2020年8月30日日曜日

ガビー おお ガビー

"Petit Pays"
『プティ・ペイ』

2020年フランス映画
監督:エリック・バルビエ
主演:ジブリル・ヴァンコペノル、ジャン=ポール・ルーヴ、イザベル・カバノ
原作:ガエル・ファイユ『プティ・ペイ』
フランスでの公開:2020年8月28日

2016年に発表されたラッパー/シンガーソングライターのガエル・ファイユの自伝的小説『プティ・ペイ』は、私もオヴニー紙上の紹介記事で絶賛したし、多くの人たちに読むことを勧めてきた作品である。幸いなことに2017年には日本語訳本も出たので、まだの人はぜひご一読を。(原作のあらましはこちらで)
 映画は当初2020年3月に公開されることになっていたが、コロナウィルス緊急事態で映画興行ができなくなったせいで、5ヶ月封切が延期された。監督のエリック・バルビエの前作はロマン・ガリー(1914-1980)の自伝的小説『夜明けの約束』を原作とする同名映画(2017年、主演ピエール・ニネー)で、(著名)文芸作品映画化が2作続いているという具合。
この映画はガエル・ファイユ原作におおむね忠実ではあるが、バルビエの自由翻案も随所に登場する。時代は1990年代、ザイール(現コンゴ民主共和国)とルワンダと国境を接する小国ブルンジが舞台である。フランス人で土木工事企業の社長ミッシェル(演ジャン=ポール・ルーヴ)と、ルワンダ人で民族的にはツチ族に属するイヴォンヌ(演イザベル・カバノ)の間に生まれたガブリエル(愛称ガビー、演ジブリル・ヴァンコペノル)は、(ある種裕福な階級に属する)ワルガキたちとつるんで、悪戯放題の天真爛漫な子供時代を謳歌しているように見えるが、その楽園的晴天の日々にふたつの黒雲がせまってくる。ひとつはルワンダとその周辺国で長引いているフツ族とツチ族の対立/民族憎悪がさらに激化し内戦となってブルンジも巻き込まれようとしていること。父ミッシェルはガビーにフツとツチの違いをこう説明する「どちらも同じ言語、同じ宗教、同じ習俗を持っているのに、鼻の形だけ違う」と。つまり、鼻の違いだけで殺し合いをしている不条理な内戦である、と。この視点はたぶんアフリカに植民してきた白人の「上からの」見方かもしれない。 不可解な脅威。少年ガビーも子供からの"下から”目線ではあるが、このミッシェル説に近いものがあるが、腕白仲間でさえも「フツかツチかどちらかをはっきりしないと、殺されることになる」という緊急な危機感が迫り、揺れてしまう。
 ここで早くもこの映画の問題点を見てしまうと、このミッシェル=ジャン・ポール・ルーヴの揺れ方が、映画のルワンダ/ブルンジ虐殺を見る白人(ひいてはフランス人、フランス政府、フランスの多くの親アフリカ市民団体)視点の説明であり、これはガエル・ファイユの原作には全くないものである、ということ。ミッシェル=ジャン・ポール・ルーヴは主役ではないのに、この映画をこの視点で見ろ、というしつこさがある。
 ふたつの黒雲のもうひとつは、ミッシェルとイヴォンヌの離婚的危機であり、これはガビー(と妹のアナ)にとって耐えがたい苦しみなのである。愛する父親と愛する母親がもはや愛し合っていない。この決定的な別離は遠くないと兄妹は恐れていて、兄は妹を必死になって守ろうとしている。イヴォンヌは誇り高いツチ族の名家の娘であり、ルワンダでの虐殺を逃れてブルンジに逃れてきたが、平和が訪れたら故国ルワンダに戻りたいと願っている。家族の中にはツチ族を守るために軍隊に志願する者もいて、ある種(ツチ)国粋主義的傾向もある。このイヴォンヌの描き方は戯画的であり、映画の後半で家族が虐殺される現場を見た挙句に発狂することも、この極端な民族間憎悪をステロタイプ化しているように見える。ミッシェルとイヴォンヌは本当に愛し合っていたのであり、それを最後まで尽くすミッシェルの姿は感動的である。しかし(映画紹介サイト)Allocinéのインタヴューでジャン=ポール・ルーヴ(共同脚本家でもあり、制作の最重要人物でもある(が正直に語っていることで、このミッシェルという役どころでは、イヴォンヌに対して「フランス白人と結婚しただけでも幸せだろうに」というフランス白人が平均的に持っている対アフリカ人レイシズムもある程度出てこないと真実味がない、ということも(難しいことだが)あったのだ。そしてイヴォンヌはイヴォンヌで、パリに連れて行きシャンゼリゼを闊歩させてくれるはずだったフランス白人夫、というミッシェルへのステロタイプな恨み言を口にしてしまう、という描かれ方。しかし根っこのところでこの二人は愛し合っている。それは原作でもその通りだし、それが二人の子供たちの救いでもあった。
 しかし不可解な内戦/民族間虐殺は急速にガビーの住む家のすぐ近くまでやってくる。映画は(節度はあるが)残虐な映像も折りはさみながら、この悲劇を描き、子供たちもミッシェルの事業も分断され、多くの血が流れることになる。ガビーはその中で、手のつけられない憎悪の徒党となった少年/若者たちに無理矢理、有無を言わせぬ集団ヒステリーに抗うことができず、裏切り者へのリンチの死刑執行人になってしまう...。
 私が最も残念だったのは、原作の最も重要なエピソードのひとつで、戦乱と仲間たちからの孤立に打ち拉がれた少年ガビーの唯一の救済となった、近所のギリシャ老婦人宅にあった夥しい(フランス語)蔵書に没頭して読みふけること、すなわち読書(=文学)によってガビーは過度に過酷な現実世界とのバランスを保つことができた、というパッセージがバッサリ抜けていたということ。映画ではギリシャ老婦人はなく、ブルンジのフランス系(フランス語教育の)小学校の女性(フランス人)教師が、戦乱を避けてフランスに帰国する際に段ボール箱に詰めた書物の数々をガビーに贈呈する、という程度のエピソードになってしまっている。文学による救済、これが少年ガビーを今日の(ラップ歌手としても小説家としても)ガエル・ファイユにならしめたのだよ。これを軽視しては、あんた小説『プティ・ペイ』をちゃんと読んだのかい?と疑いたくなる。
 パパ・ウェンバやザオなどの当時の仏語圏アフリカでのヒット曲の使い方もとても効果的だし、世界の最貧国のひとつと言われていたこの地域が実は楽園的なところだったと納得させるに足る現地映像も素晴らしいし、子役たちと大人のアフリカ人たち(ほとんどが素人)もみなリアリティーがあるし、いいところはいっぱいある映画なんだが、少年ガビーがもっともっと前に出ないと、ガビーがミッシェル(=ジャン・ポール・ルーヴ)の何倍も主役として動いてくれないと、やはり原作の秀逸さを半分も伝えられない結果になってしまう、と私は思うのだ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『プティ・ペイ』予告編
 


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