2022年4月8日金曜日

(ぶり)じっと手を見る

同志たち

ブログ『カストール爺の生活と意見』は近年記事更新を重ねるごとに筆者の日本語の不正確さが顕著になっています。どう考えても頭から出てこない日本語を探して大変な時間を要するようになって、新しい記事を作成することが非常に難しくなっているのです。とりあえずの目標である総ビュー数「100万」(現在のペースから推算すると達成は2023年初頭)まではがんばって続けたいと思ってますが、新規記事がつらくなっている分、他媒体での過去記事の再録(当然加筆訂正の上)が増えていくと思います。過去記事には今の私には絶対にできない日本語表現と洞察力があり、私自身、どうしてこんなすごいものが書けたのか、と感嘆してしまうものが少なくありません。同志たちにもそれは共感できると思います。
 この記事は2013年秋に書いた。ブリジット・フォンテーヌ(1939 - ) は当時74歳、デビューしてちょうど50年、長編ドキュメンタリー映画『ブリジット・フォンテーヌ/反射と生々しさ Reflets et crudité』(ブノワ・ブシャール&トマ・バルテル監督)も劇場公開された年だった。この年11月13日、バタクランのステージでブリジット・フォンテーヌを見た(このちょうど2年後の2015年11月13日、バタクランはテロ襲撃で血の海となる)。あの頃は「ケケランドの女王」と呼ばれ、何かと元気な人だった。私はまだオーベルカンフ通りに事務所を構える「音楽業界人」だった。今は昔。

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ 

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2013年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


ブリジット・フォンテーヌなんか怖くない

(in ラティーナ誌2013年11月号)

 20年ほど前、その頃パリ11区にあった独立レーベル、サラヴァの事務所で、ピエール・バルー夫人の潮田あつ子さんから「ブリジット・フォンテーヌについて書いてみないか?」と言われ、私は「ダメです。私はあの人大の苦手ですから」と即座にお断りしたことがある。それもフォンテーヌの顔を正視できない、目と目が合ったらこちらが凝固してしまう、といった恐怖感まで伝えて、勘弁してくださいと辞退したのだった。
 私は1970年代前半に東京で仏文科の学生だったが、その頃日本でブリジット・フォンテーヌは仏文科的環境でなくても音楽ファンの間ではかなり知られていたと思う。日本で特に評価の高かったアルバム『ラジオのように(1969)はおそらくフランスよりも日本の方がはるかに良く売れたはずである。しかもその日本盤LP解説は夭折した音楽批評家、間章1946-1978)の初のライナーノーツであったという尾鰭がつき、日本独自のカルト性を獲得して名盤化した。私は苦手だった。このアルバムを稀代の傑作と褒めそやす人々も苦手だった。ゴダール映画のように苦手だった。当時私はどちらかと言うとトリュフォー映画を好み、フォンテーヌやサラヴァ一派のレコードを避けてフランソワーズ・アルディとヴェロニク・サンソンを聞く軟派な仏文科生だった。

 60年代頃から世界には地上と地下があった。後者は世界的にアンダーグラウンドと英語で表記され、日本では「アングラ」と4文字カタカナになった。それ以来、映画、演劇、音楽、絵画などで、何か新しいものは地下にある、という時代の風潮があった。出身高校の先輩に寺山修司(1935-1983)がいて、私が高校生の時その高校の講堂で講演をして、その著『家出のすすめ』が売れたおかげで多くの若者たちが家出をしてしまい、その世話をしなければならない羽目になったのでアングラ劇団を作った、という話をした。あの頃アングラの入口というのはそういうところで、地下に入って行くには家出(当時の別の言葉ではドロップ・アウト)する必要があった。私は18歳で親元と郷里を離れたが、その強い誘惑にも関わらずドロップ・アウトしなかったのは、自分に根性がなかったということだけではなく、私の親が教職者だったからだ、と自分で理由づけていた。私は地上に留まり、仏文科生になった。


 ブリジット・フォンテーヌが極めて優秀な合格点(20点満点の19点)でバカロレア資格を取り、17歳でブルターニュの郷里モルレを離れパリに出るものの、大学に行かずに演劇の世界に入り、やがてシャンソンでアンダーグラウンド化して行った理由のひとつに、親が教職者だったから、ということが告白されている。彼女にとって教育者と学校は最も原初的な反抗の対象であった。1972年アルバム『ブリジット・フォンテーヌ・3』(写真→)の中にこんな歌がある。


   坊や、どこに行くの?

  「学校へ行くんだよ」

   いつ戻ってくるの?

  「二度と戻ってこないよ〜〜!」

                
"Où vas-tu petit garçon" )

 
 この歌の中で学校は屠殺場であり、子供を挽肉にして食べてしまう。ピンク・フロイド『ザ・ウォール』の7年前、ブリジットは教育と学校を恐怖し、憎悪し、呪っていた。「ジャメ〜〜〜!(二度と戻ってこないよ)」というヤギの鳴き声のような震えが恨めしく、この歌は彼女のレパートリーで最も知られる曲のひとつとなった。

 2013年秋、私たちはフォンテーヌの最新アルバム"J'ai l'honneur d'
être"(直訳すると『私は...であることを光栄に思う』)の最終曲"Père"(父)に、おそらく誰も予期しなかった父へのオマージュを聞くのである。それは教職者であり、共和国教育の奉仕者であり、多数の子供たちの代父であった男へ、彼女が和解することも愛を告げることもできぬまま逝ってしまった父への愛の歌なのである。

   控えめな星のように笑う
   公立学校の奉仕者

   民衆の父

   おちびちゃんたちのゴッドファーザー

        ("P
ère")


この歌はステージでは歌えないと彼女は言う。エモーションが身近すぎるから。そういうことをフォンテーヌが言うようになったのである(と私は驚く)。


 2013年秋、このフランスでブリジット・フォンテーヌは地上での事件である。新しいアルバムは異口同音で文化批評誌紙(テレラマ、レザンロック、ル・モンド、レクスプレス、ヌーヴェロプス、リベラシオン...)に絶賛され、11月から来年4月にかけて新たなコンサートツアーが始まり、10月4日にフォンテーヌをめぐるドキュメンタリー長編映画"Reflets et Crudit
é”(直訳すると『反射と生々しさ』。ブノワ・ムシャール&トマ・バルテル監督作品)が劇場上映された。今年は歌手デビューから50年に当たる。日本ではまだ「アンダーグラウンドの」「前衛の」「初期サラヴァの」というイメージが抜けないかもしれないが、そういうブリジット・フォンテーヌは2013年の今日もう存在しないのだ、と言い切っていい。


 1939年生れ。すなわち当年74歳。ブルターニュの教育者家庭に生まれたブリジットは文学と哲学と演劇に情熱を抱いた少女だったが、17歳でパリに出て舞台女優となり、イヨネスコの「禿の女歌手」(パリ5区のユシェット座)にも出演している。その6年後に自作シャンソン歌手として左岸のキャバレーなどで歌い始め、ジャック・カネティ(ピアフ、トレネ、グレコ、アズナヴール、ブレル、ゲンズブールなどの発掘者として知られるプロデューサー)の目に止まり、1965年にレコード・デビューをしている。その時の相棒が一歳年下のジャック・イジュランであり、そのデュオが残した名曲が"Cet enfant que je t'avais fait"(僕がきみと作った子供)である。


     (イジュラン)

      僕がきみと作ったあの子

      最初のじゃなくて2番目の子

      憶えているかい?

      あの子どこにやったの? どうしたの?

      僕がとっても好きだった名前の子

      憶えているかい?

    (フォンテーヌ)

      煙草を一本くださいな

      私はあなたの手の形が好き

      何を言っていたんですか?

      私の頭を撫でてください

      私は明日までたっぷり時間があるの

      何を言っていたんですか?

           ("Cet enfant que je t'avais fait")


全く噛み合ない対話が続き、どちらが正気でどちらがそうでないのかわからないのに、愛と悲しみの空気を作り出してしまう美しい歌。前述のドキュメンタリー映画『反射と生々しさ』では、この歌の約50年後に、ブリジットが住むパリの中州サン・ルイ島の目抜き通りで、イジュランとフォンテーヌが手に手を取ってワルツを踊るという美しいシーンがあった。その映画では、イジュランと共に彼女の演劇のパートナーでもあったルフュス、そして69年から今日まで公私のパートナーであるアレスキー・ベルカセム、そしてイジュランとフォンテーヌの4人が、俺たちもう50年近くも続けてきてるんだ、一体どうして?と自問自答するような場面もある。

 五月革命の1968年、ピエール・バルーの自主レーベル、サラヴァからアルバム"Brigitte Fontaine est... folle"(『ブリジット・フォンテーヌは...狂女である』→写真)が発表される。詩人・歌手・女優・「狂女」という姿を持ったアンダーグラウンド・アーチストは、続いて翌年にかの『ラジオのように』(アレスキー・ベルカセムとアート・アンサンブル・オブ・シカゴ参加)を生み出すのである。フリー・ジャズと北アフリカ伝統音楽、シャンソンと散文詩朗読、それらがゴッチャになった長さ30分のアルバムは、後世(2030年後)になって、セルジュ・ゲンズブールの『メロディー・ネルソン』(1971年発表。長さ28分のアルバム)と並んで、世界のミュージシャンに最も重要な影響を与えたフランスのポップ音楽作品となる。

それは何でもないわ
ただの音楽

何でもないわ

ただの言葉、言葉、言葉

ラジオから聞こえてくるようなもの

それは何の邪魔もしない

トランプ遊びも

高速道路の上で眠ることも

お金の話をすることも邪魔しないわ

      ("Comme
à la radio")
 
  おそらくこのアルバムがブリジット・フォンテーヌのイメージだけでなく、サラヴァという独立レーベルのイメージも決定づけてしまったに違いない。高いプレス評にも関わらずテレビはもちろん(この歌詞に反するが)ラジオにもかからない。フランスの大多数の人々の知らぬところでフォンテーヌ+アレスキー組は70年代を通して7枚のアルバムを制作し、精力的に全国の小劇場や監獄や精神病院で演奏して回った。

 80年代にはレコード制作が休止されるが、これを「雌伏の時代(フランス語表現では「砂漠の横断期)」と言われるのをブリジットは嫌う。「私は本を書いていた」と。詩歌、小説、戯曲、童話、エッセイなど彼女にはたいへんな数の著作があり,このフォンテーヌ(泉)から湧き出ているのは言葉、言葉、言葉である。最新アルバムのライナーノーツでエルヴェ・カビーヌ(ブリジット人形の作者)が「彼女の次の小説はノーベル文学賞になろう」と書いているが、その豊穣な文字量にはなにがしかの賞に値するはずだ。ところが、熱心なフォンテーヌ音楽ファンの側はそう思っておらず、80年代のレコード制作枯渇期に、なんとかフォンテーヌを音楽界に復帰させようとしたのが、本誌執筆者でもあった在仏日本人ジャーナリストの木立玲子さん(1951-2003)だった。84年から曲が出来上がっていたのに録音できずにいたアルバム『フレンチ・コラソン』は木立さんのコーディネートで日本のミディ・レコードが制作し、日本で88年に発表された。


このアルバムはフランス発売が90年なので、かの「ヌガー」は日本人が最初に聞いたことになる。朝起きたら、シャワールームに一匹の象がいて、「どうやって入ってきたの?」と驚くブリジットに,「気にするなよ、それよりも俺にヌガーをくれよ」と象が言う。そういう不条理な歌詞をアレスキー一流のアラビック旋律に載せて歌うお祭り騒ぎの踊れる楽しい歌。珍しくフランスのFMがこの曲をオンエアし始めたとたん、第一次湾岸戦争(1990-1991)が勃発し、この歌は放送自粛曲になってしまう。理由は不明。とにかくアラビックなものは戦時は自粛すべきということだったと思う。Fuck ! とブリジットは憤怒をぶちまけたことであろう。

 この歌に政治的意図はなかったにせよ、フォンテーヌは状況にコミットした歌や言動は多くあった。妊娠中絶規制全廃への運動、学校と教育への嫌悪、今の女性の地位への不満、イラク戦争反対、フランスの移民排斥思潮への抗議、あるゆる禁止(特に公共の場所での喫煙の禁止)への反対...2010年1月、フランスのロック音楽FM局であるウイFMで、(当時)サルコジ大統領の55歳の誕生日の祝賀メッセージとして彼女は生放送でこうぶちまけた(↓写真)。 
「大統領殿、あんたの尻をフォークで引っ掻いてやるよ、あんたの両目に唾を吐いてやるよ、あんたのふくろはぎを血が出るまで齧ってやるよ、あんたの顔がレプラ患者のようになるまで鼻をおろし金でこすってやるよ、あんたをキンタマから吊るし上げてあんたの肝臓にむしゃぶりついてあんたの顔を縄でぐるぐるに縛ってやるよ...

これでフォンテーヌとアレスキーはしばらくの間放送電波からシャットアウトされ、レコード会社も一切のプロモーションを中止せざるをえなくなる。

 話は前後するが、その頃には80年代には考えられなかったほど、彼女のメディアへの露出度が増えている。それは90年代から若い世代の第一線のアーチストたち(エチエンヌ・ダオ、マチュー・シェディド、ソニック・ユース、ステレオラヴ、ノワール・デジール、ゴータン・プロジェクト、ゼブダ等)からの熱いラヴコールと、彼らとのコラボレーションによってサウンドはエレクトロ・ポップ化し、メジャーレコード会社が強力に後押しするメジャーなアーチストに変身してしまったからである。もはやアンダーグラウンドという形容は通用しない。信じられないことにアルバムは次々とゴールドディスクを認定されていくのだ。(↑アルバム『ケケランド』
2001年)
 そしてテレビであの奇抜な姿をおおいに披露し出したのだ。私が苦手なのはこのテレビでの立ち振る舞いであり、テレビの側がこの訥弁の女性に求めているのはエキセントリックな見せ物であり、噛み合ない対話やちょっと彼女の癇に障ることを引き出してそれに鬼婆の形相で憤慨するさまを視聴者が喜ぶというパターンが多い。ニコチン、アルコール、ドラッグ、狂気、そういったものを彼女を通してお茶の間のお笑いにしてしまうテレビを私は忌まわしく思う。そこでブリジットは演技でも地でもなく、中途半端な見せ物と化していることも忌まわしい。


 ブリジット・フォンテーヌは変わった。老いたと言い換えてもいい。その老いも痛みを伴っている。

老いても、おまえたちをファックするんだ
こんなトンボみたいな姿でもね

信仰も法もない年寄りさ

死んだらさぞうれしかろうね

("Prohibition" 2009年)
 この人はニコチンから養分を取って生きているのではないかと思うほどの喫煙量である。この5月、同じサン・ルイ島の住人で親友でもあったジョルジュ・ムスタキが(20年前に煙草をやめたのに)呼吸器系の病気で亡くなった。敬愛していたゲンズブール(ジターヌ喫煙者。1928-1991)も親しい共演者だったアラン・バシュング(ゴーロワーズ喫煙者。1947-2009)も死んだ。不吉なことは言うべきではないが、ブリジット・フォンテーヌの場合、死は黙っていてもこの道を通ってやってくるだろう。信仰も法もない年寄りと彼女は歌う。煙草もアルコールもあれもこれも禁止しようとする世の中で、自由であり続けることができるのか。年寄りとしてそれに「ファック」と毒つくフォンテーヌは、トンボの容姿をしていて、50年前と変わらない怯えた童女の顔をしている。人に見られたくないと言いながら、人に見られている少女の顔だ。私はやはりこの顔が苦手だ。
ブリジット
いつもカフェの隅っこにいる

まるで森の奥にいるみたい

きみは人に見られたくないの?

どうして?

ブリジット

いつも歌歌いに行くのね

屋根の上で叫ぶのね

でもみんなきみを見てるよ

どうして?
         
     
"Brigitte" 1972年)




(ラティーナ誌2013年11月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓) ドキュメンタリー映画
『ブリジット・フォンテーヌ・反射と生々しさ』(ブノワ・ブシャール&トマ・バルテル監督 2013年)予告編

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