2023年12月30日土曜日

ちびのフランチェーゼと呼ばれた天才彫刻家の愛と死とイタリア

Jean-Baptiste Andrea "Veiller sur elle"
ジャン=バティスト・アンドレア『彼女を見守る』


2023年ゴンクール賞


れは大衆小説(roman populaire)である。2013年のゴンクール賞作品ピエール・ルメートルの『天国でまた会おう』(576ページ)と同じほど長く、同じほど波乱万丈の絵巻物的大作であり、同じほどの大ベストセラーになること間違いなしのエンタメ小説である。毎回これだと困るが、ゴンクール賞がたま〜にこのような作品にも与えられることはいいことだと思う。コレージュやリセの子たちに読む喜びを広げる意味でも。
 作者ジャン=バティスト・アンドレア(当年52歳)は遅く文学に入った人で、これが4作目の小説だが、もともとは映画脚本家(および映画監督でもあった)であり、ストーリーテリングのプロであったから”新人”作家というわけではない。最初の映画監督作品が2003年の米仏合作ホラー映画"DEAD END"(日本上映題『 - LESS レス』)で、私は観ていないが、エンタメ畑の人というのは想像できよう。今回の小説は全編20世紀のイタリアが舞台であるが、アンドレア本人も母方がイタリア系で、昨今のインタビューではルーツとしてのイタリアをことさらに強調している。
 小説は1986年、北イタリアピエモンテ州の象徴となっている標高962メートルの絶壁に立つサクラ・ディ・サン・ミケーレ修道院の中で82歳で息を引き取ろんとするひとりの男の死の間際の回想から始まる。この男は40年間この修道院で暮らしているが、ここで寝食を共にして暮らす32人の男たちの中で、ただ一人修道僧でも修道請願者でもない。言わば世俗の人間だが、32人の”兄弟”のひとりとして農作業や院内の修繕作業の奉仕をして清貧に生きてきた。1946年までこの男は名のある彫刻家だったのだが...。
 その男は1904年フランスで生まれた。父親も母親もイタリア系なのに、そこで生まれたというだけどこの男は”フランチェーゼ”とあだ名されるが、彼は一生このあだ名を嫌った。(俺の国はイタリアだ)。彼が最も嫌悪するもう一つのあだ名が”チビ”だった。「こびと症」で成人しても身長は140センチにとどまった。父親は腕のいい石彫り師で、アトリエを構え教会の石像や墓石など彫ることを生業としていた。母親はこの子がお腹の中にいた時に、父親に似て優秀な石彫り師になることを直観し、その子にミケランジェロ(!)という名前を与えた。ミケランジェロ・ヴィタリアーニ、それがこの小説の主人公の名前である。幼い頃から父親に付いて彫石の修行をしていた彼は、この彫刻の神のような大仰な名前を嫌い、”ミモ(Mimo)"と短縮形の愛称で呼ばせていた。1914年に始まった第一次大戦に父親は"フランス兵士"として動員され戦死する。収入源を失い、養うことができないと、母親は12歳のミモをイタリアの叔父のもとに送り、彫石の見習い工として自活して暮らせ、と。
 国境を越えてやってきたのがピエモンテ地方ピエトラ・ダルバ(Pietra d'Alba)高地、そこに叔父ジオ・アルベルト(無能、粗暴、アル中)の彫石工房があり、ミモはきわめて冷遇された”奉公”を強いられるが、その彫刻の才能はめきめき伸びていく。このピエトラ・ダルバに君臨する北イタリア屈指の富豪(侯爵家)が中世ローマ時代から続くオルシーニ家で、豪奢な城館ヴィラ・オルシーニを構えている。貧しい石工見習い職人のミモは、この豪華絢爛城館を装飾するフレスコ彫刻や石像の修復の仕事を請負いこの城に出入りすることになる。そしてこの侯爵家の末っ子で唯一の女児であるヴィオラと運命の出会いを果たす。
 その時二人とも12歳。誕生日が同じ(実は数日違う)とミモが無邪気に偽ると、ヴィオラは「私たちは宇宙で繋がっている双子(jumeaux cosmiques)」と宣言する。運命で繋がれた二人は、ユートピア的な共同の夢創造の時もあれば、誤解、別離、和解、すれ違いを繰り返しながら1946年まで二人のストーリーを続けることになる。貴族雲上人と極貧の石工、出会うはずのない別世界の二人だったが。ヴィオラは幼くしてその中世から続く侯爵家のカビ臭さに反抗を抱き、新しい世と科学の進歩を信じ、すべてを禁じられてきた「女」である私がそれを切り開く者と自負している。侯爵家にはイタリアの知の宝庫と言える蔵書の詰まった書庫があり、父親侯爵からその出入りを禁止(女に”知”は必要ない)されながらも、少女ヴィオラはかたっぱしからその書物の数々を読み漁る。そのIQと記憶力は書の内容が一旦脳にインプットされたら一字一句失われることはない。科学、医学、哲学、美学... その”知”の断片をヴィオラはミモに分け与えていき、ミモに書庫から”一時拝借”した本を読ませ、とりわけ”美”の歴史を啓蒙していく。のちの彫刻家ミケランジェロ・ヴィタリアーニの美の感性はこうして育まれていく。
 貴公女ヴィオラと平民ミモは公に会うことなどかなわないが、密会の場所は深夜の墓地。この少女は墓石の上に横たわると死者の声と対話することができる。熊(オルシーニ家にまつわる伝説にも登場する”家獣”)に変身する(これはのちに真相が明かされて事実ではない)ことも熊と対話することもできる。そしてその並外れた知能は(500年前のレオナルド・ダ・ヴィンチの”ヘリコプター”の原理による)人力飛行を可能にする翼システムを開発しようと試みる。この飛行実験のためにプロジェクトリーダーのヴィオラの手足となって動く夢見る少年たちの一団(ミモ、石工見習い仲間のヴィットリオ、エマヌエーレ、エクトール)のパッセージが素晴らしい。ある種「魔改造の夜」にも似たエンジニア/実験班の涙の努力のストーリーなのだが、これだけでも古い(少年もの)イタリア映画の名場面を思わせる。
 日中はおじアルベルトのパワハラでボロボロの徒弟暮らしだったミモは、ヴィオラに美と知の指南を受け彫刻家として開花していくのだが、一方ヴィオラは歳を重ねるにつれて”女ゆえに”その可能性がどんどん閉ざされていき、侯爵家のために結婚を余儀なくされ...。そしてイタリアはムッソリーニとファシストが天下をおさめてしまう...。
 オルシーニ侯爵家は老いていろいろ障害が出てきた侯爵と矍鑠とした侯爵夫人が存命であるが、 長男は第一次大戦で将校として命を落とした。これが一家で最も信望の厚かった人物であり、惜しむ声は長く続いた。次男ステファーノは家業である果樹農園を継ぐ者だったが、もっぱら地方のライヴァル関係にあるガンバーレ家との勢力争いおよび自らの政治権力欲に心を注ぎ、ファシストに近い立場も取った。ステファーノはミモの小さな体躯を侮蔑して「ガリバー」というあだ名で呼ぶ。
 三男のフランチェスコは神学を学び聖職者となったが、ヴァチカンでパチェッリ枢機卿(のちの教皇ピオ12世、小説ではこのパチェッリが彫刻家ミモの天才をいち早く発見したローマ教会高位者ということになっている)と非常に近い関係にあり、ファシズムとの関係も曖昧なものであったが、家族の中で最もヴィオラに理解を示す者でもあった。教会権威を擁護する擬似人徳者のようでもあり、オルシーニの家名を守るために権謀術数をめぐらす策士でもある。不透明な人間だが、ミモとオルシーニ家を強力につなぎ合わせる重要人物である。
 ヴィオラが16歳の時、その祝いにミモは秘密で叔父アルベルトから勝手に拝借した極上の大理石で"熊"(オルシーニ家の”家獣”であり、ヴィオラの変身伝説のオリジンでもある)を彫り、それがパチェッリ枢機卿の目に留まりそのおかげで、ミモはオルシーニ家主催のヴィオラ誕生宴に列席を許される。だがそれは家族が政略で仕組んだヴィオラの婚約披露の宴でもあった。大人しくその主賓席におさまっていたかに見えたヴィオラは途中で姿を消し、宴のフィナーレの花火に紛れて、ヴィラ・オルシーニ城館の最上の屋根から、あの人力飛行の翼をつけて飛び立ち、数秒もせずに地上に墜落する(幸い樹木の枝が緩衝となって命は取り留める)。
 そのヴィオラの生死の安否も知らぬうちに、ミモは叔父アルベルトの怒り(大理石を盗まれたことと枢機卿に才能を認められたことへの嫉妬)の仕打ちでフィレンツェの工房に身売りされる。このフィレンツェでミモは地獄(労働)と退廃(アルコール)を知ることになるのだが、そのフィレンツェの美にも心から魅せられるのだった。彫刻の聖人ミケランジェロゆかりの地でもあるし。

 小説はそのミケランジェロのピエタ像を最重要のリファレンスとしている。ピエタ(磔刑に処されたイエスを抱く聖母マリア)の彫像をミケランジェロは4体作ったとされ、そのひとつはフィレンツェのドゥォーモにある。しかし美術史上で彫刻の最高傑作のひとつとされるピエタはバティカンのサン・ピエトロ大聖堂にある通称「サン・ピエトロのピエタ」(写真→)である。このピエタにまつわる現実に起きた事件として、1972年、ハンガリー生れのオーストラリア人ラスロ・トートが「私は死界から蘇ったイエス・キリストである」と叫びながらハンマーでピエタ像を損壊させた、というものがある(精神異常者による凶行と見做された)。しかしジャン=バティスト・アンドレアの小説は異説を唱え、ラスロ・トートが破壊しようとしていたのは、別のピエタだった、というのである。そのピエタとは....ミケランジェロ・ブオナローティ(1475 - 1564)ではなく、ミケランジェロ・ヴィタリアーニ(1904 - 1986、すなわちミモ)が1946年に彫ったピエタである、と。
 ヴィタリアーニ作のピエタは一般人からは忘れ去られたが、美術史研究者の間ではさまざまな伝説が立ち、今なお謎に包まれた部分が多い。完成されたヴィタリアーニのピエタ像はかのミケランジェロの傑作に匹敵するとの噂が立ち、フィレンツェで縁のあったヴィンチェンゾ神父の教区の教会に設置されたが、すでに高名な彫刻家となっていたヴィタリアーニの大作を一目見ようと集まってきた人々がそれを見るや発熱、頭痛、目眩などの異常反応を次々に起こし、それがまた噂となり多くの見物者を呼ぶことになる。しかし教会への抗議も殺到し、ヴァチカン教皇庁も本格的な調査をはじめ、教皇庁の高位の祓魔師(エクソシスト)まで派遣するが、原因はわからない。あげくの果てヴァチカンはこのピエタ像の公開を禁止し、かのサクラ・ディ・サン・ミケーレ修道院(すなわちこの小説冒頭の場所)の地下倉に光の当たらない状態で保管することにしたのである。
 ミモ・ヴィタリアーニはこの時からすべてを捨ててこの修道院で残りの人生を過ごすことにした。ここで、この小説のタイトルであるが、"Veiller sur elle" ー「彼女を見守る」と直訳したが、veiller は見守る、見張る、監視する、(寝ずの)番をする、といった意味。elle は三人称女性代名詞で「彼女」(人間としての彼女ということであればそれはすなわちヴィオラということになる)としてもいいのであるが、このコンテクストに近いのは la statue(像という意味の女性名詞)の代名詞としてのelle、すなわちピエタ像を意味すると考えるのが自然である。つまり、"Veiller sur elle"とは自ら作ったピエタ像の番人となってこの修道院で一生を終える、ということになる。おわかりかな、お立ち会い?

 さて話は前後するが(この小説の構成も時間軸はかなり前後する)、空から墜ちたヴィオラは相手方から狂女と見做され婚約を破棄される。肉体的拷問療法で”精神の病”が治ると信じられていた時代だった。ヴィオラも宗教施設や隔離療養所に送り込まれる危険をなんとか免れていたが、オルシーニ家は彼女に”普通の女の道”を強要する。強いられた結婚相手リナルドはミラノの弁護士で急伸長中の映画産業で財を成していく、言わば都会の新時代の人間であったが、口は立つが知能知識でヴィオラに勝てないと知るや妻に暴力を振るい、外部では女たらしの男だった。オルシーニ家の権威と繁栄を第一に考える家族はそういうリナルドに寛容であったが、ある日この婿殿が度を過ぎた失態をおかす。浮気相手に暴力を振るい負傷させてしまった。家名が傷つくことを避けるために、聖職者にして策士の三男坊フランチェスコはミモを呼びつけ、事件の夜リナルドはミモと一緒にいたという偽アリバイ供述を強要する。これによってミモはオルシーニ家の家族の一員に匹敵する地位を得ることになる。
 ミモはその時もはや平民石工ではない。バティカンのパチェッリ枢機卿のお墨付きもあり、その彫刻の才能は広くイタリア中に知られるところとなり、殺到する注文を断ることによってその値段は吊り上がり、ローマとピエトラ・ダルバに工房を持って数人の助手を従え、運転手付き高級自動車で全国を移動する”大先生”なのだ。オルシーニ家はその駆け出し期からのミモのメセーヌ(メセナ、パトロン、保護者)という立場である。
 このミモの成功は、かの狂気の墜落事故以来ヴィラに囚われの身となって、結婚しても在宅夫人でいるしかないヴィオラとの関係を複雑なものにする。少年少女の日々、自由で創造力に溢れていたヴィオラに憧れ、その自由と創造を共にすることで芸術家に羽ばたいていくことができたミモは、囚われのヴィオラをどうすることもできない。ファシストに近づくことに頓着しないミモをヴィオラは非難する。しかし今やオルシーニ家の家族に等しい地位を与えられたミモは、オルシーニ家風の(上級階級)処世術に流されていく....。売れっ子彫刻家への注文はバティカンだけでなく、ムッソリーニその人からも来てしまう(注文は断れないが、結局彫刻は作っていない)。勢いは止まらず、ファシスト政権からの後押しで、ミケランジェロ・ヴィタリオーニは、40歳の若さでイタリア芸術アカデミーの会員という最高の栄誉を得ることになる。ところが、若い頃からヴィオラに啓蒙されてきたミモの批判精神はここで爆発し、アカデミー新会員就任セレモニーのスピーチの最後に、政府要人を含むギャラリーの前で、授与された会員章金メダルを「あんたのケツの穴に詰め込んでやる」と叫び、「殺人者たちの政府のために働くなんて金輪際ごめんだ!」と結び、即座に逮捕投獄された。
 ヴィオラ以外、オルシーニ家はこのミモの反ファシスト反逆劇については寝耳に水であり、ミモのメセナ(パトロン)として(半ファシストだった)ステファーノも投獄されることになるが、結果的にこれはファシスト政権崩壊後にステファーノが解放されピエトラ・ダルバに帰ってきた時に、なんと「反ファシスト運動の英雄」として町民たちが歓呼で迎えることになるのである。笑っちゃいますね。

 小説終盤のラストスパートはすごい。ほぼ花火大会の最後の尺玉連続乱れ打ち状態である。ページ数にして530ページ以降。ミラノ駅前広場でムッソリーニが公開処刑に処され、第二次大戦が終わり、イタリアは新しい民主主義の時代を迎えようとしていた。普通選挙が行われる。しかも婦人参政権と被選挙権も認められた上で。それまであまりにも長い間ヴィラ・オルシーニ城館の囚われびとだったヴィオラは、新しい時代に乗じて自ら開花する時が来たと悟った。博識にして科学的分析に長け、先見の明もあるこの行動的知識人は、新しい時代の女性の旗手として、政界に乗り出す決意をした。悪夫リナルドとの離縁にようやく成功し(兄聖職者フランチェスコの方便によると、離婚を認めないローマカトリックにあっても、「結婚取り消し」というやり方はあるのだそうだ!)、リナルドと同じほどマッチョで卑劣な兄たちにもめげず、強権政治崩壊後の混沌としたイタリアという荒海に船出するのである。政治に興味がないと言いながらもミモはこのヴィオラの新しい冒険を全面的にバックアップし、選挙区内の村々/町々をミモの車で巡回し個別訪問でヴィオラの政策を説いてまわる。ヴィオラの言葉には説得力があり、最初戸口であからさまに拒絶的態度をとっていた村民も、数十分後にはもっと話を聞きたいと引き留めにかかるほどだった。なぜヴィオラの言葉には人を引きつけるものがあるのか。それをヴィオラはミモに”風の名前”の例をとって説明する。
「この地方には5種類の風が吹いているの。トラモンタン、シロッコ、リベッチオ、ポナン、ミストラル。私は”風が吹く”と言うときに間違いばかりしていたのよ」とヴィオラは私の肩をひと突きして激しい口調で言った。
「ねえミモ、それぞれの言葉には意味があるのよ。言葉で名付けること、それは理解することよ。”風が吹いている”というのは何も意味しないの。それは生き物を死なせる風なの?種を撒く風なの?苗木を凍らせてしまう風なの?それとも温める風? 私の言葉に何の意味もなければ、私はどんなたぐいの議員になれるの? 他の議員たちと何も変わらないわ。」
(p531-532)

そしてこの選挙区には対立候補がいた。何世紀にもわたってオルシーニ家と対立関係にあるガンバーレ家の息子オラーシオである。土地の権力者であるから、悠々当選するとたかを括っていたが、ヴィオラは草の根作戦でその支持をどんどん獲得していき、オラーシオは劣勢に回った。両候補の最大の争点は建設予定の高速道路であり、高速道路こそ進歩であり繁栄をもたらす未来であると主張するオラーシオに対して、地方を分断し弊害ばかり撒き散らし地場産業を衰退させると建設に反対するヴィオラ(未来のエコロジストの先駆のようだ)。ところが政治の”闇”は真っ黒な策謀でヴィオラに立ちはだかる。高速道路利権に絡む大きな勢力からガンバーレ家に圧力がかかり、優勢なヴィオラの立候補を辞退させ、なんとしてでも建設賛成派オラーシオを当選させよ、と。ガンバーレ家は何世紀も続いてきたオルシーニ家との抗争を終わらせ和解し(長年水不足に悩むオルシーニ家の果樹園への水源水路を無償で譲渡する→作物生産量が6割増える!)、その見返りにヴィオラの立候補を取り下げよ、と。この提案を呑まぬ場合は、かの闇勢力は候補者の暗殺も辞さぬ、と。ステファーノとフランチェスコはオルシーニ家に利益しかもたらさないこの提案を快諾したいのだが、ヴィオラは全くその気がない。そこでフランチェスコはミモにヴィオラを説得するよう依頼する....。
 少年少女の時からミモにとって知能と感性の”師”だったヴィオラ、彼女によってその美学を開眼されたミモ、一緒に冒険をし、そのヴィオラの過度の無鉄砲を”理性”で引き留めたミモ、誤解と裏切りと和解を繰り返し、出会うはずのなかった侯爵跡取り娘と石工の息子はその30年間の夢のような関係を今、精算する。世に知れた天才彫刻家になってしまったミモ、新しいイタリアの創生に(”女ゆえに”できなかったことすべてのことを乗り越えて)その全知全能を開花させようとしているヴィオラ。”理性”の声としてミモはそれを(ヴィオラの命に関わることゆえ)止めようとし、ヴィオラはそれを拒絶する。最初からわかっていたこと。556ページから560ページまで、二人の最後の会話はこの小説で最もエモーショナルなパッセージである。
 Adieu, Viola.
  So long, Francese.
「私に何かあった時にだけ、封を開けて読んで」と手渡された手紙。その約束をミモは破る。今生の別れと知って"Adieu"を告げ、ピエトラ・ダルバのヴィラ・オルシーニ城館を出て行ったミモは、どこでもいいから遠いところへと運転手に命じ、車(FIAT2800)は北に向かってひた走る。その車の中で、何度も手紙に手を触れては押し留めていたが、根負けしてミモは手紙を開く:
私の大切なミモ、約束したにもかかわらずあなたが長い時間辛抱できずにこの手紙を読むだろうということは知っていたわ。私はただそれを知っていたということを言いたかったの。あなたが私を欺くとき、あのときフィレンツェでアメリカ行きを中止させ、今夜私の部屋で出馬を辞退せよと頼み、そして今こうして手紙を開いて読み、あなたが私を欺くときはいつも愛情でそうしたのだということをわかっている。あなたを決して恨んだことなどない。あなたの大切な友、ヴィオラ(p561)
これを読んでミモはFIAT2800の後部座席でたかだかと哄笑するのだった。ここがこの小説を読み解くための最重要の鍵。ヴィオラはミモが三度ヴィオラを欺くことを知っていてそれを許した。おわかりかな?イエス・キリストは使徒ペテロが三度欺く(否定する)ことを知っていた(!!!)  ー 小説のディメンションはここで大きく変わってしまうのですよ。

 北へ進む車に激しい雨嵐が吹き付け、ポンティンヴレーアの峠のあたりで旅籠屋の灯を見つけ避難し、ミモと運転手はビールで疲れを癒し、そのまま深夜になり、一晩泊まることにする。時計は真夜中を過ぎ、1946年6月1日、旅籠屋の部屋でいくつもの悪夢のあと寝静まったミモは突然ベッドから投げ出され、顔を床に叩きつけられ目がさめる。真っ暗で空気が押し詰められたように厚い。窓を開けて外気を入れなければと窓を探すが、窓がないばかりではなく壁もなく屋根もない。周りには漆黒の厚い闇が広がっていた...。
 1946年6月1日、午前3時42分、北イタリア、ピエトラ・ダルバ地方一帯に「メルカリ震度階級」の度数11の極度大地震が発生する。世界有数の地震国イタリアの火山学者ジュゼッペ・メルカリの考案した震度階級は12段階あり、その最強度12に次ぐ震度11は「頑丈な建造物が全壊し、橋が崩落する」と説明されている。小説原文のフランス語では最高震度12を"Cataclysmique(カタクリスミック = 天変地異的)"と形容表現していて、それに次ぐ震度11は"Catastrophique(カタストロフィック=破局的)となっている。おわかりかな?1946年6月1日ピエトラ・ダルバ大震災は、劇的/文学的にもこの小説の大カタストロフなのですよ、お立ち会い。
 ミモはその朝運転手にピエトラ・ダルバに全速力で引き返すことを命ずるが、道はズタズタに遮断され、FIAT2800はピエトラ・ダルバの10キロ手前で前に進めず、ミモは徒歩で川の浅瀬に沿って進まなければならなかった。壊滅したピエトラ・ダルバの町に着いたのは日没どきで何もできず、救助隊が到着して倒壊したヴィラ・オルシーニ城館の最上階部分からヴィオラの遺体を発見したのは、翌日の昼前のことだった。
 ヴィオラの遺体はほぼ裸の状態だった。少女の頃から痩せた長身で胸はなく、骨格が浮き出てかの空からの墜落事故で傷ついた痕跡(縫合痕)もいくつか残っていた。「前髪がその眠る顔にかかっていたのを私は指で払ってやった。壊れてしまった私のヴィオラ(Ma Viola cassée)」(p569)。この壊れてしまったヴィオラの姿のすべてを脳裏に刻んで....。

 小説原文はこんなに順序立てて書かれてはいないので。だがこのカタストロフの後にやってくるのは、彫刻家ミケランジェロ・ヴィタリアーニ最後の大作である世に言われる「ピエタ・オルシーニ」の制作だった。ムッソリーニ直々の注文だった彫刻「新人間」像のために取っておいた極上の大理石を隠匿しておいたフィレンツェの工房に戻り、その石でミモは1年間休みなしでピエタ像を彫り続けた。磔刑に処されたイエス・キリストを抱き抱える聖母マリア。われわれはこのピエタというテーマでは、聖母マリアばかりを見てしまうのだよ。聖母マリアの悲しみを想うばかりなのだよ。ところがミモはそうは彫らなかった。ヴィオラを失ったミモの悲しみは聖母マリアの姿に表現されるのではないか、とも想像するムキもあるかもしれない。ところがミモはそうは彫らなかった。磔刑に処されて死せるイエス・キリストの姿、それがヴィオラの姿だったのだ。

 完成し、公の場で公開されたミケランジェロ・ヴィタリアーニのピエタ像を見た人々に起こった説明不可能の発熱、不快感、嘔吐感...。人々はヴィオラのストーリーなど知る由もない。ましてやイエス・キリストのモデルとなったことなど...。(↑)上述の自称イエス・キリストの生まれ変わりラスロ・トートは、その強い霊感ゆえにこのピエタ像が冒涜として許せなかったのだろうが、標的を間違えミケランジェロ・ブオナローティのピエタ像を破壊したというのがこの小説の仮定。たとえそのイエスが女だったと知らずとも、その彫刻が発する不可視のヴァイブレーションはある種の人間たちの感受性に変調をもたらすものだったかもしれない。この小説とは直接の関係はないが、私は「キリスト女性説」にはやや心惹かれるところがある。

 600ページの名調子大河小説は、おおいなる芸術賛美、女性賛美、イタリア賛美の巨編である。芸術と女性とイタリアを称えること、これを500年前の人々はルネッサンスと呼んだのだ。大風呂敷ながら、そういうことを納得させられる濃い読み物であり、作家の出自を引き合いに出さずとも、必ずや映画化され、その映像でも多くのファンをつかむであろうことは容易に想像できる。エンターテインメントものがゴンクール賞を取ったと言っても、このように知的刺激にあふれるものであれば文句はない。とくに若い人たちに読んでほしい。

Jean-Baptiste Andrea "Veiller sur elle"
L'Iconoclaste刊 2023年8月 590ページ 22.50ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)出版社イコノクラスト制作の著者自身による"Veiller sur elle"紹介動画

2023年12月10日日曜日

Do they know it's Christmas time at all ?

"Bâtiment 5"
『5号棟』

2023年フランス映画
監督:ラジ・リ
主演:アンタ・ジャウ、アレクシ・マネンティ、アリストット・リュインデュラ
フランス公開:2023年12月6日

ンヌ映画祭審査員賞+セザール賞最優秀映画賞(+3部門)+観客200万人の映画『レ・ミゼラブル』(2019年)の4年後、ラジ・リ監督の2作めの長編映画。4年前爺ブログは『レ・ミゼラブル』の絶賛評の最後に「一言だけ苦言を言えば、女性たちの出る幕がほとんどない映画。郊外で女性たちが出る幕がないということはありえないはず。」と書いた。それに応えてくれたのか、ラジ・リ新作の主人公は女性である。これが素晴らしい女性ではあるのだが...。
 舞台は町名は出てこないがパリ郊外93(セーヌ・サン=ドニ)県のとある町である。シテと呼ばれる林立する高層社会住宅の地区があり、一方で瀟洒な一戸建て住宅の立ち並ぶ地区もある。映画は老朽化した高層社会住宅のひとつを爆薬によって倒壊させるセレモニーから始まる。数百人の元住民たちの数十年の歴史の舞台となった建物の最後は、町のお偉方たちがお立ち台に並び、見物聴衆たちのカウントダウンの声が「ゼロ!」になるや爆破スイッチが押され、大歓声と大轟音のうちに...。ところが、爆破工事請負会社の計算違いか、爆破の破壊力は予想をはるかに超える大きさで、爆風がセレモニー場所まで吹き荒れ、市長を直撃し、そのショックで市長は死んでしまう。
 "栄光の30年(Trente Glorieuse)"と呼ばれた第二次大戦後の高度成長期に外国や海外県から迎え入れた夥しい数の労働者たちを住まわせるための低家賃(高層)社会住宅は、大都市近郊周辺からそのドーナツ円周を拡大させ、遠距離に広がっていった。老朽化すれば壊し、新しい建物と地区が同じ場所にできるが、家賃は上がり、元住民はそれより安い遠い周辺に追いやられる。大都市とその周辺の都市計画はこのように低所得者を周辺にさらに周辺にと追いやるかたちで進行してきた。それには当然建設会社や不動産会社の利権が絡み、地方政治的には所得の安定した住民を増やし貧乏人を駆逐することで税収や治安の安定をはかるという意図もある。成長期が終わり、大失業時代がやってきて、貧富の差はいよいよ拡大していくが、この都市計画は止まらない。老朽化した社会住宅は、破壊→建て替え→新地区への移行を早期に実行したいため、公団による修理修繕も手薄になりただ腐敗するのを待っている。そういう郊外の高層住宅が貧困者のゲットーとなったり、地下経済/並行経済および麻薬や銃器売買のアジトとなったり、十全主義的宗教セクト思想の温床となったり、といったネガティヴなイメージで塗り固められていく。前作『レ・ミゼラブル』と同様、この映画もそういう現場を背景にした作品である。
 死んだ市長は、腐敗した高層社会住宅をひとつひとつ爆破して、そのあとに小綺麗なニュータウンを、という都市計画の推進者であり、所属する中央の党(名指されていないが保守系)もゼネコン/不動産筋からの黒い金の恩恵があるので、是が非でもこの路線は続けてもらわなければ困る(これを市幹部に厳命するのが、同党の地方選出国会議員役のジャンヌ・バリバール)。次回選挙までの(市執行部によって選出され)代理市長となったのが、死んだ市長の補佐役のひとりで町の開業小児科医であるピエール・フォルジュ(演アレクシ・マネンティ、前作『レ・ミゼラブル』に続いての怪演)。あからさまな政治的野心があり、これを足掛かりに中央政界さらにその上までを視野に入れている。かなり戯画的なポリティック・アニマル。この男が登場したとたん、映画全体がいっぺんに政治劇になってしまう。
 仮市長フォルジェは権力を掌握するや、町の諸悪の温床はすべてかの老朽化した低家賃公団高層住宅地区にあり、それをできるだけ近い将来に解体し住民たちを放逐するべく工作を始める。シテの駐車ゾーンでの”闇”自動車修理・解体業を禁止し、重機で強制的に撤去する。未成年の夜間外出や未成年だけで集合することを禁止する条例を発令する....。
 北アフリカやアフリカなどからの”難民”は受け入れないが、シリアからの”キリスト教徒”難民は市が手厚く保護する。「選択的難民受入」という批判をものともせず、市長はこれを模範的難民政策として世論にアピールしようとする。父と二人この町に受け入れられた若いシリア難民女性タニア(演ジュディ・アル・ラシ)は市役所の文書管理課に研修生として働き始めるが、その上でその課に働いているのがハビー・ケイタ(演アンタ・ジャウ)で、彼女はシテ地区の”民生委員”的な役割を担っていて、さまざまな相談ごとを受け、その解決のために公的機関と折衝・談判もする行動的ボランティア。ハビーはこのシテの5号棟で生まれ育ち、今もその住民たちと密な関係で生活しているので、市当局の超手抜きのシテ建物管理(エレベーターが長年修理されていない等)には執拗に抗議し改善を求めるが、市が進めている(シテ解体後を想定した)新都市計画には真っ向から反対する。
 オプティミスティックでその”政治”による解決はあると信じるハビーがいる一方で、その恋人のブラーズ(演アリストット・リュインデュラ)は政治では何も変わらない、ましてや暴動でも何も変わらなかった(これは『レ・ミゼラブル』の大きな主題だった)というペシミスティックな考え方の持ち主である。 シテの現実にどちらが近いかと言えば、私はブラーズの側だと断言できる。それはそれ。ブラーズはそれでもハビーの行動を支援し、ハビーの相談に乗っている。
 映画の中で最もイケすかない役割を演じているのが、死んだ前市長の時から市長補佐をしているロジェ(演スティーヴ・チェンチュー。ちょっと柔道のテディー・リネールを想わせる巨漢カリビアン黒人)で、保守市長側がこういう肌の色の人間を要職に置いておけば”その種の”住民たちの信用を得られるだろうという意図が見え見えで、ロジェ本人も保守勢力から甘い汁を吸わせてもらっているという立場。これがシテ住民たちの意見を聞くフリだけはするが。ハビーの行動には敵対していく。
 仮市長フォルジェの(警察機動隊・CRSを使っての)シテ住民たちへの圧力は露骨さを増していき、ハビーは住民たちとデモを組織し、フォルジェに対して市長選挙の実施の義務をつきつけ、ハビーは市長選に出馬する。こうしてフォルジェ対ハビーの一騎打ち選挙戦が始まるのだが、フォルジェはあらゆる手を使ってハビーを妨害する....。

 いいですか、お立ち会い、こんなふうにこの映画ははっきりした「善」対「悪」の政治闘争、いわば古典的階級闘争になってしまうのですよ。これが悪いとは言わないけれど、一挙に『レ・ミゼラブル』の複合的な深みが失われてしまうのですよ。

 シテの中の多彩な民族色あふれる共同体的つながりは、建物の中に調和的な溜まり場をつくり、人々が集まり、共に語り、時には歌ったり踊ったり、そして飲み、一緒に同じものを食べたりする。大鍋を使った大人数料理を作ったりする。彼らには欠かせない生活の営みである。外食するような金などないのだから。みんな助け合っているのだから。これがこの映画の罠になるのである。老朽化したシテ内のアパルトマンの台所での大人数用の火を使った大鍋料理... ここから火災が発生してしまった...。瞬く間に煙が回ってしまう老朽高層住宅、逃げ惑う住民たち...。
 消防のおかげで延焼は免れたが、建物が被ったダメージは甚大である。消火後火災現場を視察する市長フォルジェと消防と市の幹部。フォルジェは検証の結果として、(千載一遇のチャンスと勝ち誇ったように)、消火ダメージによって建物の危険状態が著しく、住民全員の避難(仮住まい転居)が必要と退去命令を発する。長年望んでいたことがこんなに簡単にやってきたではないか、とフォルジェは補佐のロジェに言う。ロジェは驚き「クリスマスの日に住民を追い出すのか?」と異を唱えようとするが、結局権力=フォルジェに従うはめになってします。
 映画の一番の見せ場は、この警察機動隊・CRSの大部隊が出動して、着の身着のままの住民たちを建物から追い出すシーンであるが、住民たちはできる限りの抵抗として家財道具を持てるだけ持ち出し、高層住宅の窓から吊るして下ろしたり、投げ下ろしたり...。これがクリスマスの日に起こったのだ。冷笑的にあんたたちの宗教とは無関係だろうと言うムキもあろうが、子供たちにとってはどんな子供たちでもクリスマスはクリスマスなのだ。ハビーの怒りと悲しみは...。そしてすべてを失ってしまった住民たちは...。
 
 町の反対側の瀟酒な高級住宅街のクリスマス電飾できらめく一角にある市長フォルジェの屋敷では、シリア難民のタニアとその父親をゲストに招いて、市長夫人がホロホロドリを焼き、クリスマス装いの子供二人とともに、ピエール・フォルジェの帰宅を待っている。そこに現れたのが、シテを警察権力によって追い出され無一物になったブラーズ、その煮えたぎる怒りを抑えることができなくなった彼は鉄バールを振り上げ、クリスマス装飾の市長宅サロンを手当たり次第に破壊していく。そこへ帰ってきたフォルジェもその暴力にひるんでしまい、悲鳴を上げ、小心者の正体が露呈してしまう。ブラーズはクリスマス料理の並ぶ大テーブルに石油をばらまき、火を点けてこの家を焼き払おうとするが....。

 映画の結末はこのような「闘争の敗北」を描こうとしているのではないので、最後のところまでは語らないでおくが、最後にかけつけたハビーにはこれでいいのか、これでいいのか、という問いが私には残る。この映画は未完である、と言うより「未完成品」である。山場まで来てシナリオが書けなくなった映画のようにしか見えない。
 この映画には続編が必要だ。「善」と「悪」の問題にしないでほしい。ハビーのやるべきことのヴィジョンも示されていない。クリスマスを台無しにされたのは、この映画を観た人々も同じであろうが、違う答えが来ることを私はまだ願っている。続編を待っていよう。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『5号棟』予告編


(↓)記事タイトルに借用したので。Band Aid(1984年)私これ大好きでしてん。

2023年12月2日土曜日

ミンナニデクノボートヨバレ

"Perfect Days"
『パーフェクト・デイズ』


2023年日本ドイツ合作映画
監督:ヴィム・ヴェンダース
主演:役所広司(2023年カンヌ映画祭男優賞)
フランス公開:2023年11月29日


まもなく(これを書いている時点から3週間後)日本公開になるし、すでに話題の”日本映画”であるし、おまけに日本語版ウィキペディアが大幅なネタバレを含むかなり詳細な情報を公開しているので、爺ブログが出る幕はないとは思う。のではあるが。
 1985年、ヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー映画『東京画(Tokyo-Ga)』を私はリアルタイムにパリで観ていた。パリの映画館でフランス人に囲まれて観ると、それは不思議の国「日本」の絵であった。ヴェンダースの最も敬愛する映画人であろう小津安二郎の1953年の映画『東京物語』をイントロとアウトロに導入するこのドキュメンタリーは、『東京物語』の30年後たる1980年代の東京に、いったい小津的情緒や小津的心象風景はまだ見い出せるのか、という問いから発している。答えはヴェンダースのカメラアイはその東京のあちらこちらにそれを見てしまうというものだった。ヴェンダースの知らなかったパチンコや食堂の料理見本(ロウ細工)や竹の子族にもカメラアイはそれを見てしまうのだった。この詩的にもメランコリックな東京は、私はおそらくヴェンダースを通して初めて知ったのかもしれない。
 この『パーフェクト・デイズ』はそれから40年後なのである。小津の『東京物語』その他で笠智衆が演じた「ヒラヤマ」という名の男をヴェンダースは彼なりに創ってみようとしたのだろう。口数が少なく、そこはかとない哀感を帯びた笑顔の初老の男、このヒラヤマ(演役所広司)は浅草界隈に近い木造2階建(風呂なし)ボロアパートに住むひとり身の底辺労働者で、その職業は東京の公衆便所巡回清掃員である。映画にはさまざまな意匠とデザインのハイテクな公衆便所が登場し、『東京画』の時のような不思議の国「日本」のような図に欧米人には見えるかもしれない。まさにこれは『東京画』の中の料理見本ロウ細工と同じようなもので、見た目の奇異さはあれど映画の重要なファクターではない。アメリー・ノトンブが東京の一流商社でパワハラを受け便所掃除を命じられた屈辱のようなドラマティックな要素もない。この映画で便所清掃は淡々としたひとつの労働であり、それ自体はドラマではないが、底辺労働として見られる衆目の価値観は避けられない。
 ラヤマの生活リズムはきわめて規則正しい。夜明け前、近所の老婦人の玄関先を掃く竹ぼうきの音で目が覚め、茶碗栽培の苗木に霧吹きをかけ、歯を磨き、シェーバーで顎髭を剃り、口髭を丁寧にハサミで揃え(旧時代のダンディズムを想わせる)、"THE TOKYO TOILET"(これがこの映画のタイアップ企業か)と背に書かれたつなぎの作業衣に身を包み、自販機で缶コーヒー(これが朝食代わり)を買い、便所清掃の七つ道具を積み込んだライトバンに乗って仕事の便所巡回清掃に出かける。
 この一日の始まりで重要な瞬間はヒラヤマが玄関ドアを開け、外に一歩出る時に、必ず上を向いて朝の空を見やり、満足げな微笑みを浮かべることである。この生活パターンのシーンは映画中何度もループマシーンのように繰り返されるのだが、この朝の空に微笑みのところは何度見てもいい。毎朝来るのに初めての朝のような。Morning has broken like the first morning. そんな歌のような朝だが、この歌は挿入歌として登場しない。しかし、この映画は数々の挿入歌がおおいにものを言う効果がある。その音楽のほとんどがヒラヤマの業務用ライトバンのカーステから聞こえてくるのだが、すべてヒラヤマの個人コレクションのカセットが音源なのだ。挿入曲リストを挙げておこう。
"The House of the Rising Sun" - The Animals (1964)
"Redondo Beach" - Patti Smith (1975)
"Walkin' Thru The Sleepy City" - The Rolling Stones (1964)
"Perfect Day" - Lou Reed (1972)
"Pale Blue Eyes" - The Velvet Underground (1969)
"(Sittin' On) The Dock of the Bay" - Otis Redding (1968)
"青い魚" - 金延幸子(1972)
"Sunny Afternoon" - The Kinks (1966)
"Brown Eyed Girl" - Van Morrison (1967)
"Feeling Good" - Nina Simone (1965)
シクスティーズ/セヴンティーズの渋みオーガニックポップロック精選のような曲並びであるが、映画で「カセット音質」が再現できているかどうかは、まあいいとしよう。要はルー・リードとヴェルヴェットなのだと思う。ヒラヤマはルー・リード好きの静かで木訥なる男という設定、これを役所広司が体現できているか、という問題。

 そしてヒラヤマは読書家である。そのボロアパートの2階のせまい寝室(たぶん六畳、煎餅布団+掛け布団+枕)には、ヴィンテージなラジカセ機と棚にきれいに並べられたカセットのコレクションのほかに、文庫本の蔵書がある。すべて古本屋の「100円均一文庫本コーナー」で調達されている。映画に登場するだけでも、ウィリアム・フォークナー、幸田文、パトリシア・ハイスミスというラインナップ。広いレンジの文学を心の糧にしているのだろうが、読むのには時間がかかる。きつい肉体労働のあとの床の中で、眠りに落ちるまでに読めるのは数ページ。そのあとにモノクロのアブストラクトな夢が映像として登場する。
 渋め音楽好き、渋め読書好きの底辺肉体労働者、その掃除仕事の几帳面さは映像で強調されている。昼は木々に囲まれた神社境内のベンチで(たぶんコンビニ製の)三角サンドとパック牛乳で済ます。その昼休みの神社境内で、毎日ヒラヤマは(たぶん彼が愛してやまない)大樹が空覆う枝と緑の葉の姿を、下から時代物のインスタントオートフォーカスカメラ(要写真フィルム)で撮影する。この撮影したフイルムをヒラヤマは(今もこの世に現存する)町の写真現像屋に行って現像紙焼きしてもらい、良い写真とダメなものを区分けして、アルミの菓子箱に整理して長年の写真記録として押し入れに仕舞ってある。これが茶碗盆栽栽培と共に、ヒラヤマの偏執的オタクのような側面をよく象徴している。
 そして夕食は浅草地下街の大衆一膳飯屋で焼酎をひっかけながら。そのあと銭湯で汗を流して帰宅、読書、就眠。

 映画はこの朝起きてから就眠するまでのサイクルを数度繰り返していくうちに進行していく。昨日のコピーのような今日。しかしそのルーチンの合間にさまざまなことが起こっている。便所清掃の日常でもさまざまな人々が見えている。清掃仕事の同僚の若造(演柄本時生)の恋の最後のチャンスに立ち会ったり、その相手の女(演アオイヤマダ)にカセットで聞かせたパティ・スミスの曲で思わぬエモーションを引き出したり、ヒラヤマをあてにして家出してきた姪(妹の娘)ニコ(なんちゅう名前だ、と思われようがヴェルヴェット・アンダーグラウンドに由来する。演中野有紗 )に穏やかな人生のあり方をそれとなく感化したり、石川さゆり演じるママがいる場末の飲み屋で石川さゆり演じるママが石川さゆりの声で「朝日の当たる家」を歌うのを聴いたり、そのママの元夫(演三浦友和)でガンで余命いくばくもなしと宣告された男と夜の隅田川岸辺で二人で影踏み遊びに興じたり...。こういう日常の中での短編スケッチをオムニバス的につなげた映画。静かで木訥とした佇まいの初老男が、その日々に触れ合うちょっとしたもので、世界に少し影響を与え、自分も小さな満足をちょうだいしている。この静かな交感(コレスポンダンス)、これを小津的ポエジーだの禅的ふれあいだのとフランスの映画評は称賛するのである。たしかにここがこの映画の真ん中でしょうね。テレビもインターネットもスマホも持たぬ
(ガラケーは持っている)男、丈夫なからだを持ち 欲は無く 決して瞋からず 何時も静かに笑っている、これは宮澤賢治「雨ニモマケズ」ではないか。「雨ニモマケズ」は反語表現であると私は解釈している。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と閉じるが、ワタシはなれないのであり、ワタシでなくても誰もなれないのである。サウイフモノをヒラヤマは体現している、というヴェンダース映画である。サウイフモノにとっての完璧な日々、パーフェクト・デイズは2020年代の東京でヴェンダースには見えたのだろうか。役所広司はすばらしい役者である、という次元で足踏みしてしまう映画には見えないか。
 この映画の日本公式サイトはキャッチコピーに「こんなふうに生きていけたなら」とムード的にうたっている。私は冗談じゃないよと思ってしまった。そういうレベルの映画にしないでほしい。たぶん日本側制作スタッフはたくさん注文をつけたように思えるものがやや目立つ。出資企業のものだけでなく。東京自画自賛にヴェンダースが加担しているように思えるところも。
 ヒラヤマがなぜ底辺労働者に身をやつしたのか、という過去のいきさつは映画ではほぼ不明のままである。ニコの母親(ヒラヤマの妹)が乗ってきた運転手付き超高級自家用車で想像できないことはない。説明的になる必要はないが、ヒラ ヤマはこのライフスタイルを自らが選び、その後悔はない(と言いながら、おいおい涙を流すシーンあり)。私はここのところがとても好きだし、ヒラヤマにとても深く秘められたものは、『パリ、テキサス』(1984年)のトラヴィス(演ハリー・ディーン・スタントン
の謎の失踪と同じ性質のものと思った。だから悪い映画ではない。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランス上映版の予告編


(↓)ルー・リード「パーフェクト・デイ」(1972年)

2023年11月29日水曜日

そして宴は続くのだ

"Et la fête continue !"
『そして宴は続く!』


2023年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ロバンソン・ステヴナン、ローラ・ネイマルク
フランスでの公開:2023年11月15日


2021年『ツイスト・ア・バマコ』というゲディギアン初の海外ロケ映画 にして初の”非マルセイユ”映画に続いて、ゲディギアンはマルセイユに帰ってきた。これが23作めの長編映画。冒頭は(実際に起こった)マルセイユ旧市街オーバーニュ通りの老朽建物倒壊事件(2018年11月5日)の映像。死者8人、負傷者多数、避難を余儀なくされた人々約1500人。21世紀のマルセイユにあって過度に進んだ老朽化による倒壊の危険性を知りながら何もしなかった行政。この悲劇があってからやっと危険建築の徹底調査が始まる。怒りと悲しみ。いろいろなことが立ち行かなくなっているマルセイユ。
  このオーバーニュ通りの倒壊事故現場のすぐ前に、古代ギリシャ詩人ホメロス(紀元前8世紀)の胸像柱(19世紀の彫刻家エティエンヌ・ダントワーヌ作)が立っていて、根元から泉水が出、フォンテーヌ・ドメール(Fontaine d'Homère = ホメロスの泉)と呼ばれている。この泉の広場が、この建物倒壊の悲劇を記憶するために「11月5日広場」と改名され、毎年11月5日には地域住民によって慰霊イヴェントが開かれる。なぜマルセイユにホメロスか、と言うとマルセイユは紀元前6世紀にギリシャの小民族ポカイア人( 仏語でphocéen)が植民市として建設したマッシリアを起源としていることに由来する。映画の主人公で未亡人のローザ(演アリアーヌ・アスカリード)の一家はオリジンがアルメニア(監督ロベール・ゲディギアンのオリジンでもある)という設定で、長男のサルキス(演ロバンソン・ステヴナン)は医学博士号を持つ身で「ヌーヴェル・アルメニー(新アルメニア)」という在マルセイユのアルメニア出身者の溜まり場的ビストロ・バーのパトロン(マスター)になっていて、客たちに「マルセイユはギリシャ人ではなくアルメニア人が作った」という自説を吹聴する。次男のミナス(演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)はコロナ禍以来第一線の病院救急科医師であり、ナゴルノ・カラバフ地域でのアゼルバイジャンによるアルメニア人排斥(民族浄化)紛争に心を痛め、現地に飛んで救援医療活動を強く希望するが妻の反対で踏みとどまっている。ローザの弟のアントニオ(演ジェラール・メイラン)はマルセイユ最後のコミュニストを自認する元闘士で、自分の家屋を使って住宅問題被害者を保護する”ひとり”ボランティア活動をしていて、その間借り人のひとりが若いレティシアという黒人看護婦(演アリシア・ダ・ルス・ゴメス、前作『ツイスト・ア・バマコ』の主演女優、すばらしい!)で、病院で古参婦長ローザの下で働いている。ローザとアントニオの死んだ父親はマルセイユで戦時中レジスタンスで戦った理想に燃えた共産主義者で、二人の子供にその理想を継がせるべく、娘の名をローザ(ローザ・ルクセンブルクに因む)、息子の名をアントニオ(アントニオ・グラムシに因む)としたのだそうだ。映画中、ローザの夢枕に父親が現れ、ローザが幼い頃、選挙の夜に父親のオートバイの背にまたがり、選挙投票所を回って開票結果をいち早く知り、共産党議席数を数えて夜を明かすという回想シーンがある。これはローザとアントニオに共通する共産党ノスタルジー。なぜならもうマルセイユには共産党議席などないに等しいようなさまなのである。
 1995年から25年もの長い間続いていた保守市政(市長ジャン=クロード・ゴーダン)を2020年の地方選挙で破り、左派連立市政(市長ミッシェル・リュビオラ→ブノワ・ペイヤン)が誕生して現在に至るが、”左派連立”(エコロジスト、ソーシャリスト、左翼「不服従のフランス」、コミュニスト...)共闘の不協和音は徐々に大きくなり、空中分解の可能性もある。(左派共闘の分裂傾向は国政レベルではもっと顕著であり、市民の幻滅感は日増しに高まりつつある → 極右に票が流れる。それはそれ)。長い看護婦業(近く定年退職)のかたわら、長く地域住民活動に関わり、人望も厚く、次の区議選に左派比例代表グループのトップとして立候補を推されているローザだが、頭の痛い問題はまさにその左派各派の足の引っ張り合い。選挙対策合同会議のたびにローザはことの難しさに追い込まれ、立候補を断念すべきか悩んでいる。
 土地っ子ではないが、マルセイユを愛し、住民たちの間に入ってその地域活動を支えてアクティヴに動き回る若い女性アリス(演ローラ・ネイマルク)は、アマチュア合唱のコーチ/指揮(歌っている曲がアルメニア系フランス人アズナヴールの"Emmenez-moi = 邦題「世界の果てに」"という難民流謫の歌であるというのがミソ)をしながら、来るべき11月5日の建物倒壊慰霊イヴェントの準備をしている。この一人娘のことが心配で、パリ圏からアリスの父親で寡夫のアンリ(演ジャン=ピエール・ダルーサン)がマルセイユにやってきてホテルに長期滞在して娘の動向を近くから見守っているが、これがアリスには鬱陶しくてしかたない。アンリは退職した本屋の親父で、妻と死別してからアリスの面倒をよく見てやれなかったという後悔があり、それを退職後の今になって挽回しようとしている。アリスと恋仲でほぼ結婚するであろうことが決まっている相手が、ローザの長男サルキスである。ローザもアリスのことを住民活動絡みでよく知っていて、とても好感を持っているのではあるが... 。
 アリスの市民アマチュアコーラス団の発表会が地区の教会で開かれ、その客席にそれとは知らず隣り合わせたのがローザとアンリ。仮にサルキスとアリスが結ばれれば親戚関係となる寡婦と寡夫の二人、ローザとアンリは時を待たずして老いらくの恋に落ちる。いいなぁ。ローザはこのセンセーションを自分の中だけに抑えることができずに、次男ミナスに(もう何十年ぶりかのことのように)「私セックスしたのよ」と告白する。いいなぁ。

 今回のジャン=ピエール・ダルーサン演じるアンリという役どころは、元本屋の博識”知恵ぶくろ”で、ローザの”政治的”悩みにも、アリスの”文化的”悩みにも相談役ご意見役になれる長屋の御隠居的重みがある。マルセイユには新座ものでありながら、いつのまにかローザの大家族的グループの上座に座っている。それが映画ポスターにもなっているマルセイユのカランクでの海浜ピクニックのシーンであり、ローザの弟アントニオとその間借り人レティシア(いつのまにか父娘のような親密な友情で結ばれている)を含むローザを要とする複合大家族が陽光の下でユートピックな共同体となって至福の瞬間を過ごしている。
 種々の問題を抱え、日々生きづらくなっていっているマルセイユにあって、この共同体は義侠の人々である。一連のゲディギアン映画の流れにあってはこの共同体はあらゆる試練に打ち勝つお約束ごとになっているのではあるが、本作の前のマルセイユ映画『グロリア・ムンディ』(2019年)では同じマルセイユの複合大家族でも、21世紀型新リベラル資本主義に翻弄され、底辺で蠢きながらも誰も(家族であっても)助け合えない悲惨が描かれ、ゲディギアン映画史上最もペシミスティックな作品となっていた。その反動かこの新作は累積された問題はあれどもポジティヴでオプティミスティックな人々の姿に救われる。
 医療現場でコロナ禍の前も後も同じ過酷な人手不足環境で働く看護婦レティシアは、もはや過労バーンアウト寸前のところまで来ているとローザに退職の意思を伝える。考え抜いた末のこととは知りながらもローザは「考え直しなさい、世界はあなたのような人を必要としているの(Le monde a besoin de toi)」と。病院で、学校で、地域住民団体で、困窮者支援の現場で、あの住民たちを住まわせたまま倒壊した老朽住宅の悲劇に衝撃を受け、われわれは行動し続けなければならないと心を新たにしたマルセイユの人たちがいる。アルメニア/アゼルバイジャンで起こっていることに心を痛め、人道活動の手助けをしたいと切望するマルセイユの人たちがいる。分断された地域の人々の心を繋ぎ合わせるのはアートであると、演劇、音楽、造形芸術などに人々を誘うマルセイユの人たちがいる。こんなマルセイユで、なぜ”左派連合”は勢力争いばかりするのか? ー これがローザの最大の悩みであり、アンリの目の前で(選挙活動の)サジを投げる寸前のところまで至ってしまうが....。
 建物倒壊事故からX年後、11月5日広場での慰霊イヴェントでのスピーチを準備しながら煮詰まってしまったアリスにインスピレーションを与える父アンリ。さすがの博識。あの事故の時最も近くにいた証人は誰か? ー そこにいるホメロスだ。ホメロスは盲人だった。だからホメロスはすべてを聴いていた。建物が崩れ落ちる音も、人々の悲鳴も断末魔の叫びもみな聴いていた。ホメロスならばこの悲劇をどのような叙事詩として書き残すだろうか、それを考えればスピーチは出来上がりだ...、と。ー そしてそのアリスの書いた”叙事詩”が、イヴェント当日に11月5日広場を囲む四方の建物の窓から複数の朗読者によってメガホンで読まれるという、胸に迫る感動的なシーンが実現する。これがこの映画のマジック。
 そのアリスにも重大な悩みがあり、サルキスとの将来に暗い影を感じている。それはサルキスの強い子孫願望であり、アルメニアの血を継いでほしいという一種の”アイデンティティー”思想であった。たくさんの子が欲しい(←勝手なマッチズムにすぎない)。ところがアリスは子供を授かることができない体になっていた。これをサルキスに告白することができないでいる。このことが知られたらこの幸福は終わる、と。さあ、これはどのように止揚されるでしょうか(と、古いコミュニストのように言ってみましたが)....。

 Et la fête continue! (そして宴は続く!)。さまざまな幻滅や小競り合いを経ても、われわれは祭りを続けていくだろう。そのためにはローザ(やアントニオ)のような不屈の人やアンリのような知恵袋の人が必要だし、この年寄り(60代で現役、恋に燃えたりもする)たちに続く人たちも要る。われわれは続けなければならないけれど、それは苦役ではなく、宴であり、踊りの輪である。オプティミスムを失ってはいけない。昔も今もマルセイユ下町は人情ものが似合う風景である。ありがとう、マルセイユ。

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)『そして宴は続く!』予告編


(↓)重要な挿入歌シャルル・アズナヴール「世界の果てに Emmenez-moi」(1968年)

2023年11月14日火曜日

病める時も健やかなる時も

François Bégaudeau "L'amour"
フランソワ・ベゴドー『愛』


 『壁の中で(Entre les murs)』(2006年)のフランソワ・ベゴドーは小説・随筆を問わず多作家であるが、この最新小説は久しぶりに書店ベストセラー上位にのぼる話題作となった。90ページの短さ。大上段なタイトル。愛とは何か、と構えているわけではない。誰も書いたことのないある特別な愛を描いた小説でもない。本の裏表紙に著者の言葉としてこう明言されている:
私はほとんどの時代にほとんどの人々によって体験されたであろう(危機も事件もない)愛をあるがままに描きたかったのだ。
つまりあちらにもこちらにもある波風がなく長い間寄り添って生きられた男女の生きざまについて書かれた小説なのである。「平凡な」「フツーの」と形容される種類のカップル。それはがまぶしく冠された小説タイトルである「愛」という言葉でわれわれなら形容しない、どこにもいるような市井の男女の同居し共有した長い年月のことなのである。
 私事を挟んで失礼。私は20世紀半ばに東北の奥まったところで生を受け18歳まで生活したが、その十代の目で観察してみて、この地方の環境にあって大人たち男女の”つがい”というのは、愛が結びつけたものではない、という絶望的確信があった。それは生きていく"なりゆき"で結びついたもので、その属する社会が円滑に機能するために、世の中は昔からそういう仕組みになっているのだからという流れを持続するために、所帯を持ち、子をつくり育て、という”人となり”のことをして歳を取り、人生を全うするプロセスであった、という範疇を出ない。私は少年の目なりに、それは愛ではない、と見ていたばかりか、私の知るこの地方環境では”愛”というボキャブラリーは存在しないのだ、と思っていた。愛とは絵空事であり、文学や映画の中のことであり、自分の環境にはあるはずのないものであった。家庭内で愛を語ろうとすればおまえ気が違ったかと言われただろう。地方の子であったから、大都会にはあるのかな?という愚考もないではなかった。この小説はカップルの関係を愛と名状することが意味をなさない地方の環境が描かれ、それがまず第一に私がよく知っている世界だ、と思わせたのである。だが、それはどこでもそうなのだ、という話に落ち着くのだが。
 
 小説の始点は1970年代初頭の西部フランス、ロワール地方の田舎町である。父をインドシナ戦争で失ったジャンヌは、公共施設の清掃員として働く母を助け、自らも田舎ホテルのフロント係として(夜勤ありの)不規則な時間帯で働いている。母が町の体育館の清掃の担当の日、ジャンヌはその手伝いに駆り出され、そこで練習する町のバスケットボールチームのスター選手ピエトロに勝手な妄想の片思いを抱き、将来ピエトロと庭付きの家で暮らすことを夢想する。ある日ジャンヌの務める田舎ホテルのフロントにこの長身イケメンのバスケット選手が現れ、予約で満室のところなんとか一部屋工面してくれないか、と。ジャンヌはまさかの申し出に心ときめかせ、雇い主にクビにされることを覚悟で宿帳を細工し、部屋の鍵をピエトロに渡し、そのお呼びがかかるのを待っている。そこへ、町の獣医病院の派手な若奥様がやってきて、ムッシュー某の部屋は?と。小さい町のことで、誰もが誰もを知っている世界、これは内密にと言われてもすぐにバレる火遊び。ジャンヌの”庭付きの家”幻想はあっけなく消えるのだが、この”よくある話”パターンがこの小説を支配するトーンである。”よくある話”に頓着しない人々がこの世界の住人であり、この地方からめったに外に出ることがなく、この風景の中で生きて朽ちていくことをフツーと思っている。そしてなりゆきで伴侶になってしまう人間も”よくある話”のように現れてしまう。
 ジャンヌがフロント係をしているホテルに改装工事業者として出入りする自営左官職人ジェラール・モローは、息子ジャックに家業を継がせるべく工事に徒弟として同行させるが、近い将来においてこの種の自営職は需要がなくなりジャックは別職を探さざるをえなくなる。何の取り柄もない若者だが、ガキの時分からプラモ(軍用機、 戦車、軍艦、ロケット...タミヤ模型オタク)が趣味で組み立て、丁寧に塗装して、陳列棚にコレクションしていく。これは一生続くのだが、その増え続けるコレクションの置き場所に苦情を言われることはあれ、誰もそれを評価してくれるわけではない。私のレコード・CDも同じだが、それはそれ。かのイケメンのバスケ選手がホテルで”ご休憩”を楽しもうというのに改装工事の騒音がうるさすぎる、とジャンヌに苦情を言う。ジャンヌは改装業者親子にもう少し静かにやってくれないか、とご機嫌とりにホテルのバーからドリンクをちょろまかして振る舞ってやる。こうしてモロー家とジャンヌは知り合い、懇意になっていく。そしてよくあるなりゆきのように、かのイケメンバスケ選手と同じように、宿泊チェックイン前の客室でジャックとジャンヌは”ご休憩”を楽しむようになってしまう。これがジャンヌとジャックの50年以上にわたる寄り添いの始まりである。
 父ジェラールの自営左官屋が立ち行かなくなり、ジャックは食うために軍隊志願を考える(産業のない地方の”学のない”男子の重要選択肢)のだが、父をそれで失ったジャンヌの反対の功あって、町の緑地管理課の作業員という”公務員”職に籍を得る。多くの地方の男たちのなりゆきのようにこれがジャックの一生の職になるのである。ジャンヌはフロント係という不規則な仕事にケリをつけ、その後は田舎町のおねえさん/おばさんに出来る仕事を転々とし、一生の仕事などないがアクティヴな給金取りとして...。
 結婚、出産、両方の親の世話、死別、飼い犬の代替わり.... 小説の時間の流れはテンポ良く進んでいく。乗っている車の車種がどんどん代わり、吸うタバコの銘柄も代わり(地方人は老いも若きもフツーにスモーカーである)、テレビや流行り歌の移り変わり、留守番電話→ノキア→ブラックベリー→スマホ、そんな背景や小道具の変化で読者は今どんな時代なのかを知ることになる。このベゴドーの”コマ送り”は見事であり、世のうつろいは読者の中でイメージ化される。この時間はあっと言う間なのである。世の50年間寄り添ったカップルたちに聞いてみたらいい、この50年はあっと言う間だった、と答えるだろう。これがフツーのなりゆきなのである。
 ジャックはフツーに髪の毛を失い、フツーに太鼓腹になり、フツーに昇進して緑地管理課の管理職になり、フツーに親子3人で食えるようになるが、そのいびきに耐えきれずジャンヌは夫婦の寝室から出て、寄宿学校で不在の息子ダニエルの部屋のベッドで眠るようになる。いびきだけではない。ジャンヌには我慢がならないジャックの悪癖がたくさんあり、それは口に出して言ってみてもどうしようもない。ジャックはジャックでジャンヌの態度や行動で理解しがたいことがたくさんあるが、それはどうしようもない。それが理由で(よくフランスの映画で見るような)食器が飛び交う大げんかになることなど一度もない。ジャックにはガキの時分からの腐れ縁のダチ、フレデリックがいて、小さな問題を抱えて寄ってくるダチにはジャックは面倒見がいい。ジャックはジャンヌの誕生日や結婚記念日には小さな贈り物を欠かさない。その40歳プレゼントに、ジャンヌがファンだとわかっているが、自分はどうでもいいイタリア人熱唱歌手リカルド・コッチャンテ(フランスでは”リシャール・コッシアント”と呼ばれ、ジャックは”イタリアの醜男”と呼ぶ)のナントでのコンサートに招待するくだりはなんとも可愛らしい。
 波風が全くないわけではなく、小さな波風は恒常的にあり、おたがいぶつぶつ言うことは通奏低音である。これではフツー小説にならない。波乱とドラマティックな上昇と下降の展開がない。ながいこと一緒にいるというのは文学的ではない。だがこのベゴドーの描く日々の機微は読ませる。
 そんな中で65ページめで、やっと小さな波乱が登場する。いつ頃のことかはジャンヌが記憶していない。おそらく記憶したくない。台所でりんごのタルトを準備している(手にはりんごの皮剥きの包丁が)。家の前に一台のBMWが停車し、中からスーツ姿の若い婦人(ジャンヌよりは10歳は若そうに見える)が降りてきて、勝手口をノックする。ジャンヌはエホバの証人の勧誘だと想像する。エプロン姿で包丁を手にしたまま、ニコルと名乗る女を台所に引き入れる。水を一杯いただきたいと女は言う。水を飲み終えやっと言葉を取り戻した女は、私は5年間胸に悶々と詰まっていたことを吐き出しに来た、と。そして5年前の冬(ほぼひと冬を通して)彼女はジャックと関係があったと告白。
その関係はニコルが妊娠したとわかった時点で終わった。その子の父親が誰なのかを知ることもなく。
ー 私には夫がいます
ー 私にもいるわよ
ー 私が言いたいのは私は夫とも性関係があったということです
ー 私にはないわよ
そして身篭った子を中絶してその関係は終止符を打つのだが、ニコルはそのことをずっと申し訳なく自分が恥ずかしいと思っていたと言うのだ。彼女曰く、ジャックもそれを心から申し訳なく思っていた、と。その上ニコルが最後にジャックに会った時、ジャックは愛する女性はひとりしかいない、他の誰も愛せない、と言ったというのだ。
ー それは誰のことだったのよ?
ー あなたですよ

5年間詰まっていた重い重い荷物を女は吐き出し、その重い重い荷物はすべてジャンヌに乗り移ったのである。このディアローグの間、ジャンヌはりんご皮剥きの包丁をずっと手にしたままなのだ。ここのベゴドーのパッセージはこの包丁がいつ凶器に変わるかという契機をほのめかすサスペンス感、ほんとうにうまい。
 帰宅して何事もなかったかのように、焼き上がったりんごタルトを賞味するジャック。ジャンヌは受け取ったこの重い重い荷物に、何か返さねば気がすまないではないか。次の日曜日、テレビの週末スポーツまとめを見ながらくつろぐジャックに、ジャンヌはおもむろに淡々と保険代理店の秘書をしていた時にその所長と関係があった、と告げるのである。ジャックは何も言えない。「私があんたの立場だったらどなるところだけどね」と挑発する。「俺がおまえをどなるって?」としか言えないジャック。こういう問題だけでなく普段でも思っていることをはっきり言えない口下手なジャックだということをジャンヌは見透かしている。これでおあいこだ、とジャンヌは思う。夜遅く、パジャマ姿になってジャックはぼそっと言う「俺も愚かなことをしたことがある」。ジャンヌは驚いたふりをして「それはいつのこと?」と尋ねる。「ずいぶん昔のことさ」とジャックは答えるが、心の中でジャンヌは”5年前とはずいぶん昔のことなのか”と突っ込みたくなるが、あえてしない...。
 この小説で唯一の波乱であるこの二人の”不倫”疑惑の箇所は、実に味わい深い。フランス語で言わせてもらえば、実に "savoureux"だ。そしてジャックはこのことを一生気に留め続けるのだ。ここでこの小説の言わんとする”愛”というなんとも味わい深いものが浮かび上がってくる。
 結婚式の時に御託のように読み上げてしまう「病める時も健やかなる時も」をこの二人はやり遂げて50年後にその晩期を迎える。ジャンヌの頭に腫瘍ができ、それを取り除く手術のあと、目覚めるはずのジャンヌはなかなか目覚めない。病院近くのホテルを数度延泊して病室に通っていたジャックは、ほどなく病室に寝泊りするようになり、意識の戻りを待ってさまざまなことを話かけ続ける。泣ける。その努力にもかかわらず、ジャンヌは先に行ってしまう。
 葬儀のあと、ジャックはそのプラモ細工のアトリエに篭り、プラモを作り続ける。ある日そのアトリエの椅子にジャンヌが棺桶に入っていた時のピンク色のドレスで座っている。

ー 食事はしたのか? 俺が何か作ってやるよ。
ー あなたこそ食べなきゃだめよ、ひどくやせっぽちになっちゃって。
ー 俺がやせたらおまえ満足だろ。
ー 私はあんたの出っ張ったお腹が好きだったのよ。
その履物は彼女のために彼が病院に持って行ったものだったが、彼女はそれを一度として履くことができなかったものだ。彼は立って靴箱まで行って彼女の靴を探して持って来てやりたかったが、なにかの圧力が彼をその合皮椅子に抑えつけた。
ー あの保険代理店長とのこと、あれはウソだったんだろ?
ー 本当なわけないじゃないの。
ー どうであれ、何も変わらないさ。
ー ええ、何も変わらないわ。
 このジャンヌの「お迎え」を受けて、ジャックも旅立っていく...。
 時代は移り、世界は変わっても、フランスの田舎でどこにも動かずに静かに目立たずに寄り添って生きた二人。一人息子はフランスのみならず、世界をまたにかけて仕事をし、今は3人の孫と韓国ソウルで暮らしている。かの不倫疑惑を除いては波乱もなく、周りの人たちと同じように楽しみ、同じように伴侶に不満を抱きながら生きた50年の年代記、これはフツー文学になり得ないものであろうが、ベゴドーの名調子はその逆を証明してしまう。あんたたちがどう言おうが、これは”愛”である。

François Bégaudeau "L'amour"
Editions Verticales刊 2023年8月17日 90ページ 14.50ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ボルドーの独立系書店Mollat制作の動画で自著『L'Amour(愛)』を語るフランソワ・ベゴドー

2023年11月9日木曜日

マリリン・マンソン・ノー・リターン

2023年11月6日、今年のルノードー賞は1965年生れの女流作家アン・スコットの10作目の小説『Les Insolents(無礼な人々)』に与えられた。1990年代の音楽(ロック、テクノ、ファッション、映像、アンダーグラウンドカルチャーから出てきた人で、ヴィルジニー・デパントと同棲していた時期もある。1990年代から”パリの音楽業界人”であった私とも近くにいてもおかしくなかったようななつかしさがある。デパントが”大作家”になったこととは距離ができたであろうが、書き続けていたのだね。10作めでルノードー賞ということは「やっと認められた」感は否めないが、書き続けてよかったのだ、と祝福したい。受賞作は後日当ブログで必ず紹介する。
2001年、私のウェブサイト『おフレンチ・ミュージック・クラブ』は彼女の2作目にして、アン・スコットの名(フランシス・スコット・フィッツジェラルドから拝借したペンネーム)を一躍世に知らしめた小説『スーパースターズ(Superstars)』を紹介していた。読み返して”あの時代”が無性になつかしくなった。以下に再録するので、この感じ、共有できる人たちがいてくれたらうれしい。

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2001年1月に掲載された記事の加筆修正再録です。


Ann Scott "Superstars"
アン・スコット『スーパースターズ』


(Flammarion刊 2000年10月)

2000年の大ベストセラーのひとつで、元広告マンによる広告業界の内部告発的な小説『99フラン』を書いたフレデリック・ベグベデは、今テレビでかなり露出している作家/評論家となっていて、言うことも容姿も私にはたいへん苦手な男なのだが、こいつがテレビでこのこのアン・スコットの2作目の小説を「クリスティーヌ・アンゴのテクノ・ヴァージョン」と紹介したのだった。
 私は本欄でクリスティーヌ・アンゴを2冊紹介するほど、アンゴを高く評価する者であるが、このベグベデの安直なアンゴのカタログ化にややむっとくる。彼が言いたいのは、ナルシスティックな美貌の持ち主であること、超高速で興奮しまくりかつ問答無用のエクリチュール、バイセクシュアルであること、といったことなのである。この条件が揃えば誰でもアンゴというわけにはいかんだろうに。
←2000年代のアン・スコット
 アン・スコットは1996年に最初の長編小説”Asphyxie(窒息)"を発表していて、パンクロックと死を通奏低音とするこの小説は、文学誌だけでなくロック・ジャーナリズム(ロック&フォーク誌、レ・ザンロキュプティーブル誌等)からも高く評価された。それに続くこの『スーパースターズ』は音楽環境をロックからテクノに変えて、その音楽的状況描写も多く含みながら、パリのエレクトロミュージックシーンの現場内部にる若い女性群像を描いている。
 音楽アーチストの話者(私=ルイーズ)は、ふたつの大恋愛に終止符を打って、独り身の生活を送っている。最初の恋人はニッキという名の男。キース・リチャーズを心の師として70年代的な職人気質のギタリストで、彼のリーダーシップの下でルイーズはベーシストとなり、大いなる音楽的影響を受けることになる。次の恋人がアレックスという女。金持ちの娘にして売れっ子のDJ。ルイーズはこの女からレスビアンの性技四十八手裏表(カーマスートラと言うべきか)を教わった。このアレックスとの破局の末、行く先を失って、パリのクラブ「レックス」でぼろぼろになっているところからこの小説は始まる。助け舟はたまたま居合わせた造形アーチストのアリス(ニッキの妹)で、アリスとアパルトマンをシェアしているファッションクリエーター見習いのパラスと共に、ルイーズを共同生活者として迎えいれる。
 パラスは最初ルイーズに対して露骨に意地悪で、分の悪い家賃の折半や彼女の作った家内規則(あれもいけない、これもいけない)を押し付けてきたのだが、まもなくしてアリスが独立してこのアパルトマンを出て行き、パラスとルイーズの二人暮らしとなった時点で急激に融和し、密接な友好関係となって、加えて時には同じベッドで寝るということになる。しかしパラスはどう思っていたかは明らかではないが、ルイーズにとってこれは恋愛ではなくダチづきあいでしかなく、身を焦がした過去の二つの恋愛のような重要さは微塵もないと思っている。アレックスとの濃厚強烈な同性愛関係をやめたあと、どちらかと言えば精神的で音楽的なニッキとの関係への懐かしみも強くなる。またフィジカルな欲求だけならば、セフレの男友だちもいるし、アレックスとの強烈なプレイを再現することも可能だ。しかしながらルイーズの求めているのはそういうものではない。
 RMI(最低生活補償支給)の受給者であり、明日をも知らない生活を送っていたルイーズに、レコード会社ヴァージンが契約書とアルバム1枚制作の前払金10万フラン(約180万円 = 当時)を送ってきた。すでに音楽で糧を得て生きているニッキとアレックスと肩を並べたようなものだ。31歳にしてやっと巡ってきたチャンスに、ルイーズは自分が生きて愛してきた音楽のインテグラルなサウンドを創造しようと企てる。すなわち、70年代のロックと今日のエレクトロ・ミュージックの統合であり、ニッキとアレックスから影響されたもののすべてである。
 そういう一大転換期に、ルイーズは17歳の少女イネスと出会う。イネスはその時アレックスの寵愛を一身に受けていて、あとでわかるのだが同居人パラスもひそかに想いを寄せている美少女である。最初にルイーズに言い寄ってきたのはイネスだった。歳の差のこともあり、アレックスとパラスの手前もあり、ルイーズは当初は躊躇し、抵抗していたのだが、なんともあっけなく陥落してしまう。激愛してしまう。電話を待ってそわそわし、こっちからかけるべきかな、こっちからかけたらどう思われるかな...そわそわ、いらいら... といった感じの少女向け恋愛ロマンのような純愛描写が可笑しい。そしてこの四角関係を恐れず、ルイーズはイネスにすべてを賭ける、というレベルまで燃える恋心を昇華させていく。
 ところが、現実はルイーズの思惑とは激しくかけ離れていて、アレックスと別れてすべてを捨ててルイーズのもとに来ると言っていたイネスは土壇場で裏切るし、ことの次第に呆れ果てたパラスはルイーズとの親友関係を一刀両断に断ち切ってしまう。すべてに絶望し自分を失ったルイーズはドラッグで底無しのジャンキーに転落し、やがてヴァージンからの前払い金で新しいアパルトマンと契約して新しい生活を開始する、というところで小説は終わる。

  (2023年ルノードー賞小説『無礼な人々』を持つアン・スコット→)
 私には親しい音楽業界の若い女性たちの口から出てくるような、テクノ〜エレクトロの内輪ボキャブラリーが随所に見えるこの小説は、アーバンな若い女性の街言葉口語体で書かれていて、活字行間のつまった310ページという長さにもかかわらず、かなりのスピードで読むことができる。そういう意味ではポップな小説なのかもしれない。しかし、テクノにはメッセージがない。この小説の中で引用されるのは、ローリング・ストーンズ「ギミー・シャルター」、マリリン・マンソン「ザ・ドープ・ショー」といったロックのリファレンスである。特にマリリン・マンソンはこのテクノ的環境にありながら、例外的に光り輝く純粋精神の象徴のように、これらの若いアーバン女性たちに憧憬されている。
 そして小説の山場として訪れる、この31歳の女性の純愛の急上昇と急降下は、アン・スコットのバックボーンそのままにパンクでありトラッシュである。読む者のセンセーションは、ノイジーな轟音ギターがギョイ〜〜〜ンとフィードバックして鳴り止まない状況に似ている。
 かのベグベデが紹介の時に強調していたが、かなり濃密な同性愛の情交シーンの描写があり、さらにかなり濃密なドラッグ体験の描写がある。流血しながら愛し合うイネスとルイーズのパッセージは実にショッキングであるが、まさにエレクトリックなこの小説の純愛表現はこうでしかありえなかったのだろう。マリリン・マンソンのステージショーはこの小説の中でリアルな現実である。しかしマリリン・マンソン的ヴィジュアル表現がこの小説を代表するものでは断じてない。

 最後に小説の中でルイーズのダチでジョーク好きのエヴァがいくつか話す「金髪女ジョーク(blagues sur les blondes)」の中の最高傑作を紹介しておく。
ある金髪女がクリスマスの日に会社をクビになった。家に帰ると今度はその彼氏が女と別れると言う。女は車に乗りひとっ走りして来ようと外に出たが、そこで女は大事故に遭遇してしまい、車はぺしゃんこになってしまう。もう私の人生はすべて台無しだと嘆き、女はモンパルナス・タワーまで歩いて行って、そのてっぺんから身投げしようと決心する。さあ、いざ身投げしようとした瞬間に、女の背後から「やめなさい」という声がする。振り向くと、なんと驚いたことにそこにはサンタクロースが立っている。女はサンタクロースにことの次第を説明する「私はこの24時間のあいだに仕事も恋人も車も失ってしまったのです、だから死にたいのです」と。するとサンタクロースは優しく「よしよし今宵はクリスマスだからおまえにも贈り物をあげよう。地上に降りたらまっさらの新車がおまえを待っておるし、家に帰ったらおまえの恋人がおまえを抱きしめてくれるだろうし、明日会社に言ったら会社は何事もなかったようにおまえを迎えてくれるだろう」と。女は仰天して心躍らせ「なんてすばらしい贈り物なんでしょう。私はあなたにどうやってお礼したらいいでしょう?」と。すると赤装束の老人は「ご存知の通り、私は天の世界ではトナカイたちと一緒だが、寂しい思いをしておる。だからちょっとだけ慰みごとをしてくれるとうれしいのだが...」と。金髪女はあまり気が進まなかったが、タワーのてっぺんで周りには誰もいないし、まあ事態が事態であるから、と思い、ひざまずいてサンタクロースの赤いマントの中に分け入った。サンタクロースは女の髪を撫でながら聞いた「おまえの名前は何と言う?」。金髪女は口いっぱいにものをほおばりながら答えた「私の名はパメラです」。サンタクロースは女の髪を撫で続けながら聞いた「パメラは歳はいくつかね?」。金髪女は口いっぱいにものをほおばり続けながら答えた「32歳です」。するとサンタクロースは言った「パメラ、おまえは32歳にもなってサンタクロースを信じているのかね?」
(↓)マリリン・マンソン「ザ・ドープ・ショー」


(↓)あまりいい動画ではないが、2000年12月、国営テレビFrance 2 のティエリー・アルディッソンのトークショー"Tout le monde en parle"に自著"Superstars"のプロモーションで出演、アルディッソンのしょうもない質問に答えるアン・スコット。

2023年11月2日木曜日

ひとかけのシクルさえあれば

Francis Cabrel "Un morceau de Sicre"
フランシス・カブレル「ひとかけのシクル」

から(ほぼ)ちょうど3年前、2020年10月にリリースされたカブレルの14枚目のアルバム『蘇った夜明けに(A l'aube revenant)』は、自らブックレットに記してあったようにオクシタニア/トルバドゥール文化に直接的にオマージュを捧げる曲が4曲もあり、南西フランスの文化遺産に強烈にインスパイアされた作品だった。その中の1曲「中世のロックスターたち(Rockstars du moyen âge)」の歌詞はフランス語とオック語で書かれていて、共同作詞者としてクロード・シクルの名がクレジットされていた。
クロード・シクル
(1947 -  )はトゥールーズのオクシタン・カルチャー・リヴァイヴァルの旗手的音楽デュオ、ファビュルス・トロバドール(活動開始1986年)を率い、アルノー・ベルナール地区での住民文化運動、マイノリティー言語を擁護する国際言語フェスティヴァルなど多岐にわたる文化活動で、トゥールーズの行動的大衆文化人として広くからリスペクトされている現在76歳の(長髪の)万年青年。フランシス・カブレルが長年根城としているだけでなく活動の本拠地(録音スタジオを含む)としている小さな村ロット・エ・ガロンヌ県アスタフォールはトゥールーズとは100キロ離れているものの、オクシタニアの都トゥールーズの文化圏に属していると言えよう。カブレルのプロミュージシャンとしてのデビューは今や伝説となっているトゥールーズの録音スタジオコンドルセ(Studio Condorcet)であり、パリに行くことなくカブレルはそのシンガーソングライターとしての土台を築いた。土地の文化人クロード・シクルとは古くから交友していたようだが、それはオクシタニアとトルバドゥール文化の伝道者にして碩学のシクルがカブレルにその奥深い歴史あるオック文化を教授し、インスピレーションを与えるものだった。言わば師弟のような。おかげで非オック語者だったカブレルもかなりのオック語つかいになっている。
  上述の前アルバムに収められた「中世のロックスターたち」はアルバム発表の2年前2018年に、トゥールーズの北東に位置するアヴェイロン県都ロデスのフェスティヴァルで(クロード・シクル見守る中で)、オック語の男声ポリフォニーグループ Corou de Berraを従えたアンサンブルで初演されている。これがフランシス・カブレルのオック語歌唱のデビューであった。(↓2018年ロデス撮影の動画)



(↓)参考までに。これは同じフェスの時期にロデスで録画された(フランシス・カブレルを相手に)トルバドゥールの歴史を講釈するクロード・シクル。


**** **** **** ****

とまあ、ここまでがクロード・シクルとフランシス・カブレルの3〜4年前の大接近+カブレルの”オクシタニア人”としての目覚めみたいな前触れである。
2023年、カブレルは新アルバムを作れるような状態ではなく、言わばアイディアの枯渇期なのだそうだが、焦って作ろうという気は全くなく、天からのインスピレーションを気長に待っている。このシングル盤は2014年に娘のオーレリー・カブレルが地元アスタフォールに設立した音楽制作会社(+アスタフォールの録音スタジオ運営) Baboo Music のために作った。オーソドックスな方法での(独立の)音楽制作事業が大変難しい時期であるのを見ての、父親からの援助みたいな動機だと思う。だからカブレル所属のメジャー会社(Sony Music)はこのシングル盤に関与していない。ラジオ等にオンエアされないのはそのせいであろう。
 曲はクロード・シクルとその町トゥールーズへのオマージュである。曲名”Un morceau de Sicre"(シクルひとかけ)は、"sucre"(シュクル=砂糖)との駄洒落であり、通常”角砂糖ひとかけ”と言うところを”シクルひとかけ”としたわけ。ところで"Un morceau de sucre"という曲名(フランス語訳であるが)の曲は存在する。1964年ディズニー映画『メリー・ポピンズ』、原題(英語題)では”A spoonful of sugar"、日本語題は「お砂糖ひとさじで」となっている。(↓)フランス語吹き替え版『メリー・ポリンズ』から "Un morceau de sucre"、なんという名曲!


 さてこちらは"Un morceau de Sicre"(シクルひとかけ)、作詞作曲フランシス・カブレル。クロード・シクルの地区住民運動の拠点アルノー・ベルナール地区ほか、さまざまなトゥールーズを象徴するものが歌詞に登場する。フットボールはそれほど強くはないが、ラグビーは滅法強く、その黒と赤のチームカラーは楕円形ボール世界ではつと有名。トゥールーズを代表する音楽アーチストではクロード・ヌーガロ(1929 - 2004)を忘れてはならない。歌詞中では "ville où les Claude suivent"(クロードたちが次々に現れる町)となっているが、これはクロード・ヌーガロ→クロード・シクルと複数の偉大なクロードの町という意味。そしてレ・モティヴェ(Les Motivésゼブダ、ムース&ハキム、同名の市民運動)、それから今日最もポピュラーなトゥールーズの兄弟ラップ・デュオ、ビッグフロ&オリも歌詞で出てくる。超売れっ子のこの兄弟ラップはこの歌の公式クリップの中にも登場している(3分7秒め)。クリップにはトゥールーズの往年の音楽人たち(ジャン=ピエール・マデール、ミッシェル・アルトメンゴ、エミール・ヴァンデルメール、リシェール&ダニエル・セフなど)も出演している。もちろんクロード・シクルその人も(2分45秒め)。

美しいトゥールーズは路線バスのバレエで目覚める

前日と同じような一日だけど、温度は少し上がっている

アルノー・ベルナール地区の空で数羽の鳩が追いかけごっこ

カフェ・ノワールにシクルひとかけ
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

これはと大いなるミステリーだが、ここで生きるのはみんな100%なんだ
外に出ていくと何もやることがない、「いつ戻るんだ?」ってことばかり気になる

それは磁力波か特別な空気でつながりあっているのか、誰も知らない
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

カフェ・ノワールにシクルひとかけ

 

さあ歌えや歌え、燃え上がる町、動け、黒と赤の町、

レ・モティヴェが生きる町、クロードたちが次々に現れる町、
大河の町、炎の町、ビッグフロとオリがスラム詩を詠む町

直立する町、誇り高い町、キャピタルになる条件をすべてを持った町

ここではすべてのボールが楕円形、群衆の中では
誰かが必ずそのトランクの中にコショネとペタンク玉を持っている
土地が人間を作り、みんなその鏡の中で育っていく
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

カフェ・ノワールにシクルひとかけ

妖精が降りてきて、そこを歩く通行人とトルバドゥールに変えてしまう
突然そいつは口達者になり、チャチュ(辻説法)を披露する
それは歴史の奥底からやってきたアーバンミュージック
カフェ・ノワールにシクルひとかけ
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

さあ歌えや歌え、燃え上がる町、動け、黒と赤の町、

レ・モティヴェが生きる町、クロードたちが次々に現れる町、
大河の町、炎の町、ビッグフロとオリがスラム詩を詠む町

直立する町、誇り高い町、キャピタルになる条件をすべてを持った町

美しいトゥールーズは路線バスのバレエで目覚める

前日と同じような一日だけど、温度は少し上がっている


(↓)オフィシャルクリップ



Francis Cabrel "Un morceau de Sicre"
7"single Bamoo Music/Kuroneko FC45T23
フランスでのリリース:2023年10月13日

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)「中世のロックスターたち」(2021年、カブレル”トロバドール・ツアー”のDVDより)

2023年10月31日火曜日

パティ・スミスと『地獄の季節』

ランボーを読む、それは初めてコルトレーンを聞く衝撃

リマール社によるアルチュール・ランボー『地獄の季節』(1873年)の150周年記念エディションの監修構成をパティ・スミスが担当し、スミスの写真とデッサンとテクストを増補した大判(250mm x 325mm、176ページ)豪華本が2023年9月28日に刊行された。その序文で彼女はこう書いている。
<< 彼の顔のイメージとその詩に私が初めて惹かれ、動顛し同時に魅了されたのは16歳の時だった。その酔わせる魅力に深く浸り、読んだばかりのことを思い出せぬほど、私は震えてそこから抜け出た。しかしながら彼の言葉は私の脳に深く刻まれ、死に至る霧の中に漕ぎ出る幽霊船のデッキに縛りついた綱のように私に巻きついた。地獄の季節は私にとって、濃縮ハシッシュや多量のアルコールのような若き日のドラッグだった。>>

16歳の時から心酔し、詩人を”アルチュール”と兄弟のように呼ぶパティ・スミス、彼女の記念すべきファーストアルバム『ホーシズ(Horses)』(1975年) は当初の予定では10月20日(アルチュール・ランボーの誕生日)にリリースされることになっていたが、遅れが発生し、”奇跡的にも”(パティ・スミス自身の表現)11月10日(ランボーの命日)に発表されている。彼女の並々ならぬランボー愛について、2023年10月28日付
リベラシオン紙が2面にわたるインタヴュー記事(聞き手フレデリック・ルーセル)を掲載している。そのほぼ全文を、以下に(無断)翻訳した。

リベラシオン:『地獄の季節』の150周年記念に何か特別なことをしたいと思っていたのはどうしてですか?

PS1973年の100周年記念の時、私は二十代だった。私はシャルルヴィルに赴き、彼の墓参りをしたが、当時誰もそのことを気に留めていないようだった。私にとってそれはいまだかつて書かれたことのない最高の詩集だった。アレン・ギンズバーグ、ウォルト・ホイットマン、ライナー・マリア・リルケなど天才的な詩作品は数多くあろうとも、この詩集を凌ぐものはないと私は思っている。その栄誉は敬わなければならない。彼の生前にそれはなされなかったのだから。」

リベラシオン:あなたの変わることのないランボーへの情熱はどこから来るのですか?
PS
「私が16歳の時、フィラデルフィアのとあるバス停の中の陳列台に一冊のランボー詩集『イリュミナシオン』が置いてあったのを見つけた。私はその顔に引きつけられた。その頃私にはボーイフレンドがいなかった。私は全部を理解することはできなかったけれどその言語が非常に美しいと思った。それはコルトレーンを初めて聞いた時のような何かとても新しいものだった。つまり私のランボー発見は二重のものだった。少女だった私はまずこの美しい少年に惹かれ、次いでその言語に魅了された。それは私から一生離れなかった。」

リベラシオン:その時の詩集をまだ持っていますか?
PS
「盗まれてしまったわ。私はどこに行くにもこの詩集を欠かさず持っていくようにしていたのだけれど、1978年シカゴ でトラックに積んでいた私たちのツアーの荷物(ギター、ピアノ、ドラムセット...)全部が盗まれてしまった。その中に私の小さな旅行バッグもあって、中には『ホーシズ(Horses』のコスチューム、『イリュミナシオン』詩集、ウィリアム・バロウズの私へのメッセージが書き込まれていた本などが入っていた。1978年、誰かが私の『イリュミナシオン』詩集を盗んだのだけど、その人がそれを大事にしてくれたらと願っている。元はと言えば私自身それを盗んだのだから。あの当時その本は1ドルもしなかったのだけど、私にはお金がなかったのよ。」

(中略)


リベラシオン
: 1873710日にヴェルレーヌがランボーに発砲したピストルもあなたにとって貴重なオブジェではないですか?

PS 「私はそれを最も早い時期に見ることができた人間のひとりだ。2014年の夏、ツアーでブリュッセルに寄ったとき、ベルギー王立図書館のすぐ近くのホテルに宿泊していた。王立図書館で私のアルチュール・ランボーへの心酔を知っている人がいて、 私のエージェントにこう電話してきた“最近非常に特別なものが納品になり、まだ誰も見ていない、パティなら見たがるのではないだろうか?”。図書館司書が私の前にひとつの菓子箱のようなものを置いた。柔らかい紙に包まれて、1世紀以上もの間ある引き出しの中に仕舞われていたかのピストルがあった。皮肉なことにヴェルレーヌがランボーをピストルで撃ったホテルはそこから遠くない通りを上ったところにあった。その武器を慎重に光沢紙の上に置き、許可をもらって私は写真を撮った。2015年このピストルはヴェルレーヌが2年間投獄されていたモンス刑務所に展示され、私はその時自分の手で持つことができた。その後ピストルは競売にかけられ売却された。このピストルはあの当時一種の魔力があった。」

リベラシオン:このピストルがこのように非常に象徴的lな意味を持っているのはどうしてですか?
PS
 「その銃声の炸裂がヴェルレーヌを監獄に送り、ランボーをシャルルヴィルに送り返しかの傑作詩集を完成させることになった。この小さなピストルはすべての中心だった。私は私がこの本に書いたことについて長い間考えあぐんでいた。私は英語で書かれたすべての評伝を読み、熟考の末、自分の直感に従うことにした。この二人の詩人の関係とランボーの作品あるいはランボーという人間そのものについて研究した者なら誰でもあらゆるスペクトルを容認しなければならない。 幾人かのランボー研究者たちは彼の挙動を咎めもする。われわれの文化環境は少なくともアメリカにおいては批判的傾向に転じていった。ランボーをその多くの挙動によって判定することはできる。しかしその判定は彼の最良の文学作品のいくつかを封印してしまう方向にも向かってしまう。ランボーが後世に残したもの、それは彼の挙動ではなく、彼の言葉である。私が1970年代の自分自身の少女時代を見直してみれば、自分がどれほどまでに頑迷で侮蔑的であったかがわかる。私はロックンロールという非常にハードな環境に身をおいていて、当時その世界で女は非常に少なかった。時には剥き出しの悪人のように振る舞い、ドアを蹴り破ることが必要だったのよ。」

リベラシオン:この『地獄の季節』150周年記念版は、あなたの写真、デッサン、テクストで増補された一種の豪華本となっています。どのように作業されたのですか?
PS
 「これは私にとって大変栄誉ある仕事だった。この記念版が十分価値あるものであるように、私は細部にわたって確認し熟考し、それは目次にまで及んだ。私は最初にすべてを手書きで書いてからタイプ転写したのだけど、ガリマールは私のテクストの一部を手書きのまま割り込むことにしたのよ。」

 

リベラシオン:あなたの筆跡は見事ですね。
PS
 「私は1950年代初頭に育ち、インク壺と羽ペンで書き方を学んだ最後の世代に属するのよ。ロバート・メイプルソープ1946 – 1989)は私と同い年で、走り書きの美しい筆跡をしていた。私は『独立宣言』のような古い手書き文が大好きで、こんなふうに書けるようになりたかった。少女時代『独立宣言』の複写は1/4ドルで買うことができて、そっくりの書き方になるように私は何度も何度もそれを書写したものよ。」

(中略)

リベラシオン:シャルルヴィルにはどれほどの回数足を運んでいますか?
PS
 「1970年代から何度もひんぱんに。そこに行くたびに私はいつも興奮している。ランボーがシャルルヴィルを嫌っていたことを知っていても、彼はそこで生まれたのだから。私が全く初めてそこを訪れた時、ランボー博物館は閉まっていて、私は涙にくれていた。博物館の番人が私に温情をかけてくれて、中に入れてくれた。そこは埃っぽい場所で、彼のマフラーやコップや食器や地図帳がガラス陳列器の中に納められていた。私は床に座り込み、彼の似顔絵を描いた...。」

リベラシオン:(2017年にパティ・スミスが買い取ったシャルルヴィルから40キロのところにありランボーが少年時代に篭って詩作をしていたとされる)ロッシュの農家はどういうものにするつもりなのですか?
PS
 「この家はランボーの母親の持ち物だった。1917年にドイツ軍によって破壊され、その後同じ姿で再建された。私はそれを作家のレジデンスにしたいと思っている。ランボーのように苦悩する作家がひとりだけで滞在できるような場所に。私にとって最も重要なことは“家”ではなく、“土壌”なの。これが『地獄の季節』の土壌。その上で彼が夢想しながら眠っていたひとかけらの土地。最も偉大な文学作品のひとつが創造された場所として私は保存したいのよ。」

(Article par Frédérique Roussel, dans Libération du 28 octobre 2023)


(↓)2023年10月、国営テレビ France 5「グランド・リブレリー」オーギュスタン・トラプナールによるパティ・スミスインタヴュー。(YouTubeで見るをクリックしてください)

2023年10月26日木曜日

1年ではすまない

"Une année difficile"
『苦しい1年』


2023年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:ピオ・マルマイ、ノエミー・メルラン、ジョナタン・コーエン、マチュー・アマルリック
フランスでの公開:2023年10月18日


レダノ&ナカッシュの8本目の長編映画。2014年の『サンバ』以来トレダノ&ナカッシュ映画3作で花を添えていた女優エレーヌ・ヴァンサンが今回は出ていない。ちょと残念。
 さて、”社会派”色の強いコメディー映画の巨匠になってしまったトレダノ&ナカッシュの『規格はずれ(Hors Normes)』(2019年)に続く4年ぶりの新作。前作が自閉症保護施設の現場という「これコメディーにしていいんですか?」という観る前の躊躇を一挙に吹き飛ばす超ヒューマンな快作に仕上がっていたので、事前の不安はないが、今回のテーマは「非暴力・直接行動派エコロジスト集団」と「多重債務(surendettement)」である。多重債務とは(金融広報中央委員会のサイトによると)「すでにある借金の返済に充てるために、他の金融業者から借り入れる行為を繰り返し、利息の支払いもかさんで借金が雪だるま式に増え続ける状態を指す」と説明されている。返済不可能とわかっていてもまた借りる、クレジット機関質屋家族親族友人同僚...あらゆる借りられるところから借りて、借金地獄の末、世から見放される。やっぱり、これ笑いのタネにしていいのかな?と思ってしまう。
 前作『規格はずれ』のスタイルを踏襲して、今回も主役は男二人のタンデムである。多重債務のどん底で生きているのに植木等的オプティミズムでぶあ〜っと(ほぼ無責任に)その日暮らしをしているアラフォー男である。見栄を張り、後先顧みずに衝動買いを繰り返し、近親の人間関係を壊し、わかっちゃいるけどやめられないライフスタイル。ブルーノ(演ジョナタン・コーエン)は、払えるわけのない住宅ローンで買った家を法的執行によって追い出される瞬間にあり自殺も辞さずという局面にありながら、ネットで見た個人オファーの格安大画面テレビが欲しくてポチり。アルベール(演ピオ・マルマイ)はそのテレビを「ブラックフライデー」の狂乱の争奪戦に勝って手に入れ、ネットで買い手となったブルーノのところに届け現金化しようとその家に着くとブルーノの自殺未遂に立ち会ってしまう。二人はこうして出会う。アルベールはCDG空港の手荷物運送員(かなりきつい仕事だが、滑走路や税関エリアまで入れる特権あり)として低給料で働いているが、住むところはなく、身の回り一切を旅行スーツケースに詰め、夜は空港サテライトの旅客待合室のベンチで”旅行者然”として寝泊りしている。唐突だが私はCDG空港勤務の経験があり、映画で映し出されるこの空港環境の裏側も知っている。アルベールは影で渡航客の持ち込み持ち出し禁止物品の没収ストックの横流しなどをして(あぶない)副収入を得ているが、多重債務の雪だるま借金の返済など夢の夢。
 この多重責務現象の大きな原因のひとつが新リベラル経済システムが激烈に推進する過剰生産&過剰消費のサイクルである。超大量の無用の”新製品”を消費者を誘導して買わせる商業システム、それは消費者たちの極端な貧困化を招くだけでなく、莫大な量の廃棄物によって環境も破壊する。このシステムの最悪の象徴として、この映画の冒頭は「ブラックフライデー」商戦の狂乱を映し出す。その当日、開店前に長蛇の列ができた某大型家電量販店、そのまだ閉じているシャッターの前に直接行動派エコロジストの一団が「ブラックフライデー粉砕」を掲げてスクラムを組み、長蛇の列の客たちの入店を阻止しようとする。しかし何が何でも入店しようとする気の立った消費者たちに叶うわけがない。その消費者たちの先頭にアルベールがいた。
 エキストラ400人を動員して撮られたというこの家電量販店のブラックフライデー商品争奪の(ルールなし、反則規定なし)肉弾戦は、スローモーションで映し出され、バックにはジャック・ブレルの美しい曲「華麗なる千拍子(La valse à mille temps)」が流れる。壮大さを帯びたヴァイオレントな映像と対照的な優美なメロディー。このシーン感動さえ覚える。なおブレル「華麗なる千拍子」は映画最後部のエモーショナルなシーンでもう一度流れる。
 さて、このブラックフライデー粉砕の直接行動に出たエコロジスト集団のリーダー格の女性カクチュス(活動家としての源氏名Cactus = サボテン、実生活の名がヴァランティーヌ)(演ノエミー・メルラン)と、二人のダメ男・多重債務者が接近/交流していくというのが映画の流れ。文無しのブルーノとアルベールが、タダでビールとチップスが振る舞われるというので立ち寄った、このエコロジストグループの環境問題フォーラム集会で、二人はそのディスクールや討論内容には全く興味がないものの、その若々しく楽しそうな雰囲気に溶け込んでいく。この集団は、日々その緊急性が増し続けている地球温暖化と環境問題を議会や既成政党に任せておいては手遅れになるという危機感から、市民ひとりひとりが今できることから始め、全人類に警鐘を鳴らさんと、非暴力直接行動に出た言わば”グレタ・トゥンベルグ以降の”新しい波。映画に出てくる直接行動の例では、自動車道を堰き止めてメッセージの横断幕を掲げたり、集約(産業)畜産農場の動物を逃したり、動物博物館内でダイ・インしたり...。なお、この映画にこのグループのメンバーとしてエキストラ出演しているのは、実在するエコロジスト集団の人たちなのだそう。前作『規格はずれ』でもその自閉症児養護施設の中に出てくるのが(軽度重度の差はあれ)実際にその疾患を持った子供たちだった。これはトレダノ&ナカッシュの本当に勇気ある映画作りの証左。
 一方多重債務者たち向けにも、救済市民団体があり、衝動買いやクレジットの罠にかからないためのコーチングや、ブルーノやアルベールのような”手遅れ”の超借金持ちを「自己破産手続き」によって負債ゼロにまで導く手伝いをしている。この救済センターの相談役アンリ(演マチュー・アマルリック、好演!)がブルーノとアルベールの件を担当し、親身になって両者の資料を吟味し、自己破産申し立て書類を準備してやるのだが.... アンリ自身が極度のギャンブル依存症でカジノのブラックリストに乗っていてカジノ入場を拒否されるというギャグが待ち受けている。コメディー映画ですから。それはそれ。フランスでこの自己破産申し立てを受理して借金をご破算にしてくれる公機関はフランスの中央銀行 Banque de Franceである。しかしアンリが尽力して用意した申請書類はブルーノもアルベールも虚偽記述が多かったり悪い前例がバレバレだったりで、両方とも却下されてしまう。
 最初は全くその気がなかったのに、この集団のやっていることが面白くなって(+アルベールに芽生えてきたカクチュスへの恋慕の情も手伝って)二人は積極的に派手なエコロジスト行動に参加するようになり、やがてカクチュスを補佐する中心的メンバーにまで。それをいいことに、この種の世直し運動にシンパシーを抱く富裕老人層からの物品寄付される高級品を横流しして現金化してふところに入れたり。そしてさらに悪知恵の働くブルーノは、次の抗議活動の標的として、リベラル経済による過剰生産・過剰汚染の元凶のひとつフランス中央銀行バンク・ド・フランスで派手な示威行動でメッセージを訴えようと提案する。抗議活動に銀行警備が注意を取られている間に、二人は銀行内に潜入し、書類置き場にファイルされている自分たちの自己破産申請に押された「不許可」スタンプをホワイト修正液で「許可」に変える...。書類偽造作戦はまんまと成功するが、銀行正門での派手な抗議活動の果てにブルーノとアルベールはカクチュスを巻き込んで警察に逮捕されてしまう。そして数時間の勾留の後で、警察署から出てきた3人は運動の英雄として大喝采されることになる。アルベールとカクチュスの恋はだんだんいい感じに。
 この映画を酷評するメディアは少なくない。その主な理由のひとつが、あまりにもエコロジスト運動をカリカチュア化しているというもの。ノエミー・メルラン演じるエコロジストリーダーが、大金持ちの令嬢であり(運動メンバーたちも富裕層の子女的なおもむきあり)、環境危機をあまりにも精神的に取り込んでしまって病気になり、セラピーのように運動に全身全霊を打ち込むようになった、と。この立ち位置は『サンバ』(2014年トレダノ&ナカッシュ映画)でのシャルロット・ゲンズブール(バーンアウト休職している巨大企業女性管理職が、移民労働者支援のNGOで見習いとなっている)とほぼ同じ。ノエミー・メルラン、すばらしい女優さんなのに、この役はかなり軽い。コメディー映画ですから。
 そしてこういう運動の中には往々にしてゲシュタポ的な人物がいるもので、アルベールが急速にカクチュスといい仲になりつつあるのを嫉妬してか、アルベールがかのブラックフライデーの封鎖ピケを一番先に破った場面や、寄付品の横流し販売の場面など証拠動画をメンバー全員の前で暴露する。カクチュスは真っ青になり、アルベールはエコロジスト集団から追放される....。
 運動に残ったブルーノは兄弟分アルベールの名誉回復復権を画策し、メンバーたちにはアルベールの介在を秘密にして、CDG空港滑走路での旅客機離陸をエコロジストメッセージの大横断幕でストップさせるコマンド作戦を企画する。メンバーたちはリスクが大きすぎると難色を示すが、ブルーノには絶対の自信がある。上に書いたようにCDG空港の裏の裏も知っているアルベールは、影で首尾よく行動隊の滑走路侵入を手助けし、その場で再会したカクチュスはアルベールの真摯な行動に心動かされる。滑走路に出現し、発煙筒を焚き、横断幕を広げて、離陸しつつある旅客機を寸前でストップさせてしまうシーン(ここでサウンドトラックとしてドアーズ”ジ・エンド”が流れる)、これは美しい。しかし空港警備隊の車両が群をなしてその現場に猛スピードで急行し、その一台がカクチュスをはね飛ばしてしまう...。

 山も谷もある2時間映画。今回のタンデム、ピオ・マルマイとジョナタン・コーエンのキャラクターには深刻さは何もない。温暖化・環境変動に真剣に何とかしなければという市民意識の深刻さも薄い。多重債務地獄や新リベラル資本主義地獄への真剣な省察などない。コメディー映画ですから。それでもそれらを笑える”見方”というのは非常に有効だと思う。トレダノ&ナカッシュ映画としてはたぶん『サンバ』の次ぐらいに評価の低い映画になりそうだが、私はこの楽天性がずいぶんこの極めて難しい世界の動き(映画はイスラエル・ハマス戦争の最中に公開された)に一息つかせてくれるものだと感じた。だが映画題となっている Une année difficile =難しい1年、苦しい1年、困難な1年は、1年ですむわけはない。

 病院に収容されたカクチュスは長い間昏睡状態で眠っている。その病床にはずっとアルベールがついている。どれほど長い日数が経ったろうか。待ち続けたアルベールと共にパリも変わっている。ようやくカクチュスは目を覚まし、アルベールは病院からカクチュスを連れ出し、パリの町に出ていく。通りには誰もいない。ロックダウンのパリ。通りの端に大きな鹿の姿が見えたりする。誰もいない美しいパリの通りで、二人はワルツを踊る。ジャック・ブレル「華麗なる千拍子」に乗って。ここでどれだけ私は救われたことか。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)”Une année difficlle(苦しい1年)”予告編 


(↓)素晴らしい挿入歌 ジャック・ブレル「華麗なる千拍子」(1959年)公式クリップ