2020年8月30日日曜日

ガビー おお ガビー

"Petit Pays"
『プティ・ペイ』

2020年フランス映画
監督:エリック・バルビエ
主演:ジブリル・ヴァンコペノル、ジャン=ポール・ルーヴ、イザベル・カバノ
原作:ガエル・ファイユ『プティ・ペイ』
フランスでの公開:2020年8月28日

2016年に発表されたラッパー/シンガーソングライターのガエル・ファイユの自伝的小説『プティ・ペイ』は、私もオヴニー紙上の紹介記事で絶賛したし、多くの人たちに読むことを勧めてきた作品である。幸いなことに2017年には日本語訳本も出たので、まだの人はぜひご一読を。(原作のあらましはこちらで)
 映画は当初2020年3月に公開されることになっていたが、コロナウィルス緊急事態で映画興行ができなくなったせいで、5ヶ月封切が延期された。監督のエリック・バルビエの前作はロマン・ガリー(1914-1980)の自伝的小説『夜明けの約束』を原作とする同名映画(2017年、主演ピエール・ニネー)で、(著名)文芸作品映画化が2作続いているという具合。
この映画はガエル・ファイユ原作におおむね忠実ではあるが、バルビエの自由翻案も随所に登場する。時代は1990年代、ザイール(現コンゴ民主共和国)とルワンダと国境を接する小国ブルンジが舞台である。フランス人で土木工事企業の社長ミッシェル(演ジャン=ポール・ルーヴ)と、ルワンダ人で民族的にはツチ族に属するイヴォンヌ(演イザベル・カバノ)の間に生まれたガブリエル(愛称ガビー、演ジブリル・ヴァンコペノル)は、(ある種裕福な階級に属する)ワルガキたちとつるんで、悪戯放題の天真爛漫な子供時代を謳歌しているように見えるが、その楽園的晴天の日々にふたつの黒雲がせまってくる。ひとつはルワンダとその周辺国で長引いているフツ族とツチ族の対立/民族憎悪がさらに激化し内戦となってブルンジも巻き込まれようとしていること。父ミッシェルはガビーにフツとツチの違いをこう説明する「どちらも同じ言語、同じ宗教、同じ習俗を持っているのに、鼻の形だけ違う」と。つまり、鼻の違いだけで殺し合いをしている不条理な内戦である、と。この視点はたぶんアフリカに植民してきた白人の「上からの」見方かもしれない。 不可解な脅威。少年ガビーも子供からの"下から”目線ではあるが、このミッシェル説に近いものがあるが、腕白仲間でさえも「フツかツチかどちらかをはっきりしないと、殺されることになる」という緊急な危機感が迫り、揺れてしまう。
 ここで早くもこの映画の問題点を見てしまうと、このミッシェル=ジャン・ポール・ルーヴの揺れ方が、映画のルワンダ/ブルンジ虐殺を見る白人(ひいてはフランス人、フランス政府、フランスの多くの親アフリカ市民団体)視点の説明であり、これはガエル・ファイユの原作には全くないものである、ということ。ミッシェル=ジャン・ポール・ルーヴは主役ではないのに、この映画をこの視点で見ろ、というしつこさがある。
 ふたつの黒雲のもうひとつは、ミッシェルとイヴォンヌの離婚的危機であり、これはガビー(と妹のアナ)にとって耐えがたい苦しみなのである。愛する父親と愛する母親がもはや愛し合っていない。この決定的な別離は遠くないと兄妹は恐れていて、兄は妹を必死になって守ろうとしている。イヴォンヌは誇り高いツチ族の名家の娘であり、ルワンダでの虐殺を逃れてブルンジに逃れてきたが、平和が訪れたら故国ルワンダに戻りたいと願っている。家族の中にはツチ族を守るために軍隊に志願する者もいて、ある種(ツチ)国粋主義的傾向もある。このイヴォンヌの描き方は戯画的であり、映画の後半で家族が虐殺される現場を見た挙句に発狂することも、この極端な民族間憎悪をステロタイプ化しているように見える。ミッシェルとイヴォンヌは本当に愛し合っていたのであり、それを最後まで尽くすミッシェルの姿は感動的である。しかし(映画紹介サイト)Allocinéのインタヴューでジャン=ポール・ルーヴ(共同脚本家でもあり、制作の最重要人物でもある(が正直に語っていることで、このミッシェルという役どころでは、イヴォンヌに対して「フランス白人と結婚しただけでも幸せだろうに」というフランス白人が平均的に持っている対アフリカ人レイシズムもある程度出てこないと真実味がない、ということも(難しいことだが)あったのだ。そしてイヴォンヌはイヴォンヌで、パリに連れて行きシャンゼリゼを闊歩させてくれるはずだったフランス白人夫、というミッシェルへのステロタイプな恨み言を口にしてしまう、という描かれ方。しかし根っこのところでこの二人は愛し合っている。それは原作でもその通りだし、それが二人の子供たちの救いでもあった。
 しかし不可解な内戦/民族間虐殺は急速にガビーの住む家のすぐ近くまでやってくる。映画は(節度はあるが)残虐な映像も折りはさみながら、この悲劇を描き、子供たちもミッシェルの事業も分断され、多くの血が流れることになる。ガビーはその中で、手のつけられない憎悪の徒党となった少年/若者たちに無理矢理、有無を言わせぬ集団ヒステリーに抗うことができず、裏切り者へのリンチの死刑執行人になってしまう...。
 私が最も残念だったのは、原作の最も重要なエピソードのひとつで、戦乱と仲間たちからの孤立に打ち拉がれた少年ガビーの唯一の救済となった、近所のギリシャ老婦人宅にあった夥しい(フランス語)蔵書に没頭して読みふけること、すなわち読書(=文学)によってガビーは過度に過酷な現実世界とのバランスを保つことができた、というパッセージがバッサリ抜けていたということ。映画ではギリシャ老婦人はなく、ブルンジのフランス系(フランス語教育の)小学校の女性(フランス人)教師が、戦乱を避けてフランスに帰国する際に段ボール箱に詰めた書物の数々をガビーに贈呈する、という程度のエピソードになってしまっている。文学による救済、これが少年ガビーを今日の(ラップ歌手としても小説家としても)ガエル・ファイユにならしめたのだよ。これを軽視しては、あんた小説『プティ・ペイ』をちゃんと読んだのかい?と疑いたくなる。
 パパ・ウェンバやザオなどの当時の仏語圏アフリカでのヒット曲の使い方もとても効果的だし、世界の最貧国のひとつと言われていたこの地域が実は楽園的なところだったと納得させるに足る現地映像も素晴らしいし、子役たちと大人のアフリカ人たち(ほとんどが素人)もみなリアリティーがあるし、いいところはいっぱいある映画なんだが、少年ガビーがもっともっと前に出ないと、ガビーがミッシェル(=ジャン・ポール・ルーヴ)の何倍も主役として動いてくれないと、やはり原作の秀逸さを半分も伝えられない結果になってしまう、と私は思うのだ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆
(↓)『プティ・ペイ』予告編
 


2020年8月11日火曜日

起て、Uberたる者よ!


Charline Vanhoenacker
"Debout, les damnés de l'Uber !"

シャルリーヌ・ヴァニュナケール
『起て、Uberたる者よ!』

うやって発音していいのかわからない名前のこのシャルリーヌさんはベルギー人である。フランスに住んでいるとそれだけで笑うところである。仏語版ウィキペディアの彼女の項には、その名を読めない人たちのために発音記号がついている。仏語圏では"ヴァニュナケール”と読みフランドル語圏では"ファンヌナッカー”と発音するらしい。ベルギー人ならではの二面性である。1977年生まれの42歳。ジャーナリストとしてベルギーの大新聞ル・ソワールを経て国営放送RTBF(リンク先日本語版ウィキのRTBF紹介、"3”を"トワ"と表記してあるのが、そこはかとなくベルギーっぽい)へ、同社のパリ駐在員として、2012年仏大統領選挙(オランドの年)をカバー。その辺でフランスの放送メディアにも注目されるようになり、わが敬愛やまないラジオ・ジャーナリスト、パスカル・クラーク(当時国営フランス・アンテール局)の番組に「シャルリーヌの目(Charline vous regarde)」というコラムで時事コメンテーターとして毎週登場。2013年夏、フランス・アンテール局の(レギュラー番組ヴァカンス中の2ヶ月間)昼帯に「セプタント・サンク・ミニュット(75分)」というベルギー目線の番組を企画制作出演。好評につき2014年夏に"シーズン・2”。この番組の共同制作者/共同出演者のアレックス・ヴィゾレック(当然、言うまでもなく、ベルギー人)と二人で、このあとフランス国営放送フランス・アンテールの”ベルギー化”をさまざまな時間帯で敢行していく。2017年から(今日もなお)フランス・アンテール毎日午後5時1時間番組"Par Jupiter"を制作出演しているシャルリーヌ・ヴァニュナケール+アレックス・ヴィゾレック+ギヨーム・ムーリス(あ、こいつはフランス人)の三人は、2018年3月にフランス視聴覚最高評議会(CSA)に対してラジオ・フランス(フランス・アンテール他公共ラジオ7局を有する国営企業)の会長選挙への公式立候補書類を提出している。国営ラジオ・フランス会長の座を本気で狙っていたのである。
 シャルリーヌの看板番組 "Par Jupiter”の他に、彼女はフランス・アンテールの朝のニュースワイド番組”Le 7/9”(7時から9時までという安直な番組名)で、月曜から木曜まで7時58分2分間の(風刺ユーモア)時事短評(これを現代フランス語では"billetビエ"と言う)を担当するコメンテーターでもある。
 長い前置きになったが、本書はシャルリーヌ・ヴァニュナケールのこのフランス・アッmテールの"Le 7/9"の時事短評(ビエ)80編をまとめたものである。時評の矛先は多岐に渡るが、本領は2020年的現在におけるUber的、AirB&B的、スタートアップネーション的、失業/求職者的.... その他あらゆる緊縮期的悲惨を怒りをこめて笑おうじゃないか、というベルギー的複雑さである。フランスの中にいてフランスの状況を熟知した上で冷静に(冷酷に)観察できるのはベルギー人の特権である。コリューシュ(1944-1986)の頃から徹底的に揶揄され、隣国の宇宙人のように扱われてきたベルギー人のしなやかな逆襲は、(BD界)フィリップ・ゲリュック(Le Chat)、(文学界)アメリー・ノトンブ、(音楽界)ストロマエアンジェルなどで着実に領土拡張されていて、フランス人は今またシャルリーヌ・ヴァニュナケールの毒牙に噛まれながらマゾヒスティックな快感に浸っているのである。
 このシャルリーヌの名調子が私の説明でどれほど伝わるかわからないので、私の翻訳技量を試されることになろうが、翻訳演習のつもりで、そのクロニクルの一編を(無断で)和訳して以下に掲載する。

**** **** **** **** ****

最後のセルフィー  
(p129-130)

 あるサウジアラビア人旅行者がセルフィーを撮ろうとして命を落とした:ナイル川のほとりで身をあまりに乗り出しすぎ、大河に落ちた。ナルキッソスのような死であった。そのスマホを手にしながら。この男はインスタグラムのために命を落とした者たちの名簿に新たにその名を刻むことになった。2019年初頭に発表された統計調査によると、過度に危険なセルフィーを原因とする死者の数はこの6年で259人にのぼる。どの時代にもその時代に即応した災難があった。ペスト、コレラ、そして自画像。人はよく滑稽さは人を殺さないと言っていたものだが、私は滑稽さは真剣に人を殺そうと決心したような印象さえある。なぜならセルフィーは今やサメによる攻撃よりも多く人を殺しているのだから。
 SNSの普及によって、われわれは最も危険なことをすることの競争に立ち会っている;熊と一緒に写真を撮ること、ライオンと一緒に写真を撮ること、あるいはユマニテ祭りでアラン・マンクと写真を撮ること(訳注:この最後の例は説明が難しい。共産党系労働者の祭典にユダヤ系大資本家政商が顔を出すことはまずないだろうが、万が一そんな機会があった場合の危険度は想像を絶する)。人々はそのフォロワーたちをびっくり仰天させるためには何だってするのだ。
 その最優秀賞はかのメキシコ人に冠されるだろう。彼は一方の手でピストルを持ち銃口を自分のこめかみにあて、もう一方の手でスマホのカメラを操っていたのだが、どちらの手の指を操作するのかを間違えた。(以下3行、翻訳省略。翻訳するとすべき状況説明が長すぎるだろうから)
 そして、このように間抜けなやり方で命を落とした者の身内の人たちの気まずさについても考えてみよう。「ミッシェルに何があったの?先週の土曜日にはあんなに元気だったのに!」と言われたら、ミッシェルが自分の写真を撮るために愚かな死を遂げたということを説明しなければならないではないか。葬式の弔辞には勇気が要る:「ミッシェル、きみはきみの幾多の思い出をきみの最良の面影に残して旅立っていった。きみの面影はいつも正面顔だ。いつも微笑みを浮かべたその表情は私たちみんながよく覚えている。きみのインスタ投稿はいつも同じ顔だったから。だが今回だけは行き過ぎた。タイ旅行中、きみはこのキングコブラに背中を向けてはいけなかった。不幸にして、きみには情熱がありすぎた。蛇に対する情熱、写真に対する情熱、そしてとりわけきみ自身に対する情熱が。ミッシェル、今日きみがきみの最後のセルフィーに向けられたこれらすべての"いいね”を見ることができたらどれほど幸せだったろうね。きみの234人のフォロワーたちは今日親を亡くした子と同じだ。きみのいない生活はセピア・フィルターを通したように悲しいものとなろう。これらすべてにかかわらず、私たちはきみが安らかに逝ったことを知っている。きみにとって最も大切なもの、きみの自撮り棒ときみのiPhone 7と共に旅立ったのだから。ひとたび天国に着いたなら、忘れずに聖ペテロとの写真をトライしてくれたまえ。
 「さて皆さん、ミッシェルと最後のセルフィーを撮りたい方はいますか? 今がその時ですよ!さあ!」
 ヒーローとはセルフィーを撮るものだろうか? インディアナ・ジョーンズはかの聖杯を見つけた時、それと一緒にセルフィーを撮ったか? 否! 真の英雄とは控えめなものである。次回あなたが息を飲むようなセルフィーを撮りたいと欲したら、よく考えてごらんなさい。息の飲むようなセルフィーはあなたの息を止めることになりうるのだから。
(↓)ビエ「最後のセルフィー」by シャルリーヌ herself


Charline Vanhoenacker "Debout, les damnés de l'Uber!
Denoël刊 2020年3月  190ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『起て、Uberたる者よ!』プロモーション・クリップ。

2020年8月2日日曜日

ベルナール・ベローさん(1942 - 2020) を悼む


2020年7月30日、ベルナール・ベローさんが亡くなった。肝がんに始まる長い闘病の末だったが、息子ダン・ベロー君によると眠るように安らかな旅立ちだった、と。フランス初の日本語出版社であるイリフネ社の創業者として、ミニコミ紙「イリフネ・デフネ」(1974年)、日本語情報紙「オヴニー」(1979年)、そして日仏文化交流スペース「エスパス・ジャポン」(1980年)を創った人。それはすべて夫人の小沢君江さんとの共同作業であったが、あまり表に出ずに、しっかりすべてを支えていた人という印象がある。晩年は、私が同じ病気の闘病生活を始めたので、いろいろ体験談やアドバイスもいただいた。私はどうしても小沢君江さんを通してしかベローさんを知らないので、ベローさん個人の人生についてたくさんのことは言えない。パリの1970年代の"ベロー/小沢"行状記に魅せられた者のひとりにすぎない。2013年12月に上梓された小沢君江著『四十年パリに生きる - オヴニーひと筋 - 』(緑風出版刊)の紹介記事をラティーナ誌2014年3月号に書いた。記事はベロー/小沢の夫婦愛の変遷を中心に書かれている。この記事をここに再録することが、ベローさんの追悼になるか、ということは議論の余地があるとは思うが、ベローさんを知らない人たちにはその人柄の片鱗を知ることになるのではないか、と思う。60/70年代、日本とフランスの激動の時代を生きた日仏カップルにして、アート/政治/庶民生活にまたがった在パリ日本人コミュニティーの草の根メディアを創り出したパイオニアの記録である。私にはこれぐらいのことしかベローさんについて知らないけれど、本当に素晴らしい人だったことは知っている。ベローさん、どうぞ安らかに。合掌。

(↑写真は、インターネット上にあったものの無断借用です。2019年撮影、ベローさんとオヴニーのスタッフ)

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★ 

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2014年3月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

パリで日本語新聞をつくり続ける
小沢君江の生活と意見

ミュゼット・アコーディオンの巨星ジョー・プリヴァ(1919-1996)の傑作マヌーシュ・ジャズアルバム『マヌーシュ・パルティー』(1960年録音)を、1991年に当時私が勤めていたフランスのレコード会社のメディア・セット社がCD復刻した。私はそのスタッフとして、ディディエ・ルーサン(1949-1996。プリヴァのギタリスト。パリ・ミュゼット楽団の中心人物)筆の長いライナーノーツを日本語翻訳し、それをCDブックレットの一部として印刷することになり、当時フランスで唯一日本語文字印刷の版下がつくれる会社だったイリフネ社(パリの日本語新聞オヴニーの出版社)のベルナール・ベローにそれを依頼した。私が打った和文ワープロの原稿の入ったフロッピー・ディスクから日本語文章を抽出して、ベローがきれいに横書二段で割付けてくれた版下は、14ページという長さになり、全体で40ページとなったブックレットの三分の一強を占める分量で印刷された。こうして、フランス音楽業界史上初めての日本語印刷ライナーつきのCDはベローと私の共同作業によって誕生したのである。

 私がフランスに移住したのは1979年のことである。来て仕事に就いたのはいいが、住むところが決まらず、仮住まいを転々として、仕事の空き時間にアパート探しをしていた。奇しくもこの年に日本語新聞オヴニーは発刊され、私は住まい探しのためにその賃貸住宅欄をいち早くチェックしては記載された電話番号をダイヤルしていた。大学で4年間フランス語を勉強したとはいえ、電話で相手が何を言っているのか半分もわからない頃だった。あの頃も今も初めはみんなこうだったと思うし、オヴニーは昔も今もパリで暮らす日本人の強い味方であることには変わりがない。その79年の頃、私が勤めていた日系企業にも、ベルナール・ベローがオヴニーの発行日にその新聞の束を持って「オヴニーでございます」と丁寧で流暢な日本語で配達にやってきていたのを覚えている。だから私は最も古い時期からのオヴニーの読者である、と自認できる。

 オヴニーはフランス語のObjet Volant Non Identifié(未確認飛行物体)の頭文字略語で、英語のUFOに相当する。「パリの上空を未確認の日本語のアノンス(五行広告)が飛び交う」(小沢君江著『四十年パリに生きる』、p96)ことを想って命名されたフリーペーパーで、小沢君江&ベルナール・ベロー夫妻が創刊し、その第1号は1979年4月5日に「飛来」した紙名の副題に "Annonces Nipponnes... ni Mauvaises" とある。無理に「悪くない日本語の告知」と訳せないことはないが、もとは"Annonces ni bonnes ni mauvaises"(良くも悪くもない告知)の地口である。フランス人だったら笑うだろうが、日本人はどうかな?というレベルの卓抜な言葉遊びである。私はこういうセンスが好きだ。この新聞はまさにこういう遊びをわかる人たちに向けられたメディアであったと思う。

 それ以来私はこの新聞の一読者として、「エスパス・ジャポン」(1981年にイリフネ社がオープンした日仏文化施設)の一利用者として、また音楽業界に入ってからはオヴニーの音楽欄担当の方に紹介記事をお願いに行ったり、という近からず遠からずのおつきあいをしていた。冒頭で述べたように、印刷物のお願いに行ったこともあるし、オヴニーに短い原稿を書いたこともある。私がインターネットで音楽サイトを運営していた頃は、写真入りで大きな記事にしていただいた。また娘が高校生の時、必修課題の企業研修に、一週間イリフネ社の研修生として席をお借りしたこともある。しかし、この程度の浅いおつきあいでは、その中でどんなにすごいことが起こっているのか、どんなに濃い歴史を経てここに至っているのかなど、まるで分からなかったのである。

 201312月、オヴニーの育ての親、小沢君江の著書『四十年パリに生きる』(緑風出版刊)が刊行された。この本は20年前に発表された同著者の『パリで日本語新聞をつくる』(草思社1993年刊)の改訂版であり、小沢が50歳の時に書き上げた半自叙伝であった原本に増補加筆し、さらにその20年後までの後日談と70歳(と在仏年数40年)を迎えた小沢の感慨を綴った二章が新たに加わっている。

 1993年版を私は読んでいない。私が読み慣れているのはオヴニー紙上で「君」と署名されたエディトリアル欄 "A propos"(ア・プロポ)での、視点のはっきりした小気味良い時評解説の小沢の文章だった。だから『四十年パリに生きる』という書名から、私は彼女とその手がけてきた新聞の40年の日々をクロニクル的に綴ったものを予想して、この本を読み始めた。ところが、この本はそんなものではないということが十ページも読まぬうちにわかってしまうのだ。ましてやよくある海外生活体験手記でも、海外中小企業サクセスストーリーでもあるわけがない。読者は読み始めた時から生身の小沢君江の生きざまと立ち会うことになるのだ。

 それは1963年東京オリンピックの前年に始まり、彼女が早稲田大学仏文科に在籍していたのでオリンピックの仏語通訳に駆り出され、その通訳コーチにフランスから来ていたルネという青年との出会いがある。サルトルとボーヴォワールを読み、60年代の空気の中で社会的な関心事も多く、運動にもコミットする新しさの反面、親から勧められる見合いを断らず、本意ならずともこのまま日本式に家庭に入ることも自然な流れか、と自分への自信の無さに悩む。ルネはその間五月革命前後のパリにも赴き、映画とジャーナリズムという分野で日本とフランスの両方で新しい波の渦中にあった。そういう彼からは見合いで結婚するなどという封建的な考えを理解できず、ボーヴォワールのような新しい女性の生き方に君江を導こうとした。二人は見え隠れを繰り返し、淡い恋の不安を抱いて彷徨う君江は、浜辺で見知らぬ若い男たちに強姦され、しかもその結果妊娠してしまう。傷心の君江は中絶手術後、もうルネに再会することなく、郷里足利に戻ることを考えるのだが、ルネは君江を探しあて「もうきみを離さない」と宣言したのだった。

 ここまでで25ページ。強烈な序章である。傷ついた日本人娘と闘士肌のフランス人青年は、性と暴力と社会変革運動の只中で結ばれ、70年にパリ七区の区役所で結婚、71年に長男誕生、72年にパリに移住する。国際結婚、海外移住など、今では1行で書いてしまえること。それが当時いかに尋常ならぬことであったかは、私にも身に覚えはあるし、著者の家族とて末娘の行動に当惑し、世人の理解できない理不尽なことのようであった。(フランス男と交際しているという理由だけで3歳年上の兄に彼女は往復ビンタを喰らっている)。

 家族とのぎくしゃくした関係は日本側だけではない。一人息子だったルネの父と母は別居していて、君江は義父義母とそれぞれ個別のつきあいを余儀なくされた。このフランス語を話すことすらおぼつかない日本人妻は、息子とうまくやっていけるのだろうか? ー 本の中で義父義母の最初の不安が徐々に解消されてく過程はまさに感動的だ。それは文化障壁の崩壊ということに近いわけだが、それを壊していったのは小沢の不断の努力だった。

 私たち外国移住者に最初に突きつけられるのがアイデンティティーの問題だ。私は日本人なのか?日本人とは何か?この国で日本人はどう見なされているのか?何故私は「シノワ」や「アジアティック」と呼ばれると「ノン!」と大声が出るのか?この多種多様な民族が同居するパリで日本人はその場所があるのか?私は日本人をやめることができるのか? ー  日々の局面局面で、私はそんなことを自問する。しかしこれらの問いはいつか自分からなくなるかもしれない。この本でも日本人妻というポジションとの葛藤、ハーフとして生まれた二人の男児の育て方などで、小沢はアイデンティティーの問題と真剣に向かい合っている。ところが、本の終わりも近い残り数ページのところに、こんな、まるで救済のような文章が現れる。

 1979年ラジオ局の女性記者のルネへのインタビューの)最後に「ところであなたは日本人女性と結婚しているのですよね」と、なんとなく彼を見下すような視線を向けて言ったのを覚えている。その質問に対してルネは、「いえ、ぼくは日本人女性とではなく、キミという女性と結婚しました」と答えたのだ。(中略)このときにルネが答えたことの本当の意味をわたしが実感できるようになるまでに、じつは三十年以上かかったのである。         (前掲書 p253

 ルネの中ではずっと「キミ」だったのに、小沢君江は40年という時間をかけて「キミ」になったことを自覚したのである。ここまで読んで読者はこの本が君江とルネの大いなる愛の軌跡の記録であり、その末にアイデンティティー超克にまで至る物語である、と気付くのだ。

 ルネは完璧な日本語を話し、72年にパリ生活を始めた頃は、フランス語にもフランス事情にも明るくない妻は夫におんぶにだっこの形だったが、それでも君江は旺盛な好奇心と夫とも共通する闘士気質で、ラルザック農民闘争や女性解放運動を体験していく。「何でも見てやろう」世代の人だと思った。

 そんな試行錯誤の後、74年、二人はパリで日本語新聞を作ろうと思い立つのである。この年フランスに移住してきたグラフィック・デザイナー/絵本作家の堀内誠一(1932-1987)という超強力なブレインを得て、日本語ミニコミ紙「いりふね・でふね」はその5月に創刊号を世に送った。和文タイプライター(当時フランスにはイリフネ社以外どこにもなかった)を打つのも、新聞紙面を作ることも、広告を取ることも、配布販売することも何もかもが初めてづくし。この本が本当に面白くなるのはここからで、君江とルネは水を得た魚のように、この発行3千部の紙面を独創的で70年代エスプリに溢れた記事と挿画で埋めていく。自由で批判精神とユーモアに富み、どぎつさで知られたフランスの風刺誌「ハラキリ」にも通じる意地悪さもある。「一般市民が始めました」的なアマチュアリズムという形容では絶対説明ができない、プロ的にアンダーグラウンドな内容があり、ゲスト執筆陣に安野光雅や澁澤龍彦といった名前も見える。76年にフランスで『愛のコリーダ』がノーカット上映された時、大島渚を囲む座談会も掲載されていた。それと平行して20区ベルヴィルにあったイリフネ社屋では、生協的なバザールや即興コンサートや日本食パーティーやら、イヴェントが目白押しで、君江・ルネの一家は毎日毎晩が宴のような日々を生きた。

79年、「いりふね・でふね」はフリー・ペイパー「オヴニー」に変身して、飛躍的に読者数をふやしていく。インターネットや携帯電話はおろか、ファックスもミニテルもなかった時代なのだ。パリへの日本人観光客は年間50万人を数えたが、その姿は首にカメラをかけてバスに缶詰にされて移動するというカリカチュアで描かれ、まだルイ・ヴィトンの店にはわが同胞の行列がなかった。あの時パリ在の日本人居住者はどれくらいいただろうか。発行部数2万で刷られ、日系レストラン・食品店・免税ショップ・旅行代理店など日本人が立ち寄るであろうすべてのところにオヴニーの束は配布され、在留邦人の生活必需品のように手に取られていった。反面「いりふね・でふね」のアヴァンギャルドさは失われていったが、広告を収入源として生きるフリーペーパーらしからぬ、庶民視点と批判精神はずっと貫かれている。足を使った取材、個人的な体験に基づく評価、市民的日常の機微の観測、発見、知恵、アイディア、オピニオン...、個性的なスタッフとライターを得てこの市民メディアは充実していく。さらに1981年に、図書館、エキスポスペース、語学や民芸クラフトや書道などの教室をもった多目的文化施設である「エスパス・ジャポン」を開設、市民レベルでの日仏文化交流の場となっている。

 しかし本はそんな中小企業繁盛記のような記述で終始するのではなく、無我夢中でやっていたとはいえ、小さい2人の子育て、家庭の主婦もこなしながらボロボロで格闘している君江の姿が浮かび上がってくる。「いりふね」の時代に日本赤軍派への関与を疑われてルネが逮捕監禁されたり(その顛末記を「いりふね」 紙上で堀内誠一が見事にイラスト化していて、ルネの拷問シーンも現れる)、女性税務査察官(これを小沢はかの伊丹十三映画に因んで「マダム・マルサ」と呼ぶ)の6ヶ月にわたる長期調査を受けたり、家族で行った映画館で未成年の子供二人に入場させない映画館との悶着の末、通報で駆けつけた警官を「コン」(ばか)呼ばわりして、警察官侮辱罪が立件して裁判へ、といった普通の市民ではなかなか体験できぬことを小沢は体験していて、そのことを記述するときの小沢の筆は怒りもあるが、楽しそうでもある。

 しかし小沢もルネも病に襲われる。84年に小沢は動脈瘤の大手術を体験しているし、ルネはリタイア後に4度癌に冒されている。二人三脚は時として機能しなくなるが、多少無理をしてでもこのカップルは苦難を乗り越えてきた。二人で育ててきたイリフネ社、二人でやってきた日仏文化の架け橋という仕事、それは持続してもう40年になろうとしている。本の最終部は、君江とルネという一組の日仏カップルの言わば勝利宣言のような誇らしさがある。そして昨今の若い日仏カップルの多くが失敗して別れてしまうことに、人生の先輩として苦言を呈している。小沢に言わせるとそれは言葉の問題なのである。コミュニケートする努力を怠ってはならない。暗黙の了解など日仏カップルにはないのだから。

 1月25日、オヴニーのオフィスで小沢にこの本について語ってもらった時、逆に小沢から「この本で一番気に入ったところはどこ?」と聞かれた。ここですよ。

 (義父の埋葬から)帰宅したその夜、ルネは、ひとり息子がこの世で永遠にひとりになるときの孤独感をかみしめていたのだろう。いままでになく深遠な力を込めて、
Je t'aime 」(愛してる)
と、わたしの胸に顔を埋めたまま、ゆっくりとつぶやいた。 (前掲書 p165

 二人が出会って20年以上も経つのにどちらからも一度も発語されたことのないジュ・テームが、この時初めてルネの口から発せられる。人生で最も孤独な時に。ジュ・テームは言葉として発せられなければならない。暗黙の了解などないのだから。

  『四十年パリに生きる』は愛の軌跡を綴った書としか私には読めない。小沢はそれを告白するように、「この改訂版でやっと"ベルナールに捧ぐ”という献辞が加えられたの」と私に語った。ならば、次はいつかは知らないけれど、本書の第三改訂版では、本文中の「ルネ」という名前はすべて「ベルナール・ベロー」に代わっているはずである、と予言しておく。

 時代は変わり、74年からフランスは5人違う大統領を選出し、古いパリの町とて大分様相を変えてしまった。パリの日本人社会も移り変わりが激しいが、全体的に高齢化しているように見える。パリは世界中の人々を惹きつける町だし、これからもパリを愛する日本人が飛来し続けるだろう。オヴニーは今やスマートフォンのアプリに参入しなければならないほど、和文タイプライターの時代から遥か遠いところに来てしまった。小沢君江の日々は終わっていない。70歳を過ぎた今日も、オヴニーの辛口のエディトリアルを書き続け、その横で大好きな翻訳の仕事もしている(訳書近刊にシャンソン歌手バルバラの自伝『一台の黒いピアノ』がある)。ここの日本人社会とフランス社会の観察者であり記録者である小沢は、言わば、35年フランスで生きている私の証人でもあるのだ。感謝の気持ちとまだまだ続けていただきたいという希望。連載記事の慣例で敬称略で書き始めたこの原稿は、書き進めていくうちに、何度「君江さん」と書き換えたかったか知れないのだ。

ラティーナ誌2014年3月号