2024年7月16日火曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界・その2(ジェーンBの命日に)

Jane Birkin "My Chérie Jane"
ジェーン・バーキン「マイ・シェリー・ジェーン」
(1974年)


詞:セルジュ・ゲンズブール
曲/編曲:アンドレ・ポップ


2023年7月16日、ジェーン・Bが76歳で亡くなってから1年が過ぎた。あれから様々なことが起こったし、ジェーンの死の前日(7月15日土曜日)に携帯メールを送ったのに返事がなかったと悲嘆したフランソワーズ・アルディも後を追うようにこの6月11日に80歳で旅立った。ゲンズブール/ジャック・デュトロン/バーキン/アルディは運命で繋がれていただろうし、ジェーンより3歳年上のフランソワーズは自分の何もかもを知っている”姉”であったろう。
 フランソワーズが亡くなったあと、私は”La Question"(1971年)、”Message Personnel"(1973年)、"Le Danger"(1996年)の3枚のアルバムを何度も聴き直さざるを得なかったのだ。やはり私はこの人の声と言葉と音楽に強く惹かれていたのだ。この人の世界はまず何よりも音楽であり、喜びを与えてくれるわけではなく、メランコリーに深々と包まれる時間を通して私はこのアーチストを体験していたのだ。私にとってのアルディのいたわしさはここに尽きる。
 それに引き替え、ジェーン・Bの死のあと、私はレコード/CDを聴き返すことも、数本持っている(数本しか持っていない)ジェーン出演映画DVDを観直すこともなかった。このブログで再録したし、他に追悼原稿依頼もあったりした関係で、かの日記本2冊(『マンキー・ダイアリーズ』と『ポスト・スクリプトム』)は2023年夏にじっくり読み直した。それではっきりしているように、ジェーン・Bに関して私が愛しているのは音楽アーチストでも女優でもなく、その人となりと生きざまなのだ。言うことであり、書くことであり、行動することだった。ずっと敬愛し、リスペクトしていた。だから”ゲンズブールの”という枕詞がつくジェーン・Bには、たとえそれが宿命的に不可分と言われようが、私はあまり言うべき言葉を持っていないのである。

(動画↓)1974年TVショー、ジェーン・B(26歳)&フランソワーズ・H(29歳)、「小さな紙切れ(Les Petits Papiers)」(ゲンズブール作)をデュエットで。カメオ出演:デュトロン&ゲンズブール。


 さて唐突に1974年のジェーン・バーキンのシングル盤である。地球規模ヒット「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」が1969年、シャルロット誕生が1971年、ジャック・ドレイ監督映画『太陽が知っている(La Piscine)」が1969年、1970年代を通して出演した映画25本、とりわけ70年代前半はコメディー映画が多い、役はハレンチ(これは昭和語か)&セクシーのイメージが強い。そういうイメージ付けは良くも悪くも”フランス芸能界”のど真ん中にいたゲンズブールの計算ずくだったと想像できる。外側から見るとこの時期のジェーン・Bはピグマリオンに操縦されるがままの芸能人形のように思われたが、実はゲンズブールの意図よりも彼女自身の方が"Girl just wanna have fun"イメージをクリエイトしていったことが「日記本」ではっきりしている。ただこの”芸能”スター期のジェーン・Bが私はとても苦手。そして音楽的にも事情は同じで、私は1973年アルバム "Di Doo Dah" ととりわけ1975年アルバム"Lolita Go Home"が苦手。後者はプロダクションの手抜き感があからさま。
 ジェーン・Bは後年(ゲンズブール死後)、ゲンズブールが彼女に与えた最良の曲群は、バーキン/ゲンズブール破局(1980年)後の3枚のアルバム(1983年”Baby Alone in Babylone" 、1987年"Lost Song"、1990年”Amours des feintes")に集中していると何度も強調していた。たしかに。主にシングルヒットだけが求められていたフランスの70年代ヴァリエテ界では難しい注文だったとも言えよう。売らんかな期のゲンズブールはコミカルな歌を連発していたし。
 1974年、在任中の大統領ポンピドゥーが死に、ジスカールが新大統領になり、芸能の中心はテレビ、という時代だった。沢田研二がパリで"Mon amour je viens du bout du monde(巴里にひとり)”を録音した年。第二次大戦後の好景気「栄光の30年」が終結する頃、まだテレビは脳天気で、芸能界は平和でハレンチだった。ハレンチ&セクシーのシンボルだったジェーン・Bは、歌手よりも映画で目立っていたから、あまり音楽には頓着していなかったように見えた。2枚のアルバム”Di Doo Dah"(1973年)と”Lolita Go Home"(1975年)に挟まれた1974年のシングル「マイ・シェリー・ジェーン(My Chérie Jane)」(通算では6枚目のシングル)
(↓)TV(ヴァリエテショー)動画


今日の視点で見れば、この男囚人たちに触られまくる露出度高め女性という図はかなり問題あると思うが1970年代、私らが若かった頃はこんなのがザラだった。作詞セルジュ・ゲンズブール。男たちがヨダレを垂らして寄ってくる娘のことが謳われている。

Dans mes jeans
ジーンズ履いて
Au soleil
日向に出ると
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンって
On me glisse
耳元で
À l'oreille
囁くのが聞こえる
My chérie, my chérie, my chérie
Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
À mes trousses
私を追いかけて
On se jette
人が飛びついてくるから
Je me hisse sur une branche maîtresse
私は木の枝によじ登るの
Ils sont tous
みんなケダモノみたい
Comme des bêtes
マイシェリー、シェリー・ジェーンって
À baver my chérie, chérie Jane

ヨダレを流してるわ
Malgré ça je me sens moche
それなのに、私は自分を醜いと思うの
Ça va pas dans ma caboche
私の頭の中はうまくいってない
J'ai des nuages gris-bleu

目から突然青黒い雲が
Qui soudain me sortent par les yeux
出てくるのよ

Et puis merde
その上、なんてことなの
Avec vos
あんたたちの
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンっていう声のせいで
Il se perd
彼の姿が影も形も
Des pieds au
なくなっちゃう
Cul, chérie, my chérie, my chérie Jane

シェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Dans l'rétro
バックミラーで
Il me dit
運転手が答えるわ
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Conduis-moi
お願いよ
Je t'en prie
私を連れて行って
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
Vers c'ui-là
あの人のところへ連れて行って
Qui m'a dit
私のことを一番最初に「マイシェリー、シェリー・ジェーン」って
Le premier « my chérie, chérie Jane »
言ってくれたあの人

スティーヴィー・ワンダー「マイ・シェリー・アムール(My Chérie Amour)」は1969年のヒット曲。多分”My Chérie"という英仏語ちゃんぽんはここから援用したのかもしれない。ハレンチ・セクシーなイギリス娘という当時のイメージにこの英仏ちゃんぽんは合致するものだろうけど。ちょっと苦手な私である。
 華麗なるアンドレ・ポップの世界、作曲・編曲がアンドレ・ポップ、そしてオケがアンドレ・ポップ楽団である。ポップとゲンズブールが組んだ楽曲というのは、私はこれしか知らない。両者ともフランスのヴァリエテ音楽界のど真ん中にいた音楽家であり、60年代のユーロヴィジョン楽曲提供など同じフィールドで仕事もしていたし、よく知る仲なのかもしれない。ただこの「マイ・シェリー・ジェーン」の共同作業というのはどうなのだろう?ミスマッチだと思いますよね。50/60年代から一貫してるおり目正しくも流麗なメロディー作家と、毒気ある作詞家/歌手カップルという、異種のポップ音楽表現者の出会い、バーキンのシングル盤ではあまり成功しているようには聞こえないと思いました。

 では同じ曲をアンドレ・ポップ楽団のインストで聞いてみたらどうだろうか?
(↓)アンドレ・ポップのアルバム"MON CINEMA A MOI"(1974年)より

 
 ね?これは珠玉のイージーリスニングであり、バート・バカラックもかくや、と思わせる軽妙洒脱なメロディーが際立つアンドレ・ポップ節ではないですか。

 それからフランク・プールセルが連作"Amour, Danse et Violons"の第44集(1974年)で録音したヴァージョンがあり、これは軽快なシンフォニック・サンバ仕立てです。


(というわけで、ジェーン・Bの命日とはあまり引っ掛かりのない記事になってしまいました。ごめんなさい。)

2024年7月12日金曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界・その1

Herb Ohta "Song for Anna"
ハーブ・オオタ「天使のセレナード」
(1973年)
作曲:アンドレ・ポップ


ダニエル・ポップの記述によると、作曲家アンドレ・ポップ(1924 - 2014)の3大世界的ヒットは(ビッグな順番から)「ポルトガルの洗濯女」(1952年)、「恋はみずいろ」(1966年)、「天使のセレナード」(1973年)となるそうだ。それはたぶん印税収入でのビッグ3なのだろうが、(多くの人が想像していただろう)「恋はみずいろ」ダントツというわけではなかったのだね。
 さて、ハーブ・オオタ(1934 - )は言わずと知れたハワイを代表する世界的ウクレレ奏者であり、”オオタ・サン Ohta-San"の愛称で通っている。「ソング・フォー・アンナ」は当時全米で6百万枚の売上を記録したと言われ、オオタ・サンの代表的ヒットとなったのだが、その作曲者アンドレ・ポップとの出会いは1972年、東京での出来事であった。
 フランス国営ラジオ(Radio France)のジャーナリスト/プロデューサーのセルジュ・エライク(Serge Elhaïk)が2018年に上梓した2160ページの大著『シャンソン・フランセーズの編曲者たち(Les Arrangeurs de la chanson française)』(Editions Textuel刊)という大変な本があり、いつか手にして読まねばなるまいと構えているのだが、今日まで実現していない。息子ダニエル・ポップのFBページによると、この本の中にハーブ・オオタとの出会いをアンドレ・ポップが証言している箇所がある。そのまま訳してみる。
セルジュ・エライク:「ソング・フォー・アンナ」は「恋はみずいろ」に続く大ヒットとなりましたね。
アンドレ・ポップ:これはとても稀なエピソードさ。ある日私は東京のホテルにいて、私にぜひ会いたいという人物からの電話を受け取ったんだ。それがウクレレの大スター、ハーブ・オオタだったんだ。そして”私はあなたの作った「恋はみずいろ」を知ってますよ”と言って彼のウクレレでメロディーを弾いたんだ。素晴らしい演奏だった。そして”私はあなたのよく知られた曲でアルバムを録音したいんです。未発表の新曲を2曲加えてください。そしたらフルオーケストラと録音しにパリにやってきますよ”と。彼はパリに来て、万事は予定通りに。2曲の新曲のうちの一つとして私は「ソング・フォー・アンナ」を作曲したんだ。そして彼はマスターテープを持って帰国して行ったんだが、その後6ヶ月間なんの音沙汰もなかった。そんなある日一通の電報が届いた”「ソング・フォー・アンナ」が全米イージーリスニングチャートに入った”と。レコードはかの名高いトランペット奏者ハーブ・アルパートのA&M社から発売され、全米ヒットチャートに3ヶ月間上ったままだった。続いてメキシコとブラジルでナンバーワンヒットになり、歌入りのヴァージョンも多く録音された。日本でもこれはビッグヒットになり、のちに私が東京に行った時、滞在したホテルのピアニストが「ソング・フォー・アンナ」を弾いているのを聞いたんだ。この仕事の偶然がもたらしたものとは言え、信じられないような話だよ。
それは1972年のヤマハ世界歌謡祭で両者が来日していた時の話とされている。同じ音楽祭でアンドレ・ポップがマルティーヌ・クレマンソー「ただ愛に生きるだけ Un jour l'amour」でグランプリを取ったのは1971年のこと。それはそれ。1972年のハーブ・オオタとアンドレ・ポップの出会いについては、ハーブ・オオタからの興味深い証言がYouTubeに公開されている。(↓)


わかりやすい英語なので、解説は不要だと思うが、上のアンドレ・ポップの証言と逆なのは、オオタによると歩み寄ってきたのはアンドレ・ポップの方で、「パリに来て一緒に録音をしよう」と誘ったのはポップだったと言っている。まあ、これはお互いの”高い”プライドのなせる軽い食い違いだと思うが、たいしたことではない。それよりもポップが証言していた「6ヶ月間なんの音沙汰もなく」ということが、オオタの証言でクリアーになる。オオタは録音のコピーカセットをあらゆるメジャーレコード会社に送ったが、どこも相手にしなかった。1970年代のロック全盛期に、こんなクラシックまがいの静かな楽曲は売れっこないと決めつけられた。全米のラジオ局からも拒否された。仕方ないからローカル(これはハワイということなんだろう)の小さなレーベルからレコードを出したら、それがローカルでナンバーワンヒットになった。それはロック系のFM局が、朝の早い時間(通勤時間帯)にこの曲をオンエアしたからで、それが反響を生み出し、その噂をA&Mレコードのハーブ・アルパートが聞きつけて、A&Mから全米リリースされ... という話につながる。これが「6ヶ月間なんの音沙汰もなく」のオオタさんの事情だったわけだが、私はこのロックFM局が朝の通勤時間帯にこの曲を流したら大反響になったという話が大好き。なんか朝早起き労働者たちの心に訴えるものがあったのだよね。ロックしか聞かない学生たちは朝寝坊だしね。
 それはそれ。
 では曲を聴いていきましょう。

(1)ハーブ・オオタ(オオタ・サン)「ソング・フォー・アンナ」(1973年)
  作編曲アンドレ・ポップ、伴奏アンドレ・ポップ楽団


(2)アンドレ・ポップ楽団「ラ・シャンソン・プール・アンナ(La Chanson pour Anna)」(1973年)


(3)ポール・モーリア楽団「天使のセレナード」(1973年)
日本で圧倒的に有名なヴァージョン。番組テーマやCMなどに使われるのはほぼ全部モーリア・ヴァージョン。

(4)ヘンリー・マンシーニ楽団「ソング・フォー・アンナ」(1974年
「ピンク・パンサー」のヘンリー・マンシーニはポップと同じ1924年生まれ(1994年没)で今年生誕100年。欧物イージーリスニングにはない「ラスベガス感」と言うのだろうか。


(5)ジャネット「ラ・シャンソン・プール・アンナ」(1977年)
歌もの。作詞はジャン=クロード・マスーリエ(1964年から70年までユーロヴィジョン・コンテストのフランス審査員代表)。スペインの女性シンガー Jeanette(ジャネット、日本語Wikipediaでは”イギリス人歌手”とされている)はアンドレ・ポップと組んだ録音がいくつかあり、これはなかなか。

La chanson pour Anna est née un jour de printemps
アンナのための歌はある春の日に生まれた
Celui qui la chantait alors n’avait que vingt ans
その歌を歌ったのはまだ20歳の若者だった
Tu étais une enfant Anna et lui un soldat
おまえは子供だったアンナ、そして彼は兵隊だった
Il était ton ami et ne chantait que pour toi
彼はおまえの友だちで、おまえのためだけに歌っていた

Il partit

彼はギターと銃を携えて
Avec sa guitare et son fusil

旅立った
Loin de toi

おまえから遠く離れた
Au hasard de la guerre

戦争の危険の中へ
Par un matin de pluie

ある雨の朝に
Il te dit :

若者はおまえに言った
Au revoir Anna ne pleure pas

さよならアンナ、泣かないで
N’oublie pas ma chanson pour toi

おまえのために作ったぼくの歌を忘れないで

La chanson pour Anna tu l’as gardée dans ton cœur
アンナのための歌をおまえは心の中にしまっておいた
Comme un jardin secret, comme un instant de bonheur

秘密の庭のように、幸福のひとときのように
Tu grandis doucement au fil du temps, des saisons

おまえは時と季節を経て大きくなった
Et tu n’as jamais souri ou pleuré

ほかの歌を聞いても

Pour une autre chanson

おまえは微笑みも涙を流すこともなかった
Si tu as dans le cœur quelqu’un qui pense à toi
もしもいつかおまえを愛する人を心に抱いたら
Tu chanteras un jour la chanson pour Anna
おまえはアンナのための歌を歌うだろう
La chanson pour Anna un jour tu l’as entendue

おまえがかつて聞いたアンナのための歌

Celui qui la chantait Anna tu l’as reconnu
それを歌ってくれた若者をおまえは見つけだす
La guerre était finie et il était revenu

戦争は終わり、彼は戻ってきて
Chanter avec toi d’une même voix

おまえと一緒に一つの声で歌う
La chanson d’autrefois

懐かしいあの歌を
Si tu as dans le cœur quelqu’un qui pense à toi

もしもいつかおまえを愛する人を心に抱いたら
Tu chanteras un jour la chanson pour Anna
おまえはアンナのための歌を歌うだろう


2024年6月29日土曜日

マッシリアの40年, Oaï not !?

Massilia Sound System "Anniversari"
マッシリア・サウンドシステム『アニヴェルサーリ』


ッシリア・サウンドシステムの40周年アニヴァーサリーアルバム。1984年5月20日(日曜日)、マルセイユのストリートアートの聖地ル・クール・ジュリアンで初お目見えラバダブ(Rub à Dub)を敢行したというのが、マッシリア誕生の瞬間であった。40周年記念ツアーは6月29日から始まり、そのハイライトは7月19日のマルセイユ旧港の水上特別ステージを使ったメガ無料コンサートということになっている。
 さてこのアニヴァーサリーアルバム『アニヴェルサーリ』は新曲がない。2022年から23年にかけて、マッシリアの歴史的ナンバー20曲をオールドスクールRub a Dubスタイルで再録音し、コレクター仕様の7インチシングルの2種のボックスセット(私はあまり興味ないので買っていない)として発表したものの中から、10曲をピックアップして再収録、加えてインスト2トラックを含む4曲のボーナストラック、という14曲。だからオリジナルアルバムという性格はない。お祝いもの。いいのかな?2024年6月のフランス、天下取りを成就する一歩手前まで来ている極右を食い止めんと、急遽超党派連合を果たした”新”人民戦線の熾烈な闘いを横目で見るように...。私はこの味もヒネリもない旧作再録音にあまり感心しなかったので、アルバム評はせずに、6月29日付けのリベラシオン紙に2面を占める記事になったタトゥーのインタヴューを訳して紹介したい。

リベラシオン「40年前マッシリア・サウンドシステムを結成するに至った動機は何だったのですか?」
80年代初頭のマルセイユの自由FM”Radio Galère"の番組「スカンク」からすべては始まった。その中で俺はダチのジャノ(別名 Jah No)と二人でインストルメンタルに乗せて即興で時事問題についチャチュ(Tchatche =でまかせ説法)したんだ。こんなことをするのは世界で俺たち二人だけだと思っていたんだが、ある日別の自由FM局”Radio Activité"でジョー・コルボー(Jo Corbeau) が同じようなことをしていたのを知った。彼と出会い、親しくなると、自然と俺たちの周りで仲間が増え不定形のバンドのようなものができて、1984年5月、マルセイユのル・クール・ジュリアンで初めてのコンサートを開けたというわけさ。だがバンドが本格的に4、5人のメンバーとして固まったのはそれから1、2年経ってのことだった。俺たちの目標はそれを俺たちの生活にすることだった。俺たちはみんなロックンロールの世代だったんだから。俺たちが望んでいたのは Rock & Folk誌(仏ロック雑誌1966年創刊)に書いてあったようなことを実践することだった、すなわち Sex, Drugs and... Reggae、さ。
リベラシオン「なぜレゲエなんですか?」
それは当時のパンクとレゲエの混じり合いのおかげさ。さらにサウンドシステムのカルチャーには思想伝達と即興表現の度量の大きさがあったんだ。ストリートのメディアみたいなもんだ。俺たちはみんながマルセイユに感じていたような文化的砂漠のような諦め感を拒否して、このカルチャーにおおいに興味を持ったんだ。あらゆる若者たちがマルセイユを出て行きたいと思っていた。ここで何かをしようというのは想像できないことで、パリかロンドンに移っていくしかなかった。だがマッシリア・サウンドシステムにはミュージシャンだけが集まったわけではなく、画家もいたし、服作りをしている者もいた。だから一種の複合種目のムーヴメントだったのさ。
リベラシオン「歌詞にオック語を使用するというのは?」
マルセイユの言語表現を交えたのさ。俺たちの音楽を中心にしたひとつのトータルな世界を創ろうとしたんだ。まず手始めにジャマイカの土地の表現を真似てみた。例えばラスタたちがあいさつとして言う「アイリー(Irie)」(=クール、OK、ナイス)を俺たちは「アイオリ(Aïoli)」に変えた。ラスタファリズムにおけるイスラエル部族を俺たちはマルセイユ部族に置き換え、ラス・フェルナンデル(Ras Fernandel)やジャー・レミュ(Jah Raimu)といった偶像的人物も生み出した。それに俺はごく若い頃から新しいオック語表現のシャンソンに興味があったんだ。それである時それをレゲエとミックスしてみた。初めてオック語で歌ったのは、異星人を迎えるコンサートと題されたラ・ボンヌ・メールノートルダム・ド・ラ・ガルド聖堂)でのライヴだった。よく覚えている。これはジョー・コルボーのクレージーなアイディアさ。ジョーは俺たちの父親みたいなもんだった。そこから俺たちはオクシタン・ムーヴメントの人々と交流するようになり、俺たちの第二の父親とも言えるファビュルス・トロバドールクロード・シクルと出会うことにもなった。一種の民族音楽研究家でもあるクロードと俺たちはいろんな共通点があった。このことで俺たちのものを見る尺度が変わり、俺たちはマルセイユからオクシタニア全体を照射するようになったんだ。
リベラシオン「音楽はメッセージを伝達ための口実ですか?」

民俗音楽というのはその歌詞が即座には理解できなくてもメッセージを伝えられる魔力を持っている。例えばブルースマン、きみは彼が物語っていることを把握できなくても、彼が言おうとしていることを見抜くことができる。俺が初めてボブ・マーリーを聞いた時、俺は英語がよくできなかったが、彼が歌っていることはクリアーに感じ取ることができた。俺たちの大きなメッセージは他者性(Altérité = 非類似性、差異)であり、世代間の混合であり、お互いに似通っていない人々を俺たちの旗印のもとに集結させることだ。だけどマッシリアのコンサートにはパスティスを飲む目的だけで来る連中もいるよ(笑)。
リベラシオン「まさにそのパスティスですが、あなたたちは往々にしてアイオリ、パスタガ(パスティスの町語)、ガレジャード(マルセイユ人のホラ話)といったマルセイユ・フォルクロールにのみ矮小化して語られることがありましたが...」
地方人とはいやな言葉だが、彼らはしょっちゅうそのクリッシェ(俗に一般化しているイメージ)だけで見られてきた。北フランス出身と言うと、ビール飲みと言われるだろう。俺たちにとってはそのクリッシェこそが、共同の親しい空間をつくる上でとても役に立つ道具になるんだ。俺たちの聴衆の中でも、これをちょっと低俗なもののように言うやつらがいるけど、気にしてないさ。俺にとってフォルクロールは人民のテレビ映像なんだ。大衆的なものと伝統的なもの、そしてちょっと高尚なものの混じり合ったもので、アーティスティックなクリエイションとして語られるものさ。
リベラシオン「あなたたちがマッシリア・サウンドシステムとして体現しているこのマルセイユとその周辺の土壌をどう定義しますか?」
それはグランド・ブルー(紺碧の海)と、地中海を囲む国々や俺のように北からやってきたよそ者たちが働くためにやってきた工場の結合体なんだ。人種のるつぼであり、街はさまざまなガラクタを集めて作られたものだ。しかしながらこれらの様々な違いが集まりひとつの集合体となり、それに属することの誇りが例えばスタジアムなどで自慢の叫びとなって表現されるんだ。これはユニークなことさ。様々な違ったルーツをわがものとしてしまう度量、それはある種マルセイユ人としてすべての人を帰化してしまうキャパシティーなのさ。例えば俺がアルメニア人やアルジェリア人の友人宅に行くと、彼らはアルメニア語やアルジェリア語で話し、アルメニア料理やアルジェリア料理を食べるんだが、結局のところ彼らはみんなマルセイユ人なんだ。
      (・・・中略・・・)
リベラシオン「マッシリア・サウンドシステムは政治的意思表示のあるバンドだと思いますか?」
バンドのメンバーは全員意思表示している。俺たちは組合に加盟しているし、左派としてのバックグラウンドがある。それは俺たちのやっている音楽と調和しているし、マルセイユとも符号している。その反対側に行きながら、連帯や平等の価値を前面に押し出すのは難しいことさ。俺たちの聴衆も意思表示があるからこそ俺たちもその意思を表現するんだ。これもまたフォルクロールさ。それは日常生活において有意義なことなんだ。俺たちの歌は勇気を与え、毎朝仕事に出かける人の背を押し、悲しい時に一緒にいてやり、デモの時に歌われるものなんだ。これは重要だよ、マルセイユでは俺たちの歌はいつもデモで歌われる歌のトップ10に入っている。最近では俺たちはSOS Méditerranée(地中海を渡ってくる難民たちへの支援NGO)のためのコンサートで演奏したけど、俺にとってこれは”政治意思表示”と言うよりも単純に当然のことなんだ。
リベラシオン「マッシリアの40年にわたる政治意思表示にもかかわらず、極右政党(FN国民戦線→RN国民連合)の伸長は止まっていない...」

俺はそれを苦々しく思っているさ。だけど俺は政治家ではないから、それは俺の個人的な失敗ではない。ジレ・ジョーヌ運動が起こった時、多くの人たちが良からぬ理由でこの傾向に傾いていったのを俺は見ている。しかしもう何十年と繰り返している労働者階級の敗北のあと、そのことが人々の熟考をさまたげ、食卓テーブルをひっくり返すやつらの方に近づいていったということを俺は理解しないでもない。みんなそのやつらがイカサマ師であることを知っていても、だ。
リベラシオン「あなたたちは選挙で投票しますか?」
もちろんさ。マッシリアのメンバー全員が投票すると思うよ。
リベラシオン「あなたたちが活動を始めた頃、マルセイユの市長はガストン・ドフェールでしたね。今日市長はブノワ・ペイヤンになりました。この間に何が変わったと思いますか?」
以前は旅行者たちが来ていたが観光客(ツーリスト)は来なかった。それがマルセイユが流行のデスティネーションになってしまった。今日、対外的にはマルセイユのライト・ヴァージョンを売り物にしている。このあいだ俺はパニエ地区(マルセイユ旧港に近い歴史的街区)に行ったんだけど、そこでマッシリアは結成されたんだ。あの当時タクシー運転手は怖がってそこに行きたがらなかった。今やこの界隈をツーリストたちが集団で自転車やキックスクーターでやってくる。AIRBNB(民泊レンタル)のために大きな南京錠がいくつも吊り下がっている地区もある。まったくクレイジーだ。よろず屋やパン屋がなくなり、その代わりにアートギャラリーや先端流行のブティックが並んでいる。老朽化して危険な状態にある住宅の問題や市民を巻き込み死者を出すギャング抗争の問題を置き去りにして、大挙してやってくるツーリストたちを受け入れているマルセイユ市民たちの生活はかなり難しいものになっている。俺はラ・シオタに住んでいるが状態は全く同じだ。俺が住んでいる小さな通りには今や6世帯しか生活していなくて、残りの建物はみんないわゆるキャスター付きスーツケース族ばかり。それ自体悪いこととは言わない。ただそれに伴って物価が上がったりするのはごめんだし、子供たちだけに貸し出すのもやめてほしい。近所づきあいが壊れてしまう。3日間だけ民泊で過ごすやつらにとって、近所のことなんて全く頭に入っていない。バルセロナやリスボンでも事情は同じだ。住民たちは自分たちの住んでいる町にいながらにして追放されているように感じている。まるでツーリストの行き来が絶えないネイティブアメリカンの保護区の住人のように。
リベラシオン「マッシリアは7月19日にマルセイユ旧港の水上特設ステージでの無料コンサートに登場します。それは10年ほど前には考えられなかったことだと思うのですが...」
たしかにそうだ。以前は俺たちは常に政治家たちから無視されていた。俺が記憶しているのは当時文化大臣だったジャック・ラングがマルセイユを訪問した時に、当時のマルセイユ市長だったロベール・ヴィグールーに俺たちのことを紹介したんだが、ヴィグールーは俺たちが何者で何をしているのか全く知らなかった。だが今だにこのマルセイユ市には文化と音楽に関する根本的な仕事というものがない。
リベラシオン「あなたたちとマルセイユのラッパーたちの関係はどうなっているのですか?」
全く関係はない。同じ種目に属していないのだから当然だよ。彼らがヴェロドローム・スタジアムを満席にするコンサートを打つことは結構なことだよ。俺がただひとり注目しているのはジュル(Jul)さ。非常に興味深い。彼ははっきりと自己を持っているし、彼がものを言う時、俺はマルセイユの小さな声を感じて、とてもいいと思っている。俺たちは彼が避難の攻撃に曝された時みんな立ち上がって援護したさ。オリンピック聖火がマルセイユに到着し彼がマルセイユの聖火台に点火したことで起こったスキャンダル攻撃。あたかも突然に恐ろしい野蛮が文明に襲いかかってきたかのような。その時、やつらはその音楽にも激しい攻撃を展開した。オートチューンを使ったものなど音楽ではない、と。俺には覚えがあるよ、俺が若かった時エレクトリック・ギターに関して同じことを言っていたし、しばらく後ではスクラッチもそう言われた。俺はね、これらすべてのことの背後にあるのは、階級的侮蔑(mépris de classe)だと思っているし、それが俺をイラつかせるんだ。

リベラシオン紙2024年6月29日、インタビュアー パトリス・バルドー)

Massilia Sound System "Anniversari"
CD/LP/Digital Manivette Records MR43
フランスでのリリース:2024年6月

< トラックリスト >
1. Lo Oai totjorn
2. Joyeux Voyous (renew)
3. Canon Es Canon (renew)
4. Qu'elle est bleue
5. Pas d'arrangement (renew)
6. L'eau et le gaz
7. Cròniq (renew)
8. Frit confit
9. 3MC's sur la version (remix)
10. A Cavalòt
11. M. Spock (bonus)
12. Janvié special blend (bonus)
13. Aiolilili party (bonus)
14. Blu side medley (bonus)

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓) マッシリア・サウンドシステム40周年ツアーのプロモーション動画

(↓)マッシリアの40年/プロモーション動画



(↓)マッシリア・サウンドシステム『アニヴェルサーリ』全曲

2024年6月10日月曜日

クイクイクイ、クイクイクイ、こちらでござる

Aki Shimazaki "Urushi"
アキ・シマザキ『漆』


キ・シマザキの第4パンタロジー(五連作)『打ち棒のない小鐘(Une Clochette Sans Battant)』の最終第5話。同パンタロジーの前4話(『スズラン』、『セミ』、『野のユリ』、『楡(にれ)』)は全部爺ブログで紹介しているので、(未読の方は)題名につけたリンクから参照してください。
 まず題名の『漆(うるし)』であるが、これはこの数年の間に、特にコロナ禍の”閉じこもり期”以降に世界的なブームとなった「金継ぎ」にまつわるものである。フランスでもメディアで大きく取り上げられているし、私の住むパリにも何軒か金継ぎアトリエがあり、一般市民が講習を受けて陶磁器の金継ぎによる修復をアートとして楽しんでいる。禅的でありエコロでありSDGsであり美しい。この流行を知った時、シマザキは「これいただき!」と閃いたのだろう。最初から種明かしをしてしまうと、その金継ぎは、アンズ(楡家の次女、トールの母、スズコの継母)とユージ(アンズの現夫、楡家の長女キョーコ=故人の寡夫でスズコの父)がチェコ共和国から持ち帰ったのち割れてしまった骨董セラミックの「打ち棒のない小鐘」を見事に修復するという小説のひとつのクライマックスを用意している。
 金継ぎは割れて破損したオリジナルを修復してオリジナルを凌駕する美を獲得してしまう。ここがミソ。

 さて今回の話者は現在15歳になっているスズコ。出産後癌で他界したキョーコの娘で、父親はユージ。キョーコの妹アンズが寡夫ユージと再婚してスズコを養子として迎え、アンズの前夫との子供トールを加え、4人家族として円満に暮らしていた。場所は山陰、鳥取県米子。アンズは田舎に窯を持つそこそこ著名な陶芸家で東京の展覧会にも出品する。ユージは大手製薬会社の米子支社の幹部社員。スズコより11歳年上の義兄トールは高校まで米子にいたが、大学は名古屋に行き、卒業して名古屋の自動車メーカーのエンジニアになっている。少年時から始めた空手有段者(三段)で、国際的な試合も経験している。イケメンのスポーツマンゆえ高校大学と女子ファンたちは多かったが、特定の交際相手はいない。女子ファンの中に、アンズの弟で楡家の長男ノブキ(前作『』の中心人物)の二人の娘ミヨコとナミコがいて、とりわけ下のナミコは積極的でトールの妻候補を公言している。
 小説の序盤はスズコの義兄トールへの狂おしい片思いである。昭和期コバルト・ブックスのようなJK純愛文体が続くので、途中で投げ出したくなることもあろう。ずっとずっと慕って甘えていた”おにいちゃん”は、米子から離れて名古屋の大学に行ってしまってから、会いたい想いは募るばかり。スズコ12歳のある日、いてもたってもいられなくなり遂に家出を敢行し、JRを乗り継いで名古屋へ。幼くも強烈な片思いは怖いもの知らずで、まんまと決死の一人旅は成功し、名古屋のトールのアパートまでたどり着くのだが、トールを含む大人たちはこれを”子供のしたこと”あつかいせず、とがめもせず、穏便に翌日送還で収拾をつける。思いを告げるつもりでここまで来たスズコだったがそれは叶わなかったものの、トールのアパートで用意された寝袋を抜け出して、こっそりトールのベッドにもぐり込むことに成功している。この寝床の温もりの記憶がその後スズコの恋慕をさらに焚きつけるのであった。
 盆暮れ正月の帰省を除いてトールは名古屋からめったに米子に帰って来ない。大学を終え、名古屋の会社にエンジニアとして就職し、当分実家の鞘に収まらないつもりらしい。高校生になったスズコは自分の進路よりも(高校を卒業したら)名古屋の大学へ進んでトールと一緒に生活したいという望みが先行する。両親と周囲の人間たちは進学するなら米子でも鳥取でもいいから地元にとどまることを強く希望するのだが(←これは21世紀的日本でもこういう”娘を親元近くにしばる”傾向があるのですか?地方的封建性ですか?シマザキの小説ではいつまでたってもこういう日本ですが)。
 そんなときにスズコは道端で一羽の傷ついた小鳥を見つける。それは片方の羽が折れ、飛べずにいるスズメだった。そう言えば子供の頃、スズコという名前をからかって「スズメ、スズメ」とはやし立てる悪ガキたちがいた。そう、私はスズメだ。しかも傷ついたスズメ、愛する人の元に飛んでいける翼をダメにしたスズメ、飛べないスズメ... とスズコはこの小鳥にわが身を投影するのだった。クイクイクイクイ。スズコは幼い日のわらべ歌を口ずさむ:
Moineau, moiseau, où se trouve ta maison ?
Cui cui cui, cui cui cui, c'est ici...
(↑翻訳は不要ですよね)。そしてスズコは傷ついたスズメを家に持ち帰り、手当てし、傷を癒してやり、再び飛べることはなくても、素晴らしい”別もの”として再生させようと心に決める。金継ぎのように、壊れたものを素晴らしい”別もの”として生き返らせる。スズコはこのスズメを"超スズメ”に蘇らせたい。それは言葉を話すスズメ。とは言っても九官鳥やオウムのレベルで、”おたけさん”とでも言ってくれれば目的は達成される。これがスズコの”スズメの金継ぎ”であり、それに因んでスズコはこの小鳥に「ウルシ」という名をつける。自分の部屋の中で鳥篭に入れ、手当てとエサやりに心を尽くし、そして同じ言葉を何度も繰り返して、小鳥に復唱させようとする。その言葉は三つの名前:スズコ、トール、ウルシ。スズメがこの3つの名を発語する日、スズコの金継ぎは完成し、想いは成就するはず。

 (ここでかなり無粋な注釈をしてしまう。日本の鳥獣保護法第8条はスズメに限らず、鳥獣および鳥類の卵を捕獲・採取・損傷することを禁止していて、違反した場合は1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる。シマザキがこれを知っていたかどうかはわからないが、野鳥のペット化は美談にしてはいけないと私は思う。この小説の成立を脅かしてしまう話ではあるが。)
 

 金継ぎのメタファーはこの”複合家族(famille composée)”にも当てはまる。壊れてしまった複数の家族の事情:アンズがトールを生んだ後で蒸発してしまった前夫、スズコを生んだ後急死したキョーコ、キョーコの死と前後して恋に落ちたアンズとユージ、これらのドラマを経てひとつの家族として再スタートしたアンズ+ユージ+トール+スズコ。これらをつなぎ合わせて幸福な家族にした”ウルシ”は何だったのか。

 さて、トールは空手の国際イヴェントに招待されてハワイへ旅行し、そのハワイ土産を持って米子にやってくる。この数日の帰郷滞在こそ、スズコにはトールに胸の内を告げる最後のチャンスと待ち構えている。15歳の想像力はこの恋路を遮るものがさまざま見えてくる。自分の数倍も積極的で性に旺盛な興味を抱くいとこのミヨコとナミコ、トールの空手の同僚ナオ(トールのハワイ遠征に同行した)、ナオの妹でトールと親しいらしいミキという美しい女性(おまけに死んだ母キョーコと同じ職場=米系化粧品会社東京支社に勤めていて、ユージとアンズもそのことを知っている → 二人はトールの伴侶候補に考えているかもしれない)。胸のもやもやは増すばかり。トールが遠くに行ってしまいそう....。 
 そんなときにスズコは、高校の靴箱の中に某男子から交際申し込みの置き手紙をもらうのである。これは驚いた。私は半世紀以上前に青森の高校に通っていたが、校内上履きの制度はなく、外履きのまま校内に入っていた。この小説の中でスズコは高校入口で通学靴(バスケットシューズ)を脱いで靴箱に入れて室内サンダルに履き替えていて、その時にこの男子ラヴレターを靴箱の中に発見する。ネットで検索したら、21世紀現在、外履き上履き靴箱(下駄箱)システムは日本全国の学校で健在なのですね。私は日本を離れて長い浦島太郎なので、それはとっくの昔になくなっていたものと思ってました。それはそれ。
 ヨシオと名乗る一学年上の少年は文系博学ロンリーボーイにして母子家庭清貧苦労人で、学業+アルバイトの他に地元美術館のボランティアもこなしている。スズコが合唱部練習でソロパートを歌うその声に魅了され、さらにボランティアで働いている美術館に伝統工芸や新作展示品が搬入されるたびに長時間見入っているスズコの姿に、この少女とは共有できるたくさんのものがあるはず、と思い切って手紙をしたためた。そして市の文化センターが主催する金継ぎアトリエセミナー(定員20人)にスズコが登録したと知るや、募集ギリギリ滑り込み20人めで申し込み、アトリエ初日にスズコの隣の席に座るという積極性もある。いい奴。
 このスズコの美術および伝統工芸への興味を育んだのは、義母アンズ(陶芸作家)の影響ももちろんあるが、トールの導きによる要素が大きい。12歳の時の名古屋への家出旅行の際もトールは名古屋の美術館博物館にスズコを連れて行き、図版本を買ってスズコに与えた。かのハワイの旅行の時のスズコへの土産もハワイの民族伝統工芸の写真図鑑で、それらの本をスズコは夢中になって鑑賞した。トールの導く美の世界に魅了されたのだ。あの人が美しいと思う世界へ私も近づきたい。わかるなぁ。

 ところが、スズコは恋を失うのである。

 トールのハワイ凱旋帰省滞在最終日、スズコとトールは思いがけず二人だけで過ごす時間ができる。米子の名高いデートコース、弓ヶ浜ビーチ、ひとしきりバドミントン(海浜でのバドミントンというのは難しいでしょうに)に興じて汗を流したあと、スズコは遂に心の内を告白するのだが、トールも真実を告白してしまう「僕はある男を愛している」と。そのホモセクシュアリティーはアンズもユージも誰も知らない。相手は空手仲間のナオであり、ハワイ旅行も一緒だった。ナオの妹ミキはこの関係を知っているだろう。そしてトールが少年の日にそのホモセクシュアリティーを(未来のスズコの実母)キョーコに告白していて、キョーコはトールに
Sois honnête avec ta nature
あなたの自然に正直でありなさい
とだけ語ったということをこの時スズコに伝えている。今娘スズコは母キョーコと同じことをトールに言えるか、難しいところよのぉ。
 幼い頃から想い続けてきた”おにいちゃん”への恋は終わった。ハートブロークン。壊れた心をつなぎ合わせ修復し、新しい別の美へ作り直すのが金継ぎである。金継ぎアトリエのいにしえの秘儀習得セミナーは、スズコの心も少しずつ修復していく。そしてその心の平静を与えてくれるのに重要な存在になっていくのがヨシオだった。心の金継ぎのウルシの役と言おうか。11歳の歳の差だけでなくさまざまな距離があったトールと違い、一歳違いの同世代のヨシオはフェアーな話し相手であり、親近性は比較にならない。また人気者で社交性にも富むトールと違って、群れを嫌うロンリーボーイであるところもスズコには心地よい。シマザキはこの文系博学ロンリーボーイにキエルケゴールやサルトルを引用させて、どこか昭和中期的なウンチクを展開させる。
ー 私は夢見ていたの:他人の存在なしに人はどうやって幸せになれるの?
彼は驚いて叫んだ:
ー なんて哲学的な問題なんだ!僕はそういうの大好きだよ。
彼はサルトルの言葉「地獄とは他人のことだ」を引用した。私は思わず笑ってしまったが、まじめに聞き返した。
ー ヨシオ、孤独を愛するあなたでも、時にはひとりぼっちだと感じることがあるでしょう。
ー もちろんだよ、スズコ。だからこそ僕はガールフレンドが欲しいと思ったんだ。きみに恋心を抱いたとき、僕はただちにきみと接触しようと決めたんだ。きみがそれを受諾したときの僕の喜びを想像してごらん。
私が期待していた答えとは違っていたけれど、その返事は私にはうれしいものだった。
彼は紙ナプキンの上に「人」という漢字を書いた。
ー 学校で教わることだけど、この漢字は二人の立った人間がお互いに寄りかかっている様子を示している。これが人間の世界だ。人はひとりではなく自分の周りの人たちといかに共存していくかを知らなければならない。
私はからかって言った
ー あなたは歳のわりにお利口さんすぎるわ。あなたは誰とでもこんななの?
ー みんなとじゃないよ。少なくとも現実的ではありたい。自分が快く感じるためには、好きなものに熱中するけれど、僕の好みを共有できない連中は避けるようにしている。いずれにしても、僕は自分が幸せかどうかを自問しすぎる傾向がある。
ここがまさに社交的なトールとは全く違っているところだが、私には二人とも同じように穏やかで強い人間に思える。
(p126-127)

これはシマザキ先生の”倫理”なのだと思うが、この日本は私には懐かしい。それからシマザキはこの二人にセックスは16歳になるまで待ちましょうという約束をさせるのだが、こういうディテールはどうにも昭和期の”倫理”で、ありかなぁ?と思うのは私の勝手か。

 金継ぎはスズコを救済する。そのアトリエでスズコは養母アンズ(陶芸家)の破損陶器片を金継ぎのプロセスで新しいアクセサリーオブジェに再生させることを考案し、オリジナル創作まで企図できるようになった。トールへの片思いを失い傷ついた心の”ウルシ”となったヨシオとの青春の恋はスズコを新生させた。そして傷ついたスズメを”もの言う鳥”に進化させる訓練はめげずに続いている。そのクライマックスのひとつが、本稿の冒頭で既に紹介してしまった「打ち棒のない小鐘」(アンズとユージが二人だけの初めてのヨーロッパ旅行で、チェコ共和国ベルーンの陶器市で買った骨董セラミックの小鐘、二人が帰国したあとで壊れてしまった)の修復であり、スズコはアトリエ講習の最後にこの小鐘の金継ぎ修復をする。この修復完成の出来栄えに両親(アンズとユージ)は、二人の大切な思い出の修復と感涙し、その画像をスマホ受信した”兄”トールは心からの祝福を送る。ここがシマザキパンタロジー(五連作)『打ち棒のない小鐘(Une Clochette Sans Battant)』の最終話の打ち上げ花火のようなシーンなのだと思う。

6月1日付けリベラシオン紙は文芸ジャーナリストシャルリーヌ・ゲルトン=ドリューヴァン筆のアキ・シマザキ『漆』の書評を掲載しているが、その記事タイトルが”L'Effet Clochette"(エフェ・クロシェット=クロシェット効果)となっている。この「クロシェット効果」なる言葉、私は聞いたことがなかったし、ネット検索してもなかなかそれらしい説明に行き当たらない。”Clochette"はこのシマザキ五連作題の中の”Clochette"(私は"小鐘"と訳している)を当てこすってのことだと思う。シマザキはこの言葉知ってるだろうか?たぶん知らないと思う。私が理解した「クロシェット効果」を解説すると、この場合の”クロシェット”は”Fée Clochette"(クロシェット妖精)に由来する。『ピーター・パン』に登場する妖精ティンカー・ベルのフランスで呼ばれている名前が”Fée Clochette"である。そのウィキペディアの説明をそのまま引用すると「彼女の妖精の粉を浴び、信じる心を持てば空を飛ぶ事が出来る」。『ピーター・パン』の中で、ウェンディーと子供たちは最初空を飛ぶことなんかできないと怖がっていたのに、ピーター・パンの言葉を信じて、ティンカー・ベルの妖精の粉を振りかけられたら、空を飛べるようになってしまう。この妖精の粉の効果に絶対不可欠なのは「信じること」である。フランス語の「クロシェット効果」とはこの妖精の粉の効果のことで、信じることで効果が発生してしまう「プラシーボ効果」とほぼ同義の意味である。
 このシマザキの『漆』にあてはまることと言えば、金継ぎをあたかも錬金術のように信じ、その新しい美の誕生を実現させるというファンタジーと読めないことはない。もっと端的なのは、飛べなくなったスズメに言葉を教え込めると信じて、執拗に「スズコ、ウルシ」と繰り返し繰り返し言って聞かせることである。たいへん無粋であるのを承知で、小説の最終部をバラしてしまうと、クイクイクイ、クイクイクイ、クイクイクイ....と囀っていたスズメが突然「スズコ.... スズコ... ウルシ....」と発語するのである。クロシェット効果ここに極まれり。シマザキさん、ちょっとやりすぎじゃないですか?

Aki Shimazaki "Urushi"
Actes Sud刊 2024年5月 140ぺージ 16ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ピーターパン「ユー・キャン・フライ」

2024年5月27日月曜日

やんになる

"Marcello Mio"
『マルチェロ・ミーオ』


2024年フランス+イタリア映画
監督:クリストフ・オノレ
主演:キアラ・マストロヤンニ、ファブリス・ルキーニ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ニコル・ガルシア、バンジャマン・ビオレー、メルヴィル・プーポー
フランス公開:2024年5月21日


とわるまでもなくフィクション映画である。主演陣の中ではヒュー・スキナー(コリンという名のNATO軍のフランス駐屯英国兵の役)を唯一の例外として、あとは全員”実名”役で出演している。カトリーヌ・ドヌーヴ(大女優にしてキアラの母)、ファブリス・ルキーニ(超雄弁男優)、ニコル・ガルシア(女優/映画監督)、バンジャマン・ビオレー(歌手/男優にしてキアラの元夫)、メルヴィル・プーポー(男優にしてキアラの元々カレ)。そういう設定のフィクション映画なので、観る者はひょっとしてこれはこの人たちに実生活に近いのではないか、という眼で見てしまうキライがあろう。
 キアラ・マストロヤンニはイタリアの大男優マルチェロ・マストロヤンニ(1924 - 1996)とフランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴの間にできた娘であり、1972年生れだからもう50歳を過ぎている。その宿命のようにいくら歳を重ねてもこの女は「〜と〜の娘」としてしか見られない。女優としての評価はどうなのか、というと、両親の御威光が強すぎて....。いつまで私は「〜と〜の娘」なのか、という実存コンプレックスがこの映画の発端である。
 脚本と監督はクリストフ・オノレ。1970年生れだからキアラと同世代。出世作『愛のうた、パリ(Les Chansons d'Amour)』(2007年)以来、オノレ+キアラの共同作業は多く、気心の知れた仲であり、最近ではオノレの自伝的戯曲『ナントの空(Le Ciel de Nantes)』(2021年)の舞台でキアラが主演している。そのオノレの自伝的演劇と対をなすかのように、このキアラの自伝的フィクション映画ができている。
 映画冒頭はトレヴィの泉ではないが、パリ、サン・シュルピス教会前の大泉水、ここでフェリーニ『ラ・ドルチェ・ヴィータ(邦題:甘い生活)』(1960年)のアニタ・エクバーグのような黒いドレスを着たキアラが泉水の中に入り、水と戯れるというシーンを設定したフォト・シューティング。フォトグラファー(女性)が激しい口調でキアラにさまざまなポーズを要求し、しまいには降りかかる噴水の中でキアラに「マルチェ〜ロ!」と言え、と強要する。「マルチェ〜ロ!」「マルチェ〜ロ!」「マルチェ〜ロ!」... ここでキアラはこんな生活、いやっ!という顔をして撮影現場から去る。
 おもむろに私事であるが、私には30数年前に73歳で亡くなった父がいて、私の奥さんも娘も生前に会ったことがなく、実家の仏壇に飾ってある遺影写真でしか知らないのに、私とそっくりだと言うのである。私はそれを言われるのが実に嫌であったのだが、床屋で髪を短くしてもらって最後にメガネをかけて鏡で確認するときに、目の前にはモロに父親の顔が現れる。それが自分が歳とってだんだん父親の死んだ歳に近づいてきて、その極似はいよいよ...。このフィクション映画のキアラ・マストロヤンニはそれと同じことを体験している。若い頃はドヌーヴ似の側面もあったのに、歳とるにつれてドヌーヴ要素が薄くなり、いよいよマストロヤンニ似が際立ってくる。朝起きて鏡を見るとそこに見えるのはマルチェロであり、多くの映画で見たことのあるあの顔なのである。
 次に映画監督ニコル・ガルシアによる次の映画のキャスティングの場面がある。このフィクション映画でのキアラ・マストロヤンニは女優として”確立”していなくて、映画の仕事を得るために数々のキャスティングに応募しなければならない。その不出来な女優である娘を母親/大女優のカトリーヌ・ドヌーヴは心配していて、”先輩/業界通”として、ニコル・ガルシアは気難しいから気をつけないと、などと忠告したりもする(ちょっと笑ってしまう)。
 そのキャスティングはニコル・ガルシアのアパルトマンと思しきところで行われていて、横柄なさまでベッドに横臥しているガルシア監督の前で主演予定のファブリス・ルキーニとキャスティング候補(この場合キアラ・マストロヤンニ)が台本に沿ったダイアローグ演技をして見せる、というもの。ひとしきりセリフのやりとりが終わって、ルキーニは相手役としてキアラが申し分ないと言うのだが、ガルシアはどうも気に入らない。当然この女優の両親が大俳優であることは承知の上で、ガルシアはキアラに「この役ではね、私はあなたにドヌーヴ的なところを抑えてもっとマストロヤンニ的であってほしいのよ」と言ってしまう。これがこの映画の発火点となってしまうのである。

 自分のコンプレックスの元であるマストロヤンニの重圧を消すには自分がマストロヤンニになってしまえばいい。マルチェロ・マストロヤンニを自分の肉体に復活させるのだ。コンサート準備中(そのコンサートでキアラもゲストで1曲歌うことになっている)の元夫バンジャマン・ビオレー宅で、トイレに行くわ(キアラの小用排泄シーンあり)と隠れたついでにビオレーの(当たり前だが)男ものテイラード・スーツを盗み出し、そこからキアラの”マルチェロ化”が始まる。あの『甘い生活』当時の世界(のご婦人がた)を魅了した”イタリアン・ラヴァー”マルチェロである。同じスーツ、同じ帽子、同じメガネ、同じ髪型(かつら)、同じメイク... 出来上がりは驚くばかりである。
 ここで強調されるのが、身長170センチでスレンダーのキアラが醸し出すアンドロギュノス性である。”男装の麗人”ではない。女性性は消えず、男性性も際立っていない。それを物語るエピソードが、深夜のパリを彷徨する男装のキアラが出会う、セーヌ川の橋から飛び降り自殺寸前の若い英国人兵士コリン(演ヒュー・スキナー)とのやりとりである。ハートブロークンなコリンをなだめ、二人は夜更のパリをそぞろ歩きはじめ(このシーン会話は全部英語)、”いい感じ”になるのだが、どうもこの英国の若者はヘテロではないようだとキアラは気づいている。マルチェロ化して中性化したキアラにはマッチしそうな中性っぽい男。コリンの兵舎に着いて別れ際にキアラは再会の約束をとりつけたいのだが...。
 マルチェロ化したキアラへの周囲の反応はさまざまである。母カトリーヌ・ドヌーヴは衝撃を受ける。その変身の見事さにしばしかつての亡き伴侶を幻視してしまうほど。それは映画の終部で、無意識にキアラ/マルチェロの唇に接吻してしまうというアクシデントを生んでしまうほど。バンジャマン・ビオレーのコンサート(於パリ・ラ・シガール)にサープライズゲストとして登場する予定だったキアラは、当夜出番直前にマルチェロ扮装で楽屋入りし、ビオレーはそれを面白がり、急遽レパートリーを変え、1985年カンツォーネ大ヒット曲"Una Storia Importante"(エロス・ラマッツォッティ!)をキアラに歌わせるのである。Italians do it better。このライヴシーン良い。これをラ・シガールの客席で見ていたキアラの1990年当時の恋人メルヴィル・プーポーは、そのマルチェロ姿に烈火のごとく怒り、コンサート後に楽屋に怒鳴り込んでくる。この映画では詳説されていないが、仏ウィキペディアなどの記述によれば、メルヴィル17歳とキアラ18歳、それぞれ(共通はしないが)複雑な親との関係があるなかでアクター/アクトレスという芸道で生きていこうと誓い合った仲らしい。ここがメルヴィルの怒りの源のようで、(親の七光)マルチェロ芸でウケようとすることは自らの女優道を捨てることだ、という論なのである。掴みかからんばかりに猛烈に怒っている。
 それとは真逆に、このキアラ/マルチェロの登場を大きな感動と共に大歓迎するのがファブリス・ルキーニであり、若き日の憧れだったマルチェロ・マストロヤンニの化身に身も心も魅了され、ニコル・ガルシア監督に絶対にこのキアラ/マルチェロと共演させてくれ、台本を全部変えてくれ、とまで嘆願するのである。そしてこのキアラ/マルチェロを俳優として成功させるためにあらゆる援助を約束する。こうしてルキーニはこの映画の最重要な守護天使/道化師の役回りをするのだが、こういうのやらせたら本当にうまいのだ、この人。
 周囲の賛否を気にせず、”マルチェロの道”をひた進むキアラ、この世界では避けられないことだが、その姿は芸能ゴシップ誌の表紙になってしまう。これをかぎつけた(マストロヤンニの故国)イタリアのテレビ局が生放送でインタヴューしたいのでローマまで来てくれ、と。母ドヌーヴが「イタリアの芸能メディアは本当にひどいから気をつけて」とあちらの事情をよく知る同業先輩として忠告するのであるが、本人は”マルチェロ”となった自分をマルチェロの国でアピールできる願ってもないチャンスと意気揚々とローマへ。(パスポート写真と違うのが咎められないかしら、などと、シェンゲン協定圏には国境がないことも知らないウブなキアラであった)ー ところがイタリアのテレビ局が準備していたのは、大女優ステファニア・サンドレーリ(1961年『イタリア式離婚』でマルチェロ・マルトロヤンニと共に主演している)をメインゲストにしたサンドリーニ回顧トーク番組で、その仲の余興のように何人かのマストロヤンニのそっくりさん(そのうちの一人がキアラ)を登場させ、サンドリーニに誰が一番似てるかを指名させるという....。キアラは単なる余興の端役...。幻滅したキアラはテレビスタジオから逃走し、夜、あのトレヴィの泉で、マルチェロ扮装のまま泉水に身を浸していたところを警察に捕まって....。映画はイタリア式ドタバタ喜劇になってしまう。これはマストロヤンニ風と言えるんだろうな(イタリア喜劇映画に疎い私には確証がない)。

 キアラのマルチェロ幻想の終焉、それが映画の大団円である。イタリアのテレビがキアラにギャラの一部として用意した海辺のホテル、ここが映画の終着点である。キアラの幻滅と傷心を見透かしていたファビリス・ルキーニがキアラの前に現れる。私だけじゃないよ、パリの仲間をみんな連れてきたよ、と。カトリーヌ・ドヌーヴ、ニコル・ガルシア、バンジャマン・ビオレー、メルヴィル・プーポー、英国人兵士コリン。これらがキアラのブロークンハートを慰め、砂浜でビーチ・バレーボールに興じるという温かくもシュールなシーンがある。また上に書いたように、無意識にマルチェロ/キアラの唇に接吻するというアクシデントを冒してしまったカトリーヌ・ドヌーヴがひとり、"Di Marcello, perché ridi(ねえマルチェロ、どうして笑うの?)”(クリストフ・オノレと長年のコンビの作曲家アレックス・ボーパン作のこの映画用のオリジナル曲)と歌う美しいシーンあり。これだけでサントラ盤が欲しくなる。
 そしてキアラはマルチェロ扮装をすべて脱ぎ捨てて、ほぼ全裸に海に入り、遠くへ遠くへと泳いでいく、というエンディング。
 
 おおいなる映画全盛時代へのオマージュ、マストロヤンニとイタリア映画へのオマージュ、まるで20代の娘のような50女の実存の危機コンプレックス、映画は仲間たちでこの危機を救済するのであるが...。実名登場人物たちの”内輪の事情”に通じていなければ、そんなに楽しめる映画ではないと思う。私は楽しんだけれど、楽しめない人たちの多さは想像できる。キアラ・マストロヤンニは一生両親の偉大さの影に小さくなっていなければならないサダメ。自虐パロディーでもいい、もっと若い時期にジタバタしてもよかったのに。まあ、フィクションであるから、極端に誇張されている部分はたくさんあるのだけど、キアラはかなり楽しんでこの役を演じていたのだと思う。いい映画をもらってよかったね。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『マルチェロ・ミーオ』予告編

2024年5月17日金曜日

俺が主役だ

"Le Deuxième Acte"
『第二幕』


2024年フランス映画
監督:カンタン・デュピュー
主演:レア・セイドゥー、ヴァンサン・ランドン、ルイ・ガレル、ラファエル・クナール、マニュエル・ギヨー
【2024年カンヌ映画祭オープニング上映作品】
フランス公開:2024年5月14日


多産映画作家(2024年公開分だけで3本)で、奇想天外映画の巨匠と世界的に評価の高いカンタン・デュピューが撮った新作で、今年のカンヌ映画祭オープニング上映作品となった(いちおう)話題作。限りなく湧き上がるアイディアを映像化せずにはいられない欲求があるのだろう、多作ペースを持続するにはそれなりに各作品が興行ヒットしてもらわないと困る、そのためにデュピューは有名俳優たちを出演させる。有名俳優たちがデュピューの奇想天外シナリオを演じるということだけで、ある程度興行成功が見込めるというわけだが、その有名俳優たちはデュピューについていけるだけの超絶の”器用さ”が求められる。前作の『ダアアアアアアリ!』で6人の男優(そのうち4人が有名男優)がサルバドール・ダリという超有名人物を時にはそれぞれの持ち味を出し時にはそれを殺して(誰がそれを演じているのかわからなくなるような)”器用さ”で成り立つような、きびしい芸を求められているように見える。
 今回もデュピューは有名俳優でしかも芸達者の4人(ヴァンサン・ランドン、ルイ・ガレル、レア・セイドゥー、ラファエル・クナール)をメインに据えた。このメンツならば多少奇想天外でも観客はついてくるだろうという思惑か。映画はこの4人が”まわして”いくことになるのだが、最初この4人が何者で何をしているのか把握するのは難しい。車を乗り捨て、野原の中に一本通った長〜〜〜い土道を早足で歩いていく。まずルイ・ガレルとラファエル・クナールの二人。それぞれに役名がついていて、ガレルはダヴィッド、クナールはウィリー。長い道のりを歩きながらの二人の会話で、この二人は映画の撮影に行く(あるいは撮影はその道で始まっている、”カメラの前でそんなこと言うなよ”と言うくだりがあり、二人は既に撮影されているのを知っている)のでそのおさらいで役作りをお互いに確認しあっているような、あるいはその役に入ってしまっているような....。それを水平移動カメラが前面からずっと撮り続けている、つまり映画の画面に映り続けている。どこまで映画制作か、どこまで役者演技か、それを曖昧にさせたまま映画は突き進むのだが、この作られようとしている映画、役者が演じようとしているシナリオがだんだん見えてくる。それはダヴィッド(ガレル)にしつこく結婚をせまってくる女がいて、俺には全然タイプではないから、ダチのウィリー(クナール)に振りたいという話なのである。
 一方その女フローランスを演じることになっている女優(レア・セイドゥー)と、フローランスの父親ギヨームを演じることになっている男優(ヴァンサン・ランドン)も同じように車を捨てて、野原の中に一本通った長〜〜い土道を歩きながら、これから会うことになるフィアンセ候補のダヴィッドに関するなにか映画的な打ち合わせのような会話を展開する。同じように長〜い前面からの水平移動撮影。撮影カメラをドリーという台車に乗せてレールの上を走らせながら撮影することを英語と日本語ではトラッキング・ショットと言い、フランス語ではTravelling(トラベリング)と言う。映画の序盤で、この映画はトラベリングばかりだなあ、という印象。それもそのはず、これは映画の最後に大地に延々と敷かれた水平移動撮影用のレールの長〜いショットでも明らかになるのだが、後日テレラマ誌YouTubeで知ったことにこの移動撮影レールはなんと全長650メートルあり、世界記録としてギネスブックが認定した、と。
 この延々と歩き続けるという図は、前作『ダアアアアアアリ!』でホテルのエレベーター出口から目的のスイートルームに至る長い長い廊下を天才画家ダリが延々と歩き続けるというシュールなシーンでも見ているが、デュピューの得意技になりそう。

 そして延々と歩いた末、4人が落ち合うのが、コンクリート箱のような味気ないB級の街道レストラン、その名は”Le Deuxième Acte(ル・ドゥジエム・アクト)”すなわち「第二幕」。映画もここから第二段階に突入するというわけ。ここでも今や撮影されつつある映画とその俳優たちの打ち合わせのような”本チャン”のような判然としないシーンが続き、積極的な娘フローランス(セイドゥー)と保守反動的銀行重役ギヨーム(ランドン)といつの間にか二人の婿候補になったダヴィッド(ガレル)とウィリー(クナール)の、愛憎ドラマでもあり映画俳優同士のエゴのぶつかり合いでもある奇妙な言葉の応酬がある。
 そこに割って入るのがこの冴えないレストラン主兼ウェイターであるステファヌ(という役でこの映画に出演が決まったデビュー俳優)(という役の無名俳優マニュエル・ギヨー、55歳)である。このデビュー俳優は今日撮影があるということで緊張のあまり昨夜は一睡もできず、今朝もこのレストランに4人が来るまで緊張しまくっていて手の震えが止まらない。その役というのは、テーブルについた4人の主演俳優たちに、みなさまのためにブルゴーニュ赤ワインを用意しました、とワインの栓をあけ、4つのグラスに注ぐ、というだけのことなのだ。ところがこのデビュー俳優(役の無名俳優)はそれができないのである。何度やっても緊張で手が震えてワインをグラスに注ぐことができない。4人のプロの有名俳優たちはこれで撮影がオジャンになるのは叶わないから、デビュー俳優をなだめたり励ましたり助言を与えたりして、落ち着いて演技を遂行するよう促すのであるが...。
 ステファヌ(役のデビュー俳優)(役の無名俳優)は映画撮影されているのかされていないのか判然としないこのシーンで映画の中心に収まってしまう。 デビュー俳優のドジのせいで出番の空いたダヴィッド(役のガレル)は退屈しのぎにとなりのテーブルに座って食事している二人のご婦人(というエキストラ役の女優)のところへ談笑に。このご婦人二人はこれが映画撮影ということを知っていてエキストラ役をしながら撮影のなりゆきを見ていたのだが、その難渋ぶりに同情的。そしてダヴィッド役男優に「なんでもこの映画、監督がAIって聞いたんだけど本当なの?」と聞くと男優は「世界初の脚本監督すべてAIの映画」と答えるが、男優はそれにあまり肯定的ではない。この仕事続けていく上はしかたない、というニュアンス。そしてぼそっと本音でご婦人に「夢を持ち続けましょう、夢を」なんてことまで言ってしまう。

 しかしながら、デビュー俳優の極度の緊張はついに直ることはなく、映画撮影は万事休す、何十年もこの日が来るのを待っていたのに自らのドジで映画デビューを果たすことができないと悟った男は、店の前に留めてあった自分の車、旧年式のフィアット・パンダの運転席でピストル自殺してしまう。その死体を有名俳優のセイドゥーとランドンが見つけて衝撃を受けた、というところで「カット、撮影終了、すべてOK」となる。
 ここで助手の持つノートパソコンのモニター画面にAI監督がアバター姿で登場、俳優たちにごくろうさん、と。このAI監督は既にこの映画が世界各国から配給契約希望が殺到してることなどで自信満々なのだけど、俳優たちにはかなり細かいことを言う。例えばウィリー役男優には、台本通りのセリフを言わなかったところがあるとして、その台本行数分を減給にする、と。ステファヌ役デビュー俳優役俳優には、撮影前に要求した体型よりも痩せて出演したので、あとでCGグラフィックで体型をリタッチする費用分を減給する、と。なるほど、AIは完全主義の管理をするのだね。しかし経験豊富な名アクターであるギヨーム役男優がAIにここをこう変えてみたら良くなるよといろいろ提案しても、AIはあなたの個人的意見には対応できない、という機械的返答。そうか、AIの支配による来るべき”映画の死”までデュピューは遊びのタネにしているのか、とこの時点で観客は気付く。
 だが映画は続き、有名俳優たちは撮影終了してそれぞれの楽屋で普段の生活の姿に衣替えして帰路につくわけだが、銀行重役ギヨーム役だった男優(演ヴァンサン・ランドン)がかなりハードゲイないでたちに変身するので、有名俳優たちは絶対”生身”を見せないというデュピューの含みなのだろう。4人の有名俳優は帰路はガレルとセイドゥーの二人組、ランドンとクナールの二人組、という組み合わせで往路と同じように長〜〜い土道を早足で歩きながら...。ランドンとクナールはおもむろにゲイのカップルが成立してしまい、ガレルとセイドゥーはおもむろに男優が女優にナンパしようとする、という映画界ありありの展開に。そして無事映画デビューできた55歳男優は、ひとり(車種は覚えてないがフィアット・パンダよりもずっと上のクラスの車)車を運転して、わが道を進むように見えるのだが....。
 最終映像は上に書いたように、土道に延々と敷かれた水平移動撮影用のレールばかりをこれまた長々と水平移動撮影で映し出すのである。

 1時間20分、ほどよい短かさ。見終わると、これは AIによる映画制作と生身の俳優たちのせめぎあい、ギネスブック世界記録認定の650メートルの移動撮影レール、55歳無名男優(マニュエル・ギヨー)の見事な映画乗っ取りデビュー、という三題噺なのだということがはっきりわかる。なんだこれはとあきれるのも一興、おとぼけ奇才デュピューの技の冴えを称賛するのも一興、私はその半分半分。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"Le Deuxième Acte"予告編。この予告編でしっかりと無名男優マニュエル・ギヨーが4人の有名俳優たちの言い分を一蹴して「これは俺のストーリーだ」と宣言している。


(↓)"Le Deuxième Acte"断片。4人の有名俳優がそれぞれの役どころを演じて一同に会しレストランで初顔合わせの談笑中、レストラン主兼ウェイターのステファヌ役のデビュー俳優が緊張で両手をぶるぶる震わせながらお盆にワインを運んでくる図。

2024年5月15日水曜日

あらゆる自由には価格がある

Edouard Louis "Monique s'évade"
エドゥアール・ルイ『逃走するモニック』


ニックとはエドゥアール・ルイの母親であり、この著作の時点で57歳である。2021年4月発表の書『ある女の闘争と変身(Combats et métamorphoses d'une femme)』の中で著者はこの母モニックが、アルコール中毒で暴力暴言が絶えなかった夫(著者の父親)を20数年の忍耐の末に遂に限界が来て家から放逐するという快挙を成し遂げている。さらに生まれたこのかたそこから出たことがなかった北フランスの村を離れて、新しく伴侶となった男を頼ってパリに移住する。この時モニック50歳、『ある女の闘争と変身』の最後にはボーナストラックのように、(大)女優カトリーヌ・ドヌーヴが家の近所でモニックがアパルトマン管理人として働いている建物まで訪ねていき、通りで一緒にタバコを吸って談笑するという挿話が花として添えられる。 
 そのポジティヴな書から3年後、エドゥアール・ルイはその続編をさらにポジティヴなものとして書いた。最初から最後までそのエクリチュールは喜びに満ちている。エドゥアール・ルイにあっては、と断らなくても、今日の文学にあってこの幸福感は稀であろう。昨今フランス人がよく使う”英語”表現では”Feel-good”な著作と言えよう。

 この本の冒頭は逃避行である。4年前モニックが北フランスの故郷を捨て、パリで始めた新しい男との新生活(本の後半でわかるのだが、モニックとその男は結婚せずに"PACS  = 民事連帯契約”を結んでいて、幸いにして結婚と違いこの契約の解消はいとも簡単である)は遅からずモニックにとって新しい地獄になった。前夫(すなわちエドゥアールの父親)と全く同じようにこの男もアルコール漬けでその勢いで強権的でサディックになり、モニックの隷属を強いるために汚い罵りの言葉を吐き、収入源が名目上その男ひとりという”主人”の高圧観からモニックの金の使い道(日常の食糧費まで)をいちいち苦言のタネにし、制裁に暴力を振るう。モニックはこれまで3人の伴侶と生活を共にしてきたが、著者の知るかぎり3人が3人ともモニックに同じ地獄の責苦を強いていた。好き合って始めた同居であろうが、時と共に地獄になっていく。なぜこれらの男たちは凶暴に変貌していくのか。エドゥアール・ルイにはそれの第一原因が貧困である、と考える。
 冒頭の会話は電話である。「私」はその時フランスにおらず、数週間前からギリシャの公的機関に招聘され創作レジデントとして滞在していてあと2週間後でないとパリに戻らない。モニックは泣きながら「私」に電話してくる。
私はおまえの父親から解放されて、私は新しい人生が始まったものと思っていた。でもまた同じことが始まってしまった。まったく同じことが。(・・・・)どうして私の人生はこんなに最低(une vie de merde)なのか、どうして私には幸せに生きることを妨げる男しか当たらないのか、私がこんなにも苦しむに値する女のか、私がなにか悪いことをしたのか?
(p12-13)
状況としては、モニックが電話をしている隣室でその男が泥酔状態でモニックへの罵詈雑言を繰り返しているのが、電話越しに聞こえてくるほど極度に緊迫している。遠隔(異国)から「私」はモニックにただちに必要最小限のものを持ってそこを出て、エドゥアールのパリのアパルトマンに避難するよう促す。恐怖と不安と絶望の淵にある母親を遠隔からの電話で説得するのは難しい。今ここを出てどうなるのか。金も職業も資格も運転免許もない50代の女性、これまで5人の子供と暴君のような男たちの世話を焼いてここまで来た。もう限界は来たが、どこへどうやって逃げる?
 エドゥアールは(遠隔であっても)自分がすべて手配し、費用は全部負担すると申し出る。「私」はここでパリにいる親友ディディエ・エリボン(哲学者・社会学者・文芸評論家・大学教授...。エドゥアール・ルイの恩人にして手本のような存在。シャンパーニュ地方ランス出身でルイと同じように貧しい家庭で暴力的でレイシストでホモフォビアな両親の下で育ち、そこから学術研究の道へ入ることで自らを解放した経緯あり。この書で少し触れられているが、エリボンとその母親の関係はエドゥアールとモニックのそれによく似ている)に助けを求め、エドゥアールのパリのアパルトマンの合鍵、モニックの当座の逃避生活に必要な物品を購入するための現金をモニックに手渡せるように手を回す。
 こうして息子は母の逃走のためにその全幅の信頼を得ようとするのだが、息子と母の関係は単純なものではなかった。息子が生まれ育って勉学のために家を出るまでの年月は、息子の目には母は父の側の人間であり、野卑で暴力的な父と同じように息子にハラスメントを行使する存在に映った。その母への視点がエドゥアール・ルイの21歳の第一小説『エディー・ベルグールにケリをつける(En finir avec Eddy Bellegueule)』(2014年)の中で展開されていて、それを読んだ母は激しく傷つくのだった。この本が大ベストセラーになり、著者は全国の書店でレクチャー&サイン会に回るようになるのだが、そのひとつに母が闖入し、息子に一対一での説明を求めてきたというエピソードがこの新著で紹介されている。母との和解には年月を要した。またそれは同時に前著『ある女の闘争と変身』(2021年)に描かれたモニックの変身の年月でもあった。
 この家族間の確執は著者の妹クララとも同様に存在した。それは2016年の小説『暴行譚(Histoire de la violence)』の中で、自分が被った暴行事件を家族の唯一の理解者としてクララに告白したが、クララがそれをややバイアスのかかったヴァージョンで第三者(当時のクララの夫)に話してしまう(これをエドゥアールが隣室で聞いてしまう)と詳細に記述されて、実名で書かれたクララは心外に思い、それ以来7年間絶交状態になっている。これもそれも自分が書いた本のせいなのだ。リアルとフィクションの区別なく実名で実際に起こったことを書き続けける作家エドゥアール・ルイが宿命的に出会う”書の中に登場した人物たち”との軋轢である。そのことで心苦しい思いをしているとも作者は言い訳するのであるが。
 だが家族を苦しめる結果となったこれらの著作は、作者に巨額の金をもたらしたのである。ベストセラー作家となり、まとまった収入があり、そのことは確かにエドゥアール・ルイ自身が抱えていた多くの問題を解消していった。そして今回の母モニックの”自由への逃走”も最終的には作家の収入が成功させるのである。
Toute liberté a un prix
あらゆる自由には値段がある
 この本が言わんとしているのはまさにこのことなのだ。エドゥアール・ルイが母親に、大丈夫だ、全部「私」が請け負う、と保証したことでこの逃走は現実化する。その時が来るや「私」はギリシャから(パソコンあるいはスマホ画面で)パリのタクシーを手配し、母を乗せたタクシーがちゃんとA地点からB地点にたどり着くか画面上で追っている。ルイのアパルトマンに落ち着いたら、何を食べたいか母親に聞き、ギリシャの画面はパリの食事宅配をオーダーする。21世紀的なテイクケアである。
 モニックの属していた社会の最大の娯楽提供ソースであったテレビ受像機がエドゥアール・ルイのアパルトマンにはない。この耐えがたい不足をどう補うか。なんと息子はギリシャから携帯電話を通じて母親にパソコンの操作のしかたを教えるのである。初めて開くパソコン画面、初めて触れるキーボード、どこのボタンで起動して、どこのキーでプログラムに入って、どこをクリックして(”クリック”って何?と母は尋ねる)、インターネット、ストリーミング、好きな映画や連ドラ....。そこに至るまで、何も知らないモニックに息子は辛抱強く(遠隔で)教えるのである。このエピソード、少しく感動的。息子と母親が(遠隔なのに)これほど近かったことはない。

 そして自由への逃走は次なるステップへ。モニックの住処を見つけること。ここでエドゥアール・ルイは妹クララのことを思う。クララの助けが必要だ。クララが新しい夫(と子供)と暮らしている町で、クララの住んでいるところの近くに住居を見つけられたら、と考える。このアイディアのためには妹の同意が必要だ。7年間絶交状態にあった妹クララのところに「私」はギリシャからコールする。母の窮状を説明し手を貸して欲しいと乞う。兄妹のわだかまりはこの時に溶けて流れたように思えた。
 家探し→物件訪問→賃貸契約、モニックとクララとギリシャの「私」はこれを驚くほどの短時間で済ませてしまう。前の男とのPACS解消、引越し、モニックの新生活の始まり...。このすべての費用はエドゥアール・ルイが払い、そして当面のモニックの月々の生活費も同様。ベストセラー本のおかげ。ポジティヴ。

 著者はこの本の110ページめに女性現代文学の先駆者ヴァージニア・ウルフ(1882 - 1941)が1928年に書いた『自分ひとりの部屋』の有名な一節を引用している。それは女性が小説や詩を書くために必要なふたつのものとして:
ー 家族の者たちに邪魔されることなく静かに執筆するための鍵のかかる自分ひとりの部屋
ー 金銭的不安なく生きていくことを可能にする年500ポンドの金利所得
とする、まさに自由のためには”金”が必要ということを喝破した謂である。モニックはこうして(初めて生活する)自分ひとりの家を持ち、”金”という不安のタネから解放された。作者は57歳で自らの解放を手にした母親を誇りに思い、それに全面的に協力することができた自分自身も褒めてしまっている。許す。

 さらにこの本の133ページめから始まる第二部では、その3年後(笑って冗談を言えるようになったモニック)のさらにポジティヴ後日談が書かれている。ドイツの演出家ファルク・リヒター(1954 - )がエドゥアール・ルイの『ある女の闘争と変身』を舞台演劇化し、劇団がその初日のハンブルク公演に原作者エドゥアール・ルイとその作品のモデルとなった母モニックを招待したい、と。初めての外国旅行、初めての飛行機、初めての外国語圏、初めての豪華ホテル(”このタオル使ってもいいの?”と母は尋ねる)...。初めての演劇観劇、しかもドイツ語にもかかわらず自分の人生がそのまま演じられてことに強烈なエモーションを抑えられない。劇が終わりカーテンコール、リヒターが壇上に原作者とモニックを呼び上げる。場内の割れんばかりの大喝采と「モニック!モニック!」コール...。
 逃走は報われた。正しかった。
 ハンブルクの観客たちとリヒターはこの続編を、とエドゥアール・ルイに求めた。そしてモニックも。ある日「私」の本棚から『ある女の闘争と変身』を見つけ、それを手に取って:
おまえがこの本を書いた時から私はずいぶん変わったよ。おまえはいつかそのことを本に書くんだろうね。私はそうしたらもっと変わるよ。(p161)

こうして母の”オーダー”によって書かれ出来上がったのがこの本だ、と著者は結語している。許す。すばらしい。

Edouard Louis "Monique s'évade"
Editions Seuil刊 2024年5月 165ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)公共ラジオFRANCE INTER(インタヴュアー:ソニア・ドヴィレール)で『逃走するモニック』について語るエドゥアール・ルイ「長い間私は”喜び”について書くのが恥ずかしかった、できなかった」

2024年5月8日水曜日

競売吏アンドレ・マッソンの苦悩

"Le Tableau Volé"
『盗まれた絵』


2024年フランス映画
監督:パスカル・ボニッツェール
主演:アレックス・リュッツ、レア・ドリュッケール、ノラ・ハムザウィ、ルイーズ・シュヴィヨット
フランス公開:2024年5月1日


ずこの映画の主人公アンドレ・マッソン(演アレックス・リュッツ)について。職業は世界的競売会社(サザビーズやクリスティーズの類)であるスコッティーズ(Scottie's)社の幹部社員にして同社のトップ競売吏。日頃ミリオン単位の競売を扱うため、羽振りは良くベストドレッサーであり自前スーパーカー(これ昭和の言葉?)で営業に飛び回っている。博識・目利き・話術に長け、超富裕層や学術者層と渡り合って確かな信用を勝ち得ている。その名を語るとき、必ず「かの画家と同姓同名」と断わりを入れる。実在した20世紀シュールレアリスト画家アンドレ・マッソン(1896 - 1987)は、私のような昭和期の仏文科学生にはジョルジュ・バタイユ眼球譚』『太陽肛門』の挿画が強烈に記憶にあるのであるが、それはそれとして、この映画の関連で言えば、タイトルの「盗まれた絵」(エゴン・シーレの『ひまわり』)がナチスによって”退廃芸術”とされ闇に葬られたように、マッソンもまたその画業が”退廃芸術”と見做され、ナチスとその傀儡ヴィシー政権の弾圧を逃れて亡命せざるをえなかったという経緯がある。映画のストーリーからすると”軽い”名前ではないのだが、(本来喜劇アクターの)アレックス・リュッツが演じると「たまたま同じ名前ですよ」のノリになるものの、なにかの因縁づけであることには違いないと私は勝手に解釈した。
 さて、映画は実際にあった出来事に基づいてのストーリーである。2005年にフランス東部アルザス地方の町ミュルーズで、オーストリアの画家エゴン・シーレ(1890 - 1918)が1910年代にゴッホの「ひまわり」にインスパイアされて描いたとされ、その後ナチスに没収され行方がわからなくなっていた「ひまわり」の油絵が60年後に発見されたという実話。
 映画は時代を2020年代的現在にしてある。地方の女性弁護士エゲルマン(演ノラ・ハムザウィ)が世界的競売会社のスコッティー社のマッソン宛に(インターネット/メールでの第三者の悪意ある傍受を避けるため!)郵便封書で、クライアントが見つけたエゴン・シーレの「ひまわり」と思しき油絵を鑑定して欲しい、と。直感的にマッソンは99.9%贋作と鼻で笑っている。マッソンがこの件の鑑定士として指名したのが、マッソンの元妻のベルティナ(演レア・ドリュッケール)で、今は”その種”の売買の本場スイスに住んでいる。気心を知り尽くした旧友のような間柄。なぜ別れたのかは不明(たぶん映画の後半でわかる”ジェンダー”問題)。両者がパリとスイスからやってきて落ち合ったのがミュルーズ。そのミュルーズには世界最大規模のクラシックカーコレクションを誇る国立自動車博物館があり、その趣味のカーマニアであるマンソンがミュージアムの中で子供のようにはしゃぐシーンあり。と、ここまでが、雲の上階級のコレクション売買(絵画・骨董・クラシックカー....)というわれわれシモジモ階級には映像だけで鼻白んでしまうイントロ。
 さいわいにもそれをわれわれのレベルまで落としてくれるのがミュルーズの”現場”。件の絵の発見者はマルタン(演アルカディ・ラデフ)という名の若者で、職業は化学工場の夜勤の作業員。1960年代までミュルーズはフランス屈指の先端工業地帯であったが、世界的産業再編のあおりで多くの工場が閉鎖し....。そういう21世紀で地元工場で働き続ける目立たない労働者の若者で、母親と二人暮らし。二人が住むアパルトマンは、”ヴィアジェ”(フランスの名高い高齢者不動産売却契約、リンクを貼った小沢君江さんの解説に詳しい)で購入した。 前の家主が死んだことでこの物件が手に入ったわけだが、その旧家主がそのサロンを飾っていた油絵をそのまま受け継いで、同じサロンにずっと納まっていたのがそのブツ。気に留めること長年眺めていたその絵が、ある日美術雑誌の表紙となっていたのを偶然目にしたマルタンであった。その歴史的価値を知るや、本物かどうか半信半疑で弁護士エゲルマンに相談したのだった。
 さてエゲルマンが立会人となって、その世界一流の競売吏マッソンと鑑定士ベルティナがマルタンと母の住むミュルーズ郊外のアパルトマンに乗り込んでくる。長年の経験によって頭から”偽物”と決めてかかっていた競売吏と鑑定士であったが、その絵を一目見たとたん二人とも思わず笑ってしまう。それを見た弁護士エゲルマンは本件は文字通り”一笑に付された”と直感した。元夫婦の二人はひとしきり笑ったのち....「本物だ」と鑑定の結論を。一目でわかった。ことのあまりの重大さに本能がスイッチを入れた笑いだったというわけ(この演出ちょっとくさい)。評価額は?1千万、いや1千2百万ユーロ(約20億円)だ、と。
 アパルトマンの地下物置から死んだ旧家主の身元を証明する書類が見つかる。第二次大戦中この男は”対独協力役人”としてかなり上の地位にあったことがわかる。1918年にこの世を去ったエゴン・シーレの作品はナチス政権から”退廃芸術(art dégenéré)”と指定されて没収され、あるものは破壊され、あるものは闇ルートで売却されナチスの闇金となった。占領ドイツ権力に近かったこの男はそれと知らず(価値を知らず)偶然この絵を手に入れたのだろう。それから60年、そのサロンにあり、チリやほこりや煙草の煙をかぶって60年もの間晒されていたのだ。
 映画はメインのストーリーとして、この盗まれて行方不明だったエゴン・シーレの名画が、米国に住むシーレの権利継承者が発見者マルタンへ10%の報償金を与えるという条件でマッソンのスコッティー社に競売による売却を依頼し、競売業界にありがちな黒い策謀や妨害詐欺などの紆余曲折を経て、結果として2500万ユーロ(41億円)という記録的な落札価格がつく、という大団円へと進む。競売マンとしてマッソンが、所属するスコッティー社の強烈なハラスメントを受けたり、自らの虚飾に満ちたライフスタイルに疲れたり、という苦悩もあり。しまいには(この歴史的競売のあと)競売吏を引退することになるのだが...。
 このマッソンと競売のストーリーは、それはそれでありなのだが、私にとってこの映画の魅力はそれに付随して進行するふたつのサイドストーリーである。ひとつはマッソンの見習い秘書として働くオロール(←写真)(演ルイーズ・シュヴィヨット)の挙動であり、彼女は業務を完璧以上にこなす超有能な秘書でありながら、なにかにつけて呼吸するように嘘をつく。自分を防御するためなのか、自分を別物に装いたいのか、その嘘はすぐにバレるものなのだがトゲがある。その嘘は他人だけでなく自分の父親(父親役でなんとアラン・シャンフォール出演!)に対しても同じように。後でわかるのだが、それは父親(&家族)を破産させるに至った詐欺事件を経験したからで、あらゆる人を疑い嘘をつくようになったようだ。マッソンはそれでもこの秘書を買っていて、一人前の競売ウーマンにと考えていたのだが、男女間の感情のもつれのような確執が生じて一旦オロールは姿を消す。そしてエゴン・シーレ「ひまわり」競売をめぐる評価価格大下落の危機がおとずれた時、再びオロールはマッソンの前に現れ、それは自分の父親を襲った詐欺事件と同じ手口であることを見抜き、その詐欺策謀を打ち負かす策をマッソンに授けるのである...。
 もうひとつはかの絵の発見者、ミュルーズの労働者青年マルタン(写真→)のストーリーである。最初はこの絵の価値がどれほどのものかわからず鑑定を依頼したものの、その価値とその背景がわかったとたん、この青年の心にぐじゃぐじゃと葛藤が生じ、この絵に関する一切の権利を放棄することを決める。この青年は見込まれる巨万の富を放棄してでも、自分の小さな世界(二人の悪友たち、工場での夜勤労働の日々)を維持したいと考えるのである。この純粋ゆえに心揺れる歴史的名画競売騒動にマルタンは最後までつきあい、そして再び”労働者”に戻っていく...。この話、ほんとに好きですよ。

 その他、どうしてなのか2回も全裸入浴シーンを見せるレア・ドリュッケール(お風呂好きという理由だけなのか)、紆余曲折あった名画競売騒動に最初から最後までつきあった弁護士エゲルマンと鑑定士ベルティナの間にできた同性愛関係など、どうでもいいような話もある。肝心の世紀の名画のおすがたはほとんど映らない(これはしげしげと見てみたいものだった)。1時間半のいろいろ詰まった娯楽サスペンス映画。ほっこりして映画館を出られる。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『盗まれた絵(Le Tableau Volé)』予告編

2024年5月1日水曜日

追悼ポール・オースター:九分九厘の幸福

2024年4月30日、ポール・オースターが肺がんのため77歳で亡くなった。私の最重要作家のひとりであるが、出会いは遅く2004年に最初の一冊『オラクル・ナイト』を読み衝撃を受け、当時私が運営していた「おフレンチ・ミュージック・クラブ」の”今月の一冊”として紹介記事を書いた。「おフレンチ」にはもう一冊オースター小説を紹介している。2005年の『ブルックリン・フォリーズ』であり、以下に再録するが、そのイントロ部分で「私の2005年のベスト」と書いている。今の爺ブログなら「★★★★★」評価をつけるところだと思う。ユートピアが見えそうになる時、2011年9月11日の朝で幕を閉じる小説である。読み返してみよう。


★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★


これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2006年2月に掲載された記事の加筆修正再録です。


Paul Auster "Brooklyn Follies"
ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』


(Actes Sud刊2005年9月)

の数ヶ月、本を読まなかったわけではない。悪い本にばかり当たっていたような気がする。悪い本は精神衛生上よくないし、この欄で私が悪い評を書いたところで、その読書体験が報われるわけではない。だから2ヶ月前に読んだものだが、ポール・オースターを取り上げることにした。私の2005年のベストの一冊である。それにしても2006年2月の現在において、まだ日本語訳が出ていないというのは不思議だ。

 話者ナタン・グラスは60歳の元生命保険セールスマンで、ガンと診断されるが一時的に鎮静状態にあり、早期退職して限りある余生を自分の原点であったブルックリンに戻って過ごすべく、かのニューヨークの一角に移り住んでくる。妻とは離婚し、娘とは時々連絡をとる程度の独り身暮らし。散歩や昼食のレストランなどでこの選ばれた「終生の地」はナタンを魅了していく。残り少ないと仮定された人生は、その若き日の文学趣味を再び呼び起こし、ナタンはこのブルックリンの日々を文字として留めていくことになる。その書き物のタイトルは『人間の狂気の書 Le livre de la follie humaine』と言い、この書のもうひとりの主人公はトム・ウッドという名のナタンの甥である。長い間会っていなかったこの甥は、過去には秀才の文学青年で、今頃は当然成功してどこかの大学教授に納まっているはずであったが、2000年春、彼がいるはずのないニューヨークのブルックリンの古本屋でばったり出会ってしまう。トムは若くて純粋な精神が勝ってしまって、教授職を選択せずに、青春の放浪の末にほとんど無一物でニューヨークに流れ着き、ブルックリンの古本屋に店員として拾われる。この文学好きな二人の再会によって、小説は理想を求める心優しい男たちの奮闘記に一転していく。この男たちのひとりを形成するのが、ハリーという名の古本屋店主である。富豪の娘と不詳不詳結婚させられたホモセクシュアルの男で、画廊で一時は成功するがその成功を維持するために贋作を売り、詐欺罪で監獄を経験したのち、第二の人生としてやり直すべくニューヨークになってきた。

 このハリーから、立ち行かなくなった世界の救済場所という、夢のヴィジョンが提案される。この場所は「実存ホテル HOTEL EXISTENCE」と称され、そのドアを開けば外界からどんな被害を被ることもなく、現実世界が効力を失ってしまう場所である。戦乱の地にも、自然災害の地にも、必ずそういうホテルが存在するのだ、と彼は信じている。

 小説はマトリョーシカ人形(ロシアこけし)のようにさまざまな人物が次々と現れ、それぞれ固有の小物語が矢継ぎ早に展開される。トムがナイーヴな純愛ごころから近づけないでいる子連れの女性(名付けて)”JMS(至高の若母 Jeune Mère Sublime)"。その夫で名前がジェームス・ジョイス(そういう大作家がいたということも知らない家庭環境で生まれた男)。その母親であるジョイス・マズケリ(夫の姓と母のファーストネームが同じという符合)は小説の終盤ではナタンとの老いらくの恋仲に結ばれる。トムの妹で、ポルノ女優から麻薬中毒者に身を落とし、新興宗教セクトの男に拾われ、そのセクトから抜け出せないでいるロリー。その娘でまだ9歳半のルーシーが家出してきてトムの前に現れる。母親ロリーの居場所は杳として知れない。この一筋縄ではいかない家出少女を連れ立って、トムとナタンの珍道中が展開される。そのロードムーヴィー的展開の道すがら、立ち寄った「チャウダー旅籠」という民宿にトムとナタンはハリーが言っていた「実存ホテル」のこの世の姿に違いないと見てとるのである。地上においてもしも「実存ホテル」があるとすれば、この旅籠のことに違いない、と。

 この話を実存ホテル論の元祖ハリーに伝えると、ハリーはその旅籠をわれわれの実存ホテルにできる可能性があるから、まかせておけと言う。ハリーにはもうすぐ大金が転がり込んでくるはずなのだ、と。ナタンは信じない。友人としてナタンはハリーに忠告するが、ハリーは耳を貸さない。アメリカ文学ゴシック小説の傑作として名高いホーソン作『緋文字』(1850年)のオリジナル手稿の贋作をコレクターに売りつけるという企てだったが、ハリーの一世一代の大詐欺作戦は機能せず、逆に共犯者に騙されていたことが発覚し、その揉み合いの果てにハリーは命を落としてしまう。

 小説は大団円に向かっていき、ナタンはハリー殺しへの復讐を果たし、トムはチャウダー旅籠の娘と所帯を持つことになり、悪ガキ少女ルーシーは母親ロリーと再会し、ロリーは新興宗教セクトから解放され、老いらくの恋(ナタンとジョイス)は成就し、万事がまるく納まるかのように思われた。そしてナタンのガンが再び体を蝕んでくるのであるが、それは前もってわかっていたこと。ジョージ・W・ブッシュが大統領に当選し、急激な保守化右傾化の波の中で、それでもブルックリンはナタンたちが自らつくった自らの実存ホテルのように、良い顔をした町になった。そういう顔の町に青空の朝がやってくるのである。2001年9月11日の朝が...。

 ポール・オースターは2001年9月11日の後、3編の小説を発表しているが、いずれも”9月11日”に関連したものではなかった。フランスの文学雑誌LIREのジャーナリスト、フランソワ・ビュネルはその間オースターに会うたびに同じ質問をしていたという。「9月11日に関した小説は書かないのですか? ニューヨーカーとして、小説家として、そしてツインタワーに面と向かった場所に住んでいた人間として、アメリカの顔を激変させてしまったこの日に関して書かずにいられるのですか?」。オースターはその返事として、ひとつの大悲劇を一編の小説という形に凝縮することには疑問に思うところがあるとし、彼が過去にニクソン大統領の事件をフィクション化した小説『ムーン・パレス』(1989年)を書き上げるのにも20年の月日を要したのだ、と答えたという。しかしながら『ブルックリン・フォリーズ』は20年の歳月を待たずに、事件の4年後に発表された。

 言わば”戦前”の幸福で明るい狂気であふれていた”Y2K"期のアメリカ、ニューヨーク、ブルックリンであるが、これは世代論的にあの頃はみんなこうだったという”十把一絡げ”な作品では断じてない。ガンを患う60歳の男が奮起すれば、理想も愛も現実に近くなっていくのだ、というおめでたい人生論とももちろん異なる。われわれの日常とはたぶんこれに近くてもいいのだ、と思わせてくれるなにかがありがたいのだ。実存ホテルはもちろん実体のものではなく内在するものである。そのドアはたぶん開くのである。そのホテルの窓から見える青空は、9.11ニューヨークの青空のゆに危ういものであっても。生きて行こう。

Paul Auster "Brooklyn Follies"
Actes Sud刊 2005年9月 368ページ 23,40ユーロ

(↓)1987年、40歳のポール・オースターが国営TVアンテーヌ2のベルナール・ピヴォのインタヴューに答えて、いかにしてフランス語を習得し、どんなフランス人作家詩人を米語に翻訳したかを語っている。