェルを援用している。「死せる王女のためのパヴァーヌ」である。えも言われぬ美しい旋律である。これにビオレーはガキの頃から二度死んだ自分の人生をなぞり、すべて去りゆく諸行無常と格闘する自分、そこから逃げるためのボードレールの"人工の楽園"を想わせる薬物トリップも挿入されている。ボソボソと軟弱ラップのように歌い始め、ふてぶてしくもメランコリックに展開したあと、歌い込みのサビにラヴェル旋律が来る...。うますぎる。最後の「悪い風に乗って au vent mauvais」はヴェルレーヌ/ゲンスブールからの援用であろう。
俺は教室の最後列で最初に死んだんだと思う
5年から16年、別に何もしないってことは悪くないと思っていた
俺は愛の言葉など一言も知らずに愛を発見した
人の肌のいたるところに触ってもいいなんて知らなかった
喉仏に甘美な接吻をしてもいいなんてことも
どのように動脈の拍動が少しずつ減っていくのかも知らなかった
単純な世界なんてひとつも知らなかった、みんな複雑だったヴォーバンの中心街、城壁、その頃からひび割れていた
自分を取り戻したい意図の中に自分を見失おうとしていた
時間を浪費し、自分を安売りした
俺は暗闇の中で始めた、いや実際は始めてもいなかった
自分の両足の感覚がなくなるまで、浴槽の底にいたんだからジャン=ルイ・バチスト、マリー=マドレーヌ、カマルグの塩水
砂丘、鯨の浜辺、俺は死神に戦いを挑んだ
自分自身を罰することのできない臆病者の俺は
純真な心に穴をあけた
人魚たちはノー・フューチャーと歌い、俺の声はアンプを通しても聞こえない俺の子たちは俺のことを金持ち扱いするのではないかと恐れている
穴の中で果てるのも怖い、最低でも焼かれて果てたい
俺が二度目に死んだのはステージの上で俺は裸同然だったいやだいやだいやだ、俺は不満ばかり言っているが
心の奥底で俺はこれが好きなんだ
俺は好きなんだ、この憎たらしくも美しい人生が、
でかいケツをした、ベタベタした髪の人生が
でも歩道のこちら側から向こう側に移る前に
別れの言葉を交わさなければならない
人生はこんなふうに過ぎていく、この憂鬱と混じり合っためちゃくちゃなやつは
聖処女はこんなふうに生き、その子イエスはこんなふうに去った
エッフェル塔については、俺はその存在を信じていない
もしも俺がなにかを変えることができるんだったら、俺はきっと全部を変えられるさ
俺にはボロの帆と筏と海水と釘と
おまえの8月の汗水だけがあればいい
ものごとはこんなふうに進んでいく、人生もまたしかりバラ色の夜もあれば、やつれた夜もある
人生に痛めつけられた俺の体
恋にも痛めつけられるさ
ほんの少量で、俺はえも言われぬ夏の中に入っていった
湖のほとり、動かぬままの世界
宿泊地、音もなく扉を開ける部屋
このベッドには誰も夜をつなぎとめてはくれないんだ、誰もいないんだ
歴史はこんなふうに進んでいく、人生もまたしかり
いくらかの輝かしい出来事は、幻想が満たされることがないまま
速度をゆるめていき、内側は灰色に変わっていく
ものごとの美しさなど決して長続きしない
それは悪い風に乗って飛んでいってしまう
(↓)”(Un)Ravel”オフィシャル・クリップ
この曲だけで、私、すべて許しますよ。
<<< トラックリスト >>>
1. Calidum cor, frigidum caput
2. Les Joues Roses
4. Les Lumières de la ville
7. Santa Clara (Septembre un jeudi soir) (feat. Clara Luciani)
8. Sante-Rita
9. Petit chat
Benjamin Biolay "Saint-Clair"
2LP/CD/Digital Universal - Polydor
フランスでのリリース:2022年9月9日
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)アルバムタイトル曲「サンクレール(Saint-Clair)」
(↓)冨田勲「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1979年ラヴェル音楽集アルバム『ダフニスとクロエ』より)
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