2020年5月5日火曜日

性感染症ですらない平凡なウイルス

「なにひとつ以前と同じようにはならないだろう」などという断言など私は半秒たりとも信じない。逆に私は「すべては全く前と同じままだろう」と言ってしまえる。

2020年5月4日朝9時、フランス国営ラジオFRANCE INTERが公開朗読したミッシェル・ウーエルベックの新コロナウイルス禍に関する考察テクスト(全文の写しと朗読のポドキャストのリンク)。ペシミスティックで冷笑的ないつものウーエルベック節であるが、自作品『ある島の可能性』 (2005年)で予言した”人類の消滅”のことすら忘れている無責任さも吐露されている。このテクストが国営ラジオで発表されてからというもの、ネット上では賛否両論がかまびすしい。だが、私は「すべては全く前と同じまま」論だけは承服しない。私は少なくとも新リベラル経済への大いなる反省はなされるはずだと信じている。これまでの新リベラル経済は、このパンデミックによってコロナウィルスよりも多くの人々を殺し、困窮に貶めることがはっきりしているから。ウイルスよりも今ある経済の方が多くの人たちを殺している世界にわれわれは生きている。必ずやこれは変えなければならない。多くの人たちが"その後”も生き残るために。

では(いつもと同じように権利者には無断であるが)、ウーエルベックのテクスト全文の日本語訳です。権利者がクレームしたら削除します。

白状しよう。ここ数週間で交信したメールのほとんどは、相手が死んでいないかどうか、またそうなりつつあるのではないかということを確認することが第一の目的だった。そしてひとたびその確認がなされるや、おたがい何か興味深いことを語ろうとするのだが、それは容易なことではない。なぜならこの伝染病は、苦しみをもたらすものであると同時に憂鬱きわまりないものであるという大殊勲を立てつつあるから。華々しさに欠けインフルエンザ系の陰湿なウィルスに似通った平凡なウィルスであり、どんな条件下で生き延びているのかよく知られておらず、その性質も曖昧で、症状が軽い場合もあれば死に至る場合もあり、しかも性感染症ですらない。結論として、価値のないウィルスなのだ。
この伝染病はいかに世界で毎日数千人の死者を出してこようとも、それは”非・大事件”であるという奇妙な印象しか生み出さなかった。第一、私の尊敬する同業者諸氏(その一部は本当に尊敬できる)は、それについて多くを語っておらず、それよりも外出禁止の問題について語るのを好んでいる。以下、彼らの考察のいくつかに、私の意見を付け加えて紹介しよう。
フレデリック・ベグベデ(ピレネー・アトランティック県ゲタリー在住)
結局のところ作家とは多くの人と会うことをせず、その書物と共に隠遁して生きるものだから、外出禁止でも事情はほとんど変わらない。
全くもってフレデリックに同意する。社会生活に関することをほとんど何も変わらないのだ。ただ、きみが考察を怠ったことが一点だけある(それは間違いなくきみが田舎で暮らしているせいで、きみはあまり”禁止“の被害者ではないからなのだ):作家とは歩くことを必要としているのだ。


私にはこの外出禁止はフローベールとニーチェの間に起こった古い論争に決着をつける理想的な機会であるように思える。どこから発されたのか私は忘れたが、フローベールは、人が思考し、ものを書くのは、座っている時だけであると断言した。それに対して(これもどこから発せられたのか私は忘れたが)ニーチェが反論と揶揄の声を上げ、それはニーチェがフローベールを”ニヒリスト“(その頃から彼はこの言葉をめったやたらと使い始めたのだが)とこき下ろすところまで及んだ。ニーチェ自身そのすべての著作は歩きながら考案されたと言い、歩行中に考案されないすべてのものは価値がない、その上彼はいつもディオニュソス的(陶酔的)なダンサーであった、等々。私のニーチェへの誇張された贔屓だと疑われようが、この場合、正しいのはニーチェであると私は認めざるをえない。一日のうち数時間持続的なリズムで歩き続けるという可能性のない状態でものを書こうとすることは断じてやめるべきである。たまりにたまった神経的緊張が解消されず、思念やイメージが作者の哀れな頭の中で苦しげに回り続け、怒りっぽくなり、ついには気が狂ってしまう。
ただひとつ重要なのは歩行の機械的に規則正しいリズムであり、それは新しいアイディアを浮かび上がらせる(それに次いでアイディアをかたちにする)だけでなく、作業机の上に生まれた多くのアイディア(この点においてフローベールは必ずしも間違っていたわけではない)の衝撃によって誘発されたアイディア同士の衝突を鎮静化するものである。ニーチェがニースの後背地の岩だらけの坂道やエンガディン(註:スイス南東部、主邑サン・モリッツ)の高原で練られた彼の構想の数々を語るとき、彼はやや取り止めがなくなる。観光ガイドを書く時以外、通過してきた風景の数々は、内面の風景よりも重要なことなどないのだ。

カトリーヌ・ミエ(通常はパリ住民のはずであるが、外出禁止令が出た時に幸運にもピレネー・オリアンタル県エスタジェルにいた)
今の状況は彼女に不愉快なほどに、私の作品のひとつ『ある島の可能性』の”予言“の部分を想起させる、と。

それを聞いて、私は、読者がいるということはいいことだなあ、と独言した。私はそんな照合など考えもしなかったのだが、それはいたって明快なことではないか。今思い返すと、それは人類の消滅ということについてあの当時私の頭の中にあったことと全く同じなのだ。それは大スペクタクル映画のようなものでは全くない。どんよりと沈んだものである。それぞれの独房で離れて生きる個人個人は、自分の同類たちと身体的な接触を全く持たず、コンピューターを介したわずかな交信があるだけであり、その人口を徐々に減らしていく。

エマニュエル・カレール(パリ→ロワイヤン:彼はこの移動に関する有効な理由を見つけたようだ)
この時期にインスパイアされた注目すべき書物は生まれるであろうか?彼はそれを自問している。

私もそれを自問する。私はこの問題を真剣に考えたが、結論として答えは否と思う。ペストに関しては、何世紀にも渡って多くの書物が著されたし、ペストは作家たちの興味を引いた。ここなのだ、私に疑義があるのは。第一に、私は『なにひとつ以前と同じようにはならないだろう』という類の断言など半秒たりとも信じない。逆に私は、すべては全く同じままだろうと言おう。この伝染病流行の推移はすばらしく正常である。西欧は永遠に神から授かった世界で最も豊かで文明の発達した地域ではない。もうしばらく前にそんなものはすべて終わってしまったし、それはスクープでもなんでもない。詳細について調べるなら、フランスはスペインやイタリアよりも少しだけうまく危機を脱したが、ドイツよりは要領が悪かった。そんなことは、全くもって驚くべきことでも何でもないのだ。

コロナウイルスはその主だった結果として、それまで進行していたいくつかの変異を加速化させることになるはずだ。何年も前から進行している技術的な進化 ― ヴィデオ・オン・デマンドやコンタクトレス決済といった小さなところから、テレワーク、オンラインショッピング、SNSといった大きなところまで ― はその主に目指した結果(中心的な目標)は物質的接触と人間的接触を減らすことであった。コロナウイルスの伝染流行は、こうした重要な傾向にあったことに素晴らしい正当性を与えるものである。ある種の機械廃用は人間関係に打撃を与えるようだ。このことは、「未来のチンパンジー」と名乗る生殖補助医療(註:ART、フランスでの略語はPMA)に反対する行動家グループ(私はこの連中をインターネット上で発見した。私はインターネットには不都合なことしかないとは一度も言っていない)が作成したある声明文の中の明快な例えを思い起こさせる。では引用してみよう「近い将来、無料で行き当たりばったりに子供をつくることは、ウェブの仲介サイトを通さずにヒッチハイクをすることと同じほど礼儀知らずのことと思われよう」。相乗りカー(covoiturage)、アパートシェア(colocation)、それ相応のユートピアではあったが、もうやめにしよう。

この病禍に、われわれは悲劇や死や有限性を再発見したなどと断言するのも間違っている。半世紀前から今日までの傾向は、フィリップ・アリエス(註:Philippe Ariès 1914-1984 仏歴史学者)が見事に説明しているように、死をできるだけ包み隠すことであろう。この最近の数週間ほど死が人目に晒されなかったことは未だかつてない。人々は病院や老人施設の部屋の中で孤独に死んでいき、誰も招くことなく秘密のうちに埋葬(あるいは火葬 ― 火葬の方が時流に適合しているだろう)されている。その少しの証しもなしに死んでいく人たち、犠牲者たちは毎日の死者数統計のひとつの単位でしかなく、その統計全体の数が増えたことで人々に広がっていく不安恐怖は奇妙なほど抽象的なものである。

この数週間でもうひとつ大きな重要性を持った数字は、患者の年齢である。この患者たちは何歳まで治療し、蘇生を試みるべきであろうか? 70歳、75歳、80歳? おそらくそれはその人が世界のどの地域に住んでいるかによって違う。しかしいずれにしても、これほどあからさまに、しかも涼しいほど恥知らずの顔で「一定の年齢(70歳、75歳、80歳?)以上でなければ、すべての人々の命は同じ価値を持っていない」ということが示されたことはいまだかつてない。それはもうわれわれが既に死んでいるようなものなのだ。

私が既に述べたように、こうしたすべての傾向はコロナウイルス以前にも既に存在していた。これらの傾向のひとつの新しい証拠として今現れているにすぎない。われわれは外出禁止令解除のあと、新しい世界の中で目が覚めるということはないのだ。その世界は同じであり、前より少し悪くさえなっているのだ。

ミッシェル・ウーエルベック

(↓)2020年5月4日朝9時、国営ラジオFrance Interの番組でオーギュスタン・トラプナールによって朗読されたミッシェル・ウーエルベックのテクスト。


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