2020年5月31日日曜日

フィクション大魔王

トニノ・ベナクィスタ『すべての恋物語は語り尽くされた、ただひとつを除いて』
Tonino Benacquista "Toutes les histoires d'amour ont été racontées, sauf une"

トニノ・ベナクィスタには様々な肩書きがあり、推理小説家、(純文学)小説家、劇作家、映画脚本家、BD(劇画)脚本家、放送作家、コント作家などなど。これを十把一絡げで職業欄に"ecrivain(著述家)"と書くことにベナクィスタは抵抗があると言う。役所関係の種々の公式書類で記入しなければならない「職業欄」にベナクィスタは"conteur"(話し手、語り部、噺し家...)と書きたいのだそうだ。物語を語る人、英語で言うストーリー・テラーである。当ブログの題目として私が拝借した「ペール・カストール(カストール爺)」というビーバー親父も、何百という「お話し」と子供たちに語ってあげる"conteur"であった。面白い、聞く者を夢中にさせる物語を名人芸のように話してきかせるのが "conteur"である。お話しおじさんであり、歩く「物語の宝庫」なのである。この場合、物語は創作であり、フィクションであり、結末があるものなのだ。
 爺ブログ2008年5月に『続マラヴィータ』を取り上げた時に、著者紹介で私はこう書いていた「1961年生れ,イタリア移民の息子,トニノ・ベナクイスタは学生の頃映画と文学を専攻しますが,途中で投出し,さまざまな職業を転々とします。飲食店関係,ガードマン,私立探偵助手,寝台列車の世話係...これらの体験はのちのちの小説やシナリオ(映画,劇画)に,日常生活者からは見えないダークサイドの驚くべきディテールとして,ベナクイスタ作品の魅力のカギとなっていきます。とにかくこの細部の面白さが,読者を目には見えないけれど実在するワンダーランドへと連れていってくれるわけですね」。この文章で誤りがあるのは「目には見えないけれど実在するワンダーランド」というところで、それはやはり実在はしないのだ。フィクションだから。フィクションは虚構の創作物と思われがちだが、フィクションで最も重要なのは "crédibilité"(クレディビリテ=信憑性、信頼するに値する確かさ)であるとベナクィスタは言う。絵空事ではない、真に迫るものでなければならない。文学、劇作、映画、テレビ、劇画などのフィクションに人々が夢中になるのは、それが真に迫る虚構であるからだ。それはリアルワールドによく似たパラレルワールドと言い換えられよう。私たちが体験しているリアルには結末がないが、フィクションであるパラレルワールドにはひとつひとつ結末がある。だから私たちは結末が知りたくて好んでフィクションの中にのめり込んでいく。
21世紀の今日、信憑性のあるフィクションの宝庫はテレビ連ドラであり、テレビというメディアを通さずインターネット上でストリーミング公開されるようになってからの連ドラの豊穣な創造性には目を見張るものがある。1997年、テレビドラマと言えばまだアメリカ制作人気ドラマ(の再放映、再々放映)がメインだった頃、時の文化大臣が米ドラマの寡占状態をストップさせ「フランス制作ドラマ」の放映割合をテレビ局に義務付け、やる気のないテレビ局が深夜の時間帯に流す低予算のSITCOM(シチュエーション・コメディ)の制作のために、失業中の脚本家4人を低サラリーで雇ったのだが、その4人の作った超低予算のテレビ連ドラがあにはからんや大ヒットしてしまう、という長編小説(450ページ!)がトニノ・ベナクィスタの『サーガ』であった。テレビ界や売れないシナリオ作家たちのことを知り尽くしたベナクィスタであったからこその怪作であり、時間持たせとして作らせたかったテレビ局(大資本)の思惑に逆らって傑作を作る職人(シナリオ作家+制作スタッフ)の意匠心の真髄はリアルであってほしい、という架空の視聴者たちとリアルな(小説)読者たちの心を掴んだ。その二十数年後の「返歌」のような小説がこの『すべての恋物語...』である。なぜ「返歌」と喩えたかと言うと、『サーガ』が制作サイドの物語だったのに対して、この新著はテレビ連ドラを(過激に)観る者の物語だからなのだ。
さて、この小説には話者がいる。この話者が出会ったひとりの人物レオ、目立たない、うだつの上がらない若者だったレオに何か惹かれるものがあって、密なつきあいが始まる。小さなアパルトマンに住み、つましく階下のスーパーで買ってきたものを食べ、やや不潔でも気にならない独身オトコ、目立たないガールフレンド(その名をアンジェリック)あり、職業はSNCF(フランス国鉄)のアンケート係、客車車両に乗り込みアンケート用紙をくばり(あなたはこの路線を利用するのは初めてですか?、年間に何回利用しますか?、切符の割引を利用していますか?....)下車前に回収する。話者がレオと親しくなって最初にレオのアパルトマンで飲み会を開いた時(レオも話者もガールフレンド連れで総勢四人)、夜もふけたあとで、レオがやにわにノルマとして残っているアンケート用紙の代筆をみんなに頼んだのである。みんな面白がってその数十枚にとりかかり、信憑性をもたせるために1枚1枚字体を変えたり、男になったり女になったりVIPになったり失業者になったり...。するとレオはみんなが書いているテーブルの脚を掴んでわざと揺らすのである。電車の揺れを模擬体験するために!話者はこの時初めて、このレオという男は外見で判断できるような凡庸な人間ではないと直感するのである。(読者もここで"いい小説"の始まりを直感するでしょ)
そしてこの話者がレオの秘められた写真の才能を発掘する。 夜のパリを徒歩で徘徊し、閃きがあれば(連写ではなく一回のみのシャッターで)なにかを捉える(射止める)という瞬間芸術家で、「月光の下の街灯、緑の光線を反射する窓のある古ぼけた建物、誰も見たことがないアングルから捉えられたコンコルド広場」などを写し出す。話者はこのレオの夜のフォトハンティング徘徊に同行するようになり、そのユニークな芸術性を世間に認めさせたいと、ポートフォリオを作ってやり写真エージェンシーに売り込む。レオ本人は全くその気がないのだが、写真は評判が良く、雑誌・新聞の記事飾りとしてそこそこ稼げるようになる。写真素材を求めて世界を旅することもできるようになる。そういう芸術家としての転身を嫌い、貧しくても安定した生活を欲していた(目立たない)ガールフレンドのアンジェリックが身を引き、縁が途切れる。
その同じ時期に登場するのがガエルという派手な娘で、レオは電撃的な運命の女性との出会いを感じ、二人は衝撃的な恋に落ちて、レオは夢のような愛ある新生活に入る。悲劇はその幸福の頂点に起こる。その年台によくある話でレオに親知らずが生えてきて、その摘出手術を歯科医フィリップ・ギユーに託すのだが、その歯科医はガエル・ギユーの父親、つまりレオにとっての義父であった。名医と誉高いその歯科医にも、万に一度、百万に一度の原因不明の失敗があり、神経系をどう失敗して刺激したものか、レオの顔面の半分が血色を失ってマヒし、まぶたと頬はKO負けボクサーのように垂れ下がり、半面ゾンビーの態となった。そして二度と開かなくなった片目のまぶたのせいで、二度と写真を撮ることもできなくなってしまったのである。レオはこの悲劇を受け入れることができない。医学の力で復元することができないと知るや、その責任を問うて義父を相手取って訴訟を起こすが、敗訴してしまう。そして最愛の父を敵に回したとガエルは激昂し、二人は破局する。レオはこのすべての不条理(顔の半分が怪物になり、写真を失い、運命の女性に別れられる)が全く理解できないのである。
この小説の99%はここから始まる。リアルの世界の耐えがたい不条理を前に、答のない問いを自殺の手前まで繰り返したレオは、それでも答を探すのである。少なくともリアルの世界には答はないのだ。答のある世界とはどこにあるか?それが本稿の冒頭で書いたフィクションの世界であり、そこにはいつも連ドラの最終回のように結末と答があるのである。レオは引き籠り、テレビ受像機とパソコンモニターをむさぼるように見続け、フィクションの中に身を投じて、そこにあるであろう結末と答を探す。話者は行き場(生き場)を失ったこの友を自宅に引き入れ、かつて夜間のパリ徘徊の道連れだった時のように、レオの自暴自棄の末のテレビ・フィクション没頭につきあうのであるが、レオはそれにも耐えられなくなり、話者の家を出て行き、連絡を経ち、蒸発する。そして、人知れぬ町の建物の屋根裏部屋の壁を黒く塗り、外からの光を厚いカーテンで遮断してプライベート試写室にあつらえ、その中で昼も夜もなくありとあらゆるフィクション・ドラマを見続けるのである。
奇しくも2020年春、この小説が発売された頃、フランスにいる私たちは自宅での引き籠りを余儀なくされ、テレビ受像機やパソコンモニターを前に古い映画やテレビドラマを病人のように観ていたではないか。
フィクションの醍醐味はぎりぎりの瀬戸際まで追い詰められ、その危機のどん詰まりで活路を見出し大団円を迎えることである。超過激なフィクション・ドラマ・ウォッチャーとなったレオはそのドラマの奥深くまで入っていき、あたかもその現場に立ち会っているようなテレポートをしてしまう。ベナクィスタはこの小説の中で二十いくつものフィクション・ドラマを登場させ、テレビの連ドラよろしく小説の進行にそって同じフィクションの第○話を切れ切れに挿入させていく、という凝った編集をあえて行っている。その二十いくつものドラマのそれぞれがみな素晴らしいのだ。自称"conteur"の面目躍如である。
最初のエピソードは、ナチス将校の男爵の館で開かれた夜会に招待された若きイケメンのプレイボーイ医師(実は英国のスパイ)が、宴の間に機知のある話上手と男爵に気に入られて接近し、密かに毒を盛ることに成功したのだが、翌朝、毒が回って断末魔の苦しみにある男爵から助けを求められ、スパイである前に自分は医者であると、倫理的に葛藤してしまい、助けるか殺すか....。絶対続きを知りたくなるのがフィクションの典型のような導入。次にフィラデルフィアの貨物港の廃屋倉庫に集まってくる12人の男女による集会、これは一種の「アルコホーリクス・アノニマス(AA)」であるが、アルコール依存をやめたわけではない、そのやめられない悲劇を告白し合う自助グループ。その最初の告白者が絶世の美女にして酒と男がやめられないモーリーン、酔って一緒に一夜を明かす男のせいでありとあらゆる悲劇が巻き起こるのだが、それでもやめられない...。また絶対に何も起こりそうにない平々凡々な4組のカップルの間に(フィクションゆえに)避けられずに生じてしまう不倫の順列組み合わせの話や、ルネッサンス期イタリアを舞台にしたミケランジェロ、ダヴィンチ、ラファエロのライバル三角関係の話(これは本当にぜひドラマ化したほしいものだ!)など、レオは過激なTVドラマウォッチャーとなって、言わば"鏡の向こう側”の世界に深く侵入していく。過激ウォッチャーゆえに、いちいちそれに面白いだの、くだらないだの、こうならなきゃおかしいだの、深入りな批評も止まらなくなる。例えばストリーミングTVにたまたま出てきた溝口健二映画『雨月物語』(1953年)の映像をリモコンで途中で切ってしまって、レオはこう毒づく。
傑作だって?冗談じゃない。美的意図過剰、主知的傾向過剰、伝統過剰、深刻過剰、日本過剰、封建制過剰、封建的日本過剰、文化過剰、われわれ貧しき西洋人に理解不能な習俗過剰、敬意過剰、キモノ過剰、アリガトウ過剰、ナンデスカ過剰、映画過剰、芸術過剰、モノクロ過剰、もうどうにでもしてくれ!(p93)

この批評眼とシナリオへのケチのつけ方、いわばシナリオにト書きを入れるようなドラマへの参加/参入の態度がレオを”鏡の向こう側”の世界で活性化していく。この数ある挿入フィクション・ドラマの中でひときわ重要性を持って描かれる2つの物語がある。ひとつはアメリカ有数の世界的超大企業の社長という昼の顔を持った男が、その本社ビルの下の地上道路を徘徊する乞食というもうひとつの顔を持つ、ひとりの生身の人間による超リッチ/超プアーの入れ替わりの物語。この一種のジキル/ハイド物語のヴァリエーションは、超リッチがどんな極限まで超プアーに耐えられるかというマゾヒスティックな超克を求道するウルトラな苦行なのだが、結末は...。もうひとつは英国の流行作家の数々のヒット小説の末に人生の終わりに書くべき最後の作品は何か、という物語。その流行作家ハロルド・コーデル(言わばトニノ・ベナクィスタの化身)は厭世的で冷笑的な作風の大衆小説家で、そのヒットの影には伴侶であり原作第一読者であるアリスの助言進言が欠かせなかった。彼女がコーデルの作品の舵取りをしているようなものだった。その作品の通り厭世的で女癖も悪かったコーデルだが、アリスはずっとそれを支えてきた。しかしアリスは病に倒れ、病院でその最後の日々にありながら、懸命に見舞うコーデルに対して最後の助言を与える。あなたがこれまで一度とした書いたことがなかった恋愛小説を書くのよ。それは誰も書いたことのない小説になるはず。そうして息を引き取ったアリスであったが、コーデルはその遺志を叶えようとするにも関わらず全くうまくいかない。
この小説内のドラマの中の小説を書く、それに立ち会うのが過激なドラマウォッチャーのレオなのだ。ハロルド・コーデルはその自分が書けなかった究極の恋愛小説というのが、紆余曲折のあげく、やっとそれがハロルドとアリスの恋物語であったということに気づく。それを見ているレオがどんどんそれに「ト書き」を加えていくのだ。こうして鏡の向こう側の世界で、ヴァーチャルとリアルの二人三脚、つまりハロルドとレオの二人三脚によって、この小説題の言う"語り尽くされたすべての恋物語”を超える唯一無比の恋愛小説ができるという話なのだ。そしてこの究極のフィクションの完成によって、レオは救済され、再び話者の前に姿を現し、(これは私の読みで定かではないが)見えないところでずっとレオを支えてきた最初の恋人アンジェリックと和解する、という大団円が待っているのである。
氾濫するほどにヴァーチャルの世界に蔓延するフィクション・ドラマが、どうしようもなくそこに逃げ込むしかない絶望の人々に救済になりうる、というフィクションのパワーの再発見・再認識、これがこの壮大なフィクション小説のモラリテである。ストーリー・テラーは世界を救済できるかもしれない。そうでしょうとも。そして私たちがこの春実体験してしまった自宅引き籠りの危機にも、フィクションは大いなる救済であったことを思い起こそう。

Tonino Benacquista "Toutes les histoires d'amour ont été raconntées, sauf une"
Gallimard刊 2020年3月、215ページ、19ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)テレビ出演のごく稀なトニノ・ベナクィスタが5月24日France2トーク番組"On n'est pas couché"に出演した。ホストのローラン・ルーキエ(20年来のベナクィスタのファンと告白)と聞き手に作家フィリップ・ベッソンとジャーナリストのヴァレリー・トリエルヴェレール(前大統領フランソワ・オランドの元伴侶)。


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