2020年5月29日金曜日

ブリジッチ・バルドー、バルドー


"Brigitte Bardot"
「ブリジッチ・バルドー」(1960年)
作:ミグェル・グスタヴォ
歌:ジョルジ・ヴェガ

ブリジッチ・バルドー、バルドー
ブリジッチ、ベジョー、ベジョー

日本語版が出るとしたら、この部分は「美女〜、美女〜」になるはず。「ブリジッチ」なのはブラジルだからであり、”Brigitte”と綴ってあれば、ブラジル葡語では”ブリジッチ"と発音される。1960年、国際舞台におけるフランスのシンボルの地位はシャルル・ド・ゴールとブリジット・バルドーの間で争われていた。その名声はなんでこんなところまで?と驚いた17歳の少女がいた。その名をマリー=フランス・ブリエールと言い、アルゼンチン人の母、フランス人の父(旅客船船長)を持ち、家族でその冬(南半球は夏)のヴァカンスをリオ・デ・ジャネイロで過ごした。すると、町中がマーチングサンバに乗せて「ブリジッチ・バルドー、バルドー、ブリジッチ、ベジョー、ベジョー」と歌い、躍り狂っているではないか!少女はこのバルドーのサンバに魅せられ、ヴァカンス帰路の大西洋汽船の荷物の中にこのシングル盤を詰め込み、パリに着くやいなや、走って行った先が民放ラジオ局ウーロップ・ニュメロ・アン(Europe No.1)。
なぜ、このラジオ局かと言うと、戦後国営放送しかなかったフランスに、周辺国から国境超えて電波を飛ばした民間(商業)放送局(ラジオ・アンドラ、RMCラジオ・モンテカルロ、RTLラジオ・リュクサンブール)の中で最も遅く1955年に開局したのがウーロップ・ニュメロ・アンで、電波は西ドイツ(当時は西ドイツと言っていた)のザール県から電波発信していた(とは言っても、放送局本社はパリにある)。古臭いド・ゴール時代のフランスで、この新座の民放ラジオは若い聴取者層にアピールする番組を売り物にしていて、その開局の年1955年に始まった大人気のジャズ番組 "Pour ceux qui aiment le Jazz(ジャズのお好きなあなたへ)"(ホストはフランク・テノとダニエル・フィリパキ)に続いて、1959年にイエイエ世代のマスト番組「サリュ・レ・コパン」(ホストは同じくフランク・テノとダニエル・フィリパキ)が始まり、若い世代にとって新しい音楽は Europe No.1で知るという定評が出来てしまった。
ちなみにちょっと時代は数年ずれるが、1966年の米映画『グランプリ』(ジョン・フランケンハイマー監督、ジャームス・ガーナー、イヴ・モンタン、三船敏郎...)の中でレーサーのガールフレンド役で登場するフランソワーズ・アルディが、四六時中トランジスター・ラジオに耳をあてて「サリュ・レ・コパン」に聞き入っているというシーンがあり、60年代世代におけるラジオ偏愛現象を垣間見ることができる。
話はだいぶ遠回りしているが、その当時の"若者ラジオ”ウーロップ・ニュメロ・アンでテノやフィリパキたちのボスだったのが1960年にディレクターになったリュシアン・モリス(1929-1970)であった。エディー・バークレイジャック・カネティと共にあの頃のレコード界&芸能界のドンのひとり。ダリダをスターにし、ミッシェル・ポルナレフを発掘したことで知られる。ダリダとの屈折した愛憎関係の末に自殺(1970年)、その死に捧げられたのがポルナレフの「誰がおばあちゃんを殺したの?(愛のコレクション)」。

(←セルジュ・ゲンズブールとマリー=フランス・ブリエール)
はい、元に戻ります。17歳のマリー=フランスが会いに行ったのはこのディレクター、リュシアン・モリスであった。ウーロップ・ニュメロ・アンの試聴室にダニエル・フィリパキなんかも集めて、リュシアン・モリスはお嬢さんが持参したシングル盤「ブリジッチ・バルドー」を一聴、おお、これはすごい、という話になってしまった、というわけ。ヒット誕生。このラジオ局の一押しで仏バークレイ・レコードのシングル盤は大ヒット、さらにダリオ・モレーノによるフランス語カヴァーシングル(これはフランス語なので、"ブリジッチ”も”ベジョー、ベジョー”も変っちゃって、"ブリジット・バルドー、バルドー”、”ブリジット・バルドー、ブラヴォー”になってる)ほか、世界中で多ジャンルにまたがるたくさんのカヴァーを生むという、幸福なロングヒットとなったのでした。

 話はこれだけではない。リュシアン・モリスはこのお嬢さんの"耳”と"勘”に惚れ込み、若者向けラジオとして躍進するウーロップ・ニュメロ・アンのためにその才能を生かしてくれないか、とラジオ局の有力スタッフとしてスカウトしたのである。ここからマリー=フランス・ブリエールのラジオ人⇨テレビ人→プロデューサーとしての長い長いキャリアが始まり、後年に「フォール・ボワヤール」や「タラタタ」といった仏TV界の記念碑的番組を世に送るのである。大物TVプロデューサーから転じて現在は2008年に創設された年次映画フェスティヴァル「アングーレーム仏語圏映画祭」の主宰者(ドミニク・ベスネアールと共同主宰)となっている。1枚の観光土産レコードが人生を変え、フランスの放送界・芸能界も変えてしまったつうわけ。

(↓)オリジナル1960年ジョルジ・ヴェイガ「ブリジッチ・バルドー」


(↓)1961年ブラジルのギタリスト、エラルド・ド・モンチのヴァージョン。チャチャチャ、これはYouTube動画もよく出来てて好き。


(↓)1961年ジャック・フォン・ドームのドイツ語ヴァージョン。


(↓)1962年ブラジルのギタリスト、ボラ・セーテのエレキインスト。うっとり。


(↓)1982年ベルギーのトゥー・マン・サウンド(Two Man Sound)のサンバ・ディスコヴァージョン



(↓)1962年スペイン語で歌うベルギーのバンド、レ・チャカチャスのヴァージョン。


(↓)北の国から。1961年フィンランドの女性歌手ライラ・キヌーネンによるスオミ語ヴァージョン。


(↓)2014年の国営TVフランス3によるマリー=フランス・ブリエールのインタヴュー。そのキャリアの始まりである「ブリジッチ・バルドー」のエピソードから、テレビプロデューサー時代、そしてアングーレーム仏語圏映画祭まで。

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