2019年11月22日金曜日

負けないイッサ

『レ・ミゼラブル』
"Les Misérables"

2019年フランス映画
監督:ラドジ・リ
主演:ダミアン・ボナール、アレクシ・マネンティ、ジェブリル・ディディエ・ゾンガ、イッサ・ペリカ
2019年カンヌ映画祭審査員賞
フランスでの公開:2019年11月20日


Mes amis, retenez ceci, il n'y a ni mauvaises herbes ni mauvais hommes. Il n'y a que de mauvais cultivateurs.    
(Victor Hugo "Les Misérables" )  
わが友人たちよ、このことを覚えておきなさい、悪い雑草も悪い人間たちも存在しない、あるのは悪い耕作者たちだけなのだ。
(ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』)

ーヌ・サン・ドニ県(93県)の町モンフェルメイユは、ヴィクトール・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』(1862年)においてジャン・ヴァルジャンが幼いコゼットと出会う場所として知られる。また2005年10月から11月、20日間に渡って続いたパリ郊外暴動事件において93県クリシー・スー・ボワと並んで全国規模の暴動となる同事件の最初の発火点となった町でもある。映画はこの二つと大きく関係している。特に2005年の事件は人々の記憶に新しく、連夜の襲撃/警官隊との衝突で町も人心も激しく破壊されたのち「一体なにが残ったのか」と問うセリフが出てくる。破壊は何も生まなかったという記憶から、この町は様々なコミュニティーのすべてが「2005年」の繰り返しは絶対に避けるべき、という賢明な考えであり、不文律のアレンジメントで危うい平和環境を保っていた。この平和秩序は警察権力によって保たれているわけでは全くない。産業も仕事もないこの郊外の一角では、"並行経済””地下経済”が市場を支配し、偽物・盗品・無許可営業がまかり通り、麻薬と売春はこの経済上不可欠であるかのような重要度である。法による摘発はありうる。だがそれは起こらない。
 この映画に登場するだけで、ロマの共同体(サーカス巡業)、闇カジノを財源とするグループ、サラフィスト系イスラム原理主義集団、露天市を取り仕切る"偽市長”とその配下の自警団など、とても市や警察では統御できそうにない、各縄張りを固く守っているコミュニティーがある。そんな危うい平和の時に、2018年、93県のヒーロー、キリアン・ンバッペを筆頭とするレ・ブルー(サッカーフランス代表チーム)がW杯で世界一に輝き、このモンフェルメイユの町からも郊外電車を乗り継いで子供たちがシャンゼリゼ大通りに繰り出し、優勝の大騒ぎに酔いしれる。(この映画の冒頭シーンだけでも涙が出そうになる)
 幻覚、蜃気楼、ミラージュのような無数の三色旗がひるがえるシャンゼリゼ大通り。

まさにミラージュなのであるが。

 この十数年の平和を保ってきたモンフェルメイユの警察署に転任してきた巡査ステファヌ(あだ名を"ペント")(演ダミアン・ボナール)の、転任初日の24時間に起こってしまう事件が映画の前半である。町の各コミュニティーが混在して暮らす集合高層住宅地区"シテ・デ・ボスケ"の巡回パトロール班に配属されたステファヌは、その地区巡回の十年選手である百戦錬磨の猛者警官であるクリス(演アレクシ・マネンティ、怪演!)とグワダ(演ジェブリル・ディディエ・ゾンガ)と3人チームを形成する。難しい地区の秩序維持を任された彼らは、現場を知り抜いているゆえに、住民に対して高圧的になったり融和的になったりの加減を熟知している。一面的に権力を盾にとった公僕でいられるわけがない。この描写が難しいところで、特に表面的に"粗暴警官”のように見えるクリスが、現場主義のロジックに最も忠実な一貫性があることが映画の進行にしたがってわかってくる。ステファヌは最初は警官としてのデオントロジーから、クリスのシニックで短絡的な住民との接し方に反感を覚えるのだが。

 事件の発端は町外れに大テントを設置してサーカス興行をしているロマ系のコミュニティーのボスのゾロが、バットや鉄パイプで武装した部下たちを引き連れてシテに押しかけ、「サーカスのライオンの子供がシテに住む子供に盗まれた」と、シテ中を力尽くで探し回ってライオンの子を奪回すると息巻いている。シテ住民を代表してその蛮行を防ごうと立ちはだかる"偽市長(ル・メール)"を名乗る自治会長(アフリカ系)(演ニザール・ベン・ファトマ)とその自警団。 この両グループによる押し問答のさなかに、クリスら巡回警官が割って入る。24時間中にライオンの子を見つけ出さなければ、シテを焼き払うと脅迫するロマ団。ライオンは必ず見つけるから、この場は俺たちにまかせてサーカスに戻れ、とクリス。

 その昔からフランスで「ニワトリ泥棒  voleur de poulet」と呼ばれていたロマの人々、その風聞の逆でロマのキャンプからニワトリを盗む少年イッサ。映画の最初にフランスW杯優勝に狂喜し、シャンゼリゼまで繰り出して行った少年だ。ありふれた、どこにでもいる郊外少年で、家庭・家族に問題があり、シテのダチたちとつるんで行動する日常(ベンチでだべったり、フットボールしたり)。フツーにこの郊外環境で育ってしまった肌の浅黒いこの子がライオンの子を盗んで地下室に閉じ込め、近所の子たちに見せびらかして得意になっていた。だから簡単に問題の「ライオン泥棒」はこの子と特定された。
 一方、 バズ(buzz)と呼ばれる黒人のメガネの 少年(演アル=ハッサン・リ、この映画の監督ラドジ・リの息子)がいて、ドローンを使っての動画撮影に凝っている オタク型のキャラクター。その撮影対象は集合住宅建物に住む女子たちの窓であり、その着替えシーンをドローンから盗撮し、動画をコレクションしてスマホにため込んでいる。こういうオタク的な引きこもり型の少年だが、放課後にはフレール・ムジュルマン(ムスリム同胞団)系の顎ひげ男たちに連れられてモスクに通っていて、ひ弱ながらイスラムへの信頼度は高い。これはこの映画全体のトーンと考えられるが、この映画で描かれるイスラム十全主義(サラフィスム/ムスリム同胞団等)は多くのフランス映画に現れる戯画的にネガティヴなイメージは全くない。子供たちにとって一番真っ当な考えはこれだ、と信じさせる何かがある、という面がこの映画でわかってくる。

 さてクリスら巡査3人によるイッサ狩りが始まる。まさにこれは”狩り=ハンティング"であり、野外グラウンドで遊んでいるイッサの姿を確認するやいなや、警官3人は周囲のたくさんの子供たちなど目に入らぬさまで、手加減なしの乱暴さでイッサを追い詰めていく。激しい捕物アクション。必死で逃げるイッサに子供たちは加勢し、3人の警官にものを投げつけてイッサを逃そうとする。催涙スプレーなどではこの勢いのついた子供たちを止めることができない。やっとのことイッサに手錠をはめることができたが、イッサの抵抗は止まない。子供たちは集中して警官たちに投石を激化していく。たまりかねたグアダが水平方向にフラッシュボールを発射し、その球がイッサの顔面を直撃する。 
 これをフランスでは "bavure"(バヴュール:スタンダード仏和辞典では「手落ち、失策、警察のやり過ぎ」と訳語あり)と言う。一般に正当防衛でもないのに、警官が武器を乱用し、相手を殺傷してしまう時に使われる。このグアダのフラッシュボールの発射の時点で、クリスはこれがバヴュールであることを直感する。非常にまずい。これは証拠をつきつけられたら言い逃れができない。警察の不祥事→住民の抗議の爆発→2005年の再燃... 一瞬にしてクリスにはこのシナリオが見えてしまった。だからバヴュールであることを隠蔽しなければならない。目撃者は子供たちだけだ。誰もこの現場を動画撮影していたりはしない...と空を見上げるとドローンが舞っているではないか!
 捕物は一転して、警官3人はこのドローンの主バズを追跡し、その目的はいち早く動画証拠を奪って消去しなければならない、になる。バズもまたことの重大さを一瞬にして把握し、 警察の追及を逃れるためにフレール・ムジュルマンに助けを求める。そのリーダー格の男サラー(演アルマニー・カヌート)はケバブ店を営む物静かな男であるが、警察からは以前から「Sファイル」(イスラム・テロリストに転じる可能性のある要注意人物リスト)上の人物としてマークされている。厳格なイスラム者であるサラーは終始厳しい顔つきで、自然のさだめや人のなすべきことを理路整然と語り、その重みはしばしば相手を圧倒する(相手が警官であっても)。サラーが匿ったバズは簡単には警察の手に引き渡されることはない。
 一方フラッシュボール弾を顔面に受けて顔が歪んでしまったイッサは、その屈辱に加えてライオンの子をサーカス団長ゾロに返却の上謝罪を強いられる。ただで謝罪を受け入れるほどお人好しではないゾロは、イッサを警官3人の面前で親ライオンの檻に閉じ込めるというサディスティックな制裁を加え高笑いをする。イッサの屈辱感は頂点に達してしまう。
 また一方クリスは力づく(冤罪別件逮捕も辞さぬ態度)で サラーから撮影データの入ったSDカードを取り上げようとするが、両者の不信感の壁は厚く埒が明かない。そこへ新任のステファヌが割って出て、サラーとの一対一の対話を申し出て.... 。一瞬ここで魂と魂の会話ができたような、この映画後半で唯一の緊張のほぐれる空間が現出する。
 これらの人々が求めているのは何か?ロマのサーカス団、住民組合、ムスリム同胞団、警察、これらの「大人たち」は波風を立てず、「どうにかまるくおさめる」ことしか考えていないのだ。誰も傷つかず、誰も利益を失わず、この生活が続けられれば、それでいいではないか。転任地の初勤務の24時間でこれだけの重い事件を体験したステファヌは自問する。この薄氷の秩序の番人であるということに自分は耐えられるか。

 バズがドローンで撮影した"バヴュール”の動画データの入ったSDカードは今、サラーから託されてステファヌの手の中にある。これをどうするか。「秩序か正義か」という二者択一ではない、「この世界を守って生きるのか、この世界を捨てるのか」の水準まで問題は引き上げられるのだ。文豪ヴィクトール・ユゴーの描いた「悲惨の人々 レ・ミゼラブル」のように。夜中、ステファヌはグワダ(フラッシュボールを誤射した"バヴュール”の張本人)を呼び出し、SDカードを手渡す。そのシーンの前後には、本当は気の弱い独身で母と二人暮らしのグワダの私生活、そして気難しく血気早く「俺こそが法律だ」と叫ぶほど権力の化身として振る舞うクリスも家に帰れば二人の娘の良き父親という私生活が映し出される。この映画で3人の警官は戯画的な警察権力の代行者ではないということを強調してのことだろうが。
 映画は収束に向かう? とんでもない。対立する勢力や警察行政との敵対関係をうまくまるくおさめて、"バヴュール"事件は終わったものと思っていたクリス、グワダ、ステファヌの3人の巡回パトロールは、まんまと罠にはまり、イッサが組織した子供たちの”重”武装集団の集中攻撃を浴び、シテ(集合高層住宅)の建物の奥に追い詰められる。出口のない廊下の角に押しやられた3人の前には、火のついた火炎瓶を持ち、今まさに投げんとするイッサがいる。その廊下の角に一箇所だけあるドアを叩いてスタファヌは助けを乞い絶叫する。そのドアの裏側では、ノブを開けようか開けまいか迷っている、メガネのオタク少年バズがいる...。(エンドマーク)

 最終の戦闘シーンの凶暴さは、戦争映画的である。郊外戦争をこの町モンフェルメイユでしっかりとその目で見た監督ラドジ・リのリアリズムと解釈できる。大人たちの口裏合わせアレンジメントを子供たちは拒否した。火炎瓶、手製爆弾、手製ロケット砲など、殺傷力のある兵器で武装して、子供たちは組織的に戦術を立てて警官3人に報復戦を実行した。W杯優勝を祝う子供たちの無邪気でナイーヴな姿は何だったのか。束の間のミラージュだったのか。この町は子供たちの絶望に歯止めをかけられなくなってしまったのか。
最終場面のあとで画面に映し出されるのが、本稿冒頭で引用したヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』からの一節である。「悪い草も悪い人間もいない。いるのは悪い耕作者だけである」ー 郊外は悪く耕されたのだと思う。この土は誰が耕したのか、という責任論ではない。この子供たちはこの土で成長したのだが、この土に馴染ませようとばかりする大人たちは子供たちに転覆されよう。映画がつきつける超強烈なクエスチョン・マークはこれである。私たちが生返事でごまかそうとすると、この子たちは本当に私たちに戦争をふっかけてくるだろう。ステファヌの最後の絶叫を子供たちは聞くのか、無視するのか、この答えは私たちが考えなければならない。
一言だけ苦言を言えば、女性たちの出る幕がほとんどない映画。郊外で女性たちが出る幕がないということはありえないはず。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『レ・ミゼラブル』予告編

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